池田先生が亡くなられてから、一か月経ちました。そんな時に私の作った年譜を参考にしたいという電話がありました。そして池田先生をもっと知るのに牧口、戸田両先生の人間性ももっと知りたいという理由らしい。
私はすぐに44年前の本部の雰囲気を思い出しました。私にすれば、今、牧口・戸田では無いだろうという思いが湧きあがりました。
それでも今回は、協力をすることにしましした。牧口・戸田年譜と戸田先生の音源を提供しました。
宗教と科学の対話は可能か
序文
宗教の近代化は世俗化でもあります。ここで言う世俗化を仏教用語で表現すると摂受の近代化的解釈と云えます。キリスト教の歴史は、この世俗化に大変なエネルギーを費やしたのです。日蓮仏法は、池田大作という指導者によって成し遂げられようとしています。それでも多くの困難に直面し、宗門から破門宣告を受ける事態を招いてしまいました。
そこまでして世俗化を推し進めなければならなかった理由は、世界広宣流布という大願成就のためです。
世俗化のメイン構成とは、神仏の人格化と人間の神格化という二面の否定です。宗教の根幹をなす革命でもあります。牧口が唱え、戸田が推進した人間革命運動を池田SGI会長は、人間復興運動(ヒューマンルネサンス)へと昇華させながらの、宗教革命という実践行動でもあります。
人間復興(ヒューマンルネサンス)の根幹は「人道主義」ですが、単に人間愛の立場ではありません。あえて言えば「人間尊重主義(ヒューマニズム)」「生命の尊厳主義」といえます。これは同義とされるヒューマニズム、すなわち人文主義、博愛主義でも人間中心主義でもありません。「人間尊重主義」「生命の尊厳主義」については後述します。
「地球には国境は見えない。宇宙が地球を一つにしてくれている」という宇宙飛行士たちの感慨を、人類が広く共有すべき時代に入っていると、池田SGI会長は云う。そして大切なのは「人類」です。「世界」ですと。文化の絆による友情と信頼があればさまざまな困難も必ず、対話と英知で乗り越えられると考えています。
神の存在を証明するため、あるいは、神の意志を知るためには、神が創造した自然の探究が必要だったのです。自然の絶対法則こそ神の意志だと思いたがったと言えます。近代から現代に至る過程の中でこの思考は風化し、人間から見た自然だけが、注目されるようになってきました。このような意識変革により人間の知識こそすべてに優先すべき事柄となっていったのです。科学とその応用である技術革新が、この変革に拍車をかけたのです。
人間のための自然、人間にとっていかに自然を理解し有効に利用できるかに焦点が移っていったのです。さらに極端になると人間が自然をコントロール出来るのではという思いあがった発想にまで進んでしまうことになりました。
すべての自然の法則は因果論で完全に説明できるという確信まで持ってしまう人たちが出てきたのです。そしてそれが科学的現代的だと信じているのです。人間の精神性や心に対してもいずれは完全に説明できると思っているらしいのです。
自然の様々な現象を観察することが出来るのは人間だけです。したがって人間が神に変わって真の観察者となる、あるいは神に近づくことを望むことになります。その証が技術革新によって成し遂げられる自然に対する理解度となります。
ガリレオの主張から見れば神の言葉として、聖書と自然の中に書かれた自然の法という二つの言葉があるという。しかもこの自然の法は、聖書とは異なり多様な解釈を許さないとなります。
現代では、科学の言葉と仏の言葉を追加しなくてはならないでしょう。すなわち神の言葉、科学の言葉、仏の言葉です。この三者の主張にはかなりの隔たりを感じるのです。
令和の時代になって起きた新型コロナウィルスの脅威に対し、神や仏は、全く無力でした。人類は科学技術に期待するようになりました。いかに神や仏の功徳を説いても誰も見向きも聞く耳も持たなくなったのです。
科学技術の成果は、人類共通の「普遍的」法則であるとさえ思われてしまったといえます。14世紀にペストが流行したときも、教会の権威は失墜し、国家の在り方の変化と科学に人々は期待することになったのです。この変化は、ある意味で社会、国家、そして科学の発展にも繋がっていったのも事実です。そしてますます宗教の存在価値は、希薄になってしまいました。
しかし宗教は本当に人類にとって無価値で無意味な存在なのでしょうか。新型コロナウィルスのような感染症は無くならないだろうと思います。被害の最小化に努力しながら、自然との共生、ウィルスとの共生が可能なら、それこそ人類にとって、混沌の中から湧き上がるような希望が見えてくると思います。
新しい環境に対応するためには、人間の智慧による科学革新のリードが、行われなくてはなりません。希望は若者の特権ではありません。私のような老人でも希望は、生きること、残りの人生に意味を見出すことができるのです。明るい未来と社会を夢見ることが出来るのです。
科学がどんなに発展しても、科学から仏法に近づくことはできません。依って立つ発想と基盤が異なりすぎるのです。むしろ科学が発達すれば、仏法から近づき易くなる可能性はあります。ただし仏法から科学への対話には、仏法の様々な用語の定義を時代に合った形で明確にしていくことから始める以外にありません。
そこで定義について一言述べて置きたいと思います。物理学だけでなく様々な科学分野には、それぞれに独自の言葉の定義があります。この定義という条件は、それぞれの分野で持っているルールみたいなものです。物理学なら物理を語るうえで便利であるようにするためです。
したがってルールの決定の基準はそれぞれなので、科学として定義自体の決定ルールは存在しないのです。そして定義は、人間の認識の仕方をある意味、拘束することになります。さらにその定義に沿って、論理を展開しますので、その場合は、定義そのものを肯定することが、前提になってしまいます。
