価値論序説

価値論序説 序文

価値論序説は、ブログで思いつくままに書き綴ったものなので、きちんと章立てしていません。再考もしてません。そのうちやります。

 “時代の不幸”の象徴が貧乏と病気の時代があった。そして豊穰の時代を迎えると今度は、希望と明るさのない不安が不信とともに不幸の象徴となった。
さらに昨今の金融危機により、相次ぐ倒産が起きている。今日の時点で上場会社が29社も破綻し、まもなく過去最高の破綻数を記録するだろう。
来年になるとますます拍車がかかると思う。あのGMもどうなっているか分からない。アメリカの象徴でもあるGMや破竹の勢いであったソフトバンクもbp(ベイシス・ポイント)が、破綻したリーマンに近いのである。
実体経済より華やかな金融経済、金融工学に夢中になった社会の末路ともいえる。リストラや非正規社員の解雇、政治不信と生活不安に加えて人間関係の崩壊といった社会現象が各地で起きている。
団塊の世代が終わりを告げるころ、失われた10年に就職の氷河期を経験し、少し優しかった数年が終わりを告げ、百年に一度、起きるか起きないかの金融危機に直面している団塊ジュニアが、苦悩に喘いでいる。
希望を持てない若者自身が、自身の手で社会を変革するための挑戦の時代といえる。“時代の不幸”に真向から立ち向かう勇気と智慧の実践を続ける以外にない。
それは、仏法の本来の在り方でもある。この勇気と智慧の実践行は、個々の人間の釈尊論的根源性に「自由」と「平等」と「慈悲」を置き、歴史上の日常性の中で、修行という契機を経る為の規範として「平和」と「文化」と「教育」の運動を推進することでもある。
人間的生における不安と不信は、それが個であれ、社会であれ、国家であれ「安」の対立概念である「乱」より発していると私は思っている。
それ故に平和・文化・教育の根底にある政治、さらにその根底に哲学が不可欠といえる。レベルが個・社会・国家と異なっても人間的な価値規範が必要なのである。
価値という言葉は、ものやサービスの値打ちという意味で、それらの有用性を意味している。現在ではより広く人間の欲求を満たすもの、望ましいもの、為すべきものなどの意味がある。
経済学では事物の有用性は使用価値とされ、それとは別に市場における他の商品との交換比率である交換価値が重視され、この交換価値という点では価値はまた価格という意味を持っている。
哲学では人間の知的、道徳的、美的行為などを考察する場合に、行為の目的として価値ということが言われる。この場合、価値は望ましいという意味での善いという性質(正価値)だけではなく、避けるべきという意味での悪いという性質(反価値)も考察の対象となる。
古来より、善悪や美醜などに関して多くの哲学者が考察し続けてきたが、これらの問題を価値という用語を用いたのは新カント派の哲学者たちであったが、日本では大正から昭和にかけて流行した。
価値という言葉が学問的意味を帯びて使用され始めたのは十八世紀後半のアダム・スミスの経済学的考察においてである。
そこでは使用者の利便性を示す使用価値と市場における他の商品との交換比率として示される交換価値という意味で使用されていた。
価値論はその後マルクス経済学やオーストリア限界効用理論などでも中心的な問題として扱われている。産業革命以後の経済的発展が哲学にも影響を与えた。
価値の本質について、価値とは何か、価値はいかに認識するか、価値と事実との関係はいかに等々の問題について本格的な研究が行われたのは十九世紀末からである。
新カント派に属し、ドイツ西南学派を創始したヴィンデルバントとそれを受け継いだリッケルトなどの「関係性」への着目がその先駆といえる。
伝統的な哲学の分野である論理学・倫理学・美学・宗教哲学などを「価値」という統一的な言葉で扱う価値哲学が形成された。
ヴィンデルバントは、形而上学を否定し、哲学は道徳・芸術・宗教等の根底にある普遍妥当的な価値の学問であるとし真・善・美・聖という普遍的価値の研究を提唱した。
そして、自然科学と歴史との研究方法を区別して、自然科学が絶えず繰り返す同型性を研究対象として一般的法則を立てるのに反して、歴史は一回的の個別性を対象としてこれを記述するのであると説いた。
リッケルトはこれを継承発展させて、自然は没価値の現象であるのに反し、文化は価値に関係した事実であるといって、歴史を文化科学と称すべきことを主張した。
この場合の価値は、一回的、個別的であるがゆえに価値があるのではなく、人類の理想に関係があるがゆえに価値があると説いている。
いいかえれば価値は実在するものではなく、妥当(真理や道徳的美的価値などの通用し、承認されるべき性質(妥当性、普遍妥当性))するものであるとした。
この新カント派の価値哲学の他にニーチェの価値転換の思想であるニヒリズムも広い意味では価値哲学と見ることもできる。
さらに現象学派のマックス・シェラーの価値倫理学や、アメリカのプラグマティズムの哲学者であるデューイの道具主義的認識論も広い意味での価値哲学と言える。
デューイは、ヨーロッパの「知る」ことを基礎にした考え方に対して、「生きる」ことを主眼とした思想に立ち、従来の真・善・美の価値体系にメスを入れ、特に真に対して新たな取り扱い方をした。
すなわち、真は善・美と並列する価値内容ではなく、善や美を実現するための「手段価値」であると唱えた。
創価学会初代会長の牧口もデューイと同様の理由で真を除外した。我が国では、ドイツ哲学が早くから哲学界の主流を占め、価値内容は真・善・美また聖(ヴィンデルバント)の体系であるとされていた。
新カント派の「真善美聖」は有名であるが、牧口は昭和6年(1931年)にその著「価値論」において、美・利・善の価値体系を樹立している。牧口は、新カント派の価値論を真っ向から否定して、独自の価値論を主張した。
牧口と新カント派の違いの顕著なところは、真理と利害についての論争部分であろう。神の創造した自然のなかに、価値を発見しようとする新カント派と価値は人間と物事の関係のなかで創造できるとする牧口の価値論との違いである。
価値の発見か創造か。この人間の行為のなかに規定される基準が価値判断の拠り所ともなっている。
大正時代に新カント派の哲学が流行したが、特にリッケルトに永年師事してきた左右田喜一郎が経済哲学から文化哲学まで幅広い議論を展開し、マルクス主義に飽き足らない知識人にかなりの影響を与えた。
左右田の議論の特徴はドイツの新カント派の価値哲学では超越的理想的価値概念が重視されたのに対して、経済学では経験的価値概念が重視されることを考慮に入れて、両者の価値概念を統合しようとしているところにある。
一方、教育者であった牧口は経験主義的傾向が強い人だったらしく、左右田の経験的価値概念を利用しながら、自己の教育哲学を価値論として形成したのである。
牧口は「創価教育学体系」第一巻において教育の目的を児童の将来の幸福生活に置き、第二巻の「価値論」で幸福の内容を価値の獲得と定義し、求められるべき価値として美・利・善を挙げた。
ヴィンデルバントは真・善・美・聖を理想的価値として提唱したが、牧口は、真理の探究はよりよい生活を送るための知識を得るという意味で手段的なものだから、それ自体で目的とはならないとして真を目的としての価値から除外した。この考えはデューイの道具主義的認識論と共通している。
ヴィンデルバントは利という価値は、生きていくために必要な価値ではあるが、目的として追求されるべき価値ではないとして否定的な評価をしていた。
牧口は生活苦にあえぐ社会層の児童を教育した経験もあり、ある程度の生活水準を得るためには利という価値を重視すべきであるという主張をした。
ここには新カント派の価値哲学が知識人によって支持されたのに対して、牧口はより苦しんでいる社会層のニーズに対応した価値観を提供したと言えよう。
しかし牧口は個人的価値である利を重視したが、同時にそれは公益という社会的価値である善と調和すべきことを主張した。
この私権と公益との調和という思想は戦時中においては、軍事政権の思想統制のイデオロギーである滅私奉公という考えを真っ向から否定することへとつながっていく。
滅私奉公などという言葉は死語に近いが、なにも軍事政権下でなくても、会社や団体がその構成員に無意識(?)に求めていたりする。最近の青年たちには、なかなか理解できないと思うけど。
最後にヴィンデルバントは聖という宗教的価値が究極的で包括的な価値であると主張したが、牧口は宗教的価値の独自性を否定し、宗教も個人的利と社会的善をもたらさなければ価値がないという主張をした。
この考えは諸宗教が個人と社会に与える価値の量によって諸宗教相互の優劣を研究しようという宗教の価値科学的研究へと発展していくのである。



価値論序説 第一節

牧口は昭和4年(1929年)7月に、日蓮仏法に帰依し(この年月は、弟子である戸田の肉声の記録が現存する。因みに戸田の入信は9月である。創価学会の年譜には6月と8月になっているが、間違いである)、以来その生涯を終えるまで真剣な宗教実践を続けたが、この価値論を仏法の初門として、日蓮仏法を広く一般に伝えた。
したがって晩年における牧口学説は、単に教育関係者のためのみならず、生活指導原理にまで発展した。晩年に発表された論文には、「価値判定の標準」「大善生活の根本原理」などといったものがあり、より広い理論の展開がみられる。
私はこの両者に共通する「美」の価値規範に疑問を持っている。何故かというと美醜は、善あるいは真の一部に含まれるものではないかと思っているからだ。
したがって「美醜」の代わりに「安乱」を採用したいのである。美しい行動や美しい魂、美しい方程式という表現は、「善」や「真」の部分的感情表現にすぎず美醜はそれ自体で価値を生むものではない。 (美については芸術論序説でも考察しているので参照してください)
美がそれ自体で価値を生ずる為には条件付きでなければならないだろう。女性の美がそれ自体で人間的価値を意味するということは絶対あり得ない。
けれどもこの人間の存在自体を価値判断したくなるのも人間である。人間の主観的価値判断、評価を容認するという条件つきである。そもそも「美」の対立概念に「醜」を設定すること自体、失礼である。
愛のギリシャ語であるエロースは本来、プラトン哲学でいう、善や美のイデアへと向かう魂の志向性であり、自分に欠けているものを自覚し、より高きものを求めて自らを飛躍させる情熱を意味している。
真理の認識を求める哲学も、そうしたエロース的愛にもとづくといわれるように愛は、善や美と密接にかかわりのある言葉だったのである。
悪は、人に苦を招くもの。また、悪い行い(悪業 パーパカ)、道徳的な悪とその報い、醜さ(不善 アクシャラ)などを意味していた。
「醜」は不善、すなわち悪の報いを意味していた。したがって「美醜」とは善悪の一部だったのである。
それ故に神を意識して人間の存在論から真善美の価値論を語ることができるのは、観念的に美を高めることによって絶対美へと進み、善に向かい、真理に向かうことになるからである。しかし現実的には、「安」を拠りどころとして、「利」や「善」を求めて人間は行動する。
価値判断の基準が、行動に結びつかなくては人生論の基調にならない。「美」が人々に「安」をもたらすのではという意見もあるが、むしろ逆で、「安」を実感するものに人間は「美」を感じるのである。
価値論を考えるにあたりこれらの二つの流れ、すなわち人間の人格を神に近づけようとするための規範とするか、人間主体の行動規範とするかである。
前者は神学的価値論となり、後者は人間が獲得するための価値規範となる。そして仏法の眼よりこの価値規範をどう見るかである。もとより仏法用語には価値という単語はどの経典を見ても出てこないので、私の私見を後述する。
認識と評価の混淆はあってはならないというが、認識は評価の為に必要であると主張する以上、認識と評価は切り離せない。
むしろ、真理は人間が認識するしないに関わらず真理であり、天動説という誤った認識は真理の誤認であって真理に責任はないだろう。認識とは、正誤が生じることがあるというのも哲学的真理である。
天動説といった物理的真理の誤認は価値の判断基準に「真」や「美」を導入した時に己に起因しているのである。 
一般に洋の東西を問わず宗教者は、自身の都合によって「真」や「美」が好きになり、拘りを持つのも宗教的真理であろう。評価も認識も、そのものが哲学的評価の対象なのである。
けれども美醜は少なくとも人間の存在に対する価値基準にしてはならないと思っている。「価値は感情によって評価する主観との関係性」ということを認めるとすれば、さらに美醜を基準にしてはならないだろうと思う。人それぞれであり、それこそ余計なお世話と言われてもしかたがないところだろう。
価値評価の基準に人間は、何故、美醜を入れたがるのだろうか。価値は、神が与えた基準であり、その基準が存在すると考えれば、真理も美も人間の判断の価値基準に成りえるだろう。
牧口のように価値は、人間が創造できると考えれば、真理は価値基準に入らないことになる。牧口は真理を価値基準から外したが、なぜか美醜をそのまま肯定して残した。明治人の気質によるものなのだろうか。
日本人の美意識は、実に不思議な感じを抱かせる。武士道に美を感じた人もいた。美を賛嘆し、普遍的にしようとする意識は、女性より男性のほうが強いように思う。
女性と男性を比較したとき、どちらかというと女性の美意識は、現実的であるのに対し、男性の美意識は観念的な気がする。
女性が武士道に美を感じるかどうか聞いて見たい気がする。さらに盲人の場合は、美の一部を感覚することができない。五体満足な人間だけに与えられた価値基準となってしまうので、人間を選別する行為の基準にもなってしまう危険がある。五体不満足であっても平等の価値観を持てるような基準こそ人間に必要な価値基準であろう。
美が超越や普遍へと至高しようとするならば、最後は神に至るだろう。美も、人間が発見する対象として存在するならば、創造する対象から外さなくてはいけないのではないだろうか。
芸術という人間の創造作業は、真理の探究と同じく、神が創造した自然原理への探究のためということになる。創造という言葉を使ってもその本質は、「美」の発見となる。
神の創造した自然と人間という視点から芸術は至高する。人間が創造した芸術を神が創造した自然へと近づけることを願った人類の数々の芸術作品がある。神が一切の価値基準であると思考すれば「美」は、あきらかに価値判断の基準と成り得るだろう。
価値体系が、真善美聖であれ、美利善であれ、それ程の大差はない。盲目の人間が、「絵画」をどのように受け入れることが出来るのかを考えた場合、「美」の本質が素材如何に係わらず普遍だとしても、人間自体が不変ではないのだから「美」の受け入れ方そのものが不変でなくなる。五官の機能が衰えた場合も同じだろう。
仏法からみて「美」の価値基準を設定することにそれほど意味がないのは、後述したいと思う。そこには仏が介在する余地がなく、「美」の絶対基準を設定することができないからである。
「美」を関係性だけで語ることが出来ると考える根拠が明確でない。「美」の創造は、人格美から宇宙、生命原理へと昇華させたくなるだろうが、それでは、自然科学の認識から自然を対称として評価することと何ら変わらない思考方法といえるのではないだろうか。
対称性と簡明さがポイントとなる物理学的な法則にも人間は「美」を感じるのである。美学、芸術哲学という学問も存在する。十八世紀以降の美学は、哲学者たちの重要なテーマの一つだった。
シェリング、カント、ヘーゲルから二十世紀のハイデガーまで、美学の歴史は学問として完成されたといえる。けれども男性原理の価値観のように思えてならない。
美を芸術へ、美を文化へと昇華させたくなる男性の拘り。芸術が限界を越える可能性を象徴の力と考えているのだろう。男性にとって女性はいつの世でも「美」の象徴であったと思われる。女性の価値観を聞いて見たいものである。
カントのいう「美は趣味という能力で判断される」とは、趣味による下位の感情の判定として、主観的な原理であるが、趣味判断たる美的判断は主観的普遍性を持つと規定している。
人間の良心の希望と強さという、形にならない美しさを発見させるものが芸術であると。さらに分析からでは美の体験はない。解釈こそ美への精神の登高と。そして美は常に理性による解釈が必要となると言う。
解釈とは作品との対話であり、悟性は必要条件、理性は十分条件。美は意識が捕らえるもので、人間がどれほど深く理解するか。いかに美しい風景が展開されても、人間としてその内部に、この美を賛嘆し、さらに永久化しようとする思いがないと芸術は成り立たないとまでいう。自然の美しさとは別に別種の美を創造しようとする内的な意志がなければ芸術は成立しないともいう。
さらに、真理は論理学の課題。善悪は倫理学の課題。美は美学の課題。そして価値論は哲学の課題と。美は意識的存在であって、事物的な意味で客観的な存在ではない。そして美は発見される。
芸術作品は、それゆえに、有限を介して無限へ至るはずの、精神の道が刻み隠されている事物であり、世界から超越へ、歴史から普遍へ、物質から理念へ至る垂直の柱なのであるという。
美は人生の希望であり、人格の光りである。行動を介して超越的な価値である神に人生全体を実存的に近づけようとする。価値を認識する方法としての解釈が要求されている。悟性と理性である。
このように美的判断は主観的普遍性を持つと規定するカントの思考は、多くの哲学者に影響を与えた。神秘現象や物質現象を介して美しく現しだそうとする現前化の志向である。
存在するものは、なんらかの意味をもち、ある意味、存在するだけで美しいといえる。芸術作品も人間の行為の結果ではあるが、作品自体は人間そのものではない。人間とは別のところに、価値基準をおくことは誤りであろう。
日蓮仏法における芸術論の根底に流れる思考を追ってみよう。それは「自浮自影の鏡」と「五陰仮和合」である。とはいえ仏法における芸術論や美哲学そのものは存在しないと思えるので、できるだけ関連した仏法用語から推測すことにする。
自浮自影の鏡とは、自身の体に森羅万象を浮かべ、その影を映し出す鏡のことである。妙法蓮華経のことであるが、また総じて一切衆生の心、別しては妙法を顕現した衆生の心をいう。
天台は、摩訶止観で鏡像円融の譬を用いて「当に知るべし、己心に一切の仏法を具す」と説いている。
