宇宙論序説

宇宙論序説 序文
人類の宇宙に対する思いは確実に深まっている。宇宙物理学におけるニュートリノの質量、地球の環境に近い星の発見、宇宙年齢に近い星座の発見、さらに宇宙飛行士の帰還や民間企業によるロケットの打ち上げ成功、そしてTVで話題の下町ロケットまで実に様々な話題がある。

今後の発展、発見が楽しみである。


宇宙論序説 序文

宇宙論を語るとき当然のようにわき上がる疑問をアッサリと素通りすることがある。今は未解決であるが必ず解明出来るだろうと楽観的に先送りする。
宇宙は永遠不滅の定常なのか、または誕生するとしたらそこはどんな状態なのだろうか。また膨張する宇宙は、周辺に膨張できる場所の存在と時間の拡大を意味しているが本当だろうか。
これらに対する疑問はいつか必ず説明できると思っている。その気持ちがまた究明への意欲にもなっているのだろう。
インフレーションからビッグ・バンそして今日の果てし無く広がる宇宙。この宇宙に対する様々な考察は物理学的な力学宇宙と哲学あるいは宗教的宇宙に分類できる。
そして、これらに共通する項目は時間と空間と物質の存在である。
しかしこの中で時間の考察だけは意味不明というか、捕まえどころが無い印象を受けるのは私だけだろうか。
有限・無限、始まり・終わり、対称・非対称、散逸・収束さらに進化といった言葉の中にも時間は見え隠れしている。
時間がなければ運動も語れない。したがって、物理的運動能力が物質に備っているだけで時間の実態など存在しないという考え方を容認できない。
アプローチの仕方によって時間は様々に定義されますます混乱していく。逆にいえば時間ほど自由に定義されてしまう不可思議な現象といえる。
雄大にして神秘に満ちた私達の大宇宙に心の眼を向けるとき時間の不思議な力用に我が身の震える思いは感動なのか共鳴なのか。
時間は必ず実在すると確信している。宇宙全体を貫く時間は有限であっても大宇宙のみならず一人の人間にも平等という普遍性を与え、さらに生命を支え動かす根源の力であると思考している。
宇宙と人間の関係を思考する潮流は大半が宗教と科学が担っている。
科学の発展が人間の生活を豊かにした事実がまったく技術的側面に偏っているとはいえ日常的な影響力が人間の思考にも反映されてしまっている。
宇宙の終焉が神の意志に係わらず予想されるなら宇宙の創世も神はいらないと考えるのも当然であろう。
宇宙誕生の法則は人間誕生の法則でもある。人間の知的作業はこの法則の統一に傾注し続けているといっても過言ではないだろう。
けれども定量的に語れる部分を重要視して科学は進化してきた。そのことが人間を語るために必要であった大部分を捨ててきたのではないかと思っている。
その故か科学万能の時代になっても人間は宗教を捨て去ることはできなかった。人間の宗教的信念に科学ならびに技術は全ての答えを用意することは不可能であったし今後もどのくらい期待していいのか疑問でもある。
偉大なる科学者であったとしても人間は不幸を感じ人間関係に悩むことを避けられないのが現実である。だからといって宗教哲学が科学技術の変化・進展に対して、有効な提言を与えることが出きなかったのも事実である。
大部分の人間は、科学と宗教に多大な恩恵を受けながらこの二者に対しては一定の距離を置いて眺めている。
共に理解し難く近寄り難い思いを抱きながら、さりとて捨て難いのである。科学的合理性はオカルト的宗教とともに説得力に欠けることを日常的に人間は実感しているからだろう。
とはいえ電子レンジの便利性とトランプ占いの神秘性は人間生活の基底部において捨てがたいもののようだ。
素粒子の世界から大宇宙に至るまでの不確定性は人生にあっても様々な事柄において不確定性に満されていることを実感する故と思われる。
思うように生きることの難しさを人生の中で体験しながら人間は極小の世界と極大の世界の間を彷徨しているのである。
それでも人間の知的な作業は宗教的にも科学的にも宇宙とは何か、生命とは何かを思考し続けてきたのである。
けれども宗教が科学に示唆を与えることは近年まるで無かったといえる。この様相を見て「神は死んだ」と表現されるに至るのである。
科学と宗教の関係を争いと見れば科学の勝利ではあったが勝者が敗者の存在自体を否定することは出来なかった。
しかし科学的思考の成果が宗教者に与えた影響は大である。神の啓示に対し新たな解釈を要求することもしばしば起こったのである。
宗教の説く不変の真理を変更することができないので、科学的真理に合うように解釈を変えることになる。科学者は宗教的な不変の真理を糾弾し続けてきたが、近年別の視点から新たな宇宙原理を提唱する人々も現れてきた。
唯物論的発想より進化した物理学が人間という「観測者」の立場を考慮し始めたのである。
勿論この発想は、量子力学から生まれた思考パターンではあるが、新しい動きでもある。とはいえ神の啓示を認めるとか神の実在を認めるといった方向性は持たないのである。
あくまでも「観測者」たりえる人間中心の原理である。人間中心といってもアリストテレスの考えとは異なるものであり宇宙を認識できる人間という知性をもった生命体の存在原理である。
宗教と科学における論争はその大部分が西洋においてである。なかでもキリスト教と科学者の間で起こった事柄である。
人間と自然を創造した神を理解するために、事実存在としての自然の究明に向かった科学者の、自然理解にたいする教会の対応ミスが原因ともいえる。
そして神と人間、人間と自然をとりあえず分離せざるを得ない自体になったといえる。
このことが哲学に影響を与え、さらにその哲学が科学の発展のための基盤を与えた。そして科学が宗教の存在を脅かしたのである。
すなわち神は宇宙を創造しただけでその後の進化・発展には何ら寄与することなく傍観者の立場を貫いたということになった。
宇宙を観測する人間とその人間を観測する神の存在の間にはますます溝が深まってしまったのである。その意味で奇跡は宇宙創造の一回限りとなった。さらにこの一度の奇跡も否定されつつあるといえる。
宗教も科学も人間が創造した地球文明の地球文化である。この両者のコミニュケーション・ギャップを埋めるための対話は共の寛容さが欠かせないだろう。