それでも物理学の場合は、定義と認定されるまでに様々な関門が決められているので、人間も実験・検証の結果を受け入れやすいといえます。しかし心理学や精神学、社会学等々は、定義というより、現象的な記述によってルール化するしかないのです。
それは、人間を語る難しさに原因があるからだと思います。どの分野であっても人間を対象にしたときは、人間の存在を完全に語る論理的記述の正当性を持っていないということです。ただこのままだと定義そのものの確実性を疑わざるをえないので、論理によって導かれた予測と結果が、現実の現象を説明するうえで矛盾がなければ、取り敢えず認めることになります。
とりあえずというのは、結果を判断する人間側の都合によるからで、あくまでも人間という限定された事象のなかの論理的記述に過ぎないからです。もちろん本当に確実なものなどないのかもしれませんが、無意味ではないのです。人間という生命の存在意義を、より深く、より豊かにするための仮定と考えればいいと思います。
科学的思考とは、常に、ある仮定から実験・検証を経て一つの仮説を組み立てます。そしてその仮説から現実の自然現象を様々な数学的ルールや物理的仮説と照合させながら実証しようとするものです。物理学者は、自分が考えた仮説が、仮説として認定されるために生涯を掛けて挑んでいるのです。
一方宗教には、このような実験・検証の方法はありません。牧口常三郎会長は「科学は実験証明である。宗教もまた、生活と社会の中で実験証明されるべきである」と言っていましたが、科学的な実験証明のように、実験証明のための法則、方程式、公理、定理などありませんので、結果の検証ができないのです。
戸田城聖会長は、「科学は外界を見つめて真理の世界へ進んだ。と同様に、宗教は生命の内面へ真理を求めて発展した。人類の幸福のために真理を探究する、この二つの潮流の根幹がわからなくては、科学と宗教の問題は理解できない」と言われたそうです。
この発想は、科学と宗教の役割分担を明確にせよと言っているに過ぎません。役割分担は、確かに科学技術の発展を加速させました。その結果、宗教は、窮地に追い込まれたのです。戸田会長は、さらに役割の分担に留まらず、互いが求めた真理の整合性を、宗教側の役割に組み入れたいのだと思います。
いかなる科学者であっても人間である限り悩みは、尽きません。それらの悩みは、科学では解決できないことが多すぎるのです。だから宗教が必要だと宗教者は言いますが、科学者は、だからと言って宗教に頼ることに抵抗を感じるのです。
親子関係、家庭問題、人間関係、本人の能力や才能、時代、環境、娘の恋愛問題から息子の仕事関係の問題、嫁と姑問題、介護問題等々、悩みはきりがないくらいあります。それでも科学者は、今は不明でもいずれは精神の世界も解明できるだろうと思い込んでいるのです。
宗教が神や仏という絶対者を想定したがるように、科学者も真理という絶対の法則性の存在を信じているのです。科学という名の宗教みたいにです。したがって宗教者は絶対者という神や仏を知りたがり、科学者は自然の絶対の法則性を知りたがるのです。
二つの潮流の根幹の整合性は、どこにあるのかをはっきり明示しないと問題の解決にはなりません。科学者は、自然の絶対法則と生命の内面の真理を二つの潮流とは思っていないのです。
あらゆる人間に共有するのは、悩みだけではなく「仏」の性分も存在すると仏法は説きます。この平等性を人間性とか人間生命という視点で尊厳するのが宗教と言えます。したがって科学もこの尊厳なるものに、どのように貢献できるかが、科学に課せられた命題でもあるのです。
科学は、経済第一、覇権のための道具といった発想では、偏った発展になりかねないのです。自然破壊などのように自然を支配していこうとする、経済のために利用しようとする、さらに軍事力の行使のために科学の発展を望むのは過ちであるだけでなく、人類を破滅の淵に追い込むことにもなると思います。
仏法は、あらゆる「知識」を活用し、生かしていく「智慧」を根本とすべきであると説かれています。これは仏法が、生活の根本法であり、仏の法(仏法)をそのまま求めるのではなく、生活法として活用していく(仏教)ことを説いたともいえます。
高度な科学文明において、高次元の智慧の宗教が、社会の光源になるという主張です。智慧によって時代、環境に左右されることなく、自在に活かしきることを「摂受」ともいいます。
科学からは、対話を求めることはありません。なぜなら科学にとって宗教的思考は、科学を語る上で少しも生産的に思えないからです。科学的思考において大事なのは、まず言葉の定義です。
しかし科学分野にあっても同じ言葉が、分野によって異なる意味合いを持たせることが多々あるのです。科学全般において統一されている訳ではありません。
そこへ宗教的解釈を持ち出されては、ますます言葉そのものが、曖昧になってしまうからです。とはいえ科学も宗教も人類にとって欠かすことの出来ない人間の文化でもあります。互いに毛嫌いせずに話し合う余地は必ずあるはずだと思っています。
対話というコミュニケーション手段は、互いの主張を聞くことが前提になっています。さらに相手の主張を否定しないのが原則です。ここが論争とは異なる点です。そんな対話の在り方で歩み寄ることは可能なのか疑問にも感じます。内心では否定しながら表面的には、笑顔で接するという態度に本当の歩み寄りはないのではと思ってしまいます。
科学の世界には、厳密に決定された定義があります。定義外の情緒的表現が、いかに仏法的思考に近いからといっても、それは定義外として許容されますが、決して科学的な根拠とは認められないのです。
