永遠の都

    永 遠 の 都 

 「きょうは岐阜まで遠出するぞ!」と数人の若者のなかのリーダー格の男が叫んだ。裂帛の気合のような迫力のある声音で、左手を突き出す仕種は芝居がかっていた。彼は決して右手を無防備に出すことはない。命令もすべて左手で行う。戦乱の世に生き抜く智慧がそうさせた。「槍も長いほうが安全である」と、通常の倍近い長さを採用した。
 「短い槍では、断末魔とともに振り回す太刀が、腕に当たる危険がある」
 「なるほど」と実践第一のリーダーの言葉に皆がうなづいた。
 弓術、剣術、馬術、水泳、槍術さらに鉄砲から鷹狩りまでなんでもこなすこの男にとって、すべてが戦争の為の術であった。したがって、織田軍法もたんなる戦術にすぎない。
そこには、「法」も「道」もなかった。そんな男だから、数年前にポルトガル人が種子島に漂着したときに伝えた鉄砲にもっとも興味が引かれたのも当然であろう。家臣のなかでは、橋本一巴がその才能を身につけていたので、一巴が男の指南役になっていた。
 その男は十三才になると元服し、吉法師という幼名から名を三郎信長と改めた。その翌年には三河の吉良大浜において今川勢と戦ったのが初陣であった。紅顔可憐の美少年であり、色白の瓜ざね顔でキリリとしまった目元口元の涼やかさは、美事な若武者振りであった。なかでも眼光の鋭さと良く通る音声は、戦乱の怒濤の中でさえ、ひと際光彩を放っていた。


 「いいか、よく聞け。我が領土は、駿河の今川義元と美濃の斉藤道三に挟まれ、常に滅亡の崖っぷちに立っている」
 斯波氏の守護代であった織田家の再興に頭角を表してきた父信秀もその窮地を脱することは難しかった。応仁の乱より続く内乱は、七十年近く経った今でも燻り、埋もれ火の如く燃え、火種となって残っている。京都を戦乱の巷に変えた大乱は、日本中に飛び火し、いまや強い者が勝ち、勝った者が正義といった風潮にまでなっていた。勝つためには、如何なる謀略、策略を用いても勝者の綴る歴史において正義となる。
 地に落ちた足利幕府の権威を回復しようと足利一族も必死なまでの工作をしていた。群雄割拠する戦国大名達は、覇権争いに明け暮れ、まさに亡国の現証を呈していたのである。大きく日本全体を見れば自界反逆であり、各大名の立場から見れば他国侵逼の災いが絶え間なく続いていた。主師親の三徳に敵対する人間の醜い心が日本全国に暗雲の如く垂れこめて、第六天の魔王や悪鬼がその頼りを得て、戦国武将の一人一人の身に入り込み世相を彩っていた。知らず知らずのうちに魔界の如き世がこの日本に現出していたのである。
 三百年前に「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と叫んだ鎌倉の僧日蓮が予言した格言のままに、仏教の乱れとともに出現した戦乱の様相であった。止まることのない戦乱の地獄絵図は、親兄弟や反逆者の一族を皆殺しにする有り様を見せつけられていた。さらに主君に対しての謀叛や反逆、謀略は武将の当然の行為の如く頻繁に起こり、それが不自然ではないかのように受け止められる風潮がのさばるという異常な時代であった。
 末法の初めの五百年に巻き起こった兵奴の果報は、上一人から下万民に至までその泥沼に埋もれていた。心ある人ならば、この現状を憂い悲しまないはずがない。この時代に日蓮が生きていたら、胸臆に憤悲して再び国主諫暁をしただろう。
 下克上の戦乱の世に青春を生きている信長にとって「弱小国とはいえ一国一城の城主である以上、戦いを避けることは出来ない。負ければ、死があるのみだ。余とともに命をかけて戦う者が何人いるか。余のために死んでくれる家臣が何人いるかが、戦いに勝つ要諦である。ともに尾張のために戦ってくれ」
 「はっ」と、若者たちは、目を輝かせて力強く返答しながらうなづいた。
 一昨年の三月、三河小豆沢で今川勢との戦いに破れ、敗走する織田軍を眼前にした信長は、お守り役の平手正秀の言う織田軍法も戦術も信用出来なくなっていた。いずれは今川か斉藤に滅ぼされることは目に見えていた。「父も正秀も間違っている」と確信を持ち、「尾張は俺が守ってみせる」という気概に燃えていた。
そうした折り、平手正秀の計略で美濃の斉藤道三の娘を妻に迎えることになった。形だけは美濃との和睦を果たしたが、「これくらいであの悪人と称される道三が、織田家を今川から守ってくれるなどとは信じらん。あわよくば今川義元と尾張を二分しようと企んでいるはずだ」と考えていた。若き信長の焦りは、日ごとに深まるばかりであった。
 兵奴の果報に満ちた戦乱の世に生を受けた者には、戦いを避けて明日の希望はない。希望がなければ自ら作るしかない。生涯、戦い続ける人が真実の勇者であることを十四才の初陣のときに自覚した。そして戦う以上「勝つ」以外にないことを痛感していた信長にとって、まだ四十を少し過ぎたばかりで、すっかり弱気になつていた信秀を軽蔑の目で見ていた。この時代に「戦いを放棄」した父を哀れと思うとともに「無責任な人だ」との思いが湧いてきた。戦国の武将であるゆえに弱小の領土とはいえ、戦いに徹しきれなければ滅亡するしかない。どんな条件であっても戦う以上は勝ってみせるのが戦国の勇者である。天を活かし、地を利し、人を動かすためには、創意と工夫がなければならない。戦争も進歩が必要である。進歩する人は迷いがなく、行動も明確である。反対に進歩なき停滞の人は、心が澱み行動が重くなる。
 信長にとって織田軍法には、進歩も現実味も感じられなかった。信長は、自身が思索し考案した戦術を実践で試して見たかった。勝つためだけの戦法である。そのためには、気取った武将の子としての身なりなど必要ない。表面的に領主を装ってみても意味がないことを知り抜いていた。
局地戦での槍や太刀の長さから人の配置まで工夫する必要があった。伝統の戦法では、この尾張には通用しないと考えた。お守り役の平手正秀とは、しばしば意見の違いで衝突した。
平手は信秀の意を受けて、信長を一角の武将に育てようと必死であった。しかし信長は、形にこだわる父や平手を罵った。この二人も決して信長を軽く見ていた訳ではない。むしろ、底知れぬその器量の大きさを感じていたのである。
信長の独創性を否定したのではない。いかなることにも基本が大事であることを教えたかったのである。ところが信長にすれば基本など必要ないと思っている。彼らと信長とでは、基本の意味が異なっている。信長のいう基本とは、ただ勝つために必要な事柄であって、作法ではない。実践に役立つ兵法が必要なのであって、形だけ身につけさせようとするのは、単なる見栄に過ぎないと考えていた。
 「兵法というのは、現実に役に立つか立たないかが、肝要なのだ」
 現実の徹底した肯定に上に立つ価値判断こそ、信長の真骨頂といえる。不要なものを切り捨てる。不要かどうかを判断するのは現実の徹底した肯定から生まれるものだ。徹底的な否定は、否定する自身をも否定しなくてはならない。単なる親や家臣や現体制の否定、あるいは批判や反抗といった次元ではなかった。現実を肯定するから改革ができる。改革の出発点は現在にあるからだ。戦国の世に出現し、生まれながらにして戦う宿命を背負い続けた男の生き様であった。世間体を無視したり軽蔑しているのではない。現在、無意味なものを無価値とする価値観を明確に持っていたのである。
 「うつけ」「大うつけ」と陰口を叩かれようと信長は、ひたすら自身が信じる「勝つ」ための戦術を思索し続けた。尾張の国の隅々まで、すべての地形を知り尽くそうともし、その思索はさらに、戦いに必要な軍隊の育成とあり方にまで及んでいた。そのために、あらゆる仲間を活用していざ出陣の準備を備えていたのである。三間半の長槍といった武器だけでなく、衣装や鎧にいたる研究も密かにさせ、平地戦や山間での戦いの想定など疑似戦まで行っていた。尾張の若者を束ねるボス的存在になっていた信長の破天荒な行動は、平安のない時代の若者の心を捕らえたといってよい。尾張の那古野城の城主、織田信秀の
嫡子として生を受けた信長は、幼い時から戦国乱世の荒波にどっぷりと浸かることによって、その天賦の才に磨きをかけながら、活き活きとした青年リーダーへと成長していったのである。

