池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
コミュニケーション革命
序文
社会の中に生きる人間にとって、一人の人間の周囲にあふれる情報は、その時代に生きるための最低限の情報だった。それは多すぎることも少なすぎることもなかったのである。人間は、生きること、生命の保全に必要な情報を無意識に分別しているのである。
ところが近年、情報が過多になってしまっていて、その上この情報を分別ができない若者が多くなっているように思います。人類の歴史に前例のない特殊な社会状況が現出しているといえます。
妻が夫の持っている全ての情報を知る必要もないし、逆も真です。親子の関係もしかりです。一人の人間が生きていく上で、必要な情報は、一人の人間の持つコミュニケーションの範囲と指向性によるのではないでしょうか。
しかしこの範囲と指向性が十人十色だからやっかいで、いわゆる一般化が出来ないのです。けれども人間にとってコミュニケーションが重要であることを否定する人はいないでしょう。
現実の生活、社会の中で様々なコミュニケーション媒体を活用しても、自分の意思の伝達を納得いくようにすることの難しさを実感している人は多いと思います。思いもしない誤解を招いてしまうことをしばしば経験します。
人間コミュニケーションの難解さは、甘く見れば見るほど、深い泥沼に嵌まり込み、もがけばもがくほど深みに入り込むことになるのです。
人間コミュニケーションとは、一体なんなのでしょうか。太古の昔から現代に至るまで人間は、意識するとしないとに関わらず、この問いの答えを求めてきたといえます。石器時代から情報化社会へと人間生活は驚くほどの変遷をなしてきましたが、人間対人間の関係がどれほど進化したと言えるのでしょうか。
コミュニケーションの手段として人間は、多くの道具を作り出してきましたが、コミュニケーション自体を手段化したに過ぎなかったのではないかと思えるのです。
コミュニケーションを持つことが、目的なのか手段なのか単なる媒体なのかといった哲学的考察が必要なのでしょう。人間のコミュニケーションは、単なる情報の伝達であってはならないと思うからです。
さらに媒体と手段によっては、一層、確実にコミュニケートされることはあっても、人間対人間のコミュニケーションであることを忘れてはならないと思うのです。
実際に私たちの日常生活のなかで、言いたいことや言うべきことを直接言うことは何かと人間関係を煩わしくしたりすることがあります。意志や思いが伝わらない。通じない。その無念さとジリジリするもどかしさを体験したことのない人はいないでしょう。
悪人であれ善人であれ、また、紛争中の両者にも、それぞれに言い分があるのです。そして、人間は一人では生きていけません。一人の人間の持つコミュニケーションの多様性は、それが家庭内であっても存在するのです。人間コミュニケーションの在り方の中に、喜怒哀楽と共に生き様そのものが見えてきます。
人間の心を表現するコミュニケーションの変革なくしては、家庭も社会も国家も人類も、その生きかたが見えてこないでしょう。
一人の人間の自身の中で、コミュニケーションの変革をなし遂げる戦いが、すべてのコミュニケーション革命の源泉となるのです。
人間関係の悲喜劇は、欲望と嫉妬、愛情と献身といった感情の織りなす人生模様でしょう。コミュニケーション・ギャップが生み出す悲喜劇は、コミュニケーション革命の道を模索する人間自身の手によって解決する以外にないのだと思います。
人間主義といい人間中心のコミュニケーションといっても人間とは何かが常に底流する命題として存在し続けます。
人間とは何かの定義如何で、人間主義や人間コミュニケーションという視点が、様々な見解を生じてしまうのです。コミュニケーションのモデル、類型といった点は後に触れますが、その前にコミュニケーションの概念について述べておきたいと思います。
もちろん一義的に規定するのは困難ではあります。というのは、広範性と学際性、さらに日常用語としても多用されているからです。さらにそれぞれの立場によって異なる定義がされているからです。
日常的には「人々が、いろいろな記号を用いてメッセージを構成し、それを伝達あるいは交換する過程」となるでしょうか。
心理学的研究においては「コミュニケーションを人間の心理的な変容過程、あるいは影響過程としてとらえていくもの」となります。
社会学的研究においては「コミュニケーションは、相互作用、あるいは人間関係、社会関係としてとらえていくもの」となります。
情報学的研究においては「情報の処理と伝達のプロセス」ととらえ社会的コミュニケーションを「人間の個体ないし集合体の間における情報の処理と伝達の過程をさす」ことになります。
キリスト教においては「キリストの言葉と行為の中に献身というコミュニケーションの最も完成されたモデルがある」として「父なる神の下に兄弟である人間社会において、愛によって一致に到達するための活用の手段である」となるようです。
それでは、仏法でいうところのコミュニケーションとは何かが問題になりますが、じつのところはっきりとした定義はないのです。
信仰とは、仏の慈悲を請うことでも、神の力によって奇跡を起こしてもらうことでもないと思います。人生にあって何が起きようが、いかなる境遇になろうが、常に「明るく、元気に、仲良く、人生を生き抜く勇気を自身の内より引き出す」ことが、信仰の目的ではないでしょうか。
そして、このような人生が送れたならば、まさにその人にとってその人生は、奇跡であり、仏の慈悲に包まれたことを体現したといえると思えます。
その規模を個人から家族に、職場に、社会に、国家に、そして地球人類規模にまで拡大できる可能性をもてるのが、真の世界宗教であると考えます。したがって、信仰なら、宗教ならなんでもいいということにはならないのであります。
人間コミュニケーションは、人間と人間の意志の疎通によって成り立っていますが、その人間が仏や神に祈るという宗教の共通した行為によって、仏や神とコミュニケーションを持とうとするのです。祈りによって願が叶うという原理の解明は、もしかするとコミュニケーションの本質に迫る課題なのかもしれません。
人間同士ならコミュニケーションが可能になることは予想出来ますが、人間と仏や神との間に成立させるためのコミュニケーション手段が存在するのなら、人間対人間のコミュニケーションは、はるかに容易であろうと想像出来ると思います。
人間対人間のコミュニケーションにおける媒体は、その種類の多さと質の違いによって意志の疎通に必要な媒体の選択が可能でしょう。ところが現実には人間コミュニケーションの不完全さが引き起こす様々な問題が生じてしまいます。媒体の理解と適当な使用がなされていないともいえるのでしょう。
例えば「対話」というもっとも基本的なコミュニケーション媒体ですら、両者の共通した土壌の上に成り立つ場合が多いので、時には「対話」そのものが成立しない事態になることもあります。
いかなる「対話」であっても、国家間にあっては「平和」と「繁栄」また家庭にあっては「安心」と「信頼」という土壌をもとに「人間」を基準にすることになります。
しかし、これらの土壌が、国あるいは人によって異なる把握の仕方が存在すると、なかなか「対話」が進まないことになります。異なる土壌では、共通の土壌、同一の認識にすることはかなりの困難さを伴うのも現実です。
「人間」を基準にするために、それが個人であれ家庭であれ社会であれ国家であれ国家間であっても、ある意味での普遍的な指標が必要となるのです。それを人間主義を根底にした「平和」「文化」「教育」とすることによって人間コミュニケーションを成立させようと言うのが筆者の主張です。
社会を構成しているのは人間です。社会の繁栄と個人の幸福は「立正安国」の精神に集約されていると思われますが、あらゆる国々において、そのまま立正としての日蓮仏法を置かなくてはいけないのだろうか。
世界には様々な宗教・文化が存在します。宗教間、文化間の軋轢は出来るだけ少なくする努力も必要でしょうが、人類の戦争の歴史において宗教の影響も少なくないのが現実です。そのためにも如何なる宗教・文化であっても共通の概念をもつことが出来る思想・哲学が必要となります。それが日蓮仏法を根幹とした新しい人間主義です。全人類に共通した哲学の確立が、なによりも大事なのです。
個人から家庭、社会、国家、世界へと拡大するなかで「人間と社会」の問題は、様々な様相を呈して常に問われる課題として提起されて来ると考えられます。
個人とはいえ、創価学会という共同体を介して、その属性のもとに世界に繋がっていくのが理想だと思いますが、現実の世界広宣流布の在り方は、それほど単純にはいかないのだと思われます。
個人が創価学会を支え、創価学会に影響を受ける関係が存在しています。この相関関係のなかに日蓮仏法はあるといえます。また創価学会が個人を創造し、個人が創価学会を支える存在なのである。「人間と組織」に存在する不滅の法則は、常に相互の不二関係のなかに実在するのではないかと思います。
ある社会集団が、自身を社会的システムとして把握あるいは規定し、一般大衆にあらゆるコミュニケーションの手段を活用して、集団の存在意義とその活動を理解または共感してもらいたいという、意図的かつ相互コミュニケーション活動を図ろうとしていると仮定して考えてみましょう。
説得から共感、共感から共存、共存から共生、共生から納得へのコミュニケーションの流れがその一つになります。何故という質問をさせない努力が必要となります。
対外的コミュニケーションに不得手な人が統合的戦略としてのPR活動を躊躇する理由は、(1)社会的に問題を起こしたくないという心情
(2)折伏以外の活動に対して仏道修行としての定義が不明確
(3)マスコミを利用したいが、利用されたくないという判断
無知と無認識は、対外的コミュニケーションのあり方に原因を見ることができます。イメージや既成概念の変換、さらに新しいイメージの埋め込みの為のコミュニケーション活動の必要性。説明もPRも無い行動や説得主体のコミュニケーションは、イメージ形成の過程に、情報の発信者の意向が入り込みにくいと言われています。
以上、代表的と思われる例を少し列挙しましたが、ここからも解るように、どのようなシステムを(個人とか社会とか神とか仏とか)基準システムとしてとらえるか、また、その基準システム間のコミュニケーションを考えるかによってコミュニケーションの概念は、種々のタイプに分かれてしまうのです。
基準システムの措定における個々の違いからくる独善性はどうしても免れないように思えます。それが個別科学であれ、神であれ、仏であれ同じように各論の域を出ないように思えてしまいます。
しかしそれでもコミュニケーションとは何かを人類は問い続ける必要があると思うのです。コミュニケーションとはそれほどに人間的・社会的課題なのではないでしょうか。
人間対人間のコミュニケーションにおける媒体は、その種類の多さと質の違いによって意志の疎通に必要な媒体の選択が可能となります。
ところが現実には、人間コミュニケーションの不完全さが引き起こす様々な問題が生じてしまいます。媒体の理解と適当な使用がなされていないともいえるでしょう。
例えば対話のなかでも特に説得を伴う対話は、結構厄介な問題を含んでいます。説得には、拒否反応を起こすことが知られています。さらに主張をともなう説得には
1.説得に関する知識は、宣伝やデマゴーグの手段であって、好ましくない目的に悪用されると感じる人が多い。
2.説得コミュニケーションは、人間をあたかもロボットであるかのように外部から操り、究極的には人間否定にも通じ、人間の尊厳をいたく疵つけると感じ人もいる。
3.説得に関する研究は、事実上ある少数のエリートに、説得による人間支配の知識を独占させ、その知識の占有と行使によって独裁をほしいままにさせる危険を含むと考える人もいる。
こんな具合だから、これらの人たちは、説得に対する抵抗力をつける為のアプローチの仕方を様々に考えることになります。
それが「免疫性アプローチ」とか「調和性アプローチ」といったもので、このアプローチのなかにその要素をみることが出来ます。
免疫性アプローチには
1.防御変数と攻撃。
2.支援対同一反論の防御。
3.同一反論、不同反論の防御
4.外在的驚異と再保証。
5.マグワイアーの免疫理論の意義等があります。
調和性アプローチには
1.調和の理論。
2.説得効果減殺があります。
そして説得効果減殺には、イ、否定処理。ロ、送り手の格下げ処理。ハ、反論処理。ニ、概念の昇圧処理等があります。
これらのアプローチの具体的な意味は略しますが、要するに主張を伴う説得は、誠意と善意だけでは不十分だということになるでしょう。
説得から共感へ、共感から共存へ、共存から共生へのコミュニケーション。さらに共生から納得へと進むのです。説得から納得への道のりは遠いといえます。
現代社会は、個々のアイディンティティの喪失とともに、個々のコミュニケーションを不成立に終わらせてしまい、ディス・コミュニケーションを現出させてしまっているのです。
このような社会状況は、コミュニケーションにおける雑音源を除去できないまま放置することになり、ますますコミュニケーションの成立を難しくしていく結果を招いていくことになります。
刻々と変化する環境に取り残され、社会的適応を喪失しないために、人間は常に、新しい事態、あたらしい発見、新しい必要に関する様々な情報をつくり出し、伝播し、利用してきました。
にもかかわらず、説得のコミュニケーションの伝える情報の内容に、斬新さが極端であったり、あまりに予期に反するものであったりすると、既存の常識が破られるばかりでなく、それまで保持してきた信念や価値の体系にも重大な変化が及ぼされると感じさせてしまうのです。
様々なアプローチ領域によるコミュニケーション研究も、一面においては全てが真実をだと思えます。しかし、そのまま活用することにも問題があるのは当然かも知れませんが、それなり応用の効く研究だと思います。
そこで、独自のコミュニケーション体系を作り上げなくてはならないことになりますが、応用には応用のための基本原理が必要なのです。
人間コミュニケーションの研究は、社会状況の変化とともに変わっていくでしょうが、必要性という意味では、今後ますます社会の人々の関心の的にもなっていくと思います。
アメリカでは、1930年代後半からすでにコミュニケーション研究が開始されています。その主流は行動科学的アプローチでした。以来、数十年間にわたる行動科学的アプローチによるコミュニケーション研究の成果は、一応その目的を達したといわれております。
