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NBIA(日蓮仏法インターナショナルアカデミー)

宗教についてのNBIAの見解


NBIAネットワークとは

 宗教ネットワークであるNBIアカデミーは、立ち上げたばかりで会員ゼロです。したがってネットワークになってません。これからのSNSです。最初はフリーの掲示板でスタートしますが、いずれ機会をみて会員制のSNSに発展していきたいと考えています。

 初めのテーマは「個人の宗教実践について」を予定しています。個人の宗教実践が仏道修行に成ることを、みんなで話し合いながら、相談しながら、そして管理人からは日蓮仏教の視点から語りたいと思います。
 NBIAとは日蓮仏法インターナショナルアカデミーの略です。何故このような形式を考えたのかと言うと現況の宗教界の出鱈目さにウンザリしているからです。

 そして宗教も一人の人間、個人の宗教、個人の修行、自覚した個人の宗教実践の時代に入ったのだと感じました。組織宗教からの脱却こそ人類の成長に欠かせない課題なのではないでしょうか。

幸いなことに日蓮仏教を実践するうえでは、仏教の師である日蓮が、そして仏道修行を実践するうえでは、仏道の師である池田という日蓮に次いで出現した法華経の行者がおりました。NBIアカデミーは、このお二人を師と仰いで精進していきたいと考えております。

 宗教の精進行は、もともと個人で行うのものだったのではないでしょうか。教える人、指導する人、教導する人など必要ない時代を迎えたのだと思います。神や仏との仲介者、媒介者、伝達者、伝道者、伝導者、坊主そして聖職者等々の人たちを、必要ないと認識する人が多くなった、そんな時代を迎えようとしているのだと感じます。こんな時代にも生き残れる宗教こそ本当の宗教なのだと思います。

 そもそも崇拝対象となる神や仏の教えとは何なのでしょうか。神や仏が人間に生まれて人間の言葉で説いたかのように言いますが、なんの証拠も根拠もありません。神や仏が万能で慈悲深かったらつまらない教えを説く前に、せめて全人類の言語を一つにしておくべきです。それすらしなかったものに慈悲など微塵も感じません。言いたいことは他にも一杯あります。

 はっきりと宗教とは何かを定義しておこうと思います。宗教とは、神や仏という概念を利用して「人間とは何か」を説いた哲学です。これがNBIアカデミーネットワークの定義です。

 したがって宗教哲学には人間を救う神や仏は必要ないのです。人間を救済するのは人間自身なのです。それでは宗教ではないのではと思った人は、宗教をまったく理解していないだけなのです。奇跡を説く、金を欲しがる、神や仏からの功徳を説く宗教に、真実の宗教の資格などありません。これが本来の宗教の在り方です。聖職者や、神や仏との仲介者や、悟り顔の坊主なども必要ありません。

 私の恩師は私に言いました「真の信仰者とは、自身の手で自身の人生を創造し行く人のことなんだよ」「神や仏を利用して金儲けや権威を持とうとする行為は真の宗教者のすることではありません」と。
 「仏教は道理である」これも私の恩師が常々言われていた言葉です。何度でも言います。人間を救済するのは、人間自身なのです。
「人間にはその力が備わっている」「人間と言う生命体に性分として具わっている」と仏教は説いています。これを性具と言います。
 もっとも仏教と言っても怪しく感じている人は多くいることでしょう。葬式仏教とか坊主ぼったくりとか揶揄されています。残念ながら仏教に限らずほとんどの宗教団体は、こんなもんです。

 新しい時代の宗教組織はネット上の人間関係が中心になるでしょう。もちろんFACE TO FACEという人間関係は大事ですが、それだけではないと思います。社会を変革する流れと力、時代を動かすネットの潜在力とコロナ禍を機縁とする新しい宗教ネットワークです。ネットワークといっても個人個人の繋がりで成り立っていくのです。宗教を個人で実践する人々の繋がりなのです。

 真の宗教とは  宗教と信仰、信念との違いについて
 土俗信仰、山岳信仰、超越的現象、恐怖、畏怖、崇拝、自然崇拝、超越者としての神仏、儀礼、風俗、習俗。これらの規模が村社会、民族社会、国家的規模であっても信仰心によって成立した共同意識、意義、認識は、私に言わせれば宗教ではなく、信仰あるいは信念にすぎないのです。