 十六才になった信長は、昨年から病に伏せていた信秀より家督の相続を受けることになる。織田上総介信長の誕生である。家督は相続したが遺産の相続を拒否した信長は、後に清洲城の城主になってから正式に上総介を名乗るようになった。けれども常日頃の態度と行動と身なりは変わらず、家臣たちも「大うつけよ」と相変わらずの評価であった。そんな信長が、いつもの仲間達を引き連れて岐阜までの遠出を計画した理由は、昨年七月に鹿児島に上陸し、今年の春に周防山口の布教の許可をうけたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、岐阜に来ているという噂を耳にしたからである。
 その異国人は「目が四つあり、恐ろしい程の大男で、奇妙な出で立ちに不思議な呪文を唱える」といった噂であった。尾張の国からも相当数の好奇心に満ちた見物人が押し寄せたのである。当然、信長も好奇心を抑えることなど出来なかった。お守り役の平手は、当然のように制止しようとし、信長は当然のように無視したのである。
 岐阜に着くと彼らは、異国人の宿泊先に向かった。岐阜の町中は、群がる見物人や止めるのも無視して宿に入り込もうとする者まで現れての大騒ぎであった。このとき信長は、幾千里もの遠国から命を賭けて教えを広めようと旅する人間の存在に胸を打たれたのである。不惜身命の布教に賭けた男たちが目の前にいた。信長とって肌の色、目の色や髪の色等の違いは、さほど気にならなかった。
 <色が違うだけで、同じ人間である。大事なのは生きかたであろう。彼らに比べて日本の仏教僧たちは、なんと卑しく堕落した人間であるか><権力に迎合し、自身の安逸を貪る彼らは、食法餓鬼そのものである>と思った。そして世界の広さを実感したのである。異国の文化が、多感な青春期の信長に与えた印象は、強烈であった。
 帰路、仲間たちは初めてみる異国の人間に出会った興奮で喋り続けていた。けれども信長は、一言も発しなかった。無言のまま仲間と別れ、那古野城に戻ったのである。「教えを広めるために、なぜ、自身の命を賭けることができるのか」「彼らの命を賭けさせているものは何か」「彼らの心を支えているものは何か」これらのことが、頭の中を駆けめぐっていた。その夜、信長はなかなか寝つけなかった。朝方近くになってやっと眠りについた信長は、夢をみた。異国のバテレンが現れて信長にある暗示を与えたのである。この夢が信長の生涯を決する重大な意味を持つことになった。

 この時代、天下を統一しようと考える大名など一人もいない。天下には天皇と将軍が存在しているのである。領土を広げ、一族の安泰を考えるために、周辺の敵を減らすことに全神経を使う戦国大名達に、天下などという構想が思い浮かぶ訳がなかった。それは、武田信玄も上杉謙信も今川義元も毛利元就も、いわんや悪人、斉藤道三においておやであった。仮に天下を意識していたとしてもその場合の天下とは、足利将軍の下風に過ぎないのである。自身が足利将軍に代わって征夷大将軍となることではなかった。まして、自身が天皇より上位につこうと考える大名など一人もいる訳がなかった。
 信長が十八才になる二ヵ月前に信秀は死んだ。その報せを聞いた信長は、カッと目を見開くと一言呟いた。
「後、三年は持ちこたえて欲しかった」と。
「父も平手も俺の力を見くびっている。俺の心を見抜けない家臣達を抑えておくためにも、後、三年は生きていて欲しかった。まだ早過ぎる。いまのままでは駿河にも美濃にも勝てない」
無念の思いが腹の底から沸き上がっていた。着々と進めていた戦闘準備の体制が整い始めたその矢先の信秀の死は、以後、信長の天下統一への道のりを遅くしたといえる。信秀の死後、信長は、一族間の闘争に時間を費やすこととなる。「なさけない父だ」と思うと無性に腹が立ってきた。信長から見れば「戦わずして死んだ」という評価であった。父の葬儀にいつもの「うつけ」の姿で突然現れた信長は、父の祭壇に添えられた花々を鷲掴みすると遺体に投げつけたのである。呆然とする家臣を残してあっというまもなくその場を立ち去ってしまったのである。「うつけ」の噂は、ますます尾鰭がついて広まった。

 信長が二十才になる四ヵ月前、お守り役の平手が信秀の心を信長に伝えきれなかった自身の不徳を詫びて切腹した。諫死を遂げたのである。山口佐馬助親子との戦い方を見ていたであろう平手が、信長の剛毅と強さを目の当たりにしてもなお、自害した理由はどこにあったのだろうか。信秀についで平手の死は、信長の天下統一への構想に大きな足かせともなっていった。四月に道三と会見した。道三は、信長の手勢の軍隊を見せつけられて心から肝を冷やして仰天したのである。
そして、姑であり大国の領主である自分と対等の口をきくこの若き武将に、底知れぬ恐ろしさを直観したのである。なぜ「うつけ」の評価を受けながら平然としていられるのか、その理由を直観した道三は、自分の息子達との器の違いを感じた。その心証が顔に出るところが道三のいいところでもあり、信長もその道三の心を見抜いたのである。戦国乱世を生き抜き義父と息子は、まさに「阿吽」の呼吸で、互いの心をさらけ出したといえる。この二人の不思議な関係は、道三が息子の義龍に殺されるまで続いた。
 ところが、肝心の信長の重臣たちは、信長の器量を見抜けなかった。信秀が死にさらに平手までがいなくなっては、家臣のなかから信長に見切りをつける者も出てくることは予想に難くない。山口教継親子の謀叛も単にうつけの信長に見切りをつけての行動で、信秀の死が招いた結果に過ぎない。平手という抑えが無くなれば、その動きに拍車がかかる可能性は高まる。
その中で起きた最大の事件が、弟勘十郎信行の反逆である。時に信長二十三才。しかし信長にとり、織田家の内紛は無意味なことでしかない。信長の唯一の理解者と思われる道三が、長子義龍に襲われ敗死し、今川勢の尾張にかける圧力が増してきていたときである。
 「なぜ、俺についてこれないのか。信行では、尾張の先が見えているわ」と、愚かな家臣と勘十郎に対する怒りよりも情けなさで一杯であった。
 「大うつけ」と見捨てられ裏切られていく男が持つ剛毅の迫力と威光は、圧倒的であった。「大うつけ」がなぜ強く、殺されないのか。信長の自信に溢れた言動に重臣は眉をひそめたが、家臣は信頼し、畏怖し、尊敬もしていた。現実に信長と一緒に戦ったものは、信長を決して「うつけ」などとは思えなかった。それどころか信長が「勝つ」と言えば必ず「勝てる」という確信まで持てたのである。若き家臣らにとって信長は、「うつけ」どころが「英雄」であり「偉大なリーダー」だったのである。
この世代間の断絶こそ、後に信長自身の行く手を遮る様々な謀叛の因となっていくのである。けれども信長は、自身に課せられた天命を信じていた。周囲の者から見れば無謀な行為に見える様々なエピソードも、信長にすれば「ここで殺せるものなら殺してみろ」という大獅子吼であった。