しかし、行動科学的方法による調査分析(コミュニケーションの内容分析や受け手調査等々)及びその研究データは厖大な量におよび、その結果、調査分析で解ることは大体解ってしまうという事態を迎えてしまいました。
すなわち人間コミュニケーションの考察が、人間行動を基調とした行動科学的アプローチのみでは、どうにもならないという方法論的反省の声まで聞こえてくるようになりました。
およその基礎データの解明も、複雑に交差した現代社会を抜本的に変革するだけの力にはならず、参考程度の役割となり、その限界が露呈するまでになってしまったのです。まさに人間は、人間の行動面のみでは語り尽くせない存在として新たに問い直される時代に入ったといえます。
このような行動科学的アプローチを真っ向から批判した言語心理学者・チョムスキーらの研究も、マス・コミュニケーションを含む社会的コミュニケーションとの関わりの中で、マイクロ・コミュニケーションの果たす役割という道具で、人間コミュニケーションの本質を手探りするにとどまっていると思われます。
人間コミュニケーションの研究は、人間とは何かという永久命題と抵触しながら思索し続けなくてはならないと思います。そしてその努力を人類は怠ってはならないのです。
現代のコミュニケーション研究が、転機を迎えていることに気づきながらも、転換しきれないところに現代社会の行き詰まりを感じます。ゆえに、新たなアプローチ領域の探求の必要性を見るのです。
新たなアプローチ領域の探求は、それがたとえ方法論的変更であったとしても、コミュニケーションが人間の日常生活に深く関わりを持つ以上、何らかの意義をそこに見いだすことは容易であろうと思う。それがコミュニケーション研究の転換にとって一筋の光明となるかもしれないからです。
現代においては、フェイスブックを初めとした様々なネット情報やネットコミュニケーションも当然、研究の対象であります。
いずれにしてもコミュニケーションの重要性を否定する人はいないと思います。意識するとしないとにかかわらず、現実の生活や社会の中で直面する様々なコミニュケーション・ギャップに、と惑いを感じたことの無い人はいないでしょう。
一見、何でもないことのような意思の伝達が、思わぬ誤解を招いてしまうことも多々あります。この現象は、人間コミュニケーションが、単なる意思・思想の伝達だけではないことを物語っているからです。
IТ情報技術が発達した時代になり、緻密な情報交換が可能となったとしても事態は決して楽観的ではないでしょう。
人間と人間のコミュニケーションの複雑さは、意思の伝達に様々な障害を引き起こしてしまいます。歴史上における多くの裏切りや反逆行為のなかにも、人間コミュニケーションの困難さは垣間見えます。どちらが正義かわからないことも多々あります。翻って現代の世相にあっても多くの事象は存在しています。
コミュニケーションは、その媒体と手段によって一層確実にコミュニケートされるかもしれませんが、所詮は人間対人間のコミュニケーションであることを忘れてはならないでしょう。
「説得」から「共感」への人間コミュニケーションの転換は時代の趨勢とはいえ、まだまだ見えてこないのが現状ではないかと思っています。
人間コミュニケーションの革命的展望は、どのような形で人類史のなかに出現されるのでしょうか。親子の断絶がマスコミで話題になってから四半世紀。昨今は、若年層の狂暴な犯罪が問題視されるようになりました。
時代はますます人間不信の度が増してきたように思えるのです。不信の世紀から信頼の世紀へと転回する方途を指し示す必要性を感じながら人類は、未来に希望を見い出せないまま二十一世紀を迎えてしまったといえます。
ましておや今日のようなグローバルな時代にあって、その情報伝達のスピードは、過去、まったく前例の無い様相を呈しています。経済学においてもケインズ経済学では、予想も出来ない程ではないでしょうか。新しいグローバル時代の新しい経済学の出現が望まれているのもうなずけます。
情報伝達のスピードの差は、単にスピード以上のものがあります。人間の意識と感覚が、このスピードについていけないことも想像できます。歩く早さ、駆け出す速さから自動車や飛行機あるいは、ジェット機におけるスピード感の違いは大きいといえます。
この日常感覚からかけ離れたスピード感は、人間の判断を狂わすことがあります。これは、乗物と人間の関係だけではないでしょう。情報伝達のスピードに対しても同様の判断ミスを起こさせる要因になると思っています。
コミュニケーションという言葉が持つ多義性は、人間コミュニケーションにとっても実に多義多様性を含んでしまっています。人間コミュニケーションにおける手段と目的は、必ずしも明確であるとは限りません。
いうまでもなくここでいう手段とは、媒体から記号に至る物理的側面のすべてをさし、目的は、人間の精神的側面のすべてをさしています。すなわち私の考える人間コミュニケーションは、この両面の二次元を持ちながら切り離して考えることの出来ない相関関係の総称をいいます。
したがって、機械系の情報伝達も自然における情報伝達もここではとりあげないことにしたいと思います。もちろんコミュニケーション系としての類似性を認めることはやぶさかではありませんが、それは、もっと本質的な側面における接近のなかに見出すべきものと思うからです。
コミュニケーションに関する学問的な研究の歴史は古いのです。アリストテレスは、修辞学の中でコミュニケーションについて三つの構成要素すなわち①話し手②談話③聞き手を考えなくてはならないと言っています。
もう少し正確に言うと「修辞学は、対話の相手の意思決定を促す一手段である。したがって語り手は、自分の話し手の内容を明確にし、人の信用を勝ち取るようなものばかりでなく、自己の人格を正しく見せまた意思決定を為そうとしている聞き手の心を正すように留意すべきである」と。
アリストテレスは、コミュニケーション(この場合は対話のこと)の果たす説得という点に重点を置いて聞き手を中心とした体系を作りあげたのです。
今からおよそ2200年前のギリシャの哲学者の言とはいえ、聞き手の立場を考慮、尊重して送られるコミュニケーションは、現今の近代社会における社会的コミュニケーションの常識になっています。
アリストテレスの考察も一つのコミュニケーション過程のモデルといえます。モデルを構成する変数は、語り手と話題と聞き手ですが、さらに「相手の意思決定を促す」ことは、相手に及ぼす「効果」を意味していますので変数は4つと言えます。
もちろんこのモデルという言葉にも種々の定義と類型があります。私は「類推」といった意味で使いたいと思います。これは「現実の説明・理解・予測に必要な知的道具」ということでもあります。
今日ではモデルを構成する変数は、アリストテレスの例よりはるかに複雑で、その研究領域も種々の視点が存在しています。
コミュニケーションに関する基礎的な理論として理工系・自然科学にあっては、通信理論や情報理論などがあります。また生物系・自然科学にあっては、脳神経医学、生理学、遺伝学、動物学などです。また社会科学にあっては、文化人類学、社会学、心理学、臨床心理学、社会心理学といった分野となるでしょう。
人文科学領域では、意味論や言語学、境界言語学があります。さらに情報の伝達などの領域を対象とする研究には、情報科学やメディア・コミュニケーション科学などがあります。
さらに政治学や経済学などもあると思います。ビジネスマーケティング論、経営学、経営史、会計学、管理会計、経営分析、経済学、ゲーム理論、消費者行動論、中小企業論、産業・組織心理学、広告コミュニケーション論から討論・会議討論・会議の目的、会議のステップ、会議のメリット・デメリット、打ち合わせ・ミーティング、プレゼンテーション、ファシリテーション、ディスカッション、ディベート、シンポジウム、パネルディスカッション、ロビー活動、打診・根回し等々です。
またコミュニケーションとしてよく検証されるのが、対人関係に関する問題だと思います。社会不安障害(SAD)、対人恐怖症、視線恐怖、醜貌恐怖症、赤面恐怖、会食恐怖、あがり症、多汗恐怖症等々でしょう。
また心理療法にも使います。来談者中心法、ロールシャッハテスト、行動療法、認知行動療法、精神分析、森田療法、箱庭療法、臨床動作法、筋弛緩法、催眠療法、自律訓練法、遊戯療法、夢分析、薬物療法精神疾患統合失調症、うつ病、不安障害、トゥレット症候群といったことです。
さらに論理学、記号論、語学教育、異文化コミュニケーション、比較文化、文化研究といった分野でもコミュニケーションという言葉は使います。
最近は、アートやスポーツの分野でもコミュニケーション研究が行われているそうです。その他にも家庭内コミュニケーションや小集団、組織コミュニケーションといったミクロレベルのコミュニケーション研究もされているようです。
果ては、様々なしぐさ、自己タッチ、腕組み、代替言語動作、例示動作からアイメッセージまでと実に多分野に及んでいます。これらのように学問領域だけでなく学際的研究もかなり進んでいるようです。正直言って驚くほどの多様性です。それゆえに皮相的な感も受けてしまいます。
これほどの多義・多様性を含みながら、日本におけるコミュニケーション研究は、まだ比較的歴史が浅く、またマス・コミュニケーション以外のコミュニケーションについては未だ領域として確立しているとはいえないようです。今後、研究領域がもっと拡大していくのではないかと思えるのです。
学問分野と学際の違いについては、ウキィペディアに掲載されていますので、そのまま引用させていただきたいと思います。
「学問とは、知識や概念を体系立てて整理するものであり、内容の一貫性、整理あるいは理解のしやすさなどの観点から対象を限定して取り扱うのが一般的である。これが学問分野あるいは学問領域
(discipline) と呼ばれる。
一方、最先端の研究の進展の方向性を考えるとき、従来とは異なった観点、発想、手法、技術などが新たな成果を生み出す例は非常に多い。これは、従来はあまり結びつかなかった複数の学問分野にわたって精通している研究者や、複数の学問分野の研究者らが共同で研究に当たる、などによってもたらされる。これが学際的研究と呼ばれると。
その学際的研究が発展すれば、場合によってはその後、それは体系立てられた知識として整理され、新たな学問分野を形成する可能性がありますが、そうなった時点では、その研究は学際的な研究とはいえなくなる」とあります。
また学際領域の研究評価に対し「こういった学際的研究の成果が大きいことは常に認識されているが、日本においては必ずしも学際的な研究がしやすい環境にはなっていない。上述の組織の面に加え、研究費獲得の面でも、その研究を評価するべきその道のプロが存在しないため、一定の成果が上がるまでは評価を受けにくい。
また、世界的に見ても、実際に多分野の専門家が参加して学際的なアプローチを実施した評価調査は非常に少ない」とあります。
しかし、別の視点から見ればすべての学問が何らかの意味でコミュニケーションの問題を扱って来たと言えますし、モデルを考察してきたと言えます。コミュニケーション研究者の考案した種々のモデルは、およそこれらの領域を基調として作られてきたといえます。
人間は、多種多様の願いを心に描く生き物です。願望は努力や信念や祈り等の行為となって実現を期待する希望の光でもあります。それはまた、生きることへの力にもなります。生ある限り希望を失うことは死を意味するほどではないでしょうか。
仏法者として生きることは、本源的な自己への探求の道であると共に他者への伝道という自他共の救済の実践でもあります。世界のあらゆる宗教にあっても対境は異なるといえども祈りという普遍の行為が存在します。この事実は驚異的な普遍性を持っています。
人間はなぜ祈りという行為から脱却することが出来ないのでしょうか。祈ることによってなぜ、願いが叶うと信じることが出来るのでしょうか。人類という知的生命体の持つ「祈り」の行動は、その共通性にも驚かされますが、それ以上に祈りにかける執念に神秘さえ感じるのです。
日蓮仏法を信奉するようになった私が、最初に感じた疑問は、祈りによって願いが叶うのは何故かということでした。そして祈ることによって本尊と自分との間にどのような関係が生じるのかということでした。
それは人間の関係性とは異なる別次元の現象なのでしょうか。依正不二論や境智冥合論、九識論等ではとても納得のいくことではありませんでした。
神や仏とのコミュニケーションには、人間間のコミュニケーションとは異なる媒体が存在するというのであれば、人間同士であっても言語や環境が異なると、意思の疎通が思い通りにいかない事実と同様の現象が存在するということなのでしょうか。
神や仏の生命と人間の生命との生命次元のコミュニケーションが成立するというなら、その根拠とコミュニケーション過程を探求することが、人間とは、人生とは、生きる意味とはといった命題の解決になるのではないかと思うようになったのです。
人間が生きるために欠かすことのできない人間コミュニケーションの実相を見つめてみたいと思います。
第一項 人間関係とコミュニケーション
コミュニケーション研究がそれぞれの領域から出発しているとはいえ大別して二つになると思います。
それは、世論や宣伝の問題から端を発した「マス・コミュニケーション」研究と「マイクロ・コミュニケーション」です。
マイクロ・コミュニケーションとは、媒体過程に作用する諸要因を主体とする心理学、人間のコミュニケーション行動の全域を扱う心理言語学、そしてメッセージそのもの研究を主体とする言語学(メッセージの記号化を扱う「音声学」とメッセージの解説を扱う「心理音響学」の両者を総称してマイクロ言語学といわれている)などから構成されています。
近年は、パソコンや携帯電話からインターネットによるコミュニケーションのあり方が、種々論じられるようになりました。しかしグローバル・コミュニケーションや新技術によるメディア・コミュニケーションのモデルといわれるほどの研究が確立されているとは言えない現状でしょう。この分野に関してはまったくの手探り状態で、技術的進歩に追いついていないといえます。
人間対人間の対話からメールやインターネットによる対話の変化は、オーラル・コミュニケーションから文字情報への転換でありましたが、さらに将来は、ネットによる1対1のリアルタイムによる対話が可能になるだろうと思います。その時は、新しいタイプのオーラル・コミュニケーションが成立するかもしれません。
日本のコミュニケーション研究は、このうちマス・コミュニケーション研究に偏ってしまっていて、コミュニケーション研究の著作がマスコミ中心とした、企業戦略的なものが多いように思えます。