科学の発展に寄与した各種の分離と切捨てを見直す事と、自然科学を信仰心破壊と嫌悪しないで対話を忍耐強く進めてほしいものである。
人間の自然支配を自然理解へと転換しさらに共生・共存への道を照らす新たな哲学を人類は待望しているのである。
神が与えた自然への支配権は自然理解能力でもあるが、自然と人間の逆転した支配観は自然も人間も理解不能の泥沼に落ち込ませる結果になるだけである。
自然と人間を切り離すことなく自然理解可能な哲学も、存在するのである。その哲学が説くところによれば「人間の存在は、自然に支配されながら人間は自然を左右する存在」でもあるという。
人間の歴史において宗教と科学は近代にいたるまで対立はなかったといえる。また対立といっても科学者から見れば汎神論あるいは無神論とキリスト教会の権威との対立であったといえる。
宗教と科学は元来対立するような関係では無いという人もいる。私もそう思っている。しかし現実は宗教を否定する態度が科学的態度であると考えている人が多い。何故なのだろうか。特に自然科学者の思考パターンと宗教教義とは相いれない部分が多いと思われている。
宗教が偶然を否定するのは神の意志を普遍と見るからに他ならない。科学が必然を強調するのは運動力学上の因果律を絶対原理とするからである。
「神の意志」と「因果律」はともに必然性を求めているが、その方向性は演繹的か帰納的かの違いだけではない。思考方法とは別にもっと本質的な違いがある。
演繹的に必然なら帰納的にも必然である訳だから、対称性をもつが方向性には意味がない。究極理論と神の違いにすぎない。
しかし宗教にとって神の存在は必然であり、究極理論が存在するのは神の意志となる。神の意志から見れば「現在」は必要ないが、「現在」を存在させるために究極理論が必要となる。
いづれにしても「現在」において「現在」を決定するのが「科学」という名の付いた、偶然と偶然を埋める行為である。そして「現在」において「過去」を決定するのが宗教という名の付いた必然の流れという「神の意志」である。
一つの事象を観測しようとするとその事象に関連した様々な事象に必然性が見える。しかし事象が起る因は偶然にも見える。始めを偶然にすれば以後全ての事象は偶然である。偶然の連鎖を振り返って見たときに初めてそこに必然性が見える。
必然とは結果の連鎖という過去の事象を連続的に思惟するときに生じる視点に過ぎない。この視点は多少の違いはあるが宗教も科学も同じである。過去の連鎖は一つの道程しかないからである。
従って過去を振り返って全てを必然とするのは人間の思いすごしである。
全く偶然のようにみえる様々な事象に対し必ずその因があるとする態度を否定するものではない。けれども必然に伴う「神の一撃」は「神の意志」という因とともに何故という問いが同時に存在しているのである。
無限の因果の中には「人間の存在と意志」だけでなく「神の存在と意志」をも不確定にしてしまう因が内在している。そして「神の死」は「人間の死」ともなって必然の意味を失う。
全てが偶然より出発しているとすれば「神の意志」など存在しないことになる。科学はこのことを肯定し前提とした必然論である。
けれども宗教は偶然を否定する。普遍性を強調する教義ではあっても、その解釈によっては異なる個別性が生じ、個人主義的な宗教が派生することになる。
宗教がいかに普遍性を説いても偶然を否定せざるを得ない為に生じる歴史的な事象である。 近年、この現象が民族主義と相まって様々な民族紛争の原因ともなっているのだろうと思う。
何故、宗教は是ほどまでに偶然を否定するのだろうか。すべてが偶然では神の入る余地がないと思うならその宗教は二十一世紀の人類をリードする宗教には成りえないだろう。
日蓮仏法における「偶然と必然」に対する思考態度を知る必要がある。特に「成仏」という言葉の意味する中にその真意を観る必要がある。
「神の意志」より「人間の意志」が優先する日蓮の成仏観は、偶然も必然も人間の意志と行動によって決定することが可能だと説いている。
即ち成仏を「仏に成る」ことではなく「自身を仏と開く」と観るのである。人間を人間以外に変革するのではなく人間をあくまでも人間と把握し、その人間に秘められたあらゆる可能性を開くことこそ真の成仏の意義があると説くのである。
人間に生まれたことを「必然」として観るのはかまわないが、あくまでも使命感を持つ為の方便であるとする態度を貫いている。
従って、時には自身を凡夫としたり、菩薩としたり、仏と観ることもある。この人生観は「神の意志」より「人間の意志」が優先することを意味している。
「仏」とは人間の行為に対する名称としてその意義を持つ。故に私達がこの時代にこの地に生まれたことは「偶然」以外の何者でもないのである。
仏との契約や時代が抱える共業の概念は「偶然」に対する結果的・必然的な位置付けのためである。
正法・像法・末法という時代区分も仏の寿命の範囲内の区分に過ぎない。どの時代に生まれても人間は人間であり、それ以外ではない。
在世に生きた人間も、末法に生きている人間も同じ人間である。人間の寿命からみれば数千年を経ているといっても仏の寿命から見ればわずかの年数であろう。その範囲内の人間に違いなど無いと考えるのが自然である。
宗教も科学も人間を思考の基準としていることは同じでも、そのアプローチが違うのである。
自然の法則から人間そのものを理解しようとする立場と人間を超越した立場から人間を理解しようとする違いともいえる。
しかもその説明に使用する言葉があまりに違い過ぎるのである。それも単に視点が違うとか表現の違いだけでなく同じ言葉でも定義そのものが違うのである。
これでは科学と宗教の対話は不可能としか思えない。寛容と妥協とは違う。科学が自然支配から自然理解へ、そして自然との共生への道と転換するためには人間も自然と共に生き、存在するという新たな哲学に依って立つ以外にないだろう。
民族間の共生・共存の問題もその根底に人間と自然の共生・共存の哲学が必要であろう。
宗教も科学も人間文化であり、人間自身の中に宗教性と科学性を併せ持っている。
人間の宗教性を正報と呼び科学性を依報と呼ぶとき人間存在自体が依正の不二性の顕現であると思考したのが仏法である。