森羅三千の諸法を浮かべるのは、人間自身の体である。体の代わりにキャンバスや楽器、その他を用いて表現しているのが芸術という創作活動といわれるものである。
不改の体に相性の転換が即の概念であるが、人間の心の芸術的表現に体以外の素材を用いることが芸術の本義なのだと思う。
修禅寺口決には「玄師の伝に云わく、自影自浮の大鏡之れ有りて、一念三千の観を成ず。自影自浮とは、釈迦如来、大蘇の法華道場に於いて、智者大師の為めに大鏡を授け、一心三観一念三千を伝う。其の事鏡とは、日光に向うの時、十界の形像を現ず。一鏡に十界を現ず。故に一念三千の深義なり」とある。
日蓮は御義口伝に「惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり」(724ページ)と述べている。日寛の観心本尊抄文段には「故に知んぬ、自影自浮の鏡とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経の本尊なることを」と述べている。
事の一念三千の南無妙法蓮華経の本尊を顕したのは、日蓮である。本尊を書き表したことを日蓮は「日蓮が魂を墨に染めながして書きて候ぞ」と述べている。
信仰の対境である本尊を芸術作品と言うと抵抗があるかもしれないが、素材がなんであれ作者の心の鏡像が作品である。けれどもそれは、神や仏に対する人間の主観的普遍性を意味しているとは言えないだろう。
また色・受・想・行・識という生命体を構成する五つの要素である五陰(色・受・想・行・識)が、因縁によって仮により集まり調和することによって、個々の生命体である衆生(有情)が生じるとする。
有情だけでなく非情である美術・芸術もまた五陰の仮和合によって完成する。この五陰のうち、色陰とは、肉体など、色形等に現れている物質的・現象的側面をいう。
受陰とは、六つの知覚器官である六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)がそれぞれの対象となる色(色・形)・声(音声)・香・味・触(寒暖・柔軟などの物質の触覚)に触れて生じる感覚をいう。
想陰とは、受け入れた知覚をまとめあげ、事物の像(イメージ)を心に想い浮かべる作用をいう。
行陰とは、想陰でできた像を整え完成させる作用であり、またそれとともに生じるに種々の心の作用をいう。
識陰とは、受・想・行に基づきながら、ものごとを認識し他のもの識別し判断する心の作用をいう。
また受・想・行の作用を起こす根本となる心の中心的な働きとされ、心王とされる。これに対して、受・想・行はそれにしたがう心所・心数とされる。この識は更に深く探究され、種々の識が区別される。
五陰を色心の二法に分けると、色陰とは、物質的・肉体的・現象的なものである色法となり、これに対して、受・想・行・識の四陰は心的・精神的・本性的なものである心法となる。
五陰全体で、肉体・物質と精神・本性との両面にわたる一切の有為法(生成変化する事物事象)を示している。
草木などの非情にも心法を認めて、五陰が万物を構成する五つの要素を意味する場合もある。
天台は、摩訶止観巻五で、正しく止観を修行すること(正修止観)を解説し、一念三千の法門を説く。
そして、華厳経巻十の「心は工なる画師が種々の五陰を造るが如く」との文を引いて、あらゆる事物自称が一身から生じることを示し、五陰のうちの心王たる識陰を観ずべき心であるとする。
そして、その心を観じる実践(観心)に十種(十乗)を立て、その第一の観不思議境で、衆生の一念(瞬間の生命)に三千(森羅万象)が具わることを観ずる一念三千の法門を具体的に示している。
あらゆる事物自称が一身から請じる事と心の鏡像の外的表現が芸術であるなら、美と芸術は生命の発見と顕現そのものといえる。
教育もまた芸術と同じく、人間の創造ではなく「人間」の発見であろう。それゆえに教育も価値評価の対象にしてはいけないということだろうと思う。
育ちゆく若芽の中に、その特質を開花させる因が内在していると考えれば、人間教育は、まさに、発見と感動の連続となるだろう。
人間教育とは「生命」という無上の宝を、自他ともに輝かせ、限りなく生命の価値を創造させていく「最高の芸術」であり、「永遠の聖業」であるという人もいる。
人間と人間の間の関係は、価値論で語るべきではないという人もいる。人間が人間を認識して評価すること自体に問題があると考える人もいる。
ヘーゲルはかつて芸術を、哲学や宗教についで、高い文化的位置においた。世界観の類型的表現の一形式となり、文化の至高形態となる。
文化という人間の営みの成果に、「美」を根底に置きたがる人間の指向性を見ることはできるが、芸術性に優れた作品を生み出した人物が、あまり人格的に褒められない場合がある。作品と作者の人格の遊離は何故、起きるのであろうか。
学問はその歴史に負うところがあるが、芸術は天才の自己決定に基づくせいか、新しい時代のものが、古い時代の作品を凌駕していると言うことはできない。
仏法では、菩薩の行為をもって仏の生命は顕現することができると説かれている。仏法より観た価値は、菩薩の行為の中に見る以外にない。行動を介して(礼)仏に近づく。行動は、芸術だけ(楽)ではないだろう。
そんな日蓮仏法の芸術論は「自浮自影の鏡」として語られるところであると勝手に推測する。自浮自影の鏡については、五陰の仮和合とともに前述したとおりである。
理想の人格とか究極の価値、最高善、人格完成を人間に求めるのは、あまりに観念的である。人間が為しえる理想的な行為を菩薩行であるといっても、人間は人間以上でも以下でもない。神を理想として神に近づきたいといっても神にはなれない。
また仏の境涯を得たいといっても菩薩の行為を仏といえるところまでである。現実に人間が三十二相八十種好を備えた仏の境涯になったとしても眉間から白毫を発したら周囲の人々は尊敬より恐怖感を抱いてしまいかねない。
とはいえ日蓮仏法における菩薩の行為は、その自覚と実践においてカントのいう「内なる道徳法則」を超越していると実感する。その意味では菩薩の行為は、目的としての価値そのものである。
カントの倫理学における道徳法則の主張は、近代倫理学の原点といえる。行為において自己愛を中心にすると矛盾に陥ることを明らかにし、自己愛ではなく普遍的な法則を尊敬すること、そして道徳法則にこそ人間の崇高な価値があるとカントは主張する。
道徳法則は、自他の人格をたんに手段として用いるのではなく、目的として扱うべきだという。「それを思うことが多ければ多いほど、また長ければ長いほど、常に新しくまた増大する感嘆と畏敬とをもって心を満たすものが二つある。それは私の上なる星輝く天空と、私の内なる道徳法則である」という「実践理性批判」末尾の言葉は有名である。
カントが設定した問題を批判的に継承しつつ、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルのドイツ観念論哲学が形成された。
十九世紀後半には「カントに帰れ」を合言葉に新カント派が活躍。新カント派には、マールブルク学派といわれるコーヘン、ナトルプ、カッシラーなど、西南学派といわれるヴィンデルバント、リッケルトなどがいる。
日本には、リッケルトに学んだ左右田喜一郎などによって新カント派が伝えられた。その他に、フッサールの現象学、ヤスパースの実存哲学等もカント哲学との対話・対決をとおして形成されたものである。
人間の知性は、実に余計なことまで思考する。実に厄介な生き物が人間だと思う。自分の周辺の事物事象に対して価値が有るか無いかとか、価値が高いか低いかとか色々と考える。
それだけでなく他人に対しても価値判断したくなる。そして他人の生命にまで及ぶことがある。
「お前なんか生きている価値がない。存在する価値がない」等々。余計なお世話である。
さらに、そもそも価値とは何かとか、その本質とは何かまで考える。
凡人から見ればそこまで深刻になることないよと思うし、本質なんてどうでもいいように思えてしまう。
多くの天才達は、それでは納得しないのである。価値について思考すること自体に「価値」があると思っているらしい。
単純に考えれば「神中心」か「人間中心」のどちらかになるだろう。神が創造したものを人間が発見する。すなわち神にとっての価値は、人間の究極の価値となる。人間のすることは「価値の発見」となる。
しかし、神は語らないから天才が神に代わって語ることになる。価値観は人間の精神作用であるから人間中心にした方が都合がいいことは当然であろうが、多分に自己中心的になり易いから、絶対者からの主観が欲しくなる。
カントは、従来の形而上学を否定し、幸福を求めることは自愛の原理であり、普遍的立場に立つ道徳の要求とは区別されると考えたが、それでも幸福と道徳の一致である最高善が可能となる道徳神学を主張せざるをえなかった。
それは、ヴィンデルバントも同様である。ヴィンデルバントは「聖」という究極的価値を設定せざるをえなかったといえる。
自然も人間も神の創造物だとすれば、役割は異なっていても神から見れば平等の価値を見いだせるはずである。
けれども人間は、自然の恩恵を受けないと生きていけないことも十分に承知しているが、人間中心に物事を発想してしまう。
したがって人間は、文句を言わない自然には、自然と冷淡に成りやすい傲慢な生き物でもある。人間にとって自然は、恩恵よりも当然の奉仕としての役割を与えることになる。
自然もまた人間にとって都合のいい道具にすぎないから、そのままでも価値はあるが、さらに人間の手を加えて、自然の価値に新しい価値を付与してあげるのが人間の使命であるかのように振舞う。それが単に人間の欲望から発した欲求に過ぎないのにである。
幸福とは、一般に欲求が満たされたときに感じる幸せな感じ、満足感、充実感、達成感などのことである。あるいはその感情が持続することを言う。
幸福は万人が求めるものであるが、幸福の内容・定義は、多様である。心身の欲求が満たされた状態と考えられているが、心身の個人差、個人のおかれている時代的、社会的、文化的環境の相違によってその欲求の内容は異なり、したがって、幸福の実体も同一ではない。
幸福については宗教、哲学、文学においてさまざまに考察されてきたが、快楽との関係で言えば、肉体的あるいは精神的快楽を幸福と考えるエピクロス派、イギリス功利主義と、不快がない状態を幸福と考えるストア派、ショーペンハウアーとに分けることができる。
また幸福を快楽ではなく道徳、人格的完成と関係づけて考察するプラトン、アリストテレスなどの考えもある。
人間の行為や思考にも「美」を感じるのは人間らしい感覚ではあるが、あくまでも個人において感じる主観に偏りすぎるきらいがある。
価値は創造できると考えるなら、価値基準より真理を外すことが出来る。しかし神が価値基準そのものになれば、神は、神自身を創造することはないが、真理は「神の手による創造」であり神にとっては価値創造でもあろう。
価値創造を主張する牧口の価値とは、「評価主体と対象との間に生じる情的関係性あるいは関係力のことであり、それを創造するとは、対象となる事物に主体的に積極的な意味を付与することである。様々な事物事象のもつ性質の中から主体の欲求を充足させるものを摘出する行為が価値創造という」と。
また、「本来的に備わっている性質を、そのままあるいはより一層活用しやすい形式に変化させて、評価主体やさらにはそれを取り巻く社会の利に供していくことである」という。
従って、「価値創造とは、価値の割り当て・意味付与と連関しているものであって、その評価主体のもつ価値観の行動の上への反映となりえるであろう」と語る。
価値は、主体と客体との間に生じる吸引、反発の情的な関係性、あるいは関係力であるという。たしかにこのような関係ではあると思うが、人間同士の場合は主客対等である。
しかし、人間と自然のような場合は、客体が主体になることはないという一方向性であり、文化や芸術といったものもそうである。主体の感情のみを優先することになる。
価値は、人間という主体者と事物という客体者の間に生じる関係態と云っても、これでは客体者が人間でない場合に限ることになる。
また人間が使用する道具の話なら理解できる。しかし人間と人間の間に生じる関係態には、このような価値論は通用しないだろう。
自身を客体と捉えてみれば、主体者から価値を割り当てられたり、意味を付与されることに納得しかねるだろう。
人間と人間が相応じ合っている『力』または『作用』の発動されている状態は、何というのだろうか。
それも価値だとすれば、相手の人間に対する価値評価を同じ人間がすることになる。他人の行為に「美」を感じても行為者自体が自身の行為に「美」を感じているかどうかは別である。
私は、人間行動の価値基準を「安」「利」「善」で判別すべきであると思っている。これは、究極の価値に対する思考を否定するという意味ではない。真理や美醜を除外しても究極の価値を志向することは出来る。
それが仏法の人間観であるからだ。まずは、あくまでも人間の行動原理としての価値を思考すべきであると思う。
「安」といっても権力者にとっての「安」と民衆レベルの「安」では、根本的に異なると認識すべきである。
また「安」が「利」の一部とならないのは、人間にとって「利」は必ずしも「安」ではないことが多いからで、「安」は「利」の為に存在するのではないのが現実である。
価値論が真善美であれ、美利善であれ、人間の物質性と限界性の範囲において可能性を持つ基準であると思う。
しかし、これを本質的な人間の生命の特性と混同するから判らなくなる。人間の行動原理としての価値を相待妙とし人間生命の本質的価値を絶待妙として、まずはたて分けて思考すべきである。(相待妙と絶待妙については後述する)
人間の本質といった事柄は、認識する対象かどうかが問われることになる。むしろこのことは認識よりも実感の範疇にはいるのだろうと思う。認識を主とした価値論は人間の実践論としては有効であるが、実感を主とした人間論より見れば部分観といえる。
人間を知ることは、実感を主とすべきだと思う。実感することによって生命の実在を認識することは可能であろう。実感は認識の指標となり、認識は評価へと繋がるからである。このような発想のもとに体系化された価値論を筆者は、生命原理の価値論と呼んでいる。
人間は、その行為において善を究極に求めるものとする考え方が間違っている。善いとか悪いとかいった価値判断も「安」に向かうのである。
しかし誤った安心感が、人間を悪行に向かわせることもある。「安」は、人間が求める究極の価値なのだろうか。
そう思える程人間は、「乱」を嫌い「不安」を嫌っている。人は結構、善いか悪いかを考えたりする。善いことでも、自分の利益になるかどうかといった損得を思考する。
そして、自分にとって安らぎを実感できるかどうかが最終的な価値基準になることが多い。善悪よりも利害を優先し、利害よりも安乱を優先する。
人は損得をさしおいても行動をすることがある。それは、自分が納得するかしないかだが、人は納得した後に行動することによって不安をとり除く。
このように、最終的に自分中心の考え方が横行することになる。結局、善悪も利害も自分あるいは自分の環境を中心にしていくことになる。まさにカントのいう自己愛であろう。
「善・悪」を究極の価値判断の基準に置くことは、「安・乱」を究極に置くことと同じ位に誤りなのである。善悪を見抜く智慧によって、「善」を確定し、「善」を根拠にした利害の判断をする。その判断の結果によって安心を得る。
このように、「善」より出発するか、個人的な安乱の判断より出発するかは、大いなる違いが現れる。
しかし、どちらにしても安利善と乱害悪という対立する概念を持った判断基準に対し、超越する聖あるいは神を設定することの危険だけはさけたいものだ。
さらにこれらの判断基準に順序性を設けることもさけた方がよいと思っている。「善」より「利」とか、「安」より「善」とか、個人より社会といった発想にも危険を感じるのである。
牧口の言う「私権より公益のほうがより善」であるという社会概念は、暗い歴史を思い起こさせる。4才年上の夏目漱石が行った学習院での講演を牧口は、聞く機会があったであろうか。
安利善の価値基準は、超越するものを持たない故に順位性を持たないのである。また、順序性だけでなく、それぞれに大中小といった量、あるいは質の各づけも無いほうがいい。そうすると、安利善は価値判断の基準にならないと思う人もいるかも知れない。
しかし、大善と小善では大善の方がより善であるという格付けは、現実的だと思うのが間違いなのである。大安と小安、大利と小利も現実に存在するように思うのも同じである。
安利善であれ美利善であれ、真善美であれ、それぞれの価値基準が単独では成立しないのが現実なのである。
全体の相関性において判断する以外にないのである。行動以前に規定が存在するような価値基準を価値の認識論で語ること自体が間違いなのであろう。
また、価値基準とは、行動後に人間の行動を判断する基準と規定しておきたいのである。例えば、自分のある行動に対し「大安、小利、中善」と判断したとしても大善でなくては、一切は語る必要性もなく無価値のように断罪してはいけないのである。
この場合はただ、「大安」に力点を置いた行動であったと評価するに留まるべきである。
したがって「安」とは何か、「利」とは何か、「善」とは何かといった定義の仕方の方が問題になる。「安」を調和、安定、安心と定義すればその意味において、「利」も「善」も確定されるだろう。同じように「利」や「善」の定義によってそれぞれの意味も異なってくる。
価値論における目的としての価値には、①欲求の対象としての価値(その場合、欲求には好き嫌いなどの個人的欲求から、社会的文化的欲求までさまざまであるが、そうした欲求にこたえる有形・無形のものが価値とされる)
②規範としての価値(好き嫌いにかかわらず、一般に善いと承認され、実現されるべきものを言い、それには道徳的規範などが含まれる)とがある。
またその他にもその目的を実現するための手段としての価値(何かに役に立つためにそのものが持つ価値)もある。
目的としての価値など本当に存在するのだろうか。行動や判断の目的はあっても、その目的にこたえる有形・無形のものが価値だとすれば、それが個人的であれ、社会的であれ目的者の欲求にその価値は構造化されてしまうことになる。価値論に好悪、好憎、好嫌をその基準にしてはならないと思う。
