池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
教学随想 ③ 願兼於業と宿業転換
法華経法師品第十の「薬王当に知るべし。是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり」の文を、妙楽が「『次に薬王より是の人自ら清浄を捨てて』に至るまでは、悲願(慈悲心から発する誓願)牽(ひ)くが故に、仍お是れ業生なり。未だ通応(神通生、応生のこと)有らず。願、業を兼ぬ」と釈したものである。
ここでいう願は願生、業は業生のことである。業生とは過去世の罪業によって今世に生まれることで、願生とは仏法弘通のために、過去世の誓願によって今生に生まれることをいう。
すなわち「願、業を兼ぬ」とは、修行の功徳によって、安住の境涯に生まれるべきところを、苦悩に沈んでいる一切衆生を哀れむがゆえに、自ら願って悪世に生まれて、民衆の苦悩を一身に引き受けて、仏法を弘通することをいう。
願兼於業を「今世の苦悩は、自らが願って悪業を積んで生まれた」のだから、この宿業を断ち切って仏法の正しさを証明する使命があると解釈してしまう。
私たち地涌の菩薩の悲願は、仏滅後の末法における広宣流布である。そのために出現したのが地涌の菩薩なので、わざわざ悪業を積まなければ末法に生まれてこれないというのは可笑しなことである。
ここが阿弥陀や薬師や弥勒とは違うのである。彼らは願生とはいえ善業を捨てて業生したので、初めから末法に生まれてくる使命があった地涌の菩薩とは事情がちがう。
だから彼らは願兼於業せざるを得なかったのである。その意味でいえば、天台が法華玄義で説いた五種の眷属から判別すれば第五の応生眷属となり、法体の根本仏のもとに縁する衆生が地涌の菩薩なのである。
したがって地涌の菩薩に対して願兼於業という言葉を用いるのは不自然となる。御書にも願兼於業(聖人知三世事(九七四ページ))の文は出てくるが、これは見思惑を断破しなくてはならない未断惑の小乗の菩薩の話しで、地涌の菩薩の事ではない。
小乗教の菩薩。声聞・縁覚の二乗は、小乗の修行によってすぐに見思惑を断破するが、大乗の菩薩は、断惑の修行ではなく六波羅蜜を行ずるので、見思惑を断じない。
開目抄には「例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造って願って地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし」(二〇三ページ)と述べている。
また聖人知三世事(九七四ページ)にも用いられている。業生(ごうしょう)は、一切衆生が仏の眷属であることが妙であるとして、天台が立てた迹門十妙の第九にある。
法華玄義巻六下(□大◎正三十三巻七五五ページ)に、仏とともに出生する眷属の種類に次の五種があると説いている。
一に理性の眷属とは、衆生と仏と本来一如にして理性平等であり、結縁と不結縁にかかわらずみな仏子であるという。
二に業生の眷属とは、未断惑の衆生は業によってこの土に来生することをいう。聞法の善業によって、今、仏世に生じて得道するもの、大通覆講のとき結縁し今日受化する衆生などをいう。
三に願生の眷属とは、かつてこの仏の世に生まれたいとの誓願を起こし、この誓願によって見仏聞法するものをいう。
四に神通生眷属とは、先世すでに仏に値って仏道に入ったけれども、まだ惑を断じ尽くせず、あるいは天上界にあり、あるいは他方の土に住するもので、今、仏の出世を聞いて通力によってこの土に来生し、仏の行化を助け、自ら残りの惑を断つもの。
五に応生眷属とは①他を済度するため②自己の修行を進めるため③本縁のために応生するもの。本縁のためとは「本と此の仏に従って初めて道心を発し、亦た此の仏に従って不退地に住す」(同三十三巻七五六ページ)とあるような結縁の衆生をいう。三重秘伝抄(四一ページ)
願兼於業とは、なんて都合の良い言葉なんだろう。「願、業を兼ぬ」と読むが、衆生を救済しようとする願いの力(どんな力なのか?)によって、悪世に生まれて妙法を弘通することとされている。この願兼於業を悪用すると功徳が出ないこと、結果がでないことの言い訳として使える。すべては「自らが願って業を受けた」とすれば、自業自得となる。
もちろん願兼於業とは仏道修行の功徳によって、善処に生まれられるのに、民衆救済のためにわざわざ悪業を積んで、悪世に生まれることを願い、願い通りに生まれたら、民衆の苦悩を一身に引き受けて、仏法を弘通することである。
