教学随想 ⑥ 池田思想と仏道修行についてー1-

教学随想 ⑥ 池田思想と仏道修行についてーその1―

今回は仏道修行とは何なのかについて考えてみたいと思います。衆生が仏道修行して仏の境涯を得ることに何の意味があるのか。
そこから広宣流布をしようとする理由と意味を考えてみましょう。仏が本当に広宣流布をしたいのであれば簡単に出来ると思えます。それを衆生が菩薩行をして仏の代わりにするといっても仏は、広宣流布をして欲しいなどとは言っていないのです。
また仏道修行を妨げようとする衆生もいるらしい。天界の衆生らしい。けれども、やっと十善を尽くして天界に生まれた衆生なのです。もっと善根を積んで上の境涯を得たいと思うのが自然だと思います。他人の修行を邪魔することが修行であるなどという発想は、本末転倒です。この余計なお世話行為は、仏道修行のマッチポンプと言われています。
そこで改めて仏道修行とは何かを考えてみたいと思います。それは衆生である私たち人間が、何故、仏道修行をして仏にならなくてはいけないのか。衆生が仏になると日常生活がどんな変わり方をするのか。また衆生が仏になると仏にどんなメリットがあるのか等々です。
仏法とは、仏が証得した法のことだとなんとなく思われています。摩訶止観巻二上に「法界の法は是れ仏の真法」とあります。大集経巻九に「仏法とは一切法に名づけ、一切法は名づけて仏法と為す」と。また大宝積経巻四に「如来は嘗て、一切諸法は皆是れ仏法なり、諸法に於て善了知を能くするを名づけて仏法と為す、と説けり」とあります。この場合の如来は釈迦です。
けれども証得した仏とは何者なのかは説かれていません。誰が証得した法なのか全く示されてはいないのです。仏が証得した法と法を証得したから仏では意味が異なります。法は誰が証得しようとしまいと存在していると思われるからです。
だから「法界の法は是れ仏の真法」と言うのでしょう。証得される法とは仏の真法と呼ばれているものでしょう。そして証得するのは人間であって、仏ではありません。仏の真法を証得した人間を仏と呼ぶのでしょうか。それとも人間とは別に真法を現象として存在させた仏が存在するとでも言うのでしょうか。まるで天地創造の神と同じようにです。
真法を証得するのは人間でしょうが、人間も法界の法の一部、あるいは全てですから自身の存在を前提に自身の存在を証明しようとするのは矛盾を生じます。仏の真法とは仏が所有する法なのか、真法を仏と呼ぶのか不明です。この疑問は後程解明されるでしょうが、とりあえず疑問のままにして次に進みます。
すなわち仏法を教法に約した場合を仏教と言うのです。これには八万四千の法門・法蔵があるといわれ、勝鬘経摂受章第四には「一切の仏法は八万四千の法門を摂す」とあります。この場合の仏法は、仏教のことです。
それでは仏道はなんの道かと言うと人間が人間のために説いた成仏の道法のことなのです。仏法を行法に約した場合を仏道といいます。九界の凡身から仏界の極果へ至る修行の道程のことです。無上菩提(仏果)とも言います。
一般的に仏教とは、仏陀(覚者)の教説のことです。インドに生まれた釈迦牟尼仏の説いた一代五十年の聖教、及びそれに関する教理、経釈の総称と認識されています。そうすると仏教も仏道も人間が仏法を約したから出現できたものとなります。仏教も仏道も、仏法とは別に人間が人間のために説いた教法のこととなります。
本来人間の具えている種々の苦悩を克服し、仏になるための方途を示す教えが仏教だと言われています。この仏教の根幹をなしているものは、一切衆生の存在の根本にある生老病死の四苦をはじめとする苦の現実を直視し、抜苦与楽していく慈悲の法理です。
縁起と業を説き明かす因果の理法を説いて、万人が種々の苦悩、迷いを克服し、成仏という永遠の幸福境涯を確立することを目指したというのです。ここで成仏とは仏になるのではなく種々の苦悩、迷いを克服することになっていることがポイントです。さらに永遠の幸福といっても一生のことになっているのです。