「好嫌の価値論」においては「美・利・善」でも構わないが「認識の価値論」においては「真・善・美・聖」でもよいだろう。しかし好嫌や認識だけの価値判断など偏りすぎているように感じてしまう。
価値を評価の対象とする以上、誰しも好嫌を基準にしやすいと思し、そのほうが分かりやすいともいえる。またカントのように認識の主体者が人間であり、客体は神であるから自己愛を否定し、より高い最高善を求めて欲しいと考えるのもありかもしれない。
しかし、経験主義者ともいえる牧口には自然や人間は、神の創造物であるという認識はなかっただろう。したがって、牧口の価値論の客体は、人間の対境となる自然や物事になるから目的としての価値に利や好き嫌いが入るのも自然といえる。
世界の調和・安定は平和そのものとなり、「安」が人類的に求めるものといえる。また世界の人類にもたらす文化の交流は、民族・文化の違いを越えて、それぞれの異文化間に利益を施すことになる。
「安」を世界平和とすれば、「利」は個々の文化を活かしつつ、それぞれの文化を有益にしていくことを意味する。世界の人類が自覚した民衆としての自立こそ平和と文化を相互に活かしきる智慧ということになる。この智慧の働きを「善」とすることができる。
定義は自由に決められる。価値基準の一つ一つをどのように決定するかが、その哲学によって異なるものである。即ち、価値の絶対基準など存在しないと考えるのである。
故に価値判断のスタートを「安利善」の何処からでも設定出来なくてはいけない。そのために「安」と「利」と「善」は自在に直結する必要がある。
「善」や「利」に大中小の格を付けるのなら何故「真理」や「美」に付けないのだろうか。
価値基準に「美」を入れることによって「善」の格付けや価値基準を超越した「聖」を設定しなくてはならなくなる。
安利善と善利安の円融は、価値判断の上に超越する「聖」を必要としないのである。この円融の価値体系は、後述するが、要は日蓮仏法による人間の行動規範となるものであると考えている。
したがって牧口の価値論とは、少し異なる点があるが、単に視点の違いだと思っていただきたい。
様々な価値論は、価値論的統合へと向かうだけである。生命を基準にした「生命史観の価値論」における認識の対境は、生命であるが、評価の基準は、「安心、利益、善行」の「安・利・善」であると考える。
真偽は好悪とは異質の概念ではあるが、美を価値判定の基準に入れることは、真理を入れることと同じである。美の価値とは五官によって獲得する所の感覚的・一時的価値である。
しかし、真理の普遍妥当性とは異質とはいえ、真理を美しいと感じるのも人間の情である。真理は美の究極に位置すると考えるのもまた人間であろう。
その意味においてカントの価値体系は決して不自然とはいいがたいのである。また価値が牧口の言うとおり本当に情的なものであるならば、吸引とか反発といった強弱や方向性をもたせたくなるのも理解できる。
例えば強く引き合うのを大きな価値と考えるのも自由である。しかし人間同士の場合は主客の関係性とはいえ、常に評価するものの主観が基礎となるが、どちらが主体になるかは平等である。
この価値判断の平等性は、人権の問題とも係わって重要な基準ともなるだろう。しかし、自然と人間との関係にあっても価値判断を必要とする場合が生ずるのである。この場合は人間のみが主体となる一方向性であり人間の独断でもあるのは止むを得ないだろう。
その意味では価値論自体が人間中心の価値観である。したがって人間が使用する道具や生活する環境に対し有効に活用することは大事であるが、そこだけに拘ると、価値論だけが一人歩きする危険があるのは、人類史をみても分かる。
その人間が意識した事柄に対し、価値判断するための認識が必要となる。この意識と認識の作用は価値判断の為の作用ともいえる。価値論において、審美的、経済的、道徳的価値を主体とすれば、そこにその人の人生観がみえるだけだろう。
人間を含めて人間関係もまた価値判断の基準に入れなければならないが、人間と人間との関係態に価値を見いだすことは可能だろうか。
それは、人間という存在そのものに価値を見いだすことにもなる。人間という存在そのものに価値を見いだすことができれば、差別的な人間学が横行することはなくなるだろう。人類史の中に起きた様々な悲劇の原因もこの差別的な人間評価によることが大半であるからだ。
人間の行動は、価値観の選択の結果によると思われる。それゆえに価値観の違いは、コミュニケーションのギャップを生むことになる。
さらに世代間ギャップも引き起こす。これらのギャップを埋めることは容易ではない。生命を価値基準にすると、様々な生命現象のすべてにわたって価値判断をする必要がある。
人間と人間、人間と自然、人間と物事にわたる価値論的考察とその原理を示すのが、生命原理の価値論である。
生命とは、有情と非情に亘る存在として顕在する。神が創造した自然や人間という概念とは大きく異なる。価値を単に物事との関係態とするのではなく、生命的存在とその関係態をも含む必要があるだろう。そうでなければ、価値は人間による「発見と創造」という崇高な行為を伴うことはないだろう。
生命尊厳とはいえ人間の生命を第一の価値として、他の価値基準と同列に観ることは出来ない。生命が神あるいは聖と同じになってしまうからである。
「真善美聖」と「美利善生命」となり、真善美が聖へ美利善が生命へと集約されていく。真偽を利害に、聖を生命に置き換えて論じた牧口の価値論をそのまま受け入れることは出来ない。
牧口の価値論に含まれる生命原理とは、視点の違いだけかもしれないが、人間の生命を価値ある存在と観ることによって「生命の保全」を第一義にした牧口の価値論に、何故、「美」の価値が必要なのかが分からないからである。
牧口は真理を価値基準から外し、利害を導入した。素晴らしい卓見である。けれども私は、利害を導入しても真理も美醜も外すことにした。なぜこのような違いが同じような生命原理の価値観から生じたのだろうか。
「生命の尊厳」の根底にあるものが、「無上の価値としての生命」とすれば、「生命」も認識・評価の対象となる。その場合、ある人にとって他人の生命を無価値あるいは反価値と評価することを許すことになる。そのためにその人が、特殊な認識を持つことになっても許すことになる。
「無上の価値」といえども、その認識の仕方は、人それぞれとなる。「生命」を認識の対象にするのではなく、「生命」とは、実感する対象なのであると考える。
認識することと、実感することの違いは、重大だと考えている。生命の尊厳を踏みにじるのは人間である。人間が人間の生命を無価値にしようとする。
けれどもこのような人間の行為を反価値と断定することは出来ない。価値論は、人間中心の価値論であっても、生命は人間中心には語り尽くせない。
そのことを前提にして人間中心の価値論を展開する必要がある。自然を破壊することが、人間の為に価値があると考えたら、それが例え破壊を目的にしていなくても、結果は自然の破壊となる。
生命と神の違いとは、生命の存在自体は「価値」の基準にはなっても、生命そのものが価値なのではない。生命は、人間との関係態に関係なく存在しているのである。
だからといって生命が神の別称ではない。人間も自然も「生命」によって創造されたのではなく、生命の作用として顕現したに過ぎないのである。
実感する対象は、生命の存在であって神の存在ではない。さらに生命とは有情非情に亘り、有限の無限に続く繰り返しの現象、あるいは作用なのである。
けれども「聖」とは、神の行為に対する名称だと考えれば、「神の行為」に少しでも近づく人間の行為基準に真善美を設定することに不自然はなかったといえる。問題なのは神の行為に対する解釈のほうなのである。
同じように生命の本来的な働きに、即ち「生命の作用」に人間の行為を近づけようとすれば、美利善と考えても不自然ではないだろうが、神と人間の行為の解釈の違いだけである。
けれどもそれは、生命に対する思考の違いでもある。生命の尊厳は、価値判断の評価の対象とは、別次元であると考える。
存在そのものに価値を見いだせるかどうか。神、生命、真理といった存在は、人間との関係がなくても価値ある存在と見るかどうかで異なる価値観が生まれる。
すなわちこれらが、認識の対象になるかどうかである。存在するだけで価値があるといえるのかとか、主体者が価値を決定すればいいのかといった問題提起である。さらに、価値とは、主客の相対関係であるとし、価値はすべて相対的なものと考えるかでもある。
牧口常三郎のように価値は創造されると考えれば、神、生命、真理は価値基準に含むことを認めないことになる。
創造されるのは、存在と人間の関係態であるとするならば、神、生命、真理と人間の関係態を模索すればよいことになる。真理そのものは創造出来なくても、真理と人間の関係態を模索することによって、真理の存在に価値が観えてくるだろうからである。
けれども価値は、自然のままの存在から人工的に手を加える作業を介して、有益性を高めることを価値創造だとすれば、自然のままでも価値はあるが、その度合いを高めるだけが、価値創造ということになる。創造なのか改造なのか改良なのかよく分からない。
新たに生み出す価値など本当にあるのだろうか。新たな「美」の発見と創造。新しい自分の発見と創造。新たな人間関係の発見と創造。新たな国際関係の発見と創造。
創造は、発見という感動から沸き上がる人間的行為といえる。となると、ことさら「創造」という言葉に力点を置くことはないようにも思えてしまう。
不可思議な事柄の代表格なのが先にあげた「神」や「仏」、「生命」だろう。この三つの事柄を価値の基準の根幹とした時に人間は様々な哲学を生み出したといえる。
けれども生命を価値判断の基準に据えることは、神や仏を基準にすることと本質的に異なるといえる。神や仏は絶対基準にし易いが「生命」はし難いといえる。
ましておや仏法のように「生命」が有情非情に亘ると考えるとますます複雑になってくる。従来の形而上学を否定したカントやヴィンデルバントの気持ちが理解される。
日蓮仏法より観た生命に対する思考を人間に当てはめて考えた時、人間の生命状態のなかで特に菩薩の境涯を基準にしているように思われる。
なぜ「仏」ではいけないのか。ここに釈迦の仏教やキリスト教との違いが見える。さらに日蓮仏法では、人間に限らず一木一草すべて菩薩であると考える。従って「仏」とは、菩薩の行為の名称ともなることがある。
価値は、人間中心の原理と考えれば、そこに「神」や「仏」を基準にするよりも、菩薩の行為基準と考えたほうが明確になる。
仏に成ることを「成仏」するとは言わない日蓮の思想は、あくまでも人間中心の思考といえる。即ち「成仏」とは、人間自身の生命の内に「仏の境涯を開く」と定義されるのである。
成仏を目的としての価値とし、価値の獲得のための媒介が三大秘法となる。そこで求められる価値は、安・利・善である。広宣流布は手段としての価値となる。目的としての価値は、思想・哲学によって自由に設定できる。
このへんの理論展開は、後日、してみたいがあまり観念的な理の一念三千にならないようにしなくてはいけないだろう。
このような「仏」の定義に対し「美」をどのように定義できるだろうか。「美」の究極が、美しい真理や方程式といった「神」の意志や行為、あるいは人間が創造する芸術美だとしても、その「美」自体が人間にもたらす価値は、人間の生存という観点から見ればけっして多くはないだろう。
「美」の創造は、元来、発見に重点が置かれているように思えるのである。物理学や数学の数式を美しいと感じるのも人間である。自然は、それほど複雑ではなく驚くほど単純であり対称性を持つと。
人類史上最も美しいと言われるオイラーの公式などで現される数式や宇宙方程式などもその簡潔性と対象性において美を感じている。
人間界もあまり複雑に見過ぎないほうが好いのではないかとさえ思える。もしかして人類史上最も美しい人間関係式は、生命(時間)=南無妙法蓮華経という等式かもしれない。このことは、人間関係論序説で考察していきたいと思う。
美が人間にもたらす価値は、けっして多くはない。仏教においても色香美味の違いに大差がないように思える。
菩薩の行為と人間中心の価値論は、「真善美聖」でも「美利善」でもなく、「安利善」となるだろう。菩薩の衆生救済の行為は、「安」の価値を衆生に指し示す。そしてその菩薩の行為は、「利」の価値を基準としているように思える。「利」によって「安」を導く行為そのものを「善」の価値としているのではないだろうか。
いずれにしてもこれらの思考には、価値基準の順序性は見えない。価値は、「善」を目指すとか、「善」の価値が価値基準の最上位であるといったものではない。
それゆえに、それぞれの価値基準に大中小といった比較も意味がない。大善と小善の違いなどといった思考そのものが、観念的な基準にすぎないように思える。
同一主体が、様々な対象に抱く価値観、また同一対象にたいしても同一主体が常に価値を感じるとは限らない。
さらに多数の人々が共通して価値を感じてもその度合いが異なることもあるだろう。価値観について語る時、建て分けとその度合いが複雑に入り交じってしまう恐れを常に抱えているといえる。
社会が評価の主体者になった時、その対象が「人」または「人の行為」、あるいは「物」の場合もあるが、個人の主観的な価値判定は客観性を持たないとして切り捨てられることも考えられる。
社会的な価値を個人的な価値に優先させる発想には危険が付きまとうと思うのは私の思い過ごしだろうか。
価値に順序性や序列性といった質的基準、あるいは度合いやベクトルといった物質的な量的基準を設定する事自体に危険性を孕むことになる。
これはなにも国家主義だけでなく、会社や組織、団体、家庭にあっても同様の問題をはらんでいると思われる。人間対人間の人格を尊重したコミュニケーションのあり方をも問われることだろう。
しかし、物事を思考する場合に、これらの質的量的基準は、思考を容易にさせる便利な手段だともいえる。したがって私の主張する「有情・非情に亘る生命」を基準にすることは、思考上にかなりの困難さを有すると想像できる。
牧口における価値は、価値ある物事にもともと備わっているものではなく、ある物事に価値を見いだす人間とその物事との関係態が価値という。
それゆえに真理は、認識の対象であるから価値基準にはならない。価値は人と対象との関係性だから、人により時により環境によって変化する。価値の変遷。価値を価値たらしめるもの。価値を人間の生命と対象との関係性。生命活動には様々な側面がある。それに対応して価値がある。それを大別して美利善となると述べる。
さらに牧口は、「関係性のなかには、反価値をも含む」と主張する。引き合うも反発し合うもその力関係に価値をみる。
ゆえに「関係性というのは一般的な表現であって、物の性質と人間の性質とが相応じ合っている『力』または『作用』の発動されている状態を価値という」と論じている。
価値判断は、単なる認識と評価だけでなく、判断者の行為の前提にもなる。人間の行動原理にはその行為者の価値基準が明確であってもなくても、その人格形成の過程の中で培われたものによって、自然に価値判断をしているものと思われる。
したがって、「発見と創造」に加えて「獲得」すべきものであると考える。性質と性質が相応じ合って力または作用が発動されている状態を価値であると定義しても、価値が単に状態価値として存在するだけでなく、人間の人格に与える影響も考慮すべきだと思う。
「発見」に重きを置いた価値論は、価値基準が人間以外の全知全能の主の価値基準を一切の価値基準とし、人間がその価値を生活の中で発見することを意味している。
また、「創造」に重きを置いた価値論は、神に代わって人間が価値を創造するという積極的な人間中心の価値基準となる。「神」中心か「人間」中心の違いだろうと思う。
それでは、私の言う「湧現による獲得」とは何か。人間の行動規範は、生命の保全すなわち「安」を肉体的にも精神的にも求めていると考えられる。
したがって価値が、人間の意識的な思考結果に依るだけでなく、無意識にも成立する「湧現による獲得」の概念を含ませておきたいと思う。
もちろん無意識では「獲得」したこと自体を意識できていないと言うかもしれないが、人間の行動原理はその行動に現れた結果から、発見から獲得へ、創造から獲得へ積極的に人間生活に取り入れてこそ価値が生じるのである。単に「発見」することでも、後から「創造」することでもない。
価値論が観念的な理論に止まることを防ぐためにも、価値の「発見と創造と獲得」の現実的な行為の中で、人間に係わる全ての関係態が価値であると定義するのである。
もちろん牧口の価値論にもこの「獲得」の概念は存在する。ただ牧口の獲得するものは、幸福生活の実現のために、幸福の内容を価値の獲得と定義し、求められるべき価値として美・利・善を挙げたのである。
さらに「獲得」には、もっと積極的な意味がある。人間の生命に内在する力は、本来、具わっている人間の力でもある。
けれども「獲得」といっても自然に獲得できる訳ではない。発見や創造と同じくそこには人間的な行為と努力の結果によって得られるものである。
その意味において私の言う「獲得」は、「顕現」と同義だと考えてほしいのである。価値は、無意識にでも意識的にでもこれらの関係態を、単純に本能的な行為で派生する関係にすぎないとするのではなく、これらを生命的関係態とするのである。
したがって広くみれば、真理も美も価値基準とすることを否定するつもりはない。「美」の発見と創造だけでなく、真理の発見にも価値の関係態は存在すると思えるからである。
また、真理の発見は、人間にとって「創造」ではなくても「獲得」に近いと考えても不自然とは思えないのである。
人間にとって、「美」の創造が、獲得という価値を生じると考えても不自然ではないだろう。にもかかわらず、「美」を価値基準から外すことに問題はないと考えている。



価値論序説 第二節

人間は「美」よりも「安」を求めて「生きる」ことが、自身の生命の保全にとって欠かすことが出来ないことであり、無防備に得られるものではないことを生命で感じているからである。
安楽・安国・安心・安全・安寧といったことだけでなく、安易なことにも人間は執着する生き物である。反対に不安は人間の心を乱す。乱れは不信を生む。