 桶狭間の戦いに勝利するまでの七年間は止むを得ないとはいえ信長にとっては天下統一の足踏みにしか思えなかった。信長が単騎で戦場を駆けめぐるのは、信長にとって自身の存在の意味を賭けた戦いであった。そのためにも全戦全勝しかない。常勝将軍として指揮を取り続ける以外にない。この思いが頂点に達したのが桶狭間である。
 駿河の今川義元が、動いた。義元にすれば、内紛続きの尾張など一蹴して、美濃の斉藤義龍を討つための予行演習のつもりであった。このまま、京都に行く気など無かった。義龍を討った後に足利将軍に会えばいいと考えていた。十分な勝算があり、尾張はその通り道にすぎなかったのである。ところが信長にすれば、義元が尾張に入ることすら許せなかった。桶狭間の戦いは、本陣に突入することだけが勝負を分けると考えていた。地形はすべて知り抜いている。義元がいるところは尾張の領内である。旗本の場所さえ掴めればそれでよい。
 義元がそこに居れば必ず倒せる。本陣には正面からの総攻撃である。天の時、
地の利、人の和が整った。そして後は運を天に任せる以外にないと思うのは平凡な人の発想である。信長は違う。運を天に任せる訳にはいかなかった。勝たねば意味がないのである。このとき信長は、絶対に勝てるという確信があったのではない。それでは信長はなぜ、無謀ともいえる総攻撃を開始したのか。信長の確信は「絶対に勝つ」ではなく「絶対にここで死ぬことはない」というものであった。したがって桶狭間で形勢が悪ければ清洲に戻り、再度、総攻撃の時を待てばいいと思っていたのである。
 この「いま死ぬ訳がない」という確信こそ、これまでの信長の行動を決定するすべての基準であった。使命を天命に変えて行動する信長の心は、誰も知らない。信長は、自分に敵対する相手を自分の目と耳で確認する。謀叛や暗殺の噂があれば、必ず自分で確認することを躊躇しない。だからといって絶対的に自分しか信じない、他人をあてにしないといった頑な精神を持っていたのではない。信長にとって確認の作業とは、自身が信じる直観の確認に過ぎないのである。それは、暗殺や謀叛の噂だけでなく、朝廷や将軍という立場や京の都の現実にいたる全てに渡っていた。直観と信念から導かれた結論の確認作業という行為は、信長の理念と実践を現実の生きかたの中で現わした具体的な姿なのである。
 義元の本隊が尾張の領土に入ったときが信長にとって勝負の時であった。先発隊が何万いようとも、また尾張の出城や砦を攻撃していても関係ない。清洲決戦を主張する重臣達を前に信長は、軍評定など無意味であることを承知していた。殆どを雑談に費やした。しかし、重臣達は、自分達の意見に耳を傾けない「うつけの殿」に内心、愛想がつきていたのである。何の手だても講じられない信長に、無念と悲しさが込み上げてきた。時間も深夜に及んだので、信長は重臣達に帰宅するよう命じた。なんの結論も出していない。重臣達は織田家の滅亡が間近であると悲嘆にくれながら、「大うつけ」を蔑み嘲笑した。
 重臣達を帰宅させたのち、一人思考する信長は、午前二時ごろ、突然、敦盛の舞を舞始めた。「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」。舞終わるやいなや「螺を吹け」「具足をよこせ」「湯漬を持てい」と矢継ぎ早に命令すると、清洲城を飛び出した。後に付いてくる家臣は僅かに五騎であった。残された重臣達は思った。「大うつけ」が逃亡したと。何の勝算も準備もなかった。信長は、清洲から熱田神社までの三里の道のりを一気に駒を走らせた。

 桶狭間山の麓までこれたのも突然の豪雨のおかげであった。中島砦を出るとき信長は、眼前にある今川勢の先兵隊の後ろを迂回して進むか、脇を流れる川沿いの最短距離を一気に進むか迷っていた。そのとき信長の頬に一滴の雨粒がかかった。直後、信長は最短距離を進む決意をした。途中から雨足が激しくなり、山の麓に到達すると同時に雨足が止んだ。信長は、兜を脱ぎ捨てて馬から下りると天を仰ぎ微笑んだ。あとは山上の旗本を目指して突撃するだけである。信長は、総攻撃の大音声を発した。若き日のゲリラ戦の再現であった。信長のリンとした声は、信長を尊敬する家臣達には、いかなる雑踏の中でも聞き分けることができた。
 今川義元を討ち取っても信長は、有頂天になることはなかった。信長にとってこの戦は自分自身の閃く直観を信じた結果に過ぎないからである。尾張の存亡を賭けた命懸けの戦いといった悲壮感はもとより持っていなかった。戦う以上は「必ず勝つ」。義元が、油断していようがいまいが、信長にとってはどうでもよかった。あるのは、何時、仕掛けるかだけがすべてであった。信長にとって「時は今」と直観する「時」だけが重大であった。
場所もどこでもよかった。桶狭間は単なる偶然である。直観した時に自身が何処にいるかは関係なかった。負けて自分が死ぬことなど考えたこともなかった。時代の流れのなかで「時」を確実につかみ取る能力を持った男であった。時を知り、時を見抜き、時を創造する者こそ真の王である。織田上総介信長、二十七才。自らの天命を信じて突き進む天下一統の初陣でもあった。

 美濃を攻略した信長は、義龍の居城であった井ノ口城を居城にするために、尾張小牧山から移転した。今川、斉藤を滅ぼした信長にとっては、武による征服は先が見えてきたといってよい。そんな時に明智光秀と出会う。教養ある光秀の友として、細川信孝や和田惟政とも親しくなった。信長もまた経済、文化に目を向けつつあった。相撲も茶の湯も信長にとっては、文化であった。彼らに紹介された足利義昭は、越前の朝倉のもとにいた。信長は、この義昭を連れて上洛する。信長三十五才の九月である。
 京都で信長がやったことは、関所の撤廃と副将軍職等の申し出を拒否したことである。京都周辺でのいざこざや、献上物を捧げにくる人間に対してまるで興味を示さなかった。信長にとって国の中心であった京都は、新たな都の建設構想を思案する資料にすぎないのである。ただ「中心になる都の周辺に関所があったのでは、経済、文化は発展しない」という直観を実行しただけである。京都を五十日ほどの滞在で岐阜に帰ってしまうと、信長の機嫌と様子を献上物を持って窺っていた者たちを唖然とさせた。

 和田惟政からキリスト教の教えを聞くと、いま日本に滞在している宣教師ルイス・フロイスを呼んだ。いよいよ会見の時がきたが、このときは直接会わなかった。信長の心には、若き日に夢に見たあの異国の老人の姿が思い浮かんだのである。遠くからフロイスを観察した信長は、そこにまったく別人の異国のバテレンを見て胸をなで下ろしていたのである。その後、義昭のために二条城を造営することになった。その二条城の工事現場で信長は、フロイスと二時間にわたる会見をした。信長はそのとき十字架に架けられたキリストの像を食い入るように見つめていた。
様々な質問の後には、「この男はなぜ処刑されたのか」「辞世の句はなんと言ったのか」「歳はいくつだったのか」「この男は神か」「神も死ぬのか」といったキリストについて質問をした。
 天地創造の主と日本を創造した天照大神と同じようなものか。キリストと釈尊ではどちらが偉いのか。その後度々会見したフロイスに聞いた。キリスト自身に対する信長の興味は、かなり深かったといえる。さらに西欧の文化にも多大な興味を持っていた。