しかし苦しみは人それぞれで、生老病死や八苦であっても、苦しみとは思っていない人もいることでしょう。
仏教では①苦の現状をとらえ②その原因③その超克④超克に至る道程、の四段階に分けて考えています。これを苦・集・滅・道の四諦といいます。人間には逃れることのできない種々の苦(生・老・病・死の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦を加えた八苦など)があることを認識し、その原因を無知、欲望、執着等の煩悩にあるとして八正道を示し、その結果、煩悩を断尽して永遠の平安の境地に至るとします。
八正道から煩悩を断尽する過程の飛躍、そして煩悩を断尽すれば永遠の平安の境地に至るという飛躍と無根拠。さらにこの過程で仏の役割が示されていません。
八正道は八聖道とも書きます。涅槃に至る八つの正しい道のことです。釈尊が説いた四諦のうち、苦諦・集諦によって苦悩の実状を認識しその原因を究明した後に滅諦にいたる修行法をいい、道諦のことです。
小乗教ではこの四諦の因果は真実に生じ、また滅すると説きました。しかし大乗教では因果の実有に執着する小乗の世界観を破して、四諦の因果は空無であって生滅しないとして、万法ことごとく空であると説いたのです。
更に空を前提として仮有である無量の諸事象を了別し、現実にあって誤らずに実践することを教え、法華経によって煩悩と菩提、生死と涅槃が一体不二であることを明かし、万法は作為なくありのままで中道実相をあらわし、常楽我浄の境地が得られると説きました。
しかし仏とは何か、仏の役割等を明確に説かないからありのままの人間が修行してもしなくても仏と同じと解釈されたりしてしまうのです。これを本覚思想といいます。
したがって仏に成ると言われても仏ってなんだと思うのが普通です。八万法蔵と呼ばれる膨大な仏典のなかでも法華経は一切衆生に対して平等に仏に至る道を開きました。けれども仏になると現実の人生はどう変化するのかを説かなくては意味がありません。すなわち仏とは何なのかを説かないで常楽我浄の境地が得られると言っても、現実の人生にあって常楽我浄の境地とはどんな状態なのか想像もつかないのです。
それでも仏教は仏道修行を説いているので、その内容を見ていこうと思います。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなければならない六種の修行のことを六波羅蜜といいます。六度ともいいます。法界次第初門(天台)等に説かれています。波羅蜜は梵語の音写で、波羅蜜多とも書きます。度無極・到彼岸などと訳されていました。
六種の波羅蜜はそれぞれ布施、戒、忍辱、精進、静慮、智慧と訳されていました。そのなかでも大事なのが智慧です。智慧は声聞の智慧、辟支仏(縁覚)の智慧、仏の智慧の三種があるそうです。この三種の智慧を菩薩が質直清浄なる心によって修し、一切諸法に通達し、邪見を取りはらって真実を正しく見極める智慧を得ることを般若といいます
仏の智慧とは、六波羅蜜の修行によって無余涅槃に入れば、その所有する智慧は一切を了知し得るものです。そして五種心(智慧実相、以下の四種は檀波羅蜜に同じ)を具足して修行すれば、無上菩提の仏果を得るといいますが、仏とは何か、無上菩提の仏果とは何かの説明が全くありません。無上菩提の仏果を得るといっても仏果とは何かとか、仏の智慧の実体や仏の実体については何も語っていません。
この六波羅蜜の行法は、爾前権経の菩薩の修行として説かれたものです。法華経の開経である無量義経十功徳品第三には「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し」とあります。
つまり法華経には六波羅蜜がすべてそなわっており、妙法蓮華経を受持することによって、あらゆる仏の因行と果徳を得ることができるといいます。観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と示されています。