社会の「乱」が、個人にとって「安」となる状況も考えられないことではない。一人の人間を基準にしたときそれは、より多くの人間にとって「乱」なら「悪」だと単純に決められない場合もあると思う。
革新的行為を「乱」だと退けてはならないだろう。「乱」と「悪」とは別概念であり、別基準としたほうがよいだろう。
序列構造、学歴社会、一元的価値観、マニュアル思考等々が将来引き起こすであろう様々な社会的問題を誰も想像できなくなっている。その原因が、深く現代人の心に浸透してしまった序列の価値観にあると思っている。
乱や害を悪と結び付けたり、序列や順序を設定してはいけないだろう。すべてが善悪に向かい、善悪の絶対基準を設けたくなるからである。
価値判断の絶対基準を人間以外に求めることになってしまうからである。人間の心の変化、価値基準に大きさや順序といった規定を設けてはいけない。
あるのは、下記のような意識的変遷と流れによる関係態である。
安 → 不信 → 不安 → 乱 → 止乱 → 信頼 → 安
利 → 不信 → 不利 → 害 → 止害 → 信頼 → 利
善 → 不信 → 不善 → 悪 → 止悪 → 信頼 → 善
不信を信頼に変えるためには、人間主体の安利善を設定できるかどうかに懸かっているといえる。不信と信頼という意識が、どのような形で人間の心に形成されていくのだろうか。 
そこで人間の意識について少し考察しておきたいと思う。意識とは、人間の主観的認識体験の総称とされている。
五官(視・聴・臭・味・触)による働きである感覚や思惟により、心の内に形成される色彩、形態、大小、喜怒哀楽等が意識内容とされる。意識は継続的に経験される性質をもち、認識、情緒、意志活動として作用しつつ、一定の人格を形成するとされる。
西洋哲学における意識についての考察は、古くはプラトン、アリストテレスも意識を思惟し、三世紀のプロチノスは自我意識を最高善、超存在的一者であり、一切物の現出する源である神にふさわしい営為として強調したりしている。
デカルトは自我(考える我)の存在を理性とし、意識は理性と同義とした。十八世紀のボルフは対象を区別する作用を意識によるとし、更にカントは超個人的普遍的な意識を意識一般と呼び、認識作用の本体とした。
ロックは感覚的経験を知識の起源とし、意識の機能を重視したが、ヒュームは逆に実体の存在を否定し、自我を観念の束とし、これから成立する学問に懐疑的態度であった。
その後、新カント学派の西南ドイツ学派は、意識を論理的価値成立の条件とした。ハイデッガーは、実存として前存在論的自己了解とし、サルトルは、無意識を否定しそれを否定的自己意識として、人間の本然的自由を強調した。
ほかにも心理学における意識分析などがある。ブントの構成心理学やブレンターノの作用心理学、フッサールの現象学、更に、無意識を重視し、深層心理に迫るフロイトの精神分析学やユングの分析心理学などがあるが、面倒だから省略させてもらう。
つぎに仏教における意識についてすこし述べておきたい。梵語ヴイジュニャーナの訳で、対象を認識し判断する働き、また、その働きを担う主体、さらには心全体、生命活動の主体をいう。
仏法では、心の働きとして、識のほかに、心(チッタ)、意(マナス)などがあるが、部派や大乗の諸学派で精緻な分析的哲学が発達するなかで、それぞれの立場から種々の定義がなされ、相互の共通性や差異が種々、論じられている。
五陰(色・受・想・行・識)の一つであるが、五陰については前に述べたとおりである。そこでの識は、対象を感覚器官(色)で受容して生じた知覚(受)に基づき対象の像を描き(想)、それを種々の知覚・知識などと結びつけて位置付け(行)る。それに基づいて行われるところの判断する働きのことである。
また生命根源の迷いから生死の苦悩への連鎖とその連鎖からの解放を説いた十二因縁の一分支にも用いられている。
そこでの識は、自他の区別など識別する働きで、行(一つのものとしてまとまりを作り上げる形成作用)によって起こり、名色(名称と形態をもつ個物)を引き起こすものとされる。
さらに生命を構成する十八の要素である十八界の一つに挙げられる。そこでの識は、感覚器官(根)がその対象(境)に触れて生じる知覚・認識をいう。
眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官(五根)と、精神的な知覚力である意根を加えた六根がそれぞれの知覚対象である色・声・香・味・触・法の六境に触れて生じる認識をそれぞれ眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と呼び、まとめて六識という。
その他、中部経典(マッジマ・ニカーヤ)の多界経や世親(ヴァスバンドゥ)の倶舎論等でも論じられている。
仏教では、心の働きの中心となるものを識とし、それを種々に分けているが、六識が九識に、さらに十、十一識になったりする。
いずれにしてもこれらの数字にどのくらいの意味があるのか分からない。天下一、三国一、超、超々と超がいくつ付けば終わるのか。最高、最上、極上と勝手に格付けしてしまう。そしてどんどんウソっぽくなる。
日蓮は、その著作の中で、煩瑣な識説を展開することなく、主としてその当時の説をふまえつつ、南無妙法蓮華経と本尊の説明のために用いている。
総勘文抄では「只一物・経経の異説なり~今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり」(568ページ)とし、南無妙法蓮華経こそが宇宙の根本の真理であると断言する。
日女御前御返事には「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(1244ページ)と。
また御義口伝には「南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり、十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し」(714ページ)。
「我観一切普皆平等とは九識なり無有彼此とは八識なり愛憎之心とは七識なり我無貪著とは六識なり亦無限礙とは五識なり我等衆生の観法の大体なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は豈我観一切普皆平等の九識の修行に非ずや」(730ページ)。
「既に妙法蓮華経を頂く故に十方仏土中唯有一乗法なり妙法の方便蓮華の方便なれば秘妙なり・清浄なり妙法の五字は九識・方便は八識已下なり九識は悟なり八識已下は迷なり、妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟不二なり森羅三千の諸法此の妙法蓮華経方便に非ずと云う事無きなり」(794ページ)等々と。
人間の意識は、本源的自己へと遡るとともに現在の自身の境遇を見つめることになる。宿命とか宿業とか善悪や価値を考えたりする生き物である。宿命や宿業を日蓮仏法より観れば決定論ではなく可能性と必然性を備えた現在性となる。
未来が人間の支配下にあるからこそ希望と確信が生まれ勇気ある行動が出来るのである。人間は未来への可能性を放棄してはならない。現在を見失うことになるからである。現在に可能性と必然性をみることが出来なければ、不信から信頼への転換はなしえないだろう。
人間主体への価値転換は、不信から信頼への転換より得られる安利善の価値観の確立へと向かう。従って善悪の基準も人間の行為によって、即ち現在性において決定されると考えるのである。
御講聞書には「所詮此の一切智地をば九識法性と心得可きなり、九識法性をば、迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり、無分別智光を空と云うなり、此の九識法性とは、いかなる所の法界を指すや、法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体・本有の妙法蓮華経なり、此の重に迷う衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立ち出ずるなり、さて終に本の九識に引入する、夫れを法華経とは云うなり」(826ページ)と述べ
さらに「蓮華とは本因本果なり、此の本因本果と云うは一念三千なり、本有の因・本有の果なり、今始めたる因果に非ざるなり~日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくしては本果有る可からず~九識本法の都とは法華の行者の住所なり」(808ページ)と。
日蓮の九識論を種々並べたが、私は元来、価値論をこの九識論から語るべきであると考えていた。
価値論といえども日蓮仏法を主体に展開すべきだと思ったからである。というのも日蓮仏法が天台所立の円頓止観、すなわち観念観法の坩堝に嵌らない生命哲学であるから、教相上の観念論にならないと確信していたからである。
しかしそれは二つの理由から止めることにした。一つは序説ではなくなるからである。また時間がないのが二つ目の理由である。志のある若い方に任せたいと思っている。
「成仏」という言葉一つとっても哲学的思考は不十分である。また「広宣流布」という表現もその定義は不明確である。キリスト神学は千年かけて完成させたという。キリスト神学以上の創価教学を確立して欲しいと願っている。
人間の生命状態を考慮して価値を考えると十界それぞれに適合した価値観が存在することになる。そこで仏界の価値観を絶対基準にして、すべてを批判することは「神」を基準にするのと同列となってしまう。人間中心の価値観を思考する場合は、菩薩界を基準にしなくてはいけないだろう。
仏界と菩薩界の違いは、境界や立場の違いだけではない。人間は「神」にはなれないが、「仏」には成れることになっている。
しかし、「仏」そのものに成るのではなく、人間自身に実在する「仏」の境界を顕現するという意味である。日蓮仏法ではこのことを「仏に成る」というのではなく「仏を開く」と説くのである。
すなわち、人間が菩薩の行為の実践のなかで、自身の生命に実在する「仏を観る」ということが「仏を獲得」することになる。「獲得」と「顕現」は、同等の意義を有するものである。
価値の体現は、相対的であるゆえに大善とか大悪といった設定に意味がない。極上とか無上の善悪が存在するような錯覚を与えることになる。
同様に「安」と「乱」に対しても極上の安乱とか無上の安乱を設定することに意味を見いだすことは出来ないのである。
「利害」という価値基準について考察してみたい。牧口が「利」の価値を認めたことは、素晴らしい卓見であると思う。その理由は「利」もまた人間が、その生命に直接感応する「発見と創造」だけでなく「獲得」すべき価値判断の基準となるからである。
そもそも安乱や利害、善悪といった価値判断の基準は、何故、必要なのかを考える必要があるだろう。
誰かにとっての有益は、他の誰かにとって無益、あるいは害益だったりする場合がある。また大自然の恩恵や災害もある。人間が係わるあらゆる存在にこの利害は付きまとうものである。個人、家庭、職場、社会、国家や自然、地球、といった宇宙大から微生物に至までその関係態は含まれる。
価値を正価値と反価値という対立概念で把握してもいいのだろうか。利と害といった概念が単純に対立する概念だと考える思考形態は仏法的ではない。
対立する概念は、それらを統合する概念を必要とすることになる。利から害への転換または逆方向の転換であっても双方が単独で存在することはない故に、何が絶対利で何が絶対害なのか決定できないから、何が転換されたのか不明となる。
同じように「善悪」についても「善」が正価値で「悪」が反価値といった建て分けにどのような意味があると言うのだろうか。
「何が善で何が悪かを知らなければ、生きていくことは不可能だ」とはトルストイの言葉である。
社会的動物である人間にとって、共同体でのルールは必要となる。ルールを破ることは悪であり害としても社会の中の力関係が優先してしまう。歴史が勝者への贈り物であるのも事実である。無駄遣いし放題だった官僚だって、日本国のためという大義名分によって罪の意識は遠のく。
前に述べたように権力者の安と民衆の安では、その内容は異なる。同じように利害も善悪もその立場によって異なる場合がある。したがって人間の行動評価に絶対的な基準を設定することができなくなる。
善悪も仏法的に思考すれば、善悪不二となって両者の存在論となる。善悪がそれぞれ独立に存在しているのではない。また大善といってもさらに極上、無上の善が設定されていくことになる。
もちろん善と悪は不二であって同一ではないし、対立する概念でもない。これを仏法では無分別という。したがって価値の正反という思考は、考え過ぎだろう。正価値を否定すれば反価値になるといっても、否定の度合いが不明である。
仏法では、悪は否定される存在ではなく、あくまでも止める対象となる。防非止悪であって、悪を無くしたり削除したりするのではなく、活動を止めるだけの対象となる。
利害も安乱も同様であるが、美醜はこれらと同様に見ることは出来にくい。ゆえに、美醜を価値体系に含めることは馴染まないのである。
一見対立する概念に思えるものでも実は一連の連関をなしているということであって、それぞれが独立して存在するのではない。
価値に大中小という量的基準とか上中下といった序列、順序性を規定すること自体、誤りといえる。真善美聖における「聖」という統合の概念が存在するから「聖」に近づくという意味で序列が必要となる。
牧口は「対象は主観に相応した時に主観は利害を感じるという精神作用を起こすのである。我々はその作用の程度によって力を評価し、価値として認識する」とし、さらに「価値は目的に対する手段の関係に立って実在(物事)が(物質的でも精神的でも)その目的を達成させる力の総量をいうので、人生(人間生活)の目的である生命の保全に対して有利と判断される各々の種類・程度に則して善といい利といい美」という。
牧口は何故、このように程度とか総量というのかというと、関係性の度合いを気にするからである。それゆえに、牧口の価値論は、序列、順序さらに程度といったものを取り入れて語ることになる。
貧しい庶民群のなかで、ことさら生活の差別を感じていたであろう牧口にとって、庶民の生活向上は必須であったように思える。とはいえ牧口は、気骨ある明治人の美学を重んじたようだ。自身の人生もまた牧口美学を貫いた一生であったと思う。
けれども「大美」とか「小美」とは一体なんだろうかと考えてしまう。「善」や「利」には、程度があっても「美」に程度や総量を導入する根拠がない。
もちろん牧口の思想の中には「大美」とか「小美」という言葉はないが、それなら何故、「善」や「利」にはあって「美」にはないのかと問うことになる。
「美」は人間の情的感覚の度合いとはいえ、それに大中小でなくても「特上・並・並以下」や「松竹梅」等の名前をつけること自体に無理があるだろう。
しかし「善」と「利」と「安」には付けやすい。何故かというと影響力、関係力また関係性といった量的、質的な程度をより広く、より大きいといった言葉で表現し易いからである。
価値の発見、創造、獲得は、生命史観の価値原理より思考されなくてはならないだろう。価値は物事との関係態とする牧口の発想には、人間と人間の関係態は含まれていないように思える。道具主義的で実用主義的である。
けれども人間は人間に対しても価値評価したがる生き物である。他人に対しても物事と同じように美利善という価値基準で評価しようというのであろうか。
評価される側からすれば「ほっといてよ」「あんたに言われたくないよ」ということになる。評価するのは自由であるが、評価の双方向性を有効にする場合は問題ないが、一方向性を社会的人間関係において強制されている場合は問題が生じることになる。
パワーハラスメントやセクシャルハラスメントである。このような人間関係において「力」または「作用」が発動されている状態が現存する場合に、価値基準はそれぞれの立場によって都合よく解釈されることになる。
さらに美利善の価値体系に男社会の価値体系を感じてしまうのは、私だけだろうか。女性は美を行動の価値基準にするよりも安心を求めているのではないかと思われるのも私の考えすぎだろうか。
価値基準は、科学と宗教の媒介ではなく、日常生活と宗教の媒介として把握されていく。ところが男性は、自然科学にロマンを感じる生き物らしい。
つまり男性は、ロマンと宗教の媒介に価値基準をおきたがるのである。宗教という非日常的人間の行為と意識を、生活という現実の日常性のなかに活用しようとする女性たちと、ロマンという非日常的夢想の世界に価値論の価値を見出そうとする男性の違いは大である。 これを一言で言えば、現実的な女性と観念的な男性の違いといえなくもない。
芸術作品が、有限を介して無限に至るという人間の願望。過去の作品が、遠い未来の人々に感動を与えた場合にこの希望は叶えられたということになるのだろうか。
「美」が発見されるものなのか、創造されるものなのか。いずれにしても「美」が人間の意識的な存在として意味を持つ。意識的である故に、物理的な客観性は存在しないが、物理法則を「美」と感じるのも人間である。
ただ物理法則のように存在するものを発見することもそうであるが、発見する対象が「美」であれ「真理」であれ発見するという意味は存在を意味している。
カントはそれを神の主観と云った。ところが牧口は「ある物事に価値を見いだす人間とその物事との関係態が価値」であると規定した。
「真理」や「美」を見いだした、発見した人間とその「美」あるいは「真理」との関係態を価値とするなら「真理」を価値体系から除外する意味が判らない。
即ち、発見あるいは見いだすといってもそれは創造ではないから、仮にある物事に価値を見いだした人間がいたとしても、その物事に本来備わったものでないと何故言えるのだろうか。
仏法でいう仏性も同じで、顕現することと、見いだすことの違いは何処にあるというのだろうか。日蓮仏法ではこれを理事に立て分けて述べているところではあるが、この理事は価値基準ではない。
さらに価値を力のような物理量あるいは影響力でみようとするから、価値に程度の差があるように思ってしまうのである。これも科学万能主義からくる思い違いである。この勘違いから脱却するために、価値という関係態における主体と客体の間に中間項としての媒介を設定することが必要であろうと思われる。
