不二から円満までの仏法思考について

不二から円満までの仏教思考について

序文
不二の存在論=空間性
即・相即の認識論=時間性
冥合の理智論=異時の時空
円融・円満の実体論=具時の時空



不二から円満までの仏教思考について


序文

人間は生きている時だけ仏道修行ができるので、仏教では人間を聖道正器という。そんな人間が、時代や環境という限定された期間に過ごす人生とは何かを考える。
さらに生きている人間の命の尊さについて考える。生きているから生命というのだが、仏教用語としての「生命」はない。生への執着を煩悩というのかもしれないが、それも人間らしいといえる。
なぜか仏教はあまり死後のことを意識していないように思える。死ねば人間の命は、中有の状態になって、次に生まれるのを待つことになるらしい。復た生まれてこれることが前提になっているので、死後はそれほど気にはならないのだろう。それなのに仏教は葬式仏教と言われている。
その代わりに生きていることをとても大事に考える。衆生所遊楽の人生を送れるからだ。といっても娯楽に興じる人生のことではない。法味を味わえる人生のことである。
だからまた生まれてきたい。それも少しでも早くである。したがって地獄に落ちたら、なかなか人間として生まれてこれなくなることを恐れるのである。しかし人生に絶望して自殺したいと思う人は、もう人間なんてこりごりだと思うかもしれないが、元来、人間に生まれてこれることは凄いことなんだろうと思う。
死ねば無作の報身となるだけで、再び出生するまでを中有というが、これは無作の報身の区間的表現に過ぎない。死後は報中論三となり、生きているときは三身即一身となっている。すなわち生きている(顕現)一身が命、あるいは生命と言われるものなのだろうと推測する。したがって一身(生命)と一心(心)が明瞭に顕現された人間にとって、生命と言われる一身よりも一心に重きが置かれているように思える。一念一心、一念の心法にこそ仏教の本義があるのではないのだろうか。
戸田は「仏とは生命そのものである」といったが、御書では「法とは諸法なり諸法の心と云う事なり。諸法の心とは妙法蓮華経なり。法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり。法体とは南無妙法蓮華経なり。法体とは心と云う事なり」と定義されている。すなわち「仏とは心である」となる。
そして生死の二法に差別なしとするのが、仏教であるから生きてる命にことさら執着しないのだろうと思われる。
もっとも創価学会教学流に言えば「一身も一心もともに生命である」(区別しない)となるので、それほど問題にはならなかったのである。
けれどもこれだけ明確に仏の定義がされているのに誰も戸田に云わなかったのは何故だろうと思ってしまうのは私だけなんだろうか。
筆者があえて身と心を分けて考察するのは、自然と生物の在り方の違いといった生物学問題だけではなく、身心の働き、存在そして性分の違いを問題にしたいからである。
有無や生死の現象に対して伝教は、天台法華宗牛頭法門要纂の中で「伏して以れば、生死の二法は一心の妙用にして、有無の二道は本覚の真徳なり。所以に心とは無来無去の法にして、神とは周遍法界の理なり。故に生の時も来ること無く、死の時も去ること無し。無来無去の心に有の用を施して、心即ち六根の体を現ず。之れを以て生と名づく。周遍法界の神に空の徳を施して、神即ち五陰の身を亡ず。之れを指して死と曰う………是くの如く観解すれば、心、仏、体(衆生)を顕して、生死自在なり」と述べている。
生死、有無といっても、根本的な差異ではなく、一心の具用の両面であって無差別、無分別であるという。これを一心の妙用、本覚の真徳ともいっている。一心の具用から見れば自分にとって不二の具用であって、特別に分けて考える必要がないということになる。
そこで一心、心法についてのべておきたい。一心に存在する心性を諸法と相対してみると無分別であるから心法という。煩悩という性分に菩提が見えなくなっている状態を無明という。したがって無明という相の状態と相対するのは心性ではなく性の状態を意味する心法となり、そしてこの状態を心の相として法性と呼んでいる。
無明法性の二相は無差別である。無明を煩悩の雲に譬え、法性を悟りの月輪に譬えたものを心性本覚の月輪という。法性を悟りに言い換えると心性の本覚と名前が変わる。悟りは心性の相の状態を指しているので法性となるのだが、この場合は法性を心性の本覚と言い換えて、無明と相対させているのである。
月は法性、雲に隠れていても、月自体はなくなったのではなく本来あるものである。無明法性は無差別の相なので、顕現・冥伏するが、同時に出現することはない。
総勘文抄に「夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す」と述べている。
このまま無明即法性にすると変換ではなく共存した二相二性が縁によって顕現する不二の原理と同じになってしまう。また隠すもの隠されたものがあるとき、その二者を無差別とは言わないだろう。
譬えとしては解り易いのだが、変換される無明の存在と転じた後の法性の関係を隠すとするのは冥伏の状況説明に過ぎないのである。
煩悩の量が、重畳して山のごとくなって法性などに転じることは不可能な事態に見えても、かならず法性に転じられるらしい。煩悩の量が多ければ多いほど、転換されるものは相対的に大きな悟り、菩提となるということなのか。そうなると煩悩も捨てたもんではないとなる。
摩訶止観巻五の文に「心は是れ一切の法なり」とある。止観に一念三千の哲理を説き、次下に「心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なり」とある。「心是一切法」の対句で相即されている。これは一念と三千の関係を「心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なるが故なり」(相即)と述べているところである。
この場合の心は一念と同じ意味に使っている。一念三千とは一念と三千のいずれが本体であり、従属であるかを述べたものではなく、衆生の一念に三千の諸法が具わり、三千の諸法に一念が融合して収まっているという相即不二の関係を説いたものであるという。
そして、融合して収まるという。収まり方を示しているのは一念三千のみである。したがって煩悩が菩提に融合して収まるとは言わないのである。
心性の本覚、そして本覚の如来とは、本来そのままのすがたで覚っている仏のことをいう。始覚の如来に対する語で、総じて理の上で示せば一切衆生のこととなる。
諸法実相の理によれば一切衆生の当体は十界互具の妙法蓮華経であり、心中の仏性は成仏の可能性を有した理性としての本覚の如来を示している。故に総勘文抄に「此の五字(妙法蓮華経)を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり」と述べているのはこの意味である。
六即位でいえば理即の凡夫を指しているのだが、別して事の上で示せば久遠元初の自受用身のことでもある。
久遠元初とは至極の成仏の本地であり、久遠本果・本因初住よりも更に成仏の根源を究め尽くした本因名字を示し、自受用身とは名字凡夫の時に本地難思の境智の妙法を信解して、即座に凡夫の当体のまま、境智冥合の即身成仏を顕した、人法体一の真仏をいう。
故に本地の自受用身は事実のうえで本覚の如来を顕している事の一念三千本有無作の南無妙法蓮華経の当体であると日蓮は結論する。日蓮の結論は何事にも明確である。
この久遠元初の本地を内証に顕本し、末法今時の名字凡夫の身に直ちに移したとするのが日蓮である。故に日蓮が末法能化の本仏となり、本仏に即して顕した事の一念三千・人法体一の本尊を信受して南無妙法蓮華経を唱える所化の弟子檀那もまた、本覚の如来を顕して即身成仏を証するのである。
一念の心法に三千が具わるとする仏教の思考法は、自然という生命体と人間という生命体にあって、その違いを明確に意識されてきたからにほかならない。
いくら依正不二といっても人間社会にあっては、人間そのものが正報にも依報(他人も環境の一部と考えれば)にもなりえるが、自然は依報にしかなれないのである。この一方通行の不二論は仏教らしくないと思える。
自然といえども仏性を具えているから、人間とは相は異なるといえどもともに本性は同じで不二であるといった場合、一性不二ということになる。けれどもそれでも自然が正報になれないのは無情だからである。したがって一念三千といっても人間の一念から観た場合に限るのである。
自然と人間が不離で不二といっても人間と同じような一念を自然に求めるのは不自然である。
いずれにしても死んだ命より生きている命、生きている間に何をしたかが問題になる。仏教に説かれた様々な法門は、生きている命を対象にしているのである。その意味において戸田の言う「仏とは生命そのものなんだ」という思いは、ある意味で的を得ているように思える。そしてこのことは「生命とは」という問いかけが「仏とは」の問いかけと同義となることを意味している。
けれども仏教は生きることの重要性を示唆する割に用語として「生命」が無いのは何故なのかと思ってしまうのである。
例えば依正不二のように時代や環境・自然のすべてを依報というとき、依報を生きている命とは言いにくかったのだろうと思う。植物ならまだしも岩や空気や塵なども含めて考察の対象にすれば、生命という単語は思いつかなかったのかもしれない。
宇宙即生命、宇宙即我といっても、宇宙はまったく人間と同じではないし対立関係に在る訳でもない。また相容れない二者と単純に割り切れない。この二者を即で結ぶのに仏教は、実に様々な用語を生み出して説明していくのである。そして最後には、みな同義であると結論する。
もちろん同義といっても使い方が異なるのは、視点の違いからくるためで本性は変わらないという意味である。何故、異なる視点が必要だったのかというと、一面だけでは「仏性」あるいは「一念の本体」を説明し尽せなかったからだろう。
ところが日蓮は、すべて南無妙法蓮華経に帰着するという視点を変えることなく貫いたのである。日蓮にとって一体不二の一体や一念の心法も南無妙法蓮華経の他にあり得なかったのである。
仏教が生み出した多くの用語を列挙すると次のようになる。不二、不離、即、相即、相即不二、冥合、冥一、和合、円融、円満、円頓、円足、円教、円乗、円意、究竟円満、相即円満、和融、互融、平等、円融相即、互具、具、具足、所具、而二不二、二而不二、無差別、無分別、中道、一体不二、絶対不二、因果同性、不偏、一如、一相、一極、一実、密接不離、俱時等といった言葉である。
たびたび登場するが、これらは皆、同義であるとして扱う。ここに仏教が解りにくくなっている原因がある。同じ意味なら何故、これ程多くの単語を使い分けなくてはいけなかったのかが問題になるだろう。
単純に考えてみよう。例えば煩悩即菩提をもっと簡単に表現したいと思ったとき、即ち一文字で略したら迷悟の二文字を使うのはよくわかる。煩悩菩提不二では語呂がよくないだろう。こんな場合は、煩悩菩提体一という。
不二の前に来る文字はすべて二文字である。二文字以上を使わなくてはならないときは即を使う。もっとも即は一文字の間に入ることもある。したがって不二と即は同義として扱い即の簡略化が不二となる。すべてを同義とするならこんなとこだろうか。
創価学会教学における生命の解釈にも同様の疑問が涌く。南無妙法蓮華経=生命という等式は、日蓮仏教ではない。また「生命」という用語が仏教的でなく物理学や生物学、生命科学などで使う意味合いで理解されると、仏教自体が誤解されかねないのではないだろうか。先ほど列挙した用語をすべて「生命」の一言で済ましてしまうにはあまりに情緒的過ぎるように思える。
これら以外にも諸法実相、一念の心、一念の心法、一念一心、一念三千、衆生の一念、総在の一念、総在の一心、九識、自受用身等々もやはり生命あるいは生命現象の一言である。
もちろん間違いとは言わないが、あまりに不適切である。これでは「生命とは何か」と改めて問われれば、これらのすべてを語らなくてはならない。そして唯識派の九識論でなんとなく説明した気になって済ませてしまうことになる。
これらの言葉をもう少し整理・分析する必要があると思っている。けれども天台教学や知礼の即の分析、華厳宗や三論宗等の分析では、日蓮仏教としてそのまま受け入れ難いのも事実である。彼らは南無妙法蓮華経を根幹に置くことが出来なかったからである。
またあまり分析に力を入れると天台宗や華厳、三論宗のように聞こえるだろうが、日蓮仏教でもいずれはこのような分析が必要になると考えている。世界宗教となるためには、用語の定義においても懇切丁寧に行って欲しいのである。
また創価学会教学において戸田の悟りと言われる「仏とは生命なり」にあまり拘ると、解釈に無理が生じる危険を感じてしまうのである。身も心も一体も不二も冥合も円融も円満もすべて生命あるいは生命現象という言葉で済ませてしまう傾向にある。南無妙法蓮華経も生命の一言で済ませてしまいかねない。
生物学、生命科学、物理学とは異なる独自の定義が必要になるのではないだろうか。無量義経の34の非ずが定義だとするには、あまりに無責任である。否定するなら34の肯定も必要になるだろう。なぜなら生命は不二の存在だと思うからである。
生命という言葉は、色心、依正、九識にでもなんでも通用する言葉ではあるが、それでは生命とは何かと問われたら先ほども述べたようにこれらをすべて条件付けで語らなくてはならなくなってしまう。
そして生命は言語道断となって一歩も前に進まない。さらに「生命は仏そのもの」であると定義してしまうのも行き過ぎである。「仏の生命」といった場合に単に「生命の生命」あるいは「仏の仏」となりかねない。
34の非ずは相の否定に過ぎない。性分や体の説明にもなっていないのである。学問分野だけでなく、学際的な定義が必要になるのだが、宗教学といった分野においても通用する定義が欲しいものである。
とはいえ仏教も不二、冥合、即、相即、円融、円満といった用語に対し、厳密に立て分けて使っているようには思えないのが実感である。まるで適当に使い分けているような印象を受けるのも事実である。どれも同じ意味合いであるとして処理している。それでも使い方に一定のルールのようなものも感じるので、一応筆者なりに分類、分析してみた。というのもこれらの用語が仏教においては、かなり重要な言葉であると思うからである。
けれどもたとえばSGI会長の提言などで、生命の尊厳を訴えるような場合の生命は、生きている人間の生命を尊厳しようという趣旨であり、読者等も同様の思いになる。このように使用することは一般的な意味で通用するわけで、これまで否定するものではないのは当然である。
また芸術に対し日蓮仏教を根本に考察するときも、生命、不二、即などは、どうしても使用せざるを得ないので、それぞれをそれなりに定義しておかなくてはならないと考えたからである。そうしないと筆者流の使い方の意味合いが明確にならないからである。
もちろんこれは筆者個人の責任において行うことなので、筆者の教学力、能力の範囲、日蓮仏教の理解の程度で異なる意見、感想、解釈もあると思うけど了解して欲しいと思っている。
というのも日蓮仏教が世界宗教になるためには、今後、様々な批判と分析が行われることが予想される。その準備の一端として行うもので、様々な仏教用語の中でもとくに定義不明、理解し難い用語(特に西洋哲学者等にとって)など多々あるように感じている。これらの学術的批判に対し組織運営のように気合とはったりだけでは通用しないし、情緒的表現だけでは疑問に応えたことにはならないだろう。
今後、優秀な若い方々が行わなくてはならない各種の理性批判に対し検討、精査する機会が増えると思う。様々な質疑に対応できる創価学会教学を作り上げて欲しいと切に願うものである。
創価学会として頻繁に使用する人間革命、総体革命、広宣流布(定義が8回変わっている)、生命、生命力、人間主義、宿命転換、功徳、福運、使命、平和、文化、教育、勤行、唱題、本尊、信心即生活、仏道修行、宇宙即生命、学会活動、日本における政治活動等々とともに日蓮仏教を基調とした政治・経済学、教育学等々に学際的に幅広い分野に通用する定義、さらに学会用語だけでなく西洋哲学者の理解不能な仏教的発想および用語の定義を明確にしていって欲しいのである。
そんな時代が必ず到来すると信じている。このことは、日蓮仏教が世界宗教として歴史に残るためにも必要なことではないだろうか。
不二、冥合、即、相即、円融、円満について筆者なりに試案したものを述べておきたいのである。仏教原理が解りにくいと言われるこれらの用語は、解りにくさだけでなく、誤解や悪用されてしまいかねない元にもなっているからである。
また創価教学における「生命」の定義だが、これを一度仏教上の用語に戻してみてはどうかと思っている。たとえば、生命を「一身」とし、心を「一心」と表現し直してみよう。一身とは顕現したすべて(人間を含めて)で、森羅万象を指している。一心は、冥伏しているもののすべてを指している。
もちろん一心は人間が最も能動的に発動性を持つという意味で有情の人間の一心としておく。そして一身と一心を合して一体とするのである。すなわち顕現した一体の顕現部分を一身と名付け、冥伏した部分を一心と名付けるのである。一身と一心は一体不二となる。そして一体は南無妙法蓮華経であるとなる。
「帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極(帰命)と云うなり」また「命とは本門随縁真如の智に命くなり」と御義口伝では説かれている。
「命とは謂わく、出入の息なり。夫れ有心の衆生は、命を以て宝と為す」とは伝教の言葉である。
同様に宝珠といって宝の珠に譬える(摩尼珠ともいう)こともある。御義口伝には「宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり、妙の故に心法なり法の故に色法なり色法は珠なり心法は宝なり妙法とは色心不二なり」と述べている。
なぜ帰命が一極なのかは不明だが、隨縁真如の智に命くことが出来ることに意味がある。妙法蓮華経が妙法蓮華経自身に帰命することを事の事といい、理法が事法となりさらに事法が事の法体となる故に妙法蓮華経という法が南無妙法蓮華経という法体になるのである。自己の自己化は自己の本地に至るのである。
人間自身が本来の一体である南無妙法蓮華経と不二なれる。これを教理的釈尊と歴史的釈尊が冥合するという帰命の原理なのである。
命が心法なら「生命」を一身より一心にしたほうがいいのではないかという意見もあるかもしれないが、有情界の人間は、命を宝に出来る一身なのである。
一切法を五種に分類した時に、五種をすべて備えているのが、人間である。一切法を生命と言ってもいいが、あえて分類した五種に当てはめれば色法そのものを生命にしたほうが、都合が良いと判断せざるを得ないのである。
さらに人間の一念について、妙楽が法華文句記巻八で法師品の一念随喜の一念を次のように解釈している。一心法としての一念、色心総在の一念、善悪を起こす根本の一念、因果俱時の一念の四種類である。一念三千の全体を説明するために必要なので、そのための苦心の創作でもある。
「唯だ一念の時頃を経るのみに非ず、一心法を指して名づけて一念と為す」としている。この一念が法界に遍ずるというのが一念三千である。
妙楽の止観輔行伝弘決巻五に「成道の時、此の本理に称いて、一身(命)(一心(心))一念(身心)法界に遍し」とある。「法界」とは宇宙の森羅万象を意味する。したがって一念三千というとき、宇宙の森羅万象がことごとく一念に収まることを意味する。
一生成仏抄に「一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念(一心法)の心(一心法界)に収めて此の一念の心・法界に満するを指して万法とは云うなり」と述べている。収まって満つるとは通常の意味合いだと融合となる。
一念が一心法に、一念の心が一心法界にそして一心法の心が一心法界にと表現は変転する。三千を一心に収めるための器としての法界である。瞬間の時間ではなく、収めて満することを偏ずるとも融合ともいう。
天台教学を理解するには、どうしても通らなくてはならない関門がある。それがこの一念三千で、とくに「一念が法界に遍ずる」の意味合いである。なぜ一念に宇宙の森羅万象が、収まれるというのか。その意味を理解しなくては一歩も前には進むことができないからである。また収まるとはいかなる状態を指しているのかである。
まず一念を一心法界と解釈して一念と三千世界を同列の相分にする。次に、法界と三千世間との関わりを一体とするのである。同義ではなく一体と表現したとき、単純に考えれば、一人の人間の一念と森羅万象は同じ存在となるというのだが、この意味が理解されないのである。
地球には数十億の人間が生きている。その一人一人の一念を一心法界とすれば、人間の数だけ法界と森羅万象があることになる。そしてこのすべての一心法界と森羅万象を総称して諸法とするのである。したがって諸法から見れば、一念が法界に徧じるとなる。
ただ問題なのは、人間を対象に考察することと、自然を対象に考察することでは、異なる説明が必要だということである。仏教的に表現すると対境が異なるときの一念の在り方を分別しておくということである。
それを人間存在自体を諸法とし、この諸法と人間の一念において一念三千を説明しながら、いつのまにか諸法が森羅万象となるから分かりにくくなるのである。
原理的には森羅万象と人間はともに法界であることから、その在り方は、人間の一念が森羅万象に徧じるとなるが、自然の方の一念は、どこに行ったのかとなる。
すなわち一念は人間にしか無い、人間の特質であると定義するしかなくなる。しかし仏教は、自然とはいえ冥伏していて発動性が低いだけと考えるので、この自然界、諸法の心の一念と人間の一念が不二であると考えるのである。人間における一念三千と自然における一念三千は、一念の現れ方が異なっていても不二であるとするのである。
この諸法の相と実の相という二つの相を融合させた形で存在させるのが三諦論である。この法理を円融の三諦という。一念という心の作用と三千世間という自然界の状態を結ぶための法理とはいえ、本来なら同列で語ることの出来ない事象を仏教は、このような論理を用いて結びつけるのである。一見すれば、かなり無茶な論法に見えるが、これこそ実相および実体にせまる方法であったのだろう。
したがって、論法で実体にせまるのではなくいきなり本体を明かせば良いはずである。それが出来なかった天台のやむに已まれぬ方法論であったといえる。
円融の三諦とは、円教で説く三諦で、空・仮・中の三諦が一体となって相互に具している三諦のことである。一境三諦、不次第三諦、非縦非横三諦、不思議三諦ともいう。法華玄義巻一には「隔歴の三諦は麤法なり、円融の三諦は妙法なり」とある。
それなら初めから一諦を説いて、後に三諦を説けば隔歴にならなかっただろうと思う。バラバラに説いておいて後で統合して、これが真如であるというのは、ルール違反のように感じるのは筆者だけなのだろうか。
衆生の機根に合わせて説いたからというと、さも慈悲のように錯覚してしまいがちだが、釈迦も天台も妙楽も伝教も知っていて説けなかったのは、法を説く側の機根がなかったのであって、衆生のせいではない。だから皆、末法を恋慕したのだろう。
この三諦を個々の独立した真理として考える隔歴の三諦に対して、それぞれの諦のうちに三諦を具え、おのおのが即空・即仮・即中ととらえるのが円融の三諦である。しかしこの即を付けた三諦と付いてない三諦の違いは、三諦のそれぞれに三諦があり、これで九諦になって、再びこれを統合して三諦に戻したときの三諦に即を付けたのである。この三諦を統合して実相となる。すなわち諸法を三諦に分析したときと実相を三諦に分析したときの違いを即で表現したのである。
この三諦を観ずることを三観といい、衆生の一心に円融の三諦が具わっていると観じる修行が一心三観である。そして、その一心三観の中核が一念三千の観法である。
この円融の三諦を摩訶止観巻一では、鏡とそこに写る像に譬えて次のように述べている。「譬えば明鏡の如し、明は即空に喩え、像は即仮に喩え、鏡は即中に喩う、合せず散せず、合散宛然なり」とある。またそれを踏まえた天台宗の口伝が御義口伝の「鏡像円融の三諦の事」に示されている。
この鏡の譬えは分かりやすいようで分かりやすくないのである。明鏡の明とは、なんのことなのか。はっきり映す現象を即空、左右反転していても像を映す現象を即仮、そしてこれらの作用を持つ鏡の存在自体を即中として、合せず散せずという。三諦は散せずであっても合することは必要だろう。
鏡を使って譬えるのは他にもあるが、現代でも鏡は不思議な存在なのである。鏡は左右反転するが、上下はなぜ反転しなのか、いまだにはっきりした答えはない。
仏が悟った究極の真理を三つの側面からとらえたものとすると、真理は一つでも三つの側面を持つことになる。それではまた真理全体が問題になってしまう。真理まで分析してしまったら再び統合しなくてはならなくなる。そしてその全体にまた名前を付けなくてはならない。例えば大真理とか極真理とか究極的真理である。
そこで作られたのが中道である。中諦は、より詳しくは中道第一義諦ともいい、空と仮をふまえながら、それらにとらわれない根源的・超越的な真理をいう。ただの真理ではないところに注目する必要がある。真理といえども根源や超越した真理がまだあるらしい。
天台は、竜樹の中論巻四観四諦品第二十四の「衆の因縁 生の法は我即ち是れ無なりと説く。亦是れ仮名と名づく。亦是れ中道義なり」の文を重要な根拠として三諦の説を作った。
三諦の名称は、仁王経巻上の「空諦・色諦・心諦」、及び菩薩瓔珞本業経巻下仏母品第五、同因果品第六の「有諦・無諦・中道第一義諦」にあるが、天台は法華経の教説に基づいて三諦の法門を確立した。
円教の三諦は三諦のそれぞれが他の二諦を踏まえたものであり、三諦は常に「即空・即仮・即中」の関係にある。究極的真実を中諦にのみ見るのではなく、空諦も仮諦も究極的真実を示すものである。したがって、一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融三諦という。
また、一つの観法の対象に三諦を見るので一境三諦といい、またそこで順序次第を立てないので不次第三諦、不縦不横三諦という。さらに、思考や論議を超えた究極的真実を直接的に示したものなので不思議三諦と名づける。
御義口伝に「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字(ママ)日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す」と述べているように、円融の三諦の実体は南無妙法蓮華経となる。
三諦と三如是・三身・三徳の関係について、十如是事では次のように示されている。「初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」と。
また一念三千理事では次のように述べている。「法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり」と。
さらに、総勘文抄には「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり」と示されている。すなわち、衆生の相・性・体の三如是が、仏果を成じた時に三身如来とあらわれるとされる。
 一念三千の法理を構成する百界・千如・三千世間と三諦の関係について、一念三千法門に「百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり」と述べている。
残りの3種類はこの応用編である。他のも見てみよう。一念は、色心総在の一念でもあるという。一念三千理事に法華玄義巻二上の文等を引かれて、「十如是とは、如是相は身なり玄二に云く相以て外に拠る覧て別つ可し。文籤六に云く相は唯色に在り文。如是性は心なり玄二に云く性以て内に拠る自分改めず。文籤六に云く性は唯心に在り文。、如是体は身(一身・命)と心(一心)となり。玄二に云く主質を名けて体となす文。
如是力は身(一身・命)と心(一心)となり。止に云く力は堪忍を用となす文。如是作は身(一身・命)と心(一心)となり止に云く建立を作と名く文。如是因は心(一心)なり止に云く因とは果を招くを因と為す亦名けて業となす文。如是縁止に云く縁は縁業を助くるに由る文。如是果止に云く果は剋獲を果と為す文。如是報止に云く報は酬因を報と曰う文。如是本末究竟等玄二に云く初めの相を本と為し後ちの報を末と為す文」と述べている。
すなわち十如是が色心にわたること、そして色心の二法はともに一念に具わるという。十如是の最後の本末究竟等については後述する。
とはいえ人間の一念に色心の二法があることと、森羅万象に色心があることとは、単純に同じ色心とは思えないのである。森羅万象に十如是があるとしても心はどのように存在しているのだろうか。宇宙に人間と同じ心があるといって十如是の文を引用してもそう簡単に納得する人はいないだろう。
心の発動性、能動性の強弱に置き換えて有無を語るしかなくなる。自然界といっても心が無いのではなく存在していても冥伏しているとなる。
一念に空仮中の三諦が具わっており、空諦は心法、仮諦は色法、中諦は色心二法のゆえに一念とは色心総在の一念なのであると結論する。
日寛は当体義抄文段で守護国界章の文等を引いて、「問う、『因果倶時・不思議の一法』とは、その体何物ぞや。答う、即ちこれ一念の心法(因果倶時・不思議の一法)なり。故に伝教の釈を引いて『一心の妙法蓮華』というなり。当に知るべし、この一念の心法とは、即ちこれ色(一身・生命)心(一心)総在の一念なり。妙楽が『総じては一念に在り。別しては色心に分ち、別を摂して総に入る』等というはこれなり」と述べている
三つ目の一念は、善悪を起こす根本の一念であるともいう。止観輔行伝弘決巻八に「一念と言うは、極促一刹那時を謂うに非ず、善悪業成を謂いて、名づけて一念と為す」とある。
善悪は本来無分別な存在なので不二をつけないことが多い。而二ではないからである。したがってそのままでは理論展開がしにくいので迷悟の二法を持ち出して説明することになる。一刹那を否定することと、善悪の業を確定成立させる根本という意味とどのように関係していて同時に引用したのか不明だがこう述べている。
まず染浄の二法を出し、次に迷悟の二法を出して九界・仏界へと展開したうえで途中で出てきた迷悟の二法は二なりといえども法性真如の一理でこれを一心というと。そして最後に法性は梵天・帝釈、無明は第六天の魔王として現れることを述べ、法性を善の性分、無明は悪の性分と善悪にもどれるのである。
ようするにここまで展開しないと一念は、善悪の業を成立させる根本の一念と言えなかったのだろう。それならなぜこんな定義を持ち出したのかまったく不明である。
さらに一念は依正不二の一念であると。依正不二は妙の一字を判別し解釈したものを妙楽が不二門として展開したものである。その依正不二の原理の一念とは何をいいたいのであろうか。依正不二の一念自体が新しい造語なので、どんな一念を想定しているのか不明である。
単純に考えて、一念の意味は、依正不二と同じ意味あいであるといいたかったのかもしれない。三世間のうち国土世間は依報であり、既に三千世間が一念に収まるというなかに、依正はともに一念の中に具足するとして一念に収まる三千世間を前提に論を進めてしまったのだろう。
最後の解釈は、因果倶時の一念であるという。当体義抄には「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」と述べている。しかしこれは日蓮の立場からの因果論であって天台のではない。
因果倶時の不思議の一法とは、一心の妙法蓮華経であり、色心総在の一念である。当体義抄文段には更に「一には一往、九因一果に約す。謂く、この一念の心に十法界を具す。九界を因と為し、仏界を果と為す。十界宛然なりと雖も、而も互具互融して一念の心法に在り。故に『因果倶時・不思議の一法』というなり。二には再往、各具に約す。且く地獄の因果の如し。悪の境智和合すれば則ち因果あり。謂く、瞋恚はこれ悪口の因、悪口はこれ瞋恚の果。因果を具すと雖も唯刹那に在り。故に『因果倶時・不思議の一法』というなり。乃至善の境智和合すれば則ち因果あり。謂く、信心はこれ唱題の因、唱題はこれ信心の果。因果を具すと雖も、唯一念に在り。故に『因果倶時・不思議の一法』というなり。これ仏界の因果なり。略して始終を挙ぐ。中間の八界は准説して知るべし」としている。
そもそも因果とは、原因によって結果がもたらされるという関係で、一つの結果が、次の因となって次の結果が導かれる。この連鎖を因果律といっている。結果と次の因を同時とするか俱時とするかといえば仏教的には俱時であろうと思う。
ただ九界を因とし仏界を果とするのは、無理があると思う。九界の衆生は必ず仏界を目指すとしても、衆生によっては菩薩界止まりの衆生もいるかもしれない。その場合は地獄界が因で菩薩界が果となってしまう。そして逆の因果も同時に成立することになる。仏界が因となって地獄界の果を導くことになったとしたら、なんのための修行か分からなくなる。ようするに、九界という九因が存在してもそのことが結果を導く因とはならないのである。仏界に至る原因は、九界そのものではないということである。
各具に約した場合の因果論は、見当はずれもいいとこで、因果関係も成立していない。天台や妙楽、日寛の時代には、現代のような精密に分析された因果論はなかったのだが、それにしても適当過ぎる。九界即仏界や迷悟不二を使っていろいろ言ったりするが、何でもありの事態を招くことは避けて欲しいものである。
衆生の起こす一念の心に三千の諸法を具足することを天台は一念三千といった。一念とは、瞬間・極微の意味でなく時間の一点(時間幅を持たない)に存在する身体と相の一身と一心法の一心を相即した本体をいい、三千世間とは現象世界のすべてをいう。
即ち衆生の一念に現象世界のすべて(三千)が欠けるところなく具すことをいう。そしてこの一念に因果を見ると途端に因と果は唯刹那に在りとしながら唯一念に在って刹那を否定する。そうしないと因果俱時にならないからである。説明が分かりにくいのも天台教学の特徴なのだろう。
一念三千の法門は天台が、法華経迹門に説かれている十如是の文、本門に至って究竟して説き顕わされた十界互具、三世間等の義を明鏡として、摩訶止観に体系づけたものである。
摩訶止観巻五上に「夫れ一心十法界に具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば己みなん。介爾も心有れば、即ち三千を具す」とある。
一念の一とは、単に数量的な一という意味ではなく、一実相、中道法性をさして一ということになっている。即ち色心、因果、有情・非情の人間活動を支えている拠りどころのすべてを包含した全体をさして一念というらしい。となれば一念と三千はよく使われるところの同義となるだろう。
したがってこの一念は、三千の差別相を具しているといった表現で関係性を述べざるを得ないのである。そして一念と三千との関係は、一念が先にあって三千が後にあるのでもなく、三千が先にあって一念が後にあるのでもなく、また一念が一時に三千を包含している同時的関係でもないともいう。要するに一念と三千は而二不二であるとなる。とにかく一念の定義は多岐にわたっている。
それではどんな関係があるのだろうか。具す、具している、具わっている、収まるとはどんな状態なのかである。ここを明確にしている文証は見当たらない。あくまでも理の上での表現に終始しているといえる。現実の状態は不離で「そのまま」としか言いようがないのだろうか。
いずれにしても爾前権教の心が万法の根源にあり、万法(現象)は心から発生してくるとの唯心説。あるいは心が主体で万法はこれに従属するとの唯心説を打破し、心と諸法とは、相即して而二不二の関係にあるとしている。
即ち法華円教では、諸法即実相(即は時間・空間的な同時・異時ではない)であり、諸法を離れて実相があるのではなく、諸法がそのまま実相であると説く。したがって、一念に三千を具すとは説明の便宜上、主語一客語になるだけである。
諸法即実相を持ち出して一念即三千の解釈はおなじであるが主客は便宜上の方便とする。したがって一念がそのまま三千であるのが実相であるという。一念と三千は主客の差はなく無分別であると。
問題なのは二点ある。なぜ、諸法がそのまま実相なのかであって、その説明はできていない。また即も具も不二も「そのまま」と解釈して同義としてしまう。同義なら何故異なる用語を使用するのかという説明もしていない。使用した後に「だから」同義では、パラドックスとなる。
前提を証明する過程のなかで、いつのまにか前提が真実となって、「だから」不二であるというルール違反が平然となされているのが天台教学と言わざるを得ない。
けれども一念三千の法門によって九界の衆生の一念の中に仏界を顕現することが出来ることが明かされたのも事実である。したがって十界互具三千世間の原理が、天台教学の大前提となってすべてを展開していくことになる。
それは諸法実相論、円融の三諦論そして即論から不二論にまで一貫して変わることはない。それゆえに仏道修行を確立するための四種類の一念の解釈が必要だったのだろうが、一念の本体を理で説明しただけで、本体そのものを示せなかった天台や妙楽の限界でもある。
この一念三千は理と事という相違があり、百界千如は有情の存在原理を明らかにしたものとし、三世間を具足して初めて有情・非情にわたる一念の事実存在が明らかになると説く。けれどもこの事実存在である一念三千が、どんな形相であるかを示すことはない。
天台は観念によって一念三千の理法を体得する実践を主張したが、日蓮はこの天台の一念三千を理としてしりぞけ、事の一念三千の当体として本尊を具現化し、この本尊の受持を即観心としたのである。
末法において、この一念三千の実相を一幅の本尊として顕したのが日蓮である。凡夫といい仏といっても一念自体の差別ではなく、変化相の差にすぎず、一切衆生の一念に普遍的に具わっているとしたのである。
天台や妙楽にしてみれば、一念の四種類は、一念と三千世間の関係を説明するのに必要だったといえる。不二と比較すれば依正不二、色心不二、善悪不二、因果不二の四種類となるだろう。
そこで不二に関連した用語について簡単に述べてみたいと思う。詳細は後述する。まず依正である。報とは果報のことで、過去の行為の報いをいう。この報い(果報)を受ける主体である衆生の身心を正報といい、正報のよりどころとなる環境・国土を依報という。
一念三千の法門においては五陰・衆生の二世間が正報、国土世間は依報であり、ともに一念のなかに含まれ、依正は不二となる。
瑞相御書には「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」と述べている。
正報なくば依報なしとはどういうことか。人間にとって自然・環境といっても意識して初めて認識できるのだが、人間が意識しようがしまいが自然は自然で存在できる。しかし人間にとって自然は、意識することによってその存在を知ることになる。意識が自然を作るのではなく、認識できるだけである。
けれども依正不二は単なる認識論ではない。人間の一念一心によってのみ依報の本体、本性を顕現できる。そんな存在を正報というのである。故に正報なくば依報なしという。また依報が正報をつくるとは、依報の存在によって人間を正報の存在として成立させられるからである。互いの存在を共存させ合う両者の関係を不二といっている。
この依正にも因果が存在する。十界の衣報と正報とを貫いて働く因果律のことであると説明されている。因果律が貫いて働いているとはどういうことなのか。依報とは身心の拠りどころとなる草木国土等の非情のことで、正報とは過去の業因によって感得した有情の身心のことである。
正報の善悪の業因によって、善悪の業果として依報が定まるという因果律では、依報が正報をつくるというより正報の業因によって依報が定まり作られているような説明になってしまう。
生死一大事血脈抄に天台云くとして「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」とあるのは、法華玄義巻七下の文である。依正の因果とは、物理的な因果律のことではなく、無差別の因果を表わす蓮華のことである。
先に述べたように依報の存在が因となり人間を正報の存在として成立させられることを果という。これが依正の因果である。十界はことごとく蓮華の当体(当体蓮華)である。比喩蓮華とは異なり、当体蓮華は比喩ではない。仏教で説く無差別の因果と物理的因果律を混同した説明は、誤解を招く典型的な例である。仏教用語の解釈は難しいと感じさせる一因でもある。
不二と共によく出てくる用語に一体不二がある。不改の体(この体は外見の形相のことではない)でもある。外見は差別相を見せながら、その本体の持つ性分として不二であることなのだが、性分が同じだとなぜ一体なのかよく解らない。一体ではなく一性というべきなのではないかとも思ってしまう。
法華経の一性皆成とは一切衆生には全て仏性があり、必ず成仏することをいうが、一性の性は仏性のことだから仏性以外の性分の場合は、一体というのだろうか。それでも法性とは諸法が本来具えている無始無終、不変不改の性分のことをいうのである。すなわち仏性も性分のうちであるはずなのだ。
それでは一体の体はなんなのかという説明がない。人間の肉体・身体のことをとくに依身という。心と心の作用の依処の故にこう呼んでいる。即ち心識の依処となる肉体のことである。依報を依果または依報果ともいう。依は依止、即ち、よりどころの意味である。依怙依託の義にも用いられている。
報は報い・果報・応報等の意味である。人間中心に依正を語るときは依身となり、森羅万象に広げたときは依報が中心になる。依報は心身(正報)のよりどころとなる一切世間、即ち草木・国土・衣食などのすべてを指している。
なぜ一体が問題になるかというと、性分の不二と一体に共存する二つの性分とでは、意味が異なるからである。共存しているから不二という説明は可笑しい。共存していても不二になっていない性分はある。共存と不二は異なる視点である。共存はあくまでも不二の条件にすぎず、ましておや性分の不二に一体という別概念を持ち出すこと自体間違いなのである。
一体とは別に一如とか一相いう用語もある。表面的(相と体)には異なるものも、本来的(?)には不二であり、平等であることで真如ともいう。一は不二の意味であるとし、如は不異・平等・無差別の意味という。けれども不異と平等と無差別は不二のことであったはずである。不二と如は同じ意味合いになって一如は、不二不二となってしまう。
また一如は法界一如としても使う。意味は三千世間と同じである。一切の森羅万象は無差別、平等であることをいう。法界とは十界三千の森羅万象の境界で、一如とは無差別、平等で不二と同義である。御義口伝に「十界各各本有本覚の十如是なれば地獄も仏界も一如なれば成仏決定するなり」と述べている。諸法は十界のあらゆる差別の姿を示しているが、本有本覚の十如是・一念三千であるから、一切が平等であると説く。
一相についても摩訶止観巻八下には「魔界の如と仏界の如と一如にして二如無く、平等に一相なりと知る」とある。ここでもそうだが、一相の説明しているのに、途中で一如を持ち出していて、結論部分でいきなり一相となる。文脈から言ったら平等に一如なりと知るとすべきであろう。仏教の用語の使用方法は難しく理解し難いところがあるようだ。
次に色心について観てみよう。色心とは色法と心法のことである。色とは色法で、肉体や物質などの目に見えるもの、外形に現れたものをいう。心とは心法で、心の本体、心の働き、精神、あるいは一切法に内在する性質をいう。外形に現れたものや内在する性質を含めて「法」という。
一切の諸法はすべて色と心との二つに大別することができるが、しかし本来は色心は相即不二の関係にある。心法を離れて色法はなく、また逆に色法を離れて心法はないという。現実が分かれて見えるからまずは分けて考えようということなのだろう。
この色心と依正の関係を色心依正という。色心不二・依正不二である一切の森羅万象をさしている。この二つの不二は創価学会でもよく使うものである。一切の諸法は、色心に大別されるとしながら、依正にも大別されているのはどうしてなのだろう。
これは人間一人を主題として取り上げた場合の色心と人間を含めた自然全体を主題にした違いだと思える。したがって一切の諸法を大別するには、色心より依正のほうが理解されやすいといえる。一切諸法の冥伏部分といえる心法を説明するより人間中心の発想でもいいのだと思う。一切衆生もまた色心不二・依正不二の当体となるからである。日寛は文段で『別しては色心に分ち、別を摂して総に入る』等と言っている。
この総別の二義について妙楽は「総在一念とは、諸法の実相は色と心が不二であり、我が一念に存在すると観心したこと」を指している。
また一念三千理事によると、十如是が色心にわたることが明かされており、十如が一念に収まる以上、色心の二法はともに一念に具わるのであると。色心不二も一念三千が前提になって成立することを認めている。
