池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
教学随想 ④ 十界互具について
十界とは、十種類の衆生の境涯のことで十法界ともいう。この場合の境涯は相分を意味している。しかし境涯を境界と境地に分離せずに混合して説明していくことが多い。
所具の境涯というときの境涯は性分である境地を意味している。同じ境涯という言葉で十界を説明しようとするから相と性が混
乱する。
初めに衆生を十種類に分類しておきながら、いつのまにか衆生は、人間しかいないことになるような説明に変わっていく。地獄界の衆生など存在せず、人間の生命に内在する性分としてしまう。
すなわち十界は、人間の境涯の傾向性として、その中の一つの境界を選択することになる。人間が人界だけでなく地獄界の相を現じてしまうと、娑婆世界と地獄界が共存することになる。
異なる国土世間という考えを無視して、性分としての地獄界を相
分と混合されていく。
これは人間の生命に百界が具足しているから、人間は娑婆世界に存在しながら、地獄界の相を現じることができるということになる。なぜこんな混乱した説明になるのかというと、人間中心に物事を考えるからにほかならない。
そこで元に戻ると初めに定義した十種類の衆生は存在せず、人間の性分の分類に過ぎなくなる。そして結局は娑婆世界と人間だけが存在することになる。
ここで問題になるのが南無妙法蓮華経という法体の存在である。南無妙法蓮華経は法理ではないし、人間とは異なる国土世間の衆生でもないことになる。
そして南無妙法蓮華経は、人間の性分としての仏界の名称にすぎないことになる。したがって南無妙法蓮華経は、法体ではなくなる。しかしこれでは日蓮仏法でもなくなる。
娑婆世界を寂光土に変える。また実報土に変える。となると菩薩行をされている人の家は実報土に変化することになる。それでも人間そのものを金色に輝かせたり、眉間から白毫を発することはない。
人間は人間以上にも以下にもならないので、百界そのものを性分にせざるを得なくなる。十如是は百界各界に存在するから千如是となり、この千如是の各如是に三種の差別を認めることによって三千世間となる。
これらの説明は、すべて性分としての説明となる。だから衆生の一念に三千が具すとなるわけである。そしてこの衆生とは、本来は十界の衆生のことなのだが、代表として人界の衆生すなわち人間のこととなる。
ゆえに人間の一念のなかに存在する三千であって、宇宙の森羅三千とは、異なる視点になっていく。それでも宇宙の森羅三千が人間の一念のなかに内在していると考えるのである。あくまでも人界に存在する人間中心の思考である。
それならば仏法はなぜ人間以外の衆生の存在を前提にしているのだろうか。仏も菩薩も天界の衆生などという衆生も、実は人間以外には存在しないのだとすれば、すべて人間の性分の説明のための方便となる。
けれども宇宙の森羅三千をすべて人間の性分、一念の説明で済ませてしまえば、それで済んでしまうだろうか。自然の森羅三千は、人間の存在に係わらず存在し、一念三千の当体である。
この自然と人間を同列に思考する仏法では、自然にも百界千如を見ようとする。しかし人間に当てはめて説明してきたので、自然に対して同様の説明はできない。
したがって人間以外の生物に対しても説明できないのである。さらに宇宙も一念三千の当体としながら、宇宙の一念など説明のしようがない。そして一念三千論は崩壊する。
もともと一念三千論は未完成の理論である。それでは何故、天台は完成させなかったのかというと南無妙法蓮華経を表せなかったからである。
したがって様々に工夫し説明した結果なのであり、致し方ないといえる。かといって、それでは困るので十界の異なる衆生は確かに存在し、人間はあくまでも人界の衆生(相分として)に納めなくてはならない。
その人界に十界が具備(性分として)しているとせざるを得ない。ただし十界の衆生のそれぞれの性分である具備された十界は、衆生の異なる相分であっても同質の性分とするのである。
したがって人界所具の天界における天界の性分は、天界の衆生の持つ性分と同質となる。これを互具という。
ここで問題なのが、宇宙森羅三千は人界を含めて実相だとすると、人界は十界のうちの一つの相分となって、そのままでは、人間に百界は存在しないことになってしまう。
そこで一念が登場するのである。人界は十界のうちの一つの相分ではあるが、十界の性分を互具することによって他の九界の相分も一念に内在するように説明するのである。
南無妙法蓮華経を説かずに説明するとこのように入り組んだ複雑な説明が必要になるのである。
人間が娑婆世界で仏道修行をしようとするとき、その邪魔をする第六天の魔王とその眷属は、わざわざ天界から降臨する必要はない。人間の性分としての天界が、作用するだけである。
この作用を人間の持つ魔性と呼んでいる。世界平和はこの魔性との戦いでもある。平和と破壊、修行と邪魔も人間自身の仕業なのである。
功徳は自分の信心、罰は魔王のせいにするのも人間である。うまく行かないときなど他人のせいにしたくなるのも人間の業といえる。
