池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
徒然随想(思いつくままに)
閑 話
マニュアル人間化した現代人
最近あちこちで、消費期限と賞味期限の改竄が相次いでいる。食の安全性からいえばとんでもないことである。この騒動のなかで、何か違った印象を受けている。シールの改竄は、犯罪である。この消費期限や賞味期限が、絶対的に意味するものはなにか。およそ10年まえから始まったこの制度は、食の安全性のうえでとても大事な制度といえる。けれどもそれ以前は、みんな自分で判断してきたことだ。
最近の人は、期限が過ぎると食べられないと思っている。確かに期限が過ぎたものを食べるのに躊躇する気持ちはよくわかる。売るほうも期限が過ぎたら捨ててしまう。商売上やむをえないだろうが、果たして消費者としては、なにか違う印象を受ける。捨てる前に臭いや舌触りといった自分で確認して、自分で判断することも必要なのではないだろうか。
近頃の若者も主婦も自分で判断しなくなっている。食に対する安全を行政指導に任せることは、確かに必要である。それほどにメーカーがいい加減であったことも事実であるからだ。
私が危惧するのは、食の問題だけでなく、すべてがこのマニュアルに書いてあることしか出来ない若者が多くなっているように思えるてんである。マニュアルどおりにやるのは正しいのだが、書いてないことをやることにまで躊躇して、結局、自分で判断できなくなっている。
会社の中でも同じである。マニュアルどおりなら責任を取らないですむから、規則を前面にだす。減点主義の官僚ならいざ知らず、近頃、あらゆる分野でこの減点主義が横行しているように思える。さらにこの傾向を助長しているのがファイリング化であろう。書類の整理整頓は確かに必要だが、この制度を悪用して会社の幹部は、人事に利用する。書類の存在が明確でマニュアル化されていれば、人は誰でもよくなるから、平気で人事異動出来るという仕組みである。事務の合理化、効率化にとってファイリング化は欠かせないが、人事に悪用されては働くモチベーションは下がるだけである。
若者が希望を持てない現代社会の実態のなかで、出来る若者はますますマニュアルに精通にしていく。こんな社会を作ったのは、団塊の世代の責任である。かくゆう私もこの世代であるから、責任を感じている。ごめんなさい。そしてなぜこんな社会を作ってしまったのか、その理由を後日述べていきたいと思う。
団塊の世代について
団塊の世代について一言いいたい。団塊の世代は、大人数で常に競争原理に煽られてきたという人がいる。確かにそんな人々もいた。しかし大卒が30%前後のこの世代は、それほど同世代と競争をしたという記憶はない。
勉強したい奴はすればいい。偉くなりたい奴は頑張ればいい。自分は自分である。こう思って生きてきた人が大半である。みんなが結構適当に自分の好きな人生を歩んできたのが、団塊の世代である。
不況もバブルも崩壊も経験しながら彼らは、人生を楽しんできた。好きな道に結構進んで生きてきた。もちろんなかには、失敗したものもいる。成功したものもいる。いまのように先行き不安で生き方もルールに縛られることがなかった。
いわゆるドロップアウトしてもそんな仲間が結構集まって楽しんだ。したがって一度、落ちこぼれても精神的に落ち込んだりしなかったから、再チャレンジして成功したりした。タモリやたけしや欽ちゃんなどがそのいい例である。たけしの兄は、落ちこぼれないで大学の教授になった。欽ちゃんの弟も落ちこぼれないで有名私立小学校の校長になっている。
しかし、落ちこぼれたからといって、落ちこぼれなかった人たちを羨ましいとは、思わないのである。人それぞれの生き方があってもいいじゃないかと思っている。社会が、それを許容していたのが、団塊の世代である。だから彼らは、結構、自由に生きてきたのである。様々な分野で活躍してきたのである。
今日の社会に生きる若者は、ある意味で不幸である。貧しければ落ちこぼれ、一流大学に入れなければ落ちこぼれ、一流企業に入れなければ落ちこぼれと生き方にまったく自由がない。団塊の世代が、落ちこぼれと感じるのは、ヤクザになったときくらいである。周りもみんな貧しかったから好きなこと、好きな道に進んで貧しいままでもそんなに気にならなかったのである。
まともに食い物もなかったけど、ときたま金を持っている奴がいればみんなでたかる。自分が持ってればおごる。学生運動しながら激励しあったり、喧嘩したり、理想を語り合ったりと。人生、金を手に入れれば成功だなどと考えなかった。
人間は、調子いい生き物である。悩みも解決する方法がはっきりしていることしか悩まなくなった。その最たるものが、金があれば解決する事柄である。あれが欲しい、これが欲しいと悩む。生き方や自分の才能、周囲の人間関係、親子関係などで悩むより、分かりやすい。現代人は、いつのまにか、こんな悩み方しかしなくなった。
悩み方も安直になり、マニュアルのない悩み方をしなくなった。
官僚主義とは官僚制や官僚政治における権威主義、独善性、秘密主義、形式重視などの側面を批判的にいう言葉です。
また官僚制組織論とは組織を「合理性を徹底する規則の体系」と。
そして官僚制組織とはM・ウェバーによって考え出されたもので最高効率の理念型として 考え出されたものだと言われています。
合理的に構築され計画化された規則の体系で、成員の行動は必ずこの規則を守ったものであり最高に合理的な組織ということになります。
主な特徴として集権化、公式化、専門職化、没人化などがあるとされます。
問題点を皮肉まじりに訓練された無能力、職業的精神異常、目標の転位などと言われたりします。
こんな人達や組織が日本には出来やすいくらい社会主義的国家国土です。
政治家や原発関連の役所だけでなく、事故後最も大事な風向きを公表しなかった気象庁とあげたらきりがないくらいです。
まさか32番地までならないで欲しいと願っています。
極楽百年の修行は穢土の一日およばず
念仏宗にたいする破折のことばです。
衆生の機根がととなわないからまず念仏を唱えて極楽にいきそこで法華経を修行しましょうという念仏思想。
人は楽な安易な方法を選びがちですから穢土で苦しむより極楽に百年いたほうが楽しそうだと思ってしまいます。
修行の規範に戒定慧の三学というのがあります。
三学は様々に解釈され用いられていますが、まともに説明すると
原稿用紙で1000枚くらい必要になってしまいますので止めます。
日蓮仏法では三大秘法です。
創価学会では三大秘法を応用して平和(定)・文化(戒)・教育(慧)になるのでしょう。
だから根底に仏法をおけるのです。
普通だと平和・文化・教育の根底には政治があるのです。
それで仏法と政治の両方頑張るのかな。
穢土の修行は大変なんですね。
敵を憎むのは人間の心情として当然のことでしょうか。
敵愾心を煽ったり、敵を憎ませたりする言動を見るとヒトラー政権下のドイツでユダヤ人の子どもをいじめていたドイツ人の子どもが大人に褒められていたという情景が浮かんできます。
韓国や北朝鮮、そして中国の反日デモの姿は、決して気持ちの好いものではありません。
中国の現政権は、日本を仮想敵国として成立したものです。
アメリカは自国の繁栄のためにいつも仮想敵国を設定してきました。今もそうです。
人を憎み怨むのは第六天の魔王の命と御書にあります。また開目抄(228p)には「人をあだむことなかれ眼あらば経文に我が身をあわせよ」と。
法華経の行者が迫害されるのは覚悟の上です。
また退転者の言動にいちいち反応するのは中国やアメリカ的な意図を感じます。いちいち怨んでいたら切りがありません。
法華経の敵は法華経で打ち破るしかありません。
どう思いますか・・・・。
人間の組織も熱エネルギーの第2法則は適用されることがあります。
これを組織エントロピーの拡大といいます。
可逆でない熱機関は可逆機関よりも効率が悪い事が知られており、この為可逆でない熱機関では式は等号ではなく不等式になる事が知られています。
これを熱エネルギーの第2法則といいます。
可逆でない熱機関と可逆機関を別の言い方をすれば、閉鎖機関と開放機関ということです。エントロピーは熱力学における可逆性と不可逆性を研究するための概念でしたが、原子や分子の「でたらめさの尺度」でもあります。
同様に情報理論における「でたらめさの尺度」にもなります。
そして人間の組織もまた同様です。
外部から常に熱エネルギーを吸収することに心がけることです。
昔のエネルギーは油でした。油を切らさないことを伝燈(伝統)といい切らすことを油断といいます。
自己保身と組織優先の発想から閉鎖組織が発生します。
閉鎖組織のエントロピーは必ず拡大しますから気をつけましょう。
業は時代を支配するエネルギーです。
社会・共同体を構成する人々に共通する業を共業といいます。依正不二の視点で見れば山河等の依報なども共業です。また各人共通して善悪の業を作り、各人共通の苦楽の果報を感ずるものもいいます。
これに対し個人固有の業を不共業といいます。
共業不共業を合わせて宿業となりそのエネルギーの総量は保存されます。
これを宿業普遍の法則と名付けます。
時代というポテンシャルが抱えるエネルギーが保存されるなら
その時代に生きる個々の持つ宿業は、総体として国の宿業をも変えることが出来るでしょう。
依報によって正報はつくられ、正報は依報を左右するという仏法の原理です。
そしてこの原理を人間革命ともいいます。
迫害を受けて罪障を減らし、迫害した人が悪業を積むというエネルギーの交換作用ではなんとなく人の不幸の上に自分の幸福を築くような賭博行為に感じてしまうのは私だけでしょうか。わざと悪口を言わせて果たして自分の罪障を減らせるのかなと・・・。
二つの事象が同時に起きているかを証明することはとても難しい問題です。
ミンコフスキー空間の空間的領域と時間的領域では異なります。
この事象が時間的領域にあれば事象の前後関係は確定します。
けれども空間的領域にあれば観測者がどの慣性系にあるかにより同時刻にも一方が前で他方が後にもその逆にもなりえます。
仏法でいう不二の同時性も同じです。
久遠という時間系にあれば師弟の同時性は確定します。
末法という空間系にあれば師弟は逆転することもあるという相対的なものです。
五歳の童子が百歳の翁の師にもなるのが仏法です。
これを師弟不二のパラドックスといいます。
師弟が不二になっているかどうかという証明問題の答えは観測者であるあなた自身が決定できます。
電子が陽子の周りを回る軌道を変えるとき光子が飛び出す。
軌道の幅によって光子の波長は違う。
そしてこの波長が物質の色調を決定する。
一つの軌道に存在できる電子の数は一つです。(排他原理)
人間も同時期に二つの使命を持つことはないと思う。
これを使命の排他原理と勝手に命名します。
使命を感じて実践することは大事でしょう。しかし人生には挫折もつきものです。
そんな時は使命の変更をすることです。あまり使命感にこだわらないで気楽に生きましょう。
使命の変更によりそこから新しい光子が飛び出すようにあなたの個性が発現します。
桜梅桃李の自分らしさとは何でしょう。
自分が桜梅桃李の何なのか分からないから人は悩むのです。
六十年以上生きて来ると個性も使命も同じに見えてきます。
これが私の使命、個性と言えるのは死ぬ少し前でいいと思います。
仕事はより速く正確に、人生はさりげなくゆっくりとこれが私の生き方でした。
1977年12月4日 宮崎 日向本山定善寺本堂落慶入仏式。
参道で日達を迎えた会員は、題目をあげながら日達を迎えたが自分が通り過ぎてもまだ題目をあげていることに不信を持ち後ろを振り向いた。そこで先生を拝んでいるような会員の姿を目撃する。
信者の目の前を通る日達など誰も見ず、後から付いてくる先生だけを見ていたのである。
これには日達も頭にきて切れた。
不機嫌になった日達は、先生に露骨に不快感を露にしたのである。
一連のマスコミ騒動(池田本仏論)と会員の態度について先生は謝った。
日達は畳に手をついて謝る先生に対して自分も高座からおりて畳に手をついて許した。
落慶入仏式での挨拶に御寛如の言葉を入れた。
これが世にいう「御寛如願い」の真相である。
池田本仏論については一応これで終止符をうってしまった宗門は池田攻撃のため四悉檀にたいする発言に噛み付くことになる。
四悉檀にたいする解釈の違いは世界広布に望む決意と覚悟が違いすぎる故に起きたといえる。
広宣流布といえば3.16広宣流布の日である。
岸信介を招待したのだが、御殿場まできて途中で引き返してしまった。
この岸と戸田城聖の関係はどこでできたのか。
森田悌二鶴見市議会、小泉大田区議会が学会の初の政治家(1951.4)
「生活が苦しかったから議員にでもなろうか」と言うのが本音(小泉談)。
1954年、森田・小泉は、政治の事を知らないので、誰かに教わろうと新聞を見て、
自由党の憲法調査会会長であった岸信介に決めた。
そして二人が岸のいる首相官邸にいったが門前払い。
この報告を聞いた戸田は「かわいい弟子を門前払いするとは何事か!」と激怒。
戸田自身が首相官邸に乗込み、門前で怒鳴り散らした。
騒ぎを聞きつけて出てきた岸が戸田を招き入れ、酒(ブランディ)を出した。
戸田は「こんな不味い酒をのんでいるのか。こんどは一番美味い酒を持ってきてやろう」と約束。後日、焼酎をもって出むいた。
これが岸と戸田の出会いである。
翌年の1955年に岸は自由民主党の初代幹事長。55年体制の始まりである。
1957年 岸内閣発足。そして1958年3月16日を迎える。
広宣流布の定義らしきものの変遷を見てみよう。
①日本国中にご本尊を流布すること(布教活動)
②舎衛の三億を実現すること
③本門の戒壇建立(国立戒壇から正本堂)すること
④会員数1千万人達成
⑤流れそのものが広宣流布
⑥広宣流布は社会運動
⑦平和・文化・教育の推進運動
⑧「世界平和こそ広宣流布」となっている。
広宣流布は宗教運動ではなく社会運動となっている。平和・文化・教育の根底に仏法を置くというが、現実にはこれらの根底には政治がある。そして広宣流布のバロメーターは公明党の得票数となる。しかし選挙は、覇権争いであり権力闘争であってそれ以上でも以下でもない。政治の根底に人間主義がなくなれば、妥協と経済、外交と覇権争いが表面化してしまうだろう。
池田門下生と戸田門下生の違い。
戸田の命より大事な創価学会の組織という戸田の意志を受け継ぐ人々。当然、創価学会が無ければ広宣流布は出来ないと考えている。
池田先生は池田の命より大事な創価学会の組織とは言ってない。先生は、世界広布に創価学会はいらないという。
ニューヨークに本部を設置しユダヤ協会のような組織でなければ世界広布はできないと。
池田門下生は、創価学会は無くなっても先生とその精神があれば、世界広布は必ず出来ると信じている。
この違いは、池田会長勇退のときに顕著に現れた。
宿命
「しゅくみょう」とも読む。前世の生命・境涯のこと。
また過去世の業因によって果報が定まっている生命をいう。
閻浮提中御書(1590p)
定まった果報を変えることを創価学会では宿命転換と言う。
この宿命転換という言葉は転重軽受のことをいったのだが、誤解を招くので使わないほうがいいと思う。
論点先取りの循環論証になるからだ。
入会したことや宿命転換したことが宿命ではと言われてしまい、 いつ転換したのか証明できないことになるからだ。
宗教教義は分かりにくいですね。
オームや日顕宗が消滅しない事態、宗教の不思議ですね。
何故でしょう。
ネットで「創価学会」を検索してみた。初めてです。
創価学会の悪口が多いのに驚いた。
創価学会が嫌いなのだろうということしか判らない。
なんの役にも立たない。
暇つぶしに書き込みをしているのだろう。
もっとも創価学会も反省の余地はある。
理解されようという努力も必要かな。
ネット社会での人間コミュニケーションは成立するか否か。
この問題の方が興味が湧く。
家内とディズニーランドにいった。車椅子での移動見学であったがとても楽しかった。
身障者に対する配慮が行き届いている。パレードを間近で見られたのは初めてである。
乗り物には乗らなかったけど、満足した一日でした。
ただ一つだけ気になったことがある。
ディズニーランドの身障者用のトイレに身障者で無い人が使用していた。
身障者が次に待っている。トイレから出てきた親子は平然として立ち去った。
中国人の親子であった。
東京駅の地下街の身障者用トイレで私も同じ体験をした。
やはりその時もトイレから出てきた親子は平然として立ち去った。
中国人の親子であった。
ますます中国人がきらいになった。
答えのない明日に
希望や夢が描けない
不信と不安の日々に
信頼と安心が見えない
政界、金融界、マスコミが
巧言令色に心をくだく
つまらない時代に生きていると嘆くか
おもしろい時代に生きていると喜ぶか
もう少し時代を眺めていようと思う
君達はどうする?
