池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧 口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧 口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
池田先生の事績、人柄等々をより深く知りたいという人にあった。その人はそのために、先生に最も影響を与えた戸田先生そして牧口先生のことをまず知らなくてはと思ったらしい。この一見正統的な方法では池田思想にたどり着くのは不可能なのである。
法華経や天台・妙楽の六大部をいくら研究しても日蓮仏法の七文字の法華経どころか三大秘法にもたどり着くことは出来ないのである。
日蓮仏法、池田思想を甘く見過ぎなのである。
1975年1月26日 SGI発足することによってSGI初代会長となる。
このことは4年後の創価学会会長辞任へと繋がっている。
1979年4月24日の辞任によって創価学会とは異なる行動を取ることが出来るようになった。
そして1991年11月の破門となる。
これで完全に宗門と縁が切れ、と同時に宗門との関係が深かった創価学会も新しく生まれ変わったことになる。
ここからはすべてSGI初代会長による世界広布の戦闘がスタートしたのである。したがって創価学会の初代、二代の会長の立ち位置は、SGIの活動の序章に過ぎなくなった。
平和・文化・教育の推進運動の意味とは
平和・文化・教育の大道は、久遠元初以来の未聞の王道なり(池田大作の悟り)
広宣流布とは世界平和の異名なり。故に平和・文化・教育の推進は仏道修行の三学となる。
平和・文化・教育の推進を、世界平和実現の三大秘法と定める。
このことは、戒定慧の三学という仏道修行の規範を、末法の一切衆生の規範として三大秘法と定めた日蓮の出世の本懐と同等の意味を持つものである。
すなわち本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目が、世界広宣流布推進と実現という視点においては、平和(定)・文化(戒)・教育(慧)の推進であると定めたことなのである。
具体的な実践・推進団体がSGIである。故にSGI結成こそ池田大作の出世の本懐となる。
2024年1月1日
心とは何か。心の問題
「心は何処にあるの」と問う人がいる。
心は生の心と死の心がある。生の心を「法」と言う。死の心を「妙」と言う。
心とは妙法の事で「妙法とは何」と同様の質問となる。
すなわち心や妙法は、単独に存在しているわけではない。
妙法蓮華経と南無妙法蓮華経という二面で存在しているのが妙法であり心である。
諸法の心は妙法蓮華経、一切の衆生の慈悲心を南無妙法蓮華経であると日蓮はいう。
諸法の心と一切の衆生の慈悲心は南無妙法蓮華経という法体に存在しているのである。
これが日蓮仏法である。
人間はこの法体を仏性として具備していると説くのが日蓮仏教である。
人間が具備している南無妙法蓮華経の性分に心は存在し、心は感応によって顕現する。
心とは人間そのもの
心とは自然そのもの
心は心と感応して顕現する
心は有情の心と感応して顕現すると感情
心は非情の心と感応して顕現すると情感
人間が考える心には、独りよがりの心、傲慢な心など実に様々な心があり、心は人間の感情そのものとも言える。これらの心を十種に分類したのが十界論である。十界論の仏界を慈悲の心と定義されてもそれほど単純に実感できないだろう。
誰でも慈悲心はある。その心を仏と呼ぶことは出来るが、法体であるという実感を持つことは難しい。さらに慈悲心が現実の自分の人生に如何なる助けに、あるいは力に、思いを実現することに役に立つというのだろうか。
人間が具備している南無妙法蓮華経の性分は心に存在している。心は感応によって顕現する。心が南無妙法蓮華経となると心は法体となる。したがって「仏とは心」というのが日蓮仏教の眼目となる。
南無妙法蓮華経という性分を顕現すると仏の力用(仏力・法力)が発揮できるという。人間が抱える様々な悩みは仏の力用(仏力・法力)を発揮して自身の力で解決できるという。神や仏の助けが無くても解決できるという。これが日蓮仏教の修行法である。
命と生命の問題、心と命の問題
失くしたくないものに命がある。死を意識し実感として感じる命の尊さ。しかし心に対してはその実感が沸かない。生きていれば心は存在する。心の尊さという視点で心を考えることはない。死を意識しても心の死と結びつかないのは何故か。命を亡くせば同時に心も亡くなると思っているから心だけを亡くす意味を理解できないのである。
生死に差別なしといっても死ねば仏道修行は出来ないだろう。そうすると心は顕現しないことになる。
命には生の命と死の命がある。そして死の命は諸法となり、生の命は実相となる。諸法実相は命と同等の意味を持つことになる。
心には諸法の心と一切衆生の心がある。さらに一切衆生の心のうちで慈悲の心がある。そして南無妙法蓮華経を法体と定義すれば命は理の一念三千、理の妙法蓮華経となり、諸法の心である事の妙法蓮華経は事の一念三千となる。一切衆生の慈悲心である南無妙法蓮華経は事の事の一念三千となり法体となる。
南無妙法蓮華経と法体を定義とした故に心は日蓮仏教、命は釈迦仏教ともいえる。
脳の記憶と心に刻む記録との違い
心に刻まれた記録は、脳の記憶とは違う。
意識であれ無意識であれ脳で行うのが記憶。
脳は記憶し、命も記憶をするが記憶は忘失する。
脳は記憶をすることによってその存在を確立する。
命は感じる事象を記憶することによって心と今世を連携する。
生きること自体の様々な事象を命で感じる記憶が心に刻む記録となる。
心に刻まれた記録は、心と心の感応によって生じる心が、記録を蘇らせる。
心は記録をすることによって三世を存続させる。