池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
教学随想 ① 諸天善神と第六天の魔王について
最初に申し述べて置きたいことがあります。
私の論文や随想、随筆等には引用の出典を明示してないことが多々あります。
面倒なので省いています。執筆で金を得ていないことや個人的な記録的執筆です。
それでもHPで公開するのは他に残す方法がないことと数十年、数百年後の研究者のために残しておこうと思ったからです。
昔ならこれらの論文等は経典と言われたかもしれませんね。
したがってこの点宜しくご寛如ください。
仏法を守護する八人の諸天善神のことを護世八天という。帝釈天たちが八方を守護している。中には閻魔天(閻魔大王)や伊舎那天(他化自在天)もいる。
要するにインド神話上の神様たちである。その彼らがなんで仏法の守護神になったのかは定かではない。八幡大菩薩と同様である。どちらにしても神話である。
彼らは釈尊修行中に種々に姿を変えてその求道心を試みたが、成道後は守護を誓っている。
求道心を試みるというが、何のためにやっているのか不明である。あげくに釈尊が成道してしまうと今度は守護を誓うことになる。成道した人を何のために守護しなくてはいけないのだろうかと思ってしまう。
釈尊以外の修行者を守護することなのか。諸天にとって試みも守護も修行ということなのか。諸天という善神は、なんのために存在しているのか不明である。
衆生をすべて解脱させるために邪魔をする方法で試みるなど、邪道のように感じてしまう。他に方法はないのかとも思う。
さらに諸天自身が成道したいとなぜ思わないのか。いつまでも神のままでこんな邪道の方法をしていられること自体不自然である。
しかも下界に上界からわざわざ降りてきて邪魔をするのである。下界とは人間の住む世界(人間界)のことで、上界は無色界・色界・欲界の六欲天のことである。
仏教を守護する八人の諸天善神というが、守護とは「試み」のことなのか。庶民感情で言う守護とは異なるのである。場合によっては余計なお世話であると言いたくなる。実に不思議な天界の衆生たちである。
諸天善神と同様に魔も実に不思議な存在といえる。なんのために存在するのか実に不思議なのである。要するに人間の弱さを様々な視点で語っているに過ぎないのだろう。
自分が弱いのではなく正しい法を実践するとそれを邪魔する命が出てくるというが、このシステムは本当に仏法なのであろう。
諸天善神も第六天の魔王も天界の衆生である。十界のうちでなぜ天界にだけこんな余計なものが存在しているのだろうか。地獄での閻魔と同様に必要がないように思える。
単に宗教上の必要性なのか、教義上の必要性なのか。善神はどんな修行をすれば仏に成れるのだろうか。
法華経の行者を護るという釈尊との契約あるいは誓願を果たせば仏になれるのか。護るといっても第六天の魔王と戦ったりするだけで天界内のことである。
人界所具の天界における諸天善神の戦いは、魔との戦いというより、人間の仏道修行を邪魔して求道の思いを試すだけである。
しかも人間と契約したわけではない。勝手なことを勝手にやっていると言える。
各界にそれぞれ中心的存在はいるのだが、地獄と天界の二界は特別である。特に天界は意味不明である。宗教教義上にとって必要なのか、教団にとって必要なのか。単に人間を脅すためにのみ、存在の意味があるように思えてならない。
法華経の行者を護ることを約束したらしいが、この約束も釈尊との約束で人間と約束したわけではないので、結構いい加減である。
忘れたり、サボったり挙句は法味が味わえないと天に帰ってしまうという。そんな時こそ守って欲しいと思うのは庶民感覚である。
神天上法門と言うらしい。神が天界帰ることである。仏法が乱れ、正法が衰えるとき、善神は法味に飢えて、守護の本土や衆生を見捨てて天界の本地へ去ってしまい、そのあとには悪鬼、魔神が入れ替わり、種々の災難が起こるということになっている。
この法門は、神が魔と戦わないことを意味している。仏法が乱れ、正法が衰えるのを防ぐために神が存在するのではない。守護の本土を見捨てて天界の本地へ逃げてしまうのである。仏法にはなんの役にも立たない存在である。