私は今 髭を伸ばしている。理由はあの3.11の大地震のとき理髪店で髭をそる寸前であった。天井の軋む音や観葉植物が倒れ掛かるのを見て慌てて自宅に戻った。以来 髭を剃っていないからである。
この数年 実にいろいろなことがあった。
地震災害、原発被害、格付けをさげられ、ホリエモンが拘留され、円ドルが80円を切り、それなのに株価は1万円を超えたりと。
日興コーディアルは組織ぐるみで粉飾決算をしたが誰も逮捕されず、銀行や証券会社が日常茶飯事で行う株価操作でも誰も逮捕されない。
国民が社会主義国のように国家を信頼して作り上げた今日の日本。
日本の実情を見るとき馬鹿らしくて怒る気にもならないが何かしたくなる今日この頃だ。
毎日流れる原発関連の報道とその対応に適切に指示できない政府。
国民が社会主義国のように政府と組織を信じてきた今日の日本。
法律はそれを作り上げた人達が不利になるようには作られていない。
政治家や官僚とは一体どんな種類の人達が成りたがる職業なんだろう。
金融デフレの欺瞞を政治家もマスごみも覆い隠す。
①お金が出回らない
(イ)銀行関連キャシュ・フロー(ロ)一般消費者関連のキャシュ・フロー
②物価が下がる
(イ)銀行関連物価指数(ロ)一般消費者物価指数
現実には、物価指数が下がらないので金融を物価に振り替えてデフレとし
その対策として金融の流通改善を訴える。
給料が下がれば物価が上がったのと同じ。
ところが現象的にデフレに似ているだけで、現実的なデフレではないので
インフレ効果が現実的に消費を圧迫する。
銀行関連物価指数は下がっていても
一般消費者物価指数が上がることによって全体の物価指数は
ほとんど変動していないようにみえる。
また一般消費者物価も白物家電や自動車等の値下げが
食糧品といった生活関連物価が上がっても物価指数は下げて見える。
だから生活実感じゃ少しもデフレ感がない。
デフレを抑制しているのは、一般消費者が負担する様々な支出である。
その一つが保険料の3割負担や現実の物価上昇である。
生活しづらい世の中になったもんだ。
与党にいなくてもやれることはいっぱいあると言っていた公明党は
何をしているのだろうと最近つくづく思う。
東北の震災と原発という人災がらみの大災害を利用しようとする輩を災害資本主義者というらしい。
兵庫県の井戸知事が「関東大震災が起きたらチャンス」の発言こそ
災害資本主義者の本音の心情だ。
他人の不幸を金に換える産業が注目されている。
政治の無策が資本主義の暴走に歯止めを掛けられない。
そういえば阪神淡路のときに異常に高い八百屋が出現して話題になった。
需要と供給の相関関係ではあるが
世の中や人間関係は相関関係だけで正当化することはできない。
楽しかった思い出は、何度も思い出すことがないのに比べて
辛かったことは、繰り返し思い出すから、人生は辛い思い出ばかりに感じてしまうのである。
なぜ人間は、過去を振り返るとき辛いことばかり思い出すのか
辛かったことが、傷のように残るのに対し、楽しかったことは記憶のなかにしか残らないからだろう。
意識して楽しかったことを思い出すように反復しないと記憶から忘却される。
だから個人にあっては日記を書き、組織団体・国家にあっては
歴史の真実を記録することによって「苦楽共に思い合わせる」ことができる。
人生は、辛いことばかりではない。
災害資本主義という言葉があるらしい。
私は勉強不足のためにこの言葉を知らなかった。
ナオミ・クラインというカナダ人の女性ジャーナリストが、命名したらしい。
彼女が標的として選んだのがノーベル賞経済学者であるミルトン・フリードマン。
彼女によると、何かの大災害が起こったとき――場合によってはわざと災害を起こしたとき(金融災害など)――そのチャンスを逃さず、一挙にラジカルな改革を推し進めることを「災害資本主義」というのだそうだ。
災害が起きて国民が平常心を欠いているときに、平時では実現困難な改革――たとえば、公共の財産を民間資本に売り飛ばし、気が付いたときは後戻りできないように恒久化してしまう――このかなり乱暴なやり方を「災害資本主義」と名付けた。
いわゆる「官から民へ」である。
ブッシュ政権は、2005年のニューオーリンズのハリケーン災害の時フリードマンの提言を直ちに受け入れて公立学校を私立学校にするための資金を数千万ドル投入して実行した。その結果、123校あった公立学校はたったの4校に減らされそれとは逆に私立学校は7校から31校になり、4700人の教師が解雇されたのです。
これがフリードマン主義である。
フリードマンは、最も急進的な自由市場主義者であるフリードリッヒ・ハイエクに師事して、経済学を学んだ。ハイエクの思想は後の英国のサッチャーや米国のレーガンによる新保守主義、新自由主義の精神的支柱となった。
ブッシュのお友達だった小泉君は、自分もと思ったのでしょう。
ブッシュ政権・小泉・竹中政権というのはこういう政権だったのです
ポーランドの中央銀行総裁がとんでもない発言をする。
ユーロー圏から追い出す気はない。
新ドラクマを復活させて国内は処理をと。
そんなことをすれば自動的にギリシャはユーロから出ることになる。
そしてスペインとポルトガルに波及する。
ギリシャはギリシャでユーロ圏は離脱しないで商品券を発行するだけと。
これをデフォルトというんじゃないの。
ようするに自分から離脱して欲しいと周辺国。
こんな事態なのに日本のマスごみは ギリシャ問題は一段落したとして3月末まで株価を維持しようと御用報道。
5月6日の選挙。
3月20日にお金をもらったギリシャ国民は
金融引き締め政策(財政緊縮策)を拒否する選挙結果に。
当然、日本の株価も5月までもたない。
みんな知ってて知らない振りをする。
金のためなら何をしてもいいのが資本主義というのだろうか
「そんなつもりはなかった」と
期せずしてAIJと東電の両社長が吐いた言葉。
つもりがなければ、何をしてもいいとでもいいたいのだろうか。
AIJは「詐欺をするつもりはなかった。
損失は必ず取り戻せると思っていた」とギリシャ並みの弁解。
もっとも認めたら詐欺そのものである。
東電も「隠すつもりはなかった」という。
後々に辻褄さえ合わせることが出来れば真実は隠せるだけ隠したいということなのだ。
事故も事件も同じでこれを東電文学と称した人がいたが
こんなことは昔からあって
これを官僚文学と呼んでいた。
官僚主義の弊害は霞が関だけに存在するのではないのかもしれないが。
実に人間とは困った存在なのかも・・・。
勇気ある人生とは
真実を知る勇気を持ち続けた人生である。
真実を見抜く眼と真実を聞き分ける耳を持つ勇気こそ
真の勇気である。
人々を動揺させたり悩ますより沈黙の勇気が必要だという輩は
自己保身とともに勇気を持てない人の詭弁である。
真実には価値がないと思うのは
組織の論理に害された無能な人の言い訳である。
どんな事態を迎えようが勇気の人は、対処する智慧が涌く。
勇気の無い人は、逃げるための悪智慧を思いつく。
そして自分が死んで居なくなる遠い未来設定をして今を誤魔化す。
勇気の人は今を決めるのに過去と未来を同等に扱う。
この違いが分からない人に リーダーの資格は無いと思った方がいいだろう。
戦とは宿命との戦である。
また奪命者である第六天の魔王との戦である。
けっして選挙戦ではありません。
故に、大将軍の気概で自身の人生の指揮を取れと。
一兵卒では厳しい宿命との戦を乗り切ることは大変だ。
辛くなれば逃げ腰になるだろう。
先生は「自分の人生を自身の手で創りあげる人こそ真の信仰者である」と。
もっとも組織論や指導者論の視点で見れば リーダーの姿勢とも言えますね。
組織でも人生でも同じ姿勢で臨んで欲しいものですね。
大将軍はたぶん傲慢でも偉ぶったりもしないと思う。
物事に意義付けを与えるのは本人の自由である。
よく、~記念日とか言ったりする。
歴史や人生に彩りを与え、花を添える。
3.16についても
戸田会長の「岸総理は政界の王様、私は宗教界の王様だ」との発言を受けて 「創価学会は宗教界の王者と宣言」と言い換えたり 。
広宣流布模擬試験、後継の日と言うのも先生の意義付けである。
なぜ試験なのか。もともとは広宣流布模擬演習であったのが、間違えて試験にしてしまったというのが、真相である。
受け止め方で様々に変化するが、意義づける人の境涯の表れでもある。
意義づけることで方向を定めたり行動の原動力にもなる。
皆さんの人生にあってもご自身の境涯でそれなりに 一日、一週、一月、一年を自分なりに意義付けてみてはどうだろう。
楽観主義者の弁明は次のようなものだろう。
その一「あの時はあれで良かったのだ」
その二「すべてを前向きに捉えていくことが大事だ」
その三「過去が問題なのではない」
その四「費用対効果が低かったが判断は間違っていなかった」
個人にあっては弁解。
組織にあっては大本営発表。
そして結局、無責任な結果になることが多い。
楽観主義は、責任回避の弁明に利用される危険を孕んでいる。
それでも楽観主義者の方が、人生を悠々と生きられようだ。
人生とはそんなものなのかな。
「確信ある人を仏は守る」と先生。
還暦を過ぎてもまだ人生とは何かがわからない
宗教活動とは布教と会員の指導教化である。
しかし宗教団体の社会的責任と存在意義が地域友好活動という社会運動への領域に入らざるをえなかった。
もちろん選挙のためではないだろう。
石狩市厚田の創価学会に対する抵抗感が薄れてきていると言われている。
池田先生が会長に就任してから初めて厚田の戸田旅館を訪問したのは、1977年10月7日のことである。
玄関に入り訪問の趣旨を述べると主である戸田の親戚の人が出てきた。
何しに来たのかという態度であった。
中に招き入れることもなくそのまま玄関先での立ち話になった。
一通り挨拶を済ますと旅館を後にした。
玄関を出た池田先生は
「戸田先生の女性問題で感情的に拗れているんだな。たとえそうであっても戸田先生の指導は仏法にかなっている。偉大な師匠だ。私は、先生の法を信じているんだよ」と一言。
地域友好という社会運動も結局のところ人間関係である。
改善するのに時間がかかる。
精神的な様々な語彙と同数の悩み方がある。
したがって悩みを解決する方法もまた対処療法としては同数あることになる。
しかも人によって同じような問題であっても微妙に内容は異なる。
絶対的な理由がないから絶対的な方法もない。
けれども悩んでいる本人にとっては、絶対的に悩んでいる事実に束縛されてしまう。
悩み方にもコツがある。
解決できるような悩み方と解決出来ないような悩み方がある。
「どうしたらいいの」ではなく「こうしたらどうか」である。
ところが「こうしたら」が悩んでいるときは思い浮かばない。
そこで「悩み方」の訓練が必要となる。
訓練方法としてまず、悩んでいることを文章にすることである。
叫んでいてはますます「こうしたら」が浮かんでこない。
悩みには因果関係があれば相関関係がある。
しかし相関関係があっても因果関係があるとはかぎらない。
一昔前に「窓際族」という言葉があった。
ある青年にこの言葉を教えたら
何もしないで給料をもらえるなんて理想の職場ですねといった。
今は、若者にとって希望が持てない時代なのだろうか。
若者の持つ希望って何なのだろうか。
末は博士か大臣か。
はたまた大企業の社長になることに希望を感じた時代があった。
しかし、政治家の堕落と倒産する大企業。
学閥と閨閥と人間関係に左右される学者の世界。
この現実が、若者に希望を失くさせたのは事実であろう。
何もしたくない若者。
苦手なことは避けてしまう若者。
努力しても結果がでなかったら、努力したことも意味がないと
考えると何も出来なくなる若者。
マニュアルに記載されていないことは何もしない若者。
けれどもそれは、出来上がった組織や社会の中で生き残る知恵ともいえる。
量子力学における超対称性を持った「ひも」理論、
これはフェルミオンとボソンとの間の対称性のことです。
自然界のすべての粒子は整数、または半整数 の「スピン」という属性(自転角運動量)を持ちます。
このスピン半整数の粒子をフェルミオン(フェルミ粒子)
スピン整数の粒子をボソン(ボース粒子)といいます。
光子をはじめとする力の媒介粒子は前者に、クォークやレプトンは後者に含まれます。
私が生きている間にリーマン・ゼータ関数の予測が証明されることを楽しみにしています。
リーマンのゼータ関数ζ(s)の複素零点の実部はすべて1/2であるという仮説です。すなわち
「ζ(s)の零点がs=-2,-4,・・・,-2nとs=1/2+tiの線上にある」
という予想です。
「生命は波動の如く、心は粒子の如く振る舞う」という私の仮説を説明するためには
この予測や量子力学は必要な素材だと感じているからです。
量子力学は時間的理論であるのに対して、一般相対性理論は空間的で本来時間を含まないのです。
時間とは何かという究明は日蓮仏法の知解に欠かすことが出来ないという私の主張でもあります。
「つまらないことを考えているんですね」と言われそうですが・・・。
日蓮仏法と美意識についてどなたか研究論文を書いて欲しいと思っています。
人が美しいと思うのは色や形、均整、調和、対称性、単純さなどから感じるものだと思うのですが
それでは、日蓮仏法を信じる私たちは、どんな美意識をもっているのでしょうか。
また仏法にはなぜ美についての説法が無いのでしょうか。
数学者であるトルコフスキーが代数を駆使して設計した
ブリリアンカットは58面,建築家でありトポロジーの研究者である首藤尚丈氏が
考案したカットは86面あるいは114面です。
輝きであるブリリアンシーとシンチレーションにおいて
新型カットはブリリアンカットの2倍以上輝くといいます。
ブリリアンカットがダイヤに入射した光を直線的に全反射するのに対して
新型カットでは,らせん状に回転して戻る構造をもっています。
そのため,その反射角によるプリズム効果を利用して輝く色を自在にコントロールできるのです。
86面あるとグリーン・ブルー・バイオレットに
114面になるとゴールドに輝きますが
カットによってはピンクやオレンジに輝くダイヤモンドなども作れるそうです。
生命も研磨によっては様々に光輝くのかも。
御書には「研」と「磨」と「瑩」の三文字が「みがく」と読んで使われています。
削られる分カラットを犠牲にせざるを得ませんが
それでも人は皆、「ダイヤの原石」だと思いたいですね。
私が若かった頃、ある大手家電メーカーをマネシタ電気と呼んでいた。またアルファベット4文字のメーカーは苦情を公表せずに密かに改良したり、ユーザーをテスター代わりにした。産業スパイのような行為で他社より1日早く製品を発表したりもした。
戦後、家電製品や自動車といった民生品は、最先端技術の実物を技術者が、そっくりそのままコピーして作った。明治維新以来日本は、基礎研究に対する投資をしないで、経済大国になった。現在の日本を支える工業製品の大半は欧米の産業界が開発した安全保証付きの産業分野にだけ入っていき、成功したのである。
そろそろ基礎理論から構築した新しい時代の新しい分野を構築する開拓精神が欲しいものだ。
とはいえ国民性はそうすぐには変わらないかもしれない。
日本人社会はあまり独創性を認めない。互いの足を張り、でる杭は打つ。人の欠点を指摘して、良いところは褒めず認めない。認識せずに評価する。他人の突出を許さないという狭小な精神構造なのだ。
今の創価学会は先生が基礎から手作りで作り上げた未曾有の組織であるから日本人には理解できないのだろう。
リスクを避けるために安全策だけをとって保守的になり、何事にも否定的な観点でしか見なかったら今日の創価学会はなかっただろう。
それほど先生は独創的で開拓精神に溢れていた。
もちろん伝統は大事であるが、出来上がった組織の安全保障に甘んじていないで、時代に合った組織や運営の開発も必要だと思うのだがどうだろう。
実務部門の第一線が現場である。
管理部門の人は現場が大事だという。
現場を知らない人ほどこう言うのは、現場を知らないから言えるのだ。
組織の第一線が現場だと思っている幹部がいる。
創価学会の現場は、事件現場、工事現場や戦地の第一線ではない。
現実に生活している学会員の生活の場が第一線である。
私が32歳で壮年部になったのは、先生が勇退したとき先生の正義を
現場の学会員の人たちに訴えたかったからだ。
以来、B長を1年、地区部長を10年、支部長を10年、副本部長を十数年と
いわゆる現場一筋で活動してきた。
地区、支部の会員の遺体を2階まで背負って上がったことも3度ある。
区営住宅に住む一人住まいの老人の最後を見届けたこともある。
刃傷沙汰になった夫婦喧嘩の仲裁や自殺未遂を止めたりもした。
組織運営は、会合の仕切りやではない。
出来上がっている組織の上で胡坐をかいていれば、宗門と同じ轍を踏む。
青年たちに期待することは、組織の保守ではなく、自分たちで新しい時代の
新しい組織づくりを苦労して自らが築きあげて欲しいのだ。
広宣流布の現場とは、自分の手で作り上げる以外に理解できないというのが
私の経験からくる結論である。
中国船が領海に侵入。
北朝鮮が弾道ミサイルと疑える「衛星」の発射を公表。
EUがイラン銀行を排除。
メキシコがブラジル向け乗用車輸出額に制限。
ムーディーズが野村HDの長期債務格付けを下げた。
日本経済にとってこれらの悪材料がそろっても日経平均が1万を超える。
保有株式を売却して生じた損失は取り戻せないが、減損処理の場合は3月期末の株価で計上する。
株価が上昇すれば12月期までに計上した損失は取り戻すことが可能だ。
株価の上昇と低金利の継続で債券関係損益も好調に推移していく。
4―9月期に計上した株式関連損失を前提に建てられた現在の収益計画のもとでは
3月の株価水準次第では業績上昇修正に結び付く可能性もあるということだ。
そこで一般投資家の金を期待する。特に高齢の投資家に。
5月までには11000円になるという評論家もいる。
ということは4月の始め頃が上げどまりなのだろう。
金融、大企業の思惑にマスごみが広告費欲しさに音頭をとる。
仕掛けられた報道や解説記事、目先の作られた日経平均などに
高齢の投資家は騙されてはいけないよ。
3月期末だけではないけど、期末が近づくと必ず行う株価操作とマスごみ報道には
くれぐれも気を付けよう。
よく「文は人なり」と云うが本当だろうか。
文も絵画も人となりを滲みだすものであるが、決してその人間の人格を顕現しないのが現実であろう。
偉大な画家や音楽家、文学者が人格破綻者であったりという事実も現実にはある。
詩人の言葉に嘘があるとは言わないが、あまりに現実の人柄とかけ離れた場合も多々あるのも事実であろう。
生の声と文章の違いは、真実と事実の違いかもしれない。
生の声は、思い違い、勘違いその他いろいろあるだろう。
後世に残すに忍びないものもあるかもしれない。
本当の思いは、もっと他にあると思う場合も出てくるかもしれない。
しかし文章は変更がきく。
だから文章を残すことに意味がある。
それでも生の声には真実と人柄がにじみ出てくる。
「声仏事をなす」という「経」の原理と
「文字を離れば何を以て仏事とせん」との御書の文。
法を書き残した雪山童子の原理の違いは
どこにあるのかどなたか研究してみて欲しいと思う。
「時の流れ」を知って指導できるのが仏法の指導者であり、菩薩の性分である。
人間は、世界平和や成仏より
もっとずっと小さい喜びに幸せを感じ、その幸福感で生きていける。
子供が笑っている。夫が優しくしてくれた。子供が、元気に学校に行った。
人は、健気で可愛い存在なのである。
広宣流布は人生ゲームか人生劇場か
迷宮の扉に入りこみ苦難の坂を登攀する。
人間同士の嫉妬心との戦いは続く。
社会を映し出す鏡は、絶えず社会の矛盾を抉り出し。
旧態依然の社会に風穴を開けようと模索する。
人間と社会の病める現状、苦悩や悲惨さ、自己矛盾、絶望と希望、未来への展望。
原発問題を見ていると「ミネルヴァの梟は、夜に飛ぶ」という言葉が浮かぶ。
思索すべきことの多い時代である。
以前ブログで戸田城聖が岸信介と知り合ったいきさつを書いておいた。
今日は車駕について書いて置きたいと思う。
車駕を担当した人数がまちまちになっている。
25人、22人そして今は20人になっていたりする。
結論を先に言うと5人の脱会者がいるということである。
3月11日に開催された3月度男子部幹部会(東京・品川公会堂)の終了後、
司会者から名前を呼ばれたものは残るようにと言われ、特別任務の指令を受けたのが25名である。
16日夕刻、池田参謀室長を中心に大講堂の正面で、車駕とともに写真撮影。
池田参謀室長より『会長先生を最後にお護り申しあげし同志25人よ、広布の暁に再び整列せよ」と揮ごうを頂く。
これほどの名誉ある思い出を創らせて頂いても、一次、二次宗門問題で脱会する。
人間の決意が薄れ崩れていく様をみる。
先生の時も本弟子500名、新弟子2500名の弟子証を頂いたなかにも結構
退転脱会者がでている。 ちなみに私は新弟子の称号をいただいている。
でもいいじゃないか。
「退転の屍を乗り越えていく」からこそ広宣流布の戦いに意味が見いだせるのではないのかな。
歴史の事実を変える必要などないと思うよ。
先生は言った。「氏名に線を引き、退転せし者」と歴史に残すと。
3.11・・・・
災害の現状をいち早く掌握しようとしたのはアメリカ空軍だったという。
状況把握と決断そして行動にリアリティを感じる。
日本の政治家は決断と行動どころか全体把握すらできなかった。
アメリカ空軍の被災地への支援に感謝するが
私のジャーナリスティックの心がTPPとは別だとささやく。
マスごみ操作に騙されないぞとも思ったりする。
状況把握で思い出すのは学会固有のレジュメだ。
最初にB4一枚に纏めたのは52年4月の中部文化会館開館記念の時だったと思う。
愛知の県民性か、けんか腰で連携がバラバラで全体の進行の把握がしずらかった。
何枚もの計画書では全体の進行が見えない。
全体のマネジメントが苦手なのは日本人の特性か。政治家だけではないようだ。
そこでB4一枚の進行表をレジュメとして作成したのである。
もっとも最初はレ点表(チェック用)であったのだが、いつのまにかレジュメというようになった。