人間主体の関係態といっても自身が客体になることもある。精神が認識の主体で、客体は物事や事象だけでなく精神の評価という場合もある。
客体がいかなる存在であっても評価するための精神作用は、人間の行動規範という媒介の存在があって成立するのである。仏法ではこれを戒定慧と名付けている。
この戒定慧の三学の解明こそ生命原理の価値観を確立する基本ともいえる。戒定慧の三学を日蓮は、三大秘法と展開した。日蓮仏法より価値論を考察する前提となるのが、三大秘法論である。
日蓮は生命の十界の状態に対し仏界は「善」の価値基準より、菩薩界は「利」の価値基準より、八界は「安」の価値基準より導かれた結論としての境涯と考えたと思っている。
菩薩行の実践者・日蓮にとって行動の価値判断の基準に「利」を中心とすることは当然といえる。八界に埋没する衆生の生命は、概して「安」を求めているからである。
「安」は、その意味において自己中心的な衆生の行動規範に成りやすいといえる。このような衆生に利他の徳用を説くことによって「安」の本義を示したのである。
菩薩行を主体とした価値論は、利他行より安利善を確定する智慧の開発作業より生まれるものだろう。同様に自身の利他行の本義を示すために「仏」の徳用を説く必要があったといえる。
日蓮は、自身の行動を評価する時、その大前提として「法華経は自身のために説かれた」とした。その上で、まず「安」の意義を説くのである。
「安」を安国(平和)とするとき、「利」は民衆の文化に反映し、「善」は自立した民衆の智慧(教育)を呼び覚まそうとしたのである。
三大秘法が実践論的意味をもって、平和・文化・教育に生き続けることになる。即ち、自身の行動を「菩薩の行」「法華経の行者」と確信し、菩薩行における行動の基準を安利善と設定して見続けた一生である。あえて「絶対善」を設定するならそれは、菩薩の行をさしていう言葉に他ならないといえる。
主体と客体の間の中間項としての媒介を設定することによって、異なる文化間の人間に共通するコミュニケーション媒体が生まれる。
もっとも同じ文化内でもコミュニケーション・ギャップは存在する。文化内どころか家庭内であっても同様だろう。実践論的意味を持つ三大秘法の価値論的考察が必要であろう。
主客の価値媒介としての三大秘法とは何か。異文化間、時代を超えて法を広めるための媒介が菩薩であったし上首上行であった。(媒介としての上行菩薩については、日蓮本仏論序説を参照のこと)
媒介とは、不改の体に相性の転換作用をもたらすものである。主客の価値媒介に修行の規範としての三大秘法がなりえるのか考察してみたいと思う。
三学という修行の規範である戒律、禅定、智慧の関係は、戒によって定をたすけ、定によって慧を発し、慧によって仏道を証得するということである。
日蓮仏法における三大秘法は、過去においては、三学となって修行の規範になり、現代にあっては、平和、文化、教育となって広宣流布の活動の規範となっている。
戒は本門の戒壇であり、これを善行止悪という文化の本義とみる。人間が地球上に様々な生活様式を作っていても、人類という共通の意識を持って共生することにより、異文化間の争いを止めることになる。
さらに人間と自然が共存するという依正不二の原理を掲げる仏法哲理の実践は、人間が人類として自然の中に共生・共存を可能とすると考えるからである。
定は本門の本尊であり、静思塾考の修行の対境として把握する。戒が定をたすけるとは文化の交流、人間の対話なしに平和はあり得ないということである。
人類の平和創造の原動力は人間としての自立、自己完成へと静思塾考を必要とする。自覚した人間の思考の対境を平和へと向かわしめる姿を定というのである。文化が平和を助けるのであり、文化の存在する場こそ平和の建設される所となる
慧は本門の題目であり、利剣明智である。現代文明に巣食う病根を断ち切る智慧の利剣であり人間の様々な欲望のコントロ-ルや科学技術の指向性をうながす人類の英知として、教育の本義をみるのである。
定によって慧を発しとは、平和への思考性によって偏った教育でなく人間の智慧を開発する教育のあり方がみえてくる。人間を賢明にし、人間の精神性を高め、人間の哲学性を深める教育をして、平和を求め人類の破局を止める源泉となるだろう。
主体と客体の間の中間項としての媒介を設定することは、主体にも客体にもなりうる自身の内にその媒介を持つことになる。
個における戒定慧の順序性は、社会にあっては慧定戒の順序性を持って、平和と文化と教育の本来の有り方を指向する。
まことに慧によって仏道を証得することになる。この仏道こそ、日蓮にとっては「菩薩行」に他ならない。
高い精神性と深い哲学性は、人間の意思と人格を通じて人間を陶冶する。自由・平等・慈悲は人間の尊厳として犯してはならない権利である。
したがって、人権を踏みにじるのも人間である以上、人間の精神性を高め、自覚した人間による判断力が欠かせないのである。自覚した人間とは、特別な人間でも指導者でもない。自覚した民衆でなくてはならない。
人間の持つ魔性が現実の世界に権威、暴力であると位置づけてこれらに屈しない行為を善とする判断基準を持つことこそ、人間性の尊厳、人権尊重を標榜することになる。
人間が自身の変革の必要性を感じる時、それは運命や宿命との戦いの中においてしばしば思うものである。
運命とするか使命とするかは、自身で決定できるという自由意思による哲学は、生命への深い洞察を持つかにかかっている。
筆者が、池田名誉会長に使命とはなにかと質問したときの答えは「使命とは自身が自身に課する義務である」と述べている。
三大秘法については、日蓮仏法を知らない人には馴染みのない言葉であろう。しかし、正直に言うとこれらの言葉を説明するのは、とても面倒なことで時間もない。別の書籍で勉強してもらいたいと思う。
文化という「境」の開花と、教育という「智」の開発は、平和という安定と調和のなかに冥合されてその真価が発揮できるだろう。安定を嫌い戦乱を好むのは、悪の本質的行動といえる。
立正安国は、一国の安定、平和の為だけでなく、個人においても成り立つ原理である。立正とは、民衆レベルの「安」「利」「善」の価値基準から平和、文化、教育を目指した行動の根本的支柱となるものである。
けれども立正を絶対善とするのではない。「善」が「安」を生むのではない。民衆の運動論としてまず「安」を確立することを目指すのである。
正を立てる場は一人一人の人間であり自覚ある民衆の意味である。そのうえで、社会、国家、地球という異なる視点を持つことが大事であると言える。
戒律を護ることは、社会にあっては社会規律を守るようなものである。仏道修行にあっても、その戒律を作成することは修行僧にとっても教団を維持する場合でも必要なものであった。
その戒律に対し、日蓮がとった姿勢は極端なものであった。一つは金剛宝器戒である。さらに、修行としての戒の定義変更である。
戒を単純に戒律とする従来の解釈では、末法の法華経の修行に相応しくないと考えた。日蓮が考えた戒は、本門の戒壇である。この本門の戒壇の定義が日蓮仏法の特徴の一つともなっている。
戒壇が本尊を安置する堂と解釈されるのは、当時の社会情勢の上から致し方ないだろう。さらに日蓮は、本門が単なる経文上の優劣ではなく、一人の人間の生命観となって展開されていくのである。
そうなると戒壇の定義は、一重深くなる。末法の法華経の行者は、その行為と生命状態において、菩薩の体そのものが「戒」となる。これが本門の戒壇の真意である。
個人の宿命転換にあっては、菩薩の体である自身となり、社会の宿命転換にあっては、法を広める社会そのものが「戒」となる。
この場合は、具体的には、社会にあってその社会を形成する様相そのものが「戒」となる。すなわち文化である。
「戒」と同じく「定」の定義も変更しなくてはならない。「定」を社会の平和、繁栄と個人の幸福にせざるを得なくなる。
現代において広宣流布が社会運動と定義されると、当然、社会的責任を生じる社会団体としての文化活動の基本路線を明確にする必要がある。
本門の戒壇が何故、文化運動となり、この活動自体が仏道修行となるのかを定義できなくてはならない。
曼陀羅の本尊と本門の本尊の違いを明確にし、観心の本尊と本門の本尊の違いから、社会運動としての平和推進活動を修行とする。
個人の幸福とは、生存の安定がその基本となる。人権の尊重、生命の尊厳等は、すべてこの発想から生まれるといっても過言ではないだろう。
教育とは何か。現代社会にあって、教育問題はその問題の本質を見抜く英知が、正しい生命観に則って輝く智慧を必要とする。
我々人類は、知ることが出来る全てを発見してしまったと言えるだろうか。否である。あらゆる学問の分野における知の探究は、今後ますます複雑さを伴いながら発展するだろうが、もう完璧であるといったところまでいけるとは思えない。
単純な科学信仰者は、今はまだ未知の多くの分野があったしても、いずれ人類は、時間の制約を考えなければ必ずや全てにわたって克服するであろうという希望的感想を述べる。
人間関係(親子・家族も含む)や自分自身の才能、あるいは自身の人柄の欠点等の様々な難問を科学で思い通りに解決したいのだろう。
ましておや家族・社会・国家といったレベルであっても思いどおりに解決出来ると思い込める科学者が本当にいるだろうか。
嫉妬や妬みといった感情を科学的に解決出来ると本気で考えているなら、それこそ単に科学教の信者にすぎないだろう。
どこのどんな親でも娘や息子を自分の思い通りになるなどと考えている人は一人もいないだろう
創価教育の目的として人格価値の創造や理想の人格を獲得するという。またカントの言う内なる道徳法則、普遍的立場に立つ道徳の要求から、目的としての人格とか、人格的完成等々に使われる「人格」について考えておきたい。
パーソナリティ(personality)という言葉は、ラテン語のペルソナ(persona)に由来し、劇中で登場人物がかぶる仮面を意味していた。そこから人物の役割を指したり、広く性格などを意味する言葉となった。
一般的には人柄、性格(この場合はキャラクターともいう)をさし、法律的には権利能力をもつ主体をさすが、哲学・倫理学的には、道徳的な行為の主体としての個人をさしていう。 
つまり、自律的な意志をもち、何をなすべきかを決定しうる個人を人格という。こうした人格が有する内容として、
① 自由であること
② 統一性をもつこと
③ 責任性をもつこと
④ 社会性をもつこと、などが挙げられる。
 人間は個人として自由でなければ人格ではありえない。自由は思想・良心の自由のほかに、行動の自由があるが、こうした自由が前提となって初めて人格が問題となるのである。
次に、人間はその行動において分裂的ではなく、自己としての統一をもっているとみなされる。そうしてその行動において責任をもつと考えられる。
さらに行動においては、他者との関係が生じ、ひろくいえば社会性をもつと考えられる。法律上、心神喪失状態にある者や年少者を人格として除外することがあるが、本来、およそ人間であるかぎり人格を有するというべきであろう。
こうした意味から、人格は、自律を基本とした人間存在のあり方をさす概念であり、そこに尊厳性をみることができる。
カントは人格が理性的存在者として尊厳性をもち、目的自体として扱われるべきだと主張した。
また同じドイツの倫理学者シェーラーは、人格をそれまでの理性的人格という抽象的な概念ではなく、精神性とくに愛を基礎とした交わりという具体的概念に求めた。
二十世紀における人格主義の運動も、アトム的な閉じられた人格概念ではなく、開かれた概念として人格を考えてきた。
人格形成において教育の果たす役割には大きなものがある。さまざまな要因が複合してなされる人格形成であるが、とりわけ自律的精神の涵養と、より高い社会的価値の実現をめざす教育は重要である。
牧口常三郎は「創価教育学体系」において、「公生活即ち社会生活を意識せしめ、之に順応して自他ともに、個人と全体との共存共栄を為し得る人格に引上げんとするのが教育である」といっている。
また「特別の技能や卓越した専門知識のみによって得られる利的あるいは美的価値ではなく、それらの価値を創造することのできる能力をもつ人間としての総合的でより根本的な価値のこと。善を中心とする道徳的価値をさす」と述べ、創価教育の目的として人格価値の創造を根本とした。
仏法からみれば人格は、人間に備わった徳となるが、日蓮仏法では総ての三徳をそなえた妙法のこととなる。
三徳とは、法身(仏の常住不滅の法性)般若(仏の智恵)解脱(仏の自在無礙の振る舞い)の三徳と、主・師・親の三徳の二意がある。
三徳は、仏に具わる三種の徳相のことだが煩悩・業・苦の三道を具えている末法の衆生でも三徳を我が身に感得することができるという。
日蓮は当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(512ページ)と述べている。
三毒がそのまま三徳と転ずることを三毒即三徳という。煩悩即菩提と同じ意味である。境智不二と人格の関係をみれば、人間はたった一人で山林に籠もって修行しても人格の向上はないことを意味している。
観ずる智慧(智)と観じられる対象(境)が一体不離であること。十界互具・一念三千の理境とこれを観ずる智慧とは一応は二である。
しかし理境を究め尽くし、一念三千の智慧を実現すれば境智不二となる。衆生においては理境に対して智慧が一体化せず二であり、仏とは主体としての智慧が客体としての理境の不二となり、客体のみならず主体においても完全な人格を形成し、また客体をあまねく照らして自在無碍の主体的生を得ることをいう。
三徳のもう一つの意味である主・師・親について述べておきたい。主徳とは衆生を守護する力・働き、師徳とは衆生を導き教化する力・働き、親徳とは衆生を慈愛する力・働きをいう。この三徳を具備しているのが衆生を救う仏であると章安の涅槃経疏に説かれている。
法華経譬喩品第三の「今此の三界は、皆是れ我が有なり(主徳)、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり(親徳)、而も今此の処は、諸の患難多し、唯我れ一人のみ、能く救護を為す(師徳)」などの文を三徳に配している。
日蓮は開目抄に「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」(186ページ)といって、一切衆生が主師親の三徳を尊敬すべきであるという。
以上のように人格の仏法的解釈をみてきたが、人格の完成といっても修行によって得る後天的なものではなく、本来、人間に備わる資質となる。カントやシェーラーまた牧口における人格は、たぶんに後天的なもの指していると思う。
カントのいう理性的人格が、目的としての価値だとしたら、人間がこの世に生を受け、生き続ける目的ともなりうる。けれどもなぜ人間が理想的人格を得なければいけないのかという理由にはならない。
まさに一切の煩悩を断ち切る決意と実践なくしては成しえない境地である。人間それほど人格者ではない。
ましておや仮にその実践を成しえた人がいたとしても、人間を超越した存在となる保証がどこにあるというのだろうか。
仏法の人間論をもう少し見てみよう。まず前述した三毒であるが、これは善根を毒する貪・瞋・癡の三煩悩のことである。
貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三種の煩悩は一切の煩悩の根本で、一切の煩悩を摂し、衆生を今世、後世にわたって害するので毒と名づけられている。
また、三毒が充満した時には個人のみならず一国をも不幸にし、小の三災(飢渇・疫病・合戦)の原因となると大乗義章巻五に説かれている。
日蓮は曾谷殿御返事で「又減劫の時は小の三災をこる、いわゆる飢渇・疫病・合戦なり、飢渇は大貪よりをこり、疫病は愚痴よりをこり、合戦は瞋恚よりをこる」(1064ページ)と述べている。
そして小があれば大もある。すなわち大の三災である。これは火・水・風の三種の災害のことである。まさに天災である。
この三毒が三徳となって現れれば、世界は平和だろうと思われる。また人間の日常生活に現れれば、幸福感に浸れる人生であろうと思われる。



価値論序説 第三節

善根と悪根の関係が単純に対立関係にあるとは考えていない仏法の善悪についても検証してみたい。
善と悪。善いことと悪いこと。悟りの生命(元品の法性)と迷いの生命(元品の無明)、仏界と九界、善道と悪道を総称して善悪ということもある。
減劫御書には「善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」(1466ページ)とあり、一念三千の生命の全体を善悪と表現されている。
仏法の善悪について検証する前に悪について人間が考えてきたものを見てみようと思う。一般的に悪とは、善の反対語であり、反価値的な現象およびその対象をさしている。日常的にはかなり広い意味で用いられる。
たとえば、美に対する醜、有用に対する有害、健康に対する病気、平和に対する戦争などである。狭義には、道徳的、倫理的な意味で人間の内面における悪なるものが問題ともなる。
とりわけ宗教では根本的問題として論じられ、救済の問題と深く関わってくる。人間は実に様々なことを考える生き物であるとつくづく思ってしまう。
善悪についても人間は、善より悪についての思考のほうが多いのは、善が神や仏に直結しておけば済むからで結論は単純であるからだ。
そして悪は常に人間側にその原因を求めるから複雑にならざるを得ない。悩み多き人間の習癖でもある。そして原罪や悪根、悪因の思想を宗教は強調して、人間にさらなる脅しをかける。思い通りに生きられない人生にあって苦悩に喘ぐ人間に付け込む宗教のなんと多いことか。
古代ギリシャ思想(ヘレニズム)では、悪は人間的な盲目あるいは無知から来るものと考えられた。悪の由来を知らない人間にとって、悪は運命として現れてくる。
ギリシャ悲劇では、ノモス(人間の法)とピュシス(自然の法)との板挟みとなって苦悩する人間の姿が強調されている。人間は、ただ運命を甘受するよりほかはなかった。 
これに対して、ソクラテスは魂のありかたに人間の善悪を見いだした。無知にこそ悪の原因があり、その悪を回避する仕方として「無知の知」を説いた。