科学論文が仮説として認定されるには、たとえば物理学では、一般相対性理論、熱力学の第一、第二法則に矛盾せず、物理現象を語る上で有益に説明できることが、最低の条件になっています。
現在ある物理学の法則、方程式、公理、定理など百二十以上ありますが、仮説でないものは一つもありません。自然科学者に「何故」と問えば答えはいつも一つです。「自然がそうであるから」としか答えられません。
それでも彼らは、エネルギー保存則とエントロピー増大則はたぶん真理だろうと思っているのですが、だからといって、自然を理解したと思う人はいません。自然の性質の一部に過ぎないことも理解しているのです。
科学的思考はたぶんに帰納法的証明であり、事実としての自然の全てを語ることはできません。数学の場合は仮定と近似値、場合によっては存在するかどうか証明すらできない無限、虚数、特異点、無理数、マイナスの実数等々の概念を自由に駆使して思考できます。
これらを利用しないと電磁波がなぜ空中や真空中を伝達するかの説明もできませんので、否定する物理学者も利用せざるを得ないのです。初めは魔法扱いだった数学が、やがて科学になくてはならない存在になりました。仏法の思考と教義構成は、たぶんに数学と似たところがあります。
二つの物質間に働くと言われている重力の素粒子(エネルギーの伝達は粒子が担う)は、光より早いのです。(まだ重力子の存在は確認できてませんが)数学的には説明可能です。
二つの物質間のコミュニケーションの在り方に対する思考の変化をもたらすことでしょう。
宇宙空間とは実に不思議な存在ですが、日蓮仏法で説くところの事の一念三千論は、この宇宙空間の謎だけでなく、生命の神秘、時間の不思議そして記憶の神妙をも解き明かしていると思います。時間概念を無視して成立している一般相対性理論や時間を考慮した量子力学でもまったく未解決な問題です。
現在、人類最高の英知と称される量子電磁気力学も仮説とすら認定されていません。けれども仏法と比較しても大変、興味深い理論です。
本 論
人文科学 文学、語学、哲学、心理学、歴史学、地理学、文化学など人間文化を対象
社会科学 政治学、法律学、経済学、社会学、歴史学、文化人類学など社会現象を対象
自然科学 天文学、物理学、化学、地学、生物学
心理学は物理学、生理学の成果を基礎に実証的科学として成立。どちらかというと自然科学
精神学は人文社会科学ですが、解釈的哲学とも心理学ともかんけいしているが、人文・社会を包括している。
1、 宗教と自然科学の対話
1-1物理学は、物理現象の解明という主要命題がある。
物質の本質とは
物理的に測れる量と重さが質量になります。簡単に言えば物質を構成する粒子の総量がその物質の質量となります。そしてこの質量がエネルギー量に換算されます。しかし物質の形相だけで、物質の本質を見たのでは、人間と言う物質は理解不能となるでしょう。金属と人間の違いは、物質が持つ機能の違いだけではないでしょう。当然、何故、人間という物質だけが、別格と言えるのだろうかと問えば、その答えは、無いのです。人間の質量と同量の金属があった場合、この両者のエネルギー量が同じだと言えるのは、物理学上の説明に過ぎません。そして同じ体重の人間の場合、物理的には同量のエネルギーであっても、外に働きかける力量は、人によって異なります。同じエネルギー量だから誰でも同じことが出来るとはいえません。
物理学的な物質の質量というのは、エネルギーが“物質”というかたちで一点に凝縮していると考えています。さらに“場”というかたちでも広がることも出来ると考えています。このような物質の本質は、形相や質量だけではないと考えれば、MC2=Eというエネルギー量は、もっと複雑な様相を呈することになります。しかし物理学的に計測できない量では、扱いえないわけですから形相や物理学的に計測できる質量(重力、慣性)以外は、考慮外とせざるを得ないのです。したがって気力、精神力、生命力や人間力、さらに仏力、法力、信力、行力などという言葉は、単なる妄想と排除することになります。
仏法の知見より物質を考えてみましょう。あくまでも私見ですが・・・。物質mを色受と解釈すれば、光速という運動量も単に速さと距離だけではなくなります。想は、光速以上ですが仮にcと同じとします。行も光速以上ですが仮にictと同じとします。そして色受想行=MC2=Eとしますと、この場合のEも単に運動だけのエネルギーではなくなります。
想は受を整理統合する作用・概念であり、行は想を体系化する作用・概念です。また行は宇宙空間における時間の概念をも含んでいますので、想を時間より観た完成系となります。この色受想行に識を加えて五陰といいます。
仏法では五陰が仮に和合して物質となると考えています。なぜ和合出来るのかは、識の力用ということになってます。エネルギーが一点に凝縮すると“物質”となるといいますが、何故一点に凝縮できるのかは説明できません。MC2=Eから導かれただけです。同様に「識」が五陰を和合させることが、なぜ出来るのかの説法はありません。しかし仏法は物質を単純に見ていないことは確かなようです。識論は、完成されたこの宇宙に顕現した物質の本質、存在論となります。ただしここでいう仮和合の対象は人間です。むしろ人間や生物以外は物理学的なエネルギーの凝縮と考えるほうが合理的と言えます。
もっとも光速の二乗が、現実の世界において何を意味しているのか聞いてみたいと思います。物理学的に説明できない単なる数学的に生み出された結果に過ぎないのかです。
人間一人一人を比べれば、ほぼ同等、同量の質量、エネルギー量だと思いますが、個性を考慮すればその影響力にはかなりの違いがあるでしょう。エネルギーが他に働きかけることに本質的な性質を見るのであれば、人間関係における影響力という力には、どんな名前を付ければいいのでしょうか。