さらに七宝という七聖財があり、また頭上の七穴とされています。七聖財は仏道修行上で肝要な七種の法財ともいわれています。身心ともに法華経に帰伏することと、七宝、七聖財と呼ぶ頭上の七穴(眼耳鼻口)の活用が、仏道修行上で肝要であるらしい。要するに仏道修行は、人間の全ての感覚(六感)を使い切ることが肝要であると言いたいらしい。根本があれば肝要もあります。さらに基本、要諦、本義などもあります。
仏道修行の基本である信行学のうち信が仏道修行の要諦であるといいます。これを以信得入といいます。要諦とは基本の中の基本となります。また基本の中の行学に対し解学と名付けた仏の教えの研究も基本に含まれるそうです。信心を根本とした行学がなければ利益を得ることはできないと説きます。
根本と基本には、その中の中心となる根本、基本があるそうです。ややこしい二重構造ですね。中心となる根本、基本だけでは何故ダメなのだろうと思ってしまいます。
根本、基本、肝要、要諦に次いで仏道修行の本義である成仏、その成仏を妨げることを余事といいます。根本、基本とかいった言葉に惑わされている私などは余事に拘り過ぎるのでしょうか。
本義を目的と解すると、様々な目的に対する表現があります。衆生の心に本有常住の覚りの本体があり、これを月にたとえて表現した「心性本覚の月輪」という用語があります。
無明煩悩の雲を除いて清浄にして明白なる満月輪をあらわすことを仏道修行の目的としたものです。仏道修行によって一生のうちに歓喜地に至って仏の悟りの境地の一分を得ることを仏道修行の目的としました。
仏道修行の功徳によって体得した智慧身を報身といい、智慧を得ることが仏道修行の目的となります。
また仏教では無為法を体得した境地を涅槃といい、涅槃に到達することを目的としたりもします。
無明煩悩を除いて満月輪を表すことや、歓喜地に至って仏の悟りの境地の一分だけを得ることだったり、智慧身と呼ばれる報身の境涯を得て仏の智慧を得ることと言ったり、揚句には無為法を体得した境地、すなわち涅槃に到達することだと言ったりしています。
表現は色々ですが、意味するところは同じなのでしょう。そうでないと修行者としては困ってしまいますから。仏道修行の目的一つとってもこのように様々なのです。結構いい加減なのかもしれませんね。
ただ仏道修行の目的の一つに智慧を得ることが含まれていることは重要でしょう。禅定という根本中の根本と智慧身の二つを体現する自身の体を律することによって戒とするといった意味になります。
五法には相名、事理、理知、提婆、自行、化他の五法とあります。そのなかの事理の五法のなかに、無為法(生滅流転を超えた常住絶対の法)があります。ちなみに自行、化他の五法とは、天台大師が摩訶止観の中で、正修止観に入る前段階の修行として説いた二十五方便のうち欲・精進・念・巧慧・一心をいいます。摩訶止観巻四に「第五に行五法とは「所謂欲、精進、念、巧慧、一心なり」として一つづつ具体的に説明しています。
自行五法とは自分が法の利益を得るため(これまでの修行の目的とは異なる。法の利益とは法の実戦(如説修行)により得られる功徳であって習得して目指す目的とは趣旨が異なる修行である)に修行する五法のことだそうです。化他五法(他を教化するために修する五法のこと)に対する語であります。
中国では経典の体系化が進められ、南三北七の十派をはじめ教相判釈の相違によって多くの流派が起りましたが、六世紀に天台大師が五時八教の教判をもってこれらを統一し、法華経の教理を体系化して理観としての一心三観・一念三千の法門を明かしました。天台が完成した法華経の教理の体系化である一心三観・一念三千の法門も仏とは何かの説明ではあっても仏とは何かの答えになってない故に理の一念三千と断じられました。
それでは仏は人間のために何をしてくれたのでしょうか。実は何もしていないのです。そして成仏は、仏に成るのではなく仏と開くと読むことになります。したがって仏道修行といっても人間による人間のための成仏道への修行となるのです。
