教学随想 ② 出世の本懐と使命について

教学随想 ② 出世の本懐と使命について

本懐の文字は御書中47件あるが、使命と言う言葉はない。そのうちの大半は、仏の教説及び三世諸仏の出世の本懐に対して使われている。即ち、衆生に対しては用いていないということになる。
そこで私たち衆生は出世の本懐ではなく使命という言葉を使いたい。しかし御書には「使命」という語は無いので、如来の使と如来の事をもって使命とするしかないと思われる。
人間に出世の本懐といえることが本当にあるのだろうか。使命も本懐も後付けの自慢話に聞こえてしまうのは、私の性格の問題なのだろうか。
ひたすら自分が決めた道を歩み、様々な困難を乗り越え耐えながらやり続けたことが成功したら、このことを本懐とか使命と言うのだろうなと思う。
しかしこれは男性側の勝手な思い込みに過ぎないか、自慢話の類に見える。
女性にとって子供を育てあげたことを出世の本懐だとか使命というだろうか。子育ては大半の女性が体験することで、仮にその子供が、名を挙げ功遂げたからといって母親の使命だといえるのだろうか。
もしそうなら親子と言えども本懐は他人任せになってしまう。何か偉業を成し遂げたことを出世の本懐というなら大半の人類は、使命を果たせなかったともいえる。
ましておや女性には縁のない言葉となってしまうだろう。男性のエゴと思い込みが生んだ錯覚のように感じてしまう。
私が若いころ、使命があれば、必ずその道を歩むと思っていたものである。これが、単なる勘違いだと気づかされたのは、先生が勇退された時である。
しかし私は、私の使命はこれだと決めてやり続けてきたことがある。その道をひたすら飽きもせず挫折することもなく続けてきたことに後悔はない。
子育てを女房に任せて、自分は自分の使命の道があると思うこと自体、男の身勝手に過ぎない気がする。男性であれ女性であれまたいかなる境涯になろうとも広宣流布のために何か自分に出来ることを使命と決める以外にないと言える。
自分の使命は自分で決める。他人に言われる筋合いはない。本懐とか使命と言うと何か偉業を成し遂げることだけに目が向いてしまいがちだが、もっと身近な生活の中に見出せたならまったく違った本懐論、使命論を語ることができるだろうと思う。
当然、子供を育てることに使命を感じても良いと思っている。個人の自由意志である。使命とか本懐とかが、一部の特権階級の人間にだけ存在すると思うのは、単なる自惚れか自慢話しである。選民思想の持ち主は、憧れも尊敬の対象にもならない。
如来の使とは、如来より遣わされた者。仏の使者。仏の代理として仏のように振る舞う者のことである(如来の行)。法師品第十(慧法三八四ページ)に「仏薬王に告げたまわく、又如来の滅度の後に、若し人有って妙法華経の、乃至一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く(中略)若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん(如来の事)。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於いて、広く人の為に説かんをや」とあり、仏滅後に一人のためにも妙法華経の一偈一句を説く者を如来の使いとしている。
法華文句巻八に「当知是人則如来使とは、其の功報を明かす。経は是れ如智の所説にして、如理を説く。今日の行人は此の如教を秉って、如理を宣す。即ち是れ如来の使う所なり」(大正三十四巻一〇九ページ)とある。
如来行については、文底秘沈抄に「涅槃経に如来行と云い今経に安楽行と云う」とある。如来とは人であり、安楽は法である。それが一体同義ということで、本地自行の真仏が人法体一であるとする。
如来の使い(如来の所遣)として如来の事を行ずるとはどのようなことを意味しているのだろうか。そもそも如来に使いがなぜ必要なのかである。
仏は、一切衆生をして即身成仏させる如来秘密神通之力をもっているのである。真面目に修行する人にはどんどん功徳を与え、批判する人にはどんどん罰を与えれば必ず広宣流布は出来る。
信心しなければ損であるということである。このように広宣流布したいのであれば、如来自身が出現して進めれば良い様に思ったりする。
けれども仏が広宣流布を望んでいるのではないだろう。仏にとって広宣流布するメリットはないように思える。
如来が上行菩薩に別付嘱をして広宣流布を命じた(如来別命)本意は、どこにあるのだろうか。その上行の再誕でもある日蓮の出世の本懐は三大秘法の建立である。そして本門の本尊の相貌を決定できたことは大きな喜びであったに違いない。「余は27年」と宣言されたことでも想像できる。
そして広宣流布は地涌の菩薩がやることになる。四条金吾に与えた別名「煩悩即菩提御書」と言われる手紙には「法華経の行者として、大難にあうことをむしろ喜びとし、法華経の行者として生き抜くことこそ成仏の道である」と激励されている。
仏は広宣流布より一切衆生の即身成仏を願っているので、修行の課題として広宣流布を命じたと考えるべきだろう。課題に取り組むことが修行となるのだろう。課題は仏から与えられたものである。
したがって広宣流布に励む人が菩薩である。批判は修行としての位置付けがなされていないのである。
そして現実に広宣流布に励む創価学会にしか成仏の因はないと思われる。どんなに執行部を批判しても広宣流布は進まないだろう。広宣流布を進ませるために執行部の批判をするというのは、筋違いである。執行部だけが広宣流布に励んでいるわけではない。