それでは困るので日寛は、日蓮の弟子ならその人の頂き(頭頂)に居するとしたのである。金光明経、仁王経などに説かれ、日本でも平安時代に種々の文献にあらわれている。
日寛は撰時抄文段に、神天上に二つあると述べて「凡そ神天上とはこれ謗者の前に約するなり。若し信者の前に約さば、諸神恒に頂に居するなり」とせざるをえなかったのであろう。
「邪魔」と「試み」の違いが見えないし、彼らの都合であって人間には本来関係ないのである。人間からすれば、「邪魔」と「試み」も余計のお世話であり勝手なことをと思ってしまうのである。
かれらの存在を強調することによってメリットを受けるのは宗教団体だけである。なぜ「試み」(神の思し召し)が必要なのか不明である。それで退転したら諸天にどんなメリットがあるのだろうか。
人は富を得るために実に様々なことを考える生き物である。宗教界も同じで、神や魔を金儲けに利用する輩はいるもんだと思ったりする。はっきりいえばどちらもいらないのである。勝手に拡大解釈して衆生を惑わせたり、悪用するのは困ったものである。
人の欲望にはキリがない。しかしある意味、行動のエネルギー源である。人界所具の天界の存在意義でもある。慈悲と欲望の違いは自他にあるのだろう。四聖は少欲知足でもある。
欲望のコントロールとは、自他共存、共生への指標があればいいのである。その指標を菩薩の性分という。すなわちコントロールとは方向性と指向性、志向性を意味しているのである。
十界互具の生命状態にあって、天界の状態は欠かせないだろう。その天界に諸天と魔王が同居しているという発想が面白い。
人界所具の天界と天界所具の天界の違いをはっきりしておこう。天界の衆生は天界に住しているので、人界には住することができない。
したがって人界に所具する天界には天界の衆生が住するのではなく、天界の衆生の特質、すなわち性分のみが存在するのである。故に仏界所具の天界には、天界の衆生の性分が発動しにくいのである。だから仏と魔王とは戦いはしないのである。
もっとも魔王にしてみれば仏と戦うメリットはまったくないのである。魔王といえども天界の衆生である。十善を尽くしてやっと人天界に生まれることができたのである。
その天界で、さらに修行して仏界に生まれたいのが本音である。諸天もそうで十善を得てやっと天界に生まれたり、神になれたのである。
十界の違いは相分の違いであり、互具された十界は性分の違いとなる。この相分と性分を混同すると混乱と悪用の原因になってしまう。
特定の個人を天魔と呼ぶことは、本来、仏法的ではない。日蓮は人間を十界に分類したりはしない。凡夫と凡夫僧の二種類である。
けれどその人の天界の性分が露骨に表出しているとまるで天魔と言いたくなることもあるかもしれませんね。
迹化の菩薩は末法に生まれてくる資格がないというのに魔王や諸天はいつの時代にも出現出来るらしい。しかもやることは「邪魔」と「試み」だけである。
慈悲と欲望の違いは自他にある。仏や菩薩にある欲望は小欲知足であるという。人の悩みは欲望からだけではないだろう。道を究めんとする人の心までも欲望にしてはいけないのである。これは声聞・縁覚の性分である。平和を願うのも菩薩の性分であって欲望ではない。仏が人間を成道させたいというのも同じである。
人間の欲望について考えてみよう。まず愛欲とは、物質を貪り求め、執着することであり、さらに男女が互いに愛する情欲のことも指す が、これのどこがいけないのか。
貪りとか執着という単語を悪意を持って挿入することによって、悪感情を生じさせているに過ぎない。愛情を情欲と言わず、普通に人間的であると認められないのだろうか。
欲界、色界、無色界のことを三界、三有ともいう。悪見や煩悩に迷わされた衆生の輪廻する境界、住処を三種に分けたものをいう。六道の凡夫の住処であるという。
①欲界とは、食欲、性欲などの存在する欲望の世界をいう。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界および天界の中の六欲天が欲界に属する。十界の各界に六欲天があるという。六欲天とは、四王天、とう利天、夜摩天、兜率天、化楽天、他化自在天の六つをいう