そのうえで、今度は色心不二を前提に一念を定義しなおすという不思議な論法を用いる。一念には空仮中の三諦が具わる。空諦は心法、仮諦は色法、中諦は色心二法、ゆえに一念は色心総在の一念であると結論する。
次に善悪である。善悪不二を両面具足の不二というが、どうもピンとこないのである。衆生の性分に性善・性悪が存在して縁によって顕現するから、衆生の体は改まらず一体の存在であるから一体不二とし、さらに仏も同様なので一体不二の存在という。そして衆生と仏の間も一体不二と入れ子状態で説明する。
しかし一体に両性分が具わるだけならなにも相対する必要はないだろうと思う。むしろ相対してはいけないのではないかと思う。
もっとも悪を定義するときに善を用い、善を定義するのに悪を用いてしまうと、どちらも定義が曖昧になる。総勘文抄に「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり」と説かれている。
これでは、善があることが悪の存在を生むことになり、また逆もある。そして善があるから悪があるのではなく、善が悪を、悪が善を生む関係になってしまう。このような両者の関係は、相関関係というより存在の依存関係である。したがって善が増えれば悪が減るという相関があるわけでもない。しかしこのままではどちらが先かで鶏と卵になってしまいかねない。むしろ善悪は比較相対して、流動的に決めるものだろう。
善悪という言葉から正反対、相対立する二者という印象を受けるのは西洋哲学的発想で、仏教ではこの両者を対立概念とは把握していないのである。場合によっては迷いと悟りといった意味で使っていても決して相対しないのである。
治病抄には「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」と述べている。
即ち梵天・帝釈と第六天の魔王との争いような印象から対立する概念と思われがちであるが、ここで問題なのは、第六天の魔王と戦うのは梵天・帝釈であって仏が魔と直接対決しないのである。
簡単にいえば魔も勝てそうな相手としか喧嘩しないという要領の良さと自己保身の権化である。イジメと同じ構造といえる。神と悪魔の戦いといった究極のトップ同士の対立構造を持つ西洋的発想では理解できないかもしれないが、衆生の性分の働きを表現しただけであり、不二というより共存といったほうが解りやすいかもしれない。
この共存関係を不二と云ったりする訳である。しかも仏教には、善悪どちらにも属さない無記の概念がある。対立するなら三つ巴の戦いになってしまうので、戦いの様相は複雑になっていくだろう。
相反する二つの概念を不二で結ぶといった単純な発想は仏教にはない。而二は性分としての相異であり、不二は体に共存していることを意味している。けれどもこれでは、なにも不二にする必要は無いように思われる。先に述べたように善が悪に代わる訳ではないから而二のままでも困らないのである。 
そこで問題になるのが縁である。縁によって顕現したり冥伏したりする訳で、何に縁するかが問題となってくるのである。善や悪、迷いや悟りを顕現させる縁そのものに善悪が存在しそうである。縁の善悪こそ対立関係にあり善縁と悪縁までも不二にしてはいけないのである。
真如とは真実でありのままの意味で、妙理とは、不可思議な法理ということになる。当体義抄に「真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり」と述べている。
そしてこの場合の悟りは縁によって成就した悟りと成り、また縁によって迷ったりしてしまう。そんな悟りを悟りといえるのだろうか。せっかく悟ったのに、なにかの拍子にまた迷ったのでは、悟りそのものの意味はなくなることになる。
法理の性分には善や悪といった独立した性分はなく、二にして不二である。しかし悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟となる。このように性分は縁によって変化する。この不思議な法理を真如の妙理ということなのだが、これはあくまでも理の上の話であって、悟りは善縁によって顕現するのならこの場合の善縁とはなんなのかを問わざるを得ない。
真如の妙理以上の縁があるということになり、真如自体が真如であることを否定することになってしまう。理論的には地獄界から仏界まで縁によって様々に顕現できるとしても、悟った後に地獄界になった場合この悟りは何の功力も発揮してない悟りとなって悟ること自体無意味になりかねない。
なぜこんなことになったのかというと本来無分別の善悪の二性を迷悟に当てはめて考えようとするところに問題がある。もっとも同じようなことが、その他にも結構ある。まるで言葉の遊びを楽しんでいるのではないかとさえ思えてしまう。
顕現・冥伏の原理の構造について検討してみたいと思う。これはある意味で不二、即、相即、冥合、円融、円満における相、性、体の存在原理でもある。
特に仏教の原理を現代文で説明しようとするとき、どうしても物理学的な表現を用いる時がある。けれども物理学で定義された言葉は、当然ながら物理現象を説明するための定義であってかなり限定された意味を持つ。
生命現象でもある顕現・冥伏を語るための定義された用語はないといってもよいだろう。人間の性格について考えてみればわかる。たとえば短気な性格の人がいたとき、この短気な性格は縁に触れて出てくるが、それまでどこにどんな状態、形相で存在していたのだろうかといったことを考えてみなくてはいけないのである。物理学や生物学、脳科学においても大問題なこの種の課題にはまだ全く答えがないのが現状である。
したがって、顕現・冥伏の原理を宗教上の問題であるとしてなにも定義しないでそのまま使うことが許されるのだろうか。ほっとけばただ性格と同様の解釈でおわってしまうだろう。性分と性格は同じ意味と考えられてしまえば「仏といった性格」程度の解釈がまかり通ることになる。悟りといってもそうで、悟れば何がどうなって、現実の生活にどんな変化をもたらすのかという疑問も単なる性格的な二面性の一つに過ぎないとなる。実際に仏教でも迷悟は顕現・冥伏する性分の二面性と言ったりする。
煩悩という性分は、どんな形相でどんな状況で存在しているのだろうか。そして菩提は・・・。
また顕現したときにその存在を確認できるといっても煩悩や短気はそうだろうが、菩提は顕現してもこれが菩提だといえるかどうか定かではない。
さらに煩悩が変じるときは必ず変じ先が菩提と確定している。これは媒介として縁するものが一つと確定していることを意味している。ところが九界が仏界に転じるときの縁は一つでも、逆になると九種類の縁が必要になる。煩悩や菩提の存在の仕方も気になるが、縁の存在の仕方も気になるところである。
縁を人間の内外に振り分けても、内境と外境は一体不二であると言われたら、やはり縁とは何かが気になると思う。存在の仕方を説明するときに使用する用語は、冥合、円融、円満である。不二論は、存在の仕方まで考慮していないのである。そこでまず冥合について考えてみたいと思う。
冥合は合していくことに意味があり異時となる。もし同時にしたければ円融・円満を使えばいいことである。王法仏法に冥じ、仏法王法に合すると一見相即に見えるが、そうではない。冥じ合していくまでの時間を有するのである。したがってそのままでは王法相即仏法とはならない。これは仏法即社会、信心即生活の場合も同様である。
けれども即の場合、法華経に至ることを条件にすれば、御書にもあるように孔子や老子の言も即ち法華経という。こうなると何でもありの感を受けるが仕方がないともいえる。世間法上の悪人は世間法で裁かれる。高齢者を騙す詐欺師などは、たとえ、法華経に至っても許してはいけないというのが一般世間の常識である。これを視点が違うと思ってはいけないのである。
冥合とは、奥深く合一して滞りのないことで、冥々裡の合一の意味となる。冥とは顕に対する語で、奥深いところという意味である。一般的には溶け込む、相応じることである。仏教では、複数の事物事象が、極めて自然のまま、それぞれの本性はそのままで無作に合一した一体不二の関係をいうとなっている。しかし無作に合一とは、なんのことなのかまったく理解されないと思う。人間は日常的に煩悩も菩提も短気な性格やのんびりした性格も無作に合一しているという。
一念三千理事には「次に報身とは大師の云く『法如如の智、如如真実の道に乗じ来つて妙覚を成ず智如の理に称う理に従つて如と名け智に従つて来と名く即ち報身如来なり盧舎那と名け此には浄満と翻ず』と釈せり、此れは如如法性の智、如如真実の道に乗じて妙覚究竟の理智・法界と冥合したる時・理を如と名く智は来なり」とある。妙覚究竟の理智と法界が冥合すると理が如となり、智が来になるといい報身如来は理智法界冥合の姿であるということになる。ちなみにどうでもいいことなのだが、奈良の大仏は盧舎那仏で鎌倉の大仏は阿弥陀仏である。
冥伏と顕現の構造を説明するときによく使われる例は、十界の様々な境界の変化である。人界の境界から天界の境界になったとき、人界は冥伏して天界が顕現したという。そして顕現するということは、存在していたから顕現できたという。それでは、天界はどこに存在していたのだろうか。しかも同時に二つの境界は顕現できないらしい。まるでパウリの排他原理である。
もしかしたら顕現する種類を十種類にしただけで、存在するのは常に一つなのだろうか。そうだとしたら、人界から天界への変化は劇的である。けれどもこれだと冥伏ではなく変転である。そして十界互具は理論的な原理構造にしかならない。三千世間もそうなる。そして一念三千は有名無実の観念論となる。そうなれば理も事も同様となる。さらに一念三千から派生した様々な原理も同様となる。そして天台教学は破たんする。そうならないためにも十界は、現実に存在し縁によって顕現するしかない。
煩悩と菩提について考えてみよう。煩悩は菩提に変化するのか、冥伏するのかどちらかであろう。変化するなら煩悩は無くなる。冥伏するなら無くならない。煩悩は断じ尽くせないとしたら冥伏となる。それなら煩悩も菩提も同時に存在することになる。そして冥伏の意味を確定しなくてはならなくなる。どこで、どんな状態で存在するのかである。
不二論の時は一体不二だけが問題の焦点であって、存在の仕方は問題にはならなかったのである。即論の時は、冥伏・顕現の問題より、この変化を変じて転じたり、変じて開いたり、具わって収めたりと様々に説明しながらも即の両辺の存在の仕方より、両辺の対等な存在価値に焦点が当たられていたのである。
冥合論は不二や即の思考をそのまま受け入れながらの応用編である。したがって時には不二になったり、即になったりして理智、境智の冥合、相応を語りながら、修行の対境と観心する智慧の因果関係を成立させるという媒介の役目を担っているのである。ただし冥合の因果は異時であって、合一するまでに時間を有するのである。
俱時の存在の仕方が問題になるのは、円融からである。煩悩が冥伏する先は心法である。心法の大海に煩悩の性分が融合することを一心法といい、一心法の存在する場所を一心法界という。円融論に至ると煩悩と菩提は而二不二ではなくなり、一性分の二重性となる。
二重性とは、背と腹といった両具の二面性ではなく、視点を変えることによって見える二つの性分のことである。この存在論は同時に存在することではなく、俱時に存在するので二重性という。煩悩が冥伏する心法と存在する場所の一心法界は人間の一念の心に俱時に存在するのである。
俱時に二つの性分を存在させるときの視点とは、同時の視点と俱時の視点である。ともに同時刻でありながらその存在の位置が異なるのである。位置をポテンシャルといってもいいだろうし、境界といってもいいだろうと思う。同時の視点が冥伏で俱時の視点が顕現となる。筆者はこの現象を生命論序説において、虚数座標系を使って説明したのである。
仏教ではその最初期から、一般に悪を廃し、善を修することを勧めているが、それは「善因善果(楽果)、悪因悪果(苦果)」という業報の因果を重視するからである。もっとも、善、悪に対してそのどちらにも属さない無記(非善非悪)も説いていることにも注目すべきである。
大乗仏教では、善悪の分別それ自体が迷いであるとし、分別作用へと目を向けた。分別はアビダルマ哲学が重視したものであるが、竜樹(ナーガールジュナ)は「中論」で、アビダルマ哲学が主張する法有(恒常不変の本体)を批判し、その自性を破すことで大乗の空観を宣揚した。
無分別智、空観の立場では、善悪の二元的区別は越えられ、善悪不二・邪正一如という主張が生じるが、一方、悪が究極の真如あるいは仏に帰せられるかどうかという議論が生じる。主として天台と華厳の間で論じられたこの問題は、西洋における神義論(悪の存在と神の正義の関係を論じる議論)と類似している。
天台教学では本有の真如・仏性に本性としての悪が備わっていると主張した。観音玄義巻上に「闡提は修善を断じ尽くして、但だ性善のみ在り。仏は修悪を断じ尽くして、但だ性悪のみ在り」とある。つまり、一闡提は修善(善の行為)はないが、本性としての善はある。仏は修悪(悪の行為)はないが性悪はあるという。ここから、極悪人も成仏の可能性をもち、また仏も悪の本性をもつことを洞察することで一切衆生の救済が可能となるとしたのである。
日蓮は治病抄において「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」と述べている。
日蓮仏教においては十界のいかなる境涯にも善悪ともに本来備わっているが、根本的(?)な悪であっても、十界互具の本尊を信ずることで善の働きへと変えていくことができるとする。
十界互具、事の一念三千の本尊はこの救済を可能にする当体である。「されば首題の五字は中央にかかり……第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等……此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」と。
妙法においては、いかなる悪といえども善の働きへと転換し、煩悩(悪)即菩提(善)、生死即涅槃と(煩悩、生死を悪とする解釈はどうなのかと思う。善悪は縁によって生じ、煩悩は菩提に転換するので、無分別の善悪と転換する煩悩・菩提では存在の仕方が異なる。このことは後述する)開覚するのである。
これは善即悪でなければ通用しない論理である。すなわち善が変じて悪に転じるという原理であるのだが、縁によって変じ転じるとしなければならない。善悪不二となる。そして而二となって無分別ではなくなる。
また善悪は所対の不同(比較相対)によって生じるものでもある。法門には高低浅深があり、高く深い教えと低く浅い教えを対するとき、前者は善であり後者は悪である。さらに善にも大善、小善があり、悪にも大悪、小悪がある。
権経は外道に比べれば善であるが、実経に比べれば小善にすぎない。「小善を持て大善を打ち奉り権経を以て実経を失ふとがは小善還つて大悪となる」とあるように、法において価値の序列は厳然としている。それならば善悪不二という表現に問題があるのではないかと思う。
善と悪は心の体を述べたものではなく、その用(働き)の面を比較相対して判別したものである。それでは善悪どちらにも属さない無記はどんな法に縁すれば現れるのだろうか。
総勘文抄に「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり」と説かれている
いずれにしても、衆生は本来善であるとする性善説も、本来悪であるとする性悪説も、真理の一分を述べたものにすぎず、一切衆生は本来、善悪両面の働きを具えているので両面具足の不二ともいう。
悪が善に代わるのではなく、性悪が冥伏して性善が顕現するとしないと辻褄があわなくなるのではないかと思う。当然、権教が実教に代わることはないが権実に冥伏・顕現という原理は使いにくいだろう。ということは善悪不二と権実不二の不二は意味合いが異なりながら不二を使っていることになる。
善悪は比較相対の結果で生じる差別に過ぎないのか、または、縁によって生じるとするのか、はっきりして欲しいものである。また権実不二はどうなっているのか。高低浅深、大小を否定するのが不二の仏教ではないのか。
権教をもって実教を失うことが何故起きるのか。実教には権教を抑え込む力がないのか。確かにそれが現実かもしれないが、だとすれば実教が説かれた時点で権教を排して置かなかった理由がいまいち理解できない。後で権実不二では、ますます悪用されてしまいかねないと考えなかったのだろうか。
衆生の一念には性悪、性善をともに具え、不二一体であることを邪正一如という。善悪一如ともいう。邪正は邪(邪曲)と正(中正)の併称で、一如は無差別、平等、二でなく一であることだが、ここでは一如で不二となっている。
爾前権教では成仏できなかった二乗や悪人、女人が十界互具、一念三千を説く法華経に至って、成仏が許された。すなわち、邪正一如とは法華経によって示された皆成仏道の教え、平等大慧の法のことである。
キリがないので次にいきたい。今度は、因果である。因と果の本性が同じであることを因果同性という。ここでの因とは仏果を生起する原因のことで、九界を指し果とは仏界を指すと定義する。
だからといってなぜ因果同性になるのだろうか。仏界と九界の仏性が不二であっても語れるのは因果だけである。因果の本性を語ったことにはならないだろう。仏界の仏性と九界の仏性に因果を置き換えないと性を語れないからそうしたのだろう。
けれども因果に本性があるとすること自体、現代的ではない。さらに因果を語るのに九界と仏界を引き合いに出すのはいかがなものであろうか。九界も仏界も相分であって性分ではないし、因果も性分ではない。
九界は迷いの衆生といっても迷いの様相の違いを九種類に分類したに過ぎず、迷いから見れば一つになるから九界にする意味がなくなる。迷いの界と悟りの界の二つしかないことになり、三千にならないので元の木阿弥になってしまう。
伝教の三大章疏七面相承口決には「因果同性の宗。この法華の教には因果相入して果位に登るといえども因の性を捨せざることを明かす。真如の法の中には一切の法を具す智もまたかくのごとし」とあるが、これは、天台の法華玄義に説かれる五重玄を注釈した玄義七面の決の第三である四重浅深のうちの宗の四重の一つのことである。したがって一念三千も説かれてない段階での発想である。
法華経以外の諸経に説かれている方便・権教では、九界と仏界は異なった本性であるとするのに対し、法華経迹門では、九界の衆生にも仏知見(仏界)が本来的に具わることを説き、九界と仏界の本性が同一であることを明かしている。
方便・権教を因果異性の宗とするのに対し、法華経迹門の教説を因果同性の宗とする。本因妙抄の宗の四重を明かす段に「因果同性の宗・是れ迹門なり」とされている。ということは、因果俱時に劣るということになる。日蓮仏教は因果俱時の宗である。
ここでも善悪と同様の方法で、今度は因果を九界と仏界に置き換えて論を展開していく。因果を語りたいなら徹底して因果で語って欲しいものである。因果不二を語るのに九界と仏界は不二であるから因果も不二では、あまりにも手前味噌な展開である。
結果を生起する原因(九界)とその結果(仏界)において原因結果は同性で不二だといってもこれで納得する人はあまりいないだろう。
九界から仏果に至ることと因果ではあまりに視点が違いすぎる。九界が何故原因になるのか。仏果に至る過程にあって原因なのは縁としての修行のほうが解り易いといえる。九界の衆生だから修行しなくてはならないとしても仏果に至る原因は縁であって九界だから因では大まかに括りすぎの感がある。
九界の仏性と仏界の仏性は一体不二だとしてもそのまま因果に当てはめるのは、飛躍しすぎである。方便権教と法華経の相対はあくまでも九界の衆生に具わる仏性の話で、因果の話ではないと思うのだがいかがなものであろう。
解りにくい用語がつづくついでにもう一つ行こうと思う。それは中道である。中道とは、断常の二見や苦楽の二受(二辺ではなく二受となっている)、有無の二辺(ここでの有無は二道ではなく二辺となっている)などの両極端に執着しない、不徧にして中正の道をいうとなっている。
快楽主義と苦行主義の二つの生き方を捨てること。相応部経典巻五十六転法輪品第二(如来所説第一)には次のように説かれている。「諸比丘よ、出家者は二辺に親近すべからず、何をか二と為すや。諸欲に於て愛欲貪著を事とするは下劣、卑賤にして凡夫の所行なり賢聖に非ず……自らの煩苦を事とするは苦なり賢聖に非ず……諸比丘よ、如来は此の二辺を捨てて中道を現等覚せり、此れ、眼を生じ智を生じ寂静・証智・等覚・涅槃に資す」とある。快楽主義と苦行主義の二辺に執着するなという。
竜樹の中論によれば、衆の因縁生の法(縁起)と空と仮名とを中道としている。竜樹は「若し一切は皆な空ならば、生も無く亦た滅も無し」と説く。つまり空こそ生滅・有無等の両辺を超越した諸法のありのままの姿であり、これを中道という。
竜樹は空が中道であるという。しかし天台は中論の説を受けながらも不思議の三諦を立て、空仮中の三諦円融に基づく中諦を説いた。
これを修行者の主観についていえば不思議の三観であり、また一心三観という。摩訶止観巻三上に「中道第一義観とは、前に仮の空なるを観ずるは、是れ生死を空ず。後に空の空なるを観ずるは、是れ涅槃を空ず。双べて二辺を徧す……又た、初めの観は空を用い(仮の空なること)、後の観は仮を用う(空の空なること)。是れを双存の方便と為す、中道に入る時、能く双べて二諦を照す」として中道を説明している。つまり空と仮をならべて否定すると共に、空と仮をならべて用い、融通無礙にして偏執することのない境地であることを中道としている。
いいたいことは何となく解るような気がするが、やっぱり中道とは何かについて説明していないような印象を持ってしまう。
中道がなぜ真実不変の本性なのかである。そして本体といったり本性といったりするのはなぜなのかとなる。中道は一切諸法のありのままの姿であるから実相といい、実相はまた真如・法性などと様々に表現される。
中道が法性なら一心と何がちがうのかが解らない。「ありのままの姿」という中道と「そのままの姿」という一心はどこが違うのか。中道即一心だから中道法性といい諸法即実相だから円融の三諦というのだろうと推測する。
それにしてもなぜ中道といった考え方を用いたりしたのかである。空にも仮にも偏しない中の説明をするために、三諦のなかで唯一中諦に道をつけて特別扱いした理由にこそ天台の思いがあったのだろう。
天台にすれば真実の教えである法華経が何を説かんとし、言わんとしているかを、真実法体を明かさずに説かなくてはならない制約のなかで行った苦心の作でもあったのだろう。
そのためにまず一心三観の理観を受持することと、真実の教えである法華経を受持すること(これを中道の妙戒という)訴えたのだろう。
そのために必要だったのが中道第一義諦や中道第一義空の内証といった考え方である。中道第一義諦に基づく空という内面の証悟の法門である。中道は最上・真実のゆえに第一義諦といい、空即仮・仮即空にして、仮より空に入り、また空より仮に入り、空仮の二辺に即しながら偏執しない中正の道があることを強調する。
ちなみに中諦を三身如来と三徳究竟と三如是でみると法身如来で法身で体となり、空諦は報身如来で般若で性、仮諦は応身如来で解脱で相と配される。
ゆえに一諦即三諦、三諦即一諦であり、一切の存在を空と見ながら同時に中と見る必要を説くから中道第一義空といい、法華円教以外の諸経・諸宗の知るところではないから、これを仏内証の法門とする。
止観輔行伝弘決巻一には「仏性とは、第一義空なり。第一義空を名づけて中道と為す。中道を仏と名づく。仏を涅槃と名づく」とも釈している。
一諦即三諦・三諦即一諦としての中諦を中道第一義諦いう。天台は摩訶止観巻三の中で円教の菩薩について、初住位に入って初めて三諦即一の中道を観じ、無明惑を破して仏性を見ると説き、この中道は三諦をそなえるけれども、一つに束ねて中道第一義諦となす、と述べている。
実に回りくどい説明ではあるが、中道実相が何なのかを懸命に説明しようとしていることは解る。
中道があらゆる事物・事象(諸法)の真実の姿であるとしてもそれが何故中道という名称になっているのかは定かではない。
実相は諸法の本質・本性(法性)でもあるので、仮諦も空諦もともに具え、そのいずれにもとらわれないものである、三諦円融の中諦を第一義としたのである。法華玄義巻八下に「有に依らず亦た無に付せざるが故に中道と名づけ、最上無過の故に第一義諦と名づく」と。
中道を空仮中の三諦の中諦を持って解釈するにしても、中道を断常の二見や苦楽の二受、有無の二道、生死の二法などの両極端に執着しない、不徧にして中正の道というが、これらは法華経において無分別なものばかりであるからその分別を批判すれば済むことである。改めて両極端に執着するなという必要はないと思う。
ましておやそれを中道といったり、中正といったり、さらに三諦においても空仮に捕らわれず執着するなと展開する必要がどこにあったのだろうか。中諦を中道とか中正と言い直す理由がいまいち理解できないでいる。
空諦を空道、仮諦を仮道とは言わないし、それぞれを第二・第三義諦とも言わないだろう。初住位に入って初めて三諦即一の中諦を観じと云えば済むことである。中道は孔子の説いたとされる中庸の義、古代ギリシャの哲人の論じた中庸等の消極的なものではなく、また二者の中間というような折衷(折中)主義とも区別されるとわざわざ注意書きまで付け足さなくてはならない原因でもある。
相続の中諦という表現もある。空仮中の三諦について、空諦・仮諦の二法が無二無別なることを名づけた仮称である。相続諦については、仁王経巻上に「相続の仮法は、一に非ず異に非ず。一も亦た続かず異も亦た続かず。一に非ず異に非ざるが故に、相続諦と名づく」とある。
日蓮は一生成仏抄に次のように述べている。「有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に徧して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり」と明快である。
人間と自然を無分別、即ち非有非無の中道の理の本体を妙法蓮華経とする。したがって中道は究竟の真理であると共に、妙法の当体としての全ての存在の真実の姿であると日蓮はいう。
中道にして唯一無二の法であることを中道一実といい、この中道一実の妙体を妙法蓮華という。これに衆生法と仏法と心法との三法妙があるとして、法華玄義巻二上には広く三法妙について中道を明かすが、一生成仏抄ではこのうち近要の己心をとって釈されている。
即ち衆生の一心・一念は非有非空であり、有無の二辺を離れた中道実相の妙体であること。中道はあらゆる存在の真実の姿であるから中道一実とも中道実相ともいう。妙は不可思議の義。不可思議な心を含めて一切の存在を法というから、一念の心は妙法の当体であると結論する。中道一実の妙体を三法妙にわざわざ分離する必要が日蓮には無かったのである。
さらについでに十不二門について述べる前に天台の十妙と観心の四十妙について一言述べておきたい。妙法蓮華経の妙の字に四十種の妙(不可思議)の義があることを観心の立場から説いたもので観心の四十妙という。天台は妙の一字についてもこのように四十妙と四十に分類したりする。まさに広げるだけ広げて説明しようとしている。いずれはまた統合へと行かざるを得ないのだが・・・。
天台の法華玄義巻二上に明かされた法門で、迹門に境・智・行・位・三法・感応・神通・説法・眷属・利益の十妙、本門に本因・本果・本国土・本感応・本神通・本説法・本眷属・本利益・本涅槃・本寿命の十妙があることを明かしている。四十妙とは、この十妙を衆生法、仏法、心法の三法妙に開いた三十妙と、開かない根本の十妙とを合したものをいう。
迹門、本門、観心に、それぞれ十妙があることを明かしている。迹門十妙は、方便品の諸法実相の開権顕実によって境・智・行・位・三法・感応・神通・説法・眷属・利益の不思議なることをあらわし、本門十妙は、如来寿量品における開迹顕本の意によって、久遠本果の仏の因果、利益の不思議なることをあらわす。
これに対して、観心十妙は、迹本両門に明かした極理より己心を観ずれば、衆生も仏も一如であるとの妙観をあらわしている。不思議なることと妙観は同じ意味となる。
実に苦し紛れの言い訳じみた天台の言説であるが、不思議なる極理、不思議なる妙観、衆生と仏の一如とは、なんなのかについては説くことはなかった。
妙法蓮華の妙の一字にたいしてもこれ程の理論展開をし、本迹両門に明かした極理の正体を回りくどく解説しながらもなお真の結論を明示しなかったのである。この無理やりとも思える理論展開には、隠された理由が存在すると思われる。それは、一体の本性、本体を解き明かせなかった天台教学の限界でもあったのだ。知っていて明かせなかったとは日蓮が天台に対して述べた言葉である。
とはいえ含むや一部であっても不二では、いったい何が不二なのか解らなくなってしまうことだろう。権実不二の場合、ともに釈迦の説法であるから、ある意味真実(衆生の機根に応じただけだとしても)かもしれないが、だからといって一部は一部である。なにも不二にする必要などないだろう。
天台は一日一万遍の唱題(妙法蓮華経)を欠かさなかったという話があるが、自身は題目を唱えながら、人には観心の修行をさせ、六即の位まで設けてさせていたことになる。天台は自身が末法の法華経の行者ではないという自覚とともに沸き上がる苦しい胸の内を垣間見る思いがする。妙楽も伝教もまた末法を恋い慕う心情を吐露しているのである。
日蓮の文底独一の法門においては、南無妙法蓮華経の七字の中に、一切の妙が具足されることになり、これを受持することが一生成仏の直道になるとする。また観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と述べ、さらに百六箇抄で下種の本迹勝劣を挙げるなか、十妙(本因妙・本果妙・本国土妙・本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙・本涅槃妙・本寿命妙・本利益妙)について本迹勝劣を立て分け「日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり」としている。
日蓮の文底下種仏法は、抽象的な真理について不二を立てるのではなく、具体的な現実について立てた、至極無上にして事理一体、仏の力用の上の十不二門であることが特徴である。百六箇抄下種十不二門の本迹において、「日蓮が十不二門は事上極極の事理一躰用の不二門なり」と。
つまり天台の観念観法が、相対・差別の現実の内奥に、絶対不二の真理を観ずるのに対して、文底下種仏法は事理一体、即ち真理を事実の上に具現した。(本尊を顕したこと)そして仏の力用をそなえた絶対不二の真理(南無妙法蓮華経)の当体を直ちに所縁の境として修行する。ゆえに、至極無上の事行の不二門となる。
百六箇抄の言説であるが、百六箇抄や御義口伝など日蓮の直筆でないと批判する人がいるが、聖書や仏典、さらに天台の摩訶止観もまたキリストや釈迦や天台の直筆ではないのである。そうなれば一念三千など語ることもできないことになる。
日蓮の思想体系に沿えるのであれば、これらも日蓮仏教として用いることになんら問題はないと思うのである。
さらに、日蓮仏教が世界宗教になるうえで、依正不二や色心不二の原理は結構便利に使えるものだと思うし、今後も使うことだろうと思うから、これらを日蓮仏教より解釈し現代に通用する表現で定義し直してほしいものである。
それこそが十八円満抄で日蓮が「所詮末法に入つて天真独朗の法門(天台教学)無益なり助行には用ゆべきなり正行には唯南無妙法蓮華経なり」と言ったことに通じると思うのである。
天台、妙楽、伝教は、過去の様々な用語を定義し直し、新たな用語を生み出しながら、それらの用語をさらに定義づけて衆生本有の妙理である妙法蓮華経を説明していかざるを得なかったのである。
天台が勝手に定義づけしているだけではないかという批判が起きそうであるが、その他の宗の坊主などは、もっと酷いものであるが、それらを取り上げている時間もないし、その気にもならないうえ価値もない。
其れに比べて日蓮は、法体の妙理に名前をつけて南無妙法蓮華経とし、南無妙法蓮華経の説明に釈迦、天台、妙楽、伝教の説を用いながらが、もし南無妙法蓮華経が間違っているなら過去のすべてが意味をなさないという証明法を用いているのである。現代的にこれを背理法という。ある命題の否定を真とすれば、そこから不条理な結論が出ることを明らかにして、原命題が真であることを証明する間接証明法である。
日蓮は、末法の凡夫である自身の一念に具わる妙法蓮華を曼荼羅に図顕し、末法の一切衆生が信受し実践するための本尊にしようとした。すなわち凡夫の身で自身に具わる妙法蓮華経を覚知して、この一念の心法にした姿すなわち南無妙法蓮華経を図顕したのである。
故に日蓮を本因下種の教主と称し、また久遠元初自受用身の再誕としたのである。ついでに言うと天台は薬王菩薩の再誕になっている。もともと格が違うと言えばそれまでだが、それでも天台教学はそれなりに使うことはできる。
観心本尊抄には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と述べている。本門の本尊を信じ自行化他にわたって題目を唱えることを因として、即身成仏という果を得ることであるが、実践する衆生にとっては、本尊受持が本因であり、自身に具わる南無妙法蓮華経、仏界を開き顕し即身成仏することが本果である。本因妙抄に「受持本因の所作に由つて口唱本果の究竟を得」と述べているのはこのことである。
ついでと言ってはなんだが、よく即身成仏というが、なぜ即身といい即心ではないのか考えたことがあるだろうか。「即ち一身が仏と開く」場合、一心はどうなっているのだろうか。凡夫が現身(生身)を改めず、そのままの姿でただちに成仏することを即身成仏という。生身は生きている肉身、現身のことである。法身は仏身のことである。
木絵二像開眼之事で「法華を悟れる智者・死骨を供養せば生身即法身・是を即身といふ、さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す成仏是なり、即身の二字は色法 成仏の二字は心法・死人の色心を変えて無始の妙境・妙智と成す是れ則ち即身成仏なり、故に法華経に云く「所謂諸法如是相(死人の身)如是性(同く心)如是体(同く色心等)云云、又云く「深く罪福の相に達して徧く十方を照したまう微妙の浄き法身・相を具せること三十二」等云云」とある。
死者の色心すら変えられる。生身の色心を変えられないはずがないと。もちろん「法華を悟れる智者」という条件付きである。即身は色法(一身)であるから、生身即法身を意味している。即身の二字は色法、成仏の二字は心法・死人の色心を変えて無始の妙境・妙智と成す是れ則ち即身成仏なりと日蓮はいう。法華を悟れる智者の心性は既に仏意と成し、仏性を現わしているので、あとは一身だけである。ゆえに即身ということになる。
観心本尊抄文段には「仏、大慈悲を起し、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり。故に我等但この本尊を信受し、余事を雑えず南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その義を識らずというと雖も、自然に自受用身即一念三千の本尊を知るに当る。既に本尊を知るに当る故に、また我が色心の全体(色心の全体があること、色心は全体の別相)、事の一念三千の本尊なりと知るに当れり。譬えば小児の乳を含むに、その味を知らずして自然にその身を養うが如し。耆婆の妙薬、その方を知らざれども、服するに随って病を治するが如し。これ則ち本尊の仏力・法力の顕す所の功能なり。これを疑うべからず」とある。
さらに日寛は文段で「無始色心・妙境妙智、境智冥合すれば(冥合の始まりを因とし冥合の終わりを果とする)則ち因果の二義あり。故に大師云く『境智冥合すれば則ち因果あり。照境未だ窮らざるを(冥合の始まりだから)因と名づけ、源を尽すを(冥合し終わる)果と名づく』等云云。当に知るべし、『照境未窮』は種家の本因妙なり。『尽源為果』は即ちこれ種家の本果妙なり。
この本因本果は刹那の始終(冥合の始終は刹那である)、一念の因果にして、真の十界互具・百界千如・事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。此くの如く本地難思の境智冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。この時法を尋ぬれば人の外に別の法なし。人の全体即ち法なり。この時、人を尋ぬれば法の外に別の人なし。法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法体一なり。故に事の一念三千と名づくるなり。故に宗祖は『自受用身即一念三千』と。
伝教云く『一念三千即自受用身』等云云。これ即ち今の本尊なり。故に事の一念三千の本尊と名づくるなり」とある。
したがって、日蓮が図顕された本尊は、十界互具・一念三千の当体であり、事の一念三千の本尊であるので、本門の本尊に本因本果が直ちに具わるとするのである。
さらに開目抄愚記(開目抄文段の別名)にも「種家の本因・本果とは久遠名字の妙法・事の一念三千なり」とある。同愚記に「事の一念三千とは、即ちこれ本門の本尊なり」とある。
このことを前提に天台、妙楽、知礼、伝教の不二論、相即論の分析と整理をしてみたいのである。そのうえで日蓮仏教に結びつけていこうと思う。この作業は、日蓮仏教が世界宗教になるためにどうしても通らなくてはならない関門の一つだと筆者が勝手に思うからである。
まず「不二」について観てみようと思う。仏教がなんとなく曖昧模糊とした印象を与えるのは、言葉の言い換えの論理の使用が多いことも一因のような気がする。例えば「迷い」は、生死、煩悩、凡夫さらに九界、性悪、修徳、染心そして因、無、権と言い換えられ、これらに応じた「悟り」がある。
もう一つは同義が多すぎるのである。一体、一如、妙体、一相、一性、一念など同じ意味合いで使用していたり、融合、和合、冥合、円融、円満とか不二、不離、而二、即、相即さらに一念三千、一念の心法、一念の心性、一念の心と実に様々で、それぞれが同義といったりする。また真如、法性、真実、観心、至極、中道、極理、妙理等々あげたらきりがないほど多くある。
不二論に関していえばよく使われる言葉に一体不二がある。これは而二不二であって一体不二という言い方で使っている。これが仏教を解りにくくしているようである。一体ならイコール(数学的には同値)のように思われるがそうではなく、物量的、形相的には同値ではないが、体の性分という視点では同じ体が持つ性か相の二面性であるとする。
そして不改の体があれば当然、不改の性もある。不二の使い方にはこの二本の不改が前提にあるということである。けれども不改の体は今世のみであるが、不改の性は三世変わらずの意味である。
体が同じで相性が変化あるいは複数ある場合と、本性が同じで体相が変化あるいは別形相を持つ場合も不二で語るのである。性分の不二あるいは相の不二を語るのに性分や相とは異なる体を持ち出して一体に具わる性分、あるいは相だから不二では、辻褄が合わないだろう。
一体に具わる二者であっても性分や相まで不二とは限らいないと考えるのがふつうである。なんでもかんでも一体不二で説明してしまうのはかなり飛躍した思考である。相は色法、性は心法、体は色心二法とはいえ体は、相性とは異なる概念である。
しかし共通の視点もある。すなわち不二は、時間経過ゼロの空間的表現であることが特徴なのである。というよりも時間の概念がはじめから全く考慮されていないのである。
不二の最低条件は共存である。共存する二者の間で相関関係があれば不二として展開できるというものである。そうでないと単に共存しているに過ぎない。
Xが存在するからYが存在できる。または逆もある。同様にXの増減がYの増減に関係するといった関係が必要になる。すなわち相関関係は二者の間に因果関係が成立することを意味している。
もちろんこの因果は物理的な因果律ではない。けれども相関関係が無いような場合でも不二を使うことがある。たとえば権実不二だが、権教と実教の間に存在の相関関係があるとは思えないのに、権教があるから実教があり、実教があるから権教があるように説明する。しかも権実ともに仏の一念の説法であるから不二とこじつける。不二の拡大解釈は都合よく行われていく。
不二の原理は二者の存在論(諸法)として位置づけられる。即は二者の認識論と位置付けてみたいのである。即による認識は単なる認識ではなく実相論ともなる。この存在と認識の合するところが実体論(妙体)となり、実性を妙法、実体を蓮華とするのである。
不二の使い方および説明には、およそ次の四種類がある。具足の不二、作支の不二、具収(納)の不二、具顕の不二である。この分類は教学的な分類ではなく用語の解釈における意味合いの分類である。
「不二」には、「作る・支える」という相関関係から「具わる(性質的)・収まる(物理的・形相的・融合)」、さらに「具足」といって共に支える、共に存在する、両立する。そして「具顕」という共存したものが縁によって顕現するといった四種が主な解釈であるが、そのほかにもいろいろあることが確認できる。けれども解釈が多様になればなるほど真意が曖昧になる。
広辞苑には、「具わる」の意味を「物が足らないところがなく揃い整う。その人が自分の物として持っている。地位。列する」とある。
また「収まる」は「物事が安定した状態になる。あるべきところにきちんと入る。適合する。外に現れ出たものがひっこむ、目立たなくなる。収束する。消滅する」とある。
「具足」は「十分に備わっている。揃っている。伴う。同行する。引き連れる家来」とある。
仏教用語を現代文に直す時に様々な言葉の定義に制約されながら解釈するため、場合によっては同じ用語が、使う場所によって異なる表現になってしまっていることがある。このことを前提に筆者流に分類したものである。
不二がついている用語の最初の項目をX、次の項目をYとするとき、XはYのすべてを具え、YはXのすべてを具えるという関係を両面具足の不二という。代表的なものに因果不二がある。そして両面具足の不二は、他の不二と異なり即あるいは相即にはならないという特徴がある。すなわち因即果とはならないということである。
次にYはXによって作られ、XはYの存在を支えている関係を作支の不二とする。代表的なものに依正不二がある。依報によって正報が作られ、正報によって依報は支えられているという表現である。
この作支の相互関係で表現される不二も即で結ばれたり相即で表現されることはない。存在としての関係性は、互いにその存在を必要しながらそれぞれに独立した役目も存在していることを認めているのである。したがって依報を自然とした場合、自然にとって人間の存在はどこまで必要なのかを明確にしなくてはならない。
人類が出現する前から自然、宇宙は存在していたと思われるからである。もっとも人間が生きていくうえで自然は必要不可欠な存在であることは自明である。
次にXはYに具わり、YはXに収(納)まるという関係を具収(納)の不二とする。代表的なものに色心不二がある。色法は心法に具わり、心法は色法に収まるということである。さらに収まることを互具互融ともいったりする。
色法と心法という法の性分が同じであるとする。一性不二となる。性分は三世変わらない不改の性が、根本義となって成立している。ただしこの不二の場合は対境を人間存在とするので、一性不二と言わずに一体不二とする。さらに様々に応用されて表現される。
人間を対境にすると一筋縄ではいかないのだろう。場合によっては(別視点)、色や心を同意の別の言葉をもって表し、即や相即を使ったりしていくのである。すなわち具収の不二は即や相即で表現されることがあるということである。
次にXとYは而二でありながら、XとYは共存しながら、縁によってXにもYにも成るという関係で相即不二である。この関係を具顕の不二とする。代表的なものに修性不二がある。
一見、両面具足の不二と同様の構造をもっているように感じるが、大きく異なる面を持っている。縁によって顕れるところである。両面具足の不二である因果不二は、どちらかが冥伏するのでもない。常に両者は時間的に同時に存在しながら三世無分別となる。善は悪にかわるのではなく冥伏するだけであるが、迷いは悟りに変化するのである。
有無・善悪・因果は無分別なので而二にはならないから而二不二として使用しない。つまり冥伏しても無くなるわけではないので、これらの二者を分別すること自体意味がないとするのである。
したがって迷いを悪、悟りを善といった言い換えは、指導性として成立しても仏教的には意味を持たないのである。両面具足の不二も具顕の不二も縁が不二の媒介となるという特徴がある。
このことを前提に仏教によく出てくる不二を分類してみたいと思う。まずは十不二論にある不二とそこに含まれていない様々な不二を見てみたいと思う。これは仏法の存在論にもなると思うからである。