端的に言えば人間界には神や仏は、人間とは別に存在するわけではないし、修行による奇跡も説かれていないのです。
そして修行ですが、じつは修行には、仏教の実践(如説修行、行を修すること)と仏道の実践(修行の道程、修め行ずること)の二視点があるのです。
最初の如説は、「説の如く」と読むのですが単なる教条主義とは異なります。法華経如来神力品第二十一等の文です。仏法の修行は、仏教の如く修行することと、仏道の如く修行することを如説というのであって、単なる教条主義から解放することになるのです。
そこでまず仏道とは何かから考えてみましょう。先ほど定義しましたが、実は仏道修行には根本、方法、目的、肝要、本義、要諦、法則・規範、法財、確立、基本、実践規範、依処、道法、道程と実に様々な視点があってその都度適当に使い分けているように感じます。当然このままでは言葉の定義を決めかねます。
九界の凡身から仏界の極果へ至る修行の道程、成仏の道法なのですが、具体的にはとても複雑に入り組まれて説かれているのです。ゆえに様々な視点が生じたのです。それらの視点を一つづつ見ていきましょう。
仏道修行の根本となる二種類の方法を摂折二門といいます。勝鬘経十受章、摩訶止観巻十下等に説かれる摂受と折伏をいいます。摂受は求法であり、折伏は弘教です。そして弘教という折伏の中に摂折二門があり二重構造となります。
折伏の中の摂受とは摂引容受の義で、相手の誤りを仮に容認しつつ、しだいに誘引して正法に入らせる化導法です。折伏とは直ちに誤りを破折し正法に伏させる化導法をいいます。
すなわち仏道修行の根本は、法を求めることと、法を広めることとなります。なんだと思うでしょうが、それほど単純ではありません。例によって仏教の用語の定義は、一筋縄ではいかないのです。
円教の三学(戒・定・慧)という仏道修行者が必ず修学しなければならない三つの根本法があるといいます。修行の根本は、摂折二門だけではないのです。先ほどの摂折二門に続いて二つ目の根本ですね。どちらの根本を優先すべきなのか困ってしまいますね。
そして三学の核心が定です。三昧、禅定のことで、静慮の義、等至ともいいます。仏道修行の根本中の根本とされているのです。根本中の根本が本当の根本なら核心の定は摂折二門の核心にもなるのでしょうね。誰も言ってませんが。
梵語サマーディの音写で、三摩提、三摩帝、三摩地とも書き、定、正定、禅定、等持、等念などと訳します。サマーディのもともとの意味は、心を一つの処に定めて動じないことをいいます。心を一つの対象に集中して散乱させないことです。
古来インドにおいて行われた解脱や悟りを達成する一つの精神統一の方法であるとともに、それによって達成された精神状態をも意味しています。仏教においてもサマーディ(三昧)は、仏道修行の不可欠の方法とされ、それによって修得された精神状態をもさしました。そのことは仏教の諸経典に多くの三昧が説かれているところからも明らかです。たとえば海印三昧、金剛三昧、師子奮迅三昧などがあります。法華経においては無量義処三昧、法華三昧などがあります。
三学はいかなる宗派であれ仏教であれば必ず存在しています。何故かというと小乗教から大乗経まですべてそれぞれの三学があり、それぞれの修行を説くことになるからです。それくらいに三学は仏教にとって根本法といえる訳です。
小乗教の三学は、一代聖教大意に「戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり、されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり」と説かれています。結局、小乗教においては三学のなかの戒律を守ることが主体となっているのです。
爾前の円(爾前経は、法華経に誘引するために説かれた方便の経ではありますが、凡夫が位の次第を経なくても、あるいは煩悩を断じなくても成仏すると説いています。華厳経、浄名経、般若経、梵網経など)にも、戒定慧の三学が説かれています。小乗教や爾前経の三学について勉強したい人は、一代聖教大意を学んでみてください