さて話をもとに戻そう。初めの十界を相分にすると宇宙や自然の森羅三千の現象は、全く違った様相を現出する。そして宇宙の一念問題も見えてくるのである。
簡単に言えば一念三千論に拘る必要などないのである。初めから南無妙法蓮華経を根幹に据えて思考すればよいのである。ただここからは、日蓮仏法の解釈問題に絡んでくるので、ある意味で人それぞれの解釈があると思う。
解釈問題で論争する気は全くないので私の見解は、据え置くことにする。もっとも別の論文でそれなりに述べていることは付記しておきたい。
私の主張に反論のある人は、まず、宇宙生命の一念について私が納
得できる形で論考してもらいたいものである。
十界互具の義については次のように示されている。「一、 十界互具の事義如何、示して云はく釈迦多宝は仏界なり・経に云はく然るに我実に成仏してより已来乃至或は己身を説き云云、上行等の四菩薩
は菩薩界なり、経に云はく一を上行と名づけ等云云、地涌千界乃至真浄大法等云云、舎利弗は声聞界なり・花光如来云云、縁覚界は其の縁覚を求むる者乃至具足の道を聞かんと欲す云云・縁覚界所具の十界なり云云、大梵天王は天界なり、経に云はく我等(天界の衆生)も亦是の如く必ず当に作仏することを得べし云云、転輪聖王は人界等なり、経に云はく衆生をして仏の知見を開かしめんと欲す云云、若し人仏の為の故に皆已に仏道を成ず云云、婆稚阿修羅王は修羅界所具の仏界なり云云、竜女竜王等は畜生界なり、経に云はく竜女乃至等正覚を成ず云云、十羅刹女は餓鬼界なり、経に云はく一名藍婆云云、提婆達多乃至天王如来は地獄界なり、已上是れは一代の大綱応仏の上の沙汰なり(此に於いて十界に摂するに二義あり常の如し)。ここまでは通常の十界互具の話である。
二、真実の十界互具は如何、師曰はく唱へられ給ふ処の七字は仏界なり・唱へ奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち四教の因果を打破つて真の十界の因果を説き顕はす云云、此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり秘す可し秘す可し」(□富◎要一巻三一ページ)と。本因妙抄(八七七ページ)御本尊七箇相承(三一ページ)
真実の十界互具とは、真実の十界の因果を解き明かすとされている。それでは十界の因果について考えてみよう。
まず十界とは最初に言ったように十種類の衆生の境涯のことである。爾前経では、善悪の業によって受ける世界の違い(相分の違い)とされたが、法華経では一個の生命が瞬間瞬間にあらわす生命の境地(性分の違い)の差異となる。
この性分の違いを法界という相分の違いと同一視していくのが、一念三千の法門の骨格となるものである。
森羅三千の事象を人間に当てはめていくことを宣言するために「一念」を冠したのである。
摩訶止観巻五上(正四十六巻五二ページ)には十法界の三義を①十は能依、法界は所依、能所合わせて十法界という②この十法の各の因果は相混乱せずに定まっているゆえに十法界という③この十法の各はみな法界に属するゆえに十法界という、としている。
また十法界はおのおの定まった色心・意識・国土(相分)を有すると説いている。十法界の名称は、下の境涯(境界を境涯と言い直し、さらに境涯を境地へと変換して人間の固有性という性分にしてしまう)から地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界となる。
十界の名については十法界明因果抄には「『地獄声・畜生声・餓鬼声・阿修羅声・比丘声・比丘尼声人道・天声天道・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声』と已上十法界名目なり。」(四二七ページ)と述べられている。それでもここまでは十界各界(相分)の話である。
次に人界の話となる。ここからは人界(相分)に互具された十界(性分)の話となる。観心本尊抄には「数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し……世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」(二四一ページ)と記されている。
十界の因果とは、因は九界、果は仏界となるが、十界互具の理によって九界即仏界、仏界即九界となる。法華経以前の諸経においては、十界の差別は自分自身の行為の善悪軽重によって生ずるとし、十界各界の因果を説いている。
一代聖教大意には「法華已前の経のおきては上品の十悪は地獄の引業・中品の十悪は餓鬼の引業・下品の十悪は畜生の引業・五常は修羅の引業・三帰・五戒は人の引業・三帰・十善は六欲天の引業なり、有漏の坐禅は色界・無色界の引業・五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観は声聞・縁覚の引業・五戒・八戒・乃至三聚浄戒の上に六度・四弘の菩提心を発すは菩薩なり仏界の引業なり」(四〇〇ページ)と述べている。