人間は有限的存在であるかぎり、無知を脱することはできないが、少なくとも自己の無知を自覚することが重要であるとしたのである。無知の自覚は人間的な智慧である。そしてこの智慧を愛すること「哲学(フィロソフィア)」に魂の救済を求めたのである。
プラトンはソクラテスの考えを受け継ぎ、魂が全体として調和したときに正義の徳(人間的善)を得ることができると説いた。智慧と勇気と節制が、そこで得られる徳である(正義を含めて四元徳という)が、逆に、調和しない魂は、無知と臆病と放埒(そして不正)という悪徳をもつとした。
こうしたヘレニズム的な主知主義に対して、悪を人間の意志の問題として、主意主義的に解したのがユダヤ・キリスト教思想(ヘブライズム)である。
創世記には、アダムとイブが神の言いつけを守らず蛇の誘惑によって木の実を食べたので、終生人間は罪としてさまざまな労苦を背負わされていくという楽園追放の話がある。ここから悪なる意志の存在が問題となる。
とくにキリスト教の原罪思想は、人類の祖先の犯した罪が子孫にまで及ぶとし、その後の人間観に大きな影響を与えることになった。
アウグスティヌスによれば、悪がこの世にはびこるのは、神の意志、つまり永遠の秩序に反逆する人間の本性的な傾向による。この原罪からの解放は、イエスの贖罪を信じることである。それゆえ、根本的な悪は人間が自らの意志に拠るところの傲慢にあるとした
ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちも、人間の自由意志には救いがたい悪が宿っているとし、むしろその悪なる本性を徹底的に自覚することが必要であるといった。
そして、救いは人間の意志にはなく、神の恩寵にあるとした。こうした主意主義的なヘブライズムは、悪なる意志を象徴化することによって人格化された「悪魔」の存在を想定することになる。
悪なる本性を自覚しても、救いは自らの意志によるのではなければ、そこには人間の未来に自由はないといえる。したがって神と悪魔という二元論的ありかたへと陥り、神の勝利を期待するだけという傾向性を内包していた。
近代においても、キリスト教思想は大きな影を落としている。たとえばライプニッツは、あらゆる悪の根源を人間の被造物としての不完全性に求めた。
しかし、啓蒙思想が、教会的に解釈された原罪思想(アダムの罪が人類全体に受け継がれたという考え)を退けたために、近代では、悪を宗教(キリスト教)的・形而上学的にではなく、経験的に説明し、さらに個人的な道徳・倫理として解そうとする傾向が強まっていった。
ホッブスは絶対的な悪を認めず、相対的な悪があるだけだとする。つまり、ある人の憎悪や嫌悪の対象だけが悪だとされ、時と所によってそれは異なるのであると。
ロックも悪を後天的なものとし、経験的にのみ問題になるとした。こうした考えは、悪を社会の問題とする十八世紀以後の捉え方につながっていく。
ベンサムらの功利主義は、悪を苦(不快)であるとし、苦を最小限にすることが社会の政策の目標とされなければならないとした。
一方、カントはその倫理学において、人間の行為において働く意志の動機を問題とした。人間が悪となるのは、意志が自愛の原理によって行為へと動機づけられる場合である。人間は幸福を求めるものであるが、自愛のみを動機とした場合は、悪となる。さらに宗教論において、人間が自由であるかぎり、つねに可能性として悪をもっていることを主張する。この根本悪とは、道徳法則の上に自愛の原理を置こうとする転倒した心情であると言う。
こうした近代の善悪二元論的な考えに対して、ヘーゲルはその弁証法によって、悪もまた積極的な意義を持つものであることを主張した。そしてヘブライズム的な主意主義から、再び主知主義へと戻ろうとした。
古い時代、悪を根源的な宇宙の力とし、他方の善の力と相争うものだとする考え方があった。古代ペルシャのゾロアスター教は、光明神アフラ・マズダと暗黒神アンラ・マンユの対立、葛藤によってこの世界の運命が定められるとした。この善悪二元論はマニ教などにも受け継がれ、西方にも影響を与えた。
古代インドでもリグ・ヴェーダの時代には「天則」に対して、それに違背する「反則」が邪悪なものとみなされた。
しかし、インドでは人間的関心が強まるとともに、法は人間に内在するものとして見られていく。 バラモン教では祭式上の違反が罪とされていたが、ウパニシャッドの思想家たちは業思想、輪廻思想によって、バラモン教的な祭式主義を乗り越える。
すなわち、悪業が欲望に発することに着目し、欲望を断滅することで現世の悪の根源を断って、輪廻から解放されると説き、この悟りの境地を梵我一如として示した。しかしこれでは、欲望を発する肉体を滅しない限り悪の根源を断絶できないこととなる。これは、梵身灰智・無余灰断ともいい、色身を焼いて灰にし心智を滅することである。略して灰滅・灰断ともいう。
天台四教儀には灰身滅智をもって無余涅槃と名づけるとあり、小乗教における二乗の最高の果徳、理想の境地とされる。
即ち三界六道のあらゆる煩悩を断じ、無余涅槃の悟りに入って再び三界に生じないために、一切の苦・煩悩が生ずる拠りどころである色心の両面を滅することをいうが、所詮、小乗教における二乗の観念的な気休めにすぎないだろう。
中国でも、古くは天の意志を知るために、亀甲などによって吉凶を占ったが、周の時代になると、人間性の問題が提起された。
また儒教では、善や悪を神と結びつけず、人間や社会において体験的に論じた。孟子は性善説を唱え、本来人間は善なる性質をもつと説いた。
悪は環境によるとするのである(孟母三遷の教え)。孟子に対して荀子は性悪説を唱えた。人間を観察するとき、自己の利を中心として行動していることは明らかである。この悪なる性を律するために、行動を外面的に規制する礼を重視しなければならないとした。
仏教ではその最初期から、一般に悪を廃し、善を修することを勧めているが、それは「善因善果(楽果)、悪因悪果(苦果)」という業報の因果を重視するからである。
もっとも、善、悪に対してそのどちらにも属さない無記(非善非悪)も説いていることにも注目すべきである。
無記とは善でも悪でもないこと。心の本体は善とか悪とかに限定することができず、善悪ともに衆生の一念、一心に本源的に具わっているもので、それが外界との関係性、縁に触れて現れるとする考えである。
善悪二元論でなく、どちらでもない状態を想定できるということは「善でなければ悪である」といった決め付けをしないということである。
廃悪修善を表すものとして、しばしば法句経(ダンマパダ)の七仏通誡偈があげられる。そこでは「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(もろもろの悪をなさず、多くの善いことを行って、自らその心をきよらかにせよ。これが諸仏の教えである)と説かれている。
悪い行い(悪業)を具体的にまとめたものとして十悪業(十不善業)が有名である。殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の十であるが、前三者が身の悪業、次の四つが口の悪業、終わりの三つが意の悪業である。
身体的行為・言語的行為・内心的行為にわたり悪が説かれているが、言葉に関するものが四つあることは、悪の原因が口から発することが多いということなのだろう。
現代でも同様で、直接の会話だけでなく、マスコミやネットなどもまた、どちらかというと口で発しているといえる。
節操のない政治家やマスコミ、根拠のないネットでの誹謗中傷など、悪行そのものともいえる。それでもとりわけ悪質な行為として殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五つをあげている。
この五逆罪は、その業因によって必ず無間地獄へ堕ちるとされた。こうした悪は煩悩から起こるものであるが、その根本的な原因として無明(根本的な無知)があるとされた。そこで煩悩を断じるために、さまざまな戒律がたてられ、修行に励むことになる。
大乗仏教では、善悪の分別それ自体が迷いであるとし、分別作用へと目を向けた。分別はアビダルマ哲学が重視したものであるが、竜樹(ナーガールジュナ)は「中論」で、アビダルマ哲学が主張する法有(恒常不変の本体)を批判し、その自性を破すことで大乗の空観を宣揚した。
無分別智、空観の立場では、善悪の二元的区別は越えられ、善悪不二・邪正一如という主張が生じるが、一方、悪が究極の真如あるいは仏に帰せられるかどうかという議論が生じる。
主として天台と華厳の間で論じられたこの問題は、西洋における神義論(悪の存在と神の正義の関係を論じる議論)と類似している。
善悪不二とは、善と悪とが一体不二の関係にあることをいう。すべての事物・事象は一念三千の当体であり、本来、善と悪の両面を具えていることをいう。
また善悪一如は、善と悪は衆生の心に具わっている二つの用(働き)であり、本来その体は不二であるという考えである。一如は無差別、平等、一体のことで、善悪不二と同意である。
善と悪は心の体を述べたものではなく、その用(働き)の面を判別したもので、善法を縁にして善が現れ、悪法を縁にして悪が現れるのである。したがって、仏法より見れば、性善説も、性悪説も、真理の一分を述べたものにすぎないことになる。
天台教学では本有の真如・仏性に本性としての悪が備わっていると主張した。観音玄義巻上に「闡提は修善を断じ尽くして、但だ性善のみ在り。仏は修悪を断じ尽くして、但だ性悪のみ在り」(34巻882ページ)とある。
つまり、一闡提は修善(善の行為)はないが、本性としての善はある。仏は修悪(悪の行為)はないが性悪はあるという。
ここから、極悪人も成仏の可能性をもち、また仏も悪の本性をもつことを洞察することで一切衆生の救済が可能となるとしたのである。
しかし可能性があるということと、実現することとは大きな違いがある。救済を現実のものとする方法という具体性が菩薩の歴史性でもある。
日蓮は治病抄において「善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と述べている。
善も悪も法と把握する日蓮の洞察は、救済に現実味を与える。それが仏法史上初めて明かした本尊の図顕である。
十界のいかなる生命にも善悪ともに本来備わっているが、根本的な悪であっても、十界互具の本尊を信ずることで善の働きへと変えていくことができるとする。十界互具、事の一念三千の本尊はこの救済を可能にする当体であると説く。
「されば首題の五字は中央にかかり……第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等……此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」(日女御前御返事、1243ページ)
日蓮仏法においては、妙法の力用によっていかなる悪といえども善の働きへと転換し、煩悩即菩提、生死即涅槃と開覚するという。また善悪は所対の不同によって生じるものでもあると。
そして法門には高低浅深があり、高く深い教えと低く浅い教えを対するとき、前者は善であり後者は悪。さらに善にも大善、小善があり、悪にも大悪、小悪がある。権経は外道に比べれば善であるが、実経に比べれば小善にすぎないともいう。
「小善を持て大善を打ち奉り権経を以て実経を失ふとがは小善還つて大悪となる」(下山御消息、344ページ)。
法において価値の序列は厳然としている。妙法への謗法は大悪であるが、大善たる南無妙法蓮華経だけが大悪を転換する力をもつと主張している。
日蓮の主張における特徴は、善悪を法として把握するところである。すなわち所対である人間の心が不同によって生じる作用であるとするのである。
仏教には、善悪不二という言葉はなく原理的な表現として用いている。悪人にも仏性が存在する故に正法を持つことによって成仏できるという思想から善人も悪人も本来差別がないとする。
しかし、これを持って善悪不二とは言わない。当然、妙楽の十不二論にもない。仏性は、本然的に具わるものであるゆえに、元来、修行によって得られるものではなく、また仏から与えられるものでもない。したがって善悪という価値基準で語るべき範疇にはない。
仏性論は、世親(天親)の著とされる。法華経、勝鬘経などの諸経や瑜伽論など多くの文を引いて、仏性の義を詳しく論じている。縁起分、破執分、顕体分、弁相分の四分十六品からなる。縁起分では仏が一切衆生には本来仏性が具わっていることを説いた旨を明かしている。
次に破執分では外道、小乗、権大乗の僻見の徒を斥破して、一切衆生に仏性のあることを論証している。顕体分及び弁相分では三因、三性、如来蔵及び十相など、仏性の体・相を明かして、仏性の本性を論じている。
一切衆生に仏性が具わっているというその主張は、中国、日本に大きな影響を及ぼした。仏性論は日蓮も御書の各所で引用して、正像年間における論師人師の論釈に対しての批判に用いている。
本質的に人間を善悪に区別するのではなく、善を仏界、悪を九界として善悪不二となるのである。それゆえに「悪」とは、人間の存在論ではなく、生命状態の区別相につけた名称となる。
人間の行為を善悪に区別することは困難なことである。国や社会や民族の持つ価値観は、多様であって一概には決められないことが多いはずである。
社会に対し善を為したとしても、家庭を無視した行為であった場合、家族にとってはストレートに善であるといい切れるかどうか疑問の場合がある。
また社会にたいし害を加えた場合、その個人にとって利であったとしても悪となる。私利私欲に走る高級官僚も国家国民のために、優秀な自分が天下るのは、正義だと思っている。無能な政治家も同様だろう。だからといって一概にこれは、悪だとか善だとか決められないケースも実際に存在する。
評価主体が、社会であれ個人であれ善悪の絶対基準を設定することは困難なことだろう。そうなると自ずから人間以外にその基準を決めたくなるものである。その一例が、「神」である。
善悪だけでなく安乱もまた神や仏を基準にすると話を進め易い。安心は仏教用語で、仏法によって心を一所にとどめて不動の境地に立つことであると言えば済んでしまう。
摩訶止観弘決には「善く法性の自ら其の心を安ずるを以ての故に安心と云う」とある。浄土宗では一般に阿弥陀仏を信じて浄土住性を願う心をいい、天台宗では止観を離れて安心はないとする。
日蓮は守護国家論で、法華修行によって安心を企てよと述べている。安心立命の立命は儒教からきた語で、天命の帰するところを知って、心をこれに落ち着けるという意味である。
法華経従地涌出品第十五に説かれている地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人に安立行菩薩という菩薩がいる。
この菩薩について、日蓮は、御義口伝に法華文句輔正記の文を引いて「道樹にして徳円かなり故に安立行と曰うなり」(751ページ)と述べている。
安乱や利害が善悪と異なるのは、外縁によって生じる生命状態ではなく、行為の結果として得られるものであると言うことである。
日蓮の言う「法華修行によって安心を企てよ」とは、修行によって得られるものであることを意味している。そこには、安乱や利害が不二の関係になるという考えは出てこないという違いは大きい。
安乱や利害が、行為の結果として得られるものである以上、これらを感じる人間関係に依存することになる。したがって安乱や利害は、人間の淫欲・食欲等の種々の欲望に支配された有情の境界(自己の力の及ぶ範囲)のなかに構造化されることになる。
さらに安が利によってもたらされるとすれば、利の定義がいっそう重要になってくる。それほどに人間は、安心を求めているといえる。安心感は幸福感でもある。
利という言葉の意味は、鋭いこと、敏いこと、宜しいこと、都合がよいこと、有利便宜、勝利、得すること、利益、儲け、利息等の多義に用いられる。
仏法では、利根、利益、八風のなかの一つの利などがある。この三つの意味は次のとおりである。
① 利根については日蓮は、南条兵衛七郎殿御書に「たとひ五逆・十悪・無量の悪をつくれる人も根だにも利なれば得道なる事これあり」(1494ページ)と述べている。
② 利益については、法華経如来神力品第二十一に「是の故に智有らん者 此の功徳の利を聞いて 我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし」とある。
③ また八風の一つである利は、世間的な利益のことである。四条金吾殿御返事に「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり~心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり」(1151ページ)とある。
 仏法用語における利についてもう少し見てみよう。仏が衆生を利益し、衆生が成仏の益を得ることを利生得益(生を利し、益を得)という。
また利安とは、仏が衆生に利益し衆生を安心させることである。仏の慈悲が一切衆生を利益することを、天の月が万水に影を浮かべることに譬えたりする。
三大秘法抄に「諸仏の慈悲は天月の如し機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給べき処に」(1021ページ)とある。
仏の教え、正法にしたがって行動することによって得られる恩恵や救済のことを利益という。そして利益を得ることによって人間は、安心を実感することになる。これは功徳と同義である。また法に順ずる者に対して益を与えることで、益他と同義でもある。
天台の法華玄義巻六の下には「功徳利益とは、功徳は利益にして、一にして異なり無し。若し分別せば、自益を功徳と名づけ、益他を利益と名づく」とある。
他に利することを利益といい、自身が安心を得ることを功徳ということは、菩薩の行為を価値論的に表現した安利善の現実的な姿と言うことになる。
菩薩も衆生も自らに安心を得たがっているといえる。それだけでなく他に与えることが出来るという功徳利益の思想の大きさを感じるのである。
これは、衆生といえども菩薩の行為をなすことが可能であることを認めるのである。衆生が自身の安心を得るだけでなく、他にも利することが出来るといった価値基準こそ現代社会において最も必要な価値観であろうと思う。