 堺・大津・草津に代官を設置することを義昭に要請したのも、信長の経済、文化の推進のためである。交通の要衝の確保は、安定した経済の発展と文化交流に欠かすことができないからである。文化といっても京風の文化などではない。信長の頭の中には世界の文化があった。小さい日本の伝統文化が世界の代表などではないとの思いは、単に新しいもの好きとか、伝統文化の否定といった次元ではない。日本人の知らない多くの文化の存在を肌で感じていた信長は、世界の文化の中心に相応しい都市計画の構想を常に念頭に入れて行動しているのである。関銭の撤廃、楽市楽座の励行、撰銭令、道路の改修、キリスト教
布教の自由、寺院・神社の権力と財産の制限といった、各種の改革を断行したのも同様の趣旨であった。

 信長の天下統一とは、単に武力による統一を意味するものではなかった。武力のみの天下統一では、新たな武力の台頭による恐怖が絶えず起こり、常に力の均衡によるバランスで保たれる社会となる。いい例が、応仁の乱より絶えず繰り返されてきた戦争の実態である。また、経済という富中心の繁栄だけでは、腐敗と堕落の社会になる。そのいい例が、京文化であり日本の仏教界の現状である。武力も富も必要だが、何方かに偏ってしまうことは間違いであることを信長は知っていた。そんな信長の天下統一の構想に打撃を与えるような事件が、勃発したのである。浅井久政・長政親子の裏切りであった。
 金ヶ崎の退陣のとき信長はなぜ退陣したのか。そのまま越前朝倉を攻め落とし、取って返して浅井親子を討てばよいと思うし、信長もまた一度はそう考えたと思う。挟撃されることを恐れるような信長ではない。戦国一の戦の達人である。ところが信長は、一気に岐阜に向かってしまう。家臣の進言を受け入れたのではない。信長の直観が閃いたのである。足利義昭があちこちに信長打倒の檄文をばらまいていることは知っていた。室町幕府の再興をかける足利将軍の政治的な行動を批難する理由はない。「勝手にやれ」というところである。しかしこの義昭を表向きは朝倉義景が支援していたが、影で操っていたのが浅井親子であることを直観したのである。同時に信玄や本願寺の動きが気になった。いま朝倉・浅井を討ち果たすよりも信長は、自身の直観の確認をしなくてはならないと思っただけである。一切の元凶をそこに見たのである。
 これ以後、十年の歳月、信長は再び戦乱の中に身を置くことになる。姉川での朝倉・浅井との戦い。翌年の比叡山の焼き討ち。さらにこの年から一向一揆との戦いが続く。そして伊勢長島での一向一揆との戦いに完敗し、さらに三方原で徳川家康が武田信玄に完敗してしまった。信長の包囲網が機能し始めたと考えた足利義昭は、挙兵した。しかしその二ヵ月後、武田信玄が没っした。その報せを聞いても義昭は、武田という田舎大名など信長に対する牽制役に過ぎないとの思いから、対して気にも止めなかった。朝倉も浅井もこの点では、同様の思いを持っていた。義昭が頼るのは朝倉・浅井の連合軍と本願寺であった。義昭再挙兵するも信玄没後三ヵ月後には、信長によって追放され室町幕府は実質的に滅亡することになる。その一ヵ月後には、朝倉・浅井を滅亡させた信長にとり、周辺で残された問題は、本願寺と一向一揆だけであった。

 長島一揆を鎮圧、翌年には長篠の戦いで武田軍を破り、さらにその年、越前一揆を鎮圧していった。しかしその翌年には、本願寺と義昭の連合軍が挙兵する。義昭は絶対に信長に降伏せず、足利幕府の再興に執念を燃やし続けていた。信長も義昭を殺すことはしない。大儀のある戦いは「美しい」と感じる感性を信長は持っていた。義昭を抹殺する理由が信長には無いのである。信長にすれば、浅井・朝倉に煽てられて足利幕府の再興を夢見た男の足掻きでもあるが、それなりに大儀名分を持つ戦いでもあるからだ。武田を滅ぼすと信長は、安土城の建築に着手する。
 その後に起きた紀州一揆、紀伊雑賀一揆なども本願寺からの嫌がらせ程度にしか考えていなかった。ところがここで、松永久秀が謀叛した。さらに翌年は、信長の重臣の一人でもあった荒木村重が謀叛した。下克上でのし上がった大名達とはいえ荒木村重は、決して愚かな男ではなかった。信長がこの二つの反乱に感じたことは「醜い謀叛」であるということだった。松永にも荒木にも、謀叛を起こす大儀がなかった。松永久秀は自害し、荒木村重は逃走して生き延びた。
 天正八年二月、信長は、朝、まだ日の出前に目をさました。数日前、播州三木城主別所長治ら三人の頸が安土に届けられた。播州は中国攻略の重要な要衝であった。これで、荒木や本願寺と毛利を分断できる。逃げまどう荒木と比べて、家臣の助命を願って割腹した別所長治。将の戦争責任を問われることが無かった時代にあって、新しい戦争の結末がそこにあった。この姿に信長は、「美」を感じたのである。殺したくなかったとの思いが脳裏をよぎった。「美」を感じる者には「美」をもって応えるのが信長の生きかたでもあった。
 寝床から体を起こすと隣の部屋に控えていた蘭丸に狩りの支度を命じた。名馬大黒に跨がると蘭丸だけを引き連れて駒を走らせた。白鷹を伴って、一乗寺、修学寺、松が崎山と終日の鷹狩りに多少の疲労を感じた信長は、一本の楠木の大木の下で休むことにした。そこで信長は、誰にというのでなく静かに語り始めた。それは、自分の若き日の思い出であった。側には森蘭丸が一人控えているだけであった。

 信長は、屋敷の庭に鷹小屋を造らせていた。鷹が止まる鷹槊の木は季節ごとに変えさせたが、春に止まらせる梅の木と鷹の組み合わせが一番好きであった。信長が鷹狩りに夢中になったのは、十六・十七・十八才ごろからであった。
 茶と黒と白という単彩は、的に一直線に突き進む的矢と鷹が織りなす妙観に欠かせない色彩として美を感じない訳にはいかない。鷹の羽を用いた矢羽根は、万葉から室町にいたるまで愛用されていたのである。鷹狩りや乗馬の稽古、それに弓の稽古に夢中になっていた、およそ三十年前のことであった。ザビエルという宣教師が来日し、キリスト教の布教を始めたころ、信長は岐阜に来ていたバテレンを悪童仲間と見に出かけた。
 その夜信長は夢をみた。弓の市川大介や鉄砲の橋本一巴、さらに兵法指南役の平田三位等を引き連れての鷹狩りであった。途中、楠木の大木のもとで休憩していた。そこへ一人の異形の老人が歩いてきた。
 「何者だ」
 信長の声に平田は、刀の柄に手をかけながら見構えた。殺気立つお供の存在などまったく目に入らない様子で、少しも歩みに躊躇がなかった。やがて信長の前に来ると立ち止まった。刀を抜こうとするお供を目で制した信長は、髭面の痩せた老人が日本人でないことに不審をもった。赤毛の宣教師、サビエルと同国人だろうと思った。
 「そなたはバテレンか」
 老人は、問いには答えず、流暢な日本語で
 「貴公は、世界を統一することが出来る選ばれし男だ」と静かに呟いた。
 「世界とは、日本国のことか」
 「いや、このような小さき島国なぞ相手にすることはない」
 「世界とは、広いか」
 「この国の何万倍もの広さだ」
 「わしがその世界の領主になれるというのか」
 「そうだ」
 信長は笑いを堪え「わしはまだ、この小さな国の主にもなってはおらん。どうすれば、世界の王のなれるのだ。答えてみよ」
 老人を睨みつけた。
 「わたしの言うとおりにすれば、世界の覇王になれる。そしてこの島国を、貴公の住む永遠の都として繁栄することも可能だ。明日の朝、朝日に照らされたこの楠木の影の先端の地面を掘るがいい」
 「成敗!」
 信長の発する声と同時に平田三位は、信秀より賜った愛刀を引き抜き、老人の首に向かって一閃した。あっという間もなく老人の首は、宙に舞ったように思えた。しかし、平田は、まったく手応えを感じなかった。勢いが余って数間先に転がった平田は一瞬、全身に恐怖が沸き上がるのを感じ、必死になって体制を立て直した。
 しかし、あの老人の姿は、どこにも見当たらなかった。
 「殿! あ奴は」
 信長は、腕組みをしながら目をつぶり、答えも身動きもしなかった。平田は、辺りを警戒しながら信長の前に膝まづいた。
 「ご無事で」
 「奴は気配を消したぞ。そちが切りかかると同時に消えた。異国の忍びか。突然姿を消した」
 目をつぶったまま信長は、独り言のように呟いた。他のお供の者も何事が起きたのかまったく見当も付かない様子で、呆然と立ち尽くしているばかりであった。
 翌日の朝、再び狩りに出た。昨日の老人の言葉が気になっていた。それは「永遠の都」という一言であった。楠木の先端部分の影をジッと見つめていた信長は「掘れ!」と鋭い気合とともに命じた。
 影の先端。手にしたものは何か。武器。鉄砲の火薬を大量に詰め込んで作ったような爆薬の威力は、一発で小さな山を平坦にした。武器を大量に複製して片っ端から敵を殲滅していった。あっというまに信長は天下人になった。ところが前にも増して戦乱の世となり不信と不安は増大した。武力による征服は、新たな武力の恐怖に苛まれた。これは「永遠の都」ではないと思った瞬間に、再び楠木の根元に佇んでいる自分に気づいた。そしてそこにあの老人がいた。しかし、まずは武力によって天下を納めよとの意味を了解したのである。
 二度目に手にしたものは何か。財宝。影の中間。財宝を使って天下を取った。しかし、財宝による腐敗の社会が現出した。以前にも増して混沌とした世に突入した。富が支配する社会は「永遠の都」ではないと悟った。武力の次は、富が大事であるとの意味か。信長は、三度目に老人に尋ねた。
 「天下を取っても少しも楽しくなかったぞ。お主は何者だ。この信長に何をさせようとしておるのだ。永遠の都とはなんだ」
異国の老人は、三度その姿現し、そして消えた。
 三度目に手にしたものは何か。影の根元。突然の天雷の閃光に打たれながら、神の来臨を感じた。楠木の大木は、縦に真っ直ぐに亀裂が走っていた。気を失っていた。遠くで共の者が叫ぶ声が微かに聞こえていた。

