教学随想 ⑦ 池田思想と仏道修行についてー2-

 

教学随想 ⑦ 池田思想と仏道修行についてー 2 ー

池田思想を考える前に日蓮仏法について考えてみようと思います。
ーその1―で仏法とは①仏が証得した法のこと。「仏法とは一切法に名づけ、一切法は名づけて仏法と為す」と。②仏の知っている法のこととありました。しかしこれらの解釈は釈迦仏法の範疇なのです。
たとえば仏が証得した法を誰が聞いたのでしょうか。そして仏は誰にその法を説いたというのでしょうか。さらに仏は何語で語ったのでしょうか。大集経巻九の言葉は誰の言葉なのでしょうか。まるで仏が人間として出現し人間の言葉で語ったような言い方です。
また仏の知っている法だと誰が言ったのでしょう。そしてそれが仏が知っていたとまるで仏とお友達みたいなことを言うのですね。こんな定義で皆さんは本当に納得しているのでしょうか。
日蓮仏法でいう仏法とは、法としての仏のことなのです。仏が人間みたいな姿をして法を説いたかのように言うこと自体、仏法を捻じ曲げているのです。日蓮が言うように仏そのものが法だとすれば、その法を様々に表現したのが釈迦の八万四千の法蔵と言えます。
釈迦を仏にして釈迦の法蔵を解釈して仏の言葉と捻じ曲げていくことによって得する人が出現するのです。現代ではその人を坊主と言うのです。
釈迦も天台も日蓮も私たちと同じ人間であって特殊な能力を持った特別な存在なのではありません。
しかし日蓮は、仏と呼ばれた法を南無妙法蓮華経と命名し、法体としたのです。釈迦・天台もできなかった仏への命名をした人類初の人間です。したがってこの仏法は釈迦仏法と根本的に異なる故に日蓮仏法というのです。
仏法を教法に約した場合を仏教といいますので、仏の概念が異なれば仏教そのものも異なるのです。もっとも釈迦仏教では仏を定義しないで、その力用と作用を説明しただけなのです。したがって厳密に言えば釈迦仏法は存在しないと言えます。
仏法を教法に訳した日蓮の教えを日蓮独自の仏教といい、法華経文底独一本門・事の一念三千の南無妙法蓮華経というのです。また末法の教主釈尊として仏教の師と尊敬するのです。
釈迦仏法では八万四千の法門・法蔵があるといわれ、勝鬘経摂受章第四には「一切の仏法は八万四千の法門を摂す」とあります。この場合の仏法は、釈迦を仏として、釈迦が知っている仏法を解説した仏教のことです。
けれども釈迦自身が自分は仏の一番弟子と言ってますので、釈迦自身を仏にするのは行き過ぎでしょう。
仏道とは仏法を行法に約した場合をいいます。そして修行とは行を修することで、仏道を修め行ずる視点(如説修行)と仏道を実践する視点(仏道修行)の二視点があることはーその1―で述べた通りです。
この修行と実践の二視点の違いは、個人的に行法を修行することと対外的に行法を実践することという違いがあります。
対外的に行法を実践することには、行法の如く実践する教条主義的側面(折伏)と、行法の如く修行する経験主義的側面(摂受)があります。これを仏法的にいうと折伏と摂受となって、単なる教条主義から解放されることになります。