不二の存在論=空間 

十不二論は、因果不二、依正不二(報)、権実不二、色心不二(法)、自他不二、修性(徳)不二、内外不二、染浄不二、三業不二、受潤不二となる。
その他の不二には、本迹不二、四土不二、寂照不二、生仏(自他)不二、身土不二、迷悟不二、能所(証)不二、境智不二、絶対不二等々とあり、代表的なものだけ列挙してもこれだけある。
そしてこれはすべて一体不二を特徴としている。さらに而二不二(現象面 存在の実相 存在の見方)不二而二、二而不二、相即不二などと使われているのである。
十不二門は妙楽が、法華玄義に説かれた本迹の十妙を十の不二門によって釈し、同釈籤巻十四に詳説したものである。法華円教の開顕会入、三千三諦の互具互融の教えによって十妙を十不二門に包摂し、教観一如を説いて衆生の一念の心に各門の相対する原理が不二の関係にあることを明かしたのである。
また迹門の十妙によって十門の名称を立てるが、法華玄義七上には「本迹殊なりと雖も、不思議一なり」として絶待妙の立場から本迹不二を示し、この十不二門に本迹二門の十妙がおさまるとしている。
それでは初めから本門の十妙、あるいは絶対妙で詳説すればいいのではないかと思ってしまう。そうしないから、絶対妙とか本迹不二とかを持ってくる羽目になるのである。
結局、天台も妙楽も絶対妙の実相、実体を明かさないまま釈する苦しい胸の内が垣間見える。このことはさて置き、互いの存在を共存させる関係性の視点で読み直すことを勧めたいと思う。
最初は色心不二である。色(色法)とは物質、肉体など外形的なもの、またこれにあらわれる変化の相をいう。心(心法)とは精神、心など内面的なもの、またその力用・作用をいう。ただしこの表現は人間中心に見た場合であって、仏教的には色法を外形としてあらわれた世界とし、心法は表層面には表れていない世界という顕現された世界と冥伏された世界の二つが不二であることを色心不二ということになる。即ち冥伏されていても存在すればそれは法であることを意味している。
色(法)心(法)不二門は、境妙によって立てたものである。同釈籤巻十四に「総は一念に在り、別は色心を分つ」とある。総別の二義で語り総じて色心は一念の心法に具わり、別しては色心の二法に分けられているという。
天台の教観を宣揚した四明派(山家)の祖である知礼が著した十不二門指要抄巻上にはこの文を釈して「総は一念に在りとは、若し諸法の互いに摂するを論ぜば、一法を挙ぐるに随って、皆な総と為すことを得。即ち三無差別なり。今、観を成じ易からしめんが為めの故に、故に一念の心法を指して総と為す。然るに此の総別は理事に分対す可からず。応に知るべし、理具の三千と事用の三千に各総別有り。此の両、相即して方に妙境と称す」と述べて注意をうながしている。
つまり一念の心法と色法と心法の諸法はともに同値であり無差別である。また総(一念の心法)を理とし、別を事とすることもできず、理事は両方にわたる。故に理性の中にもともと三千の諸法の差別的事相が内在されており、また、一つ一つの事相の中にも三千の全体が同じく内在されている。したがって心法から分断された色法はなく、また色法を離れて心法はなく、色法、心法は相即不二の関係にあって、衆生の一念に円融しているとするのも観法修行を解りやすくする為であるという。
解り易くなったのであろうか、はなはだ疑問を感じる。一念を衆生の一念の心法というとき、いきなり森羅万象から人間界に収束した話となる。ここを解りやすく区別して説かないから解りにくくなるのである。
人間の一念の心に三千世間が収まるという原理を衆生の心性に(収まり)互具互融しているから、一念を知ればあまねく一切法を知ることができると飛躍した言い方になってしまう。なぜ自然の一切の諸法が人間の一念に収まるのか、収まり方が互具互融とはどういう状態で、どこに存在しているのかの説明は省いてしまう。
それでも十界互具・十如是・三千世間に色心が収まるのでとなるが、この色心は人間一人の色心なのか、森羅万象に顕現冥伏した色心なのか区別しないで語る。どちらも色心だからいいじゃないかとなる。
ただこの不二の特徴として収まり方が、互具互融と表現されたことと三種の法が無差別であるとしたことである。色心は而二不二だが、三種の法の視点で見れば無差別で而二ではないというダブル視点なのである。(具収の不二)
十如是のうち、相は唯だ色に在り、性は唯だ心に在り、体・力・作・縁は義、色心を兼ね、因果は唯だ心、報は唯だ色に在り……既に別を知り已れば、別を摂して総に入ると述べ、智慧が観照するところの十如、十二因縁、四諦などの境(対境)は、総じては一念の心にあって、円融相即して色心不二であり、別しては色法と心法の二つに分けられるとして説明を終わらせる。確かに人間中心で観法主体にして説いたほうが説得力があるということになるのだろう。
天台家では、観法を成じるために、色心を一念に摂して不二を成じ、一念から色心の諸法を生じるとするのである。この場合も色心の諸法といっても人間中心のことで、森羅三千の諸法ではないのだが、最終的に森羅三千の諸法の話になってしまっていく。話に区切りがなく、主語がはっきりしないことが多く大半が論理的でないのである。
御義口伝には「色心不二なるを一極と云うなり」と仰せになり、諸法の実相は色法、心法が不二にして二、二にして不二(不二而二、二而不二)の相即不二の関係にあることが示されている。
色(肉体)と心(精神)が互いに影響しあい、かつ相即不二になって存在する一瞬の生命状態(創価教学)をいう。
一念についても、創価学会教学は瞬間の生命といい、天台は一心といい、妙楽は一心法というようにバラバラである。どこかで統一して欲しいものである。そして面倒くさいので同義であるといって済ませてしまう。
一瞬の生命に十界、百界千如、三千世間が具足され、瞬間瞬間に、幸、不幸を感じ、因果を具足し、森羅万象も、過去遠々劫、未来永劫もはらみ、善悪も色心の二法もことごとく具足している。
日寛の当体義抄文段には妙楽の法華玄義釈籤巻十四の文を引いて、「問う、『因果倶時・不思議の一法』とは、その体何物ぞや。答う、即ちこれ一念の心法なり。故に伝教の釈を引いて『一心の妙法蓮華』というなり。当に知るべし、この一念の心法とは、即ちこれ色心総在の一念なり」と。
過去、現在、未来の三世にわたって断絶のない色心のことを三世常住の色心不二という。色心は身と心のことであるが、人間の生きている期間の命だけを意味するのではないことになっている。
不二の原理に時間の概念を含めようとすると無理が生じる。もともと不二の思考は時間経過ゼロを前提に構築された理論であり、そこには時間の概念は含んでいなかったのである。そこで時間の概念を考慮した即論が登場することになる。なんでもかんでも不二で説明しようとすると矛盾が生じてしまう。
始めも終わりもなく、永遠に存続する色(身)と心のことを無始無終の色心ともいう。色心の二法が一体として永遠に常住することをいう。したがって色とは色法で物質(肉体)、心とは心法で精神などという解釈はでてこないのである。永遠に存在する肉体や精神などあり得ない。色心を人間に収束して語るとこのような誤謬を生じる。
もともと観法の修行のために分析して出てきた色心不二門であるのに、いつのまにか諸法実相の話になっていく。無始無終の色心は法であって、肉体や精神の話ではないだろう。
十不二門の初めの色心不二においてもかくのごとく解りにくくなっている。衆生本有の妙理と言われる妙法蓮華の妙の一字を解釈するだけで様々なことが入り乱れてくる。これは天台、妙楽の罪でもある。
御義口伝に「釈に云く随縁不変・一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり」という。この色心の二法が無始無終にわたって永遠に常住していることを、無作三身の本有常住というのである。
当然天台も妙楽も承知のことである。それでも彼らはなんとか妙法を説明しようと足搔いたのだろう。御義口伝に「今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」という。日蓮の言は明快で余計な説明がない。(具収の不二)
2番目は内(境)外(境)不二門。これは智妙、行妙によって立てたものである。観法(法を観じる方法)の対境に内境と外境とがあり、色心を収める一念の内境も、一念の依処となる一切の外境もともに三千三諦の妙境であって内外不二であるいう。三千に三諦をつけて語るのも不思議だが、この三千三諦が妙境だから不二では話が違うように思える。内境と外境の関係を語っているので、智妙、行妙では結論が出しにくかったのだろうが、いきなりの妙境では都合良すぎる感がある。
とはいえこの不二は、一念の内境に色心が収まるとすることと、一念には依処が必要であることが特徴である。この二点がこの門の特筆すべき点である。一念に内境があり、依処が必要であるという表現はここだけである。一見、一念三千の詳細と同様の構造が見て取れるがこの二点において意味を持つと考えたい。そうでないと何故、不二にしなくてはいけないのか不明であるからだ。(具収の不二)
3番目は修(徳)性(徳)不二門。これは智妙、行妙によって立てたものである。諸法の本性(本然として具わる実相、仏性)(先天的)と修行によって得られるもの(後天的)とは同一であり、修行によって本性は顕現し、本性によって修行が起こるゆえに修性不二であるとする。
徳は単独では顕現しない。本性に存在するから修行を縁として顕現する仕組みである。善悪と同じ構造の不二であるが、修行が縁になるという縁の規定に特徴がある。ただし本性と修行の関係において修行を縁とすると縁そのものは本性に具わる徳によって発現することになる。人それぞれの様々な特質、特技、才能などもやはり持って生まれたものだということになる。才能のない人はあきらめる他はないのだろうか。もちろんこの門は仏性という徳の話ではあるのだが、運のない人は結構いるのもので、あまり激励にはならない門でもある。(具顕の不二)
さらに徳が得になっていることもある。法華玄義釈籤巻十四に説かれている。修行して得た徳を修徳(修得)、本来衆生に具わっている仏性を性徳(性得)という。
天台は法華文句巻九下で「若し但だ性徳の三如来(註・法報応の三身如来)ならば、是れ横なり。但だ修徳の三如来ならば、是れ縦なり。……今経(註・法華経)は円かに不縦不横の三如来を説くなり」として、衆生の一念に本来内在する仏性と久遠の仏が修行して得たところの果徳とは不二であるとしている。
また妙楽は法華玄義釈籤では「衆生の一念には性徳が具わっているが、それは修行によって顕現されると定義する。この性・修は水と波のように二にして不二であり、修行によって性徳を照らしあらわし、本来性徳が具わっているゆえに修徳を起こすことができる。ゆえに不二である」(取意)としている。
宝珠は「ほうじゅ」とも読む。衆生に本来具わっている仏界の境地のことを性得の宝珠という。法華経提婆達多品第十二で竜女が仏に奉じた宝珠を指す。同品に「爾の時に竜女、一つの宝珠有り。価直三千大千世界なり。持って以って仏に上る」とある。即ち、一切衆生は十界互具の当体であるゆえに、たとえ畜身といえども仏性をそなえている。この仏性を宝珠にたとえているのである。
なお性徳・修徳の関係は、本来具備している性徳を修行によってあらわすものが修徳であり、性徳があってはじめて修徳がある。即ち衆生も十界互具の当体として仏性を内在しているがゆえに、修行を縁として仏界を顕現することができる。よって両者は一体不二となるという。修性不二門は、修行が縁になる特質を持った不二である。(具顕の不二)
4番目は因果不二門。これは位妙、三法妙によって立てたものである。因位にある衆生も果位に達している仏も、所持する仏性に何らの差位はないゆえに因果不二であるという。性は不改の性である。当然この因果は位を譬えとした原因と結果で不改の性が前提に成立する不二である。
これも因が縁となって果が起きる構造である。因果というと時間感覚に捉えられそうだが、仏教でいう因果は、それだけでなく本因本果不二という思考が成立する。
原因・結果といった時間差の意味だけでなく果に内在する因を果と同時に観ることである。これを因果俱時という。そしてこの場合に限り因果は不二となる。
逆に因に果が内在するとは言わない。なぜなら一つの果には一つの因が設定できるが、一つの因には無限の果が存在することを認めるからである。これが因縁の基本概念である。
すなわち縁を媒介として果は無限に存在してしまうので、通常の因果律(一つの因に一つの果)とは異なることを理解しておいて欲しい。因果が異時になるような因果律は、因果に連続性を見る場合の因縁果報のことで「縁によって相が現ずる」という思考である。(両面具足の不二)(具足共存の不二)
因と果は二にしてしかも二でない(二而不二)ことであるが、因は因位(九界)、果は果位(仏果・仏界)として展開する。
仏道修行上、因位と果位に区別されるが、その一念自体は妙法の当体であり、因果は不二であるという。立正観抄には法華玄義・釈籤等の意をとられて「天台の云く『妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり法は十界十如・因果不二の法なり』と……此の妙法は諸仏の師なり今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず」と述べている。
因縁果報、因行果徳とはいえ縁する時間、行ずる時間がある。故に因即果にはならないが因果不二にはなる。因果それぞれに因果を具足するので、これを両面具足の不二という。即は時間経過ゼロであり、不二は時間概念を含まない存在論である。
そこで即が成立するために必要なのが、実時間に直交する虚数平面上の存在である。虚数平面上の移動、変化は実時間の経過は無い。移動後の座標より実時間は直交して起動するが、時間軸という体の変更は無い。創価教学でいうところの境涯革命であり即身成仏の原理的な構造である。(生命論序説を参照の事)
5番目は染(心)浄(心)不二門。これは感応妙、神通妙によって立てたものである。無明と法性とは無始以来一体であり、無明に覆われた染心と悟りの境涯を得て衆生を教化する浄心とは不二である。たとえば濁水と清水とが本来一体であって縁によって相違が生ずるようなものである。衆生を教化する心が浄心と定義され、無明に染まった心では衆生の教化どころではないということである。
心はこのように無明になったり法性になったりする存在となる。縁によって起きるのは相だけではなく性や心も様々に現ずることを意味している。しかし縁は本性によって起きると修性不二で解説したので無明に覆われた心を持つのは、その人の本性ともいえる。
しかしこれでは人は救われないので、心は徳と異なっていると強調するしかない。悪縁を取り除けば浄化されると言わざるをえないのである。(具顕の不二)
6番目は依(報)正(報)不二門。これも感応妙、神通妙によって立てたものである。同釈籤に「三千の中、生(衆生)・陰(五陰)の二千を正と為し、国土の一千は依に属するを以て、依正既に一身(色)に居す。一心(心)豈(あ)に能所を分たんや。能所無しと雖も、依正宛然(さながら)たり」とある。
三千世間は一身に依正を含むが、一心は能所に分けられないし能所は無いといえるが、じつは依正は宛然とあるのである。この依正の三千世間は即一心・一念、即一身・一念にあるゆえに依正不二である。
三千世間を能所に分けて依正と比較すると正報が能、依報が所となる。一念の心法を依正に分けるとどうなるのだろうか。
人間性を豊かにするとは、あらゆる角度から幅広く自分自身を見つめることが出来る眼を持つことである。自身の心の声に素直に耳を傾け深く思索することが自己を磨くことになる。自己自身を知ることが出来た分だけ他を理解できる。これを依正不二というのだろう。(作支の不二)
衣報と正報が二にして不二であることだが、妙楽は諸経では対立して相容れないもの(而二)でも円教である法華経からみれば互具互融して一体化される(不二)と釈して、一念の本体は而二不二であるとした。それでも本体は何かとは言わないのである。
釈籤には次のようにある。「已に遮那の一体不二なるを証す(中略)三千の中生陰の二千を正と偽し、国土の一千を依に属す。依正既に一身に居す。一心ある能所を分たんや。能所無しと雖も依正宛然なり(中略)一切遮那の妙境に非ざること莫し」と。
文の意は、一念三千において、五陰と衆生の二千世間を正報、国土の千世間を依報とし、この依正の三千世間は、即一心・一念にあり、依正はおのおの別体ではなく不二の関係にあるという。
更に、釈籤の「十不二門」の部分のみを取り出し一巻とした「十不二門」があり、これを注釈した四明知礼の「十不二門指要抄」には次のようにある。「果後に三国土を示現するを名づけて依報と為し、前の三教の主及び九界の身を示現するを名づけて正報と為す。寂光の円仏、もと二無きを以てこの故に(中略)浄穢の土、及び勝劣の身、同じく初心の刹那に在り、何の二か有らんや」と。
大意は、依報・正報の顕現は仏の徳用であるとし、依報(環境世界)と正報(自己主体)とはおのおの別物ではなく相互に関連しあって現実の世界を形成しているとの立場から、すべての存在は、その最も深い次元では一念を離れて存在しないということ。
このように、正報とは過去の業(行為)の報いとして得た有情の身、即ち生命活動を営む主体をいい、その身が拠りどころとする環境・国土を依報という。この二つは共に自己の過去の業によって招いたものであるから同じく「報」という。
報を受ける主体が正報であり、報を支えるまわりの世界が依報である。報とは、過去の行為の因果が色法のうえにあらわれた報い(必然の報酬の意)である。故に生活体である自己と生活環境である自然とは観念のうえでは区別できるが、実際には分離することのできないものであり、両者の関係は而二不二(二にして二ならず)であり、相依相関性を成しているというのが依正不二である。
前にも述べたが依報は正報が無くても存在する。分離できないのは人間から見た依報の存在であって、依報から見れば正報としての人間はなくても存在できる。それでも依報自体に冥伏されていても正報は存在する。これを依正不二という。
7番目は自(仏)他(衆生)不二門。これも感応妙、神通妙によって立てたものである。自とは能化の仏、他とは所化の衆生。神通力を有しよく衆生に応ずる自と、仏の出現を感ずる他とは、ともに本来三諦三千の当体(仏と衆生)であり一念の心に自他を具るゆえに自他不二である。この不二は、二者が相通じる様を持って不二としている。
共有しているのは体でも性でもなく一念の心である。一念の心が共通しているから不二というのは新しい定義である。すなわち比較相対するとき共通したところがあれば不二といってしまうことが可能ということである。少々無理やりの感あり。(具収の不二)
一切衆生が、自らも、また他の人々をも共に一念三千の当体であるとして互いに尊敬しあうことを自他一念の礼拝、または自他不二の礼拝という。
御義口伝では、法華経常不軽菩薩品第二十を釈して「此の菩薩の礼拝の行とは一切衆生の事なり、自他一念の礼拝なり」とある。不軽菩薩が出会う人すべてに礼拝を行じたとは、一切衆生の礼拝行を意味する。
つまり、一切衆生は各々地獄界から仏界まで境涯が異なり、相対・差別の姿を現じているが、各界の衆生はすべて真如実相に法っており、また一心に十界を円具して自他不二の故に、不軽菩薩が他人を礼拝することは、自己の一念の中の自が他を礼拝することになる。
不軽もまた衆生の一念の中の菩薩であるから、不軽の礼拝行は、即ち衆生の自己の一念にそなえる仏性に対する自他一念の礼拝行にほかならないと。
御義口伝には、衆生はおのおの境涯が異なり自他に差別があるが、本来はすべて真如の法位(仏性をそなえた位。仏界)に住するゆえに、自も他も不二である。不軽菩薩(自)が四衆(他)を礼拝すれば、四衆の内奥にある真如の法・仏性が不軽菩薩の仏性を礼拝することになる。あたかも鏡に向かって礼拝すれば、浮ぶ影がまた自身を礼拝しているようなものであるといわれている。
自他不二は、生仏不二と同義であるともいう。法華玄義釈籤巻十四に「衆生は理具の三千に由るが故に能く感じ、諸仏は三千の理満ずるに由るが故に能く応ず。応遍じ機遍じて欣赴差わず。然らずんば豈に能く鏡の像を現ずるが如くならんや」とある。法界の衆生は自他の差別があるが、本来はすべて真如実相を位とし、これに法るゆえに不二であると。
御義口伝に「地獄界乃至仏界各各界を法る間不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り上慢の四衆は四衆の界に法るなり、仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」と述べている。
自他不二と同義とされる生仏一如、生仏不二、生仏一体になると。同義とはいえ、引用する用語は迷と悟となる。そして最終的には生死即涅槃、煩悩即菩提と同義としてしまう。
迷いの衆生も、悟りを得た仏もそれぞれ別のものではなく、その本体において一つであるということにして、生は迷いの衆生、仏は悟りを得た仏陀で、一如は全く等しく一体であると。華厳経巻十の「心仏及び衆生、是の三差別無し」の文や、大乗止観法門巻一の「心体平等の義は是れ体なり。故に凡聖無二なるを、唯だ如如仏と名づく」の文がこれに当たるのだが、解釈はどんどん拡大されていく。
日蓮は一生成仏抄に「浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」と説かれている。
8番目は三業不二門。これは説法妙によって立てたものである。仏は身口意の三業をもって衆生を教化する。仏の色(身口)心(仏の意)不二のゆえに三業もまた不二であるという。
色心不二は個人の色心であり個人の持つ三業を色心に当てはめて、説法という行為を引き起こす三業までも不二とする。三業が無ければ法は解けない。その三業もバラバラに説法しているのではなく三業全体で行っている。
言いたいことは理解できるがなにもそこまで不二に拘る必要があったのかと思ったりしたくなる。なんとなく疑問にかんじるのは私だけなのだろうか。(具収の不二)
9番目は権実不二門。これも説法妙によって立てたものである。仏は衆生に応じて権教(三乗)、実教(一乗)を説くが、ともに仏の一念に冥合している権実のあらわれにほかならないゆえに権実不二であると。
仏の説法の視点から見れば、機根に応じて説いただけなので権即実である。権は実と対立するものではなく、また実に入るための手段でもなく、実の部分であって、万法がことごとく真義の一分を有し、真実でないものはないことをいった。
一部であっても不二あるいは相即という特殊な例である。しかしここまでくるとこじ付けのような気もしないでもない。仏の方便の権教に対し秘妙方便という造語を作ってまで不二にする必要があったのか疑問を感じる。(具収の不二)
権とは仮の意味で方便を表し、実とは真実を表す。天台の摩訶止観巻三には「五に権実を明かすとは、権は是れ権謀にして、暫く用いて還た廃す。実は是れ実録、究竟の旨帰なり」と釈している。
権とは機に応じて一時的に説く法をいい、権仮の法、権謀の説をさし、実とは究極不変の真実法、実録の説をいう。化他のために説く方便の教えが権であり、仏の智慧をそのまま説く教えが実である。
仏は衆生の機に応じて権教、実教を説くが、ともに仏の一念に冥合している権実の表れであるゆえに権実不二であると説いている。すなわち、開権顕実の義により権実二法は一如不異となる。
権教は実教を顕すために必要だから、権教の存在意義は解るが、だからといって権教と実教を不二にする必要があったのか疑問である。実教にしても自分を顕すのに権教が必要だから自分と不二だというのでは、情けない。実教としての力用はないのかと問いたい気持である。
権教は仏の教えの一分だからと部分でも不二になったり、自分に必要なものなら何でも不二といえるのならいくらでも拡大解釈が可能だと言っているのに等しい。
そして実際にこの拡大解釈はされているのではないかと思ったりする。それほどに不二は様々な意味合いを持って使われてしまっている。
更に九界を権とし仏界を実として九界即仏界といえるのは権実不二の故であるという設定は、可笑しい。まず九界がなぜ権なのか。その理由を述べてもらいたい。こんなこじ付けがましい前提では、九界即仏界の説明にもなっていない。権実不二を前提にした即論は、権実不二を証明したのちに行えるのだ。
権実の法という用語がある。天台の法華玄義の序に「言う所の法とは、十界十如、権実の法なり」とある。これは諸法実相の理のことで、権は諸法、実は実相をあらわしている。
つまり妙法蓮華経の法の解釈に際して行われた説明である。法華経の一念三千の理からみれば権(諸法・迷・九界)と実(実相・悟・仏界)とが相即して不二一如である。
さらに仏智にも権実があり、内証の智を実智、衆生教化の智を権智という。一代聖教大意にもでてくるが、この権実は権教・実教ではなく諸法実相、迷悟、九界・仏界、仏の実智・権智のことで妙法の法のことである。それを一念三千の理から見ることは否定しないが、権教と実教という立て分けと混同させるのはどうかと思う。まさに筋違いの何物でもないだろう。
妙法蓮華経の法の一字について天台が法華玄義で十界・十如是に約して権実不二、諸法実相の理を説いている。法華玄義の序に「言う所の法とは、十界十如・権実の法なり」とある。
十界の各界の実相は、相・性・体・力・作・因・縁・果・報をそなえ本末究竟して等しいと説いた十如によって明らかとなる。
九界の十如を権または迷とし、仏界の十如を実または悟とするとき、九界即仏界、権実一体、迷悟一如の法体であるゆえに法と名づけると。そして名付けることが出来るのは、法体こそ南無妙法蓮華経であると言えた後でなくてはならないのである。
妙法蓮華経の妙の解釈に権実不二を用いたり、法の解釈に権実不二を用いること自体、問題はないと思っている。したがって私は権実不二を否定するつもりはない。華厳宗・真言宗等は、執実謗権の誤りでありまた権教を持って実教を謗ずるのも誤りである。ただ権実不二の解釈には、もう少し注意をもって行って欲しいだけである。
権実不二の円妙の道のことを不二の円道という。法華経において開権顕実の義が明かされた上では、九界の権と仏界の実とは円融して不二であるという。法華玄義の私序王に「不二の円道に会す。之れを譬うるに華を以てす」とある。
法華経本迹二門を蓮華によって譬える中、迹門の権実不二の理を華によって表したのである。衆生は迹門に至って初めて権実不二の道に会入したのである。妙楽はこの私序王の文を受けて法華玄義釈籤巻一に「円に会するを華に譬う……位猶お因に在り。故に名づけて道と為す」と釈している。円道の道とは、まだ衆生が因位にあるので名づけられたのである。華は果実に対し、なお因となる。
「実を執して権を謗ず」という言葉が御書にある。実教に執着して権教を謗ずることである。法華玄義釈籤巻九の文でもある。法華玄義巻四の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文でもある。華厳宗・真言宗等では即身成仏、一乗真実三乗方便の理を説くが、一乗のみを強調し、三乗を一乗に開会するとはしていない。ゆえに事と理、差別と平等、方便と真実等が一体不二にあるという相互の関係を無視して、一方に偏する誤りをおかしていると日蓮は破折する。
また同躰の権実という表現もある。九界の権と仏界の実とが同体(一体不二)であると。百六箇抄に「八相は本・八苦は迹・同躰の権実是なり」とあり、八相作仏によって真実(実)の仏身の姿を示すを本とし、八苦のより集まった仮り(権)の衆生の姿を示すを迹として、八相作仏も八苦の姿も共に一つの身体にそなわる権実であると説く。なお権実と本迹との関係は法華玄義巻七にある。
さらに「二の増上慢」という言葉もある。理の増上慢と智の増上慢のことで、①理の増上慢。仏と衆生は本来、不二一如であるという理の一方のみに執着して仏道修行に励まない増上慢のこと②智の増上慢。貪・瞋・癡等の煩悩を断じない衆生もそのまま成仏できるとする、法華経の開会の智を信じない増上慢のことである。
最後は受潤不二門。これは眷属妙、利益妙によって立てたもの。衆生の本性は権実不二(本性の権実って何のこと?)であるが、因縁によってあるいは権あるいは実となり、異なる眷属の中に生を受ける。故に仏は権実、大小さまざまの教えによって衆生を教化するが、もともと衆生の本性は異なることがないから、能化の仏も所化の衆生もともに権実の差別がなく、同じく寂光土に生を受け、同じ利益に潤うゆえに受潤不二であると。
機根や因縁によって生じる衆生であっても本性が変わることはないので不二とする。三業不二は仏側(能化)、受潤不二は教化される衆生側(所化)の色心不二で、能所不二という入れ子でもある。(具収の不二)
どんどん拡大解釈がされていったこの十不二門を筆者が述べた四種類の説明上の分類に当てはめると次のようになる。①の色心不二は具収の不二②の内外不二は具収の不二③の修性不二は具顕の不二④の因果不二は両面具足の不二⑤の染浄不二は具顕の不二⑥の依正不二は作支の不二⑦の自他不二は色心不二の拡大版で具収の不二⑧の三業不二は色心不二の拡大版で具収の不二⑨の権実不二は具顕の不二だが、仏の一念に冥合というと色心不二の拡大版で具収の不二⑩の受潤不二は具顕の不二だが色心不二の拡大版である権実不二のさらに拡大版で具収の不二となる。
以上が妙楽の十の不二門である。迹門の十妙より解説してあるが、本迹、観心ともに不二なのでこれで良かったということなのだろう。それにしても回りくどい表現である。
縁によって顕現されるから不二、性分が同じだから不二、共に本来三諦三千の当体だから不二、ともに三千三諦の妙境だから不二、本性が不変だから不二、仏の一念にある身口意だから不二、どちらも仏の説法で一部・部分でも不二、同じ寂光土に生を受けたから不二と実に理由は様々である。
全体の感想を言わせてもらうと色心、修性、因果、依正の四つはまだしもその他の六つは「何も不二にしなくてもいいんじゃない」という思いである。もちろん天台や妙楽にはそれなりの時代背景や事情があってのことと推測するが、如何ともし難い思いに駆られる。
天台教学は、妙法蓮華経の説明をしているから南無妙法蓮華経と不二であるといったら、日蓮仏教はこれを受け入れられるのだろうか。はなはだ疑問である。日蓮がこれを聞いたら一乗誹謗と一蹴するだろう。
そこでもう一度不二について考えてみよう。なぜ不二という思考が必要なのかである。二而不二、而二不二とも書くが、「二にしてしかも二ならず」と読む。一往は二つのものであるが、再往これをみれば、別のものではなく一体であると。不二而二とともに法華経の開会の法門に基づく存在に対する見方であり、また存在そのものの真実のあり方であるという。ただし無分別のものは、無分別なので而二とはならないが、無分別であることが真実の在り方となる。
不二論に立つ者は、表面的に対立する二者が本質的に同一であることを、個別的な事物において永遠普遍の真実在・実相が具える特性を開き顕し、苦悩からの本質的な解放(解脱)が実現できる根拠と考えていた。
妙楽の十不二門の主意は、一に妙解を現すために要略した文で大要を示している。二に妙行を現すために簡略にして平易に天台家の修行を示して複雑にならないように考えられている。
すなわち、天台の法華玄義を教相(妙の解釈)と観心(妙行)の面からみると、教正観傍の立場で説かれているのを、妙楽が教観両面から十妙を説いたものである。著作の意を述べて、次に十門を立て、教相観心の相承の宗趣を明かし、十門の意義を説いている。そして十門は十妙の異名であると述べている。
一念三千は摩訶止観において説かれた天台出世の本懐であり、法華玄義ではまだ明かされていない法門である。それを妙楽は教相観心両面から説明し直したのである。
天台教学は一念三千が前提となって成立するので、この前提に立って初めて成立する不二門である。玄義にあっては妙法蓮華経の体とは実相であると定め、一切の諸法、諸経、諸行の当体であると説いている。玄義と文句は教相を説き明かし、止観は観心を明かしたものである。
止とは邪念妄想を離れて心を一つの処に集中すること、観とは定心をもって諸法を観照することをいう。摩訶止観巻一に「既に無明即明なりと知れば、復た流動せず。故に名づけて止と為す。朗然として大いに浄し、之れを呼んで観と為す」とある。
また摩訶止観巻六に「観は仏知と名づく、止は仏見と名づく、念念の中に於いて止観現前す」と釈している。
天台の師、南岳は三種の止観(漸次止観・不定止観・円頓止観)を天台に師伝した。その円頓止観を摩訶止観として完成させた。摩訶止観は、章安が筆録したものである。止観の究極である一心三観を目指して正しい菩提心を起こすべきことを説いており、止も観も体は別のものではなく、ともに同一法性の寂照の二用であることを明かしている。
さらに第六方便章と第七正修章の二章では止観の方規を示すが、特に正修章は摩訶止観の正説である。第七正修章は止観修行を明かしている。まず観境として①陰入界境②煩悩境③病患境④業相境⑤摩事境⑥禅定境⑦諸見境⑧増上慢境⑨二乗境⑩菩薩境の十境に立て分け、その一つ一つについて十乗観法(①観不思議境②発真正菩提心③巧安止観④破法遍⑤識通塞⑥道品調適⑦対治助開⑧知次位⑨能安忍⑩無法愛)を修する様相を示している。
十乗観法の第一観不思議境は刹那の一念に三千・三諦の諸法が具足していることを説いており、この一念三千の観不思議境が円頓止観の修行の根本であり、後の九乗は中・下根の者のための用意として述べられたものといえる。
妙楽はこの天台思想と不二論を結びつけて詳細したのだろう。止と観が同一法性であるということからさらに展開したのだと思う。
止観輔行伝弘決巻五の三の文に「法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観・一念三千と云う事あり、薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども先ず玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説きしかども此の一念三千の法門をば談じ給はず百界千如の法門計りなり、御年五十七の夏四月の比・玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり、上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり、五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て夫れ一心に具す等と云云是より二百年後に妙楽大師釈して云く『当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に徧し』と云云、此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云」と述べている。
止も観も一体不二でともに同一法性の寂照の二用であるした。この一念寂照・寂照不二が天台教学のポイントでもある。一念三千はここから生まれたといってもいいだろう。衆生の一念が即妙法蓮華経の当体であることをのべたものである。一念とは無明(迷い)と法性(悟り)をともに具えた一心法のことで、その心法の作用を説明するために寂照を用いたのである。
寂照とは寂然と常照の二つの意味で、衆生が本来、真理(妙法)の当体であることを寂、智慧の働きによって真理を現実のものとする(時間経過あり)ことを照といった。
煩悩も生死も我が一念の作用による変化相であり、けっして分断されるものではなく、煩悩即菩提・生死即涅槃と開くべきものであるとした。煩悩を断滅するのではなく、煩悩を諦かに見(開)ることが、菩提の因とする(即=開因)ことになるのである。同時に、生死をそのまま涅槃へと開いていくのである。
伝教の三大章疏七面相承口決に「玄と文とは随縁不変二種の真如を以って本理と為し、摩訶止観は不二の大真如を以って本理と為す。不二の大真如とは、又た云わく、『真如の妙理に両種の義有り。随縁真如は縁起常住なり。不変真如は凝然常住なり。随縁不変、二種の真如は機に随いて別義あり。本性の真如には随縁不変の両相有ること無し。寂照不二の大相、是れなり』と。文に云わく、『寂照の二法は初後を言うと雖も、二無く別無し。是れを円頓止観と名づく』と。寂は是れ不変真如、照は是れ随縁真如なり」とある。
御義口伝にこの文の意を取って「釈に云く随縁不変・一念寂照」と述べている。
三大章疏七面相承口決の文中の取意でもある。同口決に「法性寂然なるを止と名づけ、寂にして常照なるを観と名づく(中略)寂は是れ一念、照は是れ三千」とあり、寂照を止観の二字をもって釈し、また一念三千に配立している。更に寂と照は不二不離であり不思議であって言語の及ぶところではなく、迷悟の差別はないのであるが、差別のないところに強いて差別を説いて教・行・証の修行の次第を立てるという。
また「本性の真如に随縁・不変の両相有ること無し。寂照不二の大相是れなり」とある。
御義口伝巻上では、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなりとある。つまり妙法蓮華経とは寂照未分・不可思議の本体である。
伝教大師が入唐して唐代の天台僧の道邃等より伝授されたという口決に「三に寂照一相。若し法寂ならば、是れ一切の諸法は本と従り来、不生不滅にして、性相凝然なり。釈迦は口を閉じ、身子は言を絶つ。不生の言説を以て、不生の実法を説く。能所更に二相無きを、以て寂静の義と為す。若し法照ならば、即ち法に寂の相無し。三千常住にして、十界の性相教観、全く闕減無く、始め華厳自り終わり法華に至るまで、止観の内教に非ざるは無し。止観の十章、多く教道教門の偏説を存す。皆な是れ法性常照の妙説なり。此の二意を以て、止観一部の文相を通ず可し」と。すなわち諸法が空寂・常照の不二一体の相を持つことになるという。
この伝教の口決はまさに南無妙法蓮華経の説明に酷似しているといえる。天台・妙楽・伝教もかくのごとく一切の心法の本体が南無妙法蓮華経であることを覚知していたのであろうと思われる。それでも止観に止まらざるを得なかったのである。
寂照不二と隨縁不変についてもう少し述べてみたい。寂とは諸法が寂然として不生不滅であること、照とはそれを悟った智慧に基づいて諸法を捉えた時の諸法の姿。これが一体不二であることは、前に述べたとおりである。