ミクロの世界では、物質とエネルギーとが自在に変化します。
古典物理学の「原子論」のように、究極不変の単位を求めていく方法は、いまや根底的な見直しを迫られているといえます。フランスのド・ブロイは、光および自然界のすべての物質は、波動性および粒子性を、同時にもつにちがいないという考えを提起しました。
量子力学では、その実体が何であるかは、ひとまず問題にしません。それよりも、何が実験的に首尾一貫してわかるかを問題にします。そのために持ち込まれたのが「状態」という概念です。
西洋においては、科学と宗教は長い間対立してきた歴史があります。大乗仏教という東洋の英知との出合いは、科学と宗教が協力しあう大いなる土壌を作っていくと、私は確信しております。
それはおもしろい。量子力学と仏法哲理に“類似性”が見いだせるならば、私にとっても、きわめてすばらしい発見です。
アインシュタインの「相対性理論」のなかには、まさかと思うような間違いがあります。「一般相対性理論」と自然の基本法則である「エネルギー保存の法則」の関係を綿密に調べ、どこがおかしいのかを、明らかにしようとしてきました。
私の考えでは、「一般相対性理論」は「エネルギー保存の法則」が欠けている点で不十分なのです。
絶対的な“物差し”がないならば、どうすればこの宇宙の大きさを測ることができるのか――このことを真剣に考えたのが、ポアンカレたち二十世紀初めの数学者です。この世界を測る“物差し”はどこにあるか、それはどうすれば作ることができるかを考えぬいたのです。“物差し”のことを“ゲージ”と言いますが、アインシュタインの「相対性理論」は、この「ゲージ理論」の典型です。
「一般相対性理論」によると、重力というのは個々の物体に働くのは「力」ではありません。つまり、引っ張っているわけではないんです。重力が“空間それ自体”を変化させてしまうのです。
仏法が説く時間と空間の融合性
仏法では、「時間」は「空間」を離れては存在しないと考えます。『倶舎論』には、「時に別体なし、法に依りて立つ」とあります。ここでいう「法」とは“現象”“森羅万象”のことで、“因”と“縁”が和合した“一刹那”に生じ、次の一刹那には滅していく“時間的存在”なのです。したがって、時間は“ものごと(法)”の変化という空間的な事象によって、初めて知ることができるものであり、現象として空間と独立したものではない。
「問うていうには、歳・月・日・須臾といった量、大きさがあるから、時間は存在するのではないか。答えていうには、そうではない。時間というものは存在(もの・こと)に基づいて現れるものである。ゆえに、存在を離れては時間というものは存在しないのである」
時間は現象界(存在)に基づいて現れるものだ、と龍樹は洞察しています。
時間とは宇宙万物の「生住異滅」の状態に即して現れていく、“相対的なもの”である。仏法では、内なる生命を洞察することによって、こうしたダイナミックな時間論を構築したのです。
私は、竜樹の考えとは違う。もともと存在するから現れたとするのが、私の考えなのです。すなわち時間の絶対存在を前提にするのが仏法だと思っています。
時間の概念には、過去から現在・未来へと流れるものという概念と、リズムとしての概念との二種類があると思います。物理学であつかう時間とは、後者のほうです。
「相対性理論」は、自分の刻むリズムと他者の刻むリズムが違うことを発見しました。そして、どの人にとっても、根底にある物理法則は共通するはずであるとの要請のもとに、その異なるリズムを“接続”する方程式を打ち立てました。私たち物理学者がなによりも驚きを感じ、心ひかれるのは、異なるリズムのもの同士が互いに響き合うこと、絶対の法則性につらぬかれていることです。
池田先生が示される道は、決して袋小路におちいらない道です。人類を行き詰まりのない、無限の進歩へと導く道だと思います。
こうした平和と友好の主張を、共産主義体制が確固としていた旧ソ連の時代から、一貫して続けてこられたのが池田SGI会長です。
中国との関係にしてもそうです。あるアメリカの著名な教育者が、池田SGI会長は二十世紀の“民間外交史”に不滅の名を残すでしょう、と語っておりました。
1-2宗教と心理学
心理学は物理学、生理学の成果を基礎に実証的科学として成立。どちらかというと自然科学
心理と云っても多分に心の物理学のようなものである。
心理学とは、人間関係論であると思っている。人間の心は、人間の中で育まれ成長していくが、また、そこに様々な問題も生じてくるのである。
神や仏との関係だけでなく、人間同士や科学、技術、環境、時代、社会、生活等々の全てに亘って関係してくるのである。人間関係は、また個のアイデンティティーにも関わってくるのである。そして個の存在の意味をも問うことになる。
西洋近代自我が生み出したと言える自然科学は、ある意味で厳密な方法論によって成り立っている。ここで言う「厳密」とは、近代科学者たちが作り上げた、ルールに過ぎないのだが、まるで自然法則の根幹を為す真理のように思わせることにある意味成功してきたといえる。
したがって現実には、それほど単純に答えを見つけることが、出来ないのである。つまり行き詰るか、落とし穴に落ちこむか、泥沼に沈む込むことが、しばしば起きるのである。
なぜこのようなことが起きるのかと問えば、心理を物理的意味に限定することから生じるのである。「心理」の理を「物理」の理と混同してしまうからである。またそうしないと理を真理にまで高めることが出来ないからである。
物理学は、実験検証と論理的推論から物理現象を説明する学問と言える。だからと言って物理学が、客観的で予見可能性を持つ学問とは言い難いのである。
科学の実証性と知識に対し仏法の智慧が、いかなる役割を果たし対話へと導いていけるだろうか。