仏道修行の根本である摂折と仏道修行者が必ず修学する根本法である三学。その三学の内の「定」という根本中の根本を合わせて三つ目の根本が出てきます。三つあれば四つもあるかもしれない思うのは普通の感覚です。しかも根本中の根本である“定”の意義が一つではなく幾つもあったのでは、今度は意義中の根本意義などと言いそうな気配を感じます。どの根本を優先すべきなのでしょうか。これという保証がないので困ってしまいます。仏法用語を解説する時に、安易に根本という言葉を使いすぎなのではと思ってしまいます。
また三学は修学の対象であり学び修める必要があるとのことです。誰からどのように学べばいいのか不明です。学び方を教法より求めればまた定義や意義問題が発生します。そして行法より求めると三学自体が行法より導かれたものなので、こちらも定義や意義は、複雑になると思われます。
というのは仏道修行の定義の説明には、根本、方法、目的、肝要、本義、要諦、法則・規範、法財、確立、基本、実践規範、依処、道法、道程と実に様々な視点があってその都度適当に使い分けているように感じられるのです。ーその1―でも述べた通りです。
これでは言葉の定義を決めかねるほどです。このような様々な視点も日蓮仏法より見直すことになります。そのままでも良いのではという意見もあるとは思いますが、全く異なってしまうのです。そして池田SGI初代会長の様々な指導もまた日蓮仏法の視点からの指導なのです。
この三学の根本中の根本である“定”において先ほど述べた定義をもう一度見てみましょう。心を一処に定めて動ぜず、散乱のない精神作用及びその状態、三昧、禅定のことで、静慮の義、等至と定義されています。
いろんな言い方で表現され、それぞれに定義があって、さらにこれらの用語はいくつかに分類されて複雑になっていきます。
話を元に戻しましょう。静慮の義とは三静慮ともいい三種の禅定のことです。静慮とは慮を静め、心を明らかにして真正の理に達する意で、等至と同様に禅定の別名です。
① 法華玄義巻四上に説かれる世間禅、出世間禅、出世間上上禅をいいます。世間禅は有漏智(いまだ煩悩を断じていない世俗智のこと)を発するための禅定で、根本味禅と根本浄禅に大別されます。出世間禅は無漏智(煩悩を離れた清浄な智)を発するための禅定で、これに四種(観禅、練禅、熏禅、修禅)があります。出世間上上禅は更に菩提を得るための禅定で、これに九種(自性禅、一切禅、難禅、一切門禅、善人禅、一切行禅、除煩悩禅、此世他世楽禅、清浄浄禅)があります
② 色界の初禅天、二禅天、三禅天に生ずる初禅、二禅、三禅の三種の禅定をいう。倶舎論巻八(同二十九巻四一ページ)に説かれます
③ 倶舎論巻二十八に説かれる三等至(味等至、浄等至、無漏等至)をいう。等至は心身が平等で安らかな状態のこと。味等至(根本味禅のこと)は貪愛と相応して起こる禅定で、浄等至(根本浄禅のこと)は有漏の善心と相応して起こる禅定をさします。無漏等至(出世間禅のこと)は無漏智を得るための禅定のことです。