また人間のみならず人間と自然との関係も人間を正報とし自然を依報として観るのである。そして依正不二論が仏法の宇宙論にも繋がっていくのである。
自然法則の理解がそのまま人間理解とならないことを人間は薄々感じていると思っている。
仏法の依正不二論の卓抜した思索を科学者も謙虚に耳を傾けてほしいものである。
宇宙論という一見科学的思考も単なる力学の関係論だけでは必ず行き詰まるだろう。量子の世界が不確定性だとしても人間の存在まで不確定性にすることはできない。
かといって根本的な問い掛けに科学が何処まで応えられるか疑問でもある。自分は何故、今、生きているのか、この時代に生き悩みながら存在しなくてはならないのか。
自然法則のみでは存在の意味と時代の意味を不確定性原理の如く確率でしか語れないだろう。
素粒子で構成された人間が石や木や空気と違って善や悪の心を持つようになった。善悪の存在も単なる幻想なのか、後天的に備わったこれらの属性が持つ意味を統一理論はどう答えるというのだろうか。
仮に後天的に発生したものであったとしても存在の意味は大きいのである。何故かというとそれも自然に備わった特性であると考えるからである。
力の統一理論が完成すればこれらの疑問に全て答えられると信じているなら科学者が彼らの否定するオカルト宗教と五十歩百歩の思考態度と言わざるを得ない。
連続性と大きさの無い点というデカルト的空間概念が現代物理学の底流にある以上、大統一理論は現実の自然を表現することは出来ないと思っている。
この概念は空間ではなく時間の概念だと思うからである。時間は常にtの一次元でしか表現できず、プランク長以下での時空については空間以前という発想から抜けられないのである。すなわち時間は、ctという空間距離で与えられているに過ぎない。
現代の理論物理は時間とその方向性の本当の意味を理解できないだろうと思う。最も物理学者から見れば時の方向性や過去・現在・未来といった概念を必要としないらしい。
時間を空間の中に取り込んでしまうので、空間と同様に方向性を持たないばかりか対称性を持ってしまうのである。
空間内の分子の動きと時間の矢を時空として同等に扱うので、時間を空間内の分子運動のレベルでみる対称性と現実の巨視的レベルにおける時間の矢という非対称性という違いが生じてしまうのである。
そして分子レベルと巨視的レベルという二つの異なる視点を混同してはいけないと逃げざるを得ない。
また「時間の流れという運動は存在せず、単に心に思うだけである」という人もいるらしい。
確実に死に向かっている人生に対し残った時間は、単に心に思うだけで物質としての自身の命終までの運動力が残っていると言い切れるのだろうか。
死に向う感覚と自覚が、まるでなくても時間は確実に進んでいるのである。また人間が時間を意識するのは物体の運動等によるのは確かであるが、物質が存在する以前にも時間が存在していたのである。
そこで物質の運動ではなく空間そのものの運動に置き換えることになる。しかし空間の運動として見ることが出来るのは空間の拡大という現象だけである。
空間の拡大と時間の非対称を同等に見れば空間の収縮は時間の反転となる。そして時間は理論的に対称性を持つことになる。
このように視点の違いによって様々に定義されてはいても時間の本質について「自由に定義できる」という定義以外に見当たらないのである。
仏法では「力」を持つものは、その作用と因縁果報を具えていると考え、それが形相を持っていようがいまいが(物質やエネルギー)「法」といい「保持するもの」と呼んでいる。
したがって運動するものが物質であれ非物質であれ、また空間であれ時間であれ顕現された一切に十如是を具えていると説く。
「運動」とは「無常」であり定常なものは何一つ無いと考えている。したがって時間も力用を具えていて単に時間の流れによって運動があったり、運動よって時間があったりするのではないということである。
なぜ時間に力用を観ることができるのかというと、人間が時間と認識する現象は生命の特性と観るため、時間もまた生命の力用の一つということになる。
「生命論序説」において妙法華の九次元を私達が日常実感する時間の本質とし、時エネルギーが生命空間を支える諸法の実相であるとした。そして支えられた存在として構造化されたものが「蓮」という諸法の空間性であり、「華」を諸法の時間性とした。
この「蓮華」と名付けられた諸法の空間性・時間性について考察するのが「宇宙論序説」である。
我々の宇宙の中で時間のエネルギーが様々な形で果たす役割はまことに不思議としか言い様がない。
時間の本質を九次元であるとか、虚数エネルギーであるといった思考は、非現実的であり形而上的であって科学ではないといった批判も起こることだろう。
虚時間の真実性は今の時点ではなんとも言えないが、虚数エネルギーとか時間エネルギーといった発想をまったく否定する根拠はないと思える。過去の形而上は現在において形而下になっていることも色々とある。数学も昔は魔術と思われていた時があったという。
エネルギーについて仏法では、如是力・如是作という言葉で表現されている。そして「力」は冥伏されているが「作」は顕現されて我々の意識に働きかけている。
このことから時間と感じる現象の本質は様々な作用の根源的な「力」ではないのか。そして「力」と感じる物理的現象は時間の持つ特性の作用に過ぎないのではないかと考えるに到った。
時間と感じる現象の中に全ての力が内包しているといっても我々人間にとって時間にそれらの力を感じることは出来ないのだから無いのと同じであると考えるのは当然だと思う。
時間をエネルギーと定義することや、力あるいは作用があるといっても定量的な存在であると証明することは困難である。
時間を「時と時の間」以上の意味を持たせること自体誤りであるともいえる。
しかし仏法で説く因果倶時や因果不二あるいは即身成仏さらに久遠即末法といった法の理解は、空間の現象面からではその意味するところを汲み取ることが出来ないのである。
これらを仏の悟りと一言でかたずけたのでは悟りという行為そのものが無意味になってしまいかねない。
仏法で説く法だけでなく生命という身近の存在にたいしても空間や物質の作用面、特質の機能面だけでは語りにくいことが多すぎる。