御講聞書に「一家の本意は只一言を以て本と為す云云、此の一言とは寂照不二の一言なり或は本末究竟等の一言とも云うなり、真実の義には南無妙法蓮華経の一言なり、本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云」と説かれている。
随縁不変・一念寂照とは、不変真如の理と随縁真如の智とが衆生の一念に具わっていることをいう。不変とは不変真如の理、すなわち永久不変の真理のことである。随縁は随縁真如の智、すなわち縁にしたがって顕現する真如のことである。
百六箇抄に「理の上の寂照は妙覚・乃至観行等の解了なり、理即の凡夫は無躰有用の本迹なり」とある。本体(躰)はなく、はたらき(用)のみあること。百六箇抄の「脱益寂照の本迹」の項にある。
脱益仏法の立場で論じた理即の凡夫のすがたをいう。脱益仏法に基づく摩訶止観の行法は理観といって、諸法に本体としてそなわる真理を観じて、一切万法が一念三千の当体であると覚知することを目的とする。真理の本体を寂といい、真理が事実の上に三千のはたらきをもって現れたすがたを照という。
したがって名字、観行、相似と次第に向上して真理を対象とする修行を深め、寂照不二・一体を解了して、本体の真理を現実に活用できることになる。
これに対して理即の凡夫は真理(体)が煩悩に妨げられて現れず、生滅きわまりない無常のはたらき(用)があるのみなので無体(躰)有用という。
しかし、日蓮の文底下種仏法では体用同時・寂照不二の本尊を信受して、理即より直ちに名字即ないし究竟即位に至るとするのである。
随縁真如の智・不変真如の理といっても別々に二つのものがあるのではなく、一念三千の本体である妙法蓮華経がもつ相の両側面であるという。不変真如の理は一念に三千を収めるという真理を意味し、これは寂の面であり、随縁真如の智は一念から縁に随って三千の変化を生ずることで、これは照の面である。
説明のうえでは酷似しているが、彼らと日蓮の違いははっきりしている。それを顕本理異の面で見てみよう。「本を顕わすも理異なり」と読む。顕本の名は同じであってもその所詮の理が異なることである。
伝教の三大章疏七面相承口決の中の同異決に説かれている言葉である。口決に法華玄義・法華文句と摩訶止観の一同十異が明かされ、十異(十種の異なった点)の第七に「顕本の異」がある。
玄義と文句とは随縁・不変の二種の真如を本理とし、止観には随縁・不変不二の大真如を本理とするとある。日蓮の末法の寿量文底下種の義によって判釈すれば、文上顕本と文底顕本の二意があり、久遠五百塵点劫(久遠実成)を説く文上を当分(一往)の釈とし、久遠元初の妙法を本理とし、これを顕現する文底下種の仏法(再往)をもって本意とするのである。
日蓮は、天台の一念三千を理の一念三千として、事の一念三千である南無妙法蓮華経を前提に不二を解釈し直したのである。
不二門はあくまでも一念三千の法門を前提にし、その補完にしか過ぎないのである。数学や物理学、論理学なら背理法による原命題の証明は成り立つが、否定すべき命題自体が条理か不条理か不明だといくら補完しても証明されることはない。前提が崩れると理論そのものが破綻してしまう。したがって不二門から一念三千を立証しようとするとパラドックスに陥ることになる。
法華経の本迹十妙を基に観心の修行を説くとき、すべてが不二なら何をやってもいいと思う人もでてくるだろう。迹門を信じようと本門を信じようと不二ならいいじゃないかと。
人の思考というものは、楽なほうに安易なほうに流れやすいのである。天台や妙楽にすれば、法華経を最も重要視したので、法華経に至って初めてこのような法門を説くことができることを強調したかったのである。
ところが日蓮から見れば、根源の法を明示しないで説明することが、いかにまわりくどい説明になるかよく承知していたのである。日蓮が意識に対する煩雑な議論を避けたのは、南無妙法蓮華経に対する信がなければ無意味な議論であることを知っていたからに他ならい。
十不二門以外にも多くの不二がある。四条金吾殿御返事に「是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にしてしかも境智不二の内証なり」と述べている。これなど日蓮にしか言えない言葉だろう。
宝塔の脇士として半座を分けた釈迦・多宝の意味を宝塔より観た言葉である。誰の内証かといえば宝塔の内証のことである。さらに不二を冥合に広げて解釈する。境智冥合において、境と智は二であり、冥合は不二であると。
境智不二における境は客観的世界(環境)を対境とすることであり、智は主観的智慧をあらわす。認識し評価する主観的智慧(智)と認識・評価の対象として客観視した世界(境)が一体不二であると言えるのは、万法の体を究め尽くす智慧を顕現すれば境智不二となると言える立場の人だけである。
釈迦牟尼仏と多宝如来が、法華経見宝塔品第十一で多宝塔の中に並坐し、以後の虚空会の儀式の中心となった。御本尊の相貌の中で釈迦・多宝の二仏は仏界を表している。四条金吾殿御返事では多宝は境、釈尊は智に配し、境智の二法、境智不二を表すとされている。
一般的に釈迦仏は、仏教の開祖であり多宝は釈迦の教えのなかに登場する迹仏である。したがって釈迦より偉い人、格上の仏は存在しないと思われている。したがってこの二仏が宝塔品において脇士となっていることにあまり注目しないことが多い。
釈迦如来が霊山会において、妙法弘通の功徳が深重なることを説いてその流通を勧めている時、七宝の塔が大地から涌出して虚空にかかり、その塔中から多宝如来が大音声を放って妙法蓮華経を歎じ、釈尊の所説はみな真実であると証明する。
釈尊は大楽説菩薩の質問に答えて多宝塔並びに多宝如来涌現の理由を述べた後、娑婆世界を変えて清浄ならしめ、次に八方二百万億那由佗の国を二度まで清浄ならしめ、十方の諸仏を召集し、宝塔を開け、中に入って多宝と半座を分かった。そして大神通力をもって大衆を虚空に置き、大音声を出して、あまねく大衆に向かって「誰か能く此の娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏此の妙法華経を以って付嘱して在ること有らしめんと欲す」と告げたのである。
日蓮は、宝塔とは南無妙法蓮華経の本尊のことであるとする。本尊の相藐については略させてもらう。
境智の二法についていえば、宝塔品の二仏並坐の儀式は境智の二法を表すとする。多宝は境、釈迦は智、そして境智の冥合するところに慈悲が起きる。これを三身に配すれば多宝は法身、釈迦は報身、慈悲をあらわす分身諸仏は応身となる。
四条金吾殿御返事には「諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証なり、此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり」と。
次は能所不二である。能とは①よくする、働き、才能、能力の意味がある。依義判文抄に「能持是経者の文を以て即本門の題目と為すが如し、但し能持是経の能は能所の能と謂うには非ざるなり」と述べている。この場合の能はよくする、働きの意味でこの経をよく持つ者となる。②能所の能で、他に働きかけるものの意味である。総勘文抄に「能とは如来なり所とは衆生なり」と述べている。
衆生を救おうと働きかけるのが仏で、働きかけられるのが衆生になる。しかし仏も衆生も別に存在するのではなく、一念の心法の中に包摂されていて、一体不二であることを「能所不二」といい、爾前権教では明かされていない法華経の深秘の一つである。御講聞書に「能と云うは如来なり所とは衆生なり能所各別するは権教の故なり、法華経の心は能所一体なり」という。
境智不二や能所不二は法説上の表現手段であり、これら不二自体が法華経の解釈上の意味を持つものではない。したがって、この二つの不二は様々な形、表現で使用されるのである。
特に能所不二は実に様々な使い方が見られる。能(成)(修)(証)(照)(生)(観)(化)所(成)(修)(証)(照)(生)(観)(化)不二といろいろである。さらに境智と能所の関係も能生の智、所生の境とか所観の境と能観の智といった使い方がされている。
境智不二は立場の違いを乗り越えるための不二として使用され、能所不二は役割の違いを乗り越えるために使用されることが多い。また理智不二は、理と智慧が相応ずる様子を語るために用いられている。
もちろん天台教学的に言えば、境智の境を万法の体、智を自体顕照の姿と言ったり、境を法身如来、智を報身如来としてこの二つの如来が冥合して応身如来となるという説明は、なんのための説明なのか不明である。単に言葉を当てはめただけにも見える。ようするにここまで来ればいまさら三身如来をまた別々にすることはないと思うからである。
理智の理を不変真如の理、智を随縁真如の智という場合がある。さらに理を如と名付け智を来と名付けて、理智で如来と言ったり、この二つの真如を理智といってもそれほどの展開はない。
すでに様々な方法でこれらのことは語られているのである。この二つの不二を混ぜて比較してもそれほど意味はないように思える。境智の智と理智の智の違いとか、理智が如来といっても報身理智なる言葉を作ってもあまり意味がないだろう。
日蓮仏教には他宗に無いものに人法不二がある。人法一箇に対し人法は二で一箇は不二であるとする。文底秘沈抄に「人法名殊なれども大理別ならず、人即ち法の故に」とある。
この場合は不二をさらに即にまで解釈を広げていくことになる。人と法は相即されることを意味している。
本因妙抄に唯我与我とあり、ただ日蓮と日興の師弟不二の関係をあらわす。本因妙抄に「去る文永の免許の日爾前迹門の謗法を対治し本門の正義を立て被れば不日に豊歳ならむと申せしかば聞く人毎に舌を振い耳を塞ぐ、其の時方人一人も無く唯我(日蓮)と与我(日興)計りなり」と。唯仏与仏と同じ表現から同じ意味を感じとってもいいのではないかと思う。
師匠は模範となって人を導く者をいい、弟子は師の教えを受けて行ずる者をいう。御義口伝に「法とは諸法なり師とは諸法が直ちに師と成るなり森羅三千の諸法が直ちに師と成り弟子となるべきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり(中略)又云く法とは題目・師とは日蓮等の類いなり」と述べている。
諸法が直ちに師となる、そして森羅三千の諸法が直ちに師と成り弟子と成るべきなりとはどういう意味か。法師とは法を説く人のことなので、説かれた法と説いた人は不二となる。能所不二である。
したがって説かれた法を行ずる人を弟子とする。諸法が師となるなら、弟子は誰かとなるとやはり諸法である。まさに自作自演の師弟である。また法が南無妙法蓮華経で、師が題目を唱える人なら、法師は人法一箇となる。成るは開くであるから師弟ともにそれぞれが師と開き弟子と開かねばならないということになる。
師は衆生を教化する仏、弟子は師の教説を行ずる衆生をいい、衆生が仏と等しい境地になることを師弟不二という。
法華経方便品第二に「我本誓願を立てて一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき我が昔の所願の如き今者は已に満足しぬ 一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」説かれている。
この「如我等無異 如我昔所願」の句について日蓮は御義口伝に「我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり……如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」と述べ、父子一体、師弟一体の義を明かしている。
日寛の観心本尊抄文段には「当流の意は『本行菩薩道』の時、猶甚だ近きを恨む。正しくこれ久遠元初の所願なり。故に『如我昔所願』というなり。この久遠元初の自受用身、末法に出現してこの本尊を授与す。故に『今者已満足』というなり。この本尊を受持する衆生は皆久遠元初の仏道に入る、故に『化一切衆生、皆令入仏道』というなり。既に久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり。故に『妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや』というなり。自受用はこれ師、我等はこれ弟子、既に『如我等無異』なり。豈師弟不二に非ずや」と釈している。
その他でよく使われる不二も見てみようと思う。まずはよく出てくる迷悟不二である。迷いは物事の真理、真実を如実に覚知せず、貪、瞋、癡、慢、疑等の煩悩が盛んである状態のことで、悟りは迷いから覚め、如実に真理、真実を体得することである。
迷いも悟りも一心に具わっており、染法(悪業の影響)が積み重なって薫ずれば迷いとなり、九界の一心があらわれる。浄法(善業の影響)が薫ずれば悟りとなって仏界を涌現できる。同じ一心が善悪の二縁によって浄法となり染法となるとされている。迷いから覚めると迷いは消滅するのかというとこれでは冥伏しただけとなる。しかもこの場合の善悪は業となっている。
善縁は正法であり、悪縁は邪法(人を不幸にする悪法)である。正法を信じて行ずれば、その人の一念は法身・般若・解脱の三徳とあらわれ、反対に邪法を信じて行ずれば、煩悩・業・苦の三道とあらわれる。しかもその体は一つである。このことを迷悟一体、迷悟不二ともいうらしい。
迷悟不二を語るのに染浄の二法や善悪の二業、さらに九界・仏界をもちだす。この言い換えは、持ち出したものが正しいという前提の上に成り立っている。言い換えること自体を正当化した詭弁でもある。
というのは染浄の二法や善悪不二、九界・仏界を説明するときに迷悟不二を使用しているのである。互いが互いを証明するために互いを使用することを詭弁という。さらに迷悟不二の媒介は縁であり、迷は変じて悟に転じるのであって共存しているのではない。しかし染法と浄法や悪業と善業、九界と仏界は媒介が縁であっても共存していて、冥伏・顕現するだけである。
冥伏・顕現という現象は二相あるいは二性の存在をまず認め、一体において二面性であることを認めるだけである。決して変化したのではないのである。縁したその結果が冥伏・顕現と変化では大きく意味が異なる。
したがって不二で用いているものに、即の概念と同様の説明をすると、このような結果になってしまうのである。もちろんこれは、不二と即の概念は異なるということが前提であって、この二つが同義であるとすれば、問題はないことになる。
しかし筆者はどう考えても不二と即は単純に同義にはできないのである。たとえば依正不二の場合依報が変じて正報に転じるという表現には無理がある。他の不二も同様である。それとも即の概念が変じて転じるという意味合いであることが間違いなのであろうか。このことは即論において論じる予定である。
当体義抄には「真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり」と述べている。迷悟は不二で語るより即論、無明即法性で語ることが正当であると思う。
ただし九界即仏界で語った場合は、迷悟も共存することを認めることになる。しかしこの説明は不二論と即論を混同して語っているわけで、単に、説明上の利便性、解り易さを重視しただけであると思うべきである。
仏界を湧現させることを九界が変じて仏界に転じたとすると、十界どころか常に一界しかないことになる。そして十種類に転換できるだけとなる。よく宿命転換というが、代わりに良い結果が生じてもそれはもともと持っていた宿命が出ただけで、悪い宿命はそのまま残ることになるから、転換したという実感は涌かないだろう。
人生のある時点で仮に悪い現象がでると決まっていたとき、善法に縁して善い結果になったということをそのまま認めることになる。決まっていた宿命とか、善法に縁すること自体が宿命だったとなり、いつの時点で宿命が転換したのか解らなくなる。
迷うと悟るを不二にするほかの例をみてみよう。惑智無二なる言葉がある。惑と智とは別々のものではなく、一体不二であるというのだが、なぜ無二なのかである。
一体不二なら惑智而二でなくてはいけないだろう。それでも不二扱いである。妙楽の弟子の明曠の著を伝教が注釈したものに「惑智無二なれば、生仏体同じ」とある。
惑とは迷いで、智とは仏智をいう。迷うときを衆生と名づけ、仏智を顕現して悟りの境地に達するときを仏と名づけるとあるが、迷いの衆生と悟りの仏は隔たりがあるわけでなく、どちらも一心より生ずるので無二であると。
二無しと不二では意味が違う。二無しは無分別で不二は而二が前提だが一体の二相となる。二相の存在を認めることになるが、無分別は分けられないのである。同じ体の一心より生じた異なる状態に違う名前を付けただけなのだからわざわざ不二にする必要がないように思える。
そしてここでもやはり縁によって生じる二相のため仏智の存在価値はあまりない。せっかく悟っても縁によってまた迷う。不二の濫用である。
一念三千に関連した不二もある。四土色身・四土不二・身土不二である。四種の国土(四土)と、そこにそれぞれ出現する衆生(色身)をいう。
凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土と、そこにそれぞれ住する衆生とは、依正不二の関係にあることを示した語である。維摩経略疏巻一等に説かれている。
凡聖同居土には人、天等の凡夫と声聞、縁覚、菩薩、仏の聖者が同居し、方便有余土には見思惑を断じ空理を体得した二乗、菩薩が住み、実報無障礙土には中道の理の一分を体得した菩薩が生ずる。また常寂光土は、常は法身、寂は解脱、光は般若の三徳を示し、如来の住む国土である。
四土といっても、法華円教の円融相即の教えに基づけば、一土にほかならないという。総勘文抄には「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり」と説かれている。
この四土は特別な世界として別々に存在するのではなく、依正不二の法理から、そこに住する衆生の一念によって決定される。ただしこの衆生の一念で決まるのは、名目上の国土の名称だけである。
二重の依正不二である。まず各土とそこの住人は依正不二、次に四土といえども一土であり、住人の一念によってつけた国土の名称に過ぎないと。したがって一土と全住人とは依正不二であるとなる。
そうなるための条件が法華円教の円融相即と有情・非情が和合することの二つである。十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土(非情)が和合して一体三身即一となって身土不二は、依正不二の別称となる。
一仏の身体なるを以て常寂光土というとあるが、常は本有常住、寂は寂滅、光は光明で、常住・寂滅・光明の仏土をいう。爾前迹門の諸経では、凡夫の住むこの娑婆世界を煩悩と苦しみが充満する穢土であるとし、仏の住する浄土は十方の彼方にあるとした。
しかし法華経本門寿量品に至って、この娑婆世界に仏が現実に常住してきたことが明かされ、いままで嫌われていた娑婆世界が、そのまま本有の寂光土と現れた。
故に開目抄に「今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる」と述べている。この寿量品の説法により、四土も一土となり、その国土を寂光土とするか、穢土とするかは、すべてそこに住する人の一念によって決まることが明かされた。
しかし住する人の一人ひとりの一念なら、一人ひとりが異なる国土を感じているだけで国土自体は何もしていないのだろう。それなら穢土であれ寂光土あれ依報自体は何もしていないことになるから、正報である一人ひとりと依報とはなんの関係も生じないことになる。これでは依報不二に反することになる。しかも寂光の仏の存在も衆生の一念に左右される存在としてしか意味をなさないことになる。
先ほど引用した総勘文抄の文の他にも「寂光をば鏡に譬え同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬う四土も一土なり三身も一仏なり今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云う」と述べている。
法華経如来寿量品第十六の文に、三妙の中の本国土妙を明かした文が「娑婆世界説法教化」である。「娑婆世界にて説法教化す」と読む。娑婆世界とは、苦しみや悩みを耐え忍ばねばならないこの世界のことで、仏は久遠に成仏してから、この娑婆世界に常住して衆生に法を説き、教え導いてきたことを明かしたものである。問題なのは、そんだけ長い間衆生を教化しても、娑婆世界はいつまで経っても娑婆世界のままであることだ。仏の説法はなんのために存在していたのだろうか不安になるような話である。
爾前経や法華経迹門では、凡夫の住むこの娑婆世界は煩悩と苦しみが充満する穢土であって仏は決して住まないと説き、十方の国土を仏菩薩の住む浄土とした。また、国土を四つに区分して仏は寂光土、菩薩は実報土、二乗は方便土、六道の凡夫は穢土の娑婆世界とそれぞれ別世界に住むと説いてきた。
しかし、法華経本門の如来寿量品では、五百塵点劫の久遠の仏寿が説き明かされ、仏の住処はこの娑婆世界であると示されたのである。法華玄義巻七上には、本門十妙の第三に本国土妙を立て、先に挙げた寿量品の文を釈して「娑婆とは、即ち本時の同居土なり……本時所栖の四土は、是れ本国土妙なり」としている。
すなわち、本門で本国土妙が明かされた後は、堪忍世界といって耐え忍ぶべき世界が、妙法に照らされた四土不二の清浄な国土になるという。これを娑婆即常寂光土の法理といえば妙法に照らされてという条件付きで国土の変換浄化を意味して、単に不二ではなくなる。
述成不二の即身成仏という不二もある。御義口伝に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と領するは述なり日蓮が讃嘆するは成なり我等が即身成仏を説き極めたる品なり、述成一致符契するは述成不二の即身成仏なり此の述成は法界三千の皆成仏道の述成なり」と。
また非長非短不二の義、長短不二もある。法華経如来寿量品第十六に説かれる久遠円仏の寿命は、長短の二義を超越したもので量ることができない(非長非短)が、時により機により、あるいは長く、あるいは短くも示すことができ、自由自在であるということ(長短不二)。
法華経従地涌出品第十五に「是の諸の菩薩摩訶薩……及び諸の四衆も、亦皆、黙然たること五十小劫、仏の神力の故に、諸の大衆をして半日の如しと謂わしむ」とあるのはこの意味である。
当体義抄に法華文句巻九上と同文句記巻九中)を引かれて「天台大師……文を釈して云く『解者は短に即して長・五十小劫と見る惑者は長に即して短・半日の如しと謂えり』文、妙楽之を受けて釈して云く『菩薩已に無明を破す之を称して解と為す大衆仍お賢位に居す之を名けて惑と為す』文、釈の意分明なり爾前迹門の菩薩は惑者なり地涌の菩薩のみ独り解者なりと云う事なり」と述べている。
また名体不離・名体不二もある。名と体が離れずにそなわっていること。爾前の円教を示す。三大章疏七面相承口決にある法華玄義七面口決の第四である八重浅深の一面の中で、名の八重について述べた第二に説かれている。
化法の四教の中、爾前の円教には一往円融円満の法が説かれて、名目と本体とが不二・不離の関係にある。名は体を表すとはこのことか。これでも不二という。
また初後不二という不二もある。修行における最初の階位のことで、別教の菩薩行では、五十二位のうち、十住の初め・初住位で、発心住のことである。聖愚問答抄に「聖人云く円頓の教理は初後全く不二にして初位に後位の徳あり一行・一切行にして功徳備わざるは之れ無し」と説かれている。
後位とは、初住以上の後の位をいう。四信五品抄では、一念信解の信の字を釈され、法華経分別功徳品第十七に説かれている四信のうちの最初の初信の位をいうと説かれている。
さらに一体不二と修性不二を掛け合わせて本覚の極果という。衆生に本来具わっている覚りが、そのまま究極の仏果であること。修性不二(本来の仏性と修行によって得られる仏果と一体不二であること)をあらわす。本覚は始覚に対する語で、本来固有の覚りのこと。極果は至極の仏果、仏界のことである。
また凡聖一如という不二もある。六道の凡夫も四聖の聖人も本来の姿は平等で、差別がないこと。凡聖とは凡夫と聖人のこと。ここでは本来の姿は平等で差別がないことを不二といっている。本来の姿とは何のことなのか、どんな姿なのだろうか。
一体不二に関連して名異体同・名異躰同という原理がある。名は異なるが、その当体は一つであること。観心本尊抄文段に「三大秘法の中に、本尊に於て人法に開す。故に『本門の本尊と四菩薩』というなり。『本門の本尊』とは人即法の本尊なり。『四菩薩』とは法即人の本尊なり。故に『今既に時来れり四菩薩出現』等というなり。当に知るべし、『本地自受用報身の垂迹上行の再誕日蓮』なり。或る人、名異体同の相伝を知らざるが故に法を非り人を毀る」とある。
日寛らしい表現で人と法の相即を述べている。ここでとりあげるのが、本仏の内証である。本門の本尊と四菩薩(上首上行菩薩)は名は異なるが、本仏の内証は一体不二であり、久遠元初の自受用身のこととなる。
御義口伝に「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」述べている。
中国三論宗の開祖、吉蔵の立てた教義に名異体同・二経一法というのがある。開目抄に「三論の吉蔵等読んで云く『般若経と法華経とは名異体同・二経一法なり』」と述べている。吉蔵は法華玄論巻八で釈尊の一切経を釈して立てた菩薩蔵の中に法華経と般若経を入れて、その二経に説くところの体は同じであるという一体不二説を唱えた。日蓮は、報恩抄で吉蔵の説を一乗誹謗と破折している。
吉蔵のような邪説が出てくるのは、不二の拡大解釈によるのだが、不二論自体が曖昧すぎるのが原因であると思われる。不二が成立する条件を明確にしなかった、または出来なかったのに、あちこちで使いすぎた結果でもある。
有解有信という言葉から信解不二が出てくる。真実の解は、仏教の甚深の理を開悟することであり、法華経譬喩品第三に以信得入とあるように、信を以て初めて可能となるが、また領解の一念なくしては、信もないのであり、信解不二ともいう。
いいたいことは解るのだが、このままだと信と解が共に支えあった存在となり依存関係になってしまう。依存関係まで不二ということになり、新しい不二の解釈となる。
また応身如来を理智不二として説くこともある。日蓮は十如是事で「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事……如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来」と定義している。
故に三身は衆生の一身(生命)に具わるものであり、究竟していえば衆生の一切の所作、振る舞いを応身という。仏身を法・報・応の三身からみるとき、理智不二(法身の理体と報身の実智が不二の関係にあること)の本体(理智不二の法身と報身)から衆生を化導救済するため、機縁にしたがって種々の形に変化して出現する仏を応身如来という。三諦では仮諦、十如是では相にあたり、また三徳(法身・般若・解脱)では解脱に配する。
ここまで不二について観てきたが、改めて而二不二と無二無別と何が違うかということを考えてみたい。
「二にしてしかも二ならず」と「二無く別無し」の違いである。一見同じように見えるかもしれないが、無差別と不二は、明らかに異なる概念である。不二は二つの事相の比較相対に用いるのに対し、無差別は二でも三でもいえることなのである。すなわち無差別は、比較相対することなく無差別こそ実相という。これを不二で語るとどうしても入れ子状態にして語らなくてはならなくなる。
そこで一体不二なる用語を使い、無差別の意味も含ませるという離れ業を使うのである。さらに不改の体相ならまだしも性分まで不改の体として説明してしまう。
異なる性分も体は変わらないから一体不二と。体は異なると言えども性分は変わらないから不二ともいう。また三世変わらない不改の性を持って不二とも言ったりする。
さらに性分の相は異なるけどそれぞれの性分の本質、本体は一体であり不二と。なんでもかんでも不二で説明しようとするとこのような事態を招く。無理して不二で説明しなくても無差別なものは無差別でいいはずである。
日蓮は御義口伝に法華文句巻三上の文を引かれて「内衣裏の無価の珠を点ずるに王の頂上の唯一珠有ると二無く別無し」と述べているが、内衣裏の無価の珠とは衆生の一念の中に仏性があることを示したものである。
大方広仏華厳経巻十には「心仏及び衆生、是の三差別無し」の文がある。悟りの仏も、迷いの凡夫もその体は本来差別がないと説かれているが、華厳経には十界互具・一念三千の法門が説かれていないので、これは文のみあって義がなく、法華経の一念三千の義によって初めてこの文義が明瞭となると日蓮は言う。
摩訶止観巻六に「観は仏知と名づく、止は仏見と名づく、念念の中に於いて止観現前す」とあるが、止も観も一念も三無差別であるとする。また三諦・三観も無差別である。
唱法華題目抄に「止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立て給う、一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし」と述べている。
総勘文抄に「四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり」と。
開会のために不二を使ったり、開権のために不二を使ったり、顕実のため不二を使ったりしなくても、この総勘文抄で述べているように「心の外に法無きなり」といえば、権実不二の真意が伝わるだろう。もっともここが彼らと日蓮の違いでもあるのだ。
筆者が不二を四種類に分類したのは、ある意味、嫌味でもある。一つの言葉を使用するとき、定義が明確でないと人は勝手に解釈して勝手に使用する。そしてこの四種類の説明文を使用しずらいときは一体不二だからといって済ましてしまう。
一体不二を一つの体に共存する性分と定義しても、曖昧さが残り、何故、不二にする必要があるのかその理由を付加しなくてはならなくなる。また無分別だから不二では、なぜ無分別のままではいけないのかという理由にはならない。
即で結ばれた両辺を一体不二で共存していると考えると、すべてが而二の存在を認めることが前提になる。そうなると相即の意味がない。たとえば境智不二の場合、境と智は一体に別々に存在していることになる。
また善悪も同じとなる。それなら無分別という意味と異なることになる。無分別は而二ではない。無分別は主体と客体との区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないことである。
また主体とは、性質・状態・作用の主で、元来は根底に在るものという基体を意味する。主観は認識する・行為する・評価する主のことだが、主体となって働きかける、他のものに導かれるのではなく、自己の純粋な立場において行うことでもある。
而二不二はどちらが主体といえるのだろうか。たとえば依正不二というとき依報と正報を比較相対すれば、この二者は対立していなくて共存はしているが、相関関係はなく存在自体の依存関係もない。したがってどちらも主体にはならない。もちろん人間から見れば依報である自然は不離の関係にあるのだが、自然から見れば人間が必ず必要なわけではないだろう。
また迷悟は当然どちらも主体にはならない。しかも共存しながら相対関係はない。そんな二者を共存しているから不二で結ぶことが出来ると考えることが不自然である。共存はしていても迷悟は無分別である。
迷いと悟りといえば、対立する二者のイメージがある。善悪もそうである。善悪は仏教的には無分別だが、迷悟を無分別といわないのは何故か。九界即仏界と迷悟不二はたびたび一緒に登場する。九界と仏界は而二というので無分別ではない。この無分別と無分別でないものを同列に並べて語るのはルール違反のように思える。
そこで迷悟は無分別とはいわないようにしているような気がする。迷いも悟りももともと一念に共存しているように扱うのが説明上のルールであるかのようである。
有無も善悪も無分別なら迷悟も無分別であってしかるべきだと思う。さらに不二と無分別は同義というなら、迷悟不二、善悪不二だけでなく有無も不二にすべきであると思うのだがどうだろう。
さらに無分別は一体に共存しているように説明しても一体不二でもないと思う。九界と仏界は一念三千の説明上、無分別とは言い難い。その一念三千を説明するときに、九界を迷い、仏界を悟りと言い換えると説明しやすいのだろう。言い換えのルールが全く見えないどころか、存在しないという実感である。
色心不二を即論で語るときに即身成仏という。即論で語るときは、別の用語を用いることになる。迷悟不二を即論で語るときには九界即仏界を用いる。不二のままだと静的存在だけの意味合いになって、変転する動的説明には使いづらかったからだろう。
変じて転じるの意味も明確にしてほしいものである。水が固体になったり、気体になったりする相性の変換に対し、気体であれ個体であれもともとは水という液体だから一体不二では答えにはなってない。そもそも元は原子で本来の姿は、気体だったのが、温度によって液体になったり、個体になったりするのである。
変換は、例えば熱エネルギーを電気エネルギーに変換する(形相の変化)ような場合に使うがともにエネルギーであるから一体不二などといったら笑われてしまうだろう。
また変転は変転極まりない人生、目まぐるしく変転する(変化の時間的表現)という意味で使う。変化はある状態から他の状態に変わること(相の変化)である。
転換は物事の性質・傾向・方針などが変わるまた変えること(性の変化)である。即はこれらのうちどれに該当するのだろうか。
とりあえず、即は変化あるいは転換としてみよう。煩悩が変じて菩提に転ずる性分の変化を即で語るのである。煩悩と菩提は二性分ではあるが、一体の持つ性分の二面性だから不二になるという。
二面性ではなく二重性なのかもしれない。両方が常に共存していて視点を変えることによって両方が見えてくる。粒子性と波動性の両方を同時に持つ光子のようにである。そうすると煩悩と菩提は性分の二面性ではなく一念の二重性といえるのかもしれない。もちろん一念の心法は煩悩菩提だけではないので単純に一念の二重性とは言い難いのだが。
性分は煩悩菩提以外にも多くあるから性分は二面だけでなく無数にある。そのなかでも意味合い的に相反する二面を即で結んで不二を強調する手法ともいえる。
そうなら即や不二は表現における手法に過ぎないのだろうか。もしたんなる手法ならそれほど厳密に定義しなくてもいいように思える。さてどうしたもんなのだろう。
また二性分の共存を不二といい、一性分の変化を即としたらどうなるのだろう。不二の存在論は、性分の問題だけではなくもっと幅広く使用されている。
変化と冥伏の違いは現象的には見分けがつかないこともあると思う。変化は一性分が別の性分に変わる。冥伏は、ある性分が冥伏した時に顕現する性分が決まっている二者の相対関係と見ることもできる。
交換の原理である。ただし十界の場合は、冥伏するものと顕現するものが、一対一の関係ではない。顕現する範囲が限定されているが十界のどれかになることが決められている。
依正不二の場合はどうだろう。変化でも交換でもない。依報と正報は作支の不二なので不離の不二でもある。不二は交換と不離(空間的共存)の二種類によって説明されている。
即は変化と不離(時空間的共存)の二種類で説明されている。一体不二だからという結論的表現は大半が不離の意味である。不二も即も不離を使うが使い方は異なるのである。
不二の場合は相分を不二で結ぶときも不離を使う。例えば、依正不二、因果不二、寂照不二、権実不二がそうである。また性分を不二で結ぶときも不離を使っている。色心不二や修性不二、染浄不二などである。
即の場合も不二と同様に相分を即で結ぶときも不離を使う。久遠即末法や信心即生活、自受用身即一念三千、一身即三身、受持即観心などがそうである。また性分を即で結ぶときも不離を使う。九界即仏界、煩悩即菩提、生死即涅槃、凡夫即極、三道即三徳等がある。
 さらに一体不二と同様の意味で不思議一なる言葉もたびたび登場する。たとえば「本迹殊なりと雖も不思議一なり」と使われている。この言葉も内容の説明は不二とほとんど違わない。
法華経迹門と本門とは、法門の内容において天地の相違があるが(而二)、本門によって迹門を開会してみれば、ともに妙理を説くゆえに一(不二)であるという意味である。
僧肇の『注維摩詰経』の序に出る文であるが、天台も法華玄義巻七上などでよく用いている。しかしこの文は本門と迹門が同一であるとする本迹一致を説いたものではない。
「本迹が殊なる」とは本門が勝り迹門が劣る意であるから相待妙であり、「不思議一」とは迹門も本門に会入すれば同じく一味平等の妙法となることを説く絶待妙から釈したものとなる。
本迹が「一」であるといっても、あくまで迹門は迹門であって本門に劣り、同等ではない。法華文句記巻十中に「本迹殊なりと雖も、不思議一なり。一なりと雖も、本迹宛然たり。故に不二而二と云う」とあるのはこの意味である。したがって本迹は「不二而二・二而不二」(不二にして二、二にして不二)という相即の関係にある。
権実は而二不二だが、本迹は不二而二では、辻褄が合わない気がするのだが、これが仏教だと言われそうなのでこの辺にしておきたい。
不二の最後に一念についてもう一度、述べておきたいことがある。妙楽の定義は、一心法としての一念、色心総在の一念、善悪を起こす根本の一念、因果俱時の一念の4種類あるので、定義というのは可笑しいかもしれないが、意味合い的には定義らしさはある。
一念が付いた単語を拾い上げると一念三千、一念随喜、一念信解、一念法界、一念の心法、一念の心性、一念の心、一念一心、一念一体、一念本体、一念本性、一念本実相、一念真如、一念大真如、一念不二の真如、一念一身、三世一念と様々ある。
これでは一念が相分、性分、本体などの何を意味しているのか全く見当がつかないだろう。いずれにしても一念は、現代文で使用している意味合いとはかけ離れた意味を持っている。
不二の定義を明確するまえに、この一念の定義も明確にしておかないと、不二はますます理解されず、悪用されるだけかもしれない危惧を抱かざるをえないので最後に追加させてもらった。