いかがでしたか。これらの分類や説明の仕方でどれくらい仏法が理解できたでしょうか。仏法の分かりにくさが何故起きるのかと言うと何十何百に分類してもいずれは最初の一つに戻らなくてはならないからです。
何故かと言うとその一つから派生しているからに他なりません。それなら初めからその一つを表明して説明すれば済むことです。ところが釈迦も天台もその一つを明確にしないままその一つの効能書き(教法)と処方した結果(修行の方法)を述べることに終始しただけなのです。
「定」という一つにこれだけの分類と視点を設定し様々な説明と解説、実例や実践方法を書き連ねれば「定」だけで一冊の本になります。けれどもいくら本を読んでも現実に「心を一処に定めて動ぜず、散乱のない精神作用及びその状態」に至る人がどれくらいいるのでしょうか。
当然このような精神状態は理想なのかもしれませんが。なぜ人間にとって実現困難な目標を仏教は説くのでしょうか。もっともこれは仏教だけでなく各種のセミナー、会社で行った新入社員研修等々も同様の経験をされた方は多いと思いますが、各種セミナーによる人格形成や人間関係、人間力等々の変革をシステム化して解説するプログラムも実現困難な目標という意味では、釈迦・天台の修行法に似た要素があるのです。
日蓮はこの三学を三大秘法として定義し直したのです。仏道修行の根本の在り方を変更したら、それ以降の様々な定義も変更せざるを得ないといえます。したがって日蓮の仏教は、一見、釈迦仏教の流れを汲んで出現した、釈迦仏教の末法における実践者のように思われてしまいますが、まったく異なる仏教なのです。
何が異なるのかと言うと仏の定義です。仏教の根幹部分である仏の定義を変えてしまったので、そのために釈迦仏教や各種の修行法を編み出した天台とは大きく異なる修行法となったのです。
日蓮の仏教や仏道に対し、総じて日蓮仏法と呼ぶのです。とはいっても日蓮仏法と呼称するのは創価学会と一部の日蓮宗だけなのです。釈迦仏法は日蓮が定義した仏を様々に説明したり、教法に約したりして八万四千の法門・法蔵で表現したのです。日蓮は、その仏に七文字の名前を付け、しかもこの七文字が、仏の法体であるとしたのです。
また法体とは心とも言います。諸法の心を妙法蓮華経といい、一切衆生の慈悲心を南無妙法蓮華経と定義したのです。南無妙法蓮華経の七文字は単に法ではなく法体であることの意味がここにあるのです。仏とは生命ではなく心だったのです。もともと仏教は生死の二道に差別なしと考えていますので、生きてる命と死んでる命を差別していません。
池田は私のようにあっさりと否定しません。大善生活も人間革命も仏とは生命という言葉も様々に展開して意義付けていって宣揚していきます。
仏の定義が変更されれば、根本等々の実に様々な視点も日蓮仏法より見直すことになります。末法今時では、四信五品抄に「問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」と説かれ、末法で初心の者の仏道修行は布施、持戒等の五波羅蜜の修行を制止して、南無妙法蓮華経と唱えることが法華経の根本意であることが明かされています。
日蓮の仏教における戒定慧の三学は、御義口伝に「第廿五建立御本尊等の事 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり」と述べられており、戒定慧の三学は三大秘法にあたると明かされています。
釈尊の仏教においては戒定慧の三学をもってその肝要としましたが、日蓮の仏教では、定は本尊、戒は戒壇、慧は題目となり、純円一実の妙法(南無妙法蓮華経)においては、三大秘法となります。
日興の上行所伝三大秘法口訣で、末法今時の戒定慧の三学は本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の三大秘法とされています。故に末法の衆生の戒定慧の三学は三大秘法の御本尊を受持して信行に励むことであり、受持即観心につきるのです。
四信五品抄に「問う末法に入つて初心の行者必ず円の三学を具するや不や、答えて曰く此の義大事たる故に経文を勘え出して貴辺に送付す、所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又堪ざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり」と、御本尊に対する信の一字をもって、智慧に代えて成仏できると示されています。
改めて三学について一言述べておきますが、詳しくは論文集の三大秘法論序説を参照してください。
① 戒は禁戒で、身口意の三業の悪を止め非を防いで善を修すること
②定は禅定で、心を一所に定めて雑念を払い深く真理を思惟して安定した境地に立つこと③慧は智慧で、真理を見究める認識作用で、無明を破して悟りを得る働きです
三大秘法とは仏道修行のため規範ではありますが、その実践は守るべき生活規範のことにもなっていくと考えられます。「能く仏道を行ずる者の身口意の三業の悪を止め非を防ぐ」の義でなのです。
依義判文抄に「凡そ戒は防止を以て義と為す。非を防ぐが故に淳なり、悪を止むるが故に善なり」とあります。凡夫といい仏といっても生命自体の差別ではなく、現象のうえでの変化相の差にすぎず、一切衆生の一念に普遍的に具わっているところの性具なのです。
日蓮は、開目抄に一生初地の即身成仏について「真言・華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし」と、種熟脱の三義をふまえずに、成仏を論ずることは無意味であると破折しています。
日蓮が法門は第三の法門というときの下種仏法は、釈迦仏法の亜流でも一宗派でもなく、日蓮が開祖(末法の釈尊・法華経の行者・末法の教主)となるという宣言なのです。
日蓮仏法を説くにあたって、釈迦仏法を用捨時宣しながら所破所用・所破借文してきたから、表現として釈迦仏法の影響下に存するように感じると思いますが、異なる視点と深さにおいて、釈迦仏法を止揚した別の仏法なのです。
故に南無妙法蓮華経を末法の法華経というのです。したがって日蓮の仏法が釈迦仏法の流れから学術的に見て、独創的(好意的表現であって、批判的な人は独善的という)であるのは当然なのです。
釈迦・天台が説き顕さなかった根本の法体に法号を与えたのが、日蓮であるという確信です。ゆえに衆生の修行の規範である戒定慧の三学を三大秘法へと展開させて末法化させることが出来たのです。 
この点を理解しないと日蓮仏法は、まったく理解不能の思想・哲学となってしまいます。日蓮を仏教の師と考えれば池田は仏道の師となるのです。