八風の一つとされている利は、利養といって自己の利益のみを考えることで名聞名利にとらわれ、自利自養のみを追求することである。
法華経勧持品第十三には「利養に貪著するが故に、百衣の与に法を説いて、世に恭敬せられることを為ること、六通の羅漢の如くならん」とあり、法華経の行者を迫害する三類の強敵の第三・僭聖増上慢の様相の一つとされている。
欲とは五欲をいい、五欲の楽のことであるが五楽ともいう。五欲に二意があり、一つは、五境(色・声・香・味・触)によって起こされる欲で色欲(眼)、声欲(耳)、香欲(鼻)、味欲(舌)、触欲(身)をいう。また二つ目は、財欲、色欲、飲食欲、名欲、睡眠欲のことをいう。これらの、五種類の欲のうえでの楽しみを欲楽という。
人間は心にこれらの欲念を起こすものである。むさぼる心、貪欲の心は、念を起こそうとする時の状態で四心(未念・欲念・念・念已)の一つとされている。
欲念は、不安を人間にもたらすとはいえ、行動の原動力にもなりうる。しかし不安は不信を生み、欲望の世界に支配され、煩悩に縛られることも人間の日常的な姿といえる。
欲望は必ず煩悩を伴い、繩をもって身体を縛られるような苦悩の境地を招く。欲望に支配され煩悩にさいなまれる苦悩の生活を断ち切る利剣とは、煩悩・業・苦を断ち切る信しかないと仏法では説かれている。
不安や不利より生じる不信が乱害を現出させる。不安や不利を断ち切る利剣となる価値観の転換こそ、不信を信頼に変える方途なのだろう。けれども価値基準に安利を設定する場合は、人間の持つ欲楽に対しどのように定義するかが問題となる。
仏を基準にしてこれらを否定するのは簡単だが、現実的ではない。否定するのではなく止揚するのが、大乗仏法的である。止揚することを絶待妙ともいう。
菩薩の立場で価値を判断することが大切なのである。菩薩の行為としての価値判断を考える前に相待と絶待について考えてみたい。
価値を相待的価値と絶待的価値に分類する思考は、仏法的生命的である。他者との勝劣浅深の比較や相互に向き合っている関係対の比較や、さらに一定の条件のもとで妥当するといった相対論的な価値観を否定するのが仏法である。
相待とは、相待つとか、あい待遇するとか、互いに具えるとか、互いが蓄えるといった意味である。したがって固有性としての絶待を仏界に譬え、相待化された共有性としての相待を九界に譬えるのである。
正反不二の思想は、人間の行動と意識においても成立しなくてはならない。対立概念の不二は、本質的に両者が対立する存在であることを否定する。善と悪という概念を対立概念と把握しない仏法の思考は、他のあらゆる現象に対しても同じ様に思考する。
人間と環境に対しても人間が空間の一部を占有するという発想はない。空間と人間の領土争いという観点で見ることはない。
善と悪も同じで善が悪を規定したり悪が善を規定するという両者の相対関係といった視点で考えることはない。
価値が人間と物事の関係態といっても、それは対立関係でも相対関係でもない。ただし人間中心の価値観なら、これらの関係と見ることもできるのだろう。
しかし生命中心の価値観となると人間も物事も、ともに生命現象であって、そこにあるのは単なる関係態ではなく相待と絶待の存在論と見るのが仏法である。
即ち、対立し、相克する相絶対は、一方を否定して他方を肯定するものであるのに対し、一切の事象をより高次元で統一し、融和するのが絶待妙である。
なお、絶待妙は相待妙を必要としないのではなく、まず相待妙を明かして初めて絶待妙を顕すことができるという相絶待の関係である。相対と相待の違いや相待と絶待の関係についてもう少し詳しく見てみたい。
相対とは ①他との勝劣浅深を比較すること②相互に向き合っていること③相互に関係を持っていること。対立すること④哲学上、「絶対」に対する語で、他との関係において存在すること。あるいは、一定の条件のもとで妥当することをいう⑤天台宗においては、相対種の開会の略称として用いられている。
これにたいし相待とは、あい待つ、あい待遇するの意で対立ではない。絶待に対する語となる。絶待とは、彼此(あれとこれ)の対立を超えていることである。
待を絶するの意で、待とは比較したり、なぞらえたりする対象を示し、それを絶することを絶待という。
相待妙とは、他と比較相対して妙を立てること。絶待妙に対する語。天台が妙法蓮華経の経題を釈する中で、妙の一字について立てたもので法華玄義巻二上に説かれている。
法華経以外の諸経と法華経とを比較相対して、他の諸経は?(粗悪なこと)であり、法華経は妙であることをいう。
即ち、彼此相対して彼が?であるのに対(待)して、此れが妙であると比較のうえで論じていく教判が相待妙である。
絶待妙とは、法華経の哲理から一切の教法を判釈するならば、大小(大乗・小乗)・権実(方便・真実)の区別がなくなり、すべて大乗であり、真実の教えであると明かすことをいう。
これを絶対開会ともいう。相対的な思考や表現を超えたところを絶待妙という。絶待妙を釈して同玄義巻二上に「一切法はすべて仏法であって、この仏法界の外に仏法と比較・相対すべきいかなる法もない。何かに対して?となし、何かに比して妙となすこともない。
相対すべき何物もなく、絶すべき何物もない。相対に対し、また相対を絶して立てる絶待は真の絶待ではない。妙とは不可思議に名づける」とある。
妙楽の止観義例巻上に「若し教相に約せば必ず先きに待、後に絶なり、若し道理を論ぜば待絶倶時なり」(同四十六巻四四八ページ)とある。
教相によって彼此相対して?妙を明かす相待妙を前提しなければ、開くべき?も顕すべき妙もないから、絶待妙を表すこともできない。
しかし、道理の上からは、これは前後の関係にあるのではなく、妙によって破られ、もしくは廃された時、同時に妙の中に包み入れられることになるから、相待と絶待とは同時となる。
故に絶待妙のみでは存在しない。また相待妙を忘失して、絶待妙の一辺に偏するならば、相対・差別の現実から遊離し、価値観の混乱をもたらすことになる。
南無妙法蓮華経という絶待妙の立場から菩薩行の実戦と価値論のあり方を見る必要があるだろう。
菩薩に対する認識もまた、菩薩という境地から価値判断するために欠かすことが出来ない視点である。
前に述べたように菩薩行の立場から価値論を思考するときは、利の価値基準が前提になっている。そのうえで安利の価値を定義することになる。
そもそも菩薩とは、梵語ボーディサットヴァの音写である菩提薩多の略である。菩提は覚り、薩多は有情、生命あるものをいう。覚有情、道衆生、大心衆生などと訳す。
仏道を求める衆生のことで、自らの仏果を得る(自利)ためのみならず、一切衆生を救済する(利他)志を立てて修行する者をいう。成道以前の仏陀(釈尊)、修行時代の仏陀は菩薩と呼ばれた。
また、この釈尊と同じく成仏の道を目指す者を菩薩という。大乗では菩薩道を歩み成仏し人々を救済することを目指すものである。
大智度論巻四に「一切衆生のために、生老死を脱するが故に仏道を索む、是れを菩提薩?と名づく」とある。
一切の菩薩は初発心の時に衆生無辺誓願度(一切衆生を悟りの彼岸に渡すことを誓う)煩悩無量誓願断(一切の煩悩を断とうと誓う)法門無尽誓願知(仏の教えをすべて学び知ろうと誓う)仏道無上誓願成(仏道において無上の悟りにいたろうと誓う)の四弘誓願を起こして、菩薩の在り方(菩薩道)と修行(菩薩行)の目的と方向を明らかにされている。
そして、四弘誓願に従って菩薩戒を持ち六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)などの修行を積んで仏果を証得することになる。別教では初発心から解脱までを五十二位等に分類して菩薩の階位を定めている。
法華玄義巻四下に「総じて菩薩の位を明かすとは、即ち三経に約す。一に瓔珞に約して位数を明かすとは、経に七位有り。十信、十住、十行、十迴向、十地、等覚、妙覚地を謂うなり」とある。
等覚は五十二位のうち第五十一位で菩薩道の最後の位をいう。妙覚は五十二位の菩薩の究竟の位で一切の煩悩を断じ尽くした仏果の位をいう。
爾前の諸経ではこのような長期間にわたる各段階の修行(歴劫修行)が必要とされたが、法華経に至って即身成仏が明かされた。
しかし、法華経文上で成じうるのは等覚位までである。ただし、等覚位に達すると、事の一念三千の南無妙法蓮華経を悟って、そこから一転して名字妙覚の位になるとされる。
法華取要抄の文段に「台家の口決に『等覚一転して理即に入る』と相伝するなり。等海集第六二十六、これを見合すべし。若し当流の相伝は『等覚一転・名字妙覚』と習うなり。然れば則ち始め発心より終り補処に至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して更に妙覚の益を挙げざるなり」とある。
①爾前経における菩薩
小乗教を修行する菩薩を小乗の菩薩といい、いまだ見思惑を断じないゆえに小乗の修行をする。釈尊は三蔵経において三大阿僧祇、百大劫の間、菩薩行をして最後に三十四の智慧心をもって見思の惑を断じ尽くして成仏の相を示したと説いている。これを小乗の釈尊という。
また大乗教を修行する菩薩を大乗の菩薩といい、通教、別教、円教の菩薩がある。更に、蔵教、通教、別教、円教に説かれ、この四教を修行する菩薩を四教の菩薩という。
釈尊の仏法では煩悩を完全に滅すれば、一切の苦悩は消滅し、直ちに涅槃の境地を得ることができると説き、三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)を断じ尽くした菩薩を三惑頓尽の大菩薩という。浄土宗では観世音、勢至、金剛蔵、大自在王等の二十五の菩薩を説いている。
②迹化の菩薩
法華経の迹門までに来至した迹門の菩薩をいい、釈尊が法華経の従地涌出品第十五において、略開近顕遠を説いた時、動執生疑を起こして釈尊に質問した弥勒菩薩をはじめとする菩薩達をさす。すなわち普賢、文殊、観音、薬王等の釈尊に有縁の菩薩をいう。
法華経嘱累品において迹化の菩薩に付嘱があり、正像二千年に出現して権大乗や法華経迹門を弘通した。迹化の菩薩の上首とされるのが薬王や文殊・普賢・弥勒等である。
③本化の菩薩
見宝塔品において釈尊が滅後の弘経を勧め、勧持品で菩薩達は滅後の弘経を誓ったが、釈尊は従地涌出品で「止みね善男子」と述べて諸大菩薩の弘経を制止した。その時、忽然と大地から涌出したのが地涌の菩薩である。この菩薩こそ、末法において三大秘法の南無妙法蓮華経を弘通する本化の菩薩である。
日蓮の御義口伝に「本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり此れを唱と云うなり導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり、末法の導師とは本化に限ると云うを師と云うなり」(751ページ)とある。この無量無数の菩薩の中に上行、無辺行、浄行、安立行の四人の大導師がいる。
菩薩が仏果を得るために行う修行のことを菩薩行という。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜(度)がそれで、五十二の修行段階を経て歴劫修行していくとされる。
「菩薩は処処に入ることを得」と読む、法華玄義釈籤巻一の文がある。二乗(声聞・縁覚)の得道は法華経に至って初めて明かされるが、菩薩は爾前諸経の処処で得道を許されていることをさす。
しかし、日蓮は当体義抄等で、この菩薩の得道は二乗を弾呵し、利他に向かわせるための方便であると述べている。
末法において日蓮は、この歴劫修行を否定し「修行の次第は全くなく、ただ末法の三大秘法の南無妙法蓮華経を受持する一行」だけで、一生成仏を遂げることができるとする。
南無妙法蓮華経を受持するといっても本尊を安置するだけという意味ではない。修行の次第は無くても菩薩としての実践は、受持の二文字に含まれるところの菩薩行なのである。
菩薩行の実戦を価値論の視点から見たとき、菩薩の行為としての価値判断は、その空間性において「広・略・要」の三視点を置くことができる。
広略要の広は広く全体にわたるもの、略は簡略にしたもの、要は肝心肝要なもののことである。
日蓮仏法から法華経についていえば、広は法華経一部八巻二十八品をいい、略は主要な方便品第二や如来寿量品第十六等の何品かを取り出したものをいい、要は寿量品文底の三大秘法の南無妙法蓮華経をいう。
法華経題目抄に「一部・八巻・二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、但一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり」(942ページ)と述べている。
また法華取要抄に「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(336ページ)とある。
より広い範囲に応用できる価値観は、異文化間、異民族間にあってもそのコミュニケーションを図ることができるだろう。社会的な価値基準となる。
けれども社会的な価値基準をそのまま個人の価値基準にすることはできない。各家庭や個人にあっては、独自の価値観も必要となるだろう。広範囲に活用できる価値観を狭い地域あるいは個人という最小の単位であっても応用出来ることが大事なのである。
むしろこの最小の単位である個人が、自己の人生にあって応用出来ることこそ肝要なのである。個人的な価値基準と社会的な価値基準の相関関係にあっても優先すべきは個人単位となるだろう。この思考は、単に人間中心という意味ではない。
広・略・要を含む価値観は、人間中心というより、仏法を基調とした生命観によって作られた生命中心の価値観である。したがって生命的な価値基準を価値の空間論においては「要」と名付けるのである。
価値についての見解は、前に述べたように「神」や「仏」を基準にすることは出来ないと考えている。人間中心の価値論は、人間の菩薩行の中に見ることが肝要となるだろう。
菩薩が衆生の代表として行う行為あるいは行動には様々な側面があるが、特に行動の空間性において、広・略・要の価値基準を置く必要がある。
「広」とは、「詳しく開く」「広く開く」といった広い社会的要素を含み、生命論的には非情界中心の基準となる。広い関係性と影響力を意味している。
「略」とは、「ほぼ開く」「おおまかに開く」といった狭い社会的要素を含み、生命論的には有情界中心の基準となる。狭い関係性と影響力を意味している。
「要」とは、「肝心を開く」といった社会的要素の要をいい、生命論的には有非情に亘る基準となる。深い関係性と影響力を意味している。
さらにこの広・略・要の各々に広略要を見ることになる。すなわち広に広略要という視点があるということである。たとえば要の要を肝心要というように九つの視点を持つのである。
菩薩行の実戦を価値論の視点から見たとき、菩薩の行為としての価値判断は、その時間性において「過・現・未」の三視点を置くことができる。
過・現・未を三世とも三際ともいう。過去世、現在世、未来世のことである。原義は過去世は過ぎ去ったものの意で、現在世は生起したものの意で、未来世は未だ来ないものの意である。
世は移り流れる義でもある。略して過現未・去来現ともいう。諸の存在や現象の変化・生滅の様を過去、現在、未来に分けたものである。
小乗仏教の有力な部派であった説一切有部は、三世にわたって諸々の法(五位七十五法)は三世にわたって不変で常住であり独立した存在、実体的に実在するとの三世実有法体恒有説を唱えた。
一切の存在は一瞬一瞬に生成消滅する無常なものであるが、それらは法がその瞬間において生起したものであり、この法は三世を通じて実在していると説いた。
すなわち、人間存在における我が空であることを説いても法が空であるとしなかった。これに対して大乗仏教の縁起思想では人法ともに空であると説く。
経量部は現在における法のみが実体であるとした。これを現在有体過未無体説という。仏教の本意においては、三世についての実体的な考え方は否定されている。
しかしこれは時間の実在を否定していることではない。瞬間と瞬間を連続させるものが時間であり過去の因を現在の果とするのも時間の力用である。
過去、現在、未来の三世におのおの三世があり、過去に過去、現在、未来があり、現在に過去、現在、未来があり、未来に過去、現在、未来がある。仏法ではこのことを三世九世(くせ)という。
またそれだけでなく一瞬の生命に、過去、現在、未来を具えているともいう。過去、現在、未来の三世にわたって断絶のない色心のことを三世不断の色心という。三世常住の色心不二の生命をいう。
色心は身と心のことで、仏法用語には出てこないが今風に言えば「生命」を意味する。ここで言う生命は、三世に存在する生命であり、死後、来世に出現するところの生命である。勿論、死後の命が冥伏していても存在することが前提となっている。
日蓮はこの瞬間の一念の上に永遠の幸福を確立する方途を示した。総勘文抄には「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(562ページ)と説き、また御義口伝には「所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり」(788ページ)と述べ、本因妙抄には「久遠一念の南無妙法蓮華経」(871ページ)と述べている。
生命といっても瞬間の連続という時間のうちに顕在化したものであって、瞬間以外に生命の実在はない(このことは生命が時間となり生命の実在は、時間の実在と同義となる)。
この瞬間の生命こそ真実の存在であり、人はこの瞬間に幸福を感じ、不幸を味わい、希望をもったり、失望したりする生活を送るのである。
したがってこの一瞬の生命に因果を具していることになる。過去のあらゆる行業(時間)、あらゆる行動(時間)の集積(時間)が因となって現在(時間)を規定し、現在に結果として現れている。
また現在の行動が因となり、未来に果を生むのである。現在の瞬間を離れて未来はなく、未来は現在の瞬間の一念によって決定づけられていくのである。
過去、現在、未来の三世にわたって貫かれている因果の理法のことを三世の因果という。過去の業因が現在の果報をもたらし、現在の業因が未来の果報を招くことをいう。