スペースシャトルの場合、地上からの飛行高度は約三百キロ。そこでも地上の約百分の九十一の重力が働いていますから、何もしなければ地上に落ちてきます。ですから、重力と遠心力がちょうど同じになるように打ち上げます。おおよその計算では、秒速七・七二キロの速度で、一日に地球を十六周します。
残念ながら、一〇〇パーセントは説明できません。スピードの問題があります。光の速度より、はるかに遅い場合であれば、ニュートンの法則ですべて説明できますが……。
それから、ミクロ的なもの、つまり原子の規模の大きさの世界にも、ニュートンの法則は適用できません。
素粒子が光の速度に近づくと、寿命は無限に延びていきます。ロシアの宇宙飛行士ストレカーロフも、「宇宙から見れば、地球がいかに小さく、またかけがえのない人類共同の家であるかがわかる」と印象を語っています。
記憶の貯蔵庫それ自体は、脳全体に存在するニューロン(神経細胞)が担っているのかもしれません。
ただ、いかに脳に膨大な数のニューロンがあるとしても、記憶の対象となるあらゆる事象に一対一に対応できるほど、多くはないでしょう。したがって、記憶は個々のニューロンに蓄えられるというよりも、ニューロン群のネットワークに蓄えられると考えるべきだと思います。一説には、一個のニューロンにはおよそ二千個のシナプスがあるとされていますから、脳のニューロンの数を百億個としても、全部で百億の二千倍のシナプスがあることになります。
グルタミン酸が脳の働きに、大切な役割を果たしているのは事実でしょうが、残念ながら「血液脳関門」という一種の“関所”があり、それに阻まれて脳の中には入れないのです。同じ脳の働きといっても、知能と創造力では内容が違ってきます。
頭脳には、記憶力、言語能力、論理力、計算力など、さまざまな働きがありますが、創造力はもっとも高度な精神の働きの一つといえます。なるほど。仏法が科学の眼からみても、たいへん現実的かつ実践的な宗教であることがわかる気がします。
電磁波はすべて特徴的なエネルギーをもっています。電磁波が電子などの電気と反応するとき、一回あたりのエネルギーは周波数に比例します。周波数が高いほど、つまり波長が短くなるほど、一単位のエネルギーが大きくなります。
電波くらいではほとんど影響はありませんが、紫外線にまで高周波になると、そのエネルギーが細胞内の分子から電子を剥ぎ取り、細胞を破壊してしまうので、量が増えると人体には有害です。
一次元でいえば、現象界すなわち森羅万象のあらゆる姿や働きは、宇宙究極の「妙法」のあらわれであるという意味になります。
しかし、その究極の「法」の当体を、インドの釈尊も中国の天台も、衆生の救済のために、具体的な形としては顕していない。それが説きあらわされるまでに、じつに約二千年の仏教史があるわけです。
妙法」という根本の法の顕在化である。こうした「相違」を乗り越えて、あらゆる人間に「平等」なるものは何か――。それが「仏性」であり、「仏界」という尊厳なる生命であると、仏法は説いているわけです。
「祈る」ということは、人間にとって、きわめて崇高な精神の営みといえます。
大乗仏教における「祈り」には、大宇宙の法則に合致して、この人生を歩んでいくという、人間本来の理想的な生き方がある。いわゆる“呪術”や“呪文”の類とは、根本的に異なるのです。
2 宗教と人文社会科学の対話
2-1宗教と精神学
精神はそのままでは、物理学で語ることの出来ない分野とされている。そこで
精神分析は、医者と患者の駆け引きで成立していると言える。
精神を意識に限定せざるを得ない意識の物理学が、近代科学の精神学と言える。
例えば、患者は自分の体調が悪化していることを自覚しているが、休むことを選択して体調の立て直しをはかることができない。
一つのことを選ぶと、もう一つの立場からひどく非難されているような気分になり、それを選択することができなくなる。
例えば、休むことを決断しようとすると、「なぜ働かないのか」という内面の声に脅かされる。逆もそうで、働き続けようとすると、「なぜ休まないのか」ということにとらわれ、気が休まらない。
そのような中で決断することが出来ず、ずるずると無為に時間と労力を消費し、最終的に顕在的なうつ病の発症にいたってしまう。
なぜそうなってしまうのか、ということについて『メランコリー』の著者は、はっきりとしたことを書いていない。
私は、その理由の一つとして、「集団の空気に合わせる決断することばかり行って生きてきたので、複数の軸が存在する中で、自分なりの判断を行うことについての知的・心理的訓練がなされていなかった」ことが原因として挙げられると思う。
逆説的ではあるが、「必要な時にはきちんと依存できること」が、「独立した決断をできるようになる」ためには必要なのだ。
「決断」が大事とされると、今度は人を「依存できないように追い込むこと」で独立した決断を行うような強制が行われる問題が発生しやすくなる。しかし、それにもさまざまな危険や問題がある。
堀 有伸(精神科医)(ネットより)
2-2宗教と社会学
宗教団体の社会的役割といった側面に解明の力点がある。
知ることと信じることの違いの意味を理解していないと言える。それは、意識下と無意識の違いを理解不能とする。
価値論と自然観、社会学から統計的に予測するのが社会科学と言える。
統計的な平均量で物事を判断するには、条件がある。すなわち分母が統計的に見て等質であることが必要である。性質が等しくて同等の条件のもとに存在する、物事であるということです。したがって一人の人間を単純化して統計的に分析することは元来出来ないのだが、それでも時には有効なこともあるかもしれないと思っている。