即と相即の認識論=時間性

日蓮の御書には即の文字が1165か所ある。この即を一一に観、読み込んで思索に思索を重ねていくつかのルールを読み取ったと思っている。
筆者は当初から、即の概念と不二の概念は異なると思っていた。またそうであって欲しいと思っていたのだが、日蓮の御書を読み進めるうちに日蓮も天台と同様の思考であるように感じてきた。すなわち不二と即は同義であるとしているように思える。
筆者はまず即と不二の大きな違いを転換の原理と冥伏・顕現の原理という構造上の違いがあると思っていた。しかしどちらも冥伏・顕現が主体の原理であった。
さらに無分別の二者でも縁によって冥伏・顕現するとなっている。ただ時間の概念を考慮していない不二の存在論と俱時において共存することを認める即の存在論には、時間的要素が組み込まれていると思える。
即の説明上の種類を挙げてみよう。変じて作る、転じて顕れる、具わり収める、具わり顕れる、具わり開く、開いて顕れるなどであり、即して実相を示すことがメインテーマである。 一体不二(即是)の即、不離(不相離)の即、統合の即、俱時の即などは認識より実体にせまることがメインテーマとなる。
左辺がそのままの体で右辺に代わる。イコールなのは体のみで性や相が変わる。具わっていた性分が顕現しただけである無分別の善悪や不二とは異なり、左辺が右辺に劇的に変化するといったものを期待していた。
煩悩即菩提は、煩悩が菩提に変化してほしかったのである。そうでないとなんのための菩提か分からないからである。水の分子が本体なら温度によって気体にも液体にも個体にもなる。温度という縁によってさまざまに相が変わる。これが不二の原理だと思っている。
それに対し即は媒介を通してまったく別のものに変わる原理だと考えていた。しかしこれだと煩悩の消滅、あるいは断尽となり化身滅智と同じではないのかと思うようになった。日蓮仏教も煩悩を無くす必要がないのである。そうなると即で結ばれた両辺も冥伏・顕現するだけとなる。そして冥伏・顕現を変じて転じるといったに過ぎなくなる。
劇的な変化を望むのは、庶民にとって当然の心理で、現在の苦悩、病気、経済苦、人間関係の悩みなどを信仰によって変えたいのである。それを単に縁によって出たり引っ込んだりするのなら、なんのための信仰かと思うのは当然であろう。即論も単なる屁理屈に過ぎないと思われても致し方ないところである。もっと実用的で生活、人生に関わるような理論展開が欲しいものである。
とはいえ不二と即は、まったく同じではないだろう。イコールの意味合いが異なっているのではないかと思う。不二は空間的存在として一体に共存していることを意味し、即は俱時において共存しているのである。同時と俱時の違いはある。同時は時間的にイコールだが、俱時は同じ時間を共存しているという意味である。
分かりやすい例を挙げようと思う。パルス波形は、X軸を時間、縦軸を電圧にした二次元座標で表現される。ある時間の一点から垂直に波形は移動し、一定の電圧に達すると決められた時間だけ水平移動したのち、再び、X軸に戻るときに出来る波形のことである。
ある時間の一点において異なる二つの電圧の値が存在する。X軸の時の電圧をゼロとし、そこから垂直に移動して達した頂点の電圧を1ボルトとすると、電圧ゼロと1ボルトの時刻は同じである。このゼロ地点はX軸の値において同時であるが、Y軸の値にはゼロと1ボルトの二つの値が存在する。
この現象を俱時とするのである。当然、再び戻るX軸のゼロ地点は、初めの位置と異なる。この差のことを異時という。ほかにも同様の物理現象はあるが、これが一番わかりやすいので、この例を示した。同時でも異時でもなく俱時であるという表現は、よく出てくる表現なので、最初にその言葉の定義をしておいた。
ようするに不二は空間的な共存、即は時間的な共存。不二も即も共存する二者が、縁によって顕現・冥伏する一身・一心の一体現象(実相)を説明するための用語となる。
即を不離の意味で使用する天台宗は、即と離をもって、別円二教の浅深を分別したのである。知礼の十不二門指要抄巻下に「今家は即離を以て円別を分つ」とある。不離である即は、それほどに重要な視点であったのである。
不離という距離感は、空間的な距離の場合を不二といい、時間的な距離の場合に即を使うことになる。さらに即は円融に具わるとして即は時間論、円は時空間論に用いる。また即は開くの義としても使用する。即論の異時面を冥合で語り、俱時面を円融円満で語るのである。
そこで即の媒介としての働きを考えてみよう。(不二の媒介は一体であった)媒介とは、二つの間にあって、二つを仲立ちするものである。哲学的には、あるものを他のものを通じて存在させることをいう。
たとえば無明即法性というときの即の意味を考えてみよう。無明の存在は法性があるから存在でき、逆も真であるという依存関係に見える。この場合の即は単に「仲介」の役割となるだろう。不二の場合は互いの存在を不離として説明したが、同様に即も不離としての役割を担うこともある。
直接的な存在が、実は他のものによって条件づけられた存在であることがある。したがってすべての存在は、直接性と媒介性の両面を含んで存在するとへーゲル考えた。
しかし無明と法性の存在は、単純に即が仲介しているわけではない。不二と即では仲介の内容が異なるのである。顕現・冥伏の原理のなかで筆者はこの二者が俱時に存在することを述べた。
即は俱時に存在させるための媒介があることを意味しているのである。そしてこの在りかた、存在の仕方が実相の存在の仕方なのである。即論における不離のあり方は、実相を媒介して初めて説ける俱時の法なのである。ただし即論はあくまでも変じて転じる二者の動的把握であり、時間を考慮しているとはいえ、まだ円融、円満の義にはなっていないのである。
また数学における媒介変数(助変数)の思考は、仏教用語の解説における様々な言い換えの論理と似ている。関数における変数を別の変数で表現したとき、この別の変数を助変数という。たとえばxyという二変数がx²+y²=1という関数になっていたときこの関係を助変数θを用いてx=cosθ、y=sinθと表現できる。
 これと同様の方法で仏教も実に様々な法理を展開している。ただ数学の場合は、なぜそのように表現できるのかを数学的に証明してあるのだが、仏教の場合は、いまいちはっきりしないという印象を受ける。
また哲学における概念に相当するものを仏教では法理というが、仏教の場合は人間を含む森羅万象にその思考範囲は及んでいる。したがって事物の本質をとらえる思考の形式が、事物の質(相)だけでなく性、体から機能面の特徴とそれらの連関まで法理の内容(内包)となる。
概念は同一の本質を持つ一定範囲の事物(外延)に適用されるから一般性を持つが、仏教の法理は、個体、単独、経験的、先天的といった概念の範囲を超えているので、一般性を持っているとは言えないかもしれない。けれども仏教の法理を具に検証すれば、そこに一般解が見えてくると筆者は確信している。
少し脇道にそれたので話を元に戻そうと思う。「法性変じて無明を作り」 とは天台の言葉であるが、この変じて作ることが即の意義の一つである。これは不二には無かった表現である。
縁によって無明が法性になるような説明だけでは不二と変わらない。即で両辺を結ぶときは不二のような静的空間性の存在論というより、左辺が右辺に変転する動的時間性を有するのである。
したがって無明が縁によって顕現したり冥伏したりしても一体不二であるといった不二的説明では即で結ぶ意味は激減する。不二は一体を媒介とし即は実相を媒介にすることによって生じる相互関係論であると把握してもらいたい。即ち無明は実相に即して観れば俱時に法性に転じるという意味合いになる。
また縁の働きは実に複雑で、即論にあっても縁は無視できない。縁によって無明は影響され、法性は影響される。けれども不二の二者のような共存関係ではないので、即で結ばれた両辺は、冥伏・顕現ではなく転換・変転・変化といった言葉で説明することが望ましい。といっても顕現・冥伏であることには変わりはないのだが、同じ言葉を使っていると、混乱することがあるからである。
無明と法性は俱時で共存しているが、不二は同時に共存しているので、無明即法性を説明するときに、九界即仏界を用いて行うのである。即論は存在論ではなく認識論から入り実体に至ろうとするのである。したがって即を一体不二だから即といった説明は、正しいとはいえないだろう。
変じて作り以外にも、開く転じる、具わり収める、具わり顕れる、一体不二(即是)の即などがあり、説明するときは不二と同様の説明にならないように注意が必要である。といってもそれほど厳密に述べるのでなければ対して影響は無いのも事実である。
また相即も同様である。即で結ばれた両辺を入れ替えた場合に意味が変わらないときは相即されるが、意味が変わってしまうときは相即しない方がいい時がある。もっとも大半の場合は相即してもなんとか説明できるようである。なぜこんなことを言うかというと、単純に文脈の都合だけではないように思う。
例えば久遠即末法という場合、久遠の本性を発現する場所、時代が末法であるということであるが、これを末法即久遠と相即したときは「発現」という言葉をそのまま使えない。そのために発現の代わりに本性は一体不二であるとして説明することになる。
両辺を入れ替えたとき説明の視点を変えなくてはならないことが起きる。本来は、こんな場合は相即しない方が無難なのだが、どうしても相即したいときは、久遠と末法という二者から視点を変えて行うのである。この場合は本性である。しかし視点を変えているので、誤魔化しているように思われないように説明して欲しいのである。このことは詳しく後述したいと思う。
日蓮は御義口伝で「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」と述べているように、煩悩を燃やすことによって、菩提の火としてあらわれることを究竟の即としている。煩悩自体が菩提に変化できる。その意味でそれぞれが存在を支え、変化できるという相互関係にある。
無分別で而二ではない善悪は、便宜上而二として表現されるが、互いにその存在を支えているわけではないので変化するとはいわない。よって善即悪といった表現は誤解を招く恐れがあるので注意が必要である。
けれども煩悩と菩提は、俱時に存在するのだが、必ずどちらかが顕現している。したがって煩悩から菩提に至る時間が内在していてもいいことになる。もちろん俱時でもいいのだが、薪を焼くという行為の存在に意味がある。
行為という仏教用語は現代的に訳せば媒介であり、仏教的には修行となる。これを無分別の善悪に当てはめてみれば違いがよくわかる。
悪の薪を焼けば悪がなくなる訳ではないので、俱時でも同時でも時間が経過しても性悪の存在はそのまま存在する。したがって性悪は焼いて灰にして捨てることはできない。これを梵身灰智・無余灰断ともいうが、色身を焼いて灰にして心智を滅すること、略して灰滅・灰断ともいう。小乗教における二乗の最高の果徳、理想の境地とされているのだが、小乗教における理想の境地には、空しくも辛い思いが滲み出ている。
また縁の問題も厄介である。たとえば煩悩という性悪の性分が善縁にあえば性善が起こり菩提に転じるとしよう。このときの善縁と煩悩の関係、並びに善縁と菩提の関係が問題となる。
現実には、日蓮と出会った人は皆、法華経を信じ信者になったかというとそうではない。善縁に出会っても受け入れなかった場合、善縁は相手を変えるほどの力量はないということになる。
法華経を受け入れて信じる行為と心が、善縁を善縁たらしめることになると、善縁といっても結果論に過ぎないとなってしまう。これを縁というのかというとそれだけではないだろう。たとえば十界論の説明では縁に合うと結構,相分が変化するのも事実であって、これも縁といえるだろう。
したがってまず縁とはなにかという定義を明確にすべきである。縁の存在とその仕組み、構造が単独の性分なのか、それとも相分なのかも問われることになる。縁は対境という相なのか、それとも心性という性なのかもはっきりしたいと思う。
もともとの原因があって、縁が外的な因となって果を生じ、果によって報いが顕現する。
「煩悩は善法が縁となって」と言ったとき縁となる善法と煩悩の間で何が起きているのだろうか。普通の日常生活にあっては共感、共鳴、感動なのだが、煩悩が善法に共鳴したり、感動したりするのだろうか。
単に縁に出会っただけなら見過ごしてしまうこともあるだろう。仮に煩悩が善法にであって共鳴したとしても、善法が必ず菩提を導くとは限らない。それとも縁は必ず共感したら行先に連れて行ってくれるのだろうか。そうだとしたら縁は行先の専門部署あるいは専用エレベーターである。
九界の行先を必ず押してくれるエレベーターガールの役目ともいえるそんな存在でもある。九界のどこに行くかをどう判断しているのかもはっきりしない。
相分あるいは性分と縁は、どのような相関関係をもっているのだろうか。縁はどういう仕組みで転じさせる因となるのだろうか。また何が縁になるのだろうか。縁の素材は性分でも相分でも体でも存在するものは、冥伏していても顕現していてもなれるみたいなのである。
正直言うと十二因縁まで取り上げて検証するのはとても面倒くさいと思うのが実感である。縁の存在構造まで十二因縁説で説いているとは思えないからである。どなたか教えてもらえると助かります。しかし、流転・還滅の十二因縁観は、爾前権教に説かれたものであって、所詮、方便の教えでしかないだろうと思う。
縁とは因を助けて果を生じさせる間接的で外的要因のことと定義されている。人間の持つ心識が外境に対して起こす働きで、心識を能縁、外境を所縁といい、外境に向けて起こす作用となる。因は果を生じさせるために触媒として縁が必要らしい。
ところが一切の現象・森羅万象の現象を考察すると作用が途端に和合と言い換えられる。しかも森羅万象のなかでも生滅の繰り返し現象をさして言うことになる。自然界にあっては、能所は使いにくいからであろう。
因と縁が和合して生滅を繰り返すことを因縁和合といい、因縁を縁起ともいう。事物・事象が果を生ずる因を内在していても、外(他)から適当な助縁が与えられなければ、果を生ずることはないとする。ただしこの場合の和合とは、単に影響を受けるといった程度の意味合いらしい。それでも和合と表現する。
能縁・所縁といっても果が生じる場所は、人間の相性体である。しかも人間自身に十如是が具わり、そのなかの如是縁によって如是果が生じるのであれば、縁は内外に向かっているはずで、その場合は人間の経験も縁になるはずである。外的要因だけではないように思える。さらに十如是のうち因と縁だけが和合するのも不自然である。
煩悩が外的要因としての善法に縁したとき、煩悩と善法が和合するというのも不自然な表現である。けれどもとりあえず縁についてはここまでとしておきたい。
人間と人間の触れ合いの中には、有非情の縁だけでなく、有情の人間の十如是が織りなす人間模様が描かれる。ときには美しく、ときには儚くそして惨い事実もある。いずれは人間社会における複雑な人間関係を、コミュニケーション革命というテーマでまとめるつもりである。
即については、三論宗の吉蔵の説がある。大乗玄論巻一に三種の即を立てている。①即是の即。二つの事象が一体不二の関係にあること②不相離の即。二つの事象が別体でありながらも相離れないこと③同時即と異時即の二義。同時即とは時間的な隔てのないこと。異時即とは時間的に隔てがあるが、二者は相離れない関係にあることとしている。即是の即、不相離の即、同時・異時即との三種類である。
また、四明知礼(中国天台宗)の説もある。十不二門指要鈔巻上に三種の即論を説いている。①二物相合の即。別体でありながら融合して相即不離な関係のこと。②背面相翻の即。現象の相は二つであるが、一つ本体にあってこの二つは不離であること。相の相即である。③当体全是の即。たがいに矛盾する性分が一個の当体に全て具わること。性分の相即である。別体でも融合して相即、一体における相の不離相即、一体における性の不離相即という三視点に分類している。
不二も不離で、即も不離で、相即も不離である。この三者の不離はどこが違うのか。不二の不離は空間的な不離を指し、即と相即の不離は時間をも考慮できる不離である。即で結ばれた両辺の時間論は面白い。時間の経過に関しては不二論では扱えないというより、初めから考慮していなかったのである。
即で転換するか、転換するまでに時間を有するかは即論でしか語れなかったのである。即論の時間論は冥合論へと発展する。冥合論に至ると因縁果報は様々な動的一念論へと変化する。そして円融の一念に、さらに円満の一念に至るのである。このような理論展開の経過は、本体、実相を明かせなかった彼らの苦心の考察でもある。
今、私たちは日蓮によってその苦しい探究の歴史を冷静に見つめる恩恵に浴している。そして日蓮仏教を教えてくれた創価学会の存在に感謝している。いずれにしても悩める人間世界の様々な様相から解脱させたいとする仏教の人間観から出来上がった不朽の人間論である。
変じて作る即には様々ある。即で結ばれたものを見ていこうと思う。まずは無明即法性である。煩悩即菩提、生死即涅槃、無明即明とも同義といわれている。この四種類は、法説上の違いである。
摩訶止観巻五上には「無明癡惑は本と是れ法性なり。癡迷を以ての故に、法性変じて無明と作り、諸の顛倒善不善等を起こす……今当に諸の顛倒は即ち是れ法性なり、一ならず異ならずと体すべし」とある。そして左右を入れ替えて無明変じて法性を作るので相即関係にある。
治病抄に「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」という。
この場合無明即法性を変じて作るとしたとき第六天の魔王が変じて梵天・帝釈を作ることになるので梵天・帝釈と現れるという。当然この二者は俱時に共存するのである。
当体義抄に「法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る 悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり」と説かれている。
このことを譬えで「譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し」とある。
ここでは不変真如の理を一段展開した形で不変を法性、真如の理を真如の一理といっている。法性は三世不改の性であるが、理と一理の違いは何か。仏教でいう一は全体を指す場合と、根本を意味する場合の二つある。それより迷悟はそもそも理だったのだろうか。
心の作用の一つである意思において迷うことはある。人生の岐路に立って左右を選択する際に迷う。この場合の対比語は決定か決断かであって悟りではない。元品の法性の存在が見えない、観じないのは知らないからで迷っているわけではない。日常的な感覚では迷いと悟りは対比しない。
心中の仏性の存在は、理論的に成仏の可能性を有したものであるから、諸法実相の理は、理性としての本覚の如来を示している。したがって迷悟二法は理性となるのだろう。
法性の妙理といわれるのは、染浄の二法と三諦だけである。この染浄の二法は様々な入れ替えの元にもなる便利なものである。
熏じるとは「いぶす、しみこむ」等の意味だろう。薫じる行為が媒介となって染浄が迷悟になるのだが、染法が浄法になるには、薫じる以外に縁が必要である。具体的な薫じるの意味は不明だが、香木を燃やすことと同じ意味合いだろう。
染浄から迷悟へさらに九界・仏界へと入れ替わりながら使用される。迷悟不二になると法性の妙理は、法性真如の一理となる。入れ替わりながら法性も変わっていく。また不二から即への橋渡しにもなって九界即仏界となる。染浄の二性の不二を九界と仏界という相の即論にまで変化していけるのである。
一体不二であっても初めに熏じることが最終的には悟り、浄法へと変じ転じる縁となる。その縁に随って異なる力用・巧をも現わすことができるという。
また煩悩と般若が一体不二であることを煩悩即般若という。この場合は煩悩即菩提の菩提が般若になっている。貪・瞋・癡・慢・疑から起こる迷いと、仏の清浄で一切に透徹した智慧とが即で結ばれている。
事物・事象の是非・善悪を分別し真理を見きわめる認識作用と諸法の実相を照らし、無明を破して悟りを得る働きなどを智慧という。
煩悩・菩提・生死・涅槃等は性分であったが、般若即ち智慧は性分ではなく仏の特性である。特性だから智慧も性分なのだろうか。そして仏の一体において不二であると。煩悩即菩提と悟る働きが智慧(般若)であるからいずれは煩悩即般若となるのだろう。
智慧も解釈次第で菩提にもなると思うけど、なんでここまで即で語らなくてはいけないのか理解できない。不二のときもそうだが、やたらに不二にする不自然さだけが残る。治病抄の文を拡大解釈して語るとこうなる見本である。
末法今時においては、三惑未断の凡夫も三大秘法の御本尊に向かって一心に唱題すれば、無明即法性となり、煩悩即菩提となり、煩悩即般若にもなると日蓮はいう。
煩悩即菩提についてもう少し述べてみたい。煩悩が変じて菩提に転じる。悟りを妨げる煩悩と悟りとが、それぞれ同一真如の顕れであるから両者は相即すると見る大乗至極の法門といわれている。
維摩経観衆生品には「仏は増上慢の人の為めに、婬・怒・癡を離るるを解脱と為すと説くのみ。若し増上慢無くば、仏は婬・怒・癡の性即ち是れ解脱なりと説く」とあり、思益梵天所問経巻一解諸法品(四諦品)第四には「是くの如き煩悩の中に菩提有り、菩提の中に煩悩有り」とあり、更に法華経には提婆達多即天王如来を明かす文もある。
増上慢の人がいるかいないかで、離るるを解脱と、是すなわち解脱との二種類に分けて説くという。このように分けて説く理由を明確にしていることは珍しい。できればいつもそうして欲しかった。
法華玄義巻五下には仏果の功徳としての真性(理)・観照(智)・資成(行)と煩悩・業・苦の三道との相即を論じ、例をあげて釈している。同玄義に「若し無明煩悩の性相有らば、即ち是れ智慧観照の性相なり。何となれば、明に迷うを以ての故に、無明を起こす。若し無明を解せば、即ち是れ明に於いてす……当に知るべし、無明を離れ明あらず。氷は是れ水なるが如く、水は是れ氷なるが如し」と。
煩悩と菩提との不二不離(相即)の関係を水と氷に譬えているのだが、ここで言う煩悩と菩提はそれぞれの中にそれぞれが有りという表現を用いて相即していることを示している。
ただし水が即時に氷になるのではない。水が変じて氷に転じるだけで本体は水である。水を煩悩にも菩提にも置けるという意味で相即なのである。
次に「悪の性相は即ち善の性相なり。悪に由って善有り、悪を離れて善無し。諸悪を翻ずれば、即ち善の資成なり」とある。
そして竹を悪、竹の中の火を善に譬え、竹から出た火がかえって竹を焼くように、悪の中から縁あって善が現れてかえって悪を破すと説く。少々意味不明な譬えである。善は悪の中にあるという発想はこれまでの善悪思想と矛盾する。
似たような譬えが漢書(龔勝龔舎伝)に出てくる。香草は、香りを立てるために焼かれることから、才能あることが、身を滅ぼす原因となるという譬えである。まるで香草を悪、香りを善にすれば似たような譬えだが、漢書の譬えの方が解り易い。自分の才能を分って欲しいという思いもあまり強すぎるとかえって自身の身を亡ぼすことになる。いつの世でも人間関係は複雑であり続けるようだ。
善悪を即論のように語るとこのような結果になる。善即悪、悪即善といった相即は、一見、善が変じて悪に転じるかのような錯覚を起こさせる。悪があるから善があり、悪を離れて善は無いというが、これでは無始以来の善悪無差別と矛盾しないのだろうか。
悪は善が成立するための素材ではなく、また善は悪を成立させるための素材でもない。したがって構成された悪の中に素材としての善があるといった相互関係は成り立たないのである。
ましておや悪の中に善があるという発想はどこから来たのだろうか。悪には内と外があるみたいな表現である。さらに何を悪とするかでどうにでも展開できる論理構造は、悪そのものに焦点を当てて考察してはいけないのである。その場合は悪にした何かが焦点にならなくてはいけないのである。悪とは何かといったとき、善でないものと答えると結局善悪の定義は成立しなくなる。
また凡夫は自らを仏の法身と覚知せず、生死の苦しみの中にあるが、苦を離れて別に法身があるわけではなく、もし生死即法身と悟れば苦悩に満ちた衆生の凡身はそのまま法身となる。
いずれにしても爾前の円などの二者相即は二乗作仏、久遠実成がない故に一念三千でなく、真実の煩悩即菩提とならない。これは生死即涅槃、生死即法身、結業即解脱における即の条件が、法華経に至るあるいは一念三千の当体が妙法蓮華経であると覚知することを意味している。この至ると覚知は日蓮の即論においても欠かせない条件である。
次に生死即涅槃である。生死は煩悩、迷いの境界とすると、煩悩は性分なので迷いを単に性分にしないで境界を付して生死と関連させざるを得ない。そうしないと九界という言葉を出せないからである。
そして涅槃は菩提、悟りの境地であり、仏界をさすと。境界とは感覚の対象ことで境ともいう。環境を覚知する六根に対して六境(六種の対境)がある。六境とは色境・声境・香境・味境・触境・法境の六つ境界をいうのだが、迷いの境界とは言わないだろう。迷いの境界から九界へと言葉を広げたりするから生死即涅槃が九界即仏界などと同義になってしまう。
したがって九界の性分即仏界の性分、煩悩即菩提と同義となるとすればまだいいのだろうと思う。
摩訶止観巻八上に「亦た煩悩は是れ菩提と名づけ、亦た煩悩を断ぜずして涅槃に入ると名づく」とある。すなわち法華経では、煩悩の迷いを断じなくてもそのまま悟りとなることが説かれている。
末法においては南無妙法蓮華経と唱えることによって、生死の苦しみはたちまち消えて即、悟りの菩提となることができるという。これは仏の偉大な仏力・法力によるものであると。
御義口伝に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは生死の闇を照し晴して涅槃の智火明了なり生死即涅槃と開覚するを照則闇不生とは云うなり」と述べられ、また「此の文は煩悩即菩提・生死即涅槃を説かれたり、法華の行者は貪欲は貪欲のまま瞋恚は瞋恚のまま愚癡は愚癡のまま普賢菩薩の行法なりと心得可きなり」と述べている。仏教の即論を言い換えの論理だけで解釈しようとすると様々な点で矛盾が滲み出てくる。
さらに摩訶止観に説かれている結業即解脱は、どんな即論なのだろうか。結は結縛の意味で煩悩をさすという。業は煩悩によって起こる所作・所行のことである。したがって結業は煩悩と煩悩の所作を合わせた言葉である。
始聞仏乗義には「結業とは五逆・十悪・四重等なり」とある。その結業と解脱が即で結ばれるということは何が言いたいのだろうか。そのまま解釈すれば、煩悩によって起こる様々な行為が、そのまま悟りの自在の振る舞いということになる。煩悩の状態で起こす行為に法華経に至るという行為が含まれているのだろうか。
結業も解脱も本来は一体不二であるといい、円教の法門を明かしているという。けれども結業は六道輪廻の姿であり、解脱とは煩悩の結縛を脱離し、自在を得た状態をいう。
この二つの振舞いを即で結ぶには煩悩即菩提が成立した後に可能となる。すなわち煩悩即菩提の拡張版であるが、あまり広げ過ぎないようにして欲しいと思う。
たとえばこれを解脱即結業といったとしよう。解脱が変じてそのまま結業に転じたらなんのための解脱だか解らなくなりそうで嫌になる。したがって相即するときは変じて転じるのではなく不二と同様に一体不二で誤魔化すことになる。無理に相即しないで欲しいとも思う。即論の価値がここでも激減してしまう。
転じて即一心に顕れる即もある。「三道即三徳」や「即一心は実相」などがそうである。摩訶止観巻一上に「云何んが円の法を聞く。生死即法身、煩悩即般若、結業即解脱なりと聞く。三の名有りと雖も、三の体無し。是れ一体なりと雖も、三の名を立つ。是の三即ち一相なり。其の実は異なること有ること無し」とある。
法身般若解脱の三徳であり、三道即三徳となる。さらに三徳は即三諦である。三徳の一つ一つがそれぞれ生死煩悩結業と即となり即論の二重の入れ子状態である。
一体の持つ三種類の即はみな相の即論であり、不改の体に成立する即の三種類を相として観れば一相の別視点となる。単に視点が違うだけとなる。三即一相に入れ子となるこれらの即はあくまでも実相を媒介にした時に初めて成り立つのである。
したがって即一相の実相とは何を指しているのかは、日蓮によって初めて明かされたということになる。
日蓮は当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」と明かされている。
三観とは三種の観法のことで一心三観の略である。天台所立の空観・仮観・中観で八不中道の理を観ずるを中観というとある。また三諦は色法、三観は心法であり即一心に顕れる。したがって題目を唱える人の所住の処が常寂光土なりと言い切れる日蓮の凄さを感じる。天台たちが末法を恋慕う心情がくみ取れる。
苦しみの境涯の地獄界がそのまま仏の住む常寂光土となることを地獄即寂光という。地獄とは苦悩の極致である地獄界をいい、寂光とは常寂光土の略で仏の住む国土をいい、仏界を意味する。
上野殿後家尼御返事に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし」と述べている。
同様に惑即菩提と云ったりする。三惑(迷い)の体がそのまま菩提(悟り)の体であり、両者は一体に起きる二事象の相であると。惑とは迷い、煩悩で、菩提とは悟り、成仏の境涯をいう。
煩悩即菩提、生死即涅槃と同意ならこれらもみんな相となる。また、迷いは九界、悟りは仏界で九界即仏界ともいえる。ここでは迷いは性分ではなく相分になっている。一体どっちなのかはっきりしてもらいたいものである。
爾前二乗菩薩不作仏事には「惑即菩提して般若に非ざること無ければ即ち法門無尽誓願知なり、惑智無二なれば生仏体同じ苦集唯心なれば四弘融摂す一即一切なりとは斯の言徴有り」と述べている。
また凡夫即極ということもある。凡夫と極果(仏の境界)とが一体不二であることなのだが、凡夫の境界のままで極果に達することになる。釈尊の仏教では法華経が説かれるにいたって、凡夫即仏・凡夫即極の法門が明らかとなった。
法華経如来寿量品第十六に「速成就仏身」とあるのはこの意味である。しかし、この法門を説いた釈尊は三十二相八十種好を具えた色相荘厳の応仏昇進の仏であり、所説の法門と能説の人とに勝劣があり、あくまでも理の上の法相であった。
したがって日蓮が出現して初めて所説の法と能説の人とが一致し、真実の凡夫即極の法門が確立されたということになる。
この流れは、不二論や即論においても同様で、一念三千の当体が日蓮によって明かされて初めてそれらの真の意味がはっきりする。したがって本来は、不二論や即論にあまり拘る必要はないのだが、一般世間を相手に法を説こうとするとき、天台や妙楽の法門を利用したほうが、なにかと便利であることは確かなようである。
そもそも体一、一体とは、なんのことなのだろうか。無明即法性を無明法性体一ということがある。無明とは迷い、法性とは悟りで、ともに衆生の一念に本然として具わっている。
天台の摩訶止観巻五上に「無明癡惑は本と是れ法性なり。癡迷を以ての故に、法性変じて無明と作る」とあり、また妙楽の法華玄義釈籤巻二に「理性に体無く、全く無明に依る。無明に体無く、全く法性に依る」とある。結局残るのは法性だけであり、このことを法性真如の一理に帰するというのである。
御義口伝に「妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり」と述べている。
すなわち一体とは法性真如の一理であり、妙法のこととなる。そしてこの一理に帰することを天台や妙楽は即や不二を使って説明していたのである。したがって「無明変じて法性に転じ即一心に顕れる」という表現が正しいのだろう。「変じて転じ、即一心に顕れる」これが即の定義となる。この定義どおりに各種の即を見直してみればよくわかる。
煩悩即菩提、煩悩即般若、生死即涅槃、生死即法身、結業即解脱、地獄即寂光、無明即明、無明即法性、惑即菩提の説明で必ず出てくるのが、九界即仏界であり、迷悟不二であり一体不二である。ようするに即論は、この三つの原理の統合編であるということになる。ということはこの三つを明確に定義することがまず必要だということになる。
ところがここでも問題になることがある。迷悟不二のところで述べたが、即論にあっても九界即仏界、あるいは仏界即九界は厄介な問題なのである。
いくら一念に三千が具足しているからといっても九界は、迷いの視点で見れば九界全てが迷いなので、迷悟を相分とすると迷悟の二界になってしまう。そして九界にする理由が薄れる。もちろん九界にしないと三千にならないので、九界に分類したまま使用することになる。
不二論のように九界の境涯が一体に共存して様々な縁によって顕現するだけなら問題はないが、九界が仏界に一体のまま変換するとは言いにくいのでこの二つを即で結ぶには条件付けが必要となる。
迷いの衆生(九界)にも悟りの仏の境涯が具わっており、もともと具わっている仏界を悟ることができる、という法理として即を使うのだが、そのままでは不二と同じ解釈になる。ここでは、変化というより具わり悟るという関係のみに使うという条件である。
少々ご都合主義的な感はあるのだが、そうせざるを得ないのだと理解したい。そこで即の定義を迷吾に当てはめてみよう。迷いが変じて悟りに転じ即一心に現れるとなる。一体不二ですべてを説明するよりも分かりやすいと思う。
摩訶止観巻五上に「如是性とは、性は以て内に拠る。総じて三義有り。一に不改を性と名づく。『無行経』に『不動性』と称す。性は即ち不改の義なり。又た性は性分に名づく。種類の義、分分同じからず、各各改む可からず。又た性は是れ実性なり。実性は即ち理性なり、極実にして過ぐること無し。即ち仏性の異名なるのみ」とある。
即の中道と離の中道のことを即離の中道という。天台の授決集巻下の文に即の中道とは、円教で説く不但中の理をいい、離の中道とは、別教で説く但中の理をいうとある。
これは天台宗で説く空仮中の三諦、三観のなかの中道観に但中と不但中とがあり、但中は、空仮を離れた隔別の中道観であり、不但中は、三諦の円融観をいう。したがって、不但中は円教、但中は別教の教理であるとする。円教の円融三諦に対して、別教は隔歴の三諦あるいは隔別の三諦ともいう 。
そもそも性分は性質や性格とも言われたりするが、気の短い人、気の長い人、何事にも前向きの人、後ろ向きの人と言ったりする。これらを一体不二だから長短不二、前後不二と言ってもいいのだろうか。
もしそれが通るのなら人生、前向きであっても後ろ向きであってもかまわないことになる。しかし現実の人生はそんなもんでは済まないだろう。理の上では前後不二でも現実は前向きの人生のほうが生きていて楽しいだろうと思う。
どっちでも同じなら九界でも仏界でもたいして違わないことにもなりかねない。そうなれば宗教そのものが無意味な存在になる。
観心本尊抄に法華経方便品第二の文を引用して「法華経第一方便品に云く『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』等云云是は九界所具の仏界なり」と述べている。仏知見(仏の智慧)を開くとは、衆生にもともとそなわっているから開くことができるの意味になる。
この妙理が明かされたことによって、九界の衆生も即身成仏が可能となったのである。それでも現実の人生にとって仏界を開くことによって何がどうなるのか説明すべきであろうと思う。
九界と仏界はともに存在する(共存)が縁によって顕在化するから煩悩・菩提と同様であるが、煩悩・菩提は性分であり、界は相分である。それでも不二と同様の解釈をする。間違っていないように感じるが、それなら何故即を使っているのかの意味がなくなる。存在としては不二であっても九界と仏界の関係において境界の存在論だけではないから即で結んであると考えるしかないだろう。
たとえば地獄界の衆生が仏に縁すれば、仏界がそのまま顕現できるという不二の論理は、存在論としては納得できるが、それでは地獄界の衆生がどうやって仏に縁ができるのかが問題になる。
仮に縁ができても地獄界の衆生が縁に素直に応じるのだろうか。そんなに素直なら地獄にいないだろうと思える。そして縁の内容が問題となる。
不二のときに解釈された縁の中身は修行や善縁であるが、地獄界で行える仏道修行とは何かとか善縁に合うということの可能性は在るのか無いのかといったことをクリアしなければならないだろう。
地獄に仏という言葉はあるが、仏は自ら地獄に出向くことになるのだろうか。殆どないと思えるのだが・・・・。
即論は存在論ではなく、認識論と把握すればどうだろうか。変じて転じる即以外に変じて開くの意味を持つ即論がある。開くの即の特徴は個々の即論をある程度まとめたものに使うことが多い。そのいい例が三道即三徳である。変じて転じる即での三道即三徳も変じて開く即としてみると微妙にニュアンスが異なる。
三道の迷いも妙法を信受することによって三徳に開き仏道を成ずることができるという。三道は煩悩・業・苦をいい、この三つ性分が相互に関連して生死の迷いを形づくるゆえに三道という。三徳は法身・般若・解脱をいい、仏の具える三種の徳相のことでこの性と相の二つを即で結ぶときに使うのが開くである。
法華玄義巻三上に「此の煩悩に因りて此の業を起こして、此の苦を得……是くの如きの三道は、三徳を覆障す」また「三道に於いて一切の仏法を具す。何となれば、三道即ち三徳、三徳は是れ大涅槃にして、秘密蔵と名づく。此れは即ち仏果を具す」とある。この仏果を具すが開く、成すの意味となる。目の前が開く、覆われていたものが取り除かれるといった様子が感じられる。
一念三千の理法によれば、この三道と三徳は衆生の一念に具わる性相であり、三道は三徳に収まるものであるという。法華玄義巻五下に「法身に迷いて苦道を為す。苦道を離れて別に法身有るに非ず」と釈すように、三道という性を離れて三徳という相はない。
この法身を一体とするのである。故に三道を断尽してはじめて三徳を現ずるのではなく、妙法に値い正境を縁として、三道を開いて三徳を成させ即一心に現れると。一心は法性のことなので、法性が存在する法身と不離となる。
即是、不相離、同時・異時という三種類の即の解釈と別体における融合、一体における相の不離、一体における性の不離という三種類の相即の解釈は、明らかに不二の解釈とは異なる視点である。特に表現的に違うのは距離感と時間差である。これが最も顕著に表れるのが一念三千即自受用身の即であろう。
一念三千の法と自受用身の仏とは一体不二であるということなのだろうが、この場合の一体とはなにを指しているのだろうか。
日寛は文底秘沈抄の中で、秘密荘厳論の文として「一念三千即自受用身」と述べている。これまでの不二や即の一体は二者が共存する体であったり、共通の性であったりと一体といってもそれなりに納得できる範囲であったといえる。ところが一念三千の法と自受用身の仏では次元が違いすぎるのである。
自受用身とは「ほしいままに受け用いる身」と読み、仏の自由自在の境涯、随自意の境涯をいう。他受用身に対する語である。自受用身と他受用身がじつは一体不二ならいままでの流れに沿っていると思われる。一念三千そのものが、そのまま仏を意味しているとは一言もいってない。
日蓮がこの文を用いるときは、一念三千とは法本尊を示し、自受用身とは人本尊を示しており、一念三千の法本尊が人本尊(自受用身)と一体不二であることをいう。すなわち、法即人を示し、人法体一、人法一箇をあらわすことになる。天台、妙楽の時代には無かった本尊の概念があって、初めて明かされる即論ともいえる。したがって一体は南無妙法蓮華経の当体となる。
一念三千を法の本尊とすることは観心本尊抄に詳しく説かれている。また、自受用身については御義口伝に「自受用身とは一念三千なり、伝教云く『一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり』云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」と明かされている。