 崇拝対象となる神仏の教えと言われるものが、いつ説かれたかは定かでないまま、いつの間にか様々な儀礼や信者組織を有する文化現象、社会制度までもが作られてしまってきました。民族宗教であれ、世界宗教であれ宗教という以上、根本の教義がなければ宗教とはいえないのです。宗とは根本という意味で、根本とは「人間とは」の答えなのです。根本を神や仏にするのは、単なる胡麻化しに過ぎないのです。

 人間の幸せや生き甲斐、生きる意味や人間の命の重要性さらに人間性、人格などを語る以上「人間とは」の答えは欠かせないのです。それはいかに低級な人間観であっても必要十分な条件なのです。誰から聞いたのか、またご自身で悟ってしまったのか、居もしない神仏の声をどんな言語で聞いたのか知りませんが、神仏の教えといっても、人間にとって重要なのは「人間とは何か」の答えだけなのです。宗教とは神仏の概念を利用して「人間とは何か」を説く哲学なのです。したがって宗教は、信仰や信念とは異なって存在する宗教哲学なのです。

 さらに人間以上に社会や国家を重要視した思想や哲学が、いかに危険かは人類の歴史が証明していると思います。一切は人間存在が全ての思考の原点であるべきなのです。宗教の中には様々な習俗と一体化して、特定の教義を持たないものまで宗教とされています。宗教を経験科学的に定義することは困難なようです。
また宗教の類型化の中でもっとも基本的なものは民族宗教と世界宗教の区別ですが、類型だけで考えれば未開宗教、民族宗教、世界宗教、近代宗教、現代宗教などもあります。

 宗教と信仰の違いは、はっきりしておいたほういいと思います。信仰とは「信じうやまうこと。信はうたがわない、したがう、たもつの意味があります。信仰は経験、知識を超越した対象にたいする信であり、信念の対象は経験、知識の範囲の内にある。」と言われています。信仰形式がどうであれ神仏を信じ仰ぐ意識、精神状態を信仰といいます。しかし現実には仲介者、預言者、先覚者、高徳者、偉人らの言動に対する態度が信仰の基本となってしまっています。それは神仏の声を直接聞くことが出来ないからです。

 それなのに信仰対象に自己の全存在をささげる帰命という実践的態度を、人間に要求することに違和感を感じてしまいます。仲介者、預言者、先覚者、高徳者、偉人らの言動に過ぎないのに、なぜ、神仏の言動になるのかです。

 さらに神仏以外のこの人たちに対しても絶対的服従をすることが本当に信仰なのでしょうか。このような信仰態度を要求するものを宗教とは言えないのです。 

 真の信仰は、真の宗教を実践するその中にあります。日蓮は、立正安国論に「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」と述べています。

 宗教を様々に類型化しても、宗教と信仰では大きな違いがあるのです。「宗教とは根本の教え」という意味です。そして信仰は、その宗教の根本とするものに対する態度を意味しています。したがって根本を人間以外に設定した宗教は、すべて偽宗教なのです。そして人間に対する宗という教えのない信仰は、単純に日常を超越した存在に対する信だけとなり宗教とは言い難いのです。

 そして宗教がいかに神仏の力用を説いたとしても最後に意味するものは「人間とは何か」という問いの答えなのです。神仏がどれほど素晴らしいといっても人間に直接的に関係がなければ何の意味もありません。
そして真の宗教とは何か。何をもって真の宗教と言うのかが問題なのです。宗教とは神仏の概念を持ちいて「人間とは何か」を説いた哲学なのですから。

 特に仏教について、ドイツのインド学者グラーゼナップらは無神論的宗教であるとしています。キリスト教的な人格神への信仰をもたないという意味では無神論といえます。その仏教が、神仏への信仰を必要としたのは、人間と神仏との仲介者としての役割を僧侶がしたがったことによって生じたのです。

 元来、仏と名付けられた法は、全ての人間の生命という体に具わるとしたのが仏教です。人間存在とともに存在する法を空間的に表現したのが仏界であり、性分として表現したのが仏性なのです。したがって本来的に仏教は、神や仏との仲介者など必要としていなかっただけでなく、神や仏そのものも人間の生命に具備する性分として説いたので、最後は神仏そのものもいらなくなったのです。

 鎌倉仏教界においても神仏を利用して名誉や地位、名声そして金銭を得た宗教者は多くいます。その中で唯一例外だったのが日蓮です。日蓮は、仏とは法そのもので人間とは別に仏が存在しているわけではないと主張したのです。