 目を覚ました信長は、暫くは自分が何処にいるのか、判断がつかなかった。何とも不可思議な夢であった。けれども信長は、ある確信が涌いてくるのを実感していた。<神が宿りし者、選ばれた者は、自分である>と。夢の中で二度にわたって天下人になった。そして三度目は、幻の天下ではなく現実に天下を取れという神の啓示であると信じた。世はまさに戦国の世であった。寝所でしばし黙考した信長の脳裏に幸若舞の一節が浮かんだ。「下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり」。幸若舞の一節が口に付いて出た。静かに立ち上がった信長は、舞始めていた。舞終わって信長は「一度生を得て滅せぬもののあるべきか。人生!無常なり」と呟いた。信長時に十七才の春であった。

 翌年に父信秀の葬儀が行われた。十六才で信秀の後を相続していた。信秀という父は、三郎信長の器量を見抜けなかった。いつ滅ぼされるか判らない小さな領土に固執する父に大いなる不満を持っていた。十四才での初陣以来、このままではいずれは滅亡するであろうという危機感が若き信長の心中を占めていた。小さい組織、軍隊にはそれなりの戦法があることを知った。それがゲリラ戦である。信長はそのための数々の工夫をした。それは武器から人脈にいたり、兵士の訓練方法にまで及んでいた。考えられる全てにわたっていたといえる。「たわけ」「うつけ」と批判されても一向に意に介さなかったからこそ成しえたものであった。
 その信長が遠来の異国の人間に接したとき、一番に思ったのは、世界は広い。鉄砲を伝来したポルトガル人やスペインから来たという宣教師達の故郷とは、如何なる所なのであろうかということであった。遙か命を懸けて海を渡って来朝した異国人の姿は、信長の人生観を根底から変えたといってよい。いまこの戦国の世に世界に思いを馳せて日本を統一しようと考えている武将など一人も居ないだろう。そんな矢先の夢のお告げに、自身の使命を自覚した。自分の運が良ければ如何なる戦いも負けることはないだろう。以後、信長は自身の命を賭けた戦いに邁進していったのである。万に一つ、命を落とすことがあるならば、自身の使命もそれまでであるという確信であった。信長の思い出話は、ここで終わった。
 「蘭丸。余に問いたい事はあるか」と信長は、蘭丸を優しい目つきで見つめた。普段の信長とは違うものを感じていた。
 何事にも性急ではあるが、けっして短気ではない。戦運が悪ければ忍耐強く、心気も広闊であった。激昂するときは凄まじいが平素は極めて率直で穏やかであった。酒も飲まず、食を節し、生活も清潔好きである。
 安土城を建設し、足利義昭を追放し、本願寺の問題もまもなく解決する。信長は、実質的に天下を平定したといえる。これまでに多くの信長伝説を聞かされてきた蘭丸には、目の前にいる信長と信長にまつわる伝説が直接結びつかないことが多かった。
 「遠慮は無用だ」と信長は、問いを促した。信長は遷延したり、前置きを嫌う。質問をするときも受けるときも簡潔を好んだ。
 「この話は、蘭以外にお話をなされたことは」
 「一度だけだ。その男は余のお守り役だった平手という家臣だ。翌日、自害した。余が二十歳のときだった」
 「茶の湯を愛するのはなぜですか」
 「自然を支配するのは人間の特権である。茶の湯は、自然が人間に支配された証でもあろう」
 蘭丸には意味が理解出来なかった。
 「先頭に立って戦かわれて、命を落とされるとは思わなかったのは何故に」
 「ワッハハハハ。よいか蘭!よく聞け!余の命が天命なら死ぬことはないからだ」
 「殿は、坊主が嫌いなのですか」
 「違う!余は堕落と傲慢を許せないだけだ。坊主が権力と結託することも許せん。ましておや余に敵対し一揆を煽動して農民や土民を戦に駆り立てるなどもっての外である。醜い!」
 「永遠の都とは」
 「余にもまだ判ってはおらぬ。フロイスに異国の城下町について詳しく聞いてみたが、判らぬ。小牧山に移転して新しい都を造ってみようと思ったが・・・」
 「安土のお城は」
 「異国の人間が訪ねて来ても恥ずかしくない都にしたいものだ」
 この時信長は、永遠の都とは何かが見えていなかった。
 「世界の覇王にとは、異国を攻略することですか」
 「判らぬが、余が死んだ後には家督を譲った信忠とともに、我が国を守ってほしいと思っている。そのために長政と光秀に信忠の後見人として期待していたが、長政は余を裏切った」
 「蘭、キリスト教をどう思うか」
 「はっ。右近殿に聞いたことはありますが、蘭には馴染めません」
 「そうか。左様であろうな」
 信長は、荒木村重の城を攻めるときの右近の姿を思い浮かべていた。右近という男は、表裏のある男だったのだろう。聖戦とか汝の敵を愛せとか言いながら異端者に対する激しい憎悪を内面に抱え、表面的には友好的な態度を崩すようなことは絶対にしない。戦国の世を渡り歩くことの旨さは、秀吉とは違った意味で身に備えているといってよい。右近は頭を剃って信長の前に来た。その姿を見て信長は、笑いを堪えて右近に荒木の攻撃の先陣を命じた。なぜ信長が笑ったのか。それは、キリストの教えを遵奉する信徒が坊主になったのでは辻褄が会わない。ルイス・フロイスと二十回以上も会見をした信長である。キリ
スト教の信徒なら、もっと別の方法があるだろうにと。他の戦国武将が降将するときの一時避難のごとく僧形になったのは、右近のサインであることを見抜いていた。「右近は荒木を裏切る。表裏のある男よ」と。荒木村重は、下克上の世にあって和田惟政を滅ぼしてのし上がった武将である。和田は、フロイスを信長に紹介した男であるが、高山の父は和田の家臣であった。その縁で右近もキリスト教の信徒となったのである。