人間の存在や意識に対する考察において時間は、不思議な力用を発揮している。それは人間の生命現象における様々なところで見ることができる。
科学者が考える時間の概念が正しいのか仏法の説く時間の概念が正しいのかはそれぞれの概念が予言する結果を見る以外にないだろう。「道理証文より現証にすぎず」という先人の言葉がある。
物理学では問題にしないというか出来ないのが時間の本質だと思える。時間問題だけでなく宇宙誕生の場所や膨張する宇宙の周辺と境界また特異点問題、さらに無限大や無限小に対し様々な理論展開がなされてもそれが人間生命といかなる関わりがあるのかは永遠の謎となるだろう。
宇宙とは何か。この基本的問い掛けに対する答えを求めて人類の英知は無限の旅をしている。
現在の膨張宇宙という設定は、膨張する宇宙が存在できる場の存在を許容する。この場を単に「無」とか「虚空」と表現したのではこれらの言葉の定義を新しくし直す必要がある。
そこで宇宙空間内における物質の存在していない所でも何もない場ではなくエネルギーに満ちた場とし、これを宇宙の周辺にも当てはめることになる。これが「真空」であり、この「真空」の定義いかんで宇宙は様々なモデルが出来ることになる。
現代科学はこの「真空」の実相を探るために全力をあげているといえる。仏法はこれを「生命」の根源的な力用とするのである。
ただし宇宙空間を含めてこの周辺の場を生命場であると主張すると電磁場や重力場またクォーク場の発想のように生命波や生命子さらに生命エネルギーといった理論展開をしなくてはならなくなる。
しかし生命子という素粒子の存在など考えることは出来ない。最も有ったら面白いことになるだろうけど。同じように生命波が生命場の歪みによって生じると想像するのも楽しいものである。
空間の歪みが進化するといった物理現象は初期宇宙が一様でないことを前提にしたものである。しかし凸凹具合は偶然にそうなったとしかいいようがない。
また当然のことであるが、何故初期宇宙は一様でなかったのかは判らない。時空四次元の世界では空間の歪みは同時に時間の歪みとなる。空間の歪みは想像できても時間が歪むとどうなるのだろう。
さらに空間の相転移によって時間はどのように相転移するのだろう。空間の相転移そのものが時間の相転移であるというなら時間は空間の別称にすぎず四次元時空といっても空間の三次元しかないことになる。
時間であれ空間であれ顕現したものには必ず十如是が具わっていると考えるのが仏法である。従って時間が存在するなら時間の十如是も実在することになる。故に時間にも「相」があり「生命論序説」においてその「相」を「時空間の行」と名付けたのである。
大宇宙というこの限り無く広大な非情界と、限り無く微少の有情界とが不即不離の関係にあることを語ることは、現実の存在の本質に迫ることであると確信している。
宇宙についての考察が、生命論序説より導かれているので「生命原理の宇宙論」と名付けるのである。生命原理とは生命が「有情・非情に亘る」という命題にその本源がある。
大事なことは生命原理より何が予言されるかであろう。予言は理論と検証に欠かせない命題である。この命題が一般命題として定理となり得る可能性を持つのである。
定理から直ちに導かれる他の命題である系を先に設定したのが生命論序説である。この方法序説は演繹的であるがけっして非科学的ではないと確信している。



宇宙論序説 第一節 現代の時空論

宇宙論序説 第一節
第一項 宇宙論について
第二項 宇宙の誕生と成長
第三項 宇宙の老化と死
第四項 一般相対性理論について
第五項 量子力学について
第六項 宇宙論の謎



第一項 宇宙論について

人間のロマンを限りなく高めてくれる魅力溢れる無限の宇宙。不可思議な世界に思いを馳せることが、私達にとっても夢と希望と共に、推理と哲学の知的探究の旅立ちにワクワクするような気持ちで一杯になる。
宇宙とは、素粒子とは、そして人間とは何か。宇宙論は人間の本質にせまる方法序説といえるだろう。天文学や物理学、電磁気学、数学といった学問的な思索に止まらず、最終的には、人間探究の哲学序説としての位置を求めざるを得ない。
かつて宇宙は、神が創作し、人間の知ることの出来ない世界であると考えられていた。したがって、神学や哲学によって解明、否、説明のみされてきたのだが、そのあまりに人間から掛け離れた説明のために神や哲学に対する絶望感だけが残った。
そして宇宙に人間の心の安らぎを求めると不安が益々増長することになってしまった。
人間が「人間とは何か」という永久命題を思索しようとする時、まず眼を人間に向けるのは自然であろう。
しかし、あまりにも不明な実体に接しますます混乱の深みに填まってしまう。
生命とは、精神とは、肉体とは、存在自体の理由とは、生とは、死とは、欲望とは、希望や使命とは、生き甲斐とは、等々、個々人に関する問題から家族関係、社会関係ならびに関連する全ての命題に、人類誕生の過去から今日の科学文明の発達した現在に至るまでいまだに何一つ解決・解明されていないのである。
したがって、人間の内面への旅とは別に人間探究の指向性の一つとして、人間の存在すら不明な地球外へ向けられたのも当然といえる。
勿論始めは、穀物の生産のために星の運行の観測を始めたのかもしれないが、直観的に宇宙と人間が切り離せない存在として捉えられていたからだろう。
それほどに人間は、宇宙からの恩恵を受けているのである。
紀元前に、エウドクソスが、星の日周運動を説明するために、宇宙は地球を中心に回転する球といった。また、アリストテレスが、宇宙は地球を中心とする五十五個の天球が回転しているといった。
二世紀頃、プトレマイオスが、人間の勝手な想像力の産物とはいえ実際の星の動きと対応させるために多く天球を用いて天動説の体系を作り上げた。
十六世紀になって、アリスタルコスの地動説を採用したコペルニクスが、自らの死の直前に弟子の勧めで著書「天体の回転について」で地動説をとなえた。
十七世紀になってガリレオが望遠鏡という革命的な道具を使って星の運行を観測し、地動説の正しさを確認した。同じころケプラーが、惑星運動を説明する三つの法則を見つけた。そして、火星等の惑星の軌道が円ではなく、楕円であることを発見し、宇宙は調和の中にあるといった。