 そして法の実態に名前を付けたのです。それが七文字の法華経と言われる南無妙法蓮華経です。しかし当時の人たちには仏の名を唱えても経典と同じような名を唱えることに躊躇しました。妙法蓮華経は経典の名前と同じだからです。経典に南無するのは変な感じだったのです。

 妙法蓮華の四文字は、衆生本有の妙理と呼ばれる理法です。此の理法が三世に亘って価値あるものとしたので経を付加して妙法蓮華経の五文字となりました。日蓮はこの五文字に南無を冠することによって七文字の法体、仏の体、仏の名としたのです。仏の体に名前を付けたのは仏教史上、日蓮だけです。故に日蓮仏法と言うのです。釈迦も天台も解説しただけなのです。五文字に南無を冠することの意味を理解することが、日蓮仏法を知るポイントとなるのです。それではこの五文字と七文字とでは何が違うのかと言うと、四文字でも五文字でも衆生本有の妙理であることには変わりありません。

 浄土三部経や法華経にも出てくる阿弥陀如来と言う名の仏がいます。経文上では当然阿弥陀仏には南無はついていません。阿弥陀という仏を崇拝する人が、帰命するという意味で南無を冠して唱えているのだけなのです。

 ところが七文字の法体は、五文字の仏を崇拝する人が、帰命するという意味ではありません。七文字で法体として完成している仏の名としたのが日蓮です。したがって阿弥陀風に表現すると、南無妙法蓮華経という仏を崇拝する人が仏に帰命する意味だと南無・南無妙法蓮華経となって南無が重複しまうのです。

 このことを理解しないと日蓮仏法はまったく理解されない宗教になってしまいます。南無妙法蓮華経と唱えるのは、妙法蓮華経に帰命するという意味ではなく、仏の名を呼ぶことによって、人間自身の生命に具備する南無妙法蓮華経を呼び呼ばれる関係になります。

 日蓮仏法における七文字は、五文字の妙理が、自身に帰命することによって自身の本地となることを意味しています。西洋哲学的に表現すると自己の自己化でもあります。理法が事相になることでもあります。26世の法主である日寛は、このことを事の事と表現しています。

 同様に人間自身も自身の本地を地涌の菩薩であると自覚することを成仏、すなわち「仏と成る。仏と開く」というのです。人間が自身の本地すなわち本源的な自己を日常的自己から開くことが成仏という言葉の意味です。成仏とは死ぬことでも、人間を仏に昇格させることでもないのです。人間の仏神格化や仏の人格化などはまったく必要ないし、してはいけないのです。

 これが日蓮仏教の人間観です。「人間とは何か」の答えでもあります。そして「仏とは、人間とは」の説明に利用できるのが、解説書ともいうべき釈迦の八万四千の法蔵であり、天台・妙楽の六大部なのです。だから日蓮仏教では、釈迦の法華経や天台教学に重きをおいていないのです。

 そもそも文字で表現したものや、見たこともない顔の彫刻や絵画でこれが仏様ですと言われたところで、信じるほうが不自然なのです。人間以外に人間を超越する神や仏の設定を臆面もなく主張する人間を信じてはいけないのです。

 しかしそれでは宗教組織や団体、宗派の人たちは商売にならないし、大衆は有難がらないうえに、仲介者である聖職者や坊主に供養も出さないことになります。 それでは坊主たちは生活できません。

 さて人間を救うのは人間自身だとしたら人間自身に解決できる力の存在が必要となります。日蓮仏教はそれを解き明かしているのです。こんな宗教を「真の宗教」というのです。日蓮仏教は、南無妙法蓮華経と唱えることを除くとまるで人格形成、人間力アップ、自己啓発といった様々なセミナーのような人間の変革、革命ともいえる現象と原理的に近いのかもしれなません。

 しかし仏教とこれらのセミナーとの違いはどこにあるのでしょうか。一言でいえばそれは、理と事の違いなのです。さらに言えば仏教そのものにも理と事があるのです。この違いをもっと別の言い方をすれば、薬本体と効能書きの関係となります。
 真の宗教である日蓮仏法の実践と個人の安穏 釈迦と日蓮の違いについて

 釈迦仏法を教法面で説いたのが釈迦仏教です。そして行法面で説いたのが正像の仏道修行です。日蓮仏法を教法面で説いたのが日蓮仏教です。行法面で説いたのが末法の仏道修行であり、これを原理化すなわち修行の規範としたものを三大秘法と言います。