環境問題は、当然のことであるが、人間自身の問題であります。そして人間の持つ価値観の変遷が作りあげて起こった問題でもあります。人間と自然を分離した論理構造を超える思想、哲学によって生み出された価値観を持つことが、最も肝要なのです。それは、人間同士の関係にあっても成立するものである。個人と他人(他民族、異文化、異教徒)と自然の全てを包み込む真の関係性価値観が待たれるのです。
近代市民社会が西欧で出現して二百年以上経った。この間、科学的合理主義が常識化してきた。呪術を否定できたが、同時に宗教そのものも否定すること、宗教支配を否定することが科学的だと思うことが一般的な認識になったと言える。これは、個人的な生活の中に宗教が息づかないことを意味している。まさに葬式と法事と結婚式のための宗教という、宗教の形骸化、単なる習慣となっている。したがって宗教に対して「無関心」または「嫌悪感」の対象にまでなっていると言っても過言ではないだろう。
形式化した宗教組織に対し新宗教が出現したといえる。正統派宗教から見れば異端であり排除したくなるだろう。
しかし社会科学は新宗教に対し排除ではなく、無視する以外に対応していない。科学的と言われる態度、すなわち、現象に対峙し、分析し、批判しながら科学的な方向性を示すことは出来ていない。
普遍主義は科学的真理という絶対法則しか認めず、その他はすべて相対に過ぎないという相対主義的な在り方が、現状追認的な方向に向かわせたと言える。
比較宗教学や人類学宗教研究も過去の宗教の研究になっている。新宗教の研究も宗教団体の社会現象的視点だけで、その宗教の教義などまったく問題にしていないのである。初めから問題にする価値がないという姿勢であり、呪術と同等か正統派宗教の亜流ぐらいの評価なのである。
2、 科学万能時代の神仏とは
科学万能という信仰と、非科学的と言われる既存の宗教。科学的思考が生み出した真理という絶対者と宗教的思考が生み出した絶対者の違い。
3、 新しい時代の宗教の在り方
宗教の世俗化における最大の問題は、宗教的権威とのバランスと既成勢力の保守体質との戦いであろう。
4、 新しい時代のグローバリズム
時代に合った宗教組織とは、
時代に合った組織運営とは、
SNSと宗教ネットワーク
宗教組織は必要か
宗教ネットワークの在り方
対話
法論
エコーチェンバー現象
トライバリズム(種族性、仲間・集団意識)とルサンチマン
新しい時代の「人間中心主義」
「人間尊重主義」
「生命の尊厳主義」
人間革命と人間復興
5、 世界宗教と世界平和
異文化、異教徒間の抗争と共生
摂受―折伏
結 文
宗教が宗教的救いのみでは、科学との対話はあり得ないだろう。
広宣流布運動は布教活動か社会変革活動か
科学者たちにとって悲劇だったのは、彼らの発見した科学的成果が、教会の聖書の解釈に反しているという理由で、徹底的に弾圧されたことです。
<池 田> ですから、それは一面からいえば、本質的な次元での宗教と科学の対立ではなく、“宗教的なるもの”“人間的なるもの”を忘れて、教条主義と形式主義におちいった教会の権威主義との対立であり、闘争であった――私はそのようにみています。
私は今、仏教について学んでいるところですが、仏教には科学との対立はないし、科学者を弾圧した歴史もありませんね。
宗教と科学の対話は可能か
宗教と科学の対話だけでなく自然科学者と哲学者の対話もまた同様に不可能に見える。
宗教と科学の対話には、それぞれが依って立つ基盤の理解が必要になるだろう。そうでないと宗教と科学は、それぞれが担っている役割が明確にならないからである。科学・技術の飛躍的な発展を目の当たりにした現代人にとって、宗教に対して、これまで言われてきた「人間存在の根源に係わっている」という認識を持てなくなっているのである。したがって科学が人類史上、最も偉大な遺産だと感じても、宗教に対してはそのような評価を持てないのである。従ってまず対話の条件から考えなくてはいけないだろう。
条件と云っても「対話」の仕方のことではない。宗教や科学が依って立つ基盤そのものに共通した認識があるかどうかである。普通に考えれば全くないと言える。ただこれは、現代における科学思考の根底に人間とは何かという問いかけをまったく放棄した結果にすぎないのである。自然科学の成立過程における自然の真理への探究が、神と自然と人間の関係への探究であった。しかし18世紀以降、いつの間にか科学的思考から技術主体へと傾斜し、さらに極端に偏っていき、科学イコール技術とまで思うようになってしまったのである。もちろん科学者自身は、自然科学における「何故」の答えを探るために苦労しているのだろう。けれども技術志向への偏りはこの「何故」を放棄せざるを得ないのが現状である。技術主体であっても結構、社会に役立つ理論や技術結果を残している。
プロテスタントは御書中心で化法中心
カトリックは組織中心で化儀中心
キリスト教の教義における、人間と人間を除くその他の自然を区別するといった宗教的差別は、哲学だけでなく科学においても多大な影響を与えてしまったといえる。
仏法のように人間も自然の一部と考える教義が、なぜ科学や哲学に影響を与えられなかったのかという問題は、ひとえに「人間とは」という命題に対する思考の違いによるのです。人間を対象にしたときに生じる「もの」と「運動」だけで記述することの困難さは、想像を絶するほどだったと思います。
したがってデカルトの「コギト」のように、人間以外に使用することを拒否することになります。要するに人間は、最も神に近い存在として、別格にしたかったからに過ぎないのです。
仏法は、人間と仏を区別しないだけでなく、人間以外の生物や自然そのものも仏と区別しないのです。西洋哲学では、とても思いつかない発想と言えます。それゆえに科学もまた仏法の思考方法を取り入れることができなかったのです。