日本の戦後史においてコミュニケーション研究がマスコミ研究に偏り、さらに営利主義に悪用されてきたように感じます。その後プライバシーの問題から脚光を浴びたこともありますが、日本的土壌になじまなかったせいか、単なる話題に終わった感があります。
アメリカにおいては、プライバシーの問題は、コミュニケーション研究者の格好の材料となり研究され文献も多くあります。後年、家庭内暴力やセクハラ、パワーハラスメントといった問題が起きましたが、どうも日本はこれらの個人的な問題に対する取り組みが弱いように思えてしまうのは私だけでしょうか。
個人主義が根付かず社会的傾向がどちらかというと社会主義的になっています。あるマルクス主義者の言に「もっとも理想的な社会主義国家は、日本である」と言ったといいますが、なんとなく納得してしまいます。
お上にお任せ的で大きな政府が国民に安心感を与えているのが現状で、小さな政府は国柄的に馴染んでません。地方分権も多分それほど進まないような気がします。
プライバシー問題が一段落する頃、ようやくPRとパブリシティという言葉が、企業内に使われ始めました。高度成長経済後の日本の企業は、行き詰る経営にカツを入れるべくPRとパブリシティを企業戦略の前面に押し出してきました。
しかし前述したようにコミュニケーション研究が、マス・コミュニケーションを中心にして進められてきたため、多くの人はPRやその他のコミュニケーション活動が、企業の営利のためにあるとの既成概念をなかなか変えることができませんでした。
コミュニケーションが人間生活に関わりのない次元で研究されてきたような印象を持たれてしまっているのが現状です。
実際にはマス・コミュニケーションとマイクロ・コミュニケーションの間には、密接な関係が存在していると言われています。特にマス・コミュニケーションの効果の研究におけるメッセージの構造とか、コミュニケーションの心理過程の問題などがそうです。すなわち宣伝や世論の諸問題は、意味、認知、説得などの心理的諸変数の問題として関わっているのです。
コミュニケーション科学が、近年、次第に自然科学的な性格を強めてきているように思います。それは、近代的な産業社会において科学技術が目覚しい発展をしてきたことにより、社会の生産・流通・消費の面で、人間活動の規模が拡大し、複雑化してきました。
その結果、情報の流通の研究が実用的な見地から次第に必要に迫られてきたからであります。これがマーケティング科学の生まれた原因です。
マーケティング科学における知識の体系化の概略を整理、分類すると次のようになるでしょう。① 人間の問題(消費者、セールスマン、小売業者、広告関係者等)② 企業組織の問題(小売と卸売り、ブローカー、製造業、倉庫、運輸業等)③
マーケティング活動の問題(売買、信用、開発、保管、運輸、広告、価格決定等)。
これらの三種のマーケティング現象に関する記述的、予見的、統制的な知識のシステムをマーケティング科学と呼ばれています。
けれどもコミュニケーションの問題から切り離した新しい学問領域というよりは、行動科学の一領域であったと考えたほうがいいと思います。
マーケティングとは、もともと市場と企業や組織とのかかわりを考察するアプローチです。これまでのマーケティング手法は、4P構造を中心とする戦略体系を基本として、市場区分の選択・設定、市場分析を行なってきました。
4PとはW.レイザーとE.J.ケリーによって確立されたマネジリアル・マーケティングの枠組みで、①製品政策(Product Policy)②価格政策(Price
Policy)、③広告・販促政策(Promotion Policy)、④チャネル政策(Place Policy)の4要素を規定しています。
これは、製品(Product)をどのように開発し、それをいくら(Price)で、かつどの販売経路(Place)で売るか、そのためにどのような手段で情報を伝えるか(Promotion)ということです。
けれども最近は、「市場との関わり方」を「市場との語らい」に転換しようという考え方がでてきています。この市場との語らいとは、双方向のコミュニケーションそのものです。インタラクション(双方向)の重要性が言われ始めましたが、かつての4Pを中心としたマネジリアル・マーケティングから、関係性マーケティングへとパラダイムシフトが起こりつつあるということでしょう。
双方向のマーケティングを実現するには、双方に信頼関係が必要とされます。不信を信頼に変える努力、価値観の転換がポイントとなるでしょう。
コミュニケーションを中心としたインタラクションのマーケティングが、コミュニケーション・マーケティングです。
このコミュニケーション・マーケティングは、「主体と客体とが常にコミュニケートしている状況を形成・維持することであり、主体と客体とが常に双方向的なコミュニケーションを行うことによって双方に共感・共鳴・共業という行為が発生し、最終的には主体と客体とが融合するような仕組みを作ることである」と定義されています。
もちろん主体と客体は企業と消費者を意味しています。しかしこんなことは、改めて学問的に言わなくたって江戸の町民や大阪の商人たちは百も承知でした。元来、商売とはそうして成り立っていたのです
双方向のコミュニケーションが忘れられた商売は、一方的に作られた製品を宣伝等で消費意欲を高めて売りつけてきたからに過ぎない。とはいえ、消費者が必要を感じるものを作るための努力、技術の向上等にはそれなりの意味はあったと思います。
マーケティング的視点からの消費者行動の研究は何を解明するかというと、いわゆる「5W1H」を解明することといえます。「誰が」(Who)、「何を」(What)、「いつ」(When)、「どこで」(Where)、「なぜ」(Why)、「どのような方法で」(How)、という6つの側面、言い換えれば、「購買主体」「購買対象」「購買時期」「購買場所」「購買理由」「購買方法」という消費者行動の解明が問題になるということです。
とくに現代のように消費者の多様化・個性化が進み、物質的充足を達成した状況のもとにおいては、とくに購買理由(なぜ)の解明が重要になっています。
高度経済成長からバブル経済を経て、わが国の消費者は物質的には十分すぎるほど満たされた消費者になってしまったといえます。そんな現代の若者を消費者ターゲットにするのは、結構難しいといえます。
最近目にする言葉に猫型人間という表現があります。上司と部下のコミュニケーション・ギャップの原因を探るために考案されたものらしい。
そこで言われていることは、「最近の若者は、物質的には十分すぎるほど満たされた消費者となり、「何が欲しいかがわからない」のではなく関心がないのである。それは何も消費に限らず出世や仕事や会社に対してもそうなのである」と。
1997年に山一證券が破綻して以来、彼らには、団塊の世代が求めてきた庭付き一戸建ての家に白い子犬という夢が、幻想のように感じているのです。
コミュニケーションとは何かという問いに対し明確に回答を出すことが出来ないのが現状でしょう。何故かというと「コミュニケーション」という言葉が私達の日常生活においてかなり広範な意味合いを持って使用されているからです。
したがって数々の著作物のタイトルに「コミュニケーション」の文字を用いながら、その内容は、実に多種にわたっているのです。それは、電気通信の原理であったり、印刷技術の歴史であったり、言語研究の書であったり、政治や選挙のことであったりと様々なのです。
それでもなおコミュニケーション研究が盛んなのは、人間と人間のコミュニケーションが、その複雑さのゆえに、研究者の意欲をそそるからだと思います。
また、現代社会にあって何かが欠けていると感じ、その解決のために人間と人間の真のコミュニケーションを模索せざるを得ない人間としてのやむにやまれぬ欲求からくるのだとも思います。
理想的な人間コミュニケーションの姿を求めながら、現実に吹き荒れる人間不信の嵐のなかで友を裏切り、志を同じくした同志を妬み責める人間の行為をあげればきりがありません。
しかし、人間社会にあって世界平和、幸福な安定した社会の実現を祈る宗教者が、真の人間コミュニケーションの理想の実現のために思索し努力するのは当然の行為でなくてはならないでしょう。
コミュニケーションに関する基礎的な理論として様々な学問分野を前述しましたが、そのなかになぜ宗教学がないのでしょうか。宗教学が社会学の立場から検証するとき、その組織的、社会的影響の面に偏ってしまうからでしょう。どうしても教義面や会員同士、トップや教祖とのコミュニケーションといった側面は、わかりにくいのだと思う。
ましておや、神や仏との関係をコミュニケーションの視点で捉えることはなかったと思います。コミュニケーションは、あくまでも人間同士による対人関係の問題であり、そこには神や仏が入り込む余地がないと思われていたのだと思います。
あえて入れるとすれば、人間と人間の間に存在した触媒、あるいは媒介としてのみその存在が認められていたということになると思います。
したがって人間と神や仏との間に生じるコミュニケーションは考えられなかったといえます。とうぜん神や仏と対話することは無い訳だから通常思考される双方向のコミュニケーションはないことになります。
現代のコミュニケーション研究は、多くの領域で独自に進められています。それぞれの研究領域すなわち視点の取り方いかんによっては、どのようにでも規定することが出来るということです。
別の表現を用いるなら人間を含めて素粒子から宇宙に至るすべてにまで拡大され、さらに心的、物的現象まで同じコミュニケーションの名で呼ぶことが可能になってしまっています。
まことにとらえにくく曖昧な感じさえ与える反面、それ故に不思議な魅力をもっているといえます。それは、対象に対して独自のやり方で規定してきた個別科学は、コミュニケーションという新しい角度からのアプローチによって、これまでとは違った新しい洞察が得られるのではないかとの期待です。
さらにコミュニケーションという共通性が、個別科学の壁を乗り越えて学際的研究へと進めるのではないかという期待です。しかし、このような学問的魅力だけでなく営利を目的とした企業や一票一票を気にする政治家、さらに大衆にアッピールしようとする各種団体にとってもコミュニケーションは、魅力を備えた新しい分野です。
宗教がいくら一人の人間を対象とし、人間存在の本質的な側面に働きかけるといってもその一人の人間の社会的影響、さらに団体としての社会的責任が存在しています。
先に取り上げなかったが宗教学という視点からもコミュニケーションの問題を重視した動きが見え始めたのは、1970年代にはいってからです。もっともそれは、宗教学者ではなくキリスト教団でした。もちろん他の宗教教団もその動きはあったのですが、キリスト教団ほど明確な意識を持っていたとは言い難いのが現状です。
ローマ教皇庁は、社会的コミュニケーションに関するキリスト教的見解、および人類の進歩に対するマス・メディヤの貢献、さらにそのための教会の責任を示した「広報に関する教令」の司牧指針を「コミュニケーションと人類の進歩」と題し、1971年5月23日に公にしました。
一つの宗教団体が社会的責任の名のもとに、世に公にしたコミュニケーション研究の第一号ですが、それがキリスト教団であるという事実に注目したいのです。
この年の1月8日に創価学会も広報室を設置していました。一見、時を同じくしたように見えますがキリスト教団との広宣活動の具体的な展開は、宗教団体のコミュニケーション活動の先駆的な役割を果たしたキリスト教団に比べるとこの時すでに八年もの開きがありました。
また創価学会の広報室は、コミュニケーションに関する活動というより渉外活動を中心としたパブリシティ活動でした。
この時期はまだコミュニケーション行動に関する具体的な見解が出ていなかったのです。ただコミュニケーションとは何かといった問いにたいし一応の分類はあります。それは、物的・機械的コミュニケーションと精神的コミュニケーションです。
エネルギーの交換過程やそのメカニズムは、同一物理系内に属する事象として物理学的法則によって説明できます。
だが精神的コミュニケーションは、物理学的法則から自由な系に帰属しています。したがって知的情報の伝達には、エネルギーの減少はありません。それゆえに人間コミュニケーションの研究が、独自性を持つことになります。
また、コミュニケーション研究者は、伝統的な個別科学を横切った総合的なコミュニケーション科学の体系化に魅力的な知的冒険心が湧き上がることも感じているようです。
複雑系のコミュニケーション研究は、複雑であるだけに魅力的でもあるのでしょうが、同時に多くの困難をも直感し、あるいは痛感しているのも現状です。まさに総論無き各論の時代のまっただ中なのです。
しかし、いずれにしてもコミュニケーションの研究は、人間を中心として進めざるを得ないのです。それは、各論から総論に向かう指向性の原点に、人間の存在を無視できないから当然といえましょう。
たとえ物的・機械系コミュニケーションといえども最後に行き着く先は「人間にとっていかなる意味を持つか」という視点は、コミュニケーション科学として欠かすことは出来ないところです。
純粋な理論物理学の世界だけに限定すれば必要ないかもしれませんが、それでも自然の原理が人間にとっていかなる意味を持つか問い続けることを避けられないのです。
人間が宇宙の神秘に知的好奇心をもつこと自体、それは「人間の神秘」への知的好奇心と表裏をなしているからなのです。
したがってマス・コミュニケーションを始めとする社会的コミュニケーションに対しても人間との関わりより観ることになります。
すべてにおいて人間コミュニケーションを基底部に据えて、下位にパーソナル・コミュニケーションを置き、上位に社会的コミュニケーションを置くという位相関係を仮設することになります。
社会的コミュニケーションにおけるその手段としてのパブリック・リレーションやプロパガンダの活用、さらにその媒体と機能としてのマス・コミュニケーション、さらにその効果的な意味での人間行動にみる社会関係と自己といった面での重要な関りがあります。
社会関係は一般的に、物質の伝達と情報の伝達によってコミュニケーション過程が存在すると言われています。この見方は物質を“質量”と“形相”というふうに分類したスコラ哲学からきています。
一般的な社会的コミュニケーションは、話し言葉や書き言葉を担う物質、すなわち音声媒体や文字媒体の伝達がなければ受信者の心的コミュニケーション状況は生まれないとします。また「社会的再生産過程」に見る「物質流通」と「情報流通」もまた社会的コミュニケーションと考えられています。
K・E・ボウルディングは「生産活動とは、物質ないし情報の価値増大的な変換(変形)過程に他ならない」と言っています。