大乗教の戒定慧の三学は、通教、別教、円教それぞれで三学の内容は異なりますが、小乗教の蔵教の場合と違って、三学が融通して説かれています。
通教の三学は、戒定慧が別々の経に説かれ、別教の三学は、戒は菩薩戒(三聚浄戒)、定は観・練・熏・修の四種の禅定、慧は心生十界の法門が説かれ、円教の三学は、法華円頓の戒、円定、円慧が説かれています。
小乗教の戒が具体的な禁止事項であるのに対し、大乗教に説かれた戒は精進して衆生のために尽くす利他の実践修行を勧めるものが主となっているのです。
定とは静慮の意味で、仏道を行ずる者が、よく慮を息め縁を静めて心を散乱させないようにして、法性、仏性を見得し、涅槃の道を悟らしめるための修行をいいます。この禅定によって正しい智慧を生じ、煩悩を断ずることができると説きます。
具体的には本能、欲望の迷いを観じ、愛欲の慧想を除いて仏教の真理に安住することだそうです。練とは、鍛練の義で、浅い法門から深い法門へ次第に練熟していくことです。熏とは、熏熟の義で、努力を重ねて習慣づけることです。修とは、修治の義で、一つの現象にとらわれない自在の境地に達することをいいます。
更に、慧については、華厳経に心生十界の法門が説かれています。すなわち、心から十界の諸法が生起するという法門を知り究める智慧のことです。これは華厳経巻十で説かれている「心如工画師」等の文がこれにあたります。
一念三千の法門を説き明かした天台は一念三千の観念観法に戒定慧の三学がことごとく収められていると説き、伝教は天台法華宗学生式問答に「三学倶に伝うるを、名づけて妙法と曰う」と述べています。
法華経では戒定慧の三学は妙法に具わり、伝教は三学一体の止観の一念三千こそ第一の妙戒であると理戒をとき、事戒は十重禁戒等を補助として用いました。
すなわち伝教の比叡山における迹門の戒壇は、外相には梵網経、瓔珞経の戒を用い、法華経迹門を内証とする大乗戒を授けたということらしいです。
伝教は①法華経の一乗戒②衣座室の三軌戒③身口意誓願の四安楽行の戒④普賢経の四種の戒の四つをたてますが、所詮は法華経の一乗戒を主体とするのです。
ついでに禅についても述べておきたいと思います。禅は仏教における修行法の一つであって、本来は特定の修行や宗派をさす言葉ではなく、静かに坐して瞑想することを言うのです。
仏教が成立する以前から、古代インドでは瞑想の実践が重視されました。それらは多くの場合、苦行的な性格を伴うものだったのです。
仏教は、禅のもつそうした苦行性や神秘的側面を取り去って智を重視し、悟りへと至る自覚的な方法として位置づけたのです。禅の新たな定義づけが成されたのです。
仏典に見られる禅定思想の代表的なものには、戒定慧の三学や四禅八定があります。また六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)にも、禅思想の反映を見いだすことができます。
一世紀ごろ中国に仏教が伝来すると、禅の思想は、一見中国固有の老荘思想や神仙思想によく似ていたため、中国人の着目するところとなりました。やがて中国独自の禅思想が成熟していったのです。
その代表的人物が、隋の時代に活躍した天台智顗です。天台智顗は止観の依拠として法華経を重視し釈迦仏法の体系化を完成させたのです。大乗禅の伝統をふまえつつ、具体的な実践方法として止観という形が考えられ、様々な修行法を考案したのです。
実に様々な修行の方法と目的を編み出したといえます。何故かと言うと仏の境涯を目指す、仏の境涯を湧現させる、仏と同じ性分が人間には備わっているといっても仏とはこれだと断定しないままなので、結果を具体的に示すことが出来なかったからです。