以前から「テッペンカケタカ」と鳴いている鳥は、ホトトギスだと本では知っていました。日本では古来から様々な文書に登場し、杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑など、漢字表記や異名が多い。
鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える(q:時鳥#川柳)。(以下「 」内に引用とその解釈を記す。)  なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長) この句は、織田信長の短気さと気難しさを表現している。 「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉) この句は、豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。 「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康) この句は、徳川家康の忍耐強さを表している。 なお、織田信長七男の織田信高の系統の旗本織田家の末裔に当たる、フィギュアスケート選手の織田信成もテレビ番組のインタビューで、信長を詠んだ句への返句として「鳴かぬなら それでいいじゃん ホトトギス」と詠んで話題となった。これも、世代を越えた現代人としてのメンタリティを示した一句としても注目できる。



 屋敷にむかう帰り道。梅の枝に止まっていた二羽の鶯が突然鳴きはじめた。駒を止め、二人はしばしその鳴き声に聞き惚れていた。
 「蘭!」
 「はっ!」
 「鶯は、春を告げるという。春が来なくては鳴かぬか」
 「おそらく」
 「余ならば、鳴かせて見せるぞ。時を造ればいい」
 「なるほど」
 「猿ならなんというかのう」
 「・・・・・」
 「あやつなら、よく鳴く鶯をどっかから調達するであろう」
 「羽柴殿は、時を創造するのではなく、撰時する御方と」
 「狸ならなんというかのう」
 「・・・・・」
 「あやつなら鳴くまで待つか」
 「家康どのは、時流を見極める御方と」
 「いや。三方ケ原で待てなかった。あれほど余が動くなと申したのに。家康は時の流れに流されることに慣れてしまっておる」
 「・・・・・」
 「禿ならなんというかのう」
 「丹波殿は、茶道や歌道に長けた御方」
 ジッと考え込むように、空を見上げながら信長は「あやつなら鳴くも鳴かぬも己が道とでも申すであろうな」と呟いた。
 「・・・・・」
 「鳴くも鳴かぬも己が道か・・・。余が信長でなければ、余も光秀と同じであろう」
 信長の配下の武将に対する常日頃の思いでもあった。天下一統の戦の庭で、チャンスは与えるが、後は、己次第と一見突き放すような信長の言動は、戦国の世に生きた男の不動の信念でもあり、孤高の生き様でもあった。

 安土に平和楽土の永遠の都を現出させねばならない。この都が、武と富と文化の中心地に相応しい威容を備えてなければいけない。
 天下布武の次は、富の安定である。そして最後の仕上げが、天地創造神の再誕の宣言であると夢は語っていた。だからといって信長自身は、キリスト教を信じていた訳ではない。夢に出てきた異国の老人が、キリストであったとしても、それはキリストが余を必要としただけであろう。ただ信長は、この異国の文化に接して、世界の広さと文化を知ったことにより、日本も世界の一部に過ぎないことを実感していた。
 信長にとって日本の天下統一などどうでもよくなっていた。こんな小さな島国の統一など意識の外であった。ここが足利義昭や細川藤孝、それに秀吉、光秀といった人々との大きな違いであり彼らには理解出来ないところであった。世界統一と自然を支配すべき自身を見つめる信長にとって、僅かな小島を造った日本の神々やその子孫と云われる天皇の存在など、眼中にはなかったのである。宇宙の創造主であるキリストの再誕として、自身を位置づけた。キリスト教の教えに触れた信長の野望は、日本から世界へと目を向ける原因となった。信長は、キリスト教を認めたが、仏教を認めることは出来なかった。仏は、宇宙の創造主でもなく、権力者でもなかった。キリスト教には再誕思想はなかったが、自然支配の思想があった。その意味では、両方の影響を受けてしまったといえる。
 自身を神の再誕と考えれば、天皇も仏教も配下に過ぎないと考えてしまうのも当然であったろうと思われる。信長の野望とは何か。それは、一言で言うと「永遠の都」を築きたかったのである。神の再誕としての自身が築く永遠の理想郷をこの日本に築き、その勢力を世界に拡大していく夢であった。信長の支配欲は、仏教の流布した日本人の発想では出てこない。自然を天下を支配するために神は人間を創造し、自身を派遣したと考えた。ところが日本人は、仏教の影響で自然を敵対視はしない。自然と共生しようとする。禅宗から出た茶道もまた、その精神の一表現である。自然を重畳的に畳み込んで簡明さを強調することと、自然支配とは同じではない。けれども信長の目には茶道が自然支配の象徴のように思えるのである。
 本願寺顕如が石山から紀伊雑賀に移った。本願寺には、戦う大儀名分がない。信長は「絶対にない」と考える。大儀名分がない戦いは「醜い」と思っている。信長は醜い者を嫌う。醜いと感じた敵に対しては勇猛心を持って戦いに臨む。信長の判断基準である「醜」は、邪悪と傲慢である。「美」は、大儀と誠意であった。

武田勝頼が死ぬと信長の相手は毛利元就だけとなる。秀吉が毛利を攻めあぐんでいた。信長の援軍を要請することになった。信長は、自分の出番とばかりに承知すると、最後は俺が締めくくらねばならないと思った。いよいよ本陣の出立の時がきた。けれども信長の本心は、中国や九州あるいは四国などの攻略は、秀吉や明智で十分やれるはずだと思っている。また、それぞれが自分たちで工夫してやるべきであると考えていた。信長が考える武将のあり方は、この二人だけでなく他の武将にたいしても同じである。総大将で出陣したときは、信長と同じ思いあるいは信長の化身として戦うことを望んでいた。自分の配下として戦う以上、一人一人が信長である。自分の顔色を窺っているだけの男など必要ないのである。時には遣り過ぎたり、失敗したりと様々なことはあってもこの姿勢が或るものは許す。もちろん叱責することはあっても許す。そこに「美」を感じるからである。信長の価値観は「大儀の有無・美醜・利害」をその基準としている。「無・醜・害」は無価値と断罪する。それは敵になるとか味方になるとかとは関係無い。信長独自の価値観なのである。ここを理解しないと信長の行動規範が見えてこないのである。
 秀吉が備中高松城を攻めあぐむ様子は、とても援軍の要請を依頼するほどではないように思えた。秀吉は、信長に甘えたいと思っても雰囲気が許さなかった。秀吉に対する嫉妬からの諫言が、最近多くなっていることを肌で感じていた。その緩和策でもあった。