キリスト教と仏法の違いは、神と仏に対する思考の違いが顕著なのです。すなわち神そのものを問題にせず、神の成し遂げた自然の探究から神を知ろうとしたのです。仏法は、仏そのものの実態、存在、場所、時代、歴史を問題にしたのです。
したがってキリスト教は、神に近づくことを目指し、場合によっては、神に代わる存在として人間を見ようとしたのです。仏法は、仏そのものに成れる存在として人間を規定したのです。
物質と運動を記述する方法と同様に人間を記述するために、人間を神と同様に見ない。そして自然と別格にしない。人間そのものを物質と見ることが科学にとって必要だったのです。神の存在に拘り過ぎた宗教と神と切り離して思索した科学の対立は、対話そのものを不可能にしてしまったのです。
仏法と科学の対立といった歴史はありませんが、対話もなかったのです。両者はそれぞれ別次元に存在するようにです。ところが、物質と運動だけでは人間を知るうえで、行き詰まりを感じ始めたのです。科学・技術の発展のために切り捨ててきた様々な人間的事象を科学の言葉だけでなく、仏法の言葉から考えてみようする時代が到来したといえます。
ところが、仏法というと大抵の学者は、禅宗の教理を持ち出して意見を述べる傾向にある。禅宗の教理を語れば、仏教を語っているような錯覚を持つ人が多いように感じる。禅宗がいかに本来の仏法とかけ離れているか全く知らないように思う。禅宗については、芸術論序説で縷々述べてきたので参照してもらいたいと思う。
科学の蘇生と宗教の再生に未来への期待
第二次世界大戦が終了すると、世界は廃墟の様相を呈していたのです。国家中心の研究の方向が、軍事研究に偏り、研究費も軍事関連に大きく偏り始めたのです。また民間の研究所も利潤の追求に偏ってしまいました。また一見、軍事と関係ないように見えても膨大な軍事費の一部を獲得しようと血眼になっていきます。業績を上げ、利潤を求めることが全てとなっていったのです。その過程の中で、宗教はまったく置き去りになりました。
科学の軍事利用や自然破壊、原子炉の故障、電磁波被害等々、科学・技術の進展に対する危惧を無視して営利に走るならば、未来は暗澹たる様相になってしまうのではないでしょうか。
科学が実証主義、合理主義の代表になり、宗教が神秘主義、非合理主義と分断されてしまったのです。この分離は、けっして正常とは思えないのですが、時代がそれを可能にしたのです。
一方、宗教側にも大きな問題がありました。宗教といってもあまりにも多くあり何でも良いわけでは無いでしょう。しかし宗教は、科学と異なり正しい宗教の基準がルール化されていないというより、出来ないのが現状です。そしてどんな宗教でも「自分が最も正しい」と主張します。誰もが認める宗教批判の原理の確立こそ急務なのかもしれません。
科学と対話できる宗教こそ「正しい宗教である」と仮定するところから始める以外にないと考えています。
二十一世紀の科学と宗教の条件
それでは最後に、二十一世紀の科学と宗教、なかんずく両者の関係がいかにあるべきかを、結論的にまとめていただければと思います。(池田SGI初代会長とログノフ対談)
まず、これからの科学がどうあるべきか、私なりにまとめてみますと、第一には、これまで話し合ってきたように、科学は宗教と対立すべきものではない。互いに“協調”して発展しゆくべきものです。
二十一世紀は、“生命の世紀”です。人類の英知の探究は、ますます“生命”そして“生死”という最後のフロンティアへ焦点を移しつつあります。ゆえに、これからの人類に要請される宗教とは、
第一に、科学の発達によって、その「法理」がますます明快になるような普遍性をもったものでなくてはならない。宗教の核心をなす「法理」が普遍的であればあるほど、科学の進歩によって、その宗教の普遍性が証明されるからです。(あり得ない)
第二に、科学の成果を積極的に認知しつつ、みずからの世界観を豊かにしていく奥行きをもった宗教――こうしたしなやかな柔軟性こそ、宗教がその時代の民衆に深く理解されるために、不可欠の条件といえましょう。
第三に、宗教は、科学の発展のために直観力を与え、独創性を生みだす源泉にならなければならない。
第四には、科学技術が人類のために役立つよう、方向づけをしていく使命があります。
近代科学文明は、さまざまな局面で行き詰まりを示しています。そうした矛盾をどのように乗り越えていくか―
第―点目は、科学に内在する限界を、科学そのものによって超えることはできません。科学を踏まえつつ、それを超えゆく“何か”が必要です。
第二点目として、宗教の豊かな智慧を、吸収できる科学であるべきだと思います。
第三点目に、これは最も基本的なことですが、人間のための科学でなくてはならない。そして人類の幸福のために役立つものでなくてはなりません。
“宇宙”“人間”“生命”という人類に残された大いなる神秘が、科学と宗教という二つの視点から掘り下げられることによって、より立体的・総合的に解明されていけば、すばらしいことだと思います。
科学は、真理という絶対の法則性を解明する。あるいは解明できると信じている。技術は人間生活を快適にして悩みを解決する。あるいは出来ると信じている。だから科学技術は善であるという単純な科学という名の宗教である。
実証出来ないものに価値を認めないという科学界の風潮
ある現象(対象)の解析可能な一面を探究して得られた結果を、その現象(対象)の全体像と主張する科学主義の横行
風潮と横行は、実証主義と合理主義そのものである。
科学者の人格の破壊と人間性の喪失は、実証主義と合理主義の中に原因がある。
人格の再建と人間性の蘇生を神秘主義と非合理主義の宗教に頼めるか?
宗教者の堕落と宗教の退廃の原因は、権威主義と教条主義の中に原因がある。
人間性の堕落と退廃した宗教の再生を実証主義と合理主義の科学に頼めるか?