フランス語のレジュメ(英語のインフォメーション)である。
チェック表よりなんとなくかっこ好い気がするから不思議ですね。
一年前の3.11の特集が始まった。
なかには、なんで今頃という事実が公表されている。
反省のない管直人の顔など二度と見たくない。
日本の政治家は現実に目を瞑る癖があるように思えてならない。
楽観主義でも悲観主義でもない。
彼らにリアリティが感じない。
事実を隠すだけでなく改竄までして、さらに辻褄を合わせようと
嘘を塗り固める。
こんな時代の「時の流れ」を変えることが出来るのが仏法の指導者である。
「時の流れ」を知ることが仏法の悟りだと思っている。
会長勇退も「時の流れ」だと感じたのだろうか。
勇退した1979年4月の12日に
来日中の中国全国人民代表大会常務委員会副委員長である
とう穎超(故周恩来夫人)と会談(港区・迎賓館)した。
「辞めてはいけない」というとう穎超にたいし先生は「時の流れ」ですからと。
ほりえもんが有罪なら昨今の経済事犯のほとんどが有罪であろう。
それだけではない。
マニフェストを実行できない政治家も有罪にしてほしいものだ。
東電も有罪だ。
しかし金をもらっているマスコミはまともに批判もできない。
社会のこと世間のことを語り考えるとどうしても批判的になってしまう。
もっと物事を肯定的に考えられないかと思うことがある。
マスコミがマスごみだと思うからなかなか肯定的になれない。
日経新聞や他の新聞も最近はまったく読まなくなった。
遅い情報と意図的な解説記事、さらに程度の低さに嫌気が差してくる。
さらにインターネットの迷惑メールは詐欺集団がやりたい放題である。
日経平均が意図的に1万円を超えた。
後追い解説だからなんとでも言える。
このわざとらしさに対し何も言えないマスごみの提灯解説は聞くに堪えない。
私はこのところ半世紀近く前の私が学生であったころからあった名曲喫茶「麦」によく入って思索に耽っている。
周辺にはMac、ドトール、モス、スタバ、上島、カフェドクリエ、ベローチェ、サンマルク、エクセルシオールなどがある。
よく潰れないで維持してきたものだと感心する。
西神田の白十字、神田神保町のさぼうるもまだ健在で嬉しい。
名曲を聴きながらブログや論文、随筆、小説の構想、年賦の校正、そしてナンプレをしたりしている。
社会のこと世間のことを語り考えるとどうしても批判的になってしまう。
もっと物事を肯定的に考えられないかと思うことがある。
全ての原因が自分にあると考えると果たして楽観的になれるだろうか。
むしろ諦観的になりかねない。
そこから前向きに生きるのは結構大変なことだ。
過ぎた過去は忘れることだと思えることを楽観的というのだろうか。
これも簡単のことだとは思えない。
責任を取らないことを楽観主義者の弁明に悪用される現実が多すぎるから
楽観主義者をいまいち信用できないのである。
自己変革を目指すことと楽観的に生きることは対極にあるように思える。
宗門問題は広宣流布の主体者を決定しようとする覇権争いであり、権力闘争でもあった。
双方が思い描く広宣流布の姿の違いからくるものだろう。
人はどこでもどんな理由からでも争いになるものなのだろう。
いずれにしても自己中心的な思考の結果である。
たとえ責任感の違いだと言い分けしても争いの弁解にはならない。
人生は不可解ではあるが、捨てたものでもない。
何のために生まれてきたのかと後悔したり、悔しがったり、悩みながら過去を振り返ったりしつつ 結局、自分の人生はこんなものだったと誰もが思う。
それが人間の一生なのであろう。
広宣流布に夢を馳せ、人生と青春を駆けて突っ走ってきたら、いつのまにかこんな年になっていた。
楽しかったこと、悔しかったことなどそれぞれが人生の歩みの一コマである。
青年に次を託すことの勇気を持ち続けることだ。
女性が一人で喫茶店でコーヒーを飲みながら静かに読書をしている。
数人の女性同士で明るく談笑する人たちがいる。
女性の方が人間的で逞しく感じる。他愛無い話のようで結構理知的で重要な会話でもある。
人間の日常的感覚が生き生きと感じる。それに比べると男性同士の会話は詰まらない。
こんなことを私が感じるのは非日常的な思考遊戯に明け暮れているせいかもしれませんね。
哲学者や科学者の理論が自分自身の人生や家庭の問題にどのくらい有用に実用になっているのかと問えば、まったくと言いていいほど役に立っていないといえるのは何故か。
あなたの哲学があなたの家庭に起きている様々なトラブルやコミュニケーション・ギャップの解決にどんな役割を演じているのでしょうか。
恋に悩む娘を救えたのでしょうか。
仕事に悩み疲れた息子を救ったでしょうか。
私は残りの人生をこうして喫茶店でコーヒーを飲みながら思索し続けているんだろうなと思う。
専門家は言葉の定義を厳密にしたがる。
言葉は分野によって定義が異なることがあるし、時代時代による流行にも影響する。
それでも論理思考に関しては他分野の人の意見や考え方は斬新であり、聞き入れる余裕が必要だろう。
科学者と技術者の違いも大きい。
技術者は専門を持ち、科学者は専門を持たないともいえる。
科学者はどんな分野にも科学的思考法を持って臨めるからだ。
法学者が世界経済を考えたり、経済学者が数学者となって歴史に残る業績を残したりと
今関心を持てることに全力を尽くして思考研鑽する。
宗教家とはどんな種類の人たちなのだろう。
御義口伝には法華文句の文を引かれて「文句の四に云く……五乗は是れ曲にして直に非ず通別は偏傍にして正に非ず今皆彼の偏曲を捨てて但正直の一道を説くなりと。御義口伝に云く……正直とは煩悩即菩提生死即涅槃なり、さて一道とは南無妙法蓮華経なり今末法にして正直の一道を弘むる者は日蓮等の類いに非ずや」(七二〇ページ)と述べられている。
「正直の頭」とは八幡大菩薩が正法護持の者の頂に住して、その人を守護することをいう。四条金吾許御文(一一九六ページ) 法門申さるべき様の事(一二七二ページ)。
智妙房御返事には「大隅の正八幡の石の銘には一方には八幡と申す二字・一方には昔霊鷲山に在つて妙法蓮華経を説き今正宮の中に在つて大菩薩と示現す等云云、月氏にては釈尊と顕れて法華経を説き給い・日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を誓いに立て給う」(一二八六ページ)と説かれている。
殊更に「正義」を叫ぶと正義イコール善人を強調することになり、逆に信用されなくなる。正義を叫ぶ前に正直であるべきだと思う。素直に生きることが難しい時代だからこそ、まず自分に正直であれと言いたい。その正直さが社会や組織のルールから外れていると判断されると社会や組織はその人にレッテルを貼る。「我儘、傲慢、独断、我見」等々。これらの上から目線の単語からは、使用者側の「我儘、傲慢、独断、我見」が見える。当然のこととしてレッテルは貼る方が善であることが前提となっているからだ。そして排除され、無視され、軽んじられる。これらに耐えることを強要されるという社会構造である。
こんな時代のこんな社会で「正直」に生きるためには、自らが喜劇を演じなくてはならないのだろう。だから先生は私に「喜劇俳優の如く生きろ」と言われたのだろうか。
正義の道とは正直に生きること。嘘のない生き方のことである。
何が正義なのか。これを「せいぎ」と読むと対語はなんとなく「悪」になる。けれども
「しょうぎ」と読むと対語は「邪」となる。
悪と邪の違いは対人か対法である。
一仏乗を法華経(南無妙法蓮華経)とすればその他の法は邪法となる。
邪法とは「よこしまな法」だが、悪ではない。単に一仏乗を説いて無いだけである。
権経も実経も釈迦の説いた法であるが邪法にするのは人間であり、その人が悪人なのである。正直とは心が正しくすなおなこと。仏法では仏の本意にかなうことをいう。
また正とは邪に対し、直とは曲に対する語で、正しく虚妄でない、真実最高などの義となる。現代は「正直者は損をする」ことになっている。
くだらない格言だが現実はそんなものかもしれないという意味でつまらない世の中である。
だから「正直」をこんな情けない形で使うのだろう。
単なる思考実験だと思ってください。
福運と運の違いを考えてみましょう。
運や徳は力的因子となる。
運は人生を切り開く力
徳は人を引き付ける魅力
福運や福徳は量的因子である。
力と質量の関係はF=ma(aは加速度)これを運動の第2法則という。
運=福運*加速度
運は福運に加速度を乗じたものとなるが、それでは加速度は何か。
単位時間あたりの変化率が加速度であるが、人生における加速度とは何か、生命における加速度とは何かが問題になる。
さらにE=mc^2 のもとの式である E^2=m^2c^4+p^2c^2 にある運動量を静止することのない人生に当てはめて考えてみてください。
生命力という力の存在を証明することはとても難しいことですね。
功徳と実証の違いってなんでしょうか。
功能福徳、功能福行と現実証拠、現証(三証の一つ)である。
一言で言えば「自身の内面に積まれ、具わるもの」が功徳で男女共通である。
「金や地位、名誉を得られたこと」を実証というのは男性的すぎるでしょうか。
女性としては「経済的、家庭円満、健康、子供の成長」といったところでしょうか。
福運と福徳は道義であると仮定しよう。福運は積むことができるとされている。
すなわち蓄積可能であるからもともと少ない人でも増やすことができる。
どのくらい積めばどのくらいの結果がでるのか定かでないのが宗教的である。
福運を積めば本当に実証を得ることができるのでしょうか。
実証が福行の結果としての果報となるなら可能なのでしょう。
けれども実証と言われれている項目は、多分に持って生まれた運のようなもので左右されてしまうような気がする。
経済的に苦労する人、人間関係で苦労する人、自分の性格で悩む人、健康で苦労する人等々、人によって様々でしょうがある意味一生、同じ問題で悩んでいる。
運は福運の一部なのでしょうか。
美しい方程式と言われる二つの方程式を見ながらその実用性について考えてみたいと思う。
実用性とか汎用性とは一般的理解という程度の意味だと追ってください。
一つはE=mc^2
もう一つはe^iπ=-1
アインシュタインとオイラーの等式である。
E=mc^2は E^2=m^2c^4+p^2c^2という数式から運動量pの静止状態を考えて導かれたものである。(光速一定という条件で)
「エネルギーを計算するには、質量と運動量と光速を使えばいい」という意味である。
そしてこの式から様々な物理現象が説明できるというすごい等式である。
それに対しオイラーの等式は数学的に美しくなっている。
すなわち自然対数の底 e と円周率 π と虚数単位 i (πもiも無理数)という、全くバラバラの分野で扱われ、
何の関係性も持ち得ないと思われていた三つの数が結びついて、実数解を導き出すという手品みたいな等式である。
どちらもとても重要であるが、その実用性と話題においてE=mc^2に分がある。
あらゆる学問がどんなに専門的になっていったとしても
順を追っていけば必ず答えに繋がるという意味で言えば決して難しいとはいえない。
たとえば数学や
物理学であっても同様である。
ところが仏法の発想には、学問的な順が無いと言える。
基礎から高等へ、特殊から一般へ、汎用から専用へといった順が見当たらない。
そもそも釈迦以前を問題にしないように、日蓮以前に拘ると日蓮が理解出来なくなる。
仏法の思想的流れが理解出来ても、仏法の発想や思考が理解出来ないのである。
悟りそのものが進化してしまう。
ヘーゲル流に言えば天台が釈迦を止揚し、日蓮が天台を止揚していくからである。
否定しながらも保存継承しながら独立していく。
日蓮仏法が人類的汎用性を持つために何が必要なのか。
日蓮仏法の実用性を問い続ける必要性を痛感する昨今である。
昭和52年12月28日 杉並文化会館の一室でのことである。
先生と青年の二人だけであった。
先生がその青年に「第4代会長になれ!なれるか?」と聞かれた。
青年は少し驚いた表情を浮かべたが無言で先生を見つめていた。
その後その青年は先生と別れてトイレに向かった。
その後を追うように舘岡副会長がトイレに入り、副会長は「いま先生と何の話をしていたの?」と聞いた。
「第4代会長に」と言うと副会長はビックリして「すごい話を・・・」としばし絶句していたようだ。
「初めて聞く話だ。すごいことだ・・・」と独り言を呟きながら用をたしていた。
青年も「先生は会長を辞めるつもりなのかな。こまちゃうな。そうなったら・・・」と呟いた。
その後、先生はその青年に会うごとに「副会長になったか?」と聞いていた。
54年に勇退した後、先生とその青年が組織センターで会った時
先生は青年の目をジッと見つめながら「男なら偉くなりたいと思うのが普通なんだよ。なんで偉くなろうとしないんだ。
○○君、君は信心が有るのか無いのか分からないよ」と言われた。
青年は「え!先生が分からないのでは困ります」とニコッと笑みを浮かべて応えていた。
青年は先生が必ず復帰することを微塵も疑ったことはなかった。
その青年は、先生から函館研修道場で「私の次に全国を回れ」と言いながら雅号を与えられた。また熱海研修道場では、「今日から日記を10年書き
なさい。私も戸田先生から日記を書けと言われて書き始めて10年目に会長になった」と。さらに石川文化会館での記念植樹の際に、牧口・戸田両先
生の植樹をされると「この横に私の植樹を君が植えるんだよ」と言われていた。そして中部文化会館では先生がピアノで大楠公を弾きながら「正行だ
ぞ、正行だぞ」と何回も言われながら「21世紀を頼むよ」と。二人だけの濃密な時間であった。
「最近の学会は、情がなくなった」と私に言った人がいる。
私は、この青年が第四代会長になっていたらどうなっていただろうかと考えさせられた。
先月のことである。
本部相談室で指導を受けに来ていた女子部に
担当者の実に態度が悪かった。
青年を育てようといった姿勢がまったく感じない。
「役職に就いて自分が成長できないと思うならならないほうがいい」
「もし成長できるなら私なら人を蹴落としてでも幹部になるよ」と言い放った。
挙句に「私の言うことが聞けないならここに来る必要がない」と。
相談室を担当するのは、各区の区幹部以上である。
それがまともに指導もできないのである。
こんな傲慢な口調と態度と上目線で青年に接している。
先生の目が届かなくなるとこんな輩でも区の幹部になってしまうのだろう。
もし先生が亡くなったらこんな幹部がもっと増えるのだろうと思うと寒気がする。
誰も逮捕されず上場も廃止されず
こんなものか思うと虚しくなる。
ライブドアよりもかなり悪質で
腐った経営の中心部分が露呈しても
大企業は守られる。
マスコミもマスゴミだから攻撃しない。
つまらない社会になっていく。
私の友人にUFOを信じている人がいる。もちろんUFOイコール宇宙人である。
実際に宇宙船を見たともいう。
私は言った。
「宇宙人が持つ宗教も南無妙法蓮華経でないと困るな」
彼は言った。
「南無妙法蓮華経とは言わないが意味は同じ妙法だとおもう」
私は言った。
「世界中の宗教家が、自分たちの宗教教義と同義だと言うよ」
意味解釈などいくらでも展開できる。同じ仏法用語を引用して相手を攻めている例なんか
いくらでもあるよ。創価学会と日顕宗でもあるよ。
さらに私は言った。
地球の広宣流布は地球人がやるから意味があると。
皆さんはどう思いますか?
池田先生の健康が気になる。
先生の性格からしてお元気なら出てこないはずはない。
先生が病気なら隠さないで、皆でご祈念すればいい。
「先生はお元気です」としか言わない幹部。
この体質が後々組織の退廃に繋がるのが人間の組織である。
先生が亡くなったらつまらなくなるなと思ったりする。
創価学会の巨大な組織を利用しようとする不逞の輩は必ず出没する。
幹部に甘い汁を吸わせて組織利用をし、金儲けを企む奴や
小遣い稼ぎに走る壮年・婦人。
結婚サギ、見合いサギなどはすでに兆候がある。
幹部や青年の退廃がネット社会に流出していく危険を感じる。
キリストは神なのか、神の子なのかという論争が千年も続いた。
同じ愚かな論争をすれば組織は分裂する。
食品すべてに軽減税率を適用すると財源に一兆円以上必要となり、六千億も足りないから無理という。新国立競技場建設で3500億のどこが高いと言い放った森元総理。しかもこの軽減税率の話は消費税が10%になるときの話である。なぜ消費税を5%から8%、10%にするのかというと将来にわたって医療、介護、年金、子育てなどの社会保障を維持するためという。
公明党の政策パンフにはこともあろうに世界の税率を示して10%は低いほうだと強調する。デンマークの税率は25%だが、医療、教育、食品は無料である。当然のごとく待機児童はゼロ、その他の社会保障も日本など比べようがないくらい充実している。軽減税率を実施していても日本の一律5%の水準でこれだけの社会保障を行っていることは隠してしまう。もっとも所得税も25%とかなり高いが、大企業も中小企業も同率の給与体系である。
いい加減、政府や官僚と同じ答弁をしないで欲しものである。本来なら消費税引き上げ以前にやらなくてはいけなかったことがあったのではないか。軽減税率の問題は、消費税アップが前提の問題であり、軽減税率の話題で消費税そのものの問題は隠されていく。その手先になぜ公明党がなっているのか。消費税、医療費、健康保険料、介護保険料、介護負担、住民税がアップされ、年金は下げられる現状のなか、どんな理由で公明党を支援するというのだろうか。公明党の存在によってなんの恩恵も与っていない年金生活者の偽らざる声である。
集団的自衛権は日本の安全保障をアメリカに依存することを決定するという思考である。それは、日本に核武装をさせたくないというアメリカの意向としたくないという日本の思いが一致したからでもある。日本が核武装すれば中国との関係は悪化する。それではアメリカも困るからである。経済的にはアメリカは中国とうまくやりたいからでもある。
個別的自衛権は、憲法違反にはならない。個別に日本の安全保障を確保するには力の均衡を保つためにも核武装は欠かせない。もちろん核武装しても憲法違反にはならないだろう。核を持たずに安全保障を確保することは至難の業といえるのだろう。非核三原則などとは言ってられないとも言える。
集団的自衛権は北朝鮮と中国という仮想敵国の設定によって成り立っている。仮に中国が尖閣諸島や東シナ海の覇権に打って出ても全面戦争にあるとは、思えない。そうならないための抑止力ともいえる。
事実、公明党の政策パンフでも安保法制が「抑止力」になると力説して政府や官僚の弁護代理人のごとく振舞っている。政党としての力学的判断は、集団的自衛権の容認という方向に向かうことはいたしかたないと思われる。武力均衡の抑止は、いずれは核保有こそ最高の抑止力と言わざるを得ないのは北朝鮮と同じ発想である。そして武力均衡こそ対等の対話にとって必要十分な条件となる。
公明党という政党が核武装を容認できないのは自明の理である。けれども、それでも公明党は集団的自衛権を容認してはいけなかったのである。公明党はあくまでも人間主義を根底に国際的な安全保障は国連中心主義であり外交は対話第一主義を貫くことこそ創価思想であり、池田思想であるからだ。これは相手がロシア、中国、北朝鮮、ISILであっても変えてはいけないのである。そのために政権に留まることが困難ならば潔く政権から離脱すべきであったと思う。
これを非現実的で理想主義の滑稽な錯覚と笑われ馬鹿にされても公明党は貫くべき宗教政党なのである。宗教政党からの脱却をめざし、一般の政党を目指すなら創価学会の支援を全面的に拒否しなくてはいけないだろう。
集団的自衛権で残りの問題は、憲法違反である。この問題は安全保障の問題とは別に法の安定性、連続性に対する問題であって、解釈だけで集団的自衛権を容認させようとしたことによる当然の結果的課題である。砂川判決が集団的自衛権までも考慮していると解釈するのはあまりに手前みそで強引すぎる印象を与える。
1993年 細川内閣 1999年 自自公連立内閣と続く中公明党は、周辺事態法(1999年)、通信傍受法(1999年)、イラク特措法(2003年)、高齢者医療制度(2008年)、秘密保護法(現代の治安維持法)(2013年)、消費税、年金問題、拉致問題、尖閣諸島問題、竹島問題、70年談話、TPP問題、労働者派遣法(1985年、2003年派遣法改正案、2008年派遣切り問題2012年改正)、安保法案(集団的自衛権)等々の日本の将来に関わる多くの問題で失敗し続けてきた。
その都度、弁解や弁明をしながら、時には謝りながら支援してきた。今年の参議院選挙は様子を見たいと思っている。
政治力学が政策決定や政治判断の基準になっているように思える。そして池田先生の思いとかけ離れていく姿が目に付きすぎる。
元凶は、太田昭宏が竹下登に吹き込まれたことによる。竹下事務所に入りびたりになっていた大田は、党の委員長になるためにはどうしたらいいか。小遣いまでもらっていたという噂まであった。そして竹下(1987年?~1989年? 2000年?死去)に言われていたことを実行したのが2003年東京12区からの出馬である。当選。それまでは1993年に東京8区から9区に鞍替えして当選したが、その後は比例東京ブロックで2度当選した。しかし党の委員長になりたいのなら小選挙区で勝てと竹下に言われていた。その玉突きで八代栄太は自民推薦から外された。
竹下と太田の話題の中心問題は、宗教政党からの脱却である。支援は創価学会に頼りながら、政策判断は学会と一線を画すということにあった。竹下も太田もここで一致した。2000年?に竹下が死ぬまで政治家として教えを受けていた。六年後の2006年に太田は党委員長になる。そして2007年の大惨敗の選挙である。
楊子本尊、万年救護本尊、病即消滅不老不死本尊、臨滅度時本尊、紫宸殿御本尊そして一閻浮提総与本尊と名前のある本尊や弟子ならびに信者に与えた多くの本尊がある。
創価学会や宗門は、邪宗日蓮宗が所有する本尊に対し、たとえ大聖人自筆の本尊でも有名無実であると一貫して主張してきた。現在、宗門から離脱した創価学会は、当然のことであるが宗門も邪宗日蓮宗扱いである。したがって一閻浮提総与の本尊も有名無実となる。宗門側も学会所有の本尊を有名無実という。離脱した時点でこうなることは自明のことで織り込み済みである。