日蓮仏法を箇条書きにして要約すると次のようになります。

1、 日蓮が真の仏教の創始者(完成者)であるとの自覚
2、 根本仏とは法であり、法号を南無妙法蓮華経と名付けたことが日蓮の悟りである
3、 法体とは一切衆生の慈悲心であり南無妙法蓮華経である
4、 一切衆生に具わる諸法心は妙法蓮華経である
5、 末法の法華経は日蓮の下種仏法である
5、 日蓮の出世の本懐は、三大秘法の建立である
6、 三大秘法とは末法の戒定慧である
7、 三大秘法とは一切衆生の修行の規範である
8、 釈迦、天台・妙楽の教は所破所用、所破借文して止揚する
9、 教主釈尊とは、釈迦の釈尊一元論と同様の展開で、久遠元初、中間、末法となる
10、日蓮は仏教の師、末法の法華経の行者、末法の教主釈尊となる
11、人間の神格化(本仏論)、法の人格化(三身論)を否定する
12、報身仏とは人間が達成できる悟りの最高境涯の名称である

概略ですがとりあえずこのように定義しておきます。


それでは池田思想とは何なのでしょうか。池田思想とは何かを語るときに「創価教育学」を持ち出す人がいます。しかし創価教育とは牧口の思想であって池田の思想でも日蓮仏法でもありません。 池田思想とは、世界広宣流布の道標であり、その実現のための方程式です。日蓮によって導かれた仏道の方程式である三大秘法を、実践の方途として活用したのが池田です。故に池田を仏道の師と尊敬するのです。池田の卓見には、目を見張るべきものを感じます。三大秘法と世界広宣流布の関連を語らなくては、池田思想の本意は分かりません。

池田の悟りを端的に述べた言葉は
「平和・文化・教育の道は、久遠元初 以来 未聞の王道なり」です。
この悟りによって平和・文化・教育の推進運動が世界広宣流布の三学となったのです。
そして平和・文化・教育の推進活動が仏道修行となったのです。
詳しくは論文 三大秘法論序説で述べておきました。
SGIの設立と世界広宣流布は世界平和であるとの結論から、平和・文化・教育の推進運動が世界広宣流布の三学であるとの宣言こそ池田の出世の本懐なのです。

池田SGI初代会長の思想を箇条書きにして要約すると次のようになります。
1、 池田の悟りとは「平和・文化・教育の道は、久遠元初以来未聞の王道なり」である
2、 日蓮仏法の後継者であり、実践者である
3、 血脈とは広宣流布の血脈である
4、 広宣流布の血脈はSGIに流れている
5、 世界広宣流布とは世界平和であると定義
6、 SGIの設立は出世の本懐の建立のためである
7、 三大秘法とは人間復興の三学である
8、 池田の出世の本懐とは平和・文化・教育の運動が世界広宣流布の三学であり仏道修行である     9、 摂受・折伏の現代的展開を明示
10、人間性社会主義、地球民族主義、国連中心主義である
11、人間革命を止揚した人間復興の哲学である
12、人間の神格化(本仏論)、法の人格化(三身論)を否定する
13、池田は仏道の師、日蓮に次いで出現した末法の法華経の行者