日蓮ならまだしも伝教がなぜ一念三千と「ほしいままに受け用いる身」である自受用身を即で結んだのだろうか。申訳ないのだが、筆者には理解できなかったのである。
出尊形仏とは文字通りの仏である。尊形を出た仏のことである。尊形とは尊貴な形体の意味で、具足している相好と円満な福徳を示し、三十二相・八十種好を兼ね具えた色相荘厳の仏のことなのである。
それに対し出尊形仏とは特別の姿ではなく凡夫そのままの姿であるから無作三身如来というのである。本来のまま、ありのままの姿の仏である。
三身とは仏の理体(法身)・智慧(報身)・肉体(応身)のことである。本有無作の三身・本地無作の三身ともいう。
法華経如来寿量品第十六では、仏の久遠五百塵点劫の成道が説かれ、天台はこの仏を、法身を中心とした一身即三身・三身即一身の仏としたのである。
日本中世の天台家で特に強調されるに至った法門としては、法華経迹門の仏を転迷開悟・断惑証理の始覚・有作の仏とし、これに対して同本門の仏は久遠五百塵点劫以来の仏であるが、久遠を造作のないありのままの時と解して、本門の仏とは本覚・無作であり、衆生本来の姿のまま、現実の具体相そのままが仏であり、また仏のあらわれであるとしたのである。
しかしこの法門を推し進めると、因果・凡聖・迷悟などの相違はすべて除去され、差別・対立の現実は、抽象的な平等・無差別の法身の理に包摂されることになる。したがって仏道修行の無用なことを説く極端な口伝法門まで現れたのである。
伝教が、一念三千の当体である南無妙法蓮華経を明示せずに、一念三千即自受用身などと言うこと自体おかしなことである。自分の発言が、悪用されるとは思わなかったのだろうか。得てして余計なことを知りすぎた故に、思わず漏らした言葉だったのかもしれない。こういう人はいつの時代にもいるもので、大概そういう人は組織や社会から爪はじきにされたり、漏らした言動を悪用されたりするものだとある体験者が言っていた。
それはともかくとして久遠元初の自受用身について一言述べておきたいと思う。三世十方の諸仏の能生の根源である法を体現した本仏のことで、南無妙法蓮華経如来と同義である。
即ち根源の妙法の人格的表現といえる。久遠元初の能証の仏、所証の法は体一であり、三世十方の諸仏の能生の根源である。また久遠元初・名字凡夫の時は名字下種の位を示し、この位において証得した所証の妙法が下種の本因妙であり、能証の仏が下種の本果妙となる。
したがって、自受用身は下種の本仏であり、本因妙の教主釈尊ということになる。この久遠元初の自受用身を、内証に顕本したとされるのが末法下種の主師親である日蓮であり、百六箇抄に「下種の法華経教主の本迹 自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」と宣言する。
文上脱益の寿量品の文底に下種の法体が秘沈されており、日蓮はこの文底に秘沈された本因妙の事の一念三千の南無妙法蓮華経を我が身にあらわし、久遠元初の自受用身と顕れられたと言うのである。
当流行事抄に「文底の意は久遠元初を以て本地と為す。故に唯一仏のみにして余仏無し。何となれば本地自受用身は、天の一月の如く、木の一根の如し、故に余仏無し。当に知るべし、余仏は皆是れ自受用身の垂迹なり」と述べており、能生の根源である本仏に対して、三世十方の諸仏は本地より垂迹化他のため示現する迹仏であり無常の虚仏となる。
したがって、インド応誕の釈尊は、久遠元初の自受用身に対すれば応仏昇進の自受用身であり、迹中における化他のための文上久遠本果の顕本であり、その仏身は色相荘厳で人法勝劣(法が勝れ人は劣る)の脱益・本果妙の教主となる。
また観心本尊抄文段に「久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり」と述べているように、妙法を信受した人はすべて久遠元初の自受用身となる。
そもそも久遠五百塵点劫の当初を久遠元初といったのは日蓮である。その久遠元初の独一本門が、文上脱益の寿量品の文底に秘沈されていて、この事の一念三千の南無妙法蓮華経を本門寿量文底の秘法としたのである。
釈尊の所説は在世脱益の本門であるのに対して、日蓮の弘通は末法下種の本門である。なお独一本門という言葉は、天台の天真独朗に対抗して作った言葉なのだろうか。どうでもいいことだけど・・・。
この末法下種の本門について日寛は依義判文抄に「本門の言に於て且く二意あり。一には本門寿量文底の秘法なり、故に本門と云うなり云云。二には久遠元初の独一本門の故に本門と云うなり。応に知るべし、久遠元初は唯是れ本門の一法にして、更に迹として論ずべきなし。故に独一と云うなり。二意有りと雖も、往いては是れ一意なるのみ」と。
なるほど独一の意味は久遠元初には本門しかないからという意味だったのか。日蓮が天台に対抗意識を持つことはなかっただろうことは、これまでの日蓮の言説からも推測されるところである。日寛に比べたら妙楽など足元にも及ばないと思われる。
対抗意識丸出しの多宗派の著名な坊主たちは、それほどに自身の思索・信仰に自信がなかった証左でもある。平気で他宗の教義を盗んで、自慢げに説法したり、不立文字といいながら経文を頼ったりとみっともない姿をさらしているのも頷けるところである。
これに対して日蓮は三身を兼ねそなえた、即ち久遠元初(無始)以来の真理と智慧と肉体を有し歴史的現実の中にあらわれる具体的な本覚・無作の仏を所詮の本仏としたのである。故に筆者は日蓮を歴史的教主釈尊としたのである。
法華文句巻九下に「如来寿量品」を解釈して「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏・の通号であり、寿量とは今は正しく本地三仏の功徳を詮量することである」(取意)としている。
日蓮はこれをうけて御義口伝巻下に「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり(中略)されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」と断定したのである。すなわち末法の法華経の行者を無作三身の仏とするのである。
この結論が日蓮仏教の究極といえる。本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇も法華経の行者の一身の当体なりである。神や仏を人間とは別にして特別扱いし、権威と金儲けに利用する坊主など足元にも及ばない。
さらに久遠即末法の原理も同様である。末法を語れるのは日蓮だけである。御義口伝に「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」「本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり」とある。
前にも述べたが、相即されるものは不二にもなる。久遠元初とは単なる物理的時間の長遠をいうのではなく、永遠の時間を貫く本有無作の妙法・究極の真理の発現の時を意味している。したがっていつでも久遠になれる。
末法の衆生の一念に久遠元初の妙法が具足するから、末法は久遠元初に包摂される。一念の心中の理ともいう。久遠元初の時と末法の時とが相即して不二であるということになる。
末法は久遠元初の妙法であった南無妙法蓮華経の歴史的発現の時ゆえに、久遠即末法である。(この場合の即は発現という意味になる。教理的発現の時を久遠元初とし、歴史的発現の時を末法とする)
御義口伝に「南無妙法蓮華経は三世一念なり」、総勘文抄に「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理(久遠元初)なれば無分別なり」とある。
即ち、時の相違によって顕現する教法は異なり、一様ではないが、いずれの教法もすべて衆生の一念に内在する久遠元初の妙法(南無妙法蓮華経)である絶対の真理の一現象(教法と時)であると開会すれば、教法と共に、時もまた絶対の真理に包摂されるから無分別となる。
ゆえに衆生の自己の一念に、このあらゆる教法の本源であり三世を貫く不変の妙法を覚知した時が、そのまま久遠元初となるのである。
権実不二や本迹不二という法理も実はこの意味であって、本来は南無妙法蓮華経が明かされた後に通用する法門となる。天台妙楽の時に言えることではなかったのである。だから仏の一念に冥合とか、一念の心法のゆえに一体不二とか一部、部分でも不二などという苦しい言い訳じみた不二論になってしまうのである。
また日蓮仏教特有の思想でもあるのが、久遠名字即における即論である。妙法を初めて信受する名字即の位が即成仏の本因となり、六即位の次第を経ないで究竟即である仏位に上ることが出来るという。
久遠名字即とは久遠元初における本因の位をいう。久遠とは久しく遠い(過去と未来)、永遠の意味であるが三世常恒(三世無分別)、常住をもあらわしている。
総勘文抄に「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」と述べている。釈迦は久遠実成、五百塵点劫であり、日蓮は久遠元初である。仏は久遠元初に名字凡夫の位で己の一念の心法は三千の一切諸法と一体不二であると覚知して成道したという。
同抄に「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」とも述べている。この所証の法を久遠名字の妙法といい、下種の本因妙ともいう。能証の仏は下種の本果妙といい、その自受用報身如来は久遠名字の妙法をもって下種とするから本因妙の教主釈尊という。
この久遠名字本因妙の教主釈尊の本地を顕したのが、日蓮であることは、百六箇抄に「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」と宣言しているとおりである。
御義口伝に「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」と。更に「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と述べている。このことは前にも述べたがあえて繰り返しておく。
末法は即久遠であり、そのことは本因妙抄に「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」としていることから明らかである。
即論の極みは究竟即の解釈にある。(究竟即と久遠即末法の解釈は日蓮仏教の本道だと思う)元品の無明を断じた極聖の位をいい、本有の一身が完全に顕現した究竟円満の位である仏の位をさす。この位になれば、つまらない縁に粉動されないで、再び、無明に戻ることはないと考えたい。
人間の本来的自己は、無作三身の仏であるといっても日常生活においてこの三身の相性はどのような力用を発揮するのであろうか。いかなる困難に直面しても一歩も退くことなく敢然と戦い挑み解決していく力用とはいえ、初めからそんな困難に会いたくないと思うのが人間である。
また無作とはありのままの自由自在の境涯というが、あまりに不自由な人生に追いかけられてきた人にとって、何が、自由自在の境涯なのか想像もできないのである。思い通りにいかない人生にあって仏の境智を会得することによって得られる人生を想像できるだろうか。
筆者は筆者なりにその答えを持っている。けれどもこの序説集で述べるつもりはない。あくまでも「コミュニケーション革命」において明らかにするつもりである。
究竟即とは天台が法華経の円意で立てた修行の位である六即位の最後の位をいう言葉である。天台の摩訶止観巻一下に「究竟即の菩提とは、等覚一たび転じて妙覚に入る。智光円満して復た増す可からざるを、菩提の果と名づく。大涅槃断にして更に断ず可き無きを、果果と名づく。等覚は通ぜず、唯だ仏のみ能く通ず。荼を過ぎて道の説く可き無し。故に究竟の菩提と名づく。亦た究竟の止観と名づく」とある。
五十二位に約せば妙覚の位になる。即とあるのは不二不離を意味し、法門に対する修行者の体験、智解等に浅深があるために六つの階位を設けるが、理においては差異がないから即というとなっている。
仏性は理即から究竟即まで一貫して不変であって、究竟即は衆生の一念に内在する仏の理性が顕現した位である。理即を種、究竟即を脱とすれば、脱は必ず本の種を顕す。故に法華文句記巻一上に「脱は現に在りと雖も、具さに本種を騰ぐ」とある。
日蓮は御義口伝に「無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり」と述べている。
すなわち究竟即とは無作三身の仏であると悟ることをいい、末法の下種仏法では、六即の次第を経ることなく、三大秘法の御本尊を信じて題目を唱えることによって、名字即の位から直ちに究竟即に入るのである。
末法相応抄には「妙法受持の行者は、外相は是れ名字の凡夫なりと雖も、実に是れ究竟円満の仏果なり」と、妙法受持によって、名字即の凡夫がすなわち究竟即の仏となることを明かしている。ただしこの究竟即は天台の六即の位ではなく、あくまでも日蓮仏教における究竟円満の位である。円満については後述する。
なお取要抄文段で日寛は、無作三身に因分の無作三身と果分の無作三身とを立て「当に知るべし、蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり。若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、但これ蓮祖大聖人の御事なり」と、衆生も理として無作三身の当体といえるが究竟即の仏は別して日蓮のみであると述べている。
折角、末法相応抄に妙法受持の行者と言っているのに、日寛は天台のように差別しようとしている。日蓮を尊崇するあまりとはいえ、わざわざ法華経の行者に位をつけなくてもいいように思える。
人は人だけでなくあらゆるものを差別したがる生き物である。そして差別する人にとっては、差別することによって利益を得ようとする魂胆が見える。魂胆などというと悪だくみのように聞こえるかもしれないが日寛には日寛の生きた時代背景と差別する理由があったのであるが、詳細は略させてもらう。
相即と相入の併称した相即相入という用語が、華厳経探玄記巻四等にある。相即は体(当体・本体)の立場から観て、一(個)がなければ多(全体)は成り立たず、また多によって一が考えられるゆえに、一と多とは密接不離であることをいう。例えば、波と水の関係といえる。
また相入は用(作用・働き)の立場からみて、一における働きは多に影響を与え、また全体の働きから一の働きは考えられるゆえに、これも密接不離であることをいう。
相即を密接不離、相入も密接不離だとしても相即と相入が密接不離とは限らない。単に同じ言葉を使っているに過ぎない。個と全体の体の関係と個と全体の作用の関係をそのまま結びつけること自体不自然である。したがってこの二つの関係を不可分とか融合という言葉で結び付ける。一切の存在(相即)と働き(相入)は不可分であり、すべては融合し関連していると。
華厳経と円融の関係は顕謗法抄に「小乗経には無為涅槃の理が王なり小乗の戒定等に対して智慧は王なり、諸大乗経には中道の理が王なり又華厳経は円融相即の王・般若経は空理の王・大集経は守護正法の王・薬師経は薬師如来の別願を説く経の中の王・雙観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王・大日経は印真言を説く経の中の王・一代一切経の王にはあらず、法華経は真諦・俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願・一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり」とある。
華厳宗にとって円融と相即は最も重要な法理なのだろう。だから相即相入なる用語を生み出したと思える。
三世諸仏総勘文教相廃立に「今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三(三法妙)は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し、総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり」とある。華厳経が法華経に次ぐ大乗経である理由がよく分かる。日蓮にとっては、法華経も以外の八経も所用として活用できるよい例であろう。
また化城即宝処、化城即宝処の実体というものもある。御義口伝に「我等が色心の二法を無常と説くは権教なり常住と説くは法華経なり無常と執する執情を滅するを即滅化城と云うなり、化城は皮肉・宝処は骨なり色心の二法を妙法と開覚するを化城即宝処の実体と云うなり、実体とは無常常住・倶時相即・随縁不変・一念寂照なり一念とは南無妙法蓮華経・無疑曰信の一念なり即の一字心を留めて之を思う可し」とある。まさに法体の実相を解き明かした日蓮にとって、即論も自在に扱っていると思う。
けれども天台や妙楽はそうはいかなかったので、分類したあとに統合する作業が必要になるために、どうしても即の概念が必要であった。不二では統合にならず、存在として不二を示すのみである。統合の即としては三身即一身・即・一身即三身などの二重の相即を含めて、相即は大事な法門なので少し詳しく考察してみたい。
仏の徳相として三徳が示されていたが、この三徳は仏の三身を述べたものと展開されていった。三徳とは仏に具わる三種の徳相で、法身、般若、解脱のことである。
この三徳は三身に対応して具わっているとし、仏が証得した真理をもっていることを法身徳といい、真理そのものを法身如来という。その真理を証得する智慧を具えていることを般若徳といい、その智慧を報身如来という。真理を証得することによって生死の苦を脱した境地を解脱徳といい、その境地から衆生に慈悲を施すのを応身如来という。法華文句記巻九中に「三身は即ち是れ三徳の故なり」とある。
法報応の三身は、それぞれ法身、般若、解脱の三徳を具えた仏身であり、五重玄で立て分ければ体、宗、用の三章であるということを三身即三徳三章という。
当流行事抄に「又此の三身、即ち三徳三章なり。謂く、無作の法身は即ち法身の徳此れ妙体なり。無作の報身は即ち般若の徳是れ妙宗なり。無作の応身は即ち解脱の徳是れ妙用なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」と述べている。
十地経論巻三に「一切仏とは、三種の仏有り。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とある。四条金吾釈迦仏供養事に「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」と述べている。
またこの三身は法華経如来寿量品第十六で一仏身に相即され、三世常住であることが示される。天台の法華文句巻九下に「仏は三世に於いて等しく三身有り。諸教の中に於いて之れを秘して伝えず」とある
また法応化の三身のことでもある。法身は法報応の三身の法身と報身を合わせたものである。応身は同じである。化身は変化身ともいい、仏が衆生の機根に応じて現す天、竜など仏以外の姿をいう。
合部金光明経巻一には「一切の如来に三種の身有り。菩薩摩訶薩は皆な応当に知るべし。何者をか三と為す。一には化身、二には応身、三には法身なり」とある。
また法身、解脱身、化身の三身というのもある。法身は仏果のことで、解脱身は五つの徳性としての五分法身(戒・定・慧・解脱・解脱知見)のことである。化身は応身に当たる。解深密経巻五にある。
さらに自性身、受用身、変化身の三身もある。自性身は法身のことで、受用身は報身のことである。更に自受用身と他受用身に二別されると、前者が報身、後者が応身をさす。変化身は応身をさす。仏地経論巻七にある。その他、法身・智身・大悲身とか法身・報身・化身とか真身・報身・応身などの三身がある。
なんでこんなことになるのか不思議でしょうがない。宗教が科学と違って、過去の思索や検証などまったく無視して自分だけの感覚で説くことができる証左なのだろう。何故なのかというと、一つの説に対し検証することが、まったくできないからである。ようするに基準がまったくないから、言いたい放題となる。
これは、進化、発展、成長といったこととは無縁の世界を意味しているのである。宗教などそんなもんだということだろう。様々な宗教が生まれ、どんな宗教も結構生き残っている。なんでこんな宗教が成立しているのかさえ理解できないものもある。
この正邪の検証基準がまったくない世界は、宗教以外に存在するのだろうか。虚しさとともに人間の弱さと、その反面の逞しさを感じてならない。
宗教の正邪にたいしてもそうそうだが、どの宗教も自分だけは正義で、正しいと主張できることに疑問を感じないのだろうか。不思議なことに宗教は、自然淘汰がない。どんないい加減な宗教でも不思議に信者になる人がいる現実は、人間社会と人間の関わりにおける不確定性によるものなのだろうか。
相即の三身についても考えてみたい。三身相即と同意である相即とは、二者が別の概念でありながら一体であることとなっている。即と何が違うのか不明である。相即について語るときは、性相といった具体的なことではなく概念を用いて一体とすることになっている。
法華真言勝劣事に「諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕さず」と述べているのは、爾前の諸経に説かれている始成の仏は、三身各別に説かれているが、法華経如来寿量品に至って三身が相即し、一身即三身、三身即一身が説かれ、初めて久遠の仏身が説きあらわされたことを意味する。
相即は概念を用いて行う統合のための即なのだろう。相即の三身の妙理について御義口伝には「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。人記品 一部 題目安住於仏道 以求無上道 広略要 此の文は本来相即の三身の妙理を初めて覚知するを求無上道とは云うなり所謂南無妙法蓮華経なり」と。
法華真言勝劣事には「又諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕さず、本無今有の失有れば大日如来は有名無実なり、寿量品に此の旨を顕す釈尊は天の一月・諸仏菩薩は万水に浮べる影なりと見えたり」としている。
相即不二としても用いる。二つの事象が密接不離であることをいうのだが、これには種々の義があるという。一義をあげれば、個別のものが働き(作用)を異にしながらも、その本体は一体不二であること。華厳宗の相即相入と用の部分と同じ意味となる。
三世諸仏総勘文教相廃立に「只今打ち返えし思い直し悟り返さば即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ、我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず只向い様に依つて得失の二つ有り相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の観心は鏡の面に向うが如し化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は只一にして替ること無し鏡を即身に譬え面に向うをば成仏に譬え裏に向うをば衆生に譬う鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり」と。
「鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り鏡に裏有りと雖も面の障り成らず只向い様に依つて得失の二つ有り」という状態を相即融通と表現して一法の二義という。
裏表は互いにその存在は邪魔することなく独自に存在するが、縁によっては得失を生じる。そんな関係を相即融通という。法の存在概念は実に様々な状態を演出するものである。
以円為即の即もある。「円を以て即と為す」と読む。妙楽が法華文句記巻四上で、法華文句巻三上の「即是真秘」の「即」を解釈した語である。
法華文句記巻四上に「第三に秘妙に約して釈するとは、妙を以ての故に即なり。前の四時に通ずるに円を以て即と為し、三を不即と為さんと欲せんが為めの故に、更に不即に対して、以て即を釈す」とある。ここには新しい用語として不即なる用語が出てきた。
これは天台が方便に法用・能通・秘妙の三方便があるとし、法華経の本意は秘妙方便にあるとしたのを、妙楽が更に詳しく述べたものである。
法用・能通方便が体外の方便であり、権と実とが不即であるのに対して、秘妙方便は体内の方便であり、権即実であり、権は実と対立するものではなく、また実に入るための手段でもなく、実の部分であって、万法がことごとく真義の一分を有し、真実でないものはないことをいった。妙楽らしい解釈の仕方である。
方便品の方便とは秘妙方便をいうと天台は言う。日蓮は御義口伝に「妙楽の記の三の釈に本疏の即是真秘の即を以円為即と消釈せり、即は円なれば法華経の別名なり即とは凡夫即極・諸法実相の仏なり、円とは一念三千なり即と円と言は替れども妙の別名なり」と述べている。
御義口伝には「以円為即とは一念三千なり妙と即とは同じ物なり一字の一念三千と云う事は円と妙とを云うなり円とは諸法実相なり、円とは釈に云く円を円融円満に名くと円融は迹門、円満は本門なり又は止観の二法なり又は我等が色心の二法なり一字の一念三千とは慧心流の秘蔵なり、口は一念なり員は三千なり一念三千とは不思議と云う事なり、此の妙は前三教に未だ之を説かず故に秘と云うなり、故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方、十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり云云」と述べている。
そして円融は迹門、円満は本門と定義している。事の時は円と妙で一念三千の時は妙と即となり事の一念三千は円・妙・即となるのだろうか。事と一念三千は妙で結ばれて円満となることを意味しているのである。したがって事の一念三千は南無妙法蓮華経となる。
円とは円融円満、即とは不二不離の義で、以円為即とは、円融円満の法華経では九界と仏界、方便権教と実教とが相即であることをいう。
しかしなぜ名前が違うのか。煩悩即菩提と煩悩円菩提、さらに煩悩妙菩提と同じなら相円、相妙なる言葉があってもいいことになる。釈尊がいくら四十余年未顕真実とはいえこれを釈尊が秘密にしていたというのは、面白い発想である。
秘妙方便という新しい単語を考え出してまで権と実を即で結ぶ必要があったのだろうか。天台自身が、実は、釈尊と同様に時いまだ来たらずとして、南無妙法蓮華経こそ即是真実の一法と明かせなかった故に、たぶん釈尊も自分と同じ思いであっただろうと推測したのだろうと思う。
即ち釈尊も本当は権教など説きたくなかったのだが、やむを得ず説いただけだという思いを理解したのだろう。経は衆生の機根に合わせて説くというが、そうではなく、説くほうの説くべき法の時機の問題だったのだろう。それを衆生の機根のせいにして言い訳を述べていたことになる。
だから権即実と言って釈尊を弁護したのが真相ではないだろうか。それにしても少々強引な権即実である。権は実と対立するものではなく、また実に入るための手段でもなく、実の部分であって、万法がことごとく真義の一分を有し、真実でないものはないことをいったというが、これでは真義の一部、実の部分でも即、あるいは不二となって、何でもありとなってしまう。
即論で用いられた様々な用語のうち相即されないものはそれほど多くない。しかし基本的に分けて使用していないのが現状だが、相即されるものは不二にもなる。けれども不二で相即にならないものもある。
即で結ばれた両辺は入れ替えても変化なく同じ意味になる場合と、異なる結果になることがあると仮定してみて、その他の即論を見てみよう。
文字即実相、実相即妙法と一生成仏抄に説かれたが、禅宗の不立文字の邪義にたいしてのべたものである。文字即妙法によって本尊を位置づける。文字が実相を介して妙法になることに意味がある。
不思議の一も一念の一心法も不思議の妙体も文底秘沈も言語道断ではなくなり、文字として表されることを宣言したのである。
文字とはいえ実相を介して妙法と結ぶことが出来たのも一体の尊行が南無妙法蓮華経であると言い切ったからである。その結果、仏教史上初めて本尊を書き表すことが出来たのである。だからといって実相即文字や妙法即文字とするわけにはいかないだろう。
木絵二像開眼之事には「自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる」と述べ、色法、心法は互いに融通して不二であることを明かされている。
他の即論も見てみよう。まずは、凡身即仏身である。凡夫の身が、三大秘法の御本尊を信受することによってその身に仏界を涌現して仏身と顕れるといった意味で日蓮は使う。
本因妙抄に「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり、是を天真独朗の即身成仏と名く」と述べている。天真独朗は天台の異名でもある。何故、独一本門の即身成仏と言わなかったのか疑問は残るが、日蓮の天台に対する配慮なのだろうと考えておく。あるいは信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱える人自身にとっては天真独朗ということになるという意味なのだろうか。
また三毒即三徳という言葉もある。三毒がそのまま三徳と転ずることを言っていて、煩悩即菩提と同意である。三毒とは一切煩悩の根源である貪・瞋・癡の三煩悩をいい、三徳とは仏に具わる法身・般若・解脱の三つの徳をいう。三大秘法の御本尊を信じ、題目を唱える時、貪・瞋・癡の三毒が法身・般若・解脱の三徳と転じていけるというのである。
さらに三惑即三徳ともいう。三惑を三徳と開くことで、三惑は煩悩を三種に分別したもので見思惑・塵沙惑・無明惑である。爾前の諸経では煩悩を断じた後に悟りがあるとされるが、法華経では十界互具の妙理によって煩悩即菩提と開いた。更に末法の寿量文底下種の義では、妙法を信受することによって三惑を三徳へと開くことができると説く。
三毒の時は転じるといい、三惑の時は開くという。この転じると開くの違いにも人生にあっては大きく異なる。身についている毒は変える。迷う煩悩は新たな展望を開かせる。それが三徳の持つ力用ということになる。
まさに苦悩する人生にあって、人間を蘇生させることができると説かれている。悩みの苦海に溺れかけていた人間が、自身を蘇生させることができた実感を持てるとしたら凄いことである。この実感が妙法による蘇生の実証なのである。
この思想を国土として見たのが、地獄即寂光である。苦しみの境涯の地獄界がそのまま仏の住む常寂光土となることである。地獄とは苦悩の極致である地獄界をいい、寂光とは常寂光土の略で仏の住む国土をいい、仏界を意味する。
上野殿後家尼御返事に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし」と述べているように、衆生の一念に、苦悩の極致である地獄界も常寂光土と一体に存在しており、文底下種の御本尊を受持することによって、仏界を顕現することができるのであると日蓮はいう。
同様に娑婆即寂光ともいう。人間の住む娑婆世界がそのまま寂光土であることで、娑婆とは凡夫の住む世界、寂光とは寂光土、すなわち仏国土のことである。釈尊は爾前経や法華経迹門においては娑婆世界は穢土であるとし、二乗の住む国土を方便土、菩薩の住む国土を実報土、仏の住む国土を寂光土として区別した。
ところが法華経如来寿量品第十六にきて「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」と、爾前経や迹門で穢土と説かれた娑婆世界こそ仏国土であり、寂光土であることを説き明かした。また、娑婆は煩悩・生死の苦しみの世界であり九界をいい、寂光は解脱、涅槃の悟りの世界であり仏界をいう。
国土といっても当然のことであるが、国や地域、自然だけでなく家庭や職場をも意味しているので、人間関係に悩む人間の人生において蘇生の実証を示すことが可能なのである。
日蓮は当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」と述べ、妙法を信受することによって娑婆が寂光土となることを明かしている。
創価学会の仏法観を示した言葉に仏法即社会という即論がある。仏法と社会、世間が一体不二であることを言ったのだが、その根拠は法華経にある。すなわち、法華経法師功徳品第十九に「諸の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」と世間一般の言葉も仏法と違背しないことが説かれている。
この文を釈して天台は「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せざるが如し」と説明している。また日蓮は、白米一俵御書で「まことの・みちは世間の事法にて候」、「世間の法が仏法の全体」とも述べている。
法華経以前の経典では仏法と世間を別のものととらえ、世間を離れた出世間に悟りへの道があるとするが、法華経はそのような見解を退け、仏法と世間は一体であると説く。しかしこの意味は修行の場としての仏法と世間であって、世俗イコール仏法という意味ではない。
仏法は、信仰者個人の生活、人生に反映するだけでなく、政治、経済、教育、文化などの社会的次元の上にも現れるものである。したがって仏法の叡智を具体的な社会生活に反映させていくことが仏法者の使命であり「仏法即社会」の具体的な展開となると創価学会は主張する。
日蓮が強調した「立正安国」の原理も、この「仏法即社会」の法理を前提にしているのである。さらに池田名誉会長は、人間革命即立正安国という即論を述べる。筆者もこの思考に、現代的な即論として大いに共鳴している。さらに三大秘宝即人間革命、三大秘宝即平和教育文化といった展開を筆者は思考している。
他にも信心即生活と言ったりする。左辺が主語あるいは主体だと右辺が述語あるいは客体となる。信心は生活に影響し、生活は信心に収まるとでもいうことだろうと思う。けれども相即しにくいともいえる。
二物相合の相即、背面相翻の相即、当体全是の相即といろいろあるが、生活即信心と左右を入れ替えると生活していること自体が信心となり、仏道修行は生活していることで成立してしまうように思われる。
そこで様々に条件を付けることになる。これは受持即観心も同じで、受持に様々な条件を付ける羽目になる。受時即観心といっても観心即受持とはいわない。相即しないのは何を受持するかによって観心とならないことを意味するからである。もちろん悪用を避けるためでもあるのだが、このような理論展開が多いのも仏教理論の欠点といえるかもしれない。
事相即理体から冥合論へと展開できることも示しておきたい。即論は両辺の関係だけでなく、そこからさらに新展開できる余地を持っている。これは文字即実相、実相即妙法の展開からも理解できる。
そこで法体即譬喩・譬喩即当体を見てみようと思う。諸法の本体と、それを譬えた譬喩とは一体不二であるという。なんでと思ってはいけないのである。これにはこれなりの理由がある。法体とは諸法の本体、譬喩は法体を理解しやすい事例をもって譬えた二者まで不二一体となって、これは新解釈でもある。疑問に感じる前にまず楽しみたいと思う。
難解な妙法を蓮華に譬えて説き明かしたものである。華草の蓮華が花と実を同時に具えていることを、因果倶時に約して説き明かしたことによる。法華玄義巻七の下に「法の蓮華は解し難し、故に草華を喩と為す。利根は名に即して理を解すれば、譬喩を仮らず、但だ法華の解を作す。中下は未だ悟らざれば、譬えを須いて乃ち知る。解し易きの蓮華を以て、解し難きの蓮華を喩う」とある。
当体義抄に「劫初に華草有り聖人理を見て号して蓮華と名く此の華草・因果倶時なること妙法蓮華に似たり……譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕す」と述べている。
しかし、蓮華は、単に妙法を譬えていったものではなく、蓮華即妙法の当体そのものである。同抄に「凡そ法華経の意は譬喩即法体・法体即譬喩なり、故に伝教大師釈して云く『今経は譬喩多しと雖も大喩は是れ七喩なり此の七喩は即ち法体・法体は即ち譬喩なり、故に譬喩の外に法体無く法体の外に譬喩無し、但し法体とは法性の理体なり譬喩とは即ち妙法の事相の体なり事相即理体なり理体即事相なり故に法譬一体とは云うなり』」と説かれている。
法体を法性の理体とし、譬喩を妙法の事相の体とすることによって、新展開へと向かう。理は理体、理性に展開でき、事は事相、事法となる。理性とは普遍的な真理のことである。事相に対する語で、あわせて事理という。一切の事物・事象の中に本来そなわっている本性で、永遠に変わることのない根本的な法則・真理を意味している。
事とは、事物、できごと等の意味だが、仏教では事相、事法のこと。理に対する語で、一切諸法の差異的な現象面・事実面をいう。また縁起によって生ずる万有の相状のこともいう。
理が普遍性、平等性であるのに対して、事は個別性、差異性をいう。宇宙の森羅万象の事相が事で、事相を貫く普遍の法則が理である。理は法理、法則であるが、事とはその法からあらわれた具体的事実をいう。
すなわち理の実現、証明が事であり、これを実証という。仏に約せば、仏の所説の法門は理であり、仏の振る舞いが事となる。法華経においても、迹門では諸法実相に約して一念三千の法門が説かれるが、仏の振る舞いは説かないので理といい、本門では本因・本果・本国土の三妙が合わせ説かれ、仏の事実の振る舞いを通して一念三千が明かされるので事という。
法華経の本迹二門も日蓮仏教に対すれば理になることを、文底秘沈抄に「謂く、迹門を理の一念三千と名づく。是れは諸法実相に約して、一念三千を明かす故なり……又本門を事の一念三千と名づくるは、是れ因果国に約して一念三千を明かす故なり……今事の一念三千の本尊とは、前に明かす所の迹本二門の一念三千を以て通じて理の一念三千と名づけ、但文底独一の本門を以て事の一念三千と名づくるなり……当流の意は、而も文底独一本門真の事の一念三千に望むに、迹本二門の事理の一念三千を以て、通じて迹門理の一念三千と名づくるなり」と述べている。
天台の法門の法体が理であるのに対して日蓮の法門の法体が事であることについては、同じく「応に知るべし、体性は即ち是れ理なり。故に知りぬ、理を事に顕わすことを。是の故に法体猶是れ理なり、故に理の一念三千と名づくるなり、例せば大師の口唱を仍理行の題目と名づくるが如きなり。若し当流の意は事を事に顕わす。是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり」と述べている。
末法には天台のように真理を観ずる理行を用いず、直ちに事の一念三千の南無妙法蓮華経を本尊として実践修行する事行を行とする。そのほか理顕本と事顕本、事理の不惜身命などが立てられる。
本是理性という言葉がある。「本と是れ理性なり」と読む。一切衆生が本然にそなえている不変不改の本性のことで、仏性をいう。性とは不改を意味し、もともと仏性を具えている理体が終始改まらない性分を理性という。
三大章疏七面相承口決のうち、法華玄義七面口決の第四・八重浅深の一面の第四には「理体具足」とあり、本因妙抄には「名体具足」とあるが、同義である。化法の四教のうち円教を指していい、寿量品文底下種の義で解釈すると南無妙法蓮華経となる。
覚りの真如の理体そのものである理法身と、それを覚知する智慧である智法身に分けられる。理法身は法身に、智法身は報身の智慧身の側面である。覚りの対象となる真理に即する面が法身であり、その真理を覚知する智慧に即する面が報身であり、その法と智慧が縁に応じて現実社会に生起した慈悲などの働きに即する面が応身であるとしている。
法体とは法性の理体、理体の性分を理性、覚りの真如の理体そのものを理法身と展開していくのである。そしてこの理智が冥合することになる。