このことは日蓮自筆の本尊を否定しているのではない。仮に一閻浮提総与の本尊が創価学会に寄贈されたなら有名有実の本尊となる。大聖人の血脈が創価学会にあると信じるならば当然のことであって、なんら問題はない。
最近、遠藤文書なるものが巷に流布しているが、こんな単純な理も理解していない幹部もいるらしいのに驚かされる。こんなことで学会批判する幹部こそ、創価学会に大聖人の血脈があることを否定する師敵対の輩というべきである。
本尊といえども地球や太陽系が死を迎えるときは存在できない。形に表されたものでも永久不滅の実体ではない。これを無我という。宗門と共生していた時代に、大御本尊と崇拝していたとしても、現時点においては有名無実の本尊となる。
競争とは競技で争う。すなわち技術を競うことである。受験もそうで、受験技術を競うのだが、昔は、努力が競争のための必須条件であった。いまは経済的に恵まれている人が競争に勝ちやすい時代になった。技術を習得するのに金がかかる時代なのである。
共生とは経済的共生ではなく人間的共生でなくてはならないのだが、政治的であったり、経済的であったりするイメージが強すぎるのではないか。共生とは異文化間の共生であるべきなのだ。政治・経済というものが、文化という上部構造を決定するといった誤りを人類は是正できないまま今日を迎えた結果といえる。共生の時代とは、文化・教育・平和を根底に政治・経済を見つめなおすことなのである。
価値の意味が明確にされないまま価値を語る。競争と共生のジレンマ(dilemma)を語るときそれは、経済面と政治面だけにしか焦点があたらない議論の空しさの坩堝に陥る。すなわち競争と共生は対立する概念ではなかったのであるが、経済・政治面では、対立する構造が目に付くことになる。共生は競争の対立概念と思いすぎること自体が誤りなので、競争と共生を同時に語るときに陥やすい経済・政治面に偏ると結論はでないという結果になる。
儲けた金を自由に使いたい。自由に金を儲けたい。これが資本経済であり、自由主義である。そのための競争であると考えれば、競争と共生は両立するはずがないのは自明の理である。また競争と共生を経済格差という視点で考えるのも的外れなのである。競争が格差を生むというときの格差とは経済的格差に限られている。政治・経済の安定がすべてに優先すると考えるのは、現代社会および現代の人間観が基本となるのだろうが誤りである。画一的で格差の無いことが、共生だと思うことも誤りである。
凡夫のままで良いのではなく、凡夫僧となれば極果(仏界)と開けるので凡夫即極となる。
したがって凡夫即極(仏)が即身成仏と同義となる。故に凡夫即身成仏では省略し過ぎとなる。さらに凡夫即極(仏)には条件が設定されている。無条件ではない。
凡夫とは、仏法上は経論によってその意味が異なるが、煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界(六道)で生死を繰り返す者をいう。
① 小乗経においては四諦の法門を理解しない浅識愚鈍の者、または小乗の証果を得た聖人に対して見道以前の者をいう。
② 大乗経では五欲に執着し、六道を輪廻する衆生をさして凡夫という。妙楽大師は止観輔行伝弘決巻五の二で地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道に住する凡夫を六凡といって、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖に相対している。
③ 別教の立て分けでは五十二位のうち初住位に入る以前の位、いまだ不退の菩薩道に入らない衆生をさして外凡とし、十住、十行、十回向の菩薩を内凡という。
④ 天台大師の六即に配すると、理即および名字即の二つを凡夫とする
末法においては、題目(法)を唱える人は、その時点で、姿は凡夫でも四聖となるが、もともと日蓮仏法は、人間を凡夫と凡夫僧に分けるが、二乗、菩薩、仏という区別あるいは差別をもって分類はしていない。
人間は誰でもどんな人でも皆な凡夫となる。ただし小乗・大乗・天台・妙楽のような差別を是認する考えはまったく持っていない。そんな差別された人間でも、法華経を信じることが出来る存在であることを認めている。したがって法華経を信じる人を凡夫僧、信じない人を凡夫という差別だけである。けれどもこの分類は、人間そのものの存在価値を差別化しているわけではない。
法華経を信じるか、信じないかが凡夫即極(仏)の条件である。
*観心本尊抄に「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」
*諸法実相抄に「又云く『阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず』云云」
*上野殿後家尼御返事に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり」
*御義口伝に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」
*船守弥三郎許御書に「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり」
これらの御文を単純に凡夫=凡夫僧と解釈する人がいる。それでは大聖人がわざわざ「僧とは我等行者」と定義した意味がなくなる。「凡夫即身成仏」なる造語を考えた人もこの点を留意して述べて欲しいものである。
日蓮のいう安国(仏は)が、娑婆即寂光(煩悩即菩提)の理念に基づき、あくまで現実(凡夫のままの姿で)の娑婆世界に仏国土(仏界)を求めようとする点において、その思想は本覚思想に通ずるものがある。しかし、日蓮は現実(凡夫)をそのまま浄土(仏)と見ることなく、此土(凡夫が)に建設すべき(仏と開くことを)究極の目標として高く掲げた点において、本覚思想とは立場を異にしているのである。
公明党はどんな日本国を建設しようとしているのだろうか。
安保法制を否定すれば、日本も核を保有しなくては北朝鮮に対抗できないとなる。さらに憲法によって自衛隊を規定する。だから公明は安保法制を拒
否できない。
これが現実の政治の世界の発想なのだということは理解できる。
しかし自民と希望が連立したとしたら、アメリカの核の持ち込みを拒否しなくなる。そうなったときでも公明は、連立に残るのだろうか。それでも自
民と希望が公明外しをしないのは、選挙のためだけである。
どんなに笑われようと理想論だと蔑まされようと、公明は対話第一主義を貫いて欲しいと思ったりする。
公明は宗教政党であることを忘れてはいけないだろう。
仏敵というと仏の敵という感じで受け止める人がいる。
しかし、元来、仏には敵はいないのである。したがって仏は敵と戦わない。
キリスト教のように神と悪魔といった頂上決戦はない。
第六天の魔王(魔の軍勢)も戦う相手は帝釈天(仏の軍勢)だったりする。
魔も仏と戦ったのでは勝ち目がないので初めからやらない。
搦め手で周辺や隙間を狙って攻撃するだけである。
そこへ登場するのが諸天である。
御書にも何か所か「仏敵」という言葉がある。
仏敵とは仏法の敵、法華誹謗の人をいう。結局のところ仏の敵ということになるのだが、
問題なのは法華誹謗の人と戦うのも人間であるということだ。
なぜ仏は戦わないのか。戦わない人、声を挙げない人も、挙句に仏敵となるのでは割に合わない気がする。
しかも法華誹謗の因は、様々に解釈できてしまう法の説き方に問題があると思わないのだろうか。仏の真意はこうであるとはっきりしていれば初めから余計な解釈は生じない。
創価学会の執行部への批判も執行部の人たちは仏敵であると罵倒する。
仏の教えに背いているからだという。
どちらが仏敵なのか私には分からない。
戸田先生の遺言として3.16の儀式の後、当時の輸送班主任をされていた方が、3月23日、午後2時頃客殿に下山を待つ150人位の会員のいるところに戸田先生がおいでになった際にお話しされたことを記録しておりました。
そこで戸田先生は「戸田の念願である75万世帯の折伏も皆さんの協力で達成できたし、ここらで皆さんにお許し頂いて、大聖人様のもとへ帰らせていただきたい」と言われた。
皆ビックリして一瞬悲しい雰囲気になった時、戸田先生が「そんな悲しい顔して戸田を困らすな。何時までこの戸田を使う気かよ」と。
「皆さんこの戸田がいなくなっても一つも心配はいりませんよ。三代会長になられる方がもう決まっていらっしゃる。三代会長になられる方は、戸田の何百倍も力のある素晴らしい方で、この方が世界広布の道を切り開きその方程式をきちっと示して下さるから、皆さんは安心して、この方の言われる通り付いて行けば素晴らしい広布の道が開けていきますから安心して付いて行きなさい」と言われた。
また「例えて言えば、徳川三百年の歴史も、三代将軍が偉かったからで途中には、馬鹿殿様もおったが、三百年も続いたではないか。こんなものとは比べようもない事だが、三代会長さえ皆なで守り仕えて行けば、四代から先は、公平な方でさえあればどなたが会長になられても創価学会は心配いりませんし、世界広布は必ずできます」といわれた。
四代、五代、六代の会長がとても「公平な方たち」とは思えないのが、少し残念ですね。私の体験としての実感ですが・・・・。
創価学会には正義はある。けれども正義だけでは、普通の庶民は不正と邪悪な力に飲み込まれ負けてしまうだろう。庶民が望み必要とするのは、正義と公平な指導者である。
戸田二代会長の牢獄での悟りで、霊鷲山の儀式を見たという戸田会長著の「人間革命」の下りは、石田次男の創作である。(本人談)戸田の悟りとは「地涌の菩薩の自覚」と「仏とは生命のことである」の二点だけである。
石田次男が池田先生に反逆した理由は、自分の功績を池田先生が全く認めかったからという理由である。
石田の功績とは、一つには、小説「人間革命」の執筆である。戸田会長の人間革命は大半が口述筆記である。(和泉美代さんともう一人の女性が筆記)この筆記を石田が小説風に仕上げたのである。
もう一つは聖教新聞発刊に尽力したことである。彼が初代編集長になった理由でもある。この功績を池田先生に取られたという怨嫉が原因である。
ついでに一つ残して置きたいことがある。それは戸田会長の次期会長候補のことである。よく巷で噂になっている石田次男と池田先生の次期会長候補のライバル関係のことであるが、これは、池田先生の埼玉に住んでいた弟さんの発言である。曰く「戸田先生は、次期会長候補として考えていたのは、石田次男ではなく、中西治雄さんと池田大作の二人だったと聞いているよ」というのである。
先生の勇退前後の中西さんの行動と発言を思い浮かべてみて、なるほどと思ったことがあった。
戸田門下生たちは、池田先生が亡くなれば、戸田二代会長を「恩師」と公言するだろう。しかし私の恩師は「池田先生」お一人である。先生が表面に出られなくなってからの創価
学会はつまらなくなった。こんな思いを持つ私は信心が無いのだろうとつくづく思ってしまう。
庶民の敵は、庶民の無関心であると言うというと、結局、庶民にすべて押し付けることになりかねない。たとえ庶民が無関心であったとしても、権力者は自分の使命を全うすればいいだけのはずである。
庶民が無関心だと権力者は好き勝手に振る舞うことが前提になってしまう。人間とはそういうものだというが、庶民が関心を持つことは、権力者の横暴や好き勝手を監視することではない。庶民は自分の生活に精一杯なのに、権力者の監視まで追加で、させられる羽目になる。
いま声を挙げないのは師敵対だと叫ぶ人たちがいる。
いま声を挙げている者たちは師敵対だという人もいる。
同じ言葉で互いを罵る。互いを仏敵だと決めて凶弾する。ある意味人間らしい様相であり、喜劇である。
出でよ!10万の池田大作!!というフレーズは先生が言うと自分と同じ思い、同じ心で戦う同士への呼びかけに聞こえる。
しかし先生以外の人が言うと有象無象でも10万人集まれば先生の一人分の戦いができると言っているように聞こえる。
先生と同じ思い、同じ心で戦える人は、一人いれば十分な気もしてしまう。
当然、有象無象が10万人集まっても先生一人に及ばないだろう。
現状の創価学会をつぶさに観察すると、一人の池田大作が欲しいというのが本音のように思えてくる。
4代5代6代が後継の一人に見えないところに寂しさが漂う。
10万人もいらないから、とにかく一人出でよ!と思ってしまうのは私に信心が無いからなのかと反省する昨今である。
最近、驚いたことがある。それは、世界広布のために日蓮本仏論を引っ込めて釈迦を根本仏にしなくてはいけないなどと言う輩がいると聞いた。私の思うところでは、この人は摂受の意味を間違ってしまったか、あるいは単純に拡大解釈したのだろうと思う。
摂受とは、相手の違いを認めつつ次第に誘引して正法に入らせる化導法のことである。違いを認めるとは、我々の考えを変えることではない。違うという事実認識を共有することである。
法華経においては、在世の衆生の機根は本已有善であり、已に善根のある衆生なので強いて法を説いて反対させ、積善の功を消す必要はない。したがって時には厳しく攻めたり、時には誘引したりして衆生の機を調機調養して、法華一乗の機に調えてから、法華経を説法したのである。
天台は摂受を表とし折伏を裏として説いた。開目抄に「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし」とある。
すなわち「摂受をもって弘める国土」もあると認識するだけである。この「表」「前」の意味を拡大解釈してはならないのである。
したがって無智・悪人の国土であると認識することは重要だが、だからといって謗法をしても良いということではない。日蓮仏法の根本義を変えてはいけないのである。
無智・悪人の国土の衆生を如何にして調機調養するか。その方法を間違えてはいけないのである。世界広布のためなら日蓮本仏論は取り合えず裏に置くというのは、過ちであり謗法でもある。
無智・悪人の国土の衆生を調機調養する方法を池田先生が指し示してくれているのである。現代の三大秘法を「平和」「文化」「教育」の推進として位置づけその根底に日蓮仏法を置くことを主張していくのである。
「平和」「文化」「教育」の推進を表にすれば、世界のどの国土の衆生であっても聞く耳をもつことだろう。そのうえで根本義を示せばよいのである。
「安楽行品のごとし」とは、法華経を修行する者(学会員)が、身・口・意・誓願の四安楽行に住して、危きを離れ(無益な宗教論争をするのではなく)安きを得(平和な文化国土の建設をし)、遠くの楽の果を得る(世界広宣流布の礎とする)という摂受の修行のことである。
根底に日蓮仏法を置くことによってこの摂受の戦いが、折伏の上の摂受となるのである。したがって、世界中の人が「仏教の根本仏は釈迦である」という認識を持っていたとしても、少しも怯えてはいけないのである。この認識を変える方途と行動を示して下さった池田先生の弟子ならば、先生と同じ心で同じ行為を堂々と貫いていくことである。
K.MよりY.Mさんへ
「誰かに、依存するのではない!どこか、別の組織に行くのでもない!誰かを通して、先生を見るのではない!自分と先生であり、自分と御本尊である。」
私は、このように生きてきた。だから人に呼び掛けたりしない。私を通して先生を知って欲しいとは思っていないからだ。さらに私と同じ思いを持って欲しいと思ったこともないのである。
人に呼び掛ける行為は、自分は人に依存しないが、人に対しては自分に依存あるいは自分を通して先生を知って欲しいということを期待しているのと同じである。これは折伏のときの姿勢であって、それ以外で用いることではない。
人が自分に付いて来ようと、離れようと自分は自分の生き方を貫いていく。人は人の生き方を制約してはいけないと思う。同様に私の生き方も他人に制約してほしくないのである。「自分と先生であり、自分と御本尊である」と思うなら、横の連立も連携も別の組織という縦の統率も必要ないでしょう。しかしこの生き方は孤独との戦いでもあります。
その孤高の戦いから逃げたくなるから仲間が欲しくなる。それほどに孤独に耐える不撓不屈の忍耐力が必要な時こそ魔との闘いの時でもある。
あなたならこの孤高の戦いの意味するところを理解できると思ったのは私の勘違いだったのだろうか。
原田さんがどうであれ、執行部がどうであれそんなことは些細な現象に過ぎないとは思えないのだろうか。人を批判することは、自分の正義を理解して欲しいという甘えと期待以外にない。そして批判した同じ言葉で、人が自分を批判することを許さなくてはならないのである。
『勇敢に 堂々と 歩みゆけ!わが人生の大道を』
先生の長編詩の如くあれ。先生の長編詩の如き人生であれと心より祈るのみ。
七十歳までに、新しき人間主義の哲理を確立せよとは恩師の声。
ユゴーは、七十歳で小説『九十三年』の制作に着手。
トルストイは、七十歳の頃、名作『復活』の執筆に没頭した。
牧口先生は、七十歳になられてすぐ、機関誌『価値創造』を創刊。
ゲーテは、七十余歳を詩にうたった。
池田先生は、随筆『新・人間革命』―1―「日に日に新たに」 新しき年。偉大な境涯の旭日は昇る。正月二日----。東京牧口記念会館にて、敬愛するわが友と、「民衆勝利の年」の出発。この日は、私の七十歳の誕生日と。
荒らし、成りすまし
掲示板内掲示板
分断行為、分派活動
組織内組織
みんな、私から見れば同じ意味に感じます。
これらを嫌がるのもやりたがるのも人間
掲示板における削除と組織での除名
情報と人間の違いはあるが
発想は似たり寄ったり
これを目糞鼻糞を笑うという
人間主義を掲げると神や仏の否定に繋がると批判する人がいる。人間主義を人間中心と解釈しすべてを人間中心に考えることと飛躍する。自然、神、仏より人間が上位とする格差を勝手に設定して人間主義の意味を制約する。
生命尊厳を謳うと死刑廃止論者かと詰め寄ったり、挙句に牛や豚を殺して食べるのは可笑しいとまでいう人がいる。
論理の飛躍、言葉の極端な拡大解釈することが深い思索と勘違いしているので、不自然さに気づかない、感じない人たちといえる。
基本的人権も時代背景を考慮する必要がある。確かに自由と平等は、煎じ詰めていけば相容れないことが起きるだろう。しかしそんなことは初めから承知である。それども自由も平等は人権を考えるうえで欠かせなかったのである。
人権に対し経済的格差や個人の才能の差など様々な状態を考慮したとしても、極端な拡大解釈をしたり、受け狙いの飛躍した論理は、評論のための評論にすぎず現実の人権獲得の力用にはならない。
深い思索とは、手段や方法論ではない。「人間とは何か」に対する思索こそ原点である。
人間主義を否定する人に問いたい。あなたの「人間とは」の答えをまず表明して欲しい。この問いを無視して勝手に評論しているのなら単なる売名行為にしか映らない。
全共闘最後の世代として言っておきたいことがある。当時の共産党の査問とは椅子に座らせた対象者を針金で縛りつけて行う拷問に近いものであった。
近年、共産党は変わったといい、最近の若者は共産党にあまり違和感を感じない人もいるらしいが、私などはとても共産党を支持することはできない。
戸田会長が言う赤旗を振るというのは、共産という政治・経済思想を指して言っているのではない。仏法の人間主義は、政治・経済思想に関わらず通用する哲学である。近年、マルクス政治学は崩壊し、経済学もそのままでは受け入れられなくなっているのが実態である。
赤い色の旗。仏教史においては、付法蔵第八の仏駄密多、同第十三の竜樹がともに赤い旗を掲げて王を諫暁した故事が伝えられている。仏駄密多、竜樹の赤旗は折伏の旗印だったのである。
宿坊の投稿を閲覧して
彼らは「自分だけは正義」と思い込んでいる。
この思いは他人に対し疑心暗鬼と猜疑心が沸き上がる。
そして誰が味方で敵かと思う。
敵・味方ではなく誰が大事な人なのかを考えなくてはいけないのに、その思いが見えなくなる。結果、大切な人を失う。
そのことにより本当の味方を失うことになる。
苦しい時ほど、「大事な人」を大切にすることが肝要なのだ。
ひたすら自身の正義を主張しているだけでは、今、やるべきことも未来にやらねばならないことも見失うことになる。
さらに猜疑心が沸き上がるという負の連鎖を招くことになる。
今 立ち上がれとハンドネームで叫ぶ。
実名でないから互いに言葉だけで煽り会うだけである。
除名になっている人までHNである。
やることは噂話を、暴露と力んで投稿するだけである。
執行部が私利私欲に走り、創価学会を私物化していると現象面を拡大解釈して凶弾している気になっている。
証拠を突きつければ済むだけである。
前にも言ったが、除名や解雇、役職の降格などは、組織が組織を守る手段であるから、ことさら取り上げても意味がない。反対意見を抹殺するのも同じである。
対話を忘れていると言うが、誰が誰と対話するかというルールもないところでは、対話というコミュニケーション手段は成立しない。
さらに対話には対話のルールがあるが、私から見れば、批判者も執行部もどちらもこのルールを認識も理解もしていないように思える。
宿命転換の特異点が本当にあると思いますか。
転換したこと自体が宿命と言われたらなんと答えますか。
物理学で言うトンネル効果
この虚数時空から実数時空への特異点を
人間の人生のどこに求めると言うのでしょうか
貴方がどのような人生を生きるかは自由です。
ただ波田地を親友と呼ぶ人とは友人になれません。
いずれは学会を、婦人部を、池田先生を否定し、波田地を会長にと思っているのでしょうか。
ありえません!
ネットでも還俗しないで僧侶として、学会と執行部と、戦うことの違和感を
感じさせています。
学会員は僧侶の存在を認めていません。
海外からの逆輸入なら認められると思います。
世界広布に僧侶は必要な存在であると思わせる戦いが大事です。
たぶん貴方にとって日本は狭すぎるのでしょう。
ご健闘、ご健勝を祈ってます。
貴方は多くの支持者と友人を持っているので、忍耐と勇気の人生を!