当然、執行部は広宣流布に励む会員の一人一人をいかに大事にするかに心を配る必要がある。批判者の大半が不満のはけ口として執行部を対象に批判しているが、そのうち先生にも矛先は向かい、さらに会員をも馬鹿にする言動が必ず起きるだろう。単なる畜生根性の欲望に過ぎない。
不満から猜疑心、疑心暗鬼を生み仲間同士での言い争いに繋がる。そして誰が敵で味方かが分からなくなるのがオチである。人間は確かに欲望が行動の原動力になることもある。
しかし人間は欲望を行動の原動力にしてはいけないのである。欲望は畜生根性である。欲望ではなく感謝を行動の原動力に出来るのが菩薩の性分である。これを報恩という。
功徳を受けても人はさらに功徳を欲しがる。すると現状に不満を感じる。そこには感謝が薄れることがある。
もちろん感謝するだけなら現状肯定となって進歩がない。そこで報恩感謝を行動の原動力にすることが肝要なのである。
広宣流布のために貢献できることを感謝する。その感謝を行動の原動力にできれば、広宣流布への使命は沸き上がる。
広宣流布は執行部の運営技術だけで進展するものではない。一人一人の会員の報恩感謝から沸き上がる使命感が支えとなり力となっているのである。
本来、仏がすべきことを菩薩にさせる理由が衆生救済だとすれば、 衆生は自らの菩薩の性分を発揮して如来行に励むしかないことになる。衆生の自助努力となり仏の神通力はどんな形で発揮していくのかは別視点である。
君にしか出来ない使命、君がやらねばならない使命とは何か。自分にしか出来ない使命、自分がやらねばならない使命とは何か。それを衆生一人一人が、自ら決定する以外にないのである。
使命は生まれた時から決まっているなどあり得ないと考えることである。そしてまず自分で決めて行動する自在性が必要となる。桜梅桃梨というが、自分が何者かを知ることと、間違っているかもしれないが、とにかく決めることは、微妙に意味が異なるだろう。
自分らしさについても同様である。また私のHPに公開している閑話で使命の排他原理と名付けたが、これは複数の本懐や使命を同時に持つことは出来ないことからの命名である。排他原理とは、陽子の周りに存在する電子の軌道上の在り方だが、人生にあっても同様である。
電子が軌道を変えたとき光子が飛び出す。その光子の波長が色調を決めるという。人生にあっても使命の変更によって新たな希望が湧き出ることもある。使命の変更によって新しい自分の色彩が決定され、光輝くのである。これが桜梅桃李の哲学的意味となる。
使命をコロコロ変えたのでは、使命と言えないのではと思うかもしれないが、使命とは時と機に随って変更しても良いと考えている。生涯変わらず一つの使命を持ち続けても一向に構わない。人それぞれであろう。
ついでに言って置きたいことがある。物理学用語の使用には注意が必要である。例えばエネルギーという単語は、物理学では厳密に定義されている。
したがって用語を用いて仏法の原理を説明する時は、用語の定義から逸脱しないように気を付けなくてはかえって仏法を下げたりあらぬ誤解を招くことになる。
科学は仏法によって科学的志向性が導かれるのである。科学が発達すれば、仏法に近づくのではなく、両者が合い寄るともいえる。
というのは科学の現象説明に仏法の思考が取り入れやすく成れるからである。仏法が科学の発達に寄与するのである。
科学と仏法は自然に対する思考の基盤が異なり過ぎている。仏法は初めから「何故」の答えから出発しているのに対し、科学は初めから「何故」を放棄したところから出発しているのである。科学は特に自然科学は、自然の「何故」に答えることは出来ない。したがって科学に対し「何故」と問えば答えは常に一つである。「自然がそうであるから」となる。
あくまでも物理現象の説明あるいは経過説明をするために科学はある。もちろん科学者も何故に答えたいと言う願望はある。
それでも物理学に存在する百以上の方程式や定理はいまだにすべてが仮説である。科学が発達すれば仏法に近づくというのは誤りで、仏法が科学に歩み寄り易くなると言うのが正しい言い方である。
したがって科学がどんなに発達しても科学からは、仏法に近づけないのである。仏法が科学に近づかなくては離れたままで終わることになる。
逆と言えばこんなことがあった。話は少々ずれるが、五時八教と無量義経を法華経第一の根拠とするのは可笑しいという意見があった。これなど順序が逆の最たるものである。法華経第一の理由は、法華経を説くことによって釈尊の本地(報身仏)を明かしたことが法華経第一の理由である。だから釈尊滅後の仏教者が、五時八教と無量義経を説いて法華経第一の論文(経典)を現わし説明をしただけである。
その先人の説を用いることはあっても五時八教と無量義経から法華経第一の理由にすることはない。こんな逆転現象は他にも結構ある。
閑話休題。本懐や使命についても先に本懐や使命があるのではなく行った功績に後付けした理由に過ぎないのである。要するに誰がやってもいいのである。
広宣流布に貢献した人が使命の人であり地涌の菩薩なのである。地涌の菩薩だから広宣流布の使命があるというのは逆なのである。 
仏、菩薩といっても行為の名称であり、その行為の根拠を性分に求めたのが一念三千の原理なのである。「聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり」と五人所破抄にあるように地涌の菩薩の本懐は広宣流布であるが、それぞれの使命の道はまたそれぞれであろう。