情報の社会的伝達は、集団規範や文化などの社会的な情報の貯蔵と社会的意思決定などの情報の社会的変換であり、基本的な情報処理科学は、コミュニケーション科学として出発したのです。
したがって、情報の伝達過程(社会的コミュニケーション過程)は、人間社会における基本的な問題と言うことができます。
アメリカの社会心理学者ハートレー(1912―2002)は、コミュニケーションが個人に対して三つの機能を果たしているという。
(1)コミュニケーションは個人に対して世界をパターン化する。(2)コミュニケーションは他の人々との関係において、個人自身の位置を定義づける。(3)コミュニケーションは個人が首尾よく環境に適応するのを助長する。
また、社会や集団、組織においてコミュニケーションは、(1)社会統制の手段であり(2)構成員の社会化と統合に不可欠な機制であり(3)文化の創造、享受、継承を可能ならしめるという。
コミュニケーション研究者などによる定義は、①メッセージの伝達②情報伝達およびその反応③情報、観念、あるいは態度を共有する④共通のシンボルを生む⑤シンボルにより情報伝達される⑦メッセージによる社会的相互作用といった具合です。
こうしたコミュニケーションの概念的多様性にもかかわらず、「人々が情報、観念、態度、行動、感情、経験などを共有すること」というコミュニケーションの基本的特性があります。
もともとコミュニケーションという言葉は、ラテン語のコムニスから派生したものと云われています。
「共通の」とか「共有の」といった意味を語源的にもっています。このことにより、心的共通性・共有性という基本的な特性こそ人間コミュニケーションの原点ともいえます。
したがって、人間のコミュニケーションの特徴は、意味の伝達と共有を図る双方向的、循環的、創発的な記号・象徴行為といえます。
また単に伝達だけでなく「フィードバック」の概念も考慮する必要があります。そうでなければ人間のコミュニケーションの実相を理解することはできないでしょう。
話し手が聞き手の表情や返答などの反応に配慮しながら会話を進める場合、意識的にフィードバックを行っているといえます。
相手の反応をみながら会話は進みます。反応が好意的であれ批判的であれ相手からの反応という情報を読み取っています。このような行動を人間コミュニケーションにおけるフィードバックといいます。
フィードバックがコミュニケーション行動の事後的調整であるのに対して、「フィードフォワード」という言葉があります。予想や予期に基づくコミュニケーション行動の事前の調節機能です。
相手にある種の反応を期待し、予想された反応が生じなかった場合に、別のコミュニケーション行動がとれるようにあらかじめ準備しておくことを言うそうです。人間コミュニケーションの質的な豊かさは、じつに複雑で多機能を有しているといえます。
人間のコミュニケーションの場合、情報源と送信体、受信体と目標とはそれぞれ別個のコミュニケーション単位としてよりも、一組のコミュニケーション構成単位としてとらえたほうが理解しやすいのではないかと思います。
しかも、人間のコミュニケーションにおける双方向性と循環性を考えますと、個人は送り手であるとともに受け手でもあります。したがって送り手、受け手にかかわりなく、メッセージの記号化、解読、解釈は重層的に進行すると考えたほうが良いといえます。
そして人間のコミュニケーションは、主に言語による象徴的コミュニケーションですが、言語が相互に了解可能な意味をもつ記号のシステムである限り、コミュニケーションは文化によって規定された事象になることでしょう。
異文化間のコミュニケーションが、いかに困難で、やっかいな問題を引き起こすことを考えれば、容易に理解できるでしょう。
しかし、前にものべたように国内や家庭においてすら、さまざまな要因やジェンダーなどの差によって、記号やメッセージの意味内容が微妙にずれてしまうことは多々あります。
これを意味論的ノイズともいいますが、情報の伝達には人間コミュニケーションに限らず機械的情報伝達や自然現象を含めても必ずこのノイズを考慮しなければならないといえます。
そのためのフィードバックなのです。そしてこのノイズが人間関係におけるコミュニケーション・ギャップを生じさせてしまうのです。
さらに、人間社会のコミュニケーション・システムは、経済や政治とも深く絡み合っています。経済システムと政治システムの態様が、その社会におけるコミュニケーションの様式と機能を規定し、多大の影響を及ぼしているのが現実の社会だからです。
21世紀になるころコミュニケーションの定義で注目される視点として、コミュニケーションを共有の言語に基づいて社会的結合・統合・合意を図る行為・過程であるとみるだけではなく、コミュニケーションの惹起する葛藤・差異・離反・排除・抑圧の位相にも目を向ける複眼的な視座の台頭、さらにコミュニケーションとメディアとを表裏一体の関係としてとらえるメディア論的パラダイムへのシフトだといわれます。
それだけでなく人間のコミュニケーション能力を進化的観点から理解する試みも進められているみたいです。人間という動物のコミュニケーションを特徴づけるのは言語というオーラル・コミュニケーションでありますが、人間の言語コミュニケーション能力は、単一の能力というよりも複数の認知能力の複合であると考えられます。
たとえば、意図的な音声表出能力、参照的な音声信号、非言語的な概念表象を構成する能力、他者に「心」を帰属させることでその行動を予測する能力、文法にのっとった文をつくり出す能力等が関係していると考えられるからです。
もちろんこれらに類似した諸能力を他の動物にも見ることができます。けれども私は、これらを動物の能力というよりも生命存在が持つ生命の力用であると考えています。生命の力用については、生命のコミュニケーションといった視点で考察していくつもりです。
第二項 コミュニケーションの類型とモデル
コミュニケーションの類型にはいくつかありますが、一般にあるレベルにおいてシステムを措定し、システム内とシステム間コミュニケーションとに分けられます。
そこで大別して個人と社会の二つのシステムを考えることになります。すなわちパーソナル・コミュニケーションとソシアル・コミュニケーションです。これをシステム・レベルに基づく類型とよびます。
さらにソシアル・コミュニケーションは、社会システムをどのレベルにおいて措定するかによって細分されます。
集団、組織、地域、全体社会、国際社会、文化等々におけるレベルのシステム内・システム間コミュニケーションというようにです。
個人システムにしても社会システムにしても目標達成のための道具的・適応的機能と、システム維持のための表出的・統合的機能に分けることができます。
前者を道具的コミュニケーション後者を自己完結的コミュニケーションと言われています。そしてこの類型をシステム機能に基づく類型といいます。
またメッセージを構成する記号の種類によってメッセージの特性が異なります。すなわち言語、文字、画、身体といったもので構成されたメッセージによるコミュニケーションの分類のことです。
この分類をメッセージ特性に基づく類型といい、この分類には、言語と非言語コミュニケーションと画像と映像コミュニケーションがあります。
とはいえ、言語と非言語の区別は明確ではありません。というのは、文字であってもそのフォントによって言語の意味とは別の意味、すなわち強調とかいったメッセージを送ることがあるからです。その場合、言語であって言語以外のメッセージを送っていると考えられるからです。
さらにチャネル特性に基づく類型というものもあります。チャネル特性とは、そのチャネルの方向性によるものと、記号伝達のための媒体を必要とするかしないかによって二つにわけられます。
すなわちチャネルの方向的特性に基づいてそれが一方向か双方向かということです。これを一方向コミュニケーションと双方向コミュニケーションといいます。また、チャネルに一定の記号伝達のための媒体が必要かどうかで間接的コミュニケーションと直接的コミュニケーションと分けることがあります。
人間の感覚に働きかけるという意味でのコミュニケーション類型を感覚という視点からの類型といいます。当然のことながらこれは、チャネル特性とメッセージ特性に基づいていて、次の三つがあります。①視覚コミュニケーション②聴覚コミュニケーション③触覚コミュニケーション
また、送り手の意図に基づく類型というのもあります。すなわちメッセージの伝達に意図があるかないかによって意図的コミュニケーションと無意図的コミュニケーションとに分けられています。
これらの他にも変容を目的とした説得コミュニケーションと非説得コミュニケーションや垂直的、水平的コミュニケーションなどの類型もあります。
さまざまな類型の例としてたとえば、上司による部下への指示や命令の口頭伝達などを考えてみますと「パーソナル・公的・直接的・言語・聴覚」コミュニケーションいえます。
しかしコミュニケーションの類型化の妥当性と有効性については、必ずしも充分に検討されているとは言いがたいのが現状です。
妥当性と有効性の問題は、システム内コミュニケーションとシステム間コミュニケーションとでは、その判断の基準が異なるため、一概にはいえませんが、システム間における活用、すなわちあまり複雑な人間関係を伴わない場合には役立つように思われます。
なお社会的コミュニケーションの問題として興味ある対象にネットワーク、コミュニケーションの流れ、それに関連してオピニオン・リーダーといったことがあります。
オピニオン・リーダーの特徴をE・M・ロジャースとF・F・シューメーカーの共著「コミュニケーション・オブ・イノベーション」において1200に及ぶ実証的研究の結果を踏まえて一般化できると言ってます。①マス・メディアへの接触が多い②生活圏が広い③変革促進者との接触量が多い④社会的参加の度合いが高い⑤社会的地位が高い⑥新しい考えや実践、あるいは新しい製品などを早く取り入れるという意味での革新性が高い。
さらにこの著では「属する社会システムの規範が、変化というものに対して肯定的なら革新的であるが、規範が伝統的である場合には、必ずしも革新的であるとはいえない」とし、また「社会システムがより近代化するに従って、オピニオン・リーダーがそのリーダー・シップを発揮できる領域が限定されてくる」と言ってます。
一般的にこのようなオピニオン・リーダーのリーダー・シップが、複型から単型へと返ることは、伝統的社会システムから近代的社会システムへの移行段階と対応するといわれています。
また、それだけでなく個人の年齢段階とも対応することが知られています。すなわち年を経るに従って、単型のリーダー・シップとなる傾向があり、その意味では、個人システムと社会システムは、微妙に対応しているといえるのではないかと思います。
なおオピニオン・リーダーについては、創価学会にみるコミュニケーションという視点で後述するつもりです。
社会的コミュニケーションの伝達を一般的な発信者、送信過程、受信者と分けずに総体として見ようとして作った吉田民人のモデルがあります。
このモデル図は、かなり初期のものではありますが、基本のモデルとしてもとても優れていると思います。さらにこのモデルを背景に社会的コミュニケーションの諸類型を四つに分類したものがあります。
①有意・無意コミュニケーション②実経験性・象徴経験性コミュニケーション③(認知・評価・指令)志向型コミュニケーション(認知・評価・指令)表現型コミュニケーション④単用・耐用コミュニケーションの四分類です。
はじめの有意・無意コミュニケーションに関してはさらに次の四つの型が考えられました。(1)有意発信-有意受信型(2)有意発信-無意受信型(3)無意発信-有意受信型(4)無意発信-無意受信型
無意発信型は、しばしば誤解に基づくディス・コミュニケーション効果を招き、有意発信型は、真実が隠されることがあるといった問題点も指摘されていますが、それぞれにそれなりの意味が見出せる型式ではあります。
実経験性・象徴経験性コミュニケーションについて。
実経験性は、用具的・利用型の説得コミュニケーションですし、象徴経験性は、表出的、自己完結型・満足型の娯楽コミュニケーションです。これも四つに分類することができます。
(1)用具-利用型というのは、政治、経済、科学、教育、天候、保健、放送番組などに関する報道となります。
(2)用具-満足型というのは、犯罪、汚職、事故、災害、スポーツ、美術などに関する報道がそうです。
(3)表出-利用型というのは、娯楽番組や新聞小説の実用的、忠告的、身の上相談的な利用となります。
(4)表出-満足型というのは、表出-利用型の夢想的、代理経験的な享受となります。
認知・評価・指令型コミュニケーションについて。
ここで言う認知とは、“事実判断”であり、評価とは、“価値判断”であり、指令とは、“実践指針”ということになります。そしてこの三つは、志向型と表現型というタイプに分類できます。
たとえば、“それは私の傘だ”という時、認知表現ですが、それが返して欲しいという意味内容を含む時は、指令志向型となります。したがってこの場合は、認知表現-指令志向型コミュニケーションということになります。しかし事実のみを言いたかった場合は、認知表現-認知志向型コミュニケーションとなります。
政治家は国民への奉仕者ですと言った場合、捉え方によっては認知表現-指令志向型とも評価表現-認知志向型ともいえます。要はその情報の発信者、受信者の視点によって異なってしまうのです。
発信と受信の志向タイプが合致する場合には、円滑なコミュニケーションが成立することになります。そうでないとディスコミュニケーションが起きるといった具合です。
いずれにしても社会的コミュニケーションの場合は、単なるシンボル的な志向や表現であってはならないのではないでしょうか。
“志向”という問題を考えるとき、E・M・ロジャース等の研究で明らかにされた“経験的一般化”が有名でしょう。その中で、たとえば技術革新の採用において、認知段階では、パーソナルあるいはオーラル・コミュニケーションが有効であると述べています。これは、経験一般化の一つの結論でもあります。
また別にC・モリスの言語活動の諸類型を紹介しておこうと思います。勿論これは、言語コミュニケーションを対象にして、発信者の「志向タイプ」と「表現タイプ」の組み合わせによる類型です。
「志向タイプ」には、次の四種類を設定します。認知志向、評価志向、指令志向、体系化志向です。
「表現タイプ」には、次の四種類を設定します。認知表現、評価表現、指令表現、形式的表現です。組み合わせとして次の16種類になり、それぞれを~的と表現しています。
認知志向・認知表現を科学的といい