私も先生と同じ言葉を贈りたい。
「 与其進也 不与其退也 」
切り貼りの「殉教」の色紙で大騒ぎ。誰が作ったのかは不明だが、よくもまあ手の込んだ仕掛けをしたものと感心する。そんな揮毫は見たこと聞いたこともない。
そもそも殉教とは自ら信じる宗教のために身命を投げ打つことです。そして仏教には殉教という思想はありません。法を求めて身命を投げ打つことはあっても、歴劫修行という爾前経です。
先生の思想は、宗教の為に身命を投げ打つのではなく、会員の為、人間の為にです。
教えに殉じなくては、ならなくなるような教えは、人間の為の宗教とは思えません。
人間より法が大事か?。あり得ません。
人間より組織が大事か?。あり得ません。
「法に依って人に依らざれ」とは法の浅深高低の教判であって偉大なる法は人間の為にあるのです。
「殉教」の揮毫を観ました。この揮毫は先生の筆の運びではないと思います。汚すぎる文字です。さらに署名と脇書きは切り貼りです。拡大すれば切り取った後の形が見えます。
先生が殉教という言葉を使うのは牧口会長の話をしたときだけです。
先生の勇退と結びつける意図的な手口は情けない。
自分の正義を正当化するために先生を利用する手口も見苦しい。
先生が亡くなったらこんな人たちが多くでてくるのかな思うと暗澹たる気持ちになります。
「心で思うだけで実行しなければ何もなかったのと同じ」と言う人がいる。心に思うことは、人の行為を理解できる人なのです。自分が行動を起こさなくても人の行動を理解できる人なのです。
心に思ったことを無思慮に行動する人がいます。大抵そうゆう人は、人に行動を呼びかけたりします。そして自分の行動を正義と思い込み、人を非難したり、行動しない人を非難する傾向にあります。自己中の人が陥りやすいパターンです。
自分が正義と思うならつまらないHNで噂話の垂れ流しや思い付きのいい加減な教学を分かっているような顔をして投稿しないで欲しいものです。すべて実名で堂々と投稿してください。特に、除名されている人は、いまさらHNで愚痴や文句をいう必要がないでしょう。また人を煽ったりするのもやめましょう。行動するもしないも個人の自由意志です。
確かにいまの執行部の人たちは、たぶん心にも思っていないから会員の事がわからないのだと思いますが。
松戸氏の書籍を拝読させて頂きました。この書の感想を述べさせていただきたいと思います。
まず全体の印象は、言わんとしていることは理解できますが、私が想像していた通りに展開されてしまっています。単語の定義(物理学上、日蓮仏法上)が一切無視されたレベルであることが残念でした。
ただエネルギーを生命、生命力
ハイヤーセルフを仏界、仏性、
真のセルフイメージを本地、地涌の菩薩
チューニングを感応
ポテンシャルレベルを境涯と読み替えれば、初心者レベルの教学解説、指導性としてすんなり読めると思います。同じような指導性をもった書籍は結構あります。
しかし仮説として認定された定義がない量子論、量子力学、場の量子論そして人類の最高英知と称される量子電磁力学において、理論物理、実験物理学者たちが、文学的、情緒的表現を用いて量子の世界を語ることは定義の適用外として許されていますが、その言辞を宗教教義や思想等に関連させて、科学的な色彩を帯びさせ、自らを飾る行為を科学の悪用と言います。したがってそれが宗教の場合はオカルトと言われてしまいがちです。
さらに振動、波動の共鳴といった部分では、調和振動子理論という虚数概念を導入した所以を全く理解しているとは思えません。
最後のチャクラも無理に七文字に当てはめる必要もないと思います。
GTV測定は、電子が陽子の周辺を回る軌道から別の軌道に移動する時発生する光子の波長(物質の色調を決める)をカメラで観測するものです。もちろんこれは体内に於いて科学反応をした時という条件付きです。無理に唱題行と関連付けるとあらぬ誤解を招く恐れがあるとおもいます。
なかでも一番気になるのは、生命とか生命力といった仏法にも出てこない単語の羅列や造語である生命エネルギー、宇宙エネルギー、タイトルにもある題目パワー、エネルギーのレベルと質、宇宙意識(純粋の愛)と純粋意識、精神エネルギーといった単語等の定義が全くされておらず読み手の判断と能力次第で勝手に定義されてしまいます。
エネルギーという言葉は、運動量と同様に物理学上、厳密に定義されています。外部に対して仕事をする能力を持たないエネルギーは存在しないのは、定義に矛盾するからです。
科学と仏法は自然に対する思考の基盤が異なり過ぎているのです。仏法は初めから「何故」の答えから出発しているのに対し、科学は初めから「何故」を放棄したところから出発しているのです。科学は特に自然科学は、自然の「何故」に答えることは出来ません。したがって科学に対し「何故」と問えば答えは常に一つです。「自然がそうであるから」となります。
あくまでも物理現象の説明あるいは経過説明をするために科学はあるのです。もちろん科学者も何故に答えたいと言う願望はあります。それでも物理学に存在する百以上の方程式や定理はいまだにすべてが仮説である。
科学が発達すれば仏法に近づくというのは誤りで、仏法が科学に歩み寄り易くなると言うのが正しい言い方です。したがって科学がどんなに発達しても科学からは、仏法に近づけないのです。仏法が科学に近づかなくては離れたままで終わることになります。
ただの読み物程度なら一向に構わないのですが、そこに中途半端な日蓮仏法を組み込まれると私などとても戸惑ってしまいました。
「まえがき」にあったエネルギ―と意識の統合という表現も一般的な表現なのか仏法の意識論との統合なのか能くわかりませんでした。大聖人が(先生もそうですが)煩瑣な意識論(仏教系の邪宗が信者を取り組むのに利用)を意図的に素通りした理由は、根源の法体の宝号を七文字で命名したことによります。
以上こんな感想を持ちました。
馬鹿げた相対論が出てきてビックリした。宗教の正邪の判断基準として宗教の五綱があり、その経の判別の過程として、文底下種の南無妙法蓮華経を顕示するために、観心本尊抄に詳説した法門が五重三段であり五重の相対である。
五重に比較相対した判定基準は、宗教の五綱のなかの「教」を知るための規範でもある。五重相対して最高の教を南無妙法蓮華経と結論した日蓮の教説をさらに相対したら(六重)下種仏法よりも根本の法体があると言っている事になる。これはもはや日蓮仏法ではない。
何重に相対しても構わないが、その都度、より高次元の教法を明示し、理由を詳説しなくてはいけないのである。当然そうなると南無妙法蓮華経よりも根本の法体を示さざるを得ないことになる。
日蓮仏法を否定する人は結構いるが、六重相対した人は過去一人もいなかった。それを事もあろうか八重まで拡大する輩が出てくるとは想像することもなかった。まさに世も末の所業と言わざるを得ない。
日蓮仏法では、この所業を謗法というのである。この謗法をすんなり受け入れてなにも声を挙げない人を与同罪というのである。執行部に対する批判をしないことより、この謗法を見逃す方が遥かに天魔の所業である。
八重の相対における④本迹相対……同じ実教でも、迹門中心の天台仏法ではダメで、本門中心の日蓮仏法でなければならない【日蓮】がまず間違っている。本迹は釈迦仏法の判別であって日蓮仏法との判別ではない。
⑤種脱相対……同じ日蓮仏法でも身延・池上・中山等ではダメで大石寺でなくてはならない【日寛・戸田】に至っては種脱の意味を摩り替えて、まったく別の解釈をしてしまっている。種脱は釈迦仏法と日蓮仏法の判別規範である。
したがって以後の⑥⑦⑧の相対は支離滅裂で、日蓮仏法ではない。そして五重の相対は法の勝劣を決めるのが目的ではなく根本の法体を明かすのが目的なのである。
五重の相対は、戦いの論理でも、弟子の道でも、仏の魂の存在論でもない。立場によって見方が変わってはいけない日蓮仏法の根幹ともなる規範なのである。
単に幹部批判のために五重の相対を捩ってからかい半分に使用してはいけない法門なのである。幹部批判したいのなら何も五重の相対という言葉を使用しなくても、いくらでも展開できるはずである。
日蓮仏法を否定するのなら立場の違いですむが、日蓮仏法を信奉しながらこれを「見方によっては云々」ではすまない謗法である。
再度言う。五重の相対は法の勝劣を決めるのが目的ではなく根本の法体を明かすのが目的なのである。
幹部批判するためにパロディーとして滑稽化、諷刺化するにしても五重の相対を用いる感性は、とても日蓮仏法の信奉者とは思えない。
金科玉条の如く「師弟不二」「師弟不二の道」を持ち出す。師弟不二が無ければ仏法ではないとまで極端に表現したりする。
釈尊は師を久遠の法とした。現実の師はいない。大聖人の場合の師とは誰になるのか。表向きは釈尊だが、現実の日蓮仏法では、大聖人も法を師としているのである。
牧口先生の師匠とは誰だ。上記の論だと師のいない牧口先生は、仏法を理解できなかったことになる。
法を師に出来るなら現実の人間の師はいらなくなる。そして禅宗の二の前になる危険も存在する。 そこで現実の人間の師匠の存在を必要とする原理を考えてみたい。そのいい例が天台である。第三祖の天台が天台宗としての開祖に成れる意味である。
法を師とする場合と人間の師が存在している場合の違いがポイントとなる。
私の場合は牧口・戸田両先生から直接指導を受けたことがない。数十年後の人々は池田先生の指導も直接受けたことがない人々となる。三代に亘る会長指導のことを法とは言わない。
釈尊の師である法とは法体の法身仏の事である。末法では南無妙法蓮華経の七文字の法華経以外に法の師はないとするのが日蓮仏法である。
そこで本尊を持ち出すことになる。本尊を根本の法と拡大解釈して、その本尊を人と法の本尊に分けて、人にも法になる資格があると飛躍する。しかし日蓮仏法における本尊は三大秘法という修行の規範であって、本尊そのものが根本の法ではない。
法と手本では、その化儀の在り方は異なるのである。人間の師匠や先輩は、弟子や後輩の手本にはなり得る。芸術や学術の世界なら後輩が先輩を、弟子が師匠を超える存在になることもある。
牧口会長には、師匠はいないので、日蓮を師とすることになる。天台は南岳を師としているが、開祖になり得る法理の明示は、南岳を師とせず釈尊を師にしたからである。南岳と天台の関係を師弟不二だとは聞いたことがない。さらに言えば、天台の師もまた根本の法体ということになるのだろう。
それでは師弟不二といった場合、法のことはさておいて、人間同士互いが不二の存在になることは出来るのか。いかなる状態を指して言うのか今一不明確なのである。互いの思いと行動が一致したことを指して言っても、過去世に存在した師匠が、今日、証明したり讃嘆してくれるわけではない。
そしてここでも勝手な解釈がまかり通り、挙句に、自分だけは正義と思い込む羽目になる。批判する側もされる側も単なる解釈問題の違いで同じ文証・指導の切り文を取り上げて、「お前たちの事だ!」と互いをヒステリックに非難する。解釈問題は、教学論争とは異なる次元なのである。
なんと寂しく、詰まらなく、虚しいことか。しかしこの姿が人間の姿そのものなんだろうと思えば楽しくなるかもしれない。
釈尊の師である法とは法体の法身仏の事である。末法では南無妙法蓮華経の七文字の法華経以外に法の師はないとするのが日蓮仏法である。
末法という時代区分の数字に拘ったり、教判の相対に拘ったり、法華経第一の解釈文に拘ったりする釈迦・天台教学の範疇から抜け出せずにいれば、日蓮仏法は理解できないだろう。
釈迦・天台教学の単語を用いて自分なりに解釈し、創価学会を批判する輩がいる。また科学用語を用いながら科学的定義を無視して自分なりに解釈して仏法を語る輩もいる。先生の個人的な激励を利用する輩もいる。先生の一期一会の渾身の激励は、印籠などではないのである。
これらの全てが先生の個人的な激励や釈迦・天台教学、科学の知識の悪用としか言いようがない。日蓮仏法から観れば邪法以外の何物でもない。さも先生の特別の計らいを受けた、また教学的、科学的な装いをもって自身と自身の主張を飾ることが主眼となっている。なんと情けないことか。
先生の勇退を先生と共に悔しく感じると言いながら現執行部を批判する。まるで先生に同情する振りをしながら、先生の情けない姿を強調して、先生を貶める。弟子に同情される師など師ではない。
先生の勇退は、如何なる事情があったとしても先生自身が決断したことである。ご自身は悔しさ、無念の思いがあっただろうが、そこには少しの迷いもなかったのである。
辞任させられたということより、そこから更なる世界広布の道筋を作られた先生の行動に注目すべきであろう。これが広宣流布の本流であり、創価学会の歴史なのである。
辞任か勇退か等は、先生ご自身がその都度用いる言葉であって、周りの弟子が言うべきことではないのである。
師を護るということも同様である。元来、師が弟子を守るのであり、弟子に守られる師などいない。弟子は将来、師を宣揚することで師を守るのである。この師を護るという言葉も先生ご自身が時宣用捨しているのである。
日蓮仏法も先生の指導も、現執行部への批判のために悪用する輩は内外にいるものだとつくづく実感する昨今である。
「戸田の命より大事な創価学会」との戸田第二代会長の言葉の意味を考えたことがあるだろうか。戸田の真意を推し量ったことがあるだろうか。戸田会長が死ぬ十日前、本山において発した戸田の思いを残しておこう。
「三代会長になられる方がもう決まっていらっしゃる。三代会長になられる方は、戸田の何百倍も力のある素晴らしい方で、この方が世界広布の道を切り開きその方程式をきちっと示して下さるから、皆さんは安心して、この方の言われる通り付いて行けば素晴らしい広布の道が開けていきますから安心して付いて行きなさい」と言われた。
三代会長が世界広布の道筋を作ってくださる。そのために創価学会は必要なのであり、そのために創価学会は自分の命より大事であると言われたのである。
そして三代会長池田先生は、広宣流布の道筋を明確に示して下さっている。池田先生は、世界広宣流布の道筋を語って下さっている。
「世界広宣流布の大道 それは平和・文化・教育の道 この道は久遠元初以来未聞の王道なり」と先生は指導された。
折伏の上の摂受の本道たる未聞の方程式であり、日蓮の遺命である世界広宣流布の実現は、これまでは創価学会に、これからはSGIにしか成し得ない偉業であることは明白である。
会員のために創価学会は存在するが、創価学会のために会員が存在するのではない。創価学会の組織といってもすべて会員ために存在するのである。
そして創価学会は世界広宣流布の礎を築くために欠かせなかったのである。
具体的に創価学会を守るとは、広宣流布を阻もうとする敵と戦うことである。もちろんこの敵は内外合わせて考えられるでしょう。
『学会のお陰で偉くなりながら、学会の恩を忘れた幹部・議員を諫め、組織から叩き出す』ことや「組織内組織という派閥を作って自分勝手な主張をする輩」も含まれるでしょう。
いずれにしても、創価学会を護るのは広宣流布のためであり、創価学会のためでも組織自体を守るためでもない。
戸田二代会長の「悪を打ち破れ」とは「学会の大恩を踏みにじり、和合僧に弓を引く人間とは、徹底して戦え」と厳命された。これは一部の宗門坊主のことである。
池田三代会長の「学会のおかげで社会的な地位を得ながら、傲慢になり、ついには反逆していった人間がいた」とは公明党の議員のことで竜や藤原等のことである。
反創価学会の連中や甘言令色を用いて金儲けに狂奔するマスごみ、学会員を票としか見ない政党、政治家、国家権力を嵩に着た公安、検察等々、外部の敵は数多く存在する。そして内部にも外部に食い破られた輩や私利私欲の名聞名利の輩は存在する。
創価学会を、執行部を批判する悪口罵詈。反創価学会、反執行部に対する批判の悪口罵詈。ともに同じ歴代会長の指導を利用するという情けない有様。そしてともに学会の為、会員の為と言い、自分だけが正義、先生の弟子と臆面もなく叫ぶ体たらく。
しかし敵と戦うという意味は、敵の悪口や批判することではないのである。内部に存在するであろう敵に対しても追い出すことではないのである。
こんな閉鎖的な戦い方では世界広宣流布は、夢のまた夢に終わるだろう。
外部には会員が成長して様々な分野(平和・文化・教育等)で功遂げ名を挙げてこそ戦ったことになる。内部の敵に対しては、いかに自浄作用が働くかがポイントとなる。そのために賢明な会員の育成が戦ったことになる。
これらの戦いに一番大切なのが先生の指導であり、そこに世界広宣流布の道筋が描かれているのである。
広宣流布の大道 それは平和・文化・教育の道なり。この道は久遠元初以来未聞の王道である。
若かった私は、自分が広宣流布のために何が出来るのか悩んでいた。
岡山文化会館の開館記念の日は中秋の名月であった。
会館の屋上には先生をお向かいするためにススキを設えた設営が成されていた。
空には見事な満月が光輝いていた。
先生はそこで皆に和歌を創りなさいと言われた。
私は「明鏡に似たる姿の名月よ わが師の心 いかに映すか」詠んだ。
先生は突然「ホトトギス・・・」と呟かれた。
私はホトトギスは、秋ではなく春なのではと思ってしまった。
先生は「ホトトギス 鳴くも鳴かぬも 己が道」と詠まれるとその後一瞬の間があった。
そして「己が道とは 己が心ぞ」と謳われた。
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス by 織田信長
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス by 豊臣秀吉
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス by 徳川家康
鳴かぬなら逃がしてしまえホトトギス by 前田利家
鳴かぬなら 鳥屋へやれよホトトギス by 徳川家斉
先生は殺しも見放すもしませんが、鳴かせても待ってもくれません。
そして「真の信仰者とは 自身の人生を 自身の手で創造しゆく人のことである」と言われました。
私はこの姿勢の中に「厳しき師弟不二の生き様」があると知りました。
以来数十年、ひたすら私の使命と感じていることをやり続け、今日も続けております。
「師匠を守る」ことが「学会を守る」ことになる。この定義は池田先生だから言えることである。弟子に守られる師匠に比べると、師匠を守れる弟子の方が師匠より数段格上のように思える。
私が入信したのは中学2年生の時である。ある日先輩から創価学会で偉く成れ、役職が上がれば、先生に近づけるからだ。君も偉く成れと言われた。
私は一瞬、成程と納得したが、すぐにそれは可笑しいと思った。先生が死んだ後に生まれた人は、生涯、先生に近づけないことになってしまう。
以来私はずっとそのことを考え続けてきた。職員になり、退職し、今日に至る60年近くの歳月、先生の亡くなった後のことを考え続けてきた人生であった。
役職と信心とは直接、関係ない。師弟関係も同様である。先生が亡くなった時代に先生を師とすることは可能である。
役職に拘る人の大半が、先生の境涯に近づきたいという当初の思いから、自身に対する他人の評価を欲しがってしまうようになる。本人がそのことに
気づかないだけである。人はなぜ他人の評価を気にするのだろうか。なぜ偉く成りたいと思うのだろうか。私には到底理解できないのである。
先生の指導は、広宣流布の音聲である。当然のように録音テープの消去を命じた大幹部がいた。いずれは指導内容も改竄されたり、書籍も絶版になることだろう。50年後、100年後には先生の指導は古典扱いになるかもしれない。
悪人と戦えと先生が言う。この場合の悪人は外部の悪である。幹部に対する指導ではない。
信濃町にあった個人病院に女子職員が行ったとき学会の悪口を言われたので悔しくなって思いっきり破折してきたことが話題になった。男は黙って出てくる人が多いが女子部はさすがだねと全体会議で先生が一言。
3・16五十周年記念協議会での先生のスピーチには次のような部分がある。「声仏事を為す」(御書七〇八頁)である。 私たちの「声」が、魔軍を打ち破っていくのである。(政治家、評論家、経済界、宗教界、政治関連団体、マスコミ、反学会組織等々)罪なき仏子を苦しめる人間。正しい人を陥れる嫉妬と謀略の人間。学会を食い物にしようと狙っている私利私欲の人間。こうした悪い人間(学会の幹部の事ではない)が出たならば、放置してはいけない。早く糾すことだ。声が「仏」の仕事をする。真実をありのままに叫ばなければならない。悪に対して何も言わない。破折しない。それでは、魔をかばうことになる。己心の魔に負けているのだ。一人一人が臆病になってはいけない。難を避け、自分だけいい子になり、うまく立ち回る。そんなずるい人間になってはならない。皆で一緒に「声」を出せばいい。
団結するのだ。そして、どんどん口に出すことだ。具体的に言うほど、魔は倒せる。いざというときに勇気が出せない男性ではいけない。強くならなければいけない。勇気をもって真実を叫ぶ人間。そうした新しい人間を、青年部からつくっていかなければいけない。本当の「正義の革命」「人材の革命」をしていきたい。聖教新聞
2008年3月11日
学会の幹部が悪いことをしたら(社会的犯罪行為)除名すればいい。しかし組織運営の失敗だとかやり方などは社会的犯罪ではない。本人の力量、人柄、能力の問題である。
罪なき仏子を苦しめる人間。正しい人を陥れる嫉妬と謀略の人間。学会を食い物にしようと狙っている私利私欲の人間。こんなことをする人間が外部だけでなく内部(幹部)にもいたとしたらどうする。
まず幹部で罪なき仏子(学会員)を苦しめている事実はあるのか。査問や除名などは、どこの組織でもある。会社でも聴取や調査、解雇さらに降格人事や左遷はよくあることだ。
会則の変更や教義問題などは単なる見解の相違、解釈問題に過ぎない。先生の意向に反しているかいないかも解釈や立場の違いによって起きること見解の相違に過ぎない。
正しい人(何をもって正しい人というのかは別問題)を陥れる嫉妬と謀略は、内外のどんな組織でも人間関係にもあるだろう。
学会を食い物にしようと狙っている私利私欲の人が幹部になっていたらどうだろう。そんな人を登用したのなら任命責任があるだろう。そして最後にその責任は先生にいきつくことを理解しているのだろうか。そんな幹部がいるなら私利私欲の証拠を示して凶弾すればすむ問題である。
勇気をもって真実を叫ぶ人間。そうした新しい人間を、青年部からつくっていかなければいけない。本当の「正義の革命」「人材の革命」をと先生は対外戦略として言われた。
組織の執行部に対して勇気をもって真実を叫ぶといっても何が真実なのか誰も知らない、分からないこともあるだろう。誰もが皆、自分が正義と主張しているからだ。
50年前の先生の激闘を紙芝居のような構成でSTBにして、会員に選挙活動の奮闘を煽っている。今日(7/7)STBを見た。24分の先生の指導のうち数分だけであった。それもシュプレヒコールと選挙関連の部分だけである。種種御振舞御書、呵責謗法滅罪抄の一節を引用しての指導部分はそっくり省かれている。選挙を信心で勝とうという信念が微塵も感じられない構成に無念さを覚える。歴史は生き残った人への贈り物ではない。今後もこのような姑息な手法が横行するだろう。先生を利用して求心力を求めていくことは目に見えている。そう思ったとき、私の胸に激しい痛みを感じた。
44年(1969)の和歌山での先生の指導と舞は、高熱をおして赴いた、人材育成への渾身の指導である。和歌山城は秀吉が築城の名手と言われた藤堂高虎に造らせた城で、紀州徳川御三家縁の城である。人は石垣、人は城である。
この時に会場にいた一人の婦人が先生の指導に呼応して武田節の指揮をお願いした。そして先生は武田節を舞った。
「和歌山の 友に魂 とどめむと 熱き生命の 舞の歴史は」と詠まれた。
16年後の60年(1985)先生は宗門のいじめにあっていた和歌山の同志を激励されたときに贈られた言葉は「人よし 城よし 青年よし」である。
選挙に勝つことが、仇討といった単純な理由などではない。さらにそれから15年後の2000年3月の随筆「新・人間革命」(132)のタイトルは「黒潮踊る
和歌山の城」―建設は死闘 熱き命の勝利舞―である。
熱き情は味方となり、仇を持たせる振る舞いは敵となる。武田節の心情である。したがって単純に選挙に勝つことが、広宣流布の前進であり、師の仇討になると言う間違った方向に会員を誘導してはいけないのである。
確かに50年前は、戸田会長の仇討という名分があった。それでは現在は池田先生の仇討のために選挙をしていると云うのだろうか。
そんな単純な仇討論は、現代には通じないだろう。公明党は政権に与している。国家権力は仇討の対象ではなくなっている。それでは現在の仇は誰のことなのか?