色々考えられますがとりあえず上記のごとく定義しておきます。

池田思想によって世界広宣流布の道標というべき方程式は完成し、そこから導かれた解が、池田の行動そのものなのです。宗門からの破門宣告は、池田個人の破門だけではなく創価学会、SGIをも破門にしたのです。牧口・戸田が創った創価学会は、宗門と切り離して考えることが出来ない存在でありました。創価ルネサンスは、宗門と古い創価学会との鉄鎖を断ち切る宣言でもありました。そして正本堂の破壊は、一閻浮提総与の大御本尊との決別であり、宗門と古い創価学会との決別となりました。故に世界広宣流布とは世界平和であると定義することが出来たのです。
日蓮仏教とその中核としての三大秘法、その三大秘法の現代的解釈が池田思想の中核となったのです。そして平和・文化・教育の推進運動が仏道修行であると決定したのです。
さらに「平和・文化・教育の道は、久遠元初 以来 未聞の王道なり」と宣言したのです。三大秘法の順序性を認めると同時に、平和・文化・教育の円融性に順序性はないことが世界広宣流布運動の要なのです。
そして世界広宣流布は折伏の上の摂受・折伏でいくと宣言したのです。また世界広宣流布は各各為人悉檀でいくと決めて行動しました。さらに世界平和は国連中心主義でいくと決めました。
そのために日本を国連の常任理事国にするための民間外交を展開したのです。反戦・反核こそ平和運動の大船あり、四権分立構想こそ民主国家の眼目であり、芸術こそ文化立国の柱であると確信したのです。
池田は言いました「芸術は人間性を輝かせる光源である。芸術は人間生命から発する光線である。故に芸術は、平和の礎になる力用を備え持っている」と。「芸術と言う人間社会に生み出された現象のなかにも妙法の力用を見ることができる」と。一切世間の諸法に根源の実相を見るのが池田の力用でもある。
さらに池田は、「政治経済優先の時代から、政治経済の根底に文化を置く時代構築が世界平和への第一歩となる。そして平和・文化・教育の根底に人間を見据えていくことである」と。
池田が導いた世界広宣流布、世界平和の方程式とその解についてもう少し具体的に述べてみたいと思います。

世界広宣流布の方程式は、世界平和の方程式でもあります。
世界広宣流布の方程式とは「平和・文化・教育の道は 久遠元初 以来 未聞の王道なり」なのであります。

そして池田の行動原理がその方程式の解法となります。行動原理の具体的な行動を簡単に列挙します。

行動原理①平和活動
民間外交による世界の為政者との交流
日本を国連常任理事国に
平和交流と核廃絶運動
各国の指導者、識者との対談、交流、出版
世界54か国訪問
中国交流ロシア・ソ連交流
日中国交記念提言
1. 26SGI記念提言
国家勲章、各国政府・公共団体等からの受賞
名誉市民称号
国連支援 NGO登録☆ 創価学会がUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のNGO(非政府機関)に登録
国連支援 NGO登録☆ 創価学会がUNDPI(国連広報局)のNGOに登録
国連支援 NGO登録☆ SGIがECOSOC(国連経済社会理事会)のNGOに登録
国連支援 NGO登録☆ SGIがUNESCO(国連教育科学文化機関)の国際NGOに登録
国連支援 募金・寄贈など
国連支援 会談
国連支援 その他 ☆「原水爆禁止1,000万人署名簿」をワルト入イム国連事務総長に提出。
国連支援 その他 ☆「国連を守る世界市民の会」の設置を提案
国連支援 その他☆ 論文「国連の権限強化と世界平和への志向」を発表(『創大平和研究』)
国連支援 その他☆ 国際人道問題独立委員会の最終報告をSGIが翻訳し「地球・人間・生命」と題し出版
国連支援 その他☆ 湾岸危機のさなかUNHCRと協力し救援資材輸送用の民間航空機の援助を実施
国連支援 その他☆ 世界の識者6氏がイラクのフセイン大統領に平和緊急アピールを共同提案
平和緊急アピールを共同提案 国連支援 展示
反戦出版
反戦展示<「核兵器――現代世界の脅威」展>
NPOと池田平和財団の設立