認知志向・評価表現を小説的といい
認知志向・指令表現を法律的といい
認知志向・形式的表現を宇宙論的といい
評価志向・認知表現を小説的といい
評価志向・評価表現を詩的といい
評価志向・指令表現を政治的といい
評価志向・形式的表現を修辞的といい
指令志向・認知表現を法律的といい
指令志向・評価表現を道徳的といい
指令志向・指令表現を宗教的といい
指令志向・形式的表現を文法的といい
体系化志向・認知表現を宇宙論的といい
体系化志向・評価表現を批評的といい
体系化志向・指令表現を宣伝的といい
体系化志向・形式的表現を形而上学的と言ってます。
小説的とは、認知志向・評価表現、評価志向・認知表現ということらしいです。この図式から一般的に次のことが言われています。志向タイプと表現タイプのズレは、社会的コミュニケーションのうえでは、人間的摩擦を緩和する反面、一般意味論が指摘するディスコミュニケーションの原因ともなりやすいということです。
この図の中で宗教的という蘭があります。そして宗教的が、指令志向-指令表現に類型されています。一般意味論のうえでは分かり易いのですが、社会コミュニケーションのうえでは、逆に人間的摩擦を起こし易いという一面があることを意味しています。しかし宗教的が、指令志向・指令表現であるというのは、C・モリス自身の宗教に対する彼自身の経験的一般化というより、帰納的推論という印象を感じます。
最後は、単用・耐用コミュニケーションです。単用情報とは、知覚、ニュース、命令のようにその時その場限りの利用価値しか持たない情報を指しています。また耐用情報とは、日常言語や文字、社会規範のように何度となく再生、利用される情報を意味しています。
ふつうニュース報道や命令伝達は、実経験性の単用コミュニケーションとされ、伝達のスピードが重要視されています。電波媒体によるニュースの速報性やコンピュータのオンライン、リアルタイム等は、伝達の同時性が重要となってくるのです。
スポーツ中継や芸能番組は、象徴的経験性の単用コミュニケーションといえるでしょう。他方、教育活動や科学の研究発表は、実経験性の耐用コミュニケーションとされます。これは、文化伝承や世代間伝達であり蓄積の受容が条件となって、それに応じた伝達の反復性が要因となるからです。
また、一般には、宗教活動や芸術の創作発表は、象徴経験性の耐用コミュニケーションとされています。
これまでの四つの捉え方(吉田モデル)の他にも、東大の心理学者である竹内郁郎等によって考えられた人間行動における社会的コミュニケーションの捉え方というのがあります。
それは、シンボルの伝達過程としての視点から①シンボルの伝達過程②対象認知過程③対人認知過程の三つの側面を設定し、これらが絡み合いつつ進行していくものであるというのです。
他にもダニエル・ラーナーは、社会的コミュニケーションを①口頭(オーラル)システム②媒体システムの二つに分けています。そして前者のシステムは、農村的で文盲率が高く、地位が権威者の指令によって決定されるような条件を持った“伝統的社会”において支配的であるとしています。
また後者は、都市的で識字率が高く、選挙によって地位が決定されるような近代的社会において支配的なシステムであるという説を提出したのです。
ここでいう“口頭システム”とは、パーソナルなチャネルによって指示的情報が、地位の上から下へと伝達されることを特徴とする社会的コミュニケーションの様式であり、“媒介システム”とは、媒介的チャネルによって報道的情報が専門的職業人から大衆的(異質的な)マスに向かって伝達されることを特徴とする社会的コミュニケーションの様式のことです。その他にも種々の社会的コミュニケーション論があります。
近年、様々なコミュニケーション研究によって発表されたものもありますが、それは、後述したいと思います。けれども現代社会のITの発達による新たなコミュニケーション媒体によるコミュニケーション研究は、技術の発展に追いついていかないのが現状です。
コミュニケーション・モデルについて。
コミュニケーション・モデルをいくつか紹介したいと思います。近年に発表されているモデルもありますが、基本的には初期のころのモデルの変形に過ぎないものが多いように思います。
シャノンのモデル。
シャノンは、ミシガン大学・マサチューセッツ大学技術研究所を卒業した応用数学者です。
シャノンは、通信工学領域の電話(ベル研究所 勤務)における発信=受信過程を図式したモデルを考案しました。
このモデルは電気工学的、生物学的、心理学的、社会学的なシステムに活用でき注目されました。
情報伝達の流れとしては明確でありますが、ディスコミュニケーションの原因となる雑音源に対する修正ならびに発信源への問いかけのない一方向性に検討の余地があったのです。
ラスウェルのモデル。
ラスウェルは、シカゴ大学を卒業した政治学者で、マス・コミュニケーションの理論的研究を組織化した先駆者でもあります。
日本の政治学に多大な影響を与えた政治学者だそうです。ラスウェルは、第一次大戦の遂行に際して情報の管理がいかに重要な役割を果たすか、さらに情報の人為的操作が、重要な外交的あるいは戦略・戦術的決定にいかなる影響を与えるか、そして、相手方の情報操作に対してどのような対抗手段が必要かといった問題を政治学的な分析モデルからコミュニケーション・モデルが派生的に作り出されたのです。
ラスウェルは、構成要素を明確に分離することにより、研究の領域の境界線をはっきりさせました。このことは、コミュニケーション理論を開発し発展させるのに重要な土台を提供したのです。そして社会学、政治学、文化人類学、新聞学といった社会科学の領域でコミュニケーション研究に携わる人々に多く利用されました。
この図から分かることは、新聞記事、特に報道記事における5W1Hと言われる「何時」「どこで」「誰が」「何を」「誰に」「どうした」に似ています。
報道記事は、事実を出来るだけ分かりやすく伝達する一方向性のコミュニケーション手段であるのにたいし、ラスウェルのモデルは、政治的手段としての大衆操作、意図的世論形成を目指しているといえます。
オスグッドのモデル。
オスグッドは、イリノイ大学を卒業した心理学者で、人間コミュニケーションの一モデルを作り上げたことで有名な人です。
またグリット(GRIT 国際緊張緩和の漸進的交互行為)政策の提唱者であり、心理言語学の分野でも情緒的意味測定法(S・D法)の創始者でもあります。
オスグッドの研究の中で、学習心理の領域においても「象徴媒介過程」と言われる有名なモデルを作りました。
オスグッドのモデルは、コミュニケーションの単位を個人と対人的コミュニケーション(ネットワーク)に分けます。そして前述したように人間コミュニケーションのモデルと言われるように、かなり人間心理を詳細に分析したものであります。
シュラムのモデル。
シュラムは、ハーバード大学を卒業した、哲学、文学、マスコミ理論を専攻した文学博士です。著作には「マスコミの自由に関する四理論」(1959年)が有名です。
シュラムのこのモデルの“解釈体”は、オスグッドのいう媒介体と同じ質のものであります。いうまでもなくシュラムのモデルは、マス・コミュニケーション理論から作り出されたモデルであり、心理学者オスグッドのモデルとは、基本的に異なるものであります。
それは、フィードバックの仕方が、個人の修復を伴なう反省であるのに対し、効果判定を目安とするメッセージ出力の記号化の修復というところです。
この違いは、メッセージの発信体が異なるだけという単純な問題ではありません。コミュニケーション分析の方法論の違いを意味しているのであって、シュラムのモデルは、常に両者(発信体と受信体)が、交互に影響しあいながら、相対関係の中にマス・コミュニケーションの姿があることを説明しているのです。
四人のコミュニケーション・モデルを紹介しましたが、他にもバーロのモデル、竹内郁郎のモデル、ミラーのモデル、ガーブナーのモデル、ウェスリーのモデル(ABCモデルともいう)等があります。
宗教学者のモデルがないのは、宗教によるコミュニケーション研究があまりないからなのでしょうか。
人間に最も深いかかわりを持つと思える宗教の研究者が、なぜ、コミュニケーションに興味を持たないのかが不思議です。
神や仏と人間のコミュニケーションが、人間個人の自己完結されたコミュニケーションであると定義すれば確かに研究対象から外さざるを得ないのかもしれません。せいぜいシンボル論に発展させるくらいなのかもしれません。
宗教団体やその宗教教義が社会に果たした役割の評価が著しく低いゆえに、マス・コミュニケーションやマイクロ・コミュニケーション研究自体が、宗教と結びつかなかったのだろうと思います。
それほどにコミュニケーション研究は、産業社会の発展と共に歩んできたという証左なのかもしれません。
けれども宗教が社会に果たす役割が、すべて個人の人格の陶冶によっているうちはさほど問題がなかったのですが、宗教団体自体が社会にかなりの影響を与えるようになってくると、それは、そのまま産業社会の担い手としての責任ある宗教団体として、社会的責任と運動論を明確にするコミュニケーション・モデルが必要になるのではないでしょうか。
もちろんこのことは、創価学会に限らず世界宗教といわれるすべてに対して言えることだと思います。
もっとも広く知られているコミュニケーション・モデルは、前述したシャノンとウィーバーによって提示されたものだと思います。
このモデルは通信情報理論の基礎となった記念碑的業績と言われています。電気通信で情報を迅速かつ正確に送るためには、どうすればよいかという通信工学的問題意識に基づいて構築されています。したがって、本来は機械系コミュニケーションにもっともよく適用されるのですが、人間を含めて生体系コミュニケーションのシステムにも広く応用できる点で、影響力のあったモデルといえるからです。
情報源はまず伝えたいと望むメッセージを選択します。送信体はこのメッセージを信号に変え(符号化・記号化)、信号はコミュニケーション・チャンネルを通して受信体に送られます。
受信体はその信号をふたたびメッセージに変換して(複号化・記号解読)、目標に送り込むことになります。信号の伝達過程でメッセージの正確さや有効性を低減させる要素をノイズ(雑音)となずけています。
このモデルには、「情報源/送信体」「目標/受信体」「メッセージ」「チャンネル」「ノイズ」「符号化・記号化」「複号化・記号解読」といったコミュニケーション過程にかかわる基本的要素ないし要因がほとんど含まれているのです。
通信理論の専門家であるワレン・ウィーバーには、展望論文というのがあります。ウィーバーは、複雑系の科学の構想を明確な意図と展望を持って述べた最初の人です。
1948年に発表した「科学と複雑さ」という論文の中で、彼はガリレイ以来の科学研究を振り返って、3つの問題群を区別しています。まず19世紀までの「単純さの問題を扱う科学」、第2に19世紀後半以降に発展した「組織されない複雑さを扱う科学」、第3に「組織された複雑な科学」です。
ワレン・ウィーバーは、複雑さが20世紀後半では科学の基本問題となるという科学研究の戦略プログラムをつくりました。この複雑系の考え方は、現在では自然科学、社会科学、人間工学、を問わず世界に浸透した思潮でもあります。
その萌芽は、19世紀末の精神科学の主張にも見られます。けれども社会科学は、自然科学とはことなる複雑な現象を対象としており、自然科学を手本にはできないと主張しています。複雑さがいろいろな学問において新しい挑戦の鍵となると考えられるようになるのは、1970年代以降です。
数学におけるカオス力学系やフラクタルの発見、化学における非平衡熱力学、コンピュータによる人工知能の開発が行き詰まりつつあることなどが契機となり、諸科学に対する複雑さの意義が理解されるようになりました。学際的な刺激とともに、複雑系への関心は、同時多発的なものとなりました。
ウィーバーは、「ひとつの心が他の心に影響を与える手続きの全てが、人間コミュニケーションである。それは単に文字や、ことばや、話しことばを含むだけでなく、音楽や、絵画、演劇や、バレエ、そして事実上、あらゆる人間行動を含む」と言います。
しかし、当然ながら自然科学はより単純であることを望みます。単純な公式や数式に美を感じてしまうのです。それは、自然は本来ものすごく単純であるはずだという自然科学者の願望でもあります。
コミュニケーションモデルは、情報が正しく伝わったり、伝わらなかったりするのは、情報の発信者と受け手が、別々の存在であるということが、前提になっています。それらの間で情報がやりとりされ、最終的に〈共有〉されると考えるわけです。
言い換えると、情報が共有されたり、共有されなかったりという発想が、生命論的ではないということです。
人間存在における共有性が単に情報の共有だけではないでしょう。生命と生命の共感、感応の原理は、複雑系というよりも、生命の深みに関わる問題だと考えます。このことは後章で述べていきたいと思います。
第三項 社会的コミュニケーション
社会的コミュニケーションのあり方は、パブリック・リレーション(啓蒙)とプロパガンダ(宣伝)に象徴されていました。さらにマス・メディアを使ってこれらを行うのが社会的コミュニケーションであると一般的に認識されていたように思われます。ところが、今日のような情報社会になり少々過去の定義があやふやになってきました。
マス・メディアの中でも特にマス・コミュニケーションの定義があやふやになってきています。
一般にコミュニケーションというとすぐマス・コミュニケーションを思い浮かべる人が多いのは、日本のコミュニケーション研究の方向が偏ってしまったからである。コミニュケーション、イコール宣伝といった印象を持っている人もいる。
日常的なコミュニケーションと宣伝の違いは、組織性にあると言ってよいでしょう。さらに操作性が宣伝には加わっていると思う。宣伝は、用意された結論をいかに説得するかに力点がおかれ、巧妙に仕組まれた議論や一義的なシンボルを提示することを特色としている。
宣伝という言葉は、1922年以来、ローマ・カトリックの布教活動に従事した、布教政省を簡略した用法に由来しているといいます。したがってこの言葉には、歴史を背景として、布教活動にまつわる責任とか尊敬といった言外の意味が含まれていたのである。
このように、本来、教化を旨とするコミュニケーション活動としての宣伝が、白を黒と言いくるめる巧妙な技術と考えられるようになってしまったのは、何故だろうか。