選挙というのは権力闘争以外の何物でもなくそのままでは仏道修行にはなり得ないのである。
学会員がノーベル賞を貰える時代になり、その受賞者が恩師を池田先生とはっきり言えば仇討になるだろう。もちろんノーベル賞は一例に過ぎない。一人一人の学会員が成長し社会に貢献する姿こそ、本当の意味での仇討になる。
「得票数が広宣流布のバロメーターである」と言ったのは、勘違い男の正木君の言葉である。広宣流布の進捗は選挙の得票数とは何の関係もない。政治経済や政策という政治力学に広宣流布の理念をこじつけたデマゴーグである。
ここから下は未検討
同じ文章をそれぞれが異なる解釈をして相手を罵る。日韓問題だけでなく解釈問題はあらゆるところで起きる人間世界のありふれた事象である。
SNSにおいても当然のように起きる。限られた字数で自分の主張をすること自体無理がある。したがってSNSという匿名の特殊な場で主張しあうことの虚しさ知るべきである。SNS
といえども所詮はLINEでのやり取りと大差がないことを承知で参加すべきである。
無意味なやり取りを、さも有意義なコミュニケーション媒体だと思い違いしている輩は、SNS上の議論や暴露記事に、存在意義を見出そうとする。
世の中には、紛争や諍いに引き付けられる人がいる。
真実を知りたがる人。
社会や組織に居場所が見つけられない人。
勇ましさと勇気を穿き違え、そこに美を感じる人。
SNSの投稿常連者に多い、この感性の持ち主。
投稿という罠に嵌ると、自身が泥沼に沈みゆくことになる。
かけがえのない日々の、仏道修行と生活の中にこそ、人生の素晴らしさがある。
けれどもそこに気づくのは泥沼に沈み切った後のことなのだろう。
しがみつくもので、よじ登るものでも、護ってくれるものでもない。さらに悪用してもいけないのである。自らの生活の基盤と人生を作り上げる地道な努力を為す人一人の横の連帯によって支えられるものが組織である。
そして組織を依報とし人間を正報とすれば、組織は人間を作り、人間は組織を支える関係になる。組織が人間を作るとは、その組織の存在目的によって所属する人間の人格形成に影響を与えることを意味している。
学会教学だけで仏教や日蓮仏法が分かった気になっている学会員の実態、本部の打ち出しや見解を全く無批判に受け入れてしまう体質、そこにあるのは単なる組織信仰を信心だと勘違いした人々だけの有象無象の集団である。とても広宣流布など思いもよらぬ姿である。御書や先生の思想・指導を根底から学び直さなくてはならないだろう。
使命とは何かを思うとき必ず思い出すことがある。
先生の勇退後会長になった北条さんは、会長になる以前から、就任した後も「学会と宗門の経理状態を健全にして透明化しなくてはいけない」「広宣流布のために出来る私の使命である」「金の乱れが、心の乱れになる」と常々言われ、N君と共にその着手を始めた。職員であり、公認会計士であったN君も必死で取り組んだ。しかし思いがけない北条会長の死に頓挫してしまった。
後任の秋谷さんは北条さんとは異なる見解であったからN君の挑戦も頓挫した。
N君は「使命なんて生まれながらにして持っているものではないんだ。やった結果の名称に過ぎないんだ。そのことがよく分かったよ!」と云い職員を辞して独立した。
私はこの時のN君の悲痛な叫びを忘れることができない。
歴史は勝者への贈り物何だろうと思ってしまう。東大に受かった人は「あまり勉強はしなかったよ」と。お金持ちになった人は「私はあまりにお金に執着はなかった」と。実業家や組織団体でトップになった人は「私は、役職や立場にはこだわらない」と。後からなら、何でも言える「勝者の自慢話」と「使命感」が、私は好きではない。
真実と真理
絶対に明かされてはならない真実などない。明かされては困るのは嘘と知っている当事者と関係者だけである。しかし数十年もすれば直接の関係者など一人も居なくなるので、残るのは作られた歴史だけである。真実は常にいかなる真実であっても真実のまま残すことに価値がある。けれども真実そのものに価値があるのではない。すなわち真実も真理も価値基準にしてはならいと考えている。真理が価値基準にならないように真実も、そこから新たな価値を創造してはならないのである。
造られた歴史に学ぶものは無い。権力者だけが利用できる歴史であってもならない。真実も真理も自ら完全に自己完結されていると決定すべき性質である。
真実は人間の心の中に生き続ける。
事実は歴史の中で存在し続ける。
事実と事実の間を埋めるものは、その事象に関係した人間の心の中にある真実である。
心の中にあった真実は、事実の歴史からは見ることは出来ない。
故に、真実を歴史の中に表出させることによって
歴史の事実に深みと人間の生き様を浮かび上がらせる。
これが真実の存在価値である。
けれども
真実を受け入れるより
人は本人が信じたい嘘に
人生を捧げられるものでもある
誤れる恐怖は観念と形式の歴史にある。
真実を知る勇気だけが
この恐怖を克服し新たなる歴史の建設の槌音を鳴り響かせる。
人間とは何か。この問いかけに全てが集約される。
天地人
先生の沖縄指導に随行させていただいた。その時の新聞記事のタイトルは先生がきめてくださった。
「天に虹 地に名護の 友の舞」
天は「法」
地は「師」
人は「友」
「人生に大切なのは、良き師、良き法、良き檀那だよ。良き檀那とは良き友なんだ」と先生は言われた。私は、この法・師・友こそ現代の三宝だと心に刻み、わが身に給わったご指導であると思った。
法華初心成仏抄(550p)のこの文は、祈りの成就と法華弘通の実践に欠かすことが出来ないものであることを明かされたところである。
「末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり此等を能能明らめ信じてこそ法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ」「祈も又是く
の如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(550p)
仏法僧の三宝は、日蓮仏法においても尊重されるべき三宝であるが、世界広宣流布の実践にあっては、法(南無妙法蓮華経)・師(池田先生)・友(創価学会・同志)もまた尊重すべき三宝ではないだろうか。
ここで師について一言いっておきたい。日蓮大聖人は仏教の師である。そして池田先生は仏道の師なのである。
革命とは天命が改まることで、急激に変動する様をいう。変革は社会や意識が急激にあるいは徐々に変わる様をいう。すなわち天命は有徳者が天子になることによって起きる変動なのである。
大きな組織とその誤った行動を変えるまたは止めるには、自らの血を流す覚悟が必要だという。すべての革命が、血を流す覚悟から始まっている。血を流さなくては、革命は成就しないと思い込んでいる人たちがいる。そんな人たちが、テロや戦争を始める。戦うためにより強力で、効率の良い武器を手に入れようとする。そこで近代的な技術が使われる。
それがIT技術であったり、ネット技術である。これらの技術が悪用されるのである。本来、技術は人類のためという、人々を幸福にするためにある。
技術が導く未来は、人々に希望という光を与えるのである。
ところが彼らは、新しいコミュニケーション媒体(SNS等)の活用によるテロ行為をもっともらしい言い訳で正当化する。資金も組織も持たない人間がやれる戦い方は、他にないだろうと嘯く。
しかもSNSによる他組織への攻撃は、匿名のアジテーションである。雰囲気づくりと流言飛語の繰り返しによる情報操作に過ぎない。簡単に言えば、誰でも参加できるテロ・ゲームのようなものである。
昔、全共闘や全学連、新学同といった学生運動が、デモと罵声のアジ演説で日本の革命を目指したことがあった。そして挫折した。彼らの生き残りたちは考えた。日本を変えるには選挙で勝つ以外にないと。その戦いは、地方の町村議会から始めた。そして県議へと進み、さらに中央の区議・都議会さらに国政を目指した、新しい形の共産革命なのである。この趣旨に賛同して立ち上げたのが令和新選組である。確かにこれらの運動形式は、匿名のSNSでバカ騒ぎしているよりは、現実的である。
すなわち既存の勢力を持つ組織の変革を思うなら、SNSで煽りながら内部告発や内部分裂に期待するよりも新しい組織作りに生涯を掛けたほうが賢明である。仮に内部から変革の動きがあったとしても、SNSで煽っていた人たちを、信用し用いることは絶対にないと断言しておく。
第二の七つの鐘
1930年~1979年に第一の七つの鐘が終わった。次の七つの鐘の開始はいつからか。
1980年~2000年の21年間は学会にとっても苦難の連続であった。先生が勇退し、1991年には、SGIと創価学会の破門。1998年には正本堂の破壊。
第二の七つの鐘は、21世紀になった、2001年~2050年と言われているが、21年間の空いた期間の説明が必要となるだろう。しかも2010年には先生が倒れた。以後、闘病生活である。現在2019年の年末で、まもなく2020年になる。
第二の七つの鐘は、世界広布の戦いである。先生が世界広布の道筋と方程式を作り上げてくれている。先生が亡くなった後に受け継ぐ人は、創価学会の会長でなく、SGIの第二代会長である。第二代SGI会長こそ第4代創価学会会長である。原田や谷川でないことを祈るのみである。
その人がスタートを宣言する時が、第二の七つの鐘の開始であろう。
フェイク情報は何故在るのか。
ツィート、リツィートやいいねで拡散。人を攻撃できる人たち。ネットの炎上。
1、 自分のSNSアカウントのトップに警察関係、法律関係の方に相談し、対応中ですと掲載する。
2、 文例 ●●というアカウントは偽物です。発言や行為は全て無視してください。現在、法的措置を取るため関係機関と協議を進めています。●●というアカウントから迷惑行為を受けた場合はすぐにお知らせください。
3、 情報発信には責任があることを知らせる(正義感、悪意等関係なく存在する)
4、 リツィートする人は、タイトルだけで中身を良く読んで得ない(約6割)
5、 悪質なリツィートに対する損害賠償の判例(30、50,100万)
6、 ディープフェイク動画が簡単に出来る(2年前(2017年)くらいにアメリカで出現。とくに顔写真を変えてポルノ動画にする)(政治関連で悪用)
7、 ネット検索の罠。信頼できるネット情報は約1割。
8、 同じ考えの人が集まっている閉鎖的な空間(SNS)は誤った情報も信じやすくなる。これをエコーチェンバーという。学会系、反学会系のSNSでよく見られる。異なる意見を排除したくなる。
9、 エコーチェンバーから抜け出すことは難しい
ネットによる攻撃は、法治国家以前の村八部、自警団によるリンチと同じである。ネット空間という村社会におけるルールなき無法地帯は、未成熟な者たちが、未成熟であるという自覚の元に、新たなルール作りから始める以外に解決はできないだろう。
法的措置。慰謝料請求。デジタル・タトゥー。ネット・ニュース、フェイク・ニュース、削除依頼、弁護士費用。発信源の特定(匿名)、ディープフェイク動画が簡単に出来る。
エコーチェンバー現象
自分だけは正義。裁くのは当然といった思い込みが、他者への攻撃となる。エコーチェンバー現象はSNSという閉鎖空間だけでなく、ネット空間全体に生じてしまうのである。これを炎上という表現で胡麻化しているだけである。
世の中には様々な人がおり、様々な意見を持った人と触れ合うことが出来る。世界に開かれたグローバルでオープンな場で、「公開討論」のような形で意見を交換し合うことができるコミュニティがある。
一方で、同じ意見を持った人達だけがそこに居ることを許される閉鎖的なコミュニティもあり、そのような場所で彼らと違う声を発すると、その声はかき消され、彼らと同じ声を発すると、増幅・強化されて返ってきて、「自分の声」がどこまでも響き続ける。それが「エコーチェンバー」である。
エコーチェンバー効果
「エコーチェンバー効果」とは、エコーチェンバーのような閉じたコミュニティの内部で、誰と話しても自分と同じ意見しか返って来ないような人々の間でコミュニケーションが行われ、同じ意見がどこまでも反復されることで、特定の情報・アイデア・信念などが増幅・強化される状況のメタファー(隠喩)となっている。
この「エコーチェンバー」の内部では、「エコーチェンバー」内の「公式見解」には疑問が一切投げかけられず、増幅・強化されて反響し続ける一方で、それと異なったり対立したりする見解は検閲・禁止されるか、そこまでならないとしても目立たない形でしか提示されず、すぐにかき消されてしまう。
そうするうち、たとえエコーチェンバーの外から見た場合にどんなにおかしいことでも、それが正しいことだとみんなが信じてしまう。
フィルターバブル
Facebook、Google、Twitter といった会社は、ひとりひとりが受け取るオンライン・ニュースに、各個人に最適化された特定の情報を機械的に盛り込むアルゴリズムを立てている。(これが「フィルターバブル」を生じさせる「フィルター」である)。
このような個々人に提供するコンテンツを「ニュース提供元のサーバーで動いているアルゴリズムが、個々人がインターネット上に残したプライベートなログを参照しながら、閲覧者の興味を推測、それに合わせてニュースを選別(キュレーション)し、スマホなどの個人用情報端末を通じて提供する」という機械的な手法は、マスメディアにおいて「生身の人間の編集者が、個々人ではなく『マス(大衆)』向けに情報を提供する」という伝統的なニュース編集の機能に代わるものとなってきている。
フィルターバブル現象
インターネットの登場で、個々人の誰もが情報が発信できる「情報の民主化」が起き、これによって人類が地球規模で繋がるようになるという希望がかつてはあったが、結局はFacebookなどのソーシャルニュースフィードやアルゴリズムが、かつて人類が果たしていた役割を代行することになったがために、かえって人間同士の繋がりがバラバラになり、民主主義を破壊する事態を引き起こしている。
このように、インターネットにおいて世界中の様々な人々の意見と触れ合えるようになったはずの人類が、「マシンのアルゴリズム」の働きによって、逆に泡(バブル)の膜の中のような狭い世界に情報的に遮断されてしまう「フィルターバブル現象」は、個々人が「インターネット上に存在する、特定の偏った方向に同じ意見を持つ人間同士のつながり」にはまり込んだ(「マシンのアルゴリズム」の働きによって、はまり込まされた)ことによって、エコーチェンバーの中のような狭い世界に情報的に遮断されてしまう「エコーチェンバー現象」と、相関的にかかわりあっている。
インターネット・コミュニティ
インターネットのコミュニティは、一見国内だけでなく世界中の様々な考えの人々がいるように思えるが、実際のオンラインのソーシャル・コミュニティは、それぞれのコミュニティごとに考えが断片化しており、同じような考えの人々が集団として集まり、コミュニティを構成する全てのメンバーが特定の偏った方向に同じ意見を持っている。
ソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) のコミュニティは、コミュニティ内の人々における出所不明の「噂」を強力に増幅するが、それはコミュニティに属する人々が、自らの属するコミュニティの「公式見解」(コミュニティに属する人々にとっては、これは「真実」と同じ意味である)を考慮しない報道機関の記者よりも、自分たちの奉ずる「真実」を補強するために自らが属するコミュニティの面々が提供してくれた証拠類を信じるためである。
自らの奉ずる「真実」を自らがますます補強するという、エコーチェンバーのこのような
機能(エコーチェンバー効果)によって、エコーチェンバーの中では、そのコミュニティにおける「真実」への同調的意見のみが許されることになり、批判的議論が大きく阻害されることになる。インターネットに参加する人々がトンネルのように幅の狭い情報基盤だけをもち、自分の属するソーシャル・ネットワークの外側の情報に手を伸ばそうとしないのであれば、社会的議論や共有は困難になる。
インターネット上の言説においては、インターネット上のコミュニティ同士の見解の相違が特に注目されるが、実際は、ネットではなくリアルに存在する数多くの現実のコミュニティ同士においても、政治信条や文化的見解はそれぞれ違い、同じコミュニティ内の人々同士においてすら見解の相違があることも珍しくない。
特定のソーシャル・コミュニティ内の「総意」を元に「インターネットを使う全ての人はみな自分と同じ意見を持っている」と錯覚してしまうエコーチェンバー効果は、「実際はネットだけでなく国や地域社会といったリアル世界のコミュニティにおいても、それぞれのコミュニティの言語的感覚や文化的感覚は、自分の属するネットのコミュニティのものとは全く違う」ということを人間に気づかせることを妨げる恐れがある(twitterの仲間内で大ウケしたネタでも、次の日に職場の仲間に言うと差別かセクハラに認定される可能性もある)。
いずれにせよ、エコーチェンバー効果は、ある個人の現在の世界観を強化し、それを実際以上に正確で、広く受け入れられた考えであるかのように誤解させる。
文化的トライバリズム
インターネット上のソーシャル・コミュニティにおける反響、均一化の効果に関連して、同じように新たに出現してきたもうひとつの用語が、文化的トライバリズム(種族性、仲間・集団意識)である。
インターネットによって国や地域を超えて世界中の人々が考え方を共有する「グローバル社会」となるはずの時代でありながら、国や地域よりもっと小さい人々の集団である部族(トライブ)同士が対立していた原始時代に戻ったかのように、特定の考え方を共有するごく少数の人間で構成される極めて結束が強い集団同士が対立しあう社会を指す。まるで韓国や宿坊板、クジラ板のようにである。
池田先生は「勇退なのか辞任させられたのか」という問題をまだ拘っている人たちがいるらしい。
「辞任させられた」となれば、先生の判断行動は随他意となってしまうのである。
弟子の立場なら随自意である先生の判断行動に異を唱えることはないので「巍巍堂々の勇退」である。
弟子が勝手に憐れむ必要などない。弟子に憐れみを掛けられる師などいない。ましてをや、先生は法華経の行者である。ご自身の身に起きる全ての事態も覚悟の上である。
辞任か勇退かは、先生ご自身でしか言えないのである。先生はこの二つの言葉を使い分けて使っているだけである。
前にも言いましたが、師が弟子を護るのであって、弟子に護られる師はいません。もし師を護れる弟子ならば、その人は師より格が上なのです。先生を護れる弟子ならば、その人が本当の第4代会長なのである。
釈迦・天台に対する大聖人の如く、竜樹・南岳に対する天台の如く、初代・二代に対する三代の如くである。
大乗非仏説とか大聖人が直接説いてない御書は用いないと言ったら、聖書や摩訶止観も用いられなくなる。様々に検証して直筆のみに拘れば、キリストも釈迦も天台も大したことを説いてないという結論になって宗教そのものの存在も否定しなくてはならなくなるだろう。
学者としてはそれでも構わないのだろうが、それで彼らの本意、あるいは悟りを知る機会を失うことになる可能性がある。
口伝、伝承、言い伝えなどは、その解釈において、解釈する人間の能力(年齢、経験、知識量、表現力も含む)や時代、環境(記録媒体やアーカイブ能力も含む)によって異なってしまうことは、致し方ないと言える。記録媒体も文字も出版能力もなかった時代における教えの宿命なのかもしれないが、それでも、その中から真意を掴み取ることも大事なことだと思う。
文献や真筆にばかり拘るのは、かえって真意を捻じ曲げてしまう恐れを感じる。翻って現代の状況を考えると良くわかると思う。
録音媒体に記録されたものは、本人の記録ではあるが、口頭の対談や指導であっても勘違いや勢いやその場の雰囲気や時代環境、その他の要因で出版する時には訂正しなくてはならないこともある。公式に出版されたものが第一資料だとしても、やはり時代環境によって制約されたものであることは、免れないだろう。
間違いや勘違いがあっても、その時の本心や真意は、録音された本人の音声が最も良く伝わるものである。表現としての間違いや勘違いを認識し考慮して読み取ることが大切なこともあるだろう。
指導、教宣とは、話し手と聞き手双方のコミュニケーションの疎通が、最も大切なこともまた否定できない事柄でもある。これが「法」と「教」の違いでもある。
一機一縁の「教」とはいえ、仏の教説であることは違いないので、時として永遠不滅の「法」であると思えることもあるだろう。そのくらいに融通性があっても良いのでは考えている。したがって、先師の直筆でなくても法として、教として矛盾していないと思われるものは、先師の法、教として考慮すべきだと思っている。聖書も摩訶止観も同様である。
「以心伝心」とは口に出さずにコミュニケーションすることではない。心の思いを口に出して心を伝える行為を以心伝心という。心で思うだけではエネルギーは伝達しないのである。心は粒子の如く命の波にそって振る舞い作用する。エネルギーを伝えるものは粒子であって、波はエネルギーを伝達しない。
自身の心の粒子を以って、相手の心の粒子に働きかけることを以心伝心という。そんな人間の世界を耳根得道の世界という。
日蓮仏法は聞法下種仏法である。禅天魔に誑かされると、六識以外で行う修行しか修行でないとなる。
権威、名声、金銭を得るために、他人を欺けることが出来る人間がいる。嫉妬や怨嫉、悪意でも同様である。
しかしこれらは皆、原因ではない。人を騙し、欺ける人は、自分自身に備わる魔性とも呼ばれる感性をコントロールできないことが原因である。したがってこれらは皆、後から付け足した作用の説明に過ぎない。
魔性との戦いは、他人に対する関りかたで、他人のために何か出来ることはないかという思いしか勝利する武器はない。自分中心にしか物事を考え、捉えることが出来ない人は、この魔性の感性に振り回されることになる。
今の時代は明らかに狂っている。真面目な人は損をする社会。真面目はイコール要領が悪い、仕事が出来ないという評価。真面目以外取り柄がないと馬鹿にした表現が「真面目」になる。詰まらない責任感などなんの意味もない時代。
当然、他人のことを心配するのは余計なお世話で、自己満足に過ぎないと言われる社会。
男も女も昔の感性など全く通用しない。
自己中で要領の良い人が勝ち組と云われる社会なのである。給料の少ない男は、結婚出来ない。こんな男は、女も働くのが当たり前だと考える。そうでない男は、女房を食わしてあげているから感謝しろという。昔でいうところの愛人扱いである。
そこには貧しいながらも温かみと安らぎがある家庭などなく、夫婦でともに励まし、作り上げていく家庭の歴史など存在しえない。
女性の社会進出とは、パートで働くことではない。子育てが女性の役割と思っている男性社会にあって、女性でも社会で活躍したいと思っている人は結構多い。現実には男性よりよほど優秀な女性が多いのも事実である。
創価学会にあっても会員の激励など余計のお世話と思っている人が幹部になっていく。要領よく組織・世間を泳ぐ、利用していく人が勝ち組と称賛されていく。
公明党の議員もこんな人たちばかりになっていくだろう。支援することが馬鹿らしくなる。当選しても会員に感謝もしない。自分たちは、国のために頑張っているから支援されるのは当然だと思っているのだろう。
社会全体が鬱病に掛かっているような状況が見える。だから「頑張ろう!」というと「こんなに頑張っているのに!」と反発してくる。「頑張ろう!」がプレッシャーとなって襲い掛かるという。病気である。激励がお節介になる。昔にあった常識が非常識の時代である。
自己中の人間は楽観主義者になれるが、そうでないと全ての解釈が悲観的になる。したがって激励、励ましも勝手な解釈をしてくる。
自分にとって都合の良い解釈が思い込みに変わり攻撃的になる。まさにルサンチマン現象である。
そしてSNSにおけるトライバリズムとエコーチェンバー現象の狂った事象が、フェイクニュースの発生に輪をかけてエスカレートすることになる。
何故、こんな社会になってしまったのか。
人は一人では生きていけない。
人に感謝する気持ちを無くしてはいけない。
他人に何かしてもらったり、助けてもらったりしたとき
自分の信心の強さによって、その人を諸天善神にしてあげたという
発想を否定する気はないが、この時に気を付けなくてはいけないことがある。
仏に感謝するのと同じくらいその人に感謝することである。
この気持ちが薄れると宗門坊主と同じ過ちを犯すことになる。
諸天にさせてやった。してあげたのだから、功徳はご本尊からという上目線の傲慢さは人への感謝の心を失うことになる。
宗門が学会に感謝出来なかったのもそこに原因がある。
ご本尊へのご供養といってもその供養は
人間から人間への感謝の感応でなくてはいけない。
これは何も宗門坊主に限らず、学会幹部であっても同様である。
恩を感じ、感謝で応じることを報恩という。
会長以下大幹部の人たちの中で一人でも
学会活動してくれている学会員さんに対し、感謝している人がいるのか
私は甚だ疑問に思っている。
応じ方は人それぞれで良いと思う。決まったスタイル、ルールなどない。
こうしなければ、ああしなければ感謝でないと決めつけることには注意が必要だ。
えてして決めつける人の思惑が透けて見えることがある。
人間同士の感応のコミュニケーションこそ幸福な社会の源泉力なのである。