問題の解決は、原因そのものから修正する以外にない。
宗教も科学も「人間を忘れた」ところに真の原因がある。
文化と文明
科学は、電子、素粒子、波動等の現象に対し多様性と統一性、複雑性と単純性、無秩序と秩序、不規則性と規則性を語り、社会的機能と同一化する。
アフリカ文明の科学と宗教
神話、魔術、呪術、除霊が近代文明における社会的機能となる。そして宗教は、社会的機能と一体になる。ここで宗教の果たす役割と社会的機能は、ともに、人間に起きる様々な現象を統一的に語れるのです。したがってそこには、対立は存在しない。
ギリシア文明の科学と宗教
自然は神そのもので無限定で神的なものとなる。さらに神は不老不死不滅となる。そして魂と肉体は本来別々の存在とする。したがって存在論も神的になる。合理主義と神秘主義は、ギリシア文明において矛盾するものではなかった。
プラトン、アリストテレスいった人たちの科学的、数学的思考も根底に神を見続けているのである。したがってギリシア文明において対立は存在しない。
イスラム文明
自然の真理の探究は、自然の中に神を見出すためとはっきりしているので、宗教と科学的思考はまったく対立しない。
インド文明
インドの宗教がバラモンだけなら、数学も天文学も宗教的な儀式に包括されて対立はないとなって話は終わってしまう。日蓮仏法の出番も無い。したがってSGIの出番も無いことになる。仏法がバラモンの亜流ぐらいの認識しかない学者も結構多いです。釈迦、天台に対する知識もあまり無い。いずれにしても宗教と科学は対立しない。
中国文明
儒教、道教やインドから伝来した仏教は、当然のように宗教と科学の対立はない。理由はインド文明と同様である。したがって天台や妙楽の出番はない。日本を見ても、中国から伝来した仏法にたいして、日本人の学者は、仏法と云うと禅宗が代表だと勘違いしている。当然、日蓮も伝教も話題にすることもない。民俗・土俗信仰など科学と対比することもない。西欧文明に心酔する学者だけが、宗教を馬鹿にすることが知識人だと思い込んでいる。日本が経済第一の国に成り下がってしまったために、一部の経済学者が、マル経に夢中になったことにも原因がある。
西欧文明における科学と宗教の対立、すなわちキリスト教と近代科学の対立の構造と歴史を見る必要がある。宗教と科学の対話が不可能に感じるときの宗教とは、キリスト教なのだが、日本人の大半が宗教そのものと勘違いしている。簡単に言えば「宗教は皆同じで、非科学的で迷信、アヘン」と単純に思い込んでいるだけである。
科学と宗教の問題を考えるとき、西欧文明における科学と宗教の対立だけが焦点になるのだが、キリスト教という外道信仰(外道の仏法的意味は、後述する)に淵源があり、対立の責任は、すべてキリスト教にある。
さらに日本の仏教が、葬式、法事、結婚式以外まるで関係ない存在だと認識されてしまっていることも問題なのである。
ただ西欧文明以外の文明は、今日の科学・技術の進歩にはあまり貢献してこなかったのも事実である。そして西欧の科学・技術とキリスト教の対立があったればこそ、今日の科学・技術の目覚ましい発展があったといえる。
西欧の科学・技術とキリスト教の対立といっても初期の両者は決して対立はしていなかったのです。キリスト教が、ギリシアに布教するにあたって、ギリシアの思想、哲学は、キリスト教とは矛盾せず、むしろキリスト教の入門書の位置づけとしたのである。その意味で共存していたと言える。アリストテレスの哲学もプトレマイオスの天文学も神学の体系に積極的に、調和させようとしたのである。
しかしキリスト教が、ローマの政治権力と結託し始め、やがて、教皇権が皇帝の権力を凌ぐ勢いを増すという事態になっていったのです。しかし14世紀に起きたペストの大流行は、社会構造を大きく変化させるとともに、宗教なかんずく教会の権威をも失墜させたのです。そして15世紀以降、思想統制から「異端審問所」が設置されることになります。こうなると、キリスト教の教義に反する思想を裁くことになります。
コペルニクスやブルーノ、ガリレオの地動説そのもの対立の因ではなく、彼らの汎神論が問題にされたのである。これは20世紀、オーストラリア出身の理論物理者であるシュレーディンガー(シュレーディンガーの猫で有名)も同様の批判をされています。すなわち「受け入れがたい汎神論」と。
天が動こうと地が動こうと神は、天地創造の主であることには変わりないから、いくらでも弁明はできるのです。現実には、天も地も動いているのです。それ以上に問題だったのが「汎神論」なのです。
「スピノザ」は著書『エチカ』と「汎神論」で知られる17世紀の哲学者です。スピノザの思想は歴史上最も過激な思想とされ、一度は葬られたほどです。スピノザの汎神論は「神即自然」の言葉で表され、神はすべての事象の中に存在し、事象はまたすべて神の中に存在すると定義づけます。
スピノザの「神即自然」の概念は、伝統的なキリスト教の人格的な神の概念と根本的に対立するものです。これは従来の神の概念を哲学的に排除されるものであり、絶対者は純粋な存在性にあるとしました。
スピノザが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共通の根本教義とする超越神を世界像から排除したことは当時の常識を大きく逸脱し、あまりにも過激なものと受け取られました。彼の哲学は、実体一元論として後世に大きな影響を与えたのです。
スピノザが生まれるより数十年まえに生まれたデカルトは、機械論的世界像から理神論が生み出されたのです。神よりも人間の理性を強調し、18世紀の啓蒙主義へと受け継がれていくことになりました。そしてキリスト教の教義を科学的合理性に反すると否定したのです。これに対し教会側は、宗教的権威を以って対抗することになりました。
同時にこの時期に起こった「産業革命」が、理性の力としての「人間の知」を推し進めていったのです。
そして科学的知が、物質的、経済的知と偏りはじめたのです。自然の真理から神を見つめることから、物質的繁栄の道具と化したのです。科学におけるこのような形での世俗化が、ある意味で今日の姿を決定づけたといえます。科学における世俗化と教会の権威の対立が、宗教と科学の分離・対立となるのです。
このように近代科学ならびに科学技術は、西洋文明における、西洋的世界観が成し遂げた成果なのです。それが個人主義的エゴイズムとなってしまったのは、科学の発展とともに宗教側の発展と革命が為されなかったからである。ペストの大流行の時に生じた宗教の無気力と無能さが生んだ精神的な敗北感です。現代において起きているMERS,SERSから新型コロナウィルスの脅威に対し宗教はどんな役割を為すことができるのでしょうか。
現代の宗教と科学の在り方を根本的に変革する必要があるでしょう。この二つに分離されてしまった潮流を再び合流し、人類の未来に希望と勇気を与える大河となり、世界平和という大海原に船出する時代を築いていけることを信じています。