近代国家において社会諸体系が、複雑かつ密接な相互関係にあり、さらに兵器の進歩とあいまって、戦争を職業的な軍隊のみに依存することが事実上不可能となったのである。そこで戦争が、国民生活全般にかかわるものとして、総力戦の様相を帯びざるを得なかったのである。第一次世界大戦の戦時宣伝が、そのために使用されたのである。
それは、近代国家の政治構造が、中央集権制であり、挙国一致の体制を固めるために、明確な方向性を持った大量の宣伝を流す上で有効な手段であったのであろう。マス・メディヤの発達が、その実現を可能にしたのである。これらを契機にまた、起因として白を黒と言い含める巧妙な技術は完成されていったのである。
マルクス主義においても、宣伝に関するレーニンの定義がある。そこでは、「宣伝」と「煽動」を区別しようとしている。すなわち、宣伝は教育があり、論理を弁えた一部の人々にマルクス・レーニン主義の原理を説明しようとする科学的論理的な議論の仕方である。それにたいし煽動は、教育程度の低い一般大衆に譬え話とか、情緒的なスローガンを用いて影響を与えることであるといっている。
「煽動」については、ラスウェルやカプランによって定義されたものがある。すなわち「煽動とは、行動への大きな圧力を伴いその圧力を増大するように働く状況における反応制御のためのシンボル操作である」という。
情緒的シンボルを巧みに操作することによって、主として未組織大衆の不平不満を刺激的に外面化し、彼らを特定の具体的行動へと駆り立てる訴えかけということになる。それ故に煽動家は、問題状況を説明することよりも、要求される行動を指示することに意識を深く用いるのである。
レーニンは「煽動」と「宣伝」を「行動への呼びかけ」によって区別することを批判しているのだが、単に影響を与えるだけで行動への呼びかけをしないというのでは、あまりに政治的な発言であり、詭弁としかいいようがない。
次に行動科学的アプローチによる「宣伝」という特殊な説得コミュニケーション過程について述べてみたいと思う。特に宣伝の企画、分析といった問題について、どのような視点で考察されていくのかということを項目別に並べてみたいと思う。
1.目的
2.世界の社会体系の現状と未来像(説得の効果は、一定の時間及び場所の社会体系に
呼応するものである故に)
3.国家、地域集団といった下位概念の現状および未来像
4.伝播機関
5.使用するシンボル
6.宣伝回路(新聞などのマスコミ、大衆示威、文化的組織体など)
7.宣体客体(エリート、オピニオン・リーダー、大衆、敵対者などの標的)
8.他の原因によらずして、宣伝に起因する効果
9.逆宣伝、検閲、政治、経済的圧力などの宣伝の中和ないし統制する方法
といった項目を視点として考察していくのが、行動科学的「宣伝」といったものと考えてもらえば良いと思う。
宣伝に関連した用語に「業績の宣伝」というのがある。これは、宣伝の下位概念であるが、後進国経済援助に典型的にみられるもので、業績それ自体は、名目的目的であって、その象徴的な潜在機能を本来の目的としたものである。これらには、外交、法論議、広告などがある。
この「宣伝」の対比語として「PR」がある。宣伝(プロパガンダ)が、存在あるいは保持する商品の価値、主義や主張の内容をなんら修正を加えることなく相手に売り込むのに対し、PR(パブリック・リレーションズ)は、逆に対象が受け入れやすいように自己匡正、修正する作業を伴うものである。したがって、PRは、全体主義社会や独裁国家では存在しえないのである。
PRとは「個人あるいは、集団が(1)その個人ないし集団に対する無理解に対し理解と親近感と好意を得ようとする。(2)利害の反する対象グループとの間に共存共栄を図ろうとする理念、行為、表現活動であって、そこには、社会的責任を自覚した上で、社会大衆の支持と協力を得ることが大切であるという考え方に基づく活動、技術の総称」ということになっている。この宣伝とPRの違いは、ある意味で折伏と摂受ともいえるのではないだろうか。
PRを「広報」と訳す場合があるが、これはPRの表現活動の一部であるパブリシティ、社内報、PR誌のことである。PRの訳語としては「啓蒙」とか「徳化」といった意味になるのかも知れない。また「共存共栄」は、力の均衡というより、社会大衆が決定しうる生存の条件である。
ウェブスター・ニュー・インターナショナル辞典の定義
(1)説明材料の配布、隣人としてのつきあいの発展、公衆の反応の評価を通じて、
個人、社会また公共団体と他の人々、特定の公衆、または地域社会全体との間
の親近感と好意を促進する。
(2)イ、個人組織体または公共機関と公衆との間に築かれた理解と好意の程度。
ロ、この関係を築くための技法の適用。
(3)イ、相互理解と好意を深める技術または科学。
ロ、この職務を委ねられた専門スタッフ。
PRという用語を史上初めて使ったのは、ニューヨークの弁護士D.イートンで、1822年でエール大学法学部で「パブリック・リレーションズと法律家の義務」と題して講演したのが最初と言われている。
地域社会の秩序を乱した者に加えられた群衆のリンチと、裁判における陪審員制度を論じたものである。リンチに参加したのが群衆であり、陪審員は選ばれた公衆であると定義した。
PRの日本の中に根づいた歴史
1948 野村証券宣伝部 遠藤健一が、早稲田大学教授の北沢新次郎のPR論文に啓発されて、株主PRの必要性を啓蒙する一大PR運動を起こす。
電通外国部長の田中寛次郎が、アメリカからPR文献を取り寄せ、日本ではやっていない制度広告(企業・官庁広告)を「PR広告」と名付けて広めてしまった。PRと広告をすり替えて紹介したため「広告することがPRか」と思わせてしまった。
1952 ヒューマン・リレーションズが、近代労務管理方式として、日経連の手で紹介され、従業員PRの手段としての社内報、提案制度の指導が始まった。
1957 マス・コミでPR誌が話題になり、
1960 ダッコちゃんやホンコンシャツ等の商品が流行。これを機に各企業が争ってパブリシティに力を入れ、PR広報部や広報室の設置が流行った。
結局、PRも各方面で都合のいいように解釈、紹介したために、本来の意味が忘れられ手段や技術がバラバラに発達した。修正することなく今日に至っているのが日本のPRの歴史の現況である。
これまでは、新聞や放送などのように、社会組織として機能する送り手が、高度な技術的・機械的装置を使用してメッセージや情報を割合早く場合によってはほとんど同時に、しかも一方的に、不特定多数の人々に大量伝達する公共的性格を帯びたメディア・コミュニケーションの形態と過程のことでした。
こうしたマス・コミュニケーションのこれまでの定義にもかかわらず、パソコン、インターネット、電子メールなどの普及にみられる情報技術の急速な進歩のなかで、定義が揺らぎだしているのです。
すなわちインターネットというメディア・ツールを利用することによって、ネット上で公開、提供される多様な情報源に個人でも直接アクセスすることができ、あるいは自らホームページを開設して世界に向けて直接かつ瞬時に情報を発信することができるからです。
ここには特殊な技術も社会的組織も必要ないのです。まさにニューメディア、マルチメディアとマス・コミュニケーションは、共存するだけでなく、相互に越境しあい影響しあって機能的なシームレス化への道をたどっている。その結果、情報源へのマスコミの独占的アクセスや情報伝達の優位性が揺らぎ始めてしまっているのである。
一般にコミュニケーションというとすぐマス・コミュニケーションを思い浮かべる人が多いのは、日本のコミュニケーション研究の方向が偏ってしまってきたからです。マス・コミュニケーションイコール宣伝といった印象を持っている人もいました。
パブリック・リレーション(啓蒙)とプロパガンダ(宣伝)については後述したいと思いますので、まずマス・コミュニケーションについて述べておきたいと思います。
前に述べたようにコミュニケーション科学は、社会的な情報処理科学へと発展しましたが、それは、情報の伝達過程が人間社会における基本的な問題だったからである。そして種々のモデルや分類がなされてきたわけです。
社会的コミュニケーションの中で特に重要なのがマス・コミュニケーション研究でしょう。マス・コミュニケーションの構造と機能、過程、権力、効果、責任(法とコミュニケーションという研究もかなり行われています)といったものの考察もかなりの数の著作が出版されています。
多数の人々に、同じ情報を同時に送り出すことを可能にしているコミュニケーションの伝達の仕方とその送り内容、それを受け取る受け手の反応と社会的影響の総体をマス・コミュニケーションと呼ぶわけです。
また一般にマス・コミュニケーションの機能という言葉の持つ意味は、次の四つになると言われています。
①マス・メディアの機械的・技術的属性に基づく伝達様式上の特性を持つこと。
②マス・コミュニケーションの社会的使命という意味を持つこと。
③マス・コミュニケーションの活動を機能という意味に使用すること。
④マス・コミュニケーションがもたらす効果の意味を持つこと。
さらに、マス・コミュニケーションの構造について考えると次の7種類に分けることが出来ます。
① 送り手
マス・コミュニケーションの企画や制作にあたる組織、あるいは個人としての作り手とそ
の内容を直接、受け手に伝える伝え手のことです。
② 広義の媒体
(1)物理的・電気的媒体(音波、光波などのこと)
(2)送り手手段(伝達の物質的側面、たとえば印刷、放送などのこと)
(3)送り方法(印刷物の販売、映画の上映、テレビの放映などのこと)
③ 送り内容
受け手に伝達される内容(新聞記事、放送番組などで、活字、音波、静止画像、動画像などのこと)
④ 受け手反応
送り内容に接触し、反応を起こす人たちで、読み手、聞き手、見てなどと、受けることを拒否する反受け手と、経済的理由などから受けられない潜在的受け手などです。
⑤ 受け取り内容
送り内容が受けての意識内容になったもののことです。
⑥ 受け取り反応
受け取り内容に応じて、受け手が接触中に起こす反応(たとえば視聴覚、認知、欲求、感情など)と接触が終わってからひき続き起こる反応としての後反応などがあります。
⑦社会効果
後反応が終わってから、一定の時間が経って再び起こる受け手の反応を再生反応と呼び、再生反応が反復し積み重なったものを社会効果と呼んでいます。
このような構造を持つマス・コミュニケーションは、資本主義社会においては、商業性を社会主義社会においては、国営の公共性をその主な性格になって現れていることは改めて言うまでも無いと思います。
もちろんマス・コミュニケーションの問題は、その応用だけでなく表現の自由、思想、言論の自由の問題と深く関わりを持ちながら研究されているのです。
さらにそれだけでなく、昨今の商業主義の産物としてのマス・コミュニケーション利用は、しばしば悪用されている面が見られるため、大衆に与える情報のマイナス面という問題も研究されています。
このようにマス・コミュニケーションの利用は、その善悪に関わらず社会効果を通じて大きな社会的機能を果たしているといえます。ここで言うところの社会的機能とは、具体的にいうと次の四つのことです。
(1)報道
(2)教育
(3)宣伝
(4)レジャー
しかしこれらの四つの機能の交流が不可欠なことは言うまでもないと思います。
特に、レジャー機能が占める位置の比重が年々大きくなり、宣伝機能もレジャー的要素を含まずにはいられなくなってきているのではないでしょうか。
とはいえ現代社会においては、マス・コミュニケーションの持つ機能を社会的機能として把握することは容易ではないように思えるのです。
マス・コミュニケーションの研究もまたコミュニケーション研究における機能概念と同じく、その多義性は、研究領域によるアプローチの仕方で様々なのです。
したがって先にあげた四つの機能をそのまま鵜呑みにしてすべての社会的団体の社会に働きかける側面にレジャーの要素を入れなければならないとするのは早計だろうと思います。
現代のマス・コミュニケーションは、多様な社会的影響要因と複雑に絡み合いながら活動しておりますので、人々の行動や社会状況に何らかの変化が生じたとした場合にもそのうちのどれだけがマス・コミュニケーションの働きによるものかを確定することは、極めて困難であるといえるからです。だからといって、敬遠することは明らかに間違っていると思います。
ロジャース等の“経験的一般化”に見られる認知段階におけるマス・コミュニケーションの働きは、大ですし、社会的責任を有するマス・コミュニケーションの機能の活用は重要でしょう。
マス・コミュニケーションの社会的効果についていまだに決定的な説得力のある研究が発表されていない現状とはいえ、広宣流布運動がマス・コミュニケーションと切り離せない以上、仏法を基調とした研究への努力を怠るならば、無視する以上に危険性を内在させていくことになると思っています。
いたずらに大衆と社会に不信と不安を与える愚は、絶対にしてはならないでしょう。責任ある行動は、明確な説得性を持たせていくことから始まると思うからです。
マス・コミュニケーションの社会的機能研究の代表的なものとして、ラザースフェルド(オ-ストリア・ウィーン大学、社会心理学者)とマートン(アメリカ・ハーバード大学社会学者)の諸説を紹介しておきたいと思います。
ラザースフェルドとマートンは、マス・コミュニケーションの社会的機能を与えるにあたってまずマス・メディアが存在するということそれ自体が果たす機能を考察し、ついでマス・メディヤが置かれている社会構造、具体的にはメディアの所有と運営の形態がもたらす影響にふれ、最後にある社会的な目的のためにマス・メディアが利用される場合の諸問題を論じています。
そこでマス・メディアの存在それ自体が果たす機能として三つあげています。
① 地位付与の機能
これは、ある人物が組織なり政策なりが、マス・メディアによって取り上げられるとそれらのものの社会的立場が引き上げられ、重要な存在として人々に印象づけられるような現象をさしています。
もっともその端的な例として、有名人による広告をあげ、これを“相互礼賛のカラクリ”と呼んでいます。(出来レース)
② 社会規範の強制
公の道徳に背く行動や出来ごとを“明るみに出す”ことによってそれまでは違反が黙認されていたような社会規範が明示的なものとなり、なんらかの社会的行動を通じて、その規範の強制力が回復されるという現象です。
③ 麻酔的逆機能
マス・メディアからの情報の洪水によって、人々の社会の諸問題についての知識を持つようになりますが、それで満足してしまって、問題解決のために何らかの社会的行動を実際に起こそうとする気持ちを放棄してしまうといった現象です。