日蓮仏法にはその力がある。
宗教は「無力」で「不安の補完」にすぎないと主張する人がいる。主張の意味することは良く分かるが、皮相的すぎるだろう。皮相的な理解に留まってしまっている。
宗教も思想も哲学も皮相的に見れば「無力」であり「不安の補完」であることは、間違っていないと思う。しかしこれらは人に行動を促すことがある。そうなれば不安の補完ではなく現実の補完となる。現実補完は不安という仮想現実の補完よりは積極的に現実的である。
不安という誤った恐怖は、観念と形式の人生にあることを知ることが、末法の法華経の行者の本領なのである。
日蓮仏法を信奉するなら南無妙法蓮華経以外の悟達は必要ないのである。
「覚醒」「悟り」「悟達」「即身成仏」「宿命転換」「栄光の勝利」「人間革命」の姿とは、すべて南無妙法蓮華経のことであると信じることによって見えてくるのである。
日常生活からかけ離れた事象、現象だと考えるから日蓮仏法がわからなくなるのである。
日蓮の悟達を文献だけで判断するから、日蓮の主張は破綻していると考える学者もいる。真蹟と思われるだけの文献から日蓮の悟達を知ることは出来ないだろう。文献の中味だけを見て、釈迦や天台、妙楽、伝教等の文献と比較してしまえば、釈迦仏法の流れでしか日蓮仏法を見ることが出来くなる。それでは「日蓮仏法」という表現の意味すら理解できないだろうと思う。
公明党の存在と役割が終わった理由
公明党は民間外交だけでは収まらないときのために設立したのである。そして公明党が世界平和、広宣流布に役に立つ予定だった。
★19680908★池田大作先生は、日本と中国の国交正常化など、時代的にはきわめて先駆的な提言をされた。
★ 19700311 ★ 松村謙三(87)、松村進(子息)、川崎秀二(自民党代議士)と約一時間、会談(東京・渋谷区の創価学会分室〔現・東京国際友好会館〕)。中国問題について懇談。「ぜひ一緒に中国へ」と説得される。松村氏が訪中(20日)し、周総理からの「池田氏の訪中を歓迎する」との伝言を託される。〈「松村さんは、声を高くして言われた。/『池田さん、あなたは中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい。私と一緒に行きましょう』/そして『周恩来総理に紹介したい』とも。/私は『ありがたいお話ですが、政治家ではありませんので、どうでしょうか』と申し上げた。/『私は宗教者であり、創価学会は仏教団体です。今の中国は社会主義体制であり、宗教者の次元で行くわけにはいかないと思いますが、松村先生のご依頼は、よくわかりました。/国交を回復するには、政治の次元でなければできません。したがって、私の創設した公明党に行ってもらうよう、お願いしましょう』(中略)『私も必ず時期をみて中国にまいります』と、私は約束した。/『公明党のこと、池田さんのことも全部、周総理にお伝えします』と松村さんは言ってくださった。/断じて行くと―/松村さんが、戦後五回目となる訪中に出発されたのは、その九日
後のことである」(「池田SGI会長の世界の指導者と語る第四部第三十三回」平成12年10月29日付聖教新聞)〉
★ 19710628 ★周恩来総理、公明党第一次訪中団と会談(人民大会堂)し、冒頭、「くれぐれもよろしく」と池田会長への伝言を託す。〈第一次公明党訪中団は、6月19日から、中日友好協会代表団と、国交正常化の条件をめぐって討議を重ね、大筋では合意したが、アメリカのアジア政策に対する認識をめぐっては、合意に至らなかった。この日の会見で、周総理は、公明党の主張する日中国交正常化のための五原則(池田会長の提案)を支持。また、反米や日米安保条約の廃棄を条件とはせず、日本政府が、公明党の主張する(池田会長の提案)五原則を受け入れるならば、中国は国交正常化に踏み切ることを明らかにする〉
★ 19720929 ★「日中国交正常化」実現
その後の日中国交正常化に対する世間の評価をみても公明党が広宣流布にまったく役に立たないことが分かった。これらの経緯を公明党もマスコミも知っていたにも関わらず、全く無視したのである。
先生は深く失望した。以来、公明党に対し一線を引くようになった。
先生は北方問題も同様にしたかった。コスイギンは「先生が言われれば何時でもお返しします」と言った(随行していたS氏よりの報告を私が受けた)1975第二次訪ソ。さらに日ソ平和条約の締結へと向かう構想である。
しかし公明党に任すことに躊躇せざるをえなかった。このままでは日中国交正常化の二の舞にしかならない。
彼ら政治家は創価学会なかんずく池田先生の努力を全く無視して自分たちの成果にしたがる輩である。臆病な公明党の議員は先生の名前さえも出せないのである。
そして竹入問題(政界引退後の平成10年1998年、竹入は朝日新聞紙上で創価学会と公明党の政教一致を主張したり、「日中国交正常化」実現自慢話。党を除名される)が起こった。
この竹入問題は、単に一個人の自慢話では済まない問題なのである。
世界平和に何の役にも立たない公明党はもういらない。公明党の役割は終わった。
矛盾ってなんだ
道理が一貫してなくて、つじつまが合わない。自家撞着、自己矛盾。同じ人の言葉、文章が前後で食い違うことだが、人生なんてそんなものだろう。
一貫して変わらない生き方に拘ってきた。やり通したといえる人生だった。そのために犠牲にしたことは多くあった。一貫して変わらない生き方のほうが、辛く損する人生だったとつくづく思う。この方がよっぽど矛盾ではないのか。
自家撞着、自己矛盾の生き方をしている人の方が、要領よく得していると思える。人間の人生なんて矛盾そのものだと感じる今日この頃です。
頼んだことをやってくれたら感謝する。
頼んでもいないことをやっても感謝の押し売りをしないで欲しいと言われる。
そういう感性の人は、人の気持ちを察することができないだろう。
時たま優しいことを言ってもそれは人の気持ちや思いを察してのことではない。
自分にとって何かそう言う必要があったから発した言葉にすぎない。
人の気持ちを察して何かをすることができる人は
感謝して欲しいなどとは思わない。
だからこそ何かをしてくれた時には、素直に感謝する気持ちを忘れないことだ。
素直に感謝できる人は本当に優しい人である。
自分で判断することが出来る人を組織は、変わった人、変人、変わり者と観る。
何事も親や組織に依存する子や人は、自分で判断できない人間になっていく。
これは親や組織による虐待であり、人権侵害であると言える。
親や組織に束縛された生き方から逃げるのではなく、
別の視点で人生を歩む
そんな勇気ある生き方が大事なのです。
けれども自分の判断で選択する、判断する人生には、厳しい差別に会う覚悟が必要だった。それは、社会でも組織でも同じくらいの冷たさである。
貴方に希望や夢は有るのかと問われた。
十数年前までは、創価学会が広宣流布を実現してくれる。
そのために自分として出来ることをしていこうと思っていた。
したがってその頃は学会本部や青年に期待していたのである。
今は全く期待していない。
広宣流布が夢や希望ではなくなった。
そして人生の目標でもなくなった。
仏が広宣流布を願うなら今すぐにでも可能だろう。
でも仏がなぜ広宣流布を願うのか
仏にしてみれば広宣流布が実現してもしなくても変化はない。
一切衆生を救いたいというのが仏の願いだと思うのは
人間の勝手な願望であったのだ。
そもそも仏が願うという人間的な発想がすでに可笑しかったのである。
法である仏に対し三身という人格化は、人間の思い込みと期待に過ぎない。
仏法を広く流布したがったのは弟子なのであって、仏ではない。
だから仏の手前に人間の目標ともいえる菩薩が生まれた。
1990年初頭から始まったバブルの崩壊。
失われた10年を経て、2000年半ばから2010年までを含めて失われた20年と言われている。
この間の1993年(H5)~2004年(H16年)を就職氷河期と言われている。
この時期の大きな特色は努力が報われない時代であると言える。
そして失敗できない。
チャレンジのチャンスも無かった。
私の息子と娘は、この時代に青春を過ごし、就職活動をしていたのである。
そして現在は2021年である。
まだこの閉塞した時代を引きずっている。
誰でも自分が信じることや物事を、見たいと思うように見るのである。
だからこそ真実に目を背けてはいけないのである。
真実を判断の基準に出来る生き方をしなくてはいけない。
真実がいかなる真実であってもである。
私は池田門下生としてのプライドを持ち続けて生きてきた。
他人の批判や誤解による非難、差別はすべてそのまま受け入れてきた。
一度の弁解も主張もしたことがない。
そんなことぐらいで、私のプライドが傷つくほど、柔ではない。
私はひたすら真実を見つめ続けてきたからである。
仏は初めから衆生に対し
助けることも、見守ることも、鍛えることも、試すこともしていない
仏は初めから衆生に対し何も期待もしていないし、使命も与えてもいないし
自分と同じ境涯になって欲しいとも思っていない
仏とは人間が妄想によって作り上げた理想の人間像に過ぎないのだろう
衆生が仏に対し多くの期待と願いと誓願を立てたに過ぎない
衆生の勝手な行動と妄想はやがて仏への反乱と反逆に変化する
人間の悩みを解決出来るのは
人間自身の生命に存在すると思われる仏性を顕現して
人間自身が解決する以外にないのだろう
仏と仏性の関係性を説いたのが仏法なのである
苦しんでいる人と『いっしょに苦しむ力』
『いっしょに悩む力』
『いっしよに悲しむ力』
そんな力を持っている人などいない社会
そんな社会が作り出したネット社会
ホロコーストは
初めは人種差別から始まった。
初めに身体障害者
次にジプシー
最後は宗教弾圧である。
ユダヤ人という人種、民族があるわけではない
ユダヤ教を信じる人々をユダヤ人と呼んだ
ヒトラーとユダヤ教
戸田会長の選挙に対する思いは
幹部の生活の糧になる。国から給料を貰えて広宣流布の戦いが出来る。学会活動に明け暮れていた幹部には教員も多く職場での折伏が問題視されたりした。中には会社にいられなくなった幹部もいた。やがて議員になることが幹部のステータスになっていった。
池田先生が会長になり、4年後の1964年に公明党が結成されると大幹部は次々と候補者になっていった。彼らは議員になることに全く抵抗がなかったのも戸田時代の名残である。当時の大幹部で議員経験がないのは、池田先生と秋谷の二人だけであろう。
池田会長は戸田とは異なった次元で、徹底して選挙を活用したし、国家権力と関わりながら警戒心を持ち続けていた。国家権力に関わることが、なぜ広宣流布の実現のために必要なのか。池田会長の数々の思いの中でこの点を理解しないと学会と公明党の存在関係は理解できないだろう。
日蓮が末法の衆生の修行の仕方を考えた結果、真言や密教で使う本尊、曼陀羅の形式は使えると思ったのでしょう。だからと言って当然ですが、真言や密教を法として認めたわけではありません。したがって体裁を拝借したからといって法的に影響を受けたと思うのは間違いです。所破所用しただけです。
世界では南無妙法蓮華経も日蓮の存在も知られていない。そして仏教と言えば釈迦だと思い込んでいる学者、文化人、人々に対しまずは釈迦の法華経からなじませていく以外にないと言う人がいる。日蓮の時代ならそうであったと思う。日蓮は確かにそのような方法を用いたのだが、池田先生は少し違うのである。
確かに先生も法華経の智慧から日蓮仏法を誘引した方が得策だという発言もありますが、実際の先生の行動は日蓮とはかなり異なるのである。
現代に日蓮仏法を流布するのに釈迦仏法を利用する方法がポイントなのである。先生の行動と指導をしっかりと確認すべきなのである。現代のネット社会にあって単純に釈迦仏法を利用すると取り返しの出来ない事態を招きかねない。
仏法を弘通する方軌である四悉壇(四種の方法・理・成就などと訳す)。の一つに各各為人悉壇がある。仏が衆生の性質・能力に適した法を説き成仏させることをいうすなわち「各各為人悉壇と名くるや。人の心行を観じて、而して為に法を説くに、一事の中に於いて、或いは聴し、或いは聴さず」とある。また、天台は法華玄義巻一下に悉壇を「偏く施す」の義であるとして次のように説いている。「傍らには執を破せんが為にすれども、正しくは是れ信を生ず。善根を増長して其の善法を施すなり。故に各各為人悉壇と名く」とある。即ち、衆生の性格などによって自由に法を説き、衆生の善根を増長し、傍らに執悪(悪業に執らわれること)を防ぎ、成仏の境地に至らせることをいう。
この池田のやり方に宗門が噛みついた。末法では第一義悉檀を持ちなくてはいけない。池田は間違っていると攻めたのである。宗門は、池田本仏論で文句をつけられなくなったので、代わりに四悉壇をやり玉にあげた言い掛かりである。
先生は言いませんが私が推測するに「やれるもんなら遣ってみろ。この世間知らずの坊主どもが!!」の心境だったのではないでしょうか。
ペンで人を殺せるかなどくだらない問題だ。
ペンどころか言葉でも人を殺せるのである。
もしペンが剣よりも強いのなら、言葉はそのペンより強いことになる。
つまりペンだけでは人は死ねないのである。
人が死ぬときの最後のトリガーが人の言葉である。
現代のペンはキーボードなのだろう。
SNSで人を殺せると思うかもしれないが、最後は言葉が死への引き金になる。
そして言葉は遥か昔から人を殺している。
本部を退職してからは、本部の動きや人事、問題など全く情報が入ってこない。知らないことばかりである。大誓堂には一度いっただけである。会長が原田さんであることは知っているが理事長やその他のこと、先生の病気のことなど全く知らない。宮川さんが離脱僧であることは知っていたが、除名されたことは知らなかった。
彼の行動力は素晴らしいが、分野を広げすぎる感がある。脱講等の活動も大事だが、僧侶の立場を生かして海外の日蓮宗組織(NRI)の結成に重点をおけないのだろうか。
2002年ごろ職員の不正事件(金銭・女性問題)が多くなり本部は密告政治の時代になりました。秋谷会長は職員の全体会議で「気づいたことがあったら、何でも言ってきてください」と言っていた。その結果、官僚体質と保身の幹部が幅を利かす職場になっていきました。
第二次宗門問題、創価ルネサンスと時代は大きく動き、波乱の21世紀はスタートしました。
2006年7月から先生は本幹に出られなくなりました。そんな中、職員の除名問題は頻繁に増え始めたのです。
問題を起こした職員だけでなく組織に不満をもつ人たちに対しても、同様の仕打ちがなされるようになったのです。
秋谷さんはよく言ってました。「嫌なら職員をやめればいいじゃないか」と。意見を聞かず説得するでもなく切り捨てる。再折伏することもありません。
運営主義というより保身に走る自己主義の幹部が目立つようになっていったと思います。
先生が表面に出なくなると自己主義から一部の幹部は利己主義へと変貌していきます。
組織運営は、表面的な理由にすぎません。本部の変化は、現場の職員でない幹部にも波及するものです。
ある意味この動きは必然的な趨勢であってどんな組織も同様の経過を辿るのが人間の歴史です。
敵を攻撃することと味方を蔑ろにする心情は、紙一重です。当然、そこでは人権侵害も起きることでしょう。
2010年6月から先生は一切の会合にも出られなくなりました。
広宣流布の定義が8回も変わる中、平和と文化と教育の推進という社会運動と、広宣流布という宗教運動を微妙に交差させながら指揮を執り続けたのが先生です。
大石寺や創価学会がどうであれ日蓮仏法は間違いなく正義(しょうぎ)ですから、 ご自身の信じる道、やり続けていけることが大事でしょうね。
「学会員の一人一人が自覚ある行動と社会性を持つこと。さらに社会的に信頼され、それなりの社会的立場を得ていければ創価学会はさらに発展するだろう」という勘違いと無責任。
創価学会の社会的信頼性の無い原因は、創価学会自体が社会的責任を果たしていないからである。その責任を会員に押し付けてしまう論理は、執行部の傲慢さからくるものである。
一般世間の人々は、非創三原則の徹底に終始するだけです。
触らない
近寄らない
関わらない
非創三原則に対し学会本部は何の手立てもできません。先生が居ないと執行部の信心などこんなもんなのです。
「心身ともに極限の世界で戦っている選手たちを傷つけるような書き込みは許されない」と言いながら現実は、結果的に誹謗中傷の広がりに加担していくのがマスゴミです。
同様に学会批判に対する一般世間の認識もマスゴミによって意図的に誹謗中傷の広がりを助長させられてしまうのです。
藤井壮太棋聖・王位がAI将棋の人という。AIは結果だけを表示する。したがって過程は見えない。結果が自分と同じだと喜んでいるのは三流だ。その結論に至る過程が同じかどうかが大事なのである。そしてこれは将棋の世界だけの話ではない。
何を言ってもやっても批判したり、揶揄したり、馬鹿にしたりする輩は必ず現れる。
人の苦労や悩みなど関心もない。自分の気休めに血道をあげているだけである。
SNS等の匿名でのやり取りに顕著に出ること
投稿に対しにやたらと誉める、同調する
逆にあら捜し、やたらに否定する、批判する
どちらも本人にとっては気分転換にすぎない。
どんな意見や主張であっても批判や同調などはいくらでも可能ある。
その時の気分次第でどちらにもなれる
要するに好きなのであって趣味や遊びと同じである。
したがってどちらも大して意味を持たないし参考にも、役にもたたい。
夢や希望を広げるだけ広げてきた。
将来どんな世界が、どんな人生が開けているのだろうかと。
広宣流布が進めば、学会員の立場は大きく変わると。
しかし現実はそんな甘くはなかった。
閉ざされた世界の中では、外とは異なるルールが作られていく。
自分より不幸な人を見て安心するような人間になってはいけない。
役職が下の人が功徳を受けても妬んだり恨んではいけない。
人は皆、それぞれの人生と時代をそれぞれが生きているに過ぎなかったのだろう。
そしてそれでいいのだとやっと理解できた。
したがって今は、今の時代と人生を生きることが大切なのだ。
今を生きるうえで創価学会はいらない。学会活動も選挙も必要ないし意味もない。
真実の日蓮仏法を実践するだけでいい。
今を生きる理由は日蓮仏法が存在していることに気づいたからである。
広宣流布など仏がしたければ簡単だろうとつくづく思う。仏がしないで代わりに菩薩がしたいと願ったらしい。なかなか思い通りにはいかないものだ。
まず仏は広宣流布して欲しいなどと思っていないのだろうと思う。その意味を考え続けている。
それでは、日蓮仏法は間違っているのか。もしそうなら間違っていない宗教など一つも存在しないことになるだろう。宗教も哲学もその本来の在り方が捻じ曲げられて今日に至っているのが現実である。宗教や哲学の本来の在り方を明確にしておこうと思う。仏教とは、人生に希望を与えゆく『人間学』である。特別な現象や奇跡など説いてはいない。
しかしまず正しい行為が正しい人生を歩むための基本という考えが間違っている。人間の行為に正しいとか間違っているとかの基準など存在しない。そして功徳や罰に対する考えも間違っている。
自己啓発セミナーやある種の哲学、提言、箴言、ことわざまで含めて人間の人格形成に関する様々な智慧は、とても素晴らしいものだ。
けれどもなかなかこれらが説く教えを実践し続けることはとても困難である。
何故かと言うと対境があくまでも実践する人間だからであるからだ。仏教ではこの不安定な人間を対境にすると、定まる行為に成り切れないと説かれている。
仏道修行も人間は定まった心境で遣りきることが困難なのが現実です。そこで変わりない普遍の実体と法を必要としたのです。
さきほど挙げた数々の事象と宗教の違いは祈るという行為だけです。天台教学と自己啓発セミナーの主張はとても良く似た面と共通点があります。残念ながら天台教学も普遍の体と法を明かせなかったために様々な修行方法を説く羽目になりました。
普遍の定を定められなかったのです。したがって天台教学もセミナーと同様の結果になり、ひたすら末法を恋焦がれることになるのです。
祈るという人間の行為は実に重大な意味があるのです。祈る対境に人間は影響されるのです。
自己啓発セミナーや哲学には祈りがありませんから、思索と行動を促す相手は自分自身です。移ろい易い自身の心を見つめていると人間は迷いの坩堝に嵌り込みます。
なんの立場も資金もない人間に何が出来るのか。自分が正しいと思ってすることなら何処ででもやれることはある。ネットもその一つかも。一人の会員になった人間がやれることは。
希望はいつの時代も人によって示される。希望の人に誰がなれるのか。世界を平和にと叫びながら家族の幸せも成し遂げられない。一人一人の会員に寄り添うことなどできないのかもしれない。組織から離れて組織を生かすことなど出来ない。
正義と勝敗は何の関係もないことなど誰でも知っている。
世界平和という世界広宣流布の道標は、池田先生が全て語ってくれていることを思い知らされた。まさに余すことなく示されている。いまさら私が語ることなど何もないように思える。そんな先生の行動と思索と発言を遮るようなことをした者が何故罰を受けないのか不思議だった。広宣流布は仏が命じたことでも。希望したことでも、望んだことでもなかったのだ。だから先生を病気から救えなかったのだろう。
平和とは、女性の笑顔と子供たちの笑顔があふれる時代です。
文化とは、生き方であり、生活です。文化立国日本を世界に宣揚。
教育とは、真実を見抜く眼と聞き分ける耳を持てるようになる人間教育に。
平和・文化・教育の推進を主活動とする宗教、政党が必要である。
世界には色々な人が生き暮らしている。肌の色違いや様々な階層の人たち。さらにLGBTの人たちもいる。だけど、どんな誰でも地涌の菩薩である。姿形が違っても地涌の菩薩は地涌の菩薩である。
光こぼれて 梅はほころぶ
光ちりゆき 桜咲きみつ
家族とは、何があっても最後は戻ってこれる場所のことである。我がままで自分勝手でも、最後は許す。退転しても家族から一時は離れても、最後は戻ってくることを許す。そして受け入れるのが家族である。家族とはそういうものである。
奇跡は信じる者にのみ訪れる(バーナード・ベレンソン(米国の美術史家・美術評論家、1865~1959))
諦めるのはまだ早い
必ず生き延びる
どんな理不尽な目にあっても
差別発言は聞いた人の誤解という詭弁
その気が有ったか無かったかなどという視点では
発言の事実関係を否定できない
する気がなかったけど差別発言したことは事実(誤解ではない)
したがってする気がなかったけど差別発言をしてしまったことを誤る必要がある
その上で誤解を与えたことも誤る必要がある
する気がなかったことと誤解を与えたことは別問題
誤解を与えたことを誤っただけでは
差別発言をしたことを誤ったことにはならないのである
上司の決済を受けないで勝手に判断して行動する
そんな男は組織の反乱者であり
反乱者はいずれ反逆者になる
そう考えるのが組織の論理である
自分で判断する
自分でその責任を負う
そんな男は組織内で多くの負のリスクを受ける覚悟も受け入れることになる
これが現実である
責任を取らないで済むことを一番に考えられる人
そんな生き方が出来る人は、組織を大事に出来る人
異体同心こそ組織の要
でも現実は一人一人別の心を持っている
これを桜梅桃梨という
異体同心と桜梅桃梨を矛盾なく説明するために
共通の目的を設定する
それが広宣流布であり世界平和である
この非現実的な妄想こそ欠かすことの出来ないアイテムである
そこに存在もしない使命と使命感で花を添える
この妄想を現実のものにしようと億劫の心労を尽くしたのは
池田先生お一人であった
その先生を仏は
見放したのか、見捨てたのか
先生の功績に対してあまりに惨い仕打ちの数々
喜ぶのは先生を否定し批判している人ばかりである
そんな彼らも地涌の菩薩なのだろう
実相とは菩薩の様々な振る舞いといえる
諸法にも実相にも
何の期待も夢も希望も持てない
それでも人生は楽しい
不思議ですね
安倍元総理が凶弾に倒れた。
政治家が一国民に恨まれて殺された。
政治的信念や敵対勢力による暗殺ではなく単なる殺人事件である。
それでも国民葬にしたことは、恥の上塗りであり残念である。
逆恨みとはいえ一国の元総理大臣が
一国民に恨まれて殺されたという事実と事件を再確認することになった。
国民に慕われ尊敬される政治家など一人もいない。
真実には、醜い面が存在することが多い
本音にも醜さが存在することが多い
これは誰でも同じである
池田先生にも当て嵌まる
真実を隠したがるのは当事者だけである
真実は真実である故に尊いのではない
真実は真実である故に価値があるだけである
創価学会の真実とは
広宣流布とは人間の善意の収束である
人間の悪意は、想像以上に拡散していくものだが
善意は想像以上に拡散しない
仏は広宣流布を望みもしていないしさせようとも思ってもいない
したがって仏は、具体的に菩薩を応援もしないし、邪魔もしない
仏にしてみれば全ての国土を、仏国土にする必要も理由もない
仏から観れば、この世に出現したすべての事物・事象は、菩薩そのものなのである
故にすべての事物・事象は菩薩の振舞いに過ぎない
広宣流布という妄想によって全てを覆い隠してしまったことが真実である
人間の振舞いの真実とは
功徳を期待するから、罰も期待する
批判者に不幸があると同情と安堵感から折伏してあげようという慈悲の心の上目線
役職の下の人が功徳を受けると共に喜び合いながら不安と敗北感が募る幹部の日々
これらも全て菩薩の振舞い
真実の価値とは?