②色界とは、物質だけが存在する世界をいう。欲望の支配から脱してはいるが、いまだ物質の制約がある境界をいう。天上界の一部である四静慮処(四禅天)の十七天(十八天)をいう。どんな世界なのか理解しがたいが、要は衆生が存在しない世界で宇宙空間のような世界なのだろうか。
③無色界とは、欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界をいう。欲望と物質の制約を超越すると何故、純然たる精神の世界と言えるのか。単に、欲望や物質だけでは説明できない世界ということに過ぎないのだろう。精神的な欲望は無視するのだろうか。
この三界に主がいる。法華経譬喩品第三に「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我れ一人のみ能く救護を為す」とある。仏のことである。
また色界の初禅天に住する大梵天王を主ということもある。さらに欲界の第六天の主・他化自在天(第六天の魔王)のことを指すこともある。
日蓮は産湯相承事に「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり……三世常恒に日蓮は今此三界の主なり」と。
また三界の王、すなわち欲界・色界・無色界の三界に諸々の王がいる。欲界の中の地獄・餓鬼の二界の閻魔王、畜生界の竜王等の禽獣王、修羅界の四大阿修羅王、人界の四転輪聖王、天界では六欲天の四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)、帝釈天王、第六天の魔王、色界の初禅天にいる大梵天王等をいう。
これら三界の諸王を統べているのが、三界の主である仏である。神国王御書に「仏と申すは三界の国主・大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり主なり親なり」と述べている。
したがって魔王は師であり主でりあ親である仏とは喧嘩しないのである。三界は一切衆生が生死流転する迷いの世界であると設定されている。
一切衆生が六道を生死流転する迷いの世界に落ち込む原因となるのが天界にあるという論理は、その三界の主である仏が一切衆生を迷いの世界に落ち込せる原因となってしまう。
それでは困るので原因を人間自身にすり替えておく必要がある。三界唯一心である。三界のあらゆる事物は、ただ一心の顕れであり、心を離れては存在しないとする説で、三界唯心ともいう。
華厳経巻十の「心は工みなる画師の如く、種種の五陰を画く。一切世界の中に、法として造らざる無し」と。巻二十五の「三界は虚〓にして、但だ是れ心の作なり」と。巻五十四の「菩薩摩訶薩は三界の唯心、三世の唯心を知る」等の文の意をとったものとされている。
したがって三界とは、凡夫が生死流転する迷いの世界を三つに分けたものとなる。
また六道とは十界のうちの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの界をさし、これらは衆生輪廻の道途であるので六道という。共に煩悩や欲望に支配された迷いと苦悩の世界をいう。三界と六道は重なり合っているが、異同をいえば、前者が世界観に重点がおかれているのに対し、後者は生命観に重点がおかれているといえる。
すなわち、六道を輪廻する衆生の住する国土が三界であるといえる。しかしこれでは論理のすり替えで、三界の国土がまずがあって、その国土に住する衆生だから輪廻することになってしまう。
十界の衆生と各界の十界の性分を混同した表現になる。輪廻するのは性分であって互具されている十界である。
すなわち人界の衆生は六道を輪廻しても人界の衆生である。だから天台は、二乗の住する方便土有余、菩薩の住する実報無障礙土、仏の住する常寂光土という三界の外の世界を設定することになる。
天界所具の仏界については、譬喩品第三「釈提桓因、梵天王等、無数の天子と、亦天の妙衣、天の曼陀羅華、摩訶曼陀羅華等を以って仏に供養す……大智舎利弗今尊記を受くることを得たり
我等亦是の如く 必ず当に作仏して 一切世間に於て 最尊にして上有ること無きことを得べし」とある。