簡単に言うと、止観を修すれば現実の人間はどうなるのかを具体的に言えなかったのです。一切諸法の根源の法を悟った人は、その後の人生に如何なる変化が顕れるのかです。仏と同じ性分が現実の人生にどのような影響をもたらすのか。仏を讃嘆すればするほど、日常の生活をしながら、止観を修することが、いかに現実味がないことか。このギャップを埋めることが出来ないところに天台止観の限界があるといえます。
無漏禅という透徹した禅定で、三界を離れ証果の確かなものを得ることや端坐して禅定を修することも、法華玄義の教観相資における心を対境として一念三千、三諦円融を観ずる観心門のことも観念観法の極みです。
坐禅では、所観の対境を定めない故に、移ろいやすい人の心を頼りにせざるを得ないので、とてもその境地に至ることはできないのが現実です。
所観の対境とは、天台の三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)の観心のことです。天台が心を観ずる法として立てた託事観(暦事観)、付法観、約行観(従行観・直達観)の三種の観法をいいます。
託事観とは事に従って、また事を借りてする観法であり、付法観というのは法門、法相に寄せて行ずる観法で、約行観は一念の心を所観の対境として即空、即中、即仮を諦観する観法のことです。
釈尊は涅槃経の中で「願わくは心の師と作りて心を師とせざれ」と説き、さらに「是くの如き経律は、当に知るべし、即ち是れ如来の所説なり。若し魔の所説に随順すること有らば、是れ魔の眷属なり」と言ったそうです。
釈迦の仏教や天台の仏教だけでなく、近年流行った人格形成セミナーや自己啓発セミナーなども禅定の定を確定、確立しないで語る観念観法に過ぎず、天台の観念観法と同様の難行苦行の修行となってしまいがちで大抵は長続きはしません。
次に信伏随従という語があります。信伏し随従することです。法華経常不軽菩薩品第二十にあります。御義口伝巻下には「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり」とあります。身心ともに法華経に帰伏することが仏道修行の肝要であることが示されています。
また仏道修行に関係する用語に三宝があると思われています。仏教徒が敬うべき三つの宝のことを三宝といいます。観無量寿経等(浄土三部経の一つ)に説かれています。三宝の内容には諸説がありますが、三宝について書かれている以下の書を読んだことのある人は殆どいないでしょう。
大乗義章には一体三宝・別相三宝・住持三宝の三種があるとし、四分律資持記には四種の三宝(一体三宝・理体三宝・化相三宝・住持三宝)が説かれ、大乗法苑義林章には六種の三宝(同体・別体・一乗・三乗・真実・住持)が説かれています。
仏教も、時機に相応してさまざまな教えが弘められてきたので、三学だけでなく三宝の内容もそれぞれの教えに基づいて異なるのです。だからといって自分たちの都合のいいように利用してもいいことにはなりませんが、現実には先覚者だったり、修行を積んだ高僧だったり、教団だったりが上手い汁を吸うために悪用されてきたのです。。
この三宝を仏・法・僧とし、さらに三帰依という仏教用語を関連付けて仏・法・僧の三宝に帰依することが仏道修行の基本であるかのように意義付けたりした人々がいました。帰依は仏教徒としての根本条件であり、三帰戒ともいいます。三帰戒は初めて仏道に入るとき、また五戒、八斎戒等の戒を授けられる前に受ける戒とされています。
仏道修行の基本に仏・法・僧の三宝に帰依するなどと釈尊は言っていません。坊主の創作、金儲け、権威付けの産物であります。勝手に仏道修行の基本を設定して欲しくないと思ってしまいます。
釈尊は仏道修行者に頼りにすべきところ、頼りにすべきものの四つを示しました。四依といいます。行の四依、説の四依、人の四依、法の四依の四つです。
行の四依は在世の比丘が修行において守るべき四種のきまりであり、説の四依はインド応誕の釈尊の四依で仏の四種の意向をいいますが、末法ではとても使えません。