 問題なのは釈迦仏法と日蓮仏法における仏法の違いです。要するに仏法が異なるから別の仏法、仏教になり、別の修行方法になるのです。仏教を開いた釈尊は、人間が生きる意味を明らかにする正しい思想・哲学を求めたのです。そして一人ひとりの生命、宇宙を貫く永遠普遍の〝法〟に目覚めたといいます。〝目覚めた人〟という意味の「ブッダ」と呼ばれ、後に中国では漢字で「仏」「仏陀」などと表記しました。また、〝釈迦族出身の聖者〟という意味で「釈迦牟尼」「釈尊」ともいいます。

 問題なのは「永遠普遍の〝法〟」とは何かということでしょう。内なる智慧の発現によって、人間生命に無上の尊厳性と無限の可能性の開花を促す〝生命の価値の再生、復興〟を成し遂げる“法”です。この法を「経の王」と称えられる法華経という形で表現したのです。

 釈迦仏法は仏の法を八万四千もの法蔵で説明しましたが、それでは仏とは何かと言うと、法ですとしか答えていません。その法を妙法として法華経を説いたのです。仏法とは仏の説いた法ではなく、仏と呼んだ法のことなのです。したがって八万四千もの法蔵に開いた仏法を再び一つに収束しなくてはならなかったのですが、釈迦はその時ではないとして、語らなかったのです。

 要するに釈迦は、その法に対し様々に説明しましたが、法そのものが何なのかは説きませんでした。この“法”を法華経の文の底に沈めたのです。日蓮は、釈迦仏教の歴史の流れの中で史上初めて、釈尊が目覚めた“法”すなわち法華経が言わんとしている根源の“法”を南無妙法蓮華経と命名したのです。仏に名前を付けたのです。だから南無妙法蓮華経と言う根源の法を示したのが日蓮なのでこの法を日蓮仏法と言います。

 次元は異なりますが、例えば万有引力と名付けた自然界の力も同様で、どんな名前でも、また名前など無くてもこの力は存在するのです。ニュートンが最初の名付け親ですが、名前が力の在り方をうまく表現していると思います。人間にも名前は必要でしょう。法も同じです。
釈迦と日蓮の違いは、法としての仏に対する扱いの違いと言えます。これは喩えて言えば、薬に対し効能書きと薬本体の違いでもあります。

 さらに日蓮は、末法の一切衆生が無限の可能性の開花と社会への展開を説くための修行の規範を法華経の肝要の教えから導き出して「南無妙法蓮華経」と唱える唱題行と修行の対境である御本尊を図顕しました。万人成仏への修行の規範を具体的に示し、三大秘法と開いたのです。
したがってご本尊といっても仏そのものではないのです。あくまでも修行の対境として図顕したものなので、その形式や構図は日蓮独自とは言えませんが、衆生にとって都合の良い形式だと判断して採用したものだと思います。

 詳しくは私の論文である三大秘法論序説を参照してください。


 神仏問題とともによく論じられるのが、善悪問題です。勿論、哲学も同様です。善悪は、宗教においては救済の問題としても深く関わってきます。人間は実に様々なことを考える生き物であるとつくづく思ってしまいます。

 人間は、善より悪についての思考のほうが多いのは、善が神や仏に直結しておけばすむからで結論は単純であるからです。そして悪は常に人間側にその原因を求めるから複雑にならざるを得ないのです。悩み多き人間の習癖でもあります。そして原罪や悪根、悪因の思想を宗教は強調して、人間にさらなる脅しをかけるのです。
 思い通りに生きられない人生にあって、苦悩に喘ぐ人間に付け込む宗教のなんと多いことか。すべてが金と名誉と名声を得ようとする人間の浅ましさです。

 NBIアカデミーの宗教に関する主張は理解されたでしょうか。これからさらに真の宗教である日蓮仏教をともに学んでいきませんか。何度でも言わせてもらいますが、日蓮の仏教は、人間以外の仏が人間を救うのではなく、人間を救うのは人間自身なのであることを強調した宗教哲学なのです。

 もちろん、組織化してともに学び、ともに励ましあいながら一人一人が有意義な人生を創造していくことも一つの在り方だとは思いますが、あえて、ネットワークというシステムを活用してみたいと思ったのです。一人の人間、個人の宗教、個人の修行、自覚した個人の宗教実践こそ、ネット社会だからこそ可能な新時代の宗教活動なのだと思います。

 賛同していただけたら是非、様々な問題をともに学んでいきませんか。よろしくお願いいたします。

宗教ネットワークの主宰者 三浦周次です。