法を広めるための願兼於業の原理は、いかにも大慈悲の業のように言うが、生まれ変わっても生まれたとたんに過去の誓願などまったく思い出さないのが普通だろう。ましておやどんな悪業を積んできたのか想像もつかないのである。
そこで出てくるのが因縁話である。まず「位を下げて衆生の中に生まれる」ことの意味だが、境涯のレベルを同じにすると、法を説くこと、信用されることなど難しくなる。
特に末法のような悪世ではなおさらである。しかし悪業を積まないと悪世に生まれないとか、位を下げるには悪業を積むという発想がそもそも小乗的である。
さらに一体、誰に願ったのかが問題だろう。まさか地涌の菩薩が釈迦に願ったなどと思うのでは別の意味で問題である。
当然、願生は、誰かに願いを叶えてもらう必要がある。しかし末法の衆生救済は自分の決意と決断でなくてはならないのである。したがって菩薩が衆生を救済するために仏果を求めず、あえて位を下げて衆生の中に生まれる必要はない。
菩薩は菩薩のまま衆生の中に生まれ、生きればいいのである。つまらない眷属の位や種別など根本仏の法体の法号である南無妙法蓮華経と結縁を持つ地涌の菩薩には必要ないのである。
願往生ともいう願生などは、西方阿弥陀如来の浄土に往生せんと欲することを西方願生(48誓願)、弥勒菩薩の兜率天に生まれんと欲するのを兜率願生、薬師如来の12誓願といった末法に出現出来ない彼らに任せておけばいいのである。
自ら積んだ業だからその悪業をそのまま善業と転換することは容易であるとしながらも、現実にはなかなか出ない転換の現象に焦ってしまうのも人間である。
悪業をそのまま善業へと転換する宿命転換の特異点が本当にあると思いますか。「転換したこと自体が宿命では」と言われたらなんと答えますか。この問答は、信心したことが、宿命なのか転換点なのかという境界論争なのである。
もちろん仏法には「宿命転換」という用語はないが、代わりに「罪障消滅」「転重軽受」とある。これらの用語もいろいろと問題を含む用語であることは「宿命転換」とたいして変わりがないのである。
話は少々ずれるが、この「宿命転換」を「人間革命」と表現したのは、初代牧口会長である。牧口箴言集にも出てくる。その牧口思想を戸田会長は受け継いだのである。東大総長が自身が信仰するキリスト教の思想から精神の変革を訴えるずっと以前の話である。
だからと戸田会長も人間革命は、精神の変革などという次元よりずっと深い次元の思想であると述べている。
閑話休題。広大無辺の宇宙の境界問題や宇宙の出現という特異点問題でも同様の無理っぽい解説がつくが、物理学で言うトンネル効果のような虚数時空から実数時空への特異点の想定も面白いかもしれないでしょう。
ただ人間の人生のどこに求めるかは、大いなる課題といえるでしょう。いずれにしても願兼於業の原理を宿命転換の原理にしてしまうのは、論理の飛躍になりがちなので、気をつけて使った方が良いと思う。
使命感を持ち続けるために苦しい現実から逃げたくなることを避けるのではなく挑戦するために用いることに異を唱えるつもりはない。自業自得と諦らかに観ることも必要であると思っている。
「民衆救済のために生まれてきてやる」といった大乗の仏菩薩の上目線の発想ではなく、末法の衆生救済の原理は、衆生自身の自覚と行動以外にないのである。
そのために広宣流布という課題を与えられたのであると考えた方が、正しいだろう。衆生自身の行為の規範が三大秘法なのである。人間池田大作はまぎれもなく日蓮に次いで出現した末法の法華経の行者である。ただし行者は行者であってそれ以上でも以下でもない。法華経の行者を仏にする必要もない。
法体の法号に南無妙法蓮華経と名付けた日蓮もまた法華経の行者である。故に日蓮は法号に名を冠したことを出世の本懐にしなかったのである。
三大秘法の建立を出世の本懐とし、先生もまたその三大秘法を平和・文化・教育の推進とすることで、先生の出世の本懐とするのであ
る。「広宣流布の道、それは平和文化教育の道。この道は久遠元初以来、未聞の道なり」とは先生の言である。先生の人間としての魅力と力量、指導力は、人間が成しえる行為である。
時には人事や進路、活動等で間違えてしまうことはあっても、それに対し逃げずに真っ向から取り組むのも先生である。先生を見ていると人間の底力の凄さを感じるのである。先生のご健康の回復を心より祈る昨今である。