日蓮は開目抄で「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(231ページ)と述べている。
十二因縁(無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)を過去、現在、未来の三世に配したとき、二重(過去と現在、現在と未来)の因果関係が成立しているということを三世両重の因果という。これは説一切有部の説である。大毘婆沙論巻二十三に説かれる。
無明と行とは過去の因で識と名色と六入と触と受とは現在の果(第一重の因果)、愛と取と有とは現在の因で生と老死は未来の果(第二重の因果)にあたる。
識等の現在の五果は無明、行の過去の二因が元となり、生、老死の未来の二果は愛、取、有の現在の三因による。このように十二因縁が連鎖(時間)のように連なって、生死を流転するとされる。
日蓮も一念三千理事に「問う十二因縁を三世両重に分別する方如何、答う無明と行とは過去の二因なり識と名色と六入と触と受とは現在の五果なり愛と取と有とは現在の三因なり生と老死とは未来の両果なり、私の略頌に云く過去の二因無明行現在の五果識名色六入触受現在の三因愛取有未来の両果生老死」(407ページ)と述べている。
三世と時間とは異なる概念である。生命の時間性は、三世の別がないといえるが、人間にはその歴史が存在するように、菩薩の行為にも歴史性がある。
「時」の「創造と発見と獲得」という歴史性が存在する。この歴史性に菩薩の行為の価値を観ることができる。
三世間とは、三種の世間のことをいう。因縁によって過去、現在、未来にわたり事物が遷流することを世といい、それに差別間隔があるゆえに間という。
三世間とは因縁の和合によって造作された一切の差別法(すべての事物、事象)を三種に分類したもので、全く別に存在するものではない。
生命的に観れば三世という時間感覚にも三世間という空間感覚にも分別がない故に価値の共有性を見ることが出来る。
差別と分別は、このように生命の時空に分別はないが、因縁の和合によって造作された法に差別が存在することを観るのである。
三世間には二説がある。一つは大智度論巻七十等に説かれる三世間(五陰世間・衆生世間・国土世間)である。
五陰世間は五衆世間ともいい、五陰(色・受・想・行・識)が十界によって異なることをあらわし、衆生世間は五陰によって形成された衆生独自の生命に十界の差別があることを示し、国土世間は十界の衆生の住処に差別があることをいう。
法華経如来寿量品に至って初めて釈尊の本国土が明かされて三世間が整足し、一念三千の理が確立した。
また華厳経疏巻三に説かれる三世間(器世間・衆生世間・智正覚世間)がある。これは釈尊が衆生教化のために立てた種々の差別をいう。
器世間は国土世間の意で釈尊の衆生教化の場所をさす。衆生世間は機に応じた教化の対象となる衆生をさし、智正覚世間は教化する仏身自体をいう。
二つ目は、サーンキャ哲学でいうところの三世間(天道・人道・獣道)のことだが、これは略させてもらう。次に「過去・未来・現在」と「如去・如来・如実」について考えてみたい。
過去・未来は、現在の行為を確定する。そして現在の行為を空間的に把握すると「広・略・要」の価値と見ることができ、時間的に把握すると「過・未・現」の価値をみることができる。
いずれにしても菩薩の行為には、時間と空間に価値を生じさせる因が内在すると考えるのである。さらに価値自体が持つ歴史性について菩薩の行為という視点で語る必然性をも考慮するのである。
また価値の時間性も空間性と同じく序列や順序を手法として認めることになるが、それは大中小といった評価差別としての基準ではない。あくまでも思考の認識差別である。
このように価値の認識基準の順序性は存在するが、価値の評価基準としては「発見と創造と獲得」という三点であり、獲得すべき価値は「安利善」あることが前提となっている。
菩薩の行為としての価値判断は、その時空間性において「広・略・要」と「過・未・現」の六視点を置くことができる。これらを菩薩の時空として観たとき、そこに菩薩の行為における価値基準が観えてくるだろう。
時間と空間は、三世に亘る菩薩の行為の証明と共に存在する故に、菩薩の時空として歴史に位置づけられるのである。
時間と空間は切り離せない存在と考える。人によってはともに幻想であるとか、時間は存在しないと言う人もいる。仏法では、ともに生命という体の作用としての顕現であると考えている。
したがって、菩薩という生命状態においてこの時間と空間は、菩薩の時空として顕在化することになる。
菩薩の行為が、時と場を選ぶ基準として衆生の機根を見ることになる。菩薩は先ず時を選び、後に場所を決定する。場合によっては、時を創造したり変革したり、さらには時を決定しておいて場所を相応しい所に変革したりもする。
価値の時空は、菩薩という行為者の価値判断によって決定されるといっても過言ではないだろう。ある時空が、物事や事象の価値を決定するのではない。
広・略・要という価値の空間性は、私達に「勇気と自信」をわき上がらせる。過・未・現という価値の時間性は、私達に「希望と自由」をわき上がらせる。広要略・過現未という時空間性は、私達に「安心と自在」をわき上がらせる。
 私が名づけた円融の価値体系を図に示すと下記のようになる。円融の価値体系は、同体異名である諸法と実相に菩薩行の価値を観ることでもある。
価値の空間論 
   諸法       
   広    略     要   
  広略要  広略要   広略要 
即広   即略    即要  
     実相   

価値の時間論
  諸法
過    現     未  
過現未  過現未   過現未
即過   即現    即未
実相

価値の時空間論(円融の価値体系)
諸法
安    利     善  
安利善  安利善   安利善
即安   即利    即善
実相

空間的価値の円融と時間的価値の円融は、人間の生存に対する時空間において生命的円融の価値観となる。
価値論を空間や時間に振り分けて考えたり、生命論的にみようとしたりすることに意味があると言っておきたい。価値は、人間的な認識過程で生じる解釈の結果に対する評価説明であるからだ。
法を価値判断の基準にすると「法」が「神」と同義になってしまう。法自体に差別が或るのであって、権教も実教も仏の説いた法そのものであるが、対象となる衆生の機根によって説く法を立て分けただけである。
仏を主体にした安利善を「善の価値観」とし、菩薩行を主体にた安利善を「利の価値観」とし、衆生を主体にした安利善を「安の価値観」として、これらの価値観を止揚するのではなく、同等の価値観として確立したのが日蓮である。
私はこの日蓮の価値観を「円融の価値観」と名づけたのである。円融という言葉の意味を説明しておきたい。円とは、円融円満、完全無欠の意味を表している。
日蓮は、十章抄に「されば円の行まちまちなり……真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし」(1274ページ)と述べている。
円因とは、円融円満の果を得るための妙因、成仏するための修行、菩薩行のことをいう。円果に対する語で、末法における真実の円因とは、本門寿量文底独一本門の御本尊に帰依して、ひたすら南無妙法蓮華経と題目を唱えることである。十法界事(423ページ)
次に“円頓の戒体”であるが、円頓とは、円満にして偏らず、速やかに成仏させる教法のことである。戒体とは、戒の働きをする本体のことをいう。
戒を受けた人の生命に収まって防非止悪の働きをするものをいう。戒の四科の一つ。天台は菩薩戒義疏巻上に「戒体とは、起さずんば已なん。起さば即ち性なる無作の仮色なり」と述べている。
善心を起こすことは心性に無作本有の戒体があるゆえであり、その結果として仮色(外面に表れる形がなく場所を占有することもないが、受戒を縁として身中に生ずると考えられるもの)の戒体が成就するという。すなわち善心・心性・色法の三戒体が円融相即するのを円頓の戒体というのである。
行敏訴状御会通に「護命・景深の本師等其の諍論に負くるのみに非ず六宗の碩徳・各退状を捧げ伝教大師に帰依し円頓の戒体を伝受す」(181ページ)と述べている。
日蓮仏法である寿量文底の下種仏法では、本尊受持の一行によって円頓の戒体がそなわるとする。
また円満という言葉もある。夫婦円満や円満な人柄などに使われている言葉だがもとは仏法用語である。完全無欠であること、完全に具わっていることを意味している。法華経題目抄で「具とは円満の義なり」(944ページ)といい、また十八円満抄(1362ページ)でも述べている。
さらに円妙とは、円教の妙理のことである。妙は不可思議の意で、空・仮・中の三諦が円融円満で不可思議なことを円妙という。
天台宗では、円教の円に円妙の義があるとする。爾前の円は他の蔵・通・別の三教の一、二ないし三を兼ねているから完全ではない。真実究竟の円妙の教えは法華経のみであるとする。
末法においては三大秘法の本尊こそ真の円教の当体であり、即身成仏の法であるというのが日蓮の主張である。爾前二乗菩薩不作仏事(426ページ)
そして円教の利益のことを円益という。法華経を信ずる功徳のことをいう。日蓮は、十法界事に妙楽大師の法華文句巻九下と止観輔行伝弘決巻五を引いて「『但し七方便並に究竟の滅に非ず又但し心を観ずと云わば則ち理に称わず』との釈は円益に対し当分の益を下して『並非究竟滅・即不称理』と云うなり」(422ページ)と述べている。これは、蔵通別の三教の益は当分の益であり、円教の益は円益であるということである。
法華経薬草喩品第五には「現世安穏後生善処」と説かれ、如来寿量品第十六には「我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」とあり、随喜功徳品第十八(同五三一ページ)には五十展転の功徳等が説かれている。
日蓮は、御本尊の功徳を諸御書に「寿命を延ばすことができる」(可延定業書)、「福子を生むことができる」(四条金吾女房御書)、「一国が正法に帰依したときの平和と安穏」(如説修行抄)等と明かされ、大利益である成仏についても、諸御書に述べられている。
大石寺第26世日寛も「十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。
譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。
故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と述べている。
次に円融相即であるが、これは法華経の妙理のことである。隔歴不融に対する語でもある。
円融は、諸法が互いに融合して、一法に一切法を具し(円満)、一切法は一法におさまって本然一体を成すことである。御義口伝(714ページ)
相即は、諸法の体において彼此の二者が互いに融け合い、礙げがなく一体不二になることである。
爾前の諸経は三乗各別を説くなど偏頗な教えであるが、法華経は十界互具・一念三千を説いて欠けるところがないことから円融相即の教えとなる。
もとは、天台の言葉であるが、諸法が互いに融合して、一法に一切法を具し、一切法は一法に納まって本然一体を成すことを意味している。
円融の一心三観という教えもある。万法に三諦の理が円融相即していることを一心に観ずることである。円融は前述したとおりである。一心三観は天台宗の奥義で、一心において空・仮・中の三諦を観ずることである。
不次第の三観、三一相即の三観ともいう。万法の差別の現象を究竟してその本性を観ずれば、本来そのままで三諦を具えており、しかも空仮中のそれぞれが他の二諦を具えて円融平等であると説く。
伝教大師に帰せられる修禅寺相伝日記に「理性法界の処に、本従り已来三諦の理有り。三諦互いに円融なれば、九箇を成ず」とある。
天台宗において妙法蓮華経の五字のそれぞれについて一心三観に配しているが、そのうち法に配したものをいう。妙法蓮華経の法の一字に諸法の円融の一心三観の体性、功徳が包含されていることをいう。十八円満抄(1365ページ)
この三諦を個々の独立した真理として考える隔歴の三諦に対して、それぞれの諦のうちに三諦を具え、おのおのが即空・即仮・即中ととらえるのが円融の三諦である。
この三諦を観ずることを三観といい、衆生の瞬間の生命(一念)に円融の三諦が具わっていると観じる修行が一心三観である。
円融の三諦について説明しておこうと思う。円教で説く三諦で、空・仮・中の三諦が一体となって相互に具している三諦のことを円融の三諦という。
隔歴の三諦に対する語で、一境三諦、不次第三諦、非縦非横三諦、不思議三諦ともいう。
法華玄義巻一には「隔歴の三諦は租法なり、円融の三諦は妙法なり」とある。
三諦とは、真理を空・仮・中の三つの方面から三様に説いたもので、このうち空諦とは、あらゆる事物・事象(諸法)に固定的な実体はなく、空であるという真理。仮諦とは、諸法には固定的な体はないが、縁起によって仮に存在しているという真理。中諦とは、諸法は空・仮の面を具えながら、それらにとらわれず根源的・超越的面を示す面をもつという真理である。
そして、その一心三観の中核が一念三千の観法である。この円融の三諦を摩訶止観巻一では、鏡とそこに写る像に譬えて次のように述べている。
「譬えば明鏡の如し、明は即空に喩え、像は即仮に喩え、鏡は即中に喩う、合せず散せず、合散宛然なり」とある。またそれを踏まえた天台宗の口伝が御義口伝の「鏡像円融の三諦の事」(724ページ)に示されている。
天台宗において妙法蓮華経の五字のそれぞれを一心三観に配しているが、そのうち法に配したものである。妙法蓮華経の法の一字に諸法の円融の一心三観の体性、功徳が包含されていることを表わしている。
価値論もこの法の範疇に含まれる一視点に過ぎない。現実の世間にあって菩薩が果たしうる行為(仏教用語)を現代的に表現しただけと言える。
円融の価値体系も同様の思考であるが、諸法の実相を時々刻々と変化する動特性としての日常性を静的に価値判断する評価基準として設定したものである。
けれども日蓮が衆生本有の妙理を動特性と捉えた南無妙法蓮華経の原理と同じく価値体系を動特性と捉えることができる。そのために、三大秘法を媒介とした広宣流布運動という手段を用いて、日常的に安利善の価値生活を獲得することが目的となる。
目的化した手段こそ抽象的存在であって、目的そのものが抽象的存在なのではない。抽象化の精神とは、手段を目的化することである。
金を欲しがるのは、金を得ることが目的という拝金主義ではなく、その結果として富や名誉や権力を得ることが目的であろう。女性が美を追求することを拝美主義とは言わない。男性を意識するからではないだろうか。
そして最も具体性から乖離した象徴は、権力ではないかと思う。すなわち、手段と目的を勘違いする象徴こそ権力そのものであると思っている。
具体性という現実を明確な目的として認識することこそ抽象化の精神に陥らせない人道主義への道である。
価値観の転換に必要な媒介こそ三大秘法であり、手段となるものが広宣流布運動である。戸田城聖の言葉に「豆腐を作るとオカラが残る。広宣流布は、オカラのようなもので、皆が幸せになれば、その結果として広宣流布は出来る」というのがある。まさにその通りであろう。
三大秘法を現代の実践規範としたものが、平和・文化・教育であるという私の主張は、日蓮本仏論序説で述べたとおりである。
菩薩行の修行の規範である三大秘法を媒介とするとき、平和の価値、文化の価値、教育の価値もまた新しい視点で見直すことができることだろう。
円融の価値体系は、常に「即善・即利・即安」の関係にある。価値基準を善にのみ見るのではなく、利も安も価値基準を示すものである。
したがって、一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融の価値体系という。また、一つの事象の対象に価値を見るので一事象の価値体系ともいえる。
またそこで順序次第を立てないので不次第の価値体系ということができる。さらに不縦不横の価値体系ともとらえられる。
この円融の価値体系は、個別と全体、具体と抽象、差別と平等などの対立する諸原理が相互に対立による緊張を孕みながら同時に融即するという、一側面に固執することのない融通無碍の世界観を開くものであると確信している。
「人間」を基準にするために、それが個人であれ、家庭であれ、社会であれ国家であれ、国家間であっても、ある意味での普遍的な価値指標が必要となるだろう。
それを「安利善」とすることによって人間コミュニケーションを成立させようと言うのが私の主張である。「真善美→美利善→安利善」の価値体系を創造することは、コミュニケーションにおける方法序説でもある。そこから導かれ、予言されるものは世界宗教としての自立の道である。
精神の混沌とした時代に生きる人々にとって、新たな価値観の獲得には、勇気が必要である。勇気こそ時代を変革する力があると思っている。
権力の魔性は、国会だけに存在するわけではない。どこにでも存在する。ゆえにこの魔性に屈しない自覚ある民衆の運動の中にこそ、自由と希望の光彩は輝きをますことだろう。
三代の会長と価値論の実践を一言で言えば次のようになるだろう。
美意識を生涯貫いた牧口会長。心の安らぎを美に求め、明治・大正・昭和を生きた明治人の気骨、気質をそこに見ることができる。
利害を生涯求め抜いた戸田会長。利害と損得の実証的価値体系を人間革命の実践によって証明しようとしたのである。
善悪の対決を強調し続けている池田名誉会長。善悪の対決の中に師弟不二の実践があるとした。この実践こそ池田名誉会長の価値体系となっている。
このように私が断定すると様々な反論と意見が噴出するかもしれないが、とりあえず結論らしきものも必要なのであえて述べさせて戴いた。これは、私的な感情、心情、心理的な事情によるもので、ご寛如願いたい。
これで私の価値論序説の論考は終わりにしたい。具体性に欠ける原理的な表現に終始してしまったと思うし、かなり端折ってしまって、批判しないで説明不足の観もある。
引用した資料の説明や解釈していると、いつ終わるのか自信がなかった。三世の区別もなく、善悪の分別もない仏法の思考は、超越的であり生命的である。私の理解能力では、この程度が限界ともいえる。

以上