  

冥合の理智論=異時の時空
                       
冥合という用語は、理智冥合、理慧冥合、境智冥合、王仏冥合の四種類である。ただし理慧は、冥合以外に相応とも言ったりする。
日寛は「妙楽云く、一心三諦は境、一心三観は智云云。境智冥合其の体是れ一なり、譬へば月と光と和合して体一なるが如し……天台云く、心観明了、理恵相応云云。理恵相応は即ち是れ境智冥合なり」と述べている。
たぶん理智と理慧は同じ扱いなのだと思う。天台の言葉は、摩訶止観巻一下に観行即を釈して「必ず須らく心観明了にして理と慧と相応じ、所行は所言の如く、所言は所行の如くすべし」とある。
円教の修行位である六即の第三観行即位は、真如と智慧が相応じ、仏の言葉(経文)と衆生の修行が一致する位であると説いている。観行五品の第五正行六度品にあたる。
相応とは、丁度よい状態でつり合っているとか、身分相応と使われているように、ふさわしいといった意味である。
境智不二、理智不二のところで述べたが、それ以上の説明はしずらいのが本音である。ようするに不二と冥合の違いがあまりないのである。前にも述べたが、仏教用語としての相応、不二、冥合の定義が不鮮明で、ほとんど同義扱いなのである。
智と慧は本来は別々の定義があった。そして智慧も定義がある。それなのに理智と理慧は同じ扱いである。また理についても実に様々な使い方をしているので、一度定義されたことに拘ると意味が分からなくなる。その都度考えなくてはならない。しかしこれでは定義ではない。
とにかく仏教教学を理解しようと思ったら忍耐力と応用力が最も必要なのだと実感させられる。
理智冥合とは、観じられる道理、法(理)と、それを観ずる智慧(智)とが深く融合して一つになることをいい理智相応ともいう。
理と智は、相応じるくらいに丁度良い関係なのだろう。こんな関係を冥合と言うらしい。また理とは不変真如の理、智とは随縁真如の智のことで、依義判文抄に伝通記巻下を引用して「故に第三重に於て多宝塔を安んじ塔中に釈迦多宝の二仏像を安んじて、一乗深妙、理智冥合の相を表す」とあるように、法華経宝塔品における宝塔の中の釈迦・多宝の二仏並坐は、理智冥合の相を表しているという。
けれども元来、釈迦・多宝は、境智ではなかったのだろうか。このままだと理智と境智は同じ扱いになる。またこの場合の理は、道理、法理の理となり、理事の理ではないことに不思議さを感じる。
また理を如と名き、智を来という。すなわち理智は、如来をも意味するとなるとまったく別視点である。この場合の如来は三身如来の意味から理智を当てはめたのであろう。法身理智、報身理智、応身理智と言い換えてもなんの意味も新しい展開もない。
境智冥合の境は万法の体、智は自体顕照ともいう。多宝仏(境、法身)と釈迦仏(智、報身)が並座するを冥合としている。不変真如の理と万法の体を同じだとしてもいいのだろうか。
不変真如の理は、体ではないと思う。法理はあくまでも法理であって万法の理でもある。体は事であって理ではない。ところが法身を理体ともいい、これを略して法理といっているのだろうか。
境智不二のときの境は客観的世界(環境)を対境とすることであり、智は主観的智慧を意味していた。そして認識し評価する主観的智慧(智)と認識・評価の対象として客観視した世界(境)が一体不二であると。
智慧が観照するところの十如、十二因縁、四諦などの境(対境)は、総じては一念の心にあって、円融相即して色心不二であり、別しては色法と心法の二つに分けられるとして説明を終わらせる。
天台家では、観法を成じるために、色心を一念に摂して不二を成じ、一念から色心の諸法を生じるとするのである。
境智冥合のときの境も不二のときと同様の説明になる。これでは不二と冥合が同義となって、なぜ、冥合なる用語を考え付いたのかの説明がなされていないように思える。
冥合という用語は、御書には5か所しか出てこないので、少々資料不足である。日寛は人生の最後に末期の一偈一首をしたためた。その中に「境智互に薫じ、朗然として終に臨む」の一節がある。薫じるとは香であり善き法の香ともいうべきもので境智の二法が互いに薫じ合うとして冥合の原理の素晴らしさを称えている。
それほどに冥合なる言葉は素晴らしいのだろうか。相応ともいうが、身分相応という丁度良いといった意味は差別的である。目下の者に高望みするなというときにも使われる言葉である。
日寛の観心本尊抄文段に「事の一念三千と名づくる所以は、この本地難思の境智の妙法に即ち御主有り。所謂蓮祖聖人これなり。故に蓮祖聖人の御振舞は、全くこれ本地難思の境智の妙法の御振舞なり。故に事の一念三千と名づくるなり」とある。日寛流の境智冥合の解釈である。末期の一偈一首の想いが伝わってくる。
たとえば一念三千即自受用身の場合、一念三千が自受用身に冥じて、自受用身が一念三千に合していくことで現実化するとすれば、主体は自受用身であり、自受用身は他のものに導かれるのではなく自身の立場において存在することになる。
一念三千という客体は、主体となる自受用身に対応した形で存在するもので、主体の作用の及ぶ存在となる。したがって認識論的に見れば主観の認識および行為の対象となりながら、主観の作用とは別に存在する客観的な認識論となる。
もちろん仏教の法理には主観も客観もないのだが、あえて西洋哲学的表現を使えばこうなるという程度の意味である。けれどもこれが一念三千と自受用身の関係性であると考えてもいいのではないかと筆者は思う。これが私の主観である。
境智冥合とは、開近顕遠・本地難思・本有無作の当体蓮華と同意であるというが、なぜ不二や即、相即ではなく冥合といった概念が生まれたのだろうか。
九界の衆生の智は仏界を対境とし、仏の妙智は九界の衆生を対境としてそれぞれが境智冥合するといった場合は、仏界と九界が冥合することではなくなる。それぞれが境智冥合する九界と仏界は、即で結ばれている。ここが即と冥合の違いなのである。
九界の衆生の智は、仏界という対境と境智冥合することになり、また仏の妙智は九界の衆生を対境として境智冥合する。したがって九界と仏界が不二なら境智不二であり即ならば境即智となるが、九界仏界冥合にはならない。
煩悩即菩提についても考えてみよう。煩悩と菩提が融合して存在するといった説明では、煩悩菩提冥合となってしまう。煩悩が菩提に冥じて、菩提が煩悩に合するとしたとき、煩悩と菩提の存在は、煩悩が基体である菩提に冥じ始めて合し終わる形で存在する。
これでは菩提が煩悩に合していくことによって現実化するといった説明の仕方になってしまう。冥合は不二や即と違って同時でも俱時でもなく異時を前提に成立する考え方で、かなり現実的な側面がある。
冥合とは二つの同時現象の時間差である。そして冥合の初めを因、冥合の終わりを果という因果関係が成立する。ここでいう初めとは縁のことである。冥合し終われば、冥合した形で存在するので、その時点で再び同時となる。同時に存在する即と同じになる。とはいえ俱時ではないので相即する存在とは異なることになる。
したがって煩悩即菩提のような相即できる両者を冥合させるということはしない。むしろその場合は空間的に不二の状態となる。
冥合は時間的に異時が前提で、冥合し終われば不二の存在となるといえる理論である。冥合以外にも冥符、和合、融合、相応、一如、契合、合してと表現は様々である。このなかには融合、一如といった他の意味合いで使用されるものもあるが、冥合と同義で使用した場合は、これらに対しても同様の解釈がされる。
なぜこうなるのかというと、冥合される二者の存在が、顕現・冥伏とは異なる存在だからである。不二や即論では語り尽くせなかった現象面をなんとか説明しようとして生まれた法理である。
妙境妙智における説明にあって、本地難思の境と智のことを意味する妙境妙智、思い難きゆえに妙境妙智というからである。
冥合という概念は、奥深く合一して滞りのないことをいう。冥々裡の合一の意味である。複数の事物事象が、極めて自然のまま、それぞれの本性はそのままで無作に合一した一体不二の関係を言うとなっている。
したがって冥合は、どういう状態、状況、姿形で融合しているかは、問題にしていない。ただ因縁果において相性体が異時間をもって合一するための原理である。ここが円融や円満と異なる点である。その意味において冥合という概念は円融・円満に至る過程の原理といえる。
日蓮にあっては、久遠元初の自受用身即本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経のことなので問題はないが、天台・妙楽・伝教は冥合論を駆使せざるを得なかったのである。
所観の対象(境)と、それを観ずる智慧(智)が深く融合しあうことがどうしても必要であったのである。
天台は法華文句巻九下に「境と智と和合すれば、則ち因果有り。境を照らして未だ窮めざるを因と名づく。源を尽くすを果と為す」と説き、境智和合の初めを因とし、境智和合の終わりを果として、刹那始終一念の因果であるとしており、境智冥合が九界即仏界、即身成仏の境涯であることを示したかったのである。
そこでまず御書に出てくる冥合の5か所を引用してみよう。
①一念三千理事に「報身とは大師の云く『法如如の智如如真実の道に乗じ来つて妙覚を成ず智如の理に称う理に従つて如と名け智に従つて来と名く即ち報身如来なり盧舎那と名け此には浄満と翻ず』と釈せり、此れは如如法性の智如如真実の道に乗じて妙覚究竟の理智・法界と冥合したる時・理を如と名く智は来なり」とある。
法華文句巻九下に報身如来を釈した文である。真如の理によって真智を起こし、仏道を成じて妙覚位を証得する。また、理は智によって顕在化する。如来の如は理(真如)に従うゆえに名づけ、来は智慧に従って妙覚位に来至するゆえに名づける。したがって妙覚究竟の理智は妙法を顕現することによって衆生の色心の上に得られ、それを如来というといった意味である。
果位は因位の修行によって得られる果報・仏果の位、究竟は無上・至極の居、妙果は仏果と同意である。修禅寺相伝日記に「果位究竟の妙果を聞き、此の果を得んが為に種種の三観を修す」とある。妙覚究竟の果と同意で、天台・止観の修行によって証得される仏果をいう。
②御義口伝下に「普門品五箇の大事、第一無尽意菩薩の事、御義口伝に云く無尽意とは円融の三諦なり、(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は末法の無尽意なり、所詮無とは我等が死の相なり尽とは我等が生の相なり意とは我等が命根なり、然る間一切の法門・境智冥合等の法門意(命根)の一字に之を摂入す此の意とは中道法性なり法性とは南無妙法蓮華経なり」とある。ここのところは円融について述べるところで筆者なりに解説するつもりである。
③当体義抄に「問う如来の在世に誰か当体の蓮華を証得せるや、答う四味三教の時は三乗・五乗・七方便・九法界・帯権の円の菩薩並びに教主乃至法華迹門の教主総じて本門寿量の教主を除くの外は本門の当体蓮華の名をも聞かず何に況んや証得せんをや、開三顕一の無上菩提の蓮華尚四十余年には之を顕さず、故に無量義経に終不得成無上菩提とて迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云うなり、何に況んや開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば迹化弥勒等之を知る可きや」とある。
④曾谷殿御返事に法華経方便品第二、法華玄義巻三、法華玄義釈籤巻七の文の意を取られて「法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云、釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と、(中略)而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり」とある。
⑤三大秘法抄(三大秘法禀承事)に「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」と。
王法が仏法に冥ずるとは、王法が仏法の慈悲の精神、法理などに冥々のうちに基づいていくということである。
冥ずるとする二者は主客の関係を意味している。冥とは顕に対する語で、表立たないの意、奥深い次元をさしている。王法の理想は民衆の福利にあり、その理想を実現していくことがそのまま仏法に冥ずることになるからである。
仏法が王法に合するというのは、仏法の生命尊重の法理、慈悲の精神などが、仏法を持った人々の社会での活躍を通じて、現実にあらわれていくということで、世間法のなかに仏法の精神があらわれ、契合することをいう。したがって単純に政治と宗教が権力的に合することではない。
すなわち合するとは顕現することである。合して現実化する。冥合とは、基づいて現実化することと考えられる。
王仏冥合は次の解説でよくわかると思う。とりたてて天台教学と比較する必要はないだろう。仏法が人間を媒介にして王法の根底となることであり、仏法がそのまま王法にあらわれてくることではない。
したがって、王仏冥合とは、仏法を土壌として一切の政治・文化の草木が生長発展する姿としてとらえることができる。たとえば政治の面では、仏法が直接的な形で政治にあらわれるのではなく、仏法の生命尊重、慈悲の精神が政治の根本理念として、また政治にかかわる人を介して、政治に具現されることをいう。
仏法は、単に個人の段階にとどまるのではなく、その法を広く社会に反映し、理想的な平和社会の建設を目指すことが重要な目的となる。いまや世界平和が広宣流布の異名である。
また当流行事抄には「知は謂く、能成の智、此れ即ち無作の報身なり。我が身等は所成の境、此れ即ち無作の法身なり。境智合する則は必ず大悲有り。大悲は必ず用を起こす。起用は即ち是れ無作の応身なり」とある。
日寛は、このように冥合における力作をも解説している。仏の智慧は甚深無量であって、宇宙法界を境として、究めた実相が境智冥合の当体であり南無妙法蓮華経であるとなる。
さらに観心本尊抄文段には「久遠の故に『五百塵点』といい、元初の故に『当初』というなり。『知』の一字は本地難思の智妙なり。『我が身』等は本地難思の境妙なり。この境智冥合して南無妙法蓮華経と唱うる故に、『即座に悟を開き』、久遠元初の自受用身と顕るるなり。大師の所謂『無始色心、妙境妙智』はこれなり」とある。日蓮は明快であるが、日寛もまったくぶれなく一貫とした理論展開である。
次に、末法の衆生の信心に即していえば、境とは三大秘法の本尊であり、衆生の信心を智という。「以信代慧」の理によって境智冥合して信心が智慧となるのである。
本尊を信じて唱題する時に境智冥合し、即身成仏の功徳を得られるのである。そのことを文底秘沈抄には妙楽の止観輔行伝弘決巻一を引いて「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざれば、智行も亦随って正しからず。妙楽大師謂える有り。『仮使発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し。若し正境に非ずんば縦い偽妄無きも亦種と成らず』等云云」と示している。
 ついでに言うと、和合という言葉は冥合より多いが、冥合ほど深刻な定義はなく、現代文とさほど違いない意味合いで使用している。
             