 秀吉は信長が二十歳のときに仕えはじめたので、人間、織田信長の一面を知り尽くしていた。その秀吉が、信長に対する危惧を抱き始め、日増しに強くなっていた。危惧とはいうまでもなく信長の野望についてである。また、明智光秀も同じ思いを持っていることを見抜いていた。ただ、光秀が信長に仕えたのは光秀四十一才のときで、信長はそのときすでに美濃攻略の後である。したがって秀吉と光秀の危惧は、信長の野望に対する解釈にかなりの隔たりがあった。それは、信長に対する対処にも現れている。秀吉は、毛利との戦を利用して信長を取り込む計画で、野望の阻止を図ろうとした。そしてあわよくば自分が天下人になることをもくろんだのである。一方、光秀は信長の気性を考えるととても取り込むことなど不可能に思えた。エリート官僚としての戦国大名の意識は、信長に代わって自分が天下人になることと、信長の天下の元で武将として一生を送ることを天秤にかけながら、その危機感を秤にかけていた。
 そんな光秀を足利義昭や細川藤孝は、信長抹殺の計画に引き込もうとしていたのである。しかし、光秀は足利義昭や細川藤孝に対して、信長ほど評価することは出来なかった。彼らのようなエリート官僚は、学も教養も家柄もない、野人の百姓に天下を取らせることなど考えるだけでも辛かった。その点、彼らから見た光秀は、一応、味方に付けることに躊躇する根拠はなかった。そして光秀が、秀吉に対抗意識があると判断して盛んに信長と秀吉の悪口を云っては光秀の反逆心と対抗心を煽っているのである。彼らにとって秀吉より光秀のほうが理解できる存在なのである。
 信長の野望を光秀は、自身が想像する以上の野望ではないかと漠然と感じ始めていた。単に天下人になりたいという周辺の武将や昔の栄華を取り戻したいといった義昭と同レベルの野心とは違う何かであった。信長様は何を望まれるのか。
 光秀は四人の信頼する家臣と雑談していた。明智秀満、斉藤利三、明智次右衛門、藤田伝五の四人である。
 「内府様はなぜ、御殿に冷たくなさるのでしょうか」
 「うむ、信長様は、光秀様をお嫌いになっておるのではないか」
 「そうかも知れんな。しかし、どうも織田様が考えることは理解しかねる」
 光秀は、上様が自分に辛く当たるのに対し、家臣とはちょっと違う解釈をしていた。
「安土の殿は、それだけ私に信を置いてもらっていると思っている。私に辛く当たっているのがその証左ではないか」
 「それにつけても秀吉殿には、甘過ぎる。無学の猿が図に乗りすぎておる」と腹の虫が納まらぬといった家臣の怒りがまた頼もしくも感じていた。調子者の猿が、織田様に擦り寄る様子を思い浮かべながら、信長の腹の内を探っていた。多分、殿は猿の野心など肩腹がいたいと思っている。手の平の上で踊っている猿に過ぎない。しかし、光秀は信長ほど秀吉を甘く見てはいなかった。けれども信長様がお元気のうちに猿が分不相応の野心を剥き出しにするはずがないことも分かっていた。
 「信長様は、近い内、必ず天下人になる御方だ」
 「左様でござる」
 「毛利も大友も攻略されることは目にみえている」
 「しかし、天下人になったら、少しは穏やかに治世をなされるかも・・・」
 「まさか。あの御方の御気性は、変わらないのでないか」
 「そうよな。安土の殿が、仏の如くになられたら見物よ」
 「だとしたら、天下人になられても鬼神のままか。まことに御方は戦人。いや戦神のような御方じゃ」
 「日本国を平定したら、次は、異国にも攻めるやも知れぬのう」
 それまで黙って聞いていた光秀にも判らないことが多かった。しかし、家臣の話の中にあった言葉が光秀の脳裏に突き刺さっていた。<戦神・・・><神・・・神・・・><まさか殿は・・・>
 様々な思索の末に光秀は、信長の野望を見て取ることができた。安土の殿は、何という野望を胸に秘めていたのだろう。まさに驚愕とともに恐怖が命のそこから沸き上がってきた。まさに想像を絶する野望であった。<何故、殿は、そのような野望を抱くようになってしまったのか>そのきっかけがどうしても判らなかった。<殿は天下を取るのではなく天地を造り変えようとしているのでは・・・>
 仏教僧への迫害や寺院の焼き討ちだけでなく天皇や将軍足利様に対する、蔑んだ態度と言動に思い至ると、それまで、見えなかった信長の心が読める思いだった。光秀の苦悩は、この時から始まった。相談する友もいない。内容があまりに突飛すぎて誰からも一笑に付されてしまうだけだろう。足利義昭にも細川信孝にも相談出来ることではなかった。信孝とともに足利幕府を支援してきた和田惟政も死んでいた。残るは娘婿の細川忠興だけであった。しかしもし信長暗殺に失敗したときのことを考えると娘婿にも打ち明けることが躊躇われた。失敗したときのことを考えてしまう光秀の性格は、行動の直前に躊躇する癖を持っていた。
 周囲の人間の云うような、信長の自身に対する冷たさや衆人の前でのからかいなど大したことではなかった。光秀の孤独感は、決して弱さを持っていなかった。自信と勇気のある戦国武将の誇りを持った強き孤独感であった。信長もまた同じ孤独感を持っていた。「うつけ」「大うつけよ」とまさに「バカ殿様」扱いと言辞を浴びてきた信長である。だからこそ、秀吉とは違う扱いをしても限度を知っていたのである。孤独を力と勇気に変える戦国武将の光秀を高く評価していたのである。
 光秀もまた信長の孤独を理解していた。したがって、信長の光秀や他の武将に対する行動や言動の意味するところを知悉していた。殿は足利義昭ような甘やかされた男とはまったく違う人間であると。けれども、安土の殿の野望を阻止するためには、抹殺するしかないと結論を出さざるを得なかった。もちろん自分のためではない。日本の未来のために我が身を犠牲にしても殿の暴走を阻止しなくてはと考えるようになっていったのである。神の再誕との自負を持つ信長に対し、その邪心を打ち砕かずして、日本を救う道はないと思った。しかし、自分にそんなことが出来るだろうか。今は五月。五月晴れの天空を仰ぎながら、日本の守護神たる神々が、自身に力を与えてくれるだろうか。人々は一日も早くこのような世相が収まって少しでも平安な日々を送りたいと心から願っていた。光秀もまたこの世に永遠の安穏の都を望んでいたのである。
 猿の援軍に向かうことになっていた。これで三度目である。今回はさらに、中国のつぎは九州である。そのときは石見と出雲を光秀に与えるとのお言葉であった。当然、丹波はお返しすることになる。石見・出雲は九州攻略の拠点にするつもりであった。信長は、毛利の攻略後、直ちに九州まで兵を進めるつもりであった。毛利を攻めるのに九州の大友を利用したが、九州自体はまだ信長の傘下ではなかった。信長の中国出陣の真意は、光秀にとって手にとるように見えていた。信長の思いである天下一統に寸分も狂いなく進行していたといえる。信長は小さい日本など一日も早く統一し、広い世界を早く見てみたいとい
う希望に燃えていた。
 光秀自身は、自分が天下を取ろうという野心は全くなかったのである。信長は「天皇など殺しても構わない」と言った。「大儀は我にあり。名分は我にあり」とし、さらに「天照大神に命じて日本国を造らせたのは自分である」という気概であった。光秀というエリート官僚武士が、この信長に危険人物というレッテルを貼るのは当然であった。官僚体質の人間の持つ誤った不安と恐怖は、その生き方である観念と形式の人生から生まれるといってよい。この不安と恐怖を打ち破るには勇気が必要である。ところが戦国武将の持つ勇気は生きるための勇気ではなく、死ぬための勇気であった。光秀は考えた。「日本のために、いつか抹殺しなくてはならない。殿が、右近のいうゼウスの再誕の筈がない」。
 神仏をも恐れぬ所業の信長に、光秀の暗く固い決意は、埋もれ火の如く心に燻り続けていた。坂本での出陣の準備を終え、丹波亀山城に入った。翌日、丹波と山城との境いにある愛宕山に参詣し、一晩参籠した。軍の神をまつる霊場愛宕神社である。光秀は二度御神籤をひいた。一度目は、自分の分である。次に信長の分も引いた。三度目に籤を引こうとして手を出したが、止めた。光秀が遊び心で引いた籤である。信長暗殺を迷っていたのではない。信長が持つ野望に対する恐怖は、名状しがたいものがあった。<なぜ、そんな野望を持てるのか> 光秀の常識を越えていた。この一点の答えがまだ出ていなかったので
ある。そもそも再誕思想は、永遠の生命観が基になっているが、右近の説くキリストの教えには無い思想であった。なぜ信長が、ゼウスと自身を同一視するようになったのかが不思議でしかたがなかった。答えを出せないことが唯一の弱点であった。しかし、この時すでに光秀の心は定まっていた。洛中を一望できる山頂より、京の都と初夏の自然を眺めながら光秀の心は醒めていた。晴々と天下、自然を眺めることが出来た。戦国武将が乱世の戦陣に出向く武者震いも気負いもなかった。
 毛利、大友の攻略とまだまだ働く場所はあった。信長に仕えて十四年。光秀は信長のもとで戦えたことを幸運だったと思っていた。本来ならその恩義に報いて一層の働きをしなくてはいけないとも思っていた。翌日、邪気を払う呪術のために、連歌の百韻興行を開いた。当時の武将がよくやる儀式の一つでもあった。いまは神無月ではない。日本を守護する神々はいま私とともにいる。
 「ときはいま 天が下しる 五月かな」明智光秀は決意した。