人の四依は、正法を護持し、弘通して衆生の依怙依託となるべき四種の導師をいい、法の四依は、衆生を利益する導師が必ず順守する四依をいいます。
① 法の四依は、衆生を利益する導師が必ず順守する四依をいいます。
法の四依・四不依。涅槃経巻六等に説かれる(依法不依人)(依義不依語)(依智不依識)(依了義経不依不了義経)の四つです
② 人の四依は、正法を護持し、弘通して衆生の依怙依託となるべき四種の導師をいいます。(三賢の位にある声聞)(すなわち声聞四果の第一、第二を得た人)(すなわち声聞四果の第三を得た人)(声聞の最高位で見思惑を断じ尽くした人)の四種をいいます。
人と法の四依は末法でも使えるかもしれもせんが、依法不依人以外はあまりなじみが在りませんね。
さらに仏道修行の実践や弘教の方法にはあまり型に嵌ってしまうのは危険であることも説かれています。
「取捨得宜不可一向・・・取捨宜しきを得て、一向にす可からず」と読みます。章安大師の涅槃経疏の文です。仏道修行の実践や弘教の方法は、時と衆生の機根によって異なるべきもので、一辺に執すべきものではないということです。
聖愚問答抄に「章安大師涅槃の疏に釈して云く『昔は時平かにして法弘まる応に戒を持すべし杖を持すること勿れ今は時嶮しくして法翳る応に杖を持すべし戒を持すること勿れ今昔倶に嶮しくば倶に杖を持すべし今昔倶に平かならば応に倶に戒を持すべし、取捨宜きを得て一向にす可からず』と此の釈の意分明なり、昔は世もすなをに人もただしくして邪法邪義・無かりき、されば威儀をただし穏便に行業を積んで杖をもつて人を責めず邪法をとがむる事無かりき、今の世は濁世なり人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし此の時は読誦書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり、只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり、取捨其旨を得て一向に執する事なかれと書けり」と説かれています。
同様に折伏と摂受、四悉檀の廃立は、時と機根によって用いなければならないという意味でもあります。五人所破抄には「今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か、此れ則ち勧持・不軽の明文・上行弘通の現証なり、何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや、但し四悉の廃立・二門の取捨宜く時機を守るべし敢て偏執すること勿れ」と述べられています。
いずれにしてもこれらの教えには奇跡は説かれていません。奇跡を説く宗教はすべてインチキ宗教だと断定してもいいのではないでしょうか。少なくとも仏法、仏教、仏道ではないということです。
とはいえなんで定義が複雑になるのかというと、実は「仏」の定義が不明と言うか不確実というか不確定というか、要するに明確にしていないからです。したがって「仏教」や「仏道」だけでなく「仏法」そのものも不明確にならざるを得ないのです。
ここまでが、釈迦仏法の仏道修行の考え方なのです。すなわち釈迦仏法における仏や菩薩は私たち人間になにもしてくれないということがお判りいただけたと思います。すべて人間自身の日常の生活態度の在り方、生き方が説かれているだけなのです。仏や菩薩が衆生の願いに応じて奇跡を起こすことなど釈迦は説いていません。
いかなる悩み苦しみも自己責任で、自分自身で乗り越えていくこと説いているのです。そのために自身を強くしていく必要が強調されているのが仏教なのです。したがって仏道修行をするのも自身を強くするためと思うことが正解なのです。
仏道修行について①は終わります。②は日蓮仏法における仏道修行です。人間社会、人間文化における真の宗教の在り方と役割が明確になるでしょう。
そして池田SGI会長が示された広宣流布、世界平和の道標と方程式を示しその方程式の解を見ていきたいと思います。