さらに、ニュートンが万有引力の法則によって星の運動を明らかにしたのも十七世紀であった。
やがて、観測や研究が太陽系を越え銀河系へ、そして銀河系のかなたまでのびるようになると、宇宙全体の形状や運動を科学的に解明しようとする気運が高まってきた。
しかし、数々の宇宙に対する思索と探究の歴史は、物理学の大前提である因果律を過大評価しすぎているように思えてならない。
即ち「初期条件と物理法則さえ判れば、未来の全ての状態が判る」といった世界観に人間の慢心を感じるのである。
物理的世界観は、そのまま、人間の未来と過去についても同じといった発想を、当然のように受け入れてしまう危険を感じるのである。
物理学は、物質としての存在を確認することから始めなくてはならない。例えば、人間の意識や知性といったものも、場合によっては物質として測定できるものと考えなくてはならなくなってしまう。これらのものが物質の付加価値としての位置づけのみで説明してしまうのに危険を感じないのだろうか。
宇宙を探究する知性は、素晴らしい人類の力であるが、はたして知性は物質の突然変異なのだろうか。宇宙は物質以外の実存を認めないで真実の姿を見極めることが出来るのだろうか。
勿論、人間を構成するものは素粒子であるが、人間として構成されたことによって派生した知性も、実は、宇宙に本源的に存在し人間にその発現の場を与えられただけなのかもしれない。
物質もまた宇宙に本源的に存在するものが宇宙空間を発現の土壌として形成されていくだけなのかもしれない。
素粒子の寿命が人間の寿命にくらべて物凄く短いとはいえ、その人間も宇宙の寿命に比べれば、同じようなものである。
人間の一日一日がいかなる意味をもつのか。一人の人間の一生を物理学から考察すると殆ど意味の無い営みに思えてしまうのは、思索の原点の何処かに誤りが有るように思えるのは私だけだろうか。
宇宙を探究するのも良い。その必然として素粒子の世界を探究するのもよいだろう。宇宙が、人間の存在に関わり無く存在しているように思えるのは仕方ないことである。
宇宙は人間が存在する以前に存在していたのだから、むしろ宇宙の方が人間の存在に関わりを持っていると考える方が自然である。
その意味で宇宙は人間の知性によって観測されるとはいえ、存在自体が人間に依存することは無いだろう。
しかしいかなる科学も哲学も人間を忘れた現象の追求と、真理の探究は、思いもしない迷路に填まりこむ危険を孕んでいると警告しておきたいのである。
さて、宇宙全体の探究に科学的に解明しようという気運は、観測機械の進歩とともに歩んできた。十八世紀、当時、世界最大だった口径百二十一センチの望遠鏡を使って、ハーシェルは、全天に分布している星の数を数えた。その結果、太陽を含めた我々のまわりの星が薄い偏平な円盤状に分布していることに気づいた。銀河系の発見である。
二十世紀にはいり、アインシュタインが特殊相対性理論を発表。これまでのニュートン物理学では、空間と時間が独立した存在と考えられていたのに対し、アインシュタインは、時空連続体として統一した。
現在の物理学的宇宙を大別するとビッグ・バン宇宙と定常宇宙の二つとなり、これらの宇宙の底流に量子論的宇宙があるということになる。
いずれにしてもこの二つの宇宙論は、宇宙に始まりがあるかどうかが重要な観点となっている。
宇宙論は有限の宇宙から無限の宇宙へと転回したが、近年の宇宙観は無限から有限の宇宙へと再転回することになった。
といっても始めの有限とは内容を異にする。これは一言でいえば神とアインシュタインの違いでもある。神の一撃を信じるか特異点の実在を信じるか、どちらにしても信仰の域を出ないように思われる。
宇宙だけでなくこの世の全てにわたって始まりを認めれば終わりも認めることになる。従って宇宙空間も「無」から創世されたとは思えないし、永遠に存在し続けることも認め難いのである。
仏法においても永遠不滅の存在は仏身のみであるが、仏身を現代的な表現で言えば「生命」ということになる。
そして宇宙空間といえども生命現象の一つの顕現と考えているので永遠不滅とはいわない。顕現したものは必ず冥伏すると考えている。
定常宇宙と生命の永遠性は同義ではない。生命は顕現と冥伏の二面性を持ってその永遠性を保持するが宇宙の定常性は開放系の働きとして定常を保っている。
また繰り返し宇宙においても膨張と収縮で保っているとはいえ定常の変形にしか思えない。光速不変といった物理定数が存在するとしても存在させている宇宙空間そのものが成住壊空あるいは生老病死を免れないであろう。
様々な宇宙に対する思索の歴史はそのまま人間探究の知的史ともいえるだろう。どんなに科学が発展しても多分人類は我々の銀河系を飛び出ていくことはないと思う。
しかし、神秘に満ちた宇宙は、人類の宇宙探検の旅に決して冷たい拒絶をしないだろう。宇宙探究の旅と人間探究の旅は人類が滅亡しない限り果てし無く続くことだろう。

第二項 宇宙の誕生と成長

宇宙がなんらかの状態で誕生したとすればその母体は何かが問題になる。さらにその母体を構成するのは何かと問うことになる。
いずれにしても母体を永遠不滅として宇宙を誕生させるか、宇宙を永遠不滅とするかどちらかだろうと思う。
現代物理学はこの宇宙を量子レベルで見ることによって誕生の秘密を探ろうとしている。仮に宇宙に誕生のときがあるならば素粒子レベルより出発することになるだろう。
誕生から成長、そして死へと向かう宇宙を想定したとき素粒子の大きさと同じ宇宙を想像することは楽しいことである。宇宙が素粒子より成長していく姿を単に膨張していると考えるのでは味気ない。
また宇宙空間を永遠不滅とみるなら膨張と収縮の繰り返しという時間経過を考慮することになる。しかし現代理論物理学の主流はビッグバン宇宙論のようである。
宇宙がパッと始まりその原因や理由を問わないとすれば、一般の因果律における因果の連鎖は「始まり」で途切れてしまう。
始まる前は問わないとも問えないともいえる。そして始まったとき高密度で超高温と言われている。そうでないと現在の宇宙の説明が出来ないという理由によっている。そして空間と時間が共に膨張していった。フリードマンが見つけた一般相対論の解である。