 本能寺が燃えていた。水色に染め上げた桔梗紋の旗印が躍動していた。まさか光秀が、自分を裏切るとは思わなかった。猿が自分の後釜を狙っているのは、判っていた。しかし、猿はそんな器ではないと多寡を括っていた。光秀は自分の後継者に育てたかった。足利義昭や細川藤孝が、光秀を持ち上げて同盟を結ぼうと考えていることも知っていた。けれども信長は、光秀が彼らの策謀の真意を見抜けない訳がないと思っていた。それでは信長自身は、光秀が裏切ることを予測できなかったのはなぜだろうか。信長は、浅井長政の裏切りも予測できなかった。どちらも信長にとってはそれなりの誠意を持って待遇してきたと思っていた。いな信長は、家臣や同盟を結んだ者との信義を重んじてきたし、取り扱いには率直でストレートであった。「時」を見抜く能力を持つ男が、「人」を見抜く能力に欠けていたといえる。ここに信長の自信と傲慢さが見られた。
 けれども信長は、この二人が好きであった。光秀も長政もいずれは信忠の後見人になってもらいたいと望んでいたのである。下克上の世とはいえ戦国大名のなかでも、信長ほど多くの反逆、謀叛、裏切りに会った大名はいないだろう。信長が行った反逆者に対する徹底した殺戮は、その歯止めにもなっていないといえる。却ってその恐怖心が、窮鼠猫を食むことになったのだろうか。荒木村重の例がそうだと言う人もいる。信長には、反省が足りないといえる。しかし、本当の理由は違うだろうと思う。華奢で撫肩の体型と背丈、さらに学者風の憂鬱な面影、そして少しトーンの高めな声の質や茶目っ気で派手好みが、現実の信長の立場とチグハグな印象を与える。
 ようするに、目上の人間からは軽く見られがちな男であったのだ。権威と権力があるからついてくるだけといえる。同世代より下の世代からは、受け入れられるが、周囲の人間に、特に、年齢的に上の武将からは甘く見られる傾向にあるのが原因である。ようするに現代のサラリーマン社会では出世の出来ないタイプの人間、苛めに会うタイプの人間に近いのである。
 「あんな奴が、なぜ、あんなに偉くなっているのか不思議で仕方がない。こ生意気な若造が、いい気になるな」と思わせるところがある。
 したがってどんなに苛烈な殺戮行為や懲罰を実行しても、恐怖より不信と不安を与えてしまうのである。信長にすれば自分の大儀と正義を理解すべきだと思い、周囲の人間は信長の態度と結果しか見ないのである。ここに世代間のコミュニケーション・ギャップが生じているのである。

 本能寺の急襲が、光秀の単独行動であることを知った信長は、天命の尽きたことを悟った。この日本国に「永遠の都」を築くことは、夢、幻であったことに気付かされた。
 <神は・・・この信長を見捨てたのか・・・> 
 「そうならば、是非に及ばず!」と叫ぶと、蘭丸とともに表に飛び出した。
 「光秀はあるか! 余が相手を致そう。出てまいれ!」
 信長の怒声は、混乱のなかであっても、あたりをシーンとさせる迫力に満ちていた。大抵の謀叛人や暗殺者なら、この音声に震え上がっただろう。光秀にも信長の声は届いていた。この後に及んでも光秀は、冷静であった。信長の声の響きに覚悟を感じ取っていた。
<信長様は、この本能寺で死ぬおつもりか。なぜ、逃げようとしないのか> 
 屋敷に火を放ち、混乱に乗じて逃げ延びようとするのは当然であるはずだ。織田上総介信長が、こうもあっさり覚悟を決めた理由が判らなかった。信長の呼びかけに、一瞬、迷ったが<時間がない・・・>「討て!」と短く、鋭く一声発した。
 光秀は、「時」の勢いと意味するところを見抜く能力に欠けていた。したがって信長の「時」に対する思考を理解出来ていなかったのである。ところが秀吉は、若い時から信長に仕え、信長の判断基準が「美と時」であることを直観していた。ここに光秀と秀吉の違いがはっきりと出てしまった所以でもある。
 音をたてて燃え盛る本能寺で、森蘭丸兄弟をはじめ七十余人が殉じた。信長五十年の夢は、初夏の日差しに消えた朝露の如く天に昇っていった。

 光秀にとって信長の死後の事はどうでもよかった。引き上げる途中、細川忠興や高山右近に「自分と一緒に天下を治めよう」と声をかけたがすべて断られた。一人として光秀とともにすると申し出た者いなかった。いかに信長の治世とはいえ、まだ先の見えない乱世でもある。しかし、それが原因ではなかった。
 光秀と体面したすべての武将の目に、光秀が天下人の信長を討ち果たしたという、野望の光を感じなかったのである。光秀は信長の重臣ではあったが、信長と対抗する勢力の持ち主ではなかった。信長を討ち取った光秀自身が天下に号令する気力持っていなかったことを察知されていたのである。光秀の目には信長という強力な男を倒したにしては、あまりに冷静であった。戦国の世を平定する炎の如き熱情が感じ取れないのである。それは、この男が信長を殺害したという事実をも疑問視せざるを得ないほどであった。
 光秀自身、自分が天下人になることなど考えてもいなかった。光秀はすでに五十五才の高齢でもあった。義昭や藤孝のように自分のことしか考えていない輩には、とても俺の気持ちは理解できないだろうと思った。彼らと組んで天下を取ろうなどと、本気で考えられるものではなかった。自分が天下を取りたいのなら、信長を討ち果たすと同時に、安土を急襲し、さらに家康を抑えながら、秀吉を討つために中国に向かうのは当然の予定でなくてはいけない。光秀ほどの武将が、このくらいの手を打たないで信長討伐を計画する筈はない。初めからそんなことなど考慮していないから、その後の行動が手ぬるくなってしまったのである。
 いずれは、秀吉の軍門に下るだろう。光秀は、信長とは違って秀吉を甘くみることはなかった。実際に秀吉が、中国から引き返してからは、誰も秀吉に逆らうはずがないと読んでいた。義昭等は光秀の先走りを呪っていた。そして、光秀を生贄にして自身を守ることに夢中になっていた。味方は少なし敵多しであった。山崎の合戦のときには、たんなる反乱軍になっていた。
 敗走の途中で夜盗の竹槍で刺されたときは、すでに死の覚悟していた。これで良いのだとの思いであった。城に戻って切腹するよりも自分らしい死であると思った。まさに五十五年の夢、順逆の二門をくぐることなく大道を全うした実感であった。それは、日本の危機を救ったという充実感に満たされていた。後は誰が天下を取ろうとも構わない。多分、秀吉が天下を治めるかもしれないなと思った。薄れゆく意識のなかで、猿が征夷大将軍になった姿を思い浮かべながら自然と笑みがでた。現の覚りを啓いた最期であった。


-完-