次にマス・メディアの所有と運営形態がもたらす影響にふれています。最後に、「社会的目的のためのマス・メディアの利用は、それが大きな効果を持つが、その効果を高めるのに必要な条件そのものが、現存する社会、文化構造を変革の方向にではなく、逆にそれを維持する方向に作用している」とし、「現存の所有形態(現代の社会、経済機構にしっかり根を下ろした巨大な企業に依存しているので)の元にある限り、社会の現状をさらに強固にする機能を果たしている」というのです。
マス・メディアの利用は、これらの機能を自己保身のために利用し、表面的には革新的に装い悪用するといったものもあります。
とはいえ、現存の社会機構のなかにあってマス・コミュニケーション利用の社会的影響は、一般大衆に与える効果を考えますと、そのイメージ形成にたいし、何もしないよりはるかに鮮明になると考えられています。
マス・コミュニケーションの研究は、この他にも環境造成、シンボル操作、プロセス効果、流れ、消費行動、大衆文化との関り、表現の自由、歴史、プライバシーといった分野があります。
20世紀は「マス・コミュニケーションの時代」とよばれ、現代社会におけるマス・メディアの発展と浸透性は、重要な歴史的事実の一つだといえます。
マスコミの成立と発展は、なによりもコミュニケーション技術の驚異的発達によってもたらされたといえます。
コミュニケーションの技術革新は次々と新しいメディアを生み出し、マス・メディアを多様化するとともに、その高度化を推し進めてきました。ITの発達は、コミュニケーション・テクノロジーの変換を促すことにもなりました。
近代社会の発展を推進した工業化、都市化、民主化の諸過程は、いずれもマスコミの飛躍的成長と密接な関連をもつ社会的諸条件でありました。
工業化と、都市への人口集中が急テンポで進行し、これまでの伝統的共同体の権威や統制から大衆は解放されてきたといえます。受け手が大衆という集合体になると、社会的統合のメカニズムとしてマスコミへの依存度は、ますます高まることになりました。
また、消費者としての大衆の潜在的購買力を喚起して、大衆消費社会を支える有力な広告メディアとして機能してきたともいえます。
マス・コミュニケーションは近代化の所産でもありますが、同時に現代人の社会生活上欠くことのできない「公器」ともなったのです。
近年のIT技術というコミュニケーション・テクノロジーによってもたらされている情報は、はたして「社会の公器」としてのマスコミュニケーションといえるかどうか少々疑問を持たざるをえませんが。
前述しましたが、社会的コミュニケーションのあり方は、パブリック・リレーション(啓蒙)とプロパガンダ(宣伝)に象徴されていて、マス・メディアを使ってこれらを行うのが社会的コミュニケーションであるという認識が一般的でした。
したがって、コミュニケーションといえば日常的な人間コミュニケーションを意味するというよりも企業と消費者の間における宣伝あるいはPRのことだと思っていた人がおおいのです。しかもこの宣伝とPRは同じことだとも思っていたのです。
日常的な人間コミュニケーションと企業宣伝の違いは、組織性にあると言ってもよいと思いますが、さらに操作性が宣伝には加わっていると思います。
人間コミュニケーションを考えるにあたって、先にマス・コミュニケーションを取り上げたのは、このような事情があったからです。
コミュニケーションという言葉一つでもこれほどに多義・多様性を含んでいるのです。
マスコミの発展を推し進めた技術的伝達手段をマス・メディアといいますが、その代表が新聞、雑誌、書籍などの印刷媒体と、テレビ、ラジオ、映画などの電子媒体とに大別されます。
広告業界では、新聞、雑誌、テレビ、ラジオを四大マス・メディアとよんでいます。近年はご存知のとおりITもその中に入ることになるのでしょう。
また、伝達媒体の中身を分類して文字、聴覚、視聴覚メディアといった分類のほか、新聞、雑誌、書籍、レコードなどのパッケージ系と、テレビ、ラジオ、電話、CATV(有線テレビ)などの電気通信系という分類もあります。
とくに、コミュニケーション技術の目覚ましい革新とコンピュータの著しい発展・普及は、新聞、出版、放送、通信、映画といった既存メディアの境界をあいまいにさせてしまっています。
メディア相互間の融合(メディア・ミックス)や放送とコンピュータ技術との結合によるデータ放送、さらに多メディア・多チャンネルといったマルチメディア、マス・メディア化、そしてモバイル、インターネットという社会的ネットワーク化などこれまでの分類に収まりきれない形態を生み出しています。
ネットワーク化については後述してみたいと思っていました。とくにコミュニケーションのネットワーク化現象は、重要です。
なお、日本では「マス・メディア」と「マスコミ」が、同義に扱われることが多いのはその発展の歴史によると思います。
この他にも現代社会のコミュニケーション構造、日本のマスコミの現況と特徴、社会的ネットワークとインターネットの世界。さらに視聴覚コミュニケーション、コミュニケーションにおけるシンボルの役割などに話は進み、第1節の最後に本題であるパーソナル・コミュニケーションの諸問題を種々論じる予定である。
各分野のコミュニケーションの考え方、特に福祉の分野、患者と医師、介護と要介護者、親子・兄弟、友人、職場、人間の対話能力そしてディスコミュニケーションと進んで第1節を終えるつもりである。
第2節として日蓮仏法に見るコミュニケーション論と創価学会における人間コミュニケーションのあり方を考えてみたいと思う。そして生命がコミュニケーション媒体になれるという主張を展開していくことになる。
第3節として「平和」「文化」「教育」という観点から池田思想・哲学における新しい人間主義、ヒューマン・ルネサンス(人間復興)運動の意義を検証するつもりである。この運動こそ新しい人間主義、地球民族である人類のコミュニケーション革命なのである。
人間革命運動を止揚した人間復興運動を筆者は、コミュニケーション革命と命名した。人間のコミュニケーションは、異文化間であっても人種の違いを超えて成し遂げられる在り方が必要なのである。そのキーワードこそ「平和」「文化」「教育」である。
池田思想・哲学の徹底的分析と検証の総称を「コミュニケーション革命」という。人間自身の変革の現実的行動は、人間対人間のコミュニケーションの変革である。
第二節 日蓮仏法の人間コミュニケーション
第一項 コミュニケーションとは何か
コミュニケーション科学の現状と歴史。
第二項 人間コミュニケーション
コミュニケーションという言葉が持つ多義性は、人間コミュニケーションにとっても実
に多義多様性を含んでしまっている。
第三項 有情と非情のコミュニケーション
人間と自然を日蓮仏法より見れば、有情と非情のコミュニケーションとなる。
第四項 有情と有情のコミュニケーション
人間と人間のコミュニケーション。
第五項 日蓮仏法の人間コミュニケーション
日蓮の人間観から見た人間コミュニケーションのあり方。
第六項 生命のコミュニケーション
説得から共感へ、共感から共存へ、共存から共生へのコミュニケーション。
さらに共生から納得へと進む。説得から納得への道のりは遠い。
生命のポテンシャル。
人間のコミュニケーション方法に関する様々な難問は、その多義性と多様性において見ることが出来る。コミュニケーションの研究者は、それぞれの分野で独自のアプローチを試みながら確固たる定義を作る。しかし全体を統一するコミュニケーション理論が見られないのは、それが哲学的、あるいは宗教的に成らざるを得ないからであろう。コミニュケーションの持つ多義性、多様性は、そのまま人間にとっていかに重大な問題を含んでいるかを物語っているといえる。人間からコミュニケーションを無くすことは、生存の否定にもなる。
人間は、多種多様の願いを心に描く生き物である。願望は努力や信念や祈り等の行為となって実現を期待する希望の光でもある。それはまた生きることへの力ともなる。生る限り希望を失うことは死を意味する程である。仏法者として生きる事は、本源的な自己への探求の道であると共に、他人への伝導という自他共の救済の実践でもある。
世界のあらゆる宗教にあっても対境は異なるといえども祈りという普遍の行為が存在する。この事実は驚異的な普遍性を持っている。人間は、何故、祈りという行為から脱却することが出来ないのであろうか。祈ることによって何故、願いが叶うと信じることが出来るのだろうか。人類という知的生命の持つ「祈り」の行動は、その共通性にも驚きを持つが、それ以上に祈りに懸ける執念に神秘さえ感じされられる。
日蓮仏法を信奉するようになった私が最初に感じた疑問は、祈りによって願いが叶うのは何故かということであった。祈ることによって本尊と自分との間にどのような関係が生じるのだろうかということであった。それは人間の関係性と異なる別次元の現象なのであろうか。依正不二論や境智冥合論、九識論等ではとても納得のいくことではなかった。神や仏とのコミュニケーションには人間間のコミュニケーションとは異なる媒体が存在するというのだろうか。人間同士であっても言語や環境が異なると、意思の疎通が思い通りにいかない事実と同様の理由が存在するのだろうか。神や仏の生命と人間の生命との生命次元のコミュニケーションが成立するというなら、その根拠とコミュニケーション過程を知りたいと思うようになった。
人間は、シンボルを作り、用い、そして時にはそのシンボルに支配されているかのように見えるが、人間コミュニケーションにとってシンボルは単に媒介としての記号以上なのかもしれない。宗教における本尊もまたシンボルの域を出ないと考えられている。日蓮仏法における本尊もまた「旗印」としてのシンボルなのであろうか。日蓮の仏法の真髄は、自身と仏とのコミュニケーションの在り方にある。すなわち仏とは、自身の対境にあるのではなく、対内に存在するとしてその信仰の在り方も自己完結型のコミュニケーションを基盤にしている。日蓮が法華経の行者としての自覚に至る道程を、コミュニケーション過程として見つめ直すことは意義があると考えていた。一人の青年僧、日蓮が、仏と自身とのコミュニケーションの昇華を目指すことに、いかなる歴史的意味を持つのだろうか。
人間コミュニケーションの研究は、社会状況の変化とともに変わっていくであろうが、必要性という意味では、今後ますます社会の人々の関心の的にもなっていくだろう。アメリカにおいては、一九三〇年代後半からすでにコミュニケーション研究が開始されている。その主流は行動科学的アプローチであった。以来、数十年間にわたる行動科学的アプローチによるコミュニケーション研究の成果は、一応その目的を達したといわれている。
しかし、行動科学的方法による調査分析(コミュニケーションの内容分析や受け手調査等々)及びその研究データは厖大な量におよび、その結果、調査分析で解ることは大体解ってしまうという事態を迎えてしまった。すなわち人間コミュニケーションの考察が、人間行動を基調とした行動科学的アプローチのみでは、どうにもならないという方法的反省の声まで聞こえてくるようになった。およその基礎データの解明も、複雑に交差した現代社会を抜本的に変革するだけの力にはならず、参考程度の役割となり、その限界が露呈するまでになってしまった。まさに人間は、人間の行動面のみでは語り尽くせない存在として新たに問い直される時代に入ったといえる。
このような行動科学的アプローチを真っ向から批判した言語心理学者・チョムスキーらの研究も、マス・コミュニケーションを含む社会的コミュニケーションとの関わりの中で、マイクロ・コミュニケーションの果たす役割という道具で、人間コミュニケーションの本質を手探りするに止まることになってしまう。人間コミュニケーションの研究は、人間とは何かという永久命題と抵触しながら思索し続けなくてはならないだろう。そしてその努力を人類は怠ってはならないだろう。現代のコミュニケーション研究が、転機を迎えていることに気ずきながらも、転換しきれないところに現代社会の行き詰まりを感じるのゆえに、新たなアプローチ領域の探求の必要性を見るのである。
新たなアプローチ領域の探求は、それがたとえ方法論的変更であったとしても、コミニュケーションが人間の日常生活に深く関わりを持つ以上、何らかの意義をそこに見いだすことは容易であろうと思う。それがコミュニケーション研究の転換にとって一筋の光明となるかもしれないからである。いずれにしてもコミュニケーションの重要性を否定する人はいないだろう。意識するしないに関わらず、現実の生活や社会の中で直面する様々なコミニュケーション・ギャップにと惑いを感じたことの無い人はいないだろう。
一見、何でもないことのような意思の伝達が、思わぬ誤解を招いてしまうことも多々ある。人間コミュニケーションの難解さは、甘く見れば見るほど深い泥沼に填り込むことにもなってしまう場合がある。この現象は、人間コミュニケーションが、単なる意思・思想の伝達だけではないことを物語っているからだろう。情報技術が発達した時代になり、緻密な情報交換が可能となったとしても事態は決して楽観的ではないのである。
コミュニケーションは、その媒体と手段によって一層確実にコミニュケートされるだろうが、所詮は人間対人間のコミュニケーションであることを忘れてはならないだろう。「説得」から「共感」への人間コミュニケーションの転換は時代の趨勢とはいえ、まだまだ見えてこないのが現状である。人間コミュニケーションの革命的展望は、どのような形で人類史のなかに出現されるのであろうか。親子の断絶がマスコミで話題になってから四半世紀。昨今は、若年層の狂暴な犯罪が問題視されるようになった。時代はますます人間不信の度が増してきたように思える。不信の世紀から信頼の世紀へと転回する方途を指し示す必要性を感じながら人類は、未来に希望を見い出せないまま二十一世紀を迎えようとしている。
人間関係論序説は「経」の原理を根幹にしながら社会科学としての価値論がその基調に流れている。「真善美→美利善→安利善」の価値体系を創造することにあるコミュニケーションにおける方法序説でもある。そこから導かれ予言されるものは世界宗教としての自立の道でありコミュニケーション革命である。
現在のコミュニケーションのあり方を人間の生命を基幹とする視点を指し示す故に、コミュニケーション革命という。人間中心のコミュニケーションといっても人間とは何かが常に底流する命題として存在し続ける。
日蓮仏法とコミュニケーション
現代に生きる日蓮のコミュニケーション革命
コミュニケーションとは何かという問いに対し明確に回答を出すことが出来ないのが現状である。何故かというと「コミュニケーション」という言葉が私達の日常生活においてかなり広範な意味合いを持って使用されているからである。したがって数々の著作物のタイトルに「コミュニケーション」の文字を用いながら、その内容は、実に多種にわたっているのである。電気通信の原理であったり、印刷技術の歴史であったり、言語研究の書であったり、政治や選挙のことであったりと様々である。