今日の科学者が「我々の宇宙」と呼ぶものは半径百五十億年から二百億年の時空を指している。これは科学的観測と思考の対象の範囲でもあり、ある意味で人間原理に通じるところがある。
観測する人間中心の時空的大きさでもある。観測できない宇宙の実際の姿は全て観測される宇宙からの推測となる。観測できる宇宙の全てを理論的には宇宙の全てであると仮定することになる。したがっていまのところ宇宙は一つしかないというのが大方の判断となる。
宇宙の誕生と周辺問題は本質的には同じ問題だろうと思う。特異点の座標の確定が不可能であるのと同じく、宇宙周辺が誕生時も今日も不可知であることのように思われる。
誕生後に電弱力の相互作用によって対称性の自発的な破れが起こり素粒子が質量を持つに至るとしてもこのこと自体は周辺問題の解決にはならないだろう。
周辺という系内の一点に起こった物理現象は素粒子という物理空間を許容することのできる系の存在を前提にしているからである。
宇宙空間を周辺空間の内に見るのではなく空間とは別のエネルギーを設定することによって空間エネルギーを見る必要がある。
宇宙の膨張の説明に風船を用いたりする。これは宇宙を風船の表面と考えた方が物理学的に説明し易いからである。従って風船の内や外のことは除外する。
もっともこのような方法論が他の学問に比べて多少、多い様な気がするのは余計なことだろうか。
風船が極小の一点に縮まるとき空間と時間は分離できない状態になる。したがってビッグ・バン以前という考え方は存在しないことになる。
しかしこの考え方をすると時間と空間は根源的な一つのエネルギーから相転移して分離したことになる。そして「時間」もエネルギーの一種であると考えることになる。
物理学上それでは困る。時間がエネルギーであることを否定する為に、時間は空間の性質の一つに過ぎないという位置づけが必要となる。
空間の相転移による時間の分離という発想は「時間」に対する理解を更に複雑にしてしまう結果となった。
そこで空間の性質の中に時間を追加することになる。時間と空間が渾然一体となっていたというより、もともと空間しかないことを前提にしているのだろうと思われる。
しかし時空四次元で語る以上、重力と同じように空間の性質であるという説明の仕方ができなかったのである。
そこで人間が感じる時間は、物質の運動に対する感覚であって時間そのものは存在しないとし、運動系を語るのに必要な計算上の素材の一つであると言うことにしてしまったのである。
空間の母体となる系は空間ではなくエネルギーであると考えている。エネルギーがどのような系を持つのかは不明だが、空間を創世しその空間に様々な性分を持たせたと考えるのである。
私はこの母体となるエネルギーを時エネルギーと名付けたのである。生命論序説において「時空間の行」は、生命の諸法である「蓮華」を支えるエネルギーであると述べた。
そして「蓮」を生命の空間性とし「華」を生命の時間性であると仮定した。諸法の蓮華は、母体と宇宙の相関関係を顕す言葉でもある。
原始宇宙に創世された一つの素粒子にも十如是実相を観ることができる。その素粒子が存在した場所である空間そのものにも同じく十如是実相を観るのが「宇宙即生命」という観点である。
この視点は、生命が永遠であるから宇宙も永遠不滅であるという意味ではない。あくまでも宇宙という顕在化された存在に十如是実相を観るという意味である。
顕在化された宇宙において、時間とか空間とか実数で表現されたものは全て有限であると考えている。生命の永遠性を信じることは、永遠に存在し続ける為の条件を付けることになる。
それが無条件という条件でもよいのだろう。いずれにしても永遠に存在できるエネルギーの想定は、虚数でなければならないということである。
虚数エネルギーは仏法で説く「実相」の現代的表現ではないかと考えている。如々として来たり去ったりする生命の実相とは虚実の如来・如去であろう。
虚エネルギーの存在が真実かどうか、又正当な名付け方かは何ともいえない。けれども有情・非情に亘る生命の本質を永遠とするならば、その生命の力を顕現・冥伏の二面において実在させるエネルギーに対し最も相応しい命名ではないかと思っている。
無限のエネルギーより創生され続ける有限のエネルギーという時空間は、有限である人間の生命の永遠なる存在を実感することが出来る時空間ということになるだろう。
宇宙の膨張を単に物理的運動と捉えれば宇宙項とか膨張速度とか物質密度などが気になるだろう。またなぜ膨張しているのかを運動力学で考えれば、目的など存在せず単に空間の性質であるということになるだろう。空間あるいは物質の性分によって生じるところの機械的な自動膨張装置のように思えてくる。
仮に我々の宇宙が本当に膨張しているのであれば、私はこの現象を宇宙の成長であると考えたいのである。
もちろん意図的に成長するといった意志を認めているのではない。しかし宇宙空間もまた生命の顕在化されたものと考えれば、たとえ非情の生命とはいえ「生命の力用」を具えていると思う。
故に単なる膨張ではなく生命的進化、あるいは生命体の進化過程と把握できるはずである。
宇宙の生命的進化が誕生から成長への過程と観ればその度合いを常に一定に膨張していると考える必要はなくなる。
生命原理の宇宙論が予言する可変の宇宙項である。時に応じてゆっくりとそして時には早い成長という変化があってもよいということである。
宇宙項の増減ともいえる現象は、宇宙の成長過程の変化に対応して年輪のようにその痕跡を残すことも考えられる。
宇宙空間の膨張は、観測者からみれば時間の膨張でもある。そして空間の収縮は時間の収縮となって時間の矢は逆転してしまう。
時間が空間と共にその方向性を反転すると考えるのは空間に添って存在する時間という定義からくるものである。
逆に時間に添って空間が存在すると考えれば空間が反転しようがしまいが時間の矢は変化しないことになる。
人間は空間の存在によって時間を意識することが出来るが空間が存在しなければ時間も存在しないと考えるのは誤りであろう。
空間は時間を顕現させる場であり、観測者としての人間より観たときに同時に創出したと思えるだけである。