法華経では十界互具の理が明かされ、十界はみな成仏できると説かれている。当然ここでいう十界の衆生は、人界も含めてすべての衆生の意味であり、人界所具の各界のことではない。
一代聖教大意に「然るに今経にして十界互具(互具された十界は性分)を談ずる時・声聞の自調自度の身に菩薩界(相分ではなく性分としての菩薩)を具すれば六度万行も修せず多倶低劫も経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間をもはざる外に声聞が菩薩と云われ人をせむる獄卒・慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる、仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり」(四〇一ページ)と述べている。一代聖教大意(四〇一ページ)
十界互具の様相を生命の境界(境涯、境地)、あるいは生命状態(性分)として説明するときに、十種に分別して地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界として、十界のおのおのの生命の境地(性分)が固定化しているのではなく、瞬間瞬間に変化、流転していく生命のありのままの姿を示したものといえる。
互具とは顕現から冥伏へ、冥伏から顕現へという生命の相互関係を意味している。たとえば、人界(相分)所具の天界(性分)から一瞬のうちに地獄界の境涯(性分としての地獄)になった時、天界の生命は消滅したわけではなく、冥伏したにすぎない。縁によって再び天界が顕現してくる。
そのように、地獄界から仏界までの十種の生命状態(性分)が、おのおの縁によって生じ、(十界各界の)衆生の身心を支配しているのが生命の真実の姿である。
ただしここで言う生命とか、生命状態という語には、特段に定義が無いので注意が必要である。
十界互具説で重要なのは、九界の迷いの凡夫の境涯の中に仏の境涯が秘められていて、その仏界を顕現できる可能性が示されたことである。
この十界互具を基盤として展開されたのが一念三千論である。一代聖教大意に「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を(に)仏に(が)具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す……煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し」(四〇三ページ)と述べている。
爾前経においては、九界を厭い、煩悩を断じて仏身を得ると説かれているので十界互具はありえない。
釈尊は法華経で初めて十界互具・二乗作仏・皆成仏道を説いた。すなわち方便品第二において開示悟入を説いて(人界の)衆生が仏知見を所具することを明かし、続いて舎利弗は華光如来、迦葉は光明如来、須菩提は名相如来、迦旃延は閻浮〓提金光如来、目連は多摩羅跋栴檀香仏などと(人界所具の)二乗作仏を説き、更に提婆達多品第十二で、提婆、竜女の成仏を説いている。そして如来寿量品第十六において、仏界所具の九界を説き、一切(十界の)衆生皆成仏道を明かすのである。
天台は釈尊の法華経に拠って十界互具・理の一念三千の法門を確立した。(そして人界の衆生である人間は、)「己心を観じ十法界を見る」と、観念観法による一心三観を明かしたのである。
日蓮は観心本尊抄において「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(二四六ページ)と受持即観心を明かし、更に「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を末代幼稚の頸に懸けさしめ給う、四大菩薩の此の人を守護し給わんこと太公周公の文王を摂扶し四〓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり」(二五四ページ)とある。
そして当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず」(五一二ページ)と述べ、三大秘法の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるものは、十界互具・一念三千の当体蓮華を証得することができると教示されている。
天界の衆生である第六天の魔王が人界に降りてきて人界の修行の邪魔をするという話はあくまでも譬え話であって、実際には人界の衆生に存在する天界の性分(天界の衆生の性分と同様の性質が人界にも存在するという意味)が、顕現するのである。これを先生は人間の持つ魔性と呼んでいる。
この相分と性分を混同すると十界互具、十界の因果の法の本質を誤解することになる。したがって人界の衆生の仏道修行を妨げるのも人界の衆生ということになる。他の国土に住む衆生との交流の話ではないのである。人間はあくまでも人間であって、それ以上にも以下にもならないのである。