問題なのは人界所具の天界である。神や魔は天界の衆生であるから人界に住していないのに、人界にたびたび登場してくる。人界所具の天界は彼らの出入り口並びに場所なのかはっきりしないが、要は人界の衆生の一性分という位置づけである。けれども「試み」は天界の衆生の専売特許ではない。
化生という言葉がある。倶舎論巻八等で説かれている。化生とは、四生(卵生・胎生・湿生・化生)の一つで、地獄、天界、浄土の衆生は化生することになっているが、衆生を救うために、仏・菩薩が神力をもって種々に形を変えて現れることも化生という。
仏・菩薩は衆生を誘引するためにとなる。誘因と試みの違いは、仏・菩薩界と天界という境涯の差であって方法論としては似たり寄ったりである。
仏も菩薩も神も試みが大好きなのである。法華経序品第一には、天界の衆生である諸天善神が釈尊の説法を聞くために集まった様子が説かれている。
また同安楽行品第十四には「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」とあり、法華経の行者の守護を誓っている。
治病抄に「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」とあるように、諸天善神は衆生の一念と、それに対応する外界の働きのあらわれと考えられる。
性分が法性と無明として顕れ、外界に作用を及ぼすという原理なのである。
したがって諸天善神が法の為に法華経の行者を守護するというのは、たんなる譬喩となる。だから諸天は仏との約束を忘れたり、法味が味わえないと逃げてしまう程度の存在となるのである。
法華経の行者は、天の加護無きことなど元より覚悟なのである。菩薩より格下の天界の衆生に守られたり、誑かされたりする謂れはないのである。
魔王についても同様である。第六天の魔王とは、他化自在天のことである。欲界の六欲天(四王天・とう利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天)の最上に住する。
四魔(煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔)の中の天子魔にあたり、色界の主である魔醯首羅天と同様に正法に敵対し、仏道修行の障礙となり、成仏を妨げる働きをし、智慧の命を奪うので奪命ともいう。
大智度論巻九に「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。他の化作した欲境(欲望の対象)を自在に受用して、自らが楽を受けるゆえに他化自在天というとある。この魔王は正法を信ずる者に害をなし、仏道修行を妨げようとする働きをもっているとされている。
彼らは、なぜ「仏道修行を妨げようとする働きを持つ」必要があるのか。修行を助ける諸天と妨げる魔がともに天界に居住する理由が不明である。
人間が仏道修行を続けられない理由に利用しているだけに思える。宗教上の都合とはいえ、あまりスマートなストーリーではない。
また第六天の魔王と魔民が、父母、妻子、権力者等のあらゆる姿をもって仏道修行を妨げようとする働きをいうとあるが、これでは魔の全てが他人となり、修行者自身が生み出す魔はいないのだろうか。
仏道修行は自己責任ではないのか。全てを他人に擦り付ける手法も仏法的ではないようだ。
もともとインドの神話を利用して作り上げた幻想である。信者への脅し、脅迫、マインドコントロールにしか使えない論法である。
天の果報(諸天善神が守護するという果報・功徳のこと)も天の楽(十善を修して天界に生まれて受ける法楽のこと)も人界の衆生である人間にはまったく関係ない問題である。
諸天に頼らず、魔をも恐れず、ひたすら広宣流布に自分は何が出来るのかを思索し行動することが大切だろう。観念と形式の人生は、何事にたいしても疑心暗鬼を生じて、恐怖心を湧きあがらせる。
この悪循環を断ち切る勇気ある人生を生きるには、まず、現実をありのままに受け入れて素直に虚心坦懐に人間と人間関係を見つめ直すことだ。呉牛喘月の人生ではつまらない。虚心平気、優游玩味、虚静恬淡の人生を生きようではないか。