それでもなおコミュニケーション研究が盛んなのは、人間と人間のコミュニケーションが、その複雑さのゆえに、研究者の意欲をそそるのであろう。また、現代社会にあって何かが欠けていると感じ、その解決のために人間と人間の真のコミュニケーションを模索せざるを得ない人間としてのやむにやまれぬ欲求からくるのだろうとも思える。
理想的な人間コミュニケーションの姿を求めながら、現実に吹き荒れる人間不信の嵐のなかで友を裏切り、志を同じくした同志を妬み責める人間の行為をあげればきりがない。しかし、人間社会にあって世界平和、幸福な安定した社会の実現を祈る宗教者が、真の人間コミュニケーションの理想の実現のために思索し努力するのは当然の行為でなくてはならないであろう。
現代のコミュニケーション研究は、多くの領域で独自に進められている。それぞれの研究領域すなわち視点の取り方いかんによっては、どのようにでも規定することが出来るということである。たとえば生理学・心理学・社会心理学・政治学・経済学・経営学・法学・論理学・情報理論・教育学・記号論等々。人文・社会科学・工学・自然科学といったあらゆる分野でなんらかの形で関わり研究しているのである。別の表現を用いるなら人間を含めて素粒子から宇宙に至るすべてにまで拡大され、さらに心的、物的現象まで同じコミニュケーションの名で呼ぶことが可能になってしまっている。
まことにとらえにくく曖昧な感じさえ与える反面、それ故に不思議な魅力をもっているといえる。それは、対象に対して独自のやり方で規定してきた個別科学は、コミニュケーションという新しい角度からのアプローチによって、これまでとは違った新しい洞察が得られるのではないかとの期待である。さらにコミュニケーションという共通性が、個別科学の壁を乗り越えて学際的研究へと進めるのではないかという期待である。しかし、このような学問的魅力だけでなく営利を目的とした企業や一票一票を気にする政治家、さらに大衆にアッピールしようとする各種団体にとってもコミュニケーションは魅力を備えた新しい視野である。
先に取り上げなかったが宗教学という視点からもコミュニケーションの問題を重視した動きが見え始めたのは、1970年代にはいってからである。もっともそれは、宗教学者ではなくキリスト教団である。もちろん他の宗教教団もその動きはあるが、キリスト教団ほど明確な意識を持っていたとは言い難いのが現状であった。このことは後述するつもりである。
ローマ教皇庁は、社会的コミュニケーションに関するキリスト教的見解、および人類の進歩に対するマスメディヤの貢献、さらにそのための教会の責任を示した「広報に関する教令」の司牧指針を「コミュニケーションと人類の進歩」と題し、一九七一年五月二十三日に公にした。一つの宗教団体が社会的責任の名のもとに、世に公にしたコミニュケーション研究の第一号であり、それがキリスト教団であるという事実に注目したいのである。この年の一月八日に創価学会も広報室を設置した。一見、時を同じくしたように見えるがキリスト教団との広宣活動の具体的な展開は、宗教団体のコミュニケーション活動の先駆的な役割を果たしたキリスト教団に比べるとこの時すでに八年もの開きがあった。
コミュニケーションとは何かといった問いにたいし一応の分類はある。物的・機械的コミニュケーションと精神的コミュニケーションである。エネルギーの交換過程やそのメカニズムは同一物理系内に属する事象として物理学的法則によって説明できるだろう。だが精神的コミュニケーションは、物理学的法則から自由な系に帰属している。知的情報の伝達には、エネルギーの減少はない。ここに人間コミュニケーションの研究が独自性を持つ所以となる。また、コミュニケーション研究者は、伝統的な個別科学を横切った総合的なコミュニケーション科学の体系化に魅力的な知的冒険心が湧き上がることも感じているようだ。複雑系のコミュニケーション研究は、複雑であるだけに魅力的でもあるのだろう。が、同時に多くの困難をも直感し、あるいは痛感しているのも現状である。まさに総論無き各論の時代のまっただ中である。しかし、いずれにしてもコミュニケーションの研究は、人間を中心として進めざるを得ないだろう。それは、各論から総論に向かう指向性の原点に、人間の存在を無視できないのであるから当然といえよう。
たとえ物的・機械系コミュニケーションといえども最後に行き着く先は「人間にとっていかなる意味を持つか」という視点はコミュニケーション科学として欠かすことは出来ない。純粋な理論物理学の世界だけに限定すれば必要ないかもしれないが、それでも自然の原理が人間にとっていかなる意味を持つか問い続けることを避けられないだろう。人間が宇宙の神秘に知的好奇心をもつこと自体、それは「人間の神秘」への知的好奇心と表裏をなしているからである。したがってマス・コミュニケーションを始めとする社会的コミニュケーションに対しても人間との関わりより観ることになる。すべてにおいて人間コミニュケーションを基底部に据えて、下位にパーソナル・コミュニケーションを、上位に社会的コミュニケーションという位相関係を仮設することになる。
人間コミュニケーションといっても、その視点いかんによっては様々な見解が生じてしまう。コミュニケーションのモデル、類型といった点は後に触れようと思う。その前にコミニュケーションの概念について述べておきたいと思う。もちろん一義的に規定するのは困難ではある。広範性と学際性、さらに日常用語としても多用されているためである。さらにそれぞれの立場で定義されているからである。
日常的には「人々が、いろいろな記号を用いてメッセージを構成し、それを伝達あるいは交換する過程」となる。
心理学的研究においては「コミュニケーションを人間の心理的な変容過程、あるいは影響過程としてとらえていくもの」となる。
社会学的研究においては「コミュニケーションは、相互作用、あるいは人間関係、社会関係としてとらえていくもの」となる。
情報学的研究においては「情報の処理と伝達のプロセス」ととらえ社会的コミニュケーションを「人間の個体ないし集合体の間における情報の処理と伝達の過程をさす」ことになる。
キリスト教にいては「キリストの言葉と行為の中に献身というコミュニケーションの最も完成されたモデルがある」として「父なる神の下に兄弟である人間社会において、愛によって一致に到達するための活用の手段である」となる。
以上、代表的と思われる例を少し列挙したが、ここからも解るように、どのようなシステムを(個人とか社会とか神とか)基準システムとしてとらえるか、また、その基準システム間のコミュニケーションを考えるかによってコミュニケーションの概念は、種々のタイプに分かれてしまうのである。基準システムの措定における個々の違いからくる独善性はどうしても免れないように思える。それが個別科学であれ神であれ同じように各論の域を出ないように思える。しかしそれでもコミュニケーションとは何かを人類は問い続ける必要があるだろう。コミュニケーションとはそれほどに人間的・社会的課題なのである。
第三節 コミュニケーション革命
第一項 人間と仏のコミュニケーション
本尊とシンボルの違い。
第二項 祈りのシステムとコミュニケーション
本尊に向かって祈ることの意味を原理として見直すこと。
衆生と仏であっても、第一節で述べたように、あくまでも菩薩の生命を媒介として成り立つコミュニケーションであること。
祈りという行為が、功徳と称される結果を生じると信じられるのは何故か。
人間と本尊、この主体と客体の間に生じる関係は、有情と非情の関係でもある。その媒体を含めて、どのようなコミュニケーション・システムが成立するのだろうか。
第三項 業・共業の束縛と自由における人間コミュニケーション
時空のコミュニケーション。
第四項 不二のコミュニケーション
空間次元のコミュニケーション。
第五項 師弟のコミュニケーション
時間次元のコミュニケーション。
第六項 コミュニケーション革命
生命原理のコミュニケーション。
人間コミュニケーションを時間コミュニケーションと空間コミュニケーションに分ける。時間Cは異時と倶時、空間Cは依存と不二のコミュニケーションである。
人間コミュニケーションの主軸は人間対人間である。しかしその人間を存続させている自然とのコミュニケーションもまた重大であると考えられる。
人間と人間のコミュニケーションの複雑さは、意思の伝達に様々な障害を引き起こす。歴史上における多くの裏切りや反逆の行為のなかにも人間コミュニケーションの困難さは垣間見える。翻って現代の世相にあっても
祈りとは機である。故に祈るという行為は機の行為となり、機の変化となる。機を自在に変化させることは祈りの自在性でもある。機は、根・縁・宣・応・感と結びつく。祈ることによって人間は人間という有情の生命に機が表面化する。人間という根を持つ存在が、祈る対境を縁として、対境に感応していく。生命が機を感じ、機に応じる故に生命のコミニュケーションという。
人間が人間以外にもコミニュケートできる可能性は、人間と自然が有情と非情の違いがあっても、共に「生命」存在であるという共通項による。
自然が人間に訴える、働きかけることもある。これを単に人間の感情が自然を擬人化して語っているに過ぎないとするのではなく、生命と生命のコミュニケーションの事象であるとするのである。
祈りの行為は生命のポテンシャルを変化させる行為であり、この変化は倶時に生じる変化でもある。時が抱える業のポテンシャルでもある。故にそのポテンシャルに適応、感応した生命状態が祈る人間を変革させる。
生命のポテンシャルは、そのポテンシャルに応じた智恵が湧く。ポテンシャルを主体的に変化させうる有機体を有情という。
祈りという行為を原因とし、対境を縁として因縁倶時の結果がポテンシャルとなる。因は無限の果を生むが、縁は無限の果より一果を決定する。
電子が光子を吸収したり放出したりする。しかし電子の中に光子が単独で存在していたのではなく、吸収という機に応じて反応した結果が放出である。人間の生命から放たれた祈りは、人間を存続させている生命に吸収され、その生命より新たな機を放出する。その機が人間生命のポテンシャルを決定する。光子は電磁気力の伝達媒体である。祈りは生命力の伝達媒体ともなる。しかし祈りは光子のように物理的に語る事が出来ない。
生命力は物理学的力ではないが、祈りは時には波動のごとく、時には粒子のごとく物理的力を表面化させる。
生命のポテンシャルの変革は、現実の物理的世界に働きかける固有の時エネルギーとして表面化する。固有の時エネルギーは、全宇宙に実在する時エネルギーとコミニュケートされる。
祈りは自身が抱える業・共業と時が抱える業・共業とのコミュニケーションの媒体となる。生命のコミュニケーションは、その媒体も生命でありその到達距離は生命的である。
「生命の海」の中を固有の生命は時エネルギーをも媒体とする。
時エネルギーという媒体は、根源の因となり祈りを縁として現実の世界に果報という物理的現象を引き起こす。この果報が新たな固有の時エネルギーとなって個人の人生を決定する。固有の時エネルギーが一人の人間の生命場となっている。
時が抱える共業に元品無明は常在するが法性真如も実在する。不二という時エネルギーの空間性である。
御本尊に向かって合掌。己心の仏を礼す故に作礼而去。如是我聞と作礼而去。如とは実相。去とは久遠。去はまた不去而去。生の始めに如是我聞。死の終わりに作礼而去。作礼は一切衆生の所作なり、妙法蓮華経なり。如去とは時なり所作とは間なり。時とは仏、間とは衆生。
複雑に構成された有機体同士のコミュニケーションは、その構成単位に還元することによってますます隠されていく。素粒子間の情報交換を原初のコミュニケーションと考え、根元のコミュニケーションより一切が理解され説明されるとかんがえるとますます視点の本質を見失う。
人間コミュニケーションは生命論であり経行であり御義口伝である。順応の原理は、応仏に順ずる生命状態。順逆に応ずる故に順応の哲学という。応仏は応身仏にて現身の仏。順応は順正にして生活の規範。依正に順じた人生は生命の傾向性を顕す態度でもある。人間コミニュケーションは、順応の状態で完結する。人間と人間、人間と自然のコミニュケーションは、人間と仏のコミュニケーションの中に全てが表現できる。人間の仏性と自然の仏性のコミュニケーションは、共通の媒体を介して行われる。
仏性と仏性は互いに呼び合い求め会いながら現身に表現の実態を顕現する。社会学的な人間の不可思議な要素も人間の仏性同士が行う不完全なコミニュケートの実相である。 逆応の原理とは逆縁なり。応仏に逆らう生命。応仏とは一代応仏ではない。応仏昇進の自受用身ではない。久遠元初自受用身となる。久遠元初自受用身に順逆するとは仏とのコミニュケートの実相にして衆生の生命の内にある。このことが仏界を現実世界に感応させることの哲学的意味である。順逆二相は久遠元初自受用身の仏と衆生の内なる仏とのコミニュケートの実相である。
宇宙の大部分は非情界である。非情界のコミュニケーション手段は、力と運動等で表現できるだろう。非情の生命に心を観る必要はないからである。非情の心には、意志と目的は存在しないが、心の存在が有情の心を支えている。人間という衆生に表出された生命は、創世されている故に、有情の心は非情の心でもある。有情の心は非情の心に支えられた存在として歴史となる。
心と心のコミュニケーション
有情の心とは何か
非情と非情のコミュニケーション
非情と有情のコミュニケーション
有情と有情のコミュニケーション
コミュニケーション革命とは
経としてのコミュニケーション
人間と社会
人間と組織
社会と組織
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仏と自然
人間と人間
創価学に観る人間コミュニケーション
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四月会
宗教法人法改悪
創価学会と政治
祈り 祈りのシステム 祈りのコミュニケーション
信心と実践と誓願
妙法蓮華経の開放としての経
業・共業の束縛と自在
法華文句「衆生にこの機あって仏を感ず、ゆえに名づけて因となす
仏機を承けてしかも応ず ゆえに名づけて縁となす」
祈りとは因縁を造作し、新たな業(身口意)を顕すことである。この業は、個人の持つ業と時が抱えた共業にたいし六識と相応して可変(自在)となる。
現業を定業と不定業に分け、業の三時(今世・来世・次々世)は過去の因にたいする果報。