我々の時空四次元の宇宙を仏法では「諸法」という。又この「諸法」を「蓮華」ともいう。いま「蓮」を空エネルギーとし、「華」を時エネルギーと名付けようと思う。
蓮華における「華」という時エネルギーの作用として「蓮」という空エネルギーが顕現されたと考えれば、エネルギー変換された一点を特異点と見ることになる。その場合でも時間は「華」という時エネルギーの作用として空間とともに顕現され得る性分の名前に過ぎないことになる。
空間の大きさだけを考える人から見れば、有限の宇宙に対して始まりのゼロを掛けて、始まりの一点となるといった意味不明な「始まり論」に終始してしまうことになる。
さらに、始まる前は収縮してきた宇宙だったり、前は存在しないで「パッ」と始まることになる。いずれにしても誕生以前における因果を問うこと自体を排除することになる。
一人の人間が誕生したときに本人は誕生以前を問われても、責任を持てないし問うこと自体に意味がないと主張するだろう。しかし、人生を見つめてみれば一人の人間の生き様に多くの不合理を感じるとき、単に偶然に過ぎないと切捨てて誕生以前を意識することを否定するのは困難であろう。
宇宙誕生以前を問うことと時間的以前を問うことに違いが無い様に思うから排除したくなるのである。
時間を単に運動の経過にしたり因果の流れに置き換えるだけでは真実の因果の時間論にはならない。
因果律という時間論は仏法から観れば因果異時論に過ぎない。この発想では誕生の必然性は誕生時において消滅しそこに残るのは偶然性のみとなる。
人間においても運動力学的には必然性が見られても親を自身の誕生以前に選択できないのならこの親子関係は偶然より出発するしかないことになる。始めが偶然なのに以後、物質の運動として必然性を見ようとするから「神の一撃」が欲しくなるのである。

第三項 宇宙の老化と死

成長が止まりそしてエネルギーの質的変化が老化現象を引き起こす。やがて死を迎えることになる。我々の宇宙もまた成住壞空あるいは生住異滅あるいは生老病死の四苦を免れることはない。
生死とは寿命という生命の特質の変化相である。生死のない永遠不滅の宇宙なら時間経過より運動力学のほうが重要な意味を持ってくる。素粒子に寿命があっても空間そのものに寿命が無ければ定常か繰り返しの宇宙を考える他にないだろう。
永遠不滅の宇宙では時間の果たす役割は少ないだろうと思う。空間や空間内の物質の運動を定量的に観測する為の道具となるだけである。しかし仮に空間が定常であっても寿命は不可逆である故に寿命まで定常にはならないのである。
物質に寿命があるのはその構成要素である素粒子の寿命とともに、構成された物質の構造性の問題もあるだろう。いずれにしてもこれらはエネルギーの特質の一分であると考えている。
物質の寿命という時間性は顕現したエネルギーの質的変化相とみるのである。従って宇宙の年齢も単に空間的拡がりの時間経過だけではなく、エネルギーの質的変化、老化という視点も見過ごすことは出来ない。
人間が「時間」と感じる変化の実相は、宇宙そのものの持つエネルギーの質的変化、即ち老化への進化ということになる。 
諸法の無常という時間変化は、実相の常住とは同体異名であったとしてもその位相は明らかに異なるように思える。
諸法に実相の常住を見るためには、諸法の一点に直交する実相をみることになる。この場合の一点は諸法の特異点であっても空間の一点ではなく時間の一点である。
我々が時間と感じる流れの中でその瞬間瞬間に実相を抱えているのである。これが同体異名である諸法と実相の位相関係である。
仏法より観れば宇宙の年齢は応現した「仏」の寿命でもある。この出現した「仏」は方便であっても涅槃する。すなわち有限の寿命を持つので宇宙も死を迎えることになる。
宇宙の死とはなにか。ビッグ・クランチなのか熱死なのか。いずれにしても有始ならば有終、無始ならば無終と考えるのが自然だろう。
地球や太陽系が有終なのは有始だと考えているからである。したがって宇宙空間も有終となる。しかし生命論的な発想において有限は無限のうちに創生される有限として、無限のうちに構造化されていると考える。
すなわち有限・有終の宇宙も無限・無終の生命の顕現化として繰り返される。「死」は次の「生」へと宇宙もまた再生されることになる。
仏法でいう無始無終とは二つの意味が含まれている。一つは「常住」をもう一つは「繰り返し」を意味する。「繰り返し」といっても拡大・収縮ではなく顕現・冥伏の意味である。
「常住」とは顕現・冥伏のどちらの状態にあっても実在し続けることである。「繰り返し」の無限性といってもそれを許すところの絶対無限の存在を前提にしている。
それが「常住」という言葉で表現されているのである。顕現と冥伏の連続性は冥伏状態において非連続だと考えれば、顕現という励起状態と冥伏という定常状態が全体的に連続でないことを意味している。
顕現・冥伏・顕現という変化に対し始めの顕現と後の顕現の同一性を保証するものがないのである。
ただ冥伏時のポテンシャル・エネルギーと顕現時のポテンシャル・エネルギーの同一性が存在すると考えるだけである。
常住不滅の実在を実数エネルギーとして顕現されたエネルギーに観るのは無理がある。顕現された実数エネルギーを支える根源のエネルギーは実数でなく虚数エネルギーであろう。
この虚数エネルギーが冥伏されながら実数エネルギーとともに常住の実在となる。
実数エネルギーとして顕現されているときを「生の寿命」といい、寿命が終えると虚数エネルギーに冥伏することになる。
この冥伏の期間を「死の寿命」とする。ポテンシャル・エネルギーの同一性より生命の永遠性を観るのが「繰り返し」の無限性である。
また顕現されたエネルギーの総称を諸法といい、虚エネルギーを実相ともいう。実相の相転移が諸法である。そして「法」は時間と空間と構造を法相の性として内包している。
絶対無終の実在の中で顕現と冥伏を無限に繰り返すことが可能だとする永遠論は、無限より創生され続ける有限の実在論でもある。
したがって無限の内に有限を観ることは出来ても、有限に無限を内在させることは出来ない。
宇宙誕生をエネルギーの局所的歪みによる質量の獲得と考えるのは自由である。しかし顕現されたエネルギーが無限であるとは思えない。