行動原理②文化活動 
富士美術館の設立
富士美術館 国内展示
富士美術館 海外展示
民主音楽協会の創設と公演
民主音楽協会の84ヵ国・地域と交流協定
第三文明展各種展示会(写真等)
音楽隊、鼓笛隊の地域イベント交流
音楽隊、鼓笛隊の各種コンクールでの受賞
国連その他の文化機関からの受賞
海外での記念館(イギリス、フランス等)
各国の文化人、識者との対談、交流、出版
民衆次元での世界交流
NPOと戸田文化財団の活用

行動原理③教育活動
四権分立構想(四権分立こそ民主国家の眼目)
教育機関の海外交流
創価幼稚園創立(香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル、札幌)
創価学園創立(東京、関西)
創価大学創立(東京、アメリカ)38ヵ国・地域81大学と交流協定
アメリカ創価大学創立
大学・学術機関からの顕彰
学術・教育機関からの受賞
大学学術機関での記念講演
ノーベル平和賞受賞者アピール財団の国際諮問会議名誉議長に就任
各国の教育者、識者との対談、交流、出版
生命哲学の啓蒙運動
教育交流・学校交流世界のオピニオンリーダーの育成
NPOと牧口教育財団の活用

三財団の本部を日本にSGIの本部をニューヨークに設置する

行動原理から導かれた結果が方程式の解
方程式の解 ( 世界広宣流布とは世界平和のことである )
方程式の解から導かれた平和・文化・教育の推進運動とは
平和活動
核廃絶と戦争反対宣言
日中国交正常化
日ソ平和条約と北方領土返還
平和・文化・教育の円融体系の確立
池田平和財団とSGI平和ルネサンス賞制度
文化活動
宗教ルネサンスと異宗教、異文化との世界交流
民衆次元の世界交流
下部組織の宗教ネットワークと上部組織(オピニオンリーダー)のSGI二重組織化
戸田文化財団とSGI文化ルネサンス賞制度
教育活動
生命哲学の啓蒙運動(釈迦仏法→日蓮仏法、人革→人復)
創価教育(幼稚園から大学)の世界交流
創価教育 幼稚園をアジア各国に設立
アジア・南米における民主国家の意義を啓蒙
民主国家としての四権分立構想
牧口教育財団とSGI教育ルネサンス賞制度

私は日蓮仏法・日蓮仏教・池田宗で良いと思っています。池田宗を考えるうえで、初代・二代は考慮しなくても良いという意味です。
これは牧口・戸田両会長不要という意味ではありません。三代に受け継がれている師弟の絆と池田思想とでは、直接には結びつかないと考えたほうが正解であると思っています。
天台宗も慧文、南岳は考慮されていません。日蓮を知るために日蓮の師匠や関わった人たちを考慮しません。
また日蓮仏法を知るために釈迦の法華経や天台・妙楽の六大部を研究する必要はないのです。むしろこれら優先して研究することは日蓮仏法を捻じ曲げてしまいます。日蓮も「一乗の誹謗・謗法」と言ってます。そしてこれらからでは、七文字の法華経どころか、三大秘法にすらたどり着けないのです。
ただ戸田会長が亡くなられてから65年しか経っていません。そして池田は牧口・戸田会長を最大限に宣揚されています。
ただ100年、200年、300年先の日蓮仏法の研究者は創価学会の初代・二代よりSGIの初代会長を研究対象にすると思います。
そして日蓮仏法・日蓮仏教・池田宗と把握することが、SGIの歴史と思想を考えるうえで意味を見出すことでしょう。これが私の日蓮仏法史観です。故に池田思想の研究と実践こそ池田門下生の本道なのだと結論するのです。
この結論こそ「池田先生から我が身に充てて賜わる世界広宣流布の方程式とその解」なのです。

なおこれらの筆者の主張は、池田貴久氏以外の方の異論反論は一切受け付けません。筆者である私の独自の見解であることも明記しておきます。もし変更点や追加事項、削除事項等があれば筆者自身が納得したうえで行います。