真実だけで価値がある
安利善の価値判断基準より考察すれば
安に利に善に乱に害に悪にも真実がある
真実とは事実と事実を繋ぎ間を埋めるものだが
物理的には法則だが、人間関係においては生命関係である
事実だけでは価値はない
事実でないことを記録した本でも価値あると認められることはよくある
事実が価値あると想定される条件は
① 健康や命に係わるとき
② 生活を支える経済に関わるとき
③ 安全な環境が脅かされるとき
④ 必要なコミュニケーションをとるとき(価値観を共有しない相手とコミュニケーションが必要になった時は事実を基準に対話すること)
これらの場面を想定したときは事実が価値あると判断すべきであるという
よく考えた条件であると思う。
しかしこれらの場面は、現象的な状況に過ぎない。事実が経過的事象のなかで存在出来たので価値を感じるだけにすぎない。
したがって本質的な価値ではなく感情的、情緒的、感覚的な価値判断にすぎない。
価値とは存在の価値である。事実かどうかを判断する基準が現実となる。現実の中で事実が存在すればその現実の中でその事実は判断する基準となる。
現実と事実の違い
事実と真実の違い
現実と事実と真実の違い
真実が残酷と感じるのは、その真実を知りたくない人間だけだ。
如何なる残酷な真実であっても、事実を変えることは出来ない。
誰かにとって知りたくない真実であっても誰かにとってはかけがえのない真実となることがある。
真実とは事実と事実の間を埋める関わった人々の心の中に存在するのである。
埋もれてしまう真実を事実の羅列の中から白日の下に晒すために探り出す。
余計な事なのか
無益な事なのか
時の流れと顕本の時を知り
真実を聞き分ける耳を持ち
真実を見抜く眼を持つこと
それが菩薩であることの証明であり
菩薩としての力用である。
あなたは菩薩ですか??
人格向上セミナーや心理学的システムでは、たとえやり遂げたとしても自分だけの自己満足に過ぎず、自分以外の誰も救うことも出来ない。身近な家族の悩みすら解決出来ないだろう。悩みを解決したければ私のように実践することだと力説する以外にない。
ある仏法の覚醒者はこのような人を天真独朗、理の一念三千に過ぎないと喝破した。
虐めは虐めをする人間が悪い。どんな理由があっても他人を虐める方が悪いのである。
虐められたらあの人に虐められたと言える社会が正しい社会の在り方なのだ。
しかし虐められてもいないのに虐められたと騒いで誰かを貶めることも出来る。
けれども他人を虐める人は、精神的に病んでいるのは事実である。
その人にカウンセリングを受けさせることが必要である。
ただ日本人と日本の社会はカウンセリングがとても下手なのである。
子供が人の癖を真似るのは、その人の気を引きたいからである。喜ばせることもあるし、怒らせることもある。
ユネスコはメディア・リテラシーと図書館界を中心に概念が形成された情報リテラシーを統合し、
ニュース情報を批判的に評価する能力としてのニュース・リテラシーや
情報・コミュニケーション技術を用いる能力としてのデジタル・リテラシーなどの
新たなリテラシーを包含した
メディア情報リテラシー(Media and Information Literacy)と呼ばれる用語を用いる。
ユネスコによる情報リテラシーおよびメディア・リテラシーの定義は以下の通りである。
***Literacy リテラシー, 識字, 読み書き能力, 識字率向上***
<<<この文章を読んですぐに意味が分かる人はすごい人ですね>>>
EUの定義は以下の通りである。「メディア・リテラシーはあらゆる技術的、認知的、社会的、市民的および創造的諸能力に関わるものであり、それらは私たちがメディアへアクセスし、その批判的理解とメディアとの関わりあいを可能にする。これらの諸能力によって私たちは批判的思考力を鍛えるとともに、社会の経済的、社会的、文化的側面に参加し、民主主義的プロセスへ積極的な役割を演じることを可能にする。」
メディア・リテラシーとは、民主主義社会におけるメディアの機能を理解するとともに、あらゆる形態のメディア・メッセージへアクセスし、批判的に分析評価し、創造的に自己表現し、それによって市民社会に参加し、異文化を超えて対話し、行動する能力である。また、用語としてのメディア・リテラシーはメディア・リテラシーの実践や運動を含む。
世界的に広く使われている有力な定義としては、NAMLE(全米メディア・リテラシー教育学会)やカナダのAML(メディア・リテラシー協会)の影響を受けて設立されたアメリカのCML(Center
for Media Literacy)、EU、ユネスコによる定義があげられる。
NAMLEの定義は以下の通りである。「メディア・リテラシーとは、あらゆるコミュニケーション形態を用いてアクセス、分析、評価、創造し、行動する能力である。もっとも単純な用語としては、メディア・リテラシーは伝統的なリテラシーを土台とし、新しい読み書きの形態をもたらすものである。メディア・リテラシーは、人々を批判的に思考し、かつ創造し、効果的にコミュニケーションするアクティブな市民にする。」[1]
また、CMLの定義は以下の通りである。「メディア・リテラシーは、多様な形態(印刷からビデオ、インターネットまで)のメッセージへアクセス、分析、評価、創造、参加するための枠組みをもたらす。メディア・リテラシーは、社会におけるメディアの役割の理解を構築するとともに探究に必須のスキルであり、民主主義社会における市民の自己表現に不可欠なものである。」[2]
日本人なら、わざわざ探し出してこないと「日本のピエロ」なんて記事見つけられないですよね
つまり朝日新聞系列であるAERA dot.はわざわざそういう発言を探してきて、伊藤選手が叩かれていることをわざわざ我々日本人に周知させているわけです
結びの一文。
「心身ともに極限の世界で戦っている選手たちを傷つけるような書き込みは許されない」
AERA dot.は、意図しているかしていないか知りませんが、現実としては結果的に誹謗中傷の広がりに加担しています
朝日新聞系列の人たちは自分たちだけが正しいという思い込みだけがマスコミ活動の支えになっているように感じます。
「『自殺するような弱い子を育てた』と周囲が言う。
―― いちばん悲しんでいる親御さんも、周囲から『自殺するような弱い子を育てた』とか陰で言われて、まるで悪いことをしたみたいに批判されることがあるようです。
『簡単に、命を絶つなんて』と、『簡単に』言うのです。その人の苦しみを知ろうともせずに……。
池田 言うまでもないが、自殺は絶対にいけない。生命は、宇宙でいちばんの宝物です。
どんな理由があっても、それを傷つけてはいけない。
他人の命も、自分の命も。そして、『生命は永遠』であるから、苦しみから逃れようと思って死んでも、苦しみは続く。
自分を傷つけたことで、いよいよ苦しみが重くなってしまう。絶対に自殺はいけない。
今、話しているのは、苦しんでいる人と『いっしょに苦しむ力』『いっしよに悲しむ力』が弱まっているという問題です。
今の社会でね、そういう力が弱まっているから、「命の軽視」という風潮が広がっているのではないだろうか。
だから、死んだ人を悪く言ったりしないで、生きている間に、みんなが敏感に、温かく、友を支えてあげなければいけない。
『命の大切さ』といっても、それを現実のものにするのは『愛情』であり、人間の『情味』です。『温かさ』『優しさ』です。
それがないと、口だけで、いくら『生命を大切に』と言っても、何にもならない。言えば言うほど、うそに、偽善になってしまう。
―― 彼が感じているのは、まさにそういうことだと思います。
池田 ともかく、私は、みんなに『温かい、親切な人』になってもらいたいのです。どこまで大きく、優しいのか、底が知れないくらい深い愛情をもった人になってもらいたい。
勉強すればするほど、心が耕されて、そういう人間になっていくのが、本当の学問です。勉強すればするほど、『冷たい人間』になるのでは、何にもならない。何も学んだことにならない。」
生きること 死ぬこと
「希望対話」(池田大作全集第65巻)より引用
人は誰でも嘘をつく
年を取ると嘘をつくのが面倒になる
悪党は幾つになっても嘘をつくのが楽しい人種だ
男の愚痴と女のささやきに本音の情が出る
勝海舟の一撃必殺隊、西郷隆盛の御用党
庶民や農民を人間とは思わぬ傲慢な所業
そんな人が歴史に名を残す
創価学会が世間に受け入れられない。
創価学会の常識が世間の非常識になると
世間が間違っているからと決めつける。
自分が正義と思い込んでいるからだ。
広宣流布は世間の非常識を変革することだと思っている。
いつまでたっても広宣流布はできない。
カルトは曖昧な言葉だ
何故かと言うと
カルトは宗教組織だけではないからだ
恐怖と終末思想
抱えこみと不自由さ
金銭・資産の搾取
社会(世界)への攻撃性
組織の閉鎖性
教義の狂信性
教義の狂信的崇拝
少数の熱狂的支持
これらの定義らしきものを検討すると、宗教組織だけでないことが分かる。
定義を何とか宗教組織に添うようにしようと苦心するインチキ評論家の足掻きが見える。
定義の中の教義の部分を会社あるいは組織と言い換えることによっても結構当てはまるものがある。
共産主義国家、独裁国家、社会主義国家や思想組織に観られる特徴だが
それだけではない
マスゴミの世界や一族経営の企業、ブラック企業も似たり寄ったりなのである。
全共闘最後の世代として左翼の思想組織と行動を間近に観てきた私の実感である。
昔、東大に法華経研究会なるサークルがあった。いまもあるのか分からない。私は昔から日蓮仏法の信者が、法華経の研究をしてもなんの意味もないだろうと言ってきた。日蓮の法華経は南無妙法蓮華経の七文字である。どうしても釈迦の法華経を研究したいのなら、その法華経から七文字の法華経を導き出せるまで研究して欲しいものである。同様に文献学から七文字の法華経を導きだせると思っている人もいるみたいである。
日蓮にとって釈迦の法華経は七文字の法体の解説書に過ぎないという考えである。したがって解説や説明からは絶対に七文字に至ることは無いのである。
法華経研究会なるサークルに一度だけ参加して思ったのは、このピントのずれた人たちは、何のために法華経を研究しているのだろうと思ってしまう。
2023年11月15日夜半、自宅(新宿区)で池田先生が亡くなった。
心より先生のご冥福とご家族のご健康を祈りました。
この13年間はなんだったのだろう。機械的にただ生かしていただけの13年間。先生が本当に亡くなった場合の予行演習期間なのか。その必要があったのだろうか。
実質的に先生は、13年前に亡くなっていたのと同じ状況であった。それでも「先生はお元気に執筆をされています」とオウムように繰り返す幹部たち。
結局、組織をあげて恩師のご快復を祈ることが一回もなく今日を迎えてしまった。
姿を見ることのない先生のご健康を個々の人たちは必ずご祈念帳に記して祈念していた。
とても残念である。
予行期間でどれだけの成果があったというのだろうか。先生が居ないことに慣れたというのだろうか。わずか13年で慣れてしまったのだろうか。創価学会などこんなもんなのだろうとつくづく思う。
悲嘆にくれないで次の戦いに全力でと言うだろうが、組織運営の長に過ぎない人の言うことなど聞く気にもならないのが、本音だろう。
自分で自分の行動は責任を持つ、
「真の信仰者とは自身の人生を自身の手で創造しゆく人のことである」とは先生の指導である。
先生が15日の夜半に亡くなられて17日に葬儀を行い18日の午前中に荼毘(火葬)が行われた。そして18日公表。なんと寂しいことか。しかも17日に家族葬で葬儀は執り行ったらしい。
創価学会は秋谷と原田に乗っ取られた。裏切られた思いが強かったのだろう。先生の意地でもある。創価学会に世話にはならないと。だから家族葬ですべて済ませたのだろう。
しかも先生が亡くなったことを17日にご家族から聞いたということなので18日創立記念日の聖教紙面は変更が出来なかった。
形だけの学会葬は、ご遺体もないまま形式的に11月23日、同時放送で全国の会館で中継を行うという。学会葬と言うより追善の法要に過ぎない。
先生の葬儀すらさせてもらえなかった現執行部。これが池田先生並びに池田家と現執行部との現実の姿なのである。
それでも創価学会の追善法要は11月23日に同時放送で行った。博正さんが、その席上で原田会長が中心(読経)葬儀らしいことをを行った。婦人部長が、17日の家族葬に参列したと述べたがそれが事実なら18日の聖教紙面は変わっていたはずである。すくなくても創立記念日の記事は変わっていたはずである。紙面差し替えの時間は十分にあったはずである。しかも何故、二人だけなのかの説明すらないのである。
博正さんにこんな嘘をつかせなければならなかった罪は重い。追善法要にはご家族は博正さん以外は誰も出席されていないのである。しかも原田、永石両名は、17日に葬儀に参加したことにしておきながら、先生とのお別れの様子の話がまったくない。先生の成仏のお姿はどうだったのかぐらいは、報告すべきだろう。最も嘘の報告は、後日必ずバレルだろうけど・・・。
池田家の家族葬だからといって誰も先生をお見送りしていないのでは学会員がなんて思うかを心配したのだろう。けれども先生はそれで良いと思ったはずである。
こんな嘘を博正さんに言わせ、婦人部長には奥様から一言頂いたとのことだが、いつのことなのか時系列がはっきりしない歯切れの悪い話し方しかできないのである。いずれはバレル嘘でも後日談としてならいくらでも言い訳できるぐらいに思っているのだろう。
先生は原田の会長交代を指示したこととご本尊問題に対する現時点での対応を指示したが、秋谷と原田はまったく無視したのである。もっとも一度は病気(喉頭癌)の再発を理由に会長を辞退する話があった。それを止めたのも秋谷である。他にも多くの反逆行為があった。
以来、先生は、秋谷、原田とはこの13年間で一度も面会していない。先生の思いでもあり、奥様は先生の思いを受けてすべての面会を拒否していた。
午後2時に行われた博正、原田の会見は、寒々とした雰囲気がそのまま出ている。
聖教新聞の19日付け1面
池田大作先生が霊山へ(大見出し)
師弟不二を貫き世界広布の壮挙(見出し)
原田の口先だけの薄っぺらな談話と、誰が書いたか知らないが奥様の中途半端で中身のない文面が空しい。
創価学会は終わっている・・・・・・・・。
先生はお元気のまま亡くなったと言うのでしょうか。
10月25日
天気急変…各地で雷雨や“ひょう” 雪が降ったように“銀世界に” 都心も大荒れ
秋晴れから一変、大気が不安定となった25日は、各地で急な雷雨となりました。
東京では“ひょう”のようなものが降り、文京区では地面が真っ白に。宮城・蔵王町でもひょうが降り、まるで雪が降ったように“銀世界”になりました。
11月7日
東京都心 27.5度 11月の最高気温 100年ぶりに更新。
2023/11/7 -【NHK】関東甲信は暖かい空気が流れ込んで各地で夏日となり、東京の都心では昼すぎに気温が27.5度と11月としての最高気温を100年ぶりに更新
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10月25日から約3週間後
11月7日から約1週間後
11月15日(水)夜半 池田先生が逝去されました。
11月15日(水)大阪・交野市では、まるで台風が接近しているかのような大荒れの天気となりました。宮城・女川町では午後10時半時点で1時間に50ミリの非常に激しい雨を観測。排水口から水があふれ出しました。
先生はたぶん亡くなる寸前まで交野市の創価学園(昔の女子学園)のことを思い出していたんだろうと思う。
11月15日(水)の東京は小雨のぱらつく肌寒い一日となりました。東京都心の最高気温は14.3℃と前日よりも4℃低く、昼間でもコートがほしくなるような肌寒さとなりました。
11月15日(水)夜は、低気圧の影響で北陸や関東の沿岸部で雨や雷雨となっているところもありました。北陸は大気の状態が非常に不安定で、16日(木)明け方にかけて落雷や竜巻などの突風にも注意が必要です。
16日(木)は大きく天気が変化しそうです。お昼ごろまでは晴れるところが多いですが、西から低気圧や前線が進んで来ます。九州から雨が降り出し、風も強まるでしょう。
16日(木)夕方には九州から雨が降り出してきそうです。南海上で雨雲が発生して北上してきますので、東海や関東でも夜には雨となりそうです。夜遅くには西日本や東日本の太平洋側で雨脚の強まるところもあるでしょう。
17日(金)は低気圧や前線が日本列島を通過しますので、全国的に雨が降り風も強く吹きそうです。低気圧の前面では南風、低気圧が通り過ぎた後は北寄りの風が強く吹くでしょう。17日(金)は全国的に雨風が強まり、荒れた天気となりますので、ご注意ください。
11月17日 家族葬で葬儀の一切を執り行ったのです。学会葬で先生のご遺体の葬送も行われずに葬儀は終わり18日午前中には荼毘に付されたそうです。
これがいまの池田家と創価学会執行部との事実関係なのです。先生並びに池田家の人々を蔑ろにする現執行部の哀れな姿です。
創価学会はこのまま継続しながら、徐々に衰退していくだろう。おそらく20年は持たないと思われる。それでもSGIは形を少しずつ変えながら継続していくと思う。ただアメリカ創価大学は継続できるかどうか難しいと思っている。
ニュース報道である幹部の話として、「後継者問題」と「空中分解」の回答として、「組織の長が変わっても組織運営の長に過ぎないので誰が会長になっても問題は起きないだろう。また先生のいない13年間と同じ体制と心境なので幾分慣れてきているから大丈夫だと思っています」と述べていた。