                            
                            
円融円満の実体論=俱時の時空
                            
不二、即、相即、冥合と見てきたがこれらと円融はどこが違うのかを考えてみたいと思う。
円融相即を法華経の妙理というが、説明上では「一法に一切法を具し、一切法は一法に収まっている」という説明がなされている。この具収の関係は不二とまったく同じである。それでは、円融などという用語自体の存在意味がないだろう。
不二相即と円融相即は、まったく同義であるなら円融という用語を思いついた理由の説明がまったくなされていない。みんなこれで納得してきたことが不思議である。
御義口伝下に「普門品五箇の大事、第一無尽意菩薩の事、御義口伝に云く無尽意とは円融の三諦なり、(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は末法の無尽意なり、所詮無とは我等が死の相なり尽とは我等が生の相なり意とは我等が命根なり、然る間一切の法門・境智冥合等の法門意(命根)の一字に之を摂入す此の意とは中道法性なり法性とは南無妙法蓮華経なり」とあり、ここでは命根を意としている。
命根とは現代文で言えば生命のことである。生命を維持する能力。生命力。個体の生命機能。根は機能・能力などの意味である。
三世諸仏総勘文教相廃立に「仏語を悟り極むるなり起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し片時も相離れず仏法に不足無し一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり、断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり」とある。
すなわち自他不二では、説明しきれなかったから自他を相即円融と定義し直したのであると考えるのが自然である。さらに生死も涅槃も跡形も無い無分別とある。而二が前提の不二論だけでは、とても増円妙道の仏法を語ることが出来ないことを日蓮は主張しているのである。
円満であって偏らず、融通性があって分け隔てがないことを円融というが、一切法が互いに融合し、さらに一法に一切法を具し、一切法は一法に収まって本然一体をなすことになる。 
相即は、諸法の体において互いに融け合い、礙げがなく、一体不二のことと言い直す。もともとそういった意味であったというのは言い訳に聞こえる。
そして今度は、円融の説明にいきなり円満という新語が登場し、具しが円満の意味であることと収まることが本然一体であると定義し直す。そして融合が一体不二の意味であるという。
円融の一心三観とは、万法に三諦の理が円融相即していることを一心に観ずること(観ずるのは一心ということか)である。一心三観は天台宗の奥義で、一心において空・仮・中の三諦を観ずること。不次第の三観、三一相即の三観ともいう。万法の差別の現象を究竟してその本性を観ずれば、本来そのままで三諦を具えており、しかも空仮中のそれぞれが他の二諦を具えて互具していることから円融平等であるともいう。
修禅寺相伝日記に「理性法界の処に、本従り已来三諦の理有り。三諦互いに円融なれば、九箇を成ず」とある。
互いに円融なので九箇になっても再び三諦に統合する。統合も円融の意味となって円融三諦は、諸法が分離、統合を繰り返してやっと実相にたどり着く。そして全体の諸法と実相は、三諦互具となって円融三諦となる。
そこで円融の三諦についてみてみたい。一念三千三諦と並び称される天台教学におけるこの重要な法門がなぜそれほど重要なのであろうか。円の姿を具体的に表現したからにほかならない。三諦論以外は円融なり円を欠けることのない完結したものという意味合いで語るのみで、具体的にその様相を理論展開していない。
三諦の空仮中は、まず諸法を空仮中に分別し、それぞれに空仮中を配して九個とする。そして次に即空、即仮、即中と統合して再び即三諦にし、さらにこの即三諦を実相に集約して、諸法実相を説明する手法を用いている。ゆえに円融という。もちろん他で使用している円融も同様の手法を用いて説明できるのだろうが、三諦論以外ではこのような説明はしていないで、単に円融というのみである。
竜樹は「若しは生若しは滅、皆な生に属す。涅槃は但空、唯だ寂滅に属す。此の生ならず、此の滅ならず、双べて二辺を遮す。豈に含別の意に非ずや。若し生滅是れ因縁所生の法、即空即仮即中ならば、即空の故に不生、即仮の故に不滅、不生不滅は即ち是れ中道なり」という。竜樹の不二論、即論は天台思想の根幹に存在するものと思われる。
空と即空、仮と即仮において即の働きは、生と不生、滅と不滅となる。生滅は現実の諸法の姿であり、不生不滅は現実の本性すなわち実相ということになる。不生不滅とは、常住のことを指す場合もある。不生は生じないこと、不滅は滅びないことで大涅槃の意味ともなる。維摩詰所説経巻中に「生と滅を二と為す。法は本不生なり。今は則ち滅無し。此の無生法忍を得るは、是れ不二法門に入ると為す」とある。
三諦は、三諦互具にして円融相即として説明し、その他は不二、即、相即、冥合で円融と同義的な説明をしていく。
不二円融、不二相即そして相即円融となり、さらに円融平等という新語まで飛び出す。同様に円融無碍という新語も生み出される。円満に融通して障りのないことで、一切諸法の事理があまねく融けあって一体不二であるという。この原理も法華経の妙理という。
三諦とともに出てくるのが三観である。天台宗では、妙法蓮華経の五字のそれぞれに一心三観を配しているが、そのうち法に配したものを円融の一心三観という。妙法蓮華経の法の一字に諸法の円融の一心三観の体性、功徳が包含されて三観も一心に円融しているという。
事理、法界、理性、境智もことごとく円融であるというのだが、日蓮から見れば、迹門は円融、本門は円満となる。さらに独一本門から見れば本迹あわせて迹門となり、円融も円満どちらも迹門となる。
御義口伝に「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す、日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は衆生有此機感仏故名為因の人なり、夫れが為に法華経の極理を弘めたるは承機而応故名為縁に非ずや、因は下種なり縁は三五の宿縁に帰するなり、事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり、一とは一念・大とは三千なり此の三千ときたるは事の因縁なり事とは衆生世間・因とは五陰世間・縁とは国土世間なり、国土世間の縁とは南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり」さらに「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり、釈に云く『円は円融円満に名け頓は頓極頓足に名く』と之を思う可し云云」と。
すこし本題からはずれるが、御書の中でよく「南無妙法蓮華経の五字」と書かれていることがあるが、ここで云う五字は、釈迦の妙法蓮華経(理法)ではなく事法の妙法蓮華経のことで「諸法の心」を意味している。南無妙法蓮華経は事の事であり「一切の衆生の慈悲の心」である。したがって「南無妙法蓮華経の五字」と表現されていれば事法の妙法蓮華経となる。文字の数え間違いなのではない。また「妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり」の妙法蓮華経も釈迦の妙法蓮華経のことではなく事法の妙法蓮華経のことであるの当然である。さらに「此の五字出世の本懐なり 之を名けて事と為す」も同じ意味となるので「事」というのである。さらに「出世の本懐」というのは法体の南無妙法蓮華経のことではなく、事法の妙法蓮華経を本門の本尊とした三大秘法の建立のことであるから「所謂」と云われているのである。
また曰く「地獄餓鬼の己己の当体其の外三千の諸法其の侭合掌向仏なり而る間法界悉く舎利弗なり舎利弗とは法華経なり、舎とは空諦利とは仮諦弗とは中道なり円融三諦の妙法なり舎利弗とは梵語此には身子と云う身子とは十界の色心なり身とは十界の色法子とは十界の心法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は悉く舎利弗なり、舎利弗は即釈迦如来釈迦如来は即法華経法華経は即我等が色心の二法なり、仍て身子此の品の時聞此法音と領解せり、聞とは名字即法音とは諸法の音なり諸法の音とは妙法なり、爰を以て文句に釈する時長風息むこと靡しと長風とは法界の音声なり、此の音声を信解品に以仏道声令一切聞と云えり一切とは法界の衆生の事なり此の音声とは南無妙法蓮華経なり」と。
さらに「第三身意泰然快得安穏の事 文句の五に云く従仏は是れ身の喜を結するなり聞法は此れ口の喜を結するなり 所作には題目の五字なり余行を交えざるなり、又云く十界の語言は一返の題目を倶作したり、是れ豈感応に非ずや」と。
さらに「第七以譬喩得解の事 止観の五に云く智とは譬に因るに斯の意徴し有りと。御義口伝に云く此の文を以て鏡像円融の三諦の事を伝うるなり、惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり此の鏡とは一心の鏡なり、惣じて鏡に付て重重の相伝之有り所詮鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し、又云く鏡に於て五鏡之れ有り妙の鏡には法界の不思議を浮べ・法の鏡には法界の体を浮べ・蓮の鏡には法界の果を浮べ・華の鏡には法界の因を浮べ・経の鏡には万法の言語を浮べたり(中略)自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり」
「仏性とは法性なり法性とは妙法蓮華経なり云云」 得大勢菩薩の事 円融の三諦三身なり 第三威音王の事 色心不二を王と云うなり
第一無尽意菩薩の事 三諦法性の妙理を三諦の観世音と三諦の無尽意に対して説き給うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は末法の無尽意なり、所詮無とは我等が死の相なり尽とは我等が生の相なり意とは我等が命根なり、然る間一切の法門・境智冥合等の法門 意の一字に之を摂入す此の意とは中道法性なり法性とは南無妙法蓮華経なり、仍つて意の五字なり我等が胎内の五位の中には第五番の形なり、其の故は第五番の姿は五輪なり五輪即ち妙法等の五字なり、此の五字・又意の字なり仏意とは妙法の五字なり此の事・別に之無し、仏の意とは法華経なり是を寿量品にして是好良薬とて三世の諸仏の好もの良薬と説かれたり森羅三千の諸法は意の一字には過ぎざるなり、此の仏の意を信ずるを信心とは申すなりされば心は有分別なり倶に妙法の全体なり」と。
「法華経八巻は処なり無量義経は無量義なり、無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり法華経に於一仏乗・分別説三と説いて法華の為の序分と成るなり、爰を以て隔別の三諦は無得道・円融の三諦は得道と定むる故に四十余年未顕真実と破し給えり」とある。
円融と円満の表現の違いは、溶け合った状態で合していることと一致していて完全に同じである。
二者が而二でありながら溶け合って合致した状態でありながらなおイコールであるとは言えない二者の存在を溶け合って一体となっていると表現せざるをえなかったので円融というのだろう。
日蓮仏法より判別すれば、円満という表現が一番、文底独一本門に近いと思われる。円満については十八円満の法門がある。天台宗の奥義とされる十八円満の法門は、修禅寺相伝日記に「蓮の五重玄とは、蓮をば華成果の義に名づく。蓮の名とは十八円満す。故に蓮と名づく」とあるように、妙法蓮華経の蓮の一文字について天台が五重玄(名体宗用教)をもって解き明かしたもので名玄義をいう。
五重玄を釈名、弁体、明宗、論用、判教と名付けて解説している。この釈名(蓮名)は十八種の円満と当体円満からなっている。続いて蓮体・蓮宗・蓮用・蓮教が明かされていく。『蓮の体』から『蓮の経』の解説は省略させてもらう。
日蓮は、妙法蓮華経の五字即五重玄であると述べて、五字の中に本迹二門はもとより、一切の万法を摂しているとされ、一字に一玄を配され、妙の字を名玄義としている。また四重浅深を釈した中で、名体宗用教の五重玄を四重浅深の上から論じ、本因妙抄に「名の四重有り……四には名体不思議是れ観心直達の南無妙法蓮華経なり」と結論する。
最蓮房御返事(十八円満抄)における円満の意味を見てみよう。
①性円満については「万法悉く真如法性の実理に帰す。実性の理に万法円満す。故に理性を指して蓮と為す」
②修行円満とは「有相無相の一行を修して円満なるが故に、一行を指して蓮と為す」
③化用円満とは「心性の本理に諸法の因分有り。故に此の因分に化他の行用を具するが故に、蓮と名づく」
④果海円満とは「諸法の自性を尋ぬるに、悉く本性を捨し、無作の三身を成ず。法は無作の三身に非ること無し。故に名づけて蓮と為す」。果海とは仏果、仏界の広大さを海に例えた語である。
⑤相即円満とは「煩悩の自性全く菩提にして、一体不二の故に蓮と為す」
⑥諸教円満とは「諸仏内証の本蓮に、諸法を具足して、更に闕減無し」
⑦一念円満とは「根にして而も不二、闕減無く具足するが故に」
⑧事理円満とは「一法の当体、二にして而も不二、闕減無く具足するが故に」
⑨功徳円満とは「妙法蓮華経に万行の功徳を具して、三力の勝能有るが故に」
⑩諸位円満とは「一心を点ずるに、六即円満す」とある。
⑪種子円満とは「一切衆生の心性に、本自り成仏の種子を具す。権教に種子の円満無きが故に皆成仏道の旨を説かず。皆成仏道の旨を説かざるが故に、蓮の義無し」
⑫権実円満とは「法華実証の時は、実に即して而も権、権に即して而も実、権実相即して闕減無きが故に」(説法)
⑬諸相円満とは「一一の相の中に皆な八相を具す。一切諸法、常に八相を唱う」
⑭俗諦円満とは「十界百界、乃至三千の本性は、常住不生不滅なり。本意を動ぜず、当体即理の故に」
⑮内外円満とは「非情の外器に内の六情を具す。有情数の中に、亦た非情を具す。余教は内外円満を説かざるが故に、草木成仏すること能わず」
⑯観心円満とは「六塵六作常に心相を観じ、更に余義に非ず」
⑰寂照円満とは「法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく」
⑱不思議円満とは「不思議円満謂く細しく諸法の自性を尋ねるに非有非無にして諸の情量を絶して亦三千三観並びに寂照等の相無く大分の深義本来不思議なるが故に名けて蓮と為るなり」
「此の十八円満の義を以て委く経意を案ずるに今経の勝能並に観心の本義良とに蓮の義に由る、二乗・悪人草木等の成仏並びに久遠塵点等は蓮の徳を離れては余義有ること無し、座主の伝に云く玄師の正決を尋ねるに十九円満を以て蓮と名く所謂当体円満を加う」と。
⑲当体円満とは「当体の蓮華なり謂く諸法自性清浄にして染濁を離るるを本より蓮と名く、一経の説に依るに一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り男子は上に向い女人は下に向う、成仏の期に至れば設い女人なりと雖も心の間の蓮華速かに還りて上に向う、然るに今の蓮仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る若し機情に就いては此の蓮華譬喩の蓮と成る」
なお修禅寺相伝日記には「十三」が二つ連記されているが、十八円満抄では相伝日記の「十三には説法」の文字が欠落しており、第十三を説いた文を第十二権実円満の項につらねている。
さてここまで読んできた読者は、ふと、こんな感想を持ったのではないかと思う。要するに蓮とは当体蓮華のことなら、なにも十八、十九に分けて解説する必要などなかったのではないか。初めから当体円満の一つで済むのではないかという疑問である。
さらに不二や即で用いた権実、内外、寂照等の説明とどこが違うのか。ただ不二を円満と言い換えただけのような説明である。
これでは、円満、満足の意義が表現できないのではないか。いくら説明内容が似てしまっても円満にする理由があるはずである。不二や即や冥合では不満足であった理由でもある。
不二という静的空間性から、即という同時間概念を用いて動的にし、冥合という異時間概念を用い、さらに冥合を円融という俱時間概念を用いて言い換え、最後は、円融を円満に言い換えることによって実体、実相、実性に近づいて行ったといえる。
諸法は六感で感じ取れても実相は、何をもってその存在を実感すればいいのかである。実相を神にすることはできないので神の存在問題と実相の存在問題は根本的に異なる。それはあくまでも人間存在の内に人間自身が実感できるとするのが実相である。
この十九の円満を見るとわかることがある。そのいい例が権実円満である。円満は実教の立場から述べたものである。観心円満にいたっては衆生の日常の振る舞いが仏の振る舞いとなっている。これらは皆、法華経を知ればという条件付きであることだ。当然、末法においては南無妙法蓮華経を受持することが条件となる。すべての円満はこのような条件が設定されているのである。
玄師の正決について追加しておく。玄師は中国天台宗の玄朗のことである。正決とは正しい判決の意味で、道邃から伝えられた法門では十八円満をもって蓮と名づけるとしている。しかし行満の伝える玄師の正決、即ち玄朗の伝える天台の正しい法門は、十八円満に当体円満を加えて十九円満をもって、蓮と名づけるとある。
正しい判決、正しい決定等の意味でもある。修禅寺相伝日記には伝教が中国天台宗の道邃和尚(妙楽の弟子)から十八円満の秘法を相伝されたとあり、更に「座主の伝に云く玄師の正決を尋ぬるに十九の円満を以て蓮に名く。所謂、当体円満を加ふ。当体円満とは当体の蓮華なり」とある。
即ち妙法蓮華経の「蓮」の一字から衆生の生命に十八円満の義を具すと相伝したが、玄郎(妙楽の師)が伝持した天台の正しい法門と決定すべきものは十八の円満に当体円満を加えること、即ち当体蓮華をもって第十九円満とするとの意味である。
「当体円満とは当体の蓮華なり謂く諸法自性清浄にして染濁を離るるを本より蓮と名く、一経の説に依るに一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り男子は上に向い女人は下に向う、成仏の期に至れば設い女人なりと雖も心の間の蓮華速かに還りて上に向う、然るに今の蓮仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る若し機情に就いては此の蓮華譬喩の蓮と成る」と言う。
日蓮は、十八円満抄においてもこの修禅寺相伝日記の文を引いて、「十九円満を以て蓮と名く所謂当体円満を加う、当体円満とは当体の蓮華なり謂く諸法自性清浄にして染濁を離るるを本より蓮と名く」と述べている。
ありのままの本性を当体といい、本性とは諸法の本体のこととすると性と体の差別はなくなる。差別があるのは相だけとなる。しかし本性とは諸法の本来的性分であって、本体ではない。
本来的相分を実相といい、この実相と本性が本体に具わって収まるから当体と呼ぶのである。ひとりの人間に具わっている相分と性分は、本来的に具わっている実相を本性と観ることで、人間自身に身体が本体であると知ることによって、衆生の本体が当体になるのである。西洋哲学的な言葉を使えば本来的自己となるのだろう。
いろんな用語を持ち出して、それらを関連付けながら、話はどんどん広がってしまう。そのうちに前に定義したはずの用語も別の意味を持って意味的に拡大されて、しまいには別の定義づけが行われてしまうことが起きる。
一つの用語の定義が二つにも、三つにもなっていく。そして定義の意味を成さなくなり、定義はなくなる。あとは後世の人が自分なりに新定義を作って悟ったような顔をする。
当体義抄文段に日寛が当体義抄について詳細している。内容は当体義抄を大意、釈名、入文判釈に立て分けて、詳釈している。①大意。本抄は、御本尊を受持することによって我が身が妙法蓮華の当体と顕れる証得を明かした書で、教行証のうち証の重にあたるとしている。
事の一念三千の本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、本門寿量の当体蓮華仏であると結論している。他は省略させてもらう。
日蓮仏法と天台教学の関係は、十八円満抄に説かれている。曰く「助行には用ゆべきなり正行には唯南無妙法蓮華経なり、末法に入つて天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は必ず無間大城に墜ちんこと疑無し」の言に尽きる。
円満に具えるという表現の意味合いは難しい。円満でない具わりかたはどんな具わりかたなのだろうか。そして一体不二、相即ならすべて円満となるのだろうか。
人間を観察すれば外観である肉体に六情(喜・怒・哀・楽・愛・憎)の感情があらわれ、また肉体にも髪、爪等の非情を具えている。
そして有情の生命と非情の草木国土が不二であるという。故に法華経は草木成仏を説き、ここに一念三千の理が円満となるという。ここで言う円満の意味は不明である。また寂照が止観となるからといって何故それが円満になるのか意味は不明である。
十八円満抄以外で御書の中にある円満について見てみようと思う。唱法華題目抄に「実には一仏に一切仏の功徳をおさめず今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて十方世界の三身円満の諸仏をあつめて釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に一仏・一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし」とある。
八宗違目抄に「菩提心義の三に云く一行和上は元是れ天台一行三昧の禅師なり能く天台円満の宗趣を得たり故に凡そ説く所の文言義理動もすれば天台に合す」
立正観抄に「今問う天台の本意は何法ぞや碩学等の云く『一心三観是なり』今云く一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども尚以て行者修行の方法なり三観とは因の義なるが故なり慈覚大師の釈に云く『三観とは法体を得せしめんが為の修観なり』云云」
御議口伝上方便品に「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり、釈に云く「円は円融円満に名け頓は頓極頓足に名く」と之を思う可し」
御講聞書「我等衆生の眼耳等の六根に妄執を起すなり、是を境界性と云うなり、権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は、此の境界性の外に、三因仏性の種子なし、是れ即ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり、此の種性を、権教を信ずる人は之を知らず此の経を謗るが故に、凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり、されば六道の衆生も三因仏性を具足して、終に三身円満の尊容を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に、六道の仏種をも断ずるなり」
法華経題目抄に「迹門十四品の一妙・本門十四品の一妙合せて二妙、迹門の十妙本門の十妙合せて二十妙、迹門の三十妙・本門の三十妙合せて六十妙、迹門の四十妙・本門の四十妙・観心の四十妙合せて百二十重の妙なり、六万九千三百八十四字一一の字の下に一の妙あり総じて六万九千三百八十四の妙あり、妙とは天竺には薩と云い漢土には妙と云う妙とは具の義なり具とは円満の義なり、法華経の一一の文字・一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり、譬えば大海の一の水に一切の河の水を納め一の如意宝珠の芥子計りなるが一切の如意宝珠の財を雨らすが如し」
一念三千法門に「本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり」と説いている。
また同抄には「只天台の御料簡に十如是と云うは十界なり此の十界は一念より事起り十界の衆生は出来たりけり、此の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり」と。
しかし、いまだ十界互具の義が分明でなかったので、方便品第二の開示悟入の文に「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう」とあるように、九界の衆生に仏界を具することを明かし、十界互具の義を分明にさせ、更に譬喩品第三より授学無学人記品第九に至るまで、譬喩を用い、因縁を説いて、重ねて二乗作仏、十界互具を明かしたので、これを広開三顕一という。
十法界事に「然るに今法華方便品に『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』と説き給う爾の時八機並に悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り互に五眼を具し一界に十界を具し十界に百界を具せり」と。
御議口伝下一廿八品悉南無妙法蓮華経の事に「御義口伝に云く一経とは本迹二十八品なり唯四とは名用体宗の四なり枢柄とは唯題目の五字なり授与とは上行菩薩に授与するなり之とは妙法蓮華経なり云云、此の釈分明なり今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり廿八品は用なり廿八品は助行なり題目は正行なり正行に助行を摂す可きなり云云」
最蓮房御返事(十八円満抄)「問うて云く今の文は上行菩薩等に授与するの文なり汝何んが故ぞ己心相承の秘法と云うや、答えて云く上行菩薩の弘通し給うべき秘法を日蓮先き立つて之を弘む身に当るの意に非ずや上行菩薩の代官の一分なり、所詮末法に入つて天真独朗の法門無益なり助行には用ゆべきなり正行には唯南無妙法蓮華経なり」
日蓮にとっては、法華経・不二・即・相即・冥合・円融・円満といってもすべて助行として使える程度といったものであった。したがってそれほど深刻に解釈問題を云々することはないのだろうが、悪用されたり、誤解の元にならないようにはしたいものである。
人間は時代と環境の中で様々な幸福感と苦悩感を味わいながら人生を全うしていくことになる。
同じであって、同じでない。同時であって同時でない、異時であって異時でないという存在を創価学会は生命とする。なんでもかんでも生命あるいは生命現象とするのではなく、しっかりと生命の定義をしておくことが、大事である。
筆者流に定義すれば「生命とは有情の生命と無情の生命があり、この有無の二心は無分別で、これを生命とも一念の一心法ともいう」となるのだろう。またこれを究竟の即とも不二一体ともいうのである。
九界は迷いの度合いで立て分けた分類に過ぎないとすれば、もともとは迷悟の二つしか無かったといえる。そうであれば十に分類すること自体無意味なことである。そして三千ではなくなる。三千でなかった場合でも同様の理論展開は可能である。
衆生本有の妙理とは妙法蓮華の四文字であった。この妙の一字を四十妙、百二十妙と広げたり、一念が一身と一心の二つになり、果ては一身を一千世間、一心を二千世間に広げるだけ広げてきたのである。そして今度は統合へとひたすら理論展開していく。統合するために実に様々な用語を生み出し続けたといえる。
不二も即も相即も円融円満そうだが統合していく過程で辻褄合わせや語呂合わせのようなことが起きて、さらに新しい用語を作らざるを得なくなる。仏法用語の解釈を見ていると、まるで弁解しているようにさえ見えてくることがある。
だがそれでも統合への強い思いと意志は保ち続けたのである。妙法蓮華の理が何を意味し、その観念の理によって表現したかった現実の実体、統合された時に明かされる実相を待ち続けたのが仏教の歴史である。
日蓮は一念の心法も諸法の実相も南無妙法蓮華経であると歯切れがいい。それでも過去の先達の様々な説法を活用しながら一身の当体の説明をしていく。いきなりの南無妙法蓮華経では、受け入れられなかったという時代背景もあったことだと思うが、実に辛抱強く法華経だけでなく天台や妙楽、伝教の言を用いながら誤った多宗派の仏教を否定し続けていく。
円融も冥合も溶け合い合するまでに時間を必要とする。けれどもまったく同義ではない。冥合は相性体の状態には拘らない、混然一体の様子のみの表現であるから円でなくても可能である。
それに対し円融は合する意味合いが相似形であることに意味がある。すなわち相性体が円であることが重要なのである。けれども全くイコールではない。一致することを円満という。
また冥合は因縁果をもって冥合の初めと終わりを表しているのに対し円融は因縁果報をもって初めと終わりを表している。
そして円満は本末究竟等となる。冥合は異時、円融は異時から俱時に至る過程、そして円満は俱時である。冥合、円融、円満における如是力、如是作にも違いがある。この違いについては別の機会に述べたいと思う。
最後に日蓮のいう寂光土の定義を挙げておこうと思う。仏の住する清浄な国土のことを寂光土という。四土の一つで常寂光土、浄土、仏土ともいう。
爾前経においてはこの娑婆世界を煩悩と苦しみの穢土と説き、同居土、方便土、実報土と衆生の境涯によって居住する国土の差別を論じ、仏のみ寂光土に住すると説いた。
法華経迹門において三変土田が説かれ、同居、方便、実報の三土は一応寂光土と変じたが、まだ無常の国土の上における無常の寂光土であった。
法華経本門に至って本国土妙が説かれ、この娑婆世界こそ仏の常住する本有の寂光土であることがはじめて明かされた。
日蓮は総勘文抄に「此の極楽(本有の寂光土)とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う」と述べられ、南無妙法蓮華経と唱える我が身は、法報応の三身即一身・一身即三身と顕れ、十界互具・依正不二・身土不二の常住不滅の寂光土に居住していることを明かしている。
また日寛の末法相応抄に「妙法受持の行者は、外相は是れ名字の凡夫なりと雖も、実に是れ究竟円満の仏果なり。故に師弟倶に寂光に居するなり」とある。
つまり、常寂光とは、常楽我浄の四徳具備の三身即一身の仏の住処をさし、また妙法受持の行者の住処をいう。
様々に表現された一心、一身、一如、一実、一念、一体、一相、一性も一人の人間の実相であることを示した日蓮の偉業は重大である。
諸法の中で生きる人間の喜怒哀楽の根源の実相、一人の人間の存在自体を実相とし、その実相に南無妙法蓮華経と名付けたのは日蓮である。故に日蓮を大聖人と呼ぶことに賛同したい。日蓮の一生とその存在に対し賞賛とともに心から感謝の思いが涌く。

不二から円満まで様々な引用と感想を述べてきたが、はっきり言って宗教の教義上の解釈にはそれほど関心が沸かないのが本音である。筆者は、日蓮の悟達した南無妙法蓮華経にすべてが集約されていることを信じているからである。
筆者はただ南無妙法蓮華経を唱えることによって起きる人間と本尊との間に引き起こされるコミュニケーションの真実を知りたいだけである。本来的自己と日常的自己との間に起きるコミュニケーションの真相を知りたいだけである。
コミュニケーションの在り方を説明するとき、共鳴という言葉を使えば、そこには波動性を感じる。共感という言葉を使えば、そこには粒子性を感じる。そして感応という言葉を使えば、そこには波動と粒子の二重性を感じる。
いずれにしてもコミュニケーションが成立するときに、いかなる力学的な関係が生じているのかである。もちろん力学といった物理学の用語を用いないで、生命現象であると済ませてしまう手法もある。生命と生命のコミュニケーションの相関関係であるというものである。けれども筆者はそれではスッキリしないのである。前述したように「生命」の仏法的定義がはっきりしないからである。
仏教における力学的思考は十如是にあると思っている。当然これは物理学上の力学とは異なるが、仏力・法力や如是力如是作の力に対し、単純に働きや作用だけでは説明不足であると思っている。
ここからは生命を一身といい、心を一心といい、一身と一心を合わせて一念とする。そして人間を一念の妙体として論を進めたい。
さらに人間の一身の特質として波動性を、一心の特質として粒子性を、人間の一念の特質として波動と粒子の二重性を認めておきたい。
これは筆者の個人的な見解でもあり、個人的な思索の行き着いた見解でもあるので、筆者と異なる意見、批判はあると思っている。けれども筆者の数十年に及ぶ思索と実践の果てにたどり着いたものである。
別の見方をすれば人間が一生をかけて思索したところでこの程度の理解しか出来ないと言われればその通りであると思う。
過去の多くの哲学者にしても筆者から見ればたいしたことがないと感じるのも事実である。筆者が認めるに足る哲学者など一人もいなかったのである。
ただ筆者の我見であると切り捨てるのは簡単である。しかし筆者からみれば天台、妙楽、伝教だけでなく、西洋の哲学者たちも我見の塊にしか見えない。
過去にこんなことを考えていた人間がいたのだという一行ぐらいの話題にはなるだろう。筆者としてはそれで充分である。筆者が様々な矛盾と葛藤し、それを乗り越えて作り上げた一人の人間の個性であり、単なる自己主張ではないのである。
不二から円満までの別視点として空間的、時間的、時空間的、波動性、粒子性だけでなく相、性、体の三如是と七如是、さらに根源の一体、根本の実相である南無妙法蓮華経を人間の本源であるとする。
そして人間の存在を変遷無常の相を示しながら常に存在する有常常在の一念の妙体と定義しておくのである。
また筆者が思考する視点として次の項目を挙げて置く。光の二重性、位置エネルギー(量子論におけるシュレーディンガー方程式)、フェルミ粒子の特徴(パウリの排他律)、ボース粒子の特徴(光子)、虚数の存在と虚数座標、円と円周率π、自然対数、エネルギー保存則とエントロピーの法則、オイラーの公式(虚数から実数へ)量子論の世界(ミクロ)と仏教理論(マクロ) などである。
しかしこれらの物理用語を使うからと言って、仏教を物理学的に見直して関連付けるといったことはしないつもりである。
物理学と仏教では、自然に対する思考がかなり異なるからで、とくに自然認識においては全く別次元といえるからである。
よく物理、科学が発達すれば仏教に近づくという人がいるが、それは期待し過ぎだろうと思う。初めからよって立つ基盤、基準、志向が異なるのである。それでも近づくと思うなら、それは、何も科学だけでなく政治・経済・環境・教育・文化・外交・平和・戦争であっても見方、視点を変えることによって感じる程度の接近である。
筆者が物理学的用語を使用するのは、表現上の便利さの故である。物理学を語るのに数学を使うのと同じ理由である。
仏教用語の一つ一つの意味を知り、それを正しく使うといっても意味や解釈が様々だと、何が正しいのか不明になってしまう。皆が勝手に定義してしまえば判断基準がなくなる。
定義から定理が生まれ、さらに公式が作られる。もちろん公式は、その適用範囲や前提条件が存在している。とはいえ学問は、過去の努力、精進による証明などの積み重ねによって成り立っている。
したがって過去に定義されたものを覆すには現実の現象とその現象に対する定義から証明までが必要となる。ところが宗教は、積み重ねた結果に関係なく後世の人が勝手に定義づけできる。人間は勝手に悟ることが出来てしまう便利な生き物である。
したがって宗教は、定義、定理、証明、法則、公式より信じることを優先する。宗教批判の原理ですら勝手に作ったりすることが出来る。そこには精密な議論を展開する論理など全く存在しなくなる。
南無妙法蓮華経を一つの数式だと仮定してみよう。たった七文字である。しかしその意味を説明したら膨大な量の文章になってしまうだろうと思う。もちろん数式には説明が必要で、式と説明は対である。 
人間の悩みや苦悩という具体的な問題からその本質にたどり着くと表現は抽象的になる。具体性に拘り縛られると現実を見失うこともある。そのために人間が作り上げたものが抽象としての数式である。そしてより抽象性の高い表現の中にこそ真実がある。
もちろん南無妙法蓮華経は数式ではないが、たった七文字の中に自然界のすべての存在、認識が含まれ、さらにそれらの実体、実相、実性の一般解が盛り込まれているとすれば、大変なことだと思う。

ここからは都合により掲載を見送りたいと思う。