そして誕生時のポテンシャル・エネルギーに相当した寿命と性分を持つ我々の宇宙も質と量に応じて低下と減少という老化現象をもたらす。
現在、進化あるいは成長している我々の宇宙が少年期なのか青年期なのかは判らないがやがてその成長を止め老化へと進むことだろう。
人間の死は、老化を経て突然に訪れる。老化した宇宙の死も同様に突然に一切の運行が停止するような事態が起こるのであろう。壮大なる宇宙の突然の死をどのように思い描けるというのだろうか。
微妙な調和と一瞬の停滞もなく運動し続けている我々の宇宙に思いを馳せる時、根源的なエネルギーの相性の転移が引き起こすであろうその情景は荘厳であろう。
宇宙の誕生と死は、生命の顕現と冥伏の大叙事詩の景観でもある。確認できないとはいえ人間の誕生と死もかくあるべきと思っている。
我々の宇宙を支えているエネルギーの質的劣化はそのまま時エネルギーの劣化である。人間の死もまたその人間固有の時エネルギーの劣化によるので、人間の突然の死はそれが自殺や他殺、あるいは交通事故であってもその時点における時エネルギーの寿命といえる。
このような時エネルギーに対して充電や質の向上をもたらすことが出来るとしたらそれは革命的である。まさに更賜寿命であり人間革命でもある。
宇宙の誕生から死に至る過程は、「蓮」と名付けた諸法の持つ如是相であり空間性である。
宇宙の大構造は、諸法によって構成された結果の姿として如是報と呼ぶ時空間性である。
そして諸法の時間性は「相」と「報」が究竟等として一貫として続く波動である。この波動を「生命のリズム」あるいは「生命の波動」と名付けたりする。
我々の宇宙には、我々の宇宙の固有の波動が存在すると考えてもいいのだろうと思う。生命という開放系のエネルギー形態は、人間のみならず宇宙においても同等同質だと考える故に「宇宙即生命」というのである。
仏とは生命そのものであり、宇宙即生命の概念から類推すれば宇宙即仏となる。宇宙を永遠不滅だとすれば仏も生命も永遠不滅となる。そして宇宙年齢や仏の寿命という概念は無意味となる。
定常とは時間の変化に対し空間が変化しないことである。それでも定常宇宙は永遠不滅である。
仏法でいう永遠不滅とは本有常住のことである。しかし定常宇宙は本有常住とは意味が異なる。時間も空間も変化しながらなおかつ変化しないことを本有常住という。
即ちどのような状態にあっても不変不改の存在のことである。日蓮はそれを南無妙法蓮華経と名付けた。そして南無妙法蓮華経は仏そのものである。
宇宙即南無妙法蓮華経というときの宇宙と物理的宇宙とはどこが違うのかというと有非情の宇宙と非情の宇宙の違いである。
物理的宇宙を生命とは考えられないからである。仏法では非情も有情も生命の一分であり自然そのものが生命だと思考している。
この生命の本源種を南無妙法蓮華経と名付けたのが日蓮である。何故そのような考え方が出来るのかというと有情も非情もともに十如是実相を内在させ顕現と同時に三千羅列の因果を具えていると考えたからである。そしてこの十界の因果こそ不変不改の当体とし本有常住の存在であるとしたのである。
従って宇宙という時空間そのものを永遠不滅であり本有常住であると規定した訳ではないのである。あくまでも南無妙法蓮華経を媒介して宇宙の本質を観るときそこに生命的実在を観たというのが宇宙即生命、生命即仏、仏即南無妙法蓮華経なのである。
しかしそれでは仏法より宇宙をみたとき宇宙が創世されたのか定常であったのかの説明にならないといえる。物理的には創世か定常かのどちらかしかないのである。結論を出す前に次に進ませてもらたい。
宇宙が有限だとすれば仏の寿命は宇宙年齢と等しくなる。顕現されたもので永遠不滅の存在を認めることができるだろうか。
仏といえども諸法の生命状態にすぎないとすれば自然現象の中に仏法で説く仏界が観えるはずである。
宇宙創世のときに時間と空間が出現したと考えるのはそれ以前が無いからにすぎない。時間も空間も混沌として区別がつかない状態にあって時間の経過は存在しないということになっているのである。
空間が無ければ時間が存在せず、時間がなければ空間は存在しないと考えているからである。もちろんここでいう時間とは空間に添ってその存在がみえてくる時間のことである。
人間の寿命は有限である。これは人間の生命が永遠であると考えたとき寿命と生命は同意語ではないことになる。
仏法の寿命観には様々な説があるが、いずれにしても寿命という言葉を使うときは衆生であれ仏であれ有限の長さを指定する。
したがって宇宙に対しても生命としての宇宙と宇宙の寿命では視点が違うことになる。
宇宙が本有常住だとすれば宇宙を支えている本有常住のエネルギーとは何かが問題になる。
自身の内よりエネルギーを生産するといった開放系の実在であればよいのではと思うのだが宇宙がいくら生命であるといっても生物のようにはいかないのではないだろうか。
そこで生物も無生物も共通して存在し不滅と思われるものは何かと考えると時間しかないという結論になる。
宇宙や生命といった存在を永遠に支えている実態を時間だとすればその時間にエネルギーを観る以外にない。この時間のエネルギーを諸法の時エネルギーと名付けたのである。
そして宇宙や生命といった顕現されたものを空エネルギーとし時エネルギーより顕現されたとした。永遠不滅のエネルギーである時エネルギーより観れば宇宙も生命も有限であると結論せざるをえない。
人間が感じる時間の経過、運動系に見られる物質の移動という時間、光速を基準にした情報伝達の時間、重力によって影響を受けるとされる時空間の時間等は空間を基準にして把握する時間である。
即ち時エネルギーを空間系の座標に変換して使用した時間である。それゆえに光速不変の原理より時間も空間の歪みによって変化するのは当然といえる。
物理系における時間とは人間が知覚できる情報伝達の速度を越えてはならないだけである。光円錐という発想も情報伝達の範囲を指定しただけである。

第四項 一般相対性理論について

宇宙についての様々な思考はあっても、現在において一般相対性理論と量子力学は欠かすことの出来ないものである。宇宙論といってもこれらの理論に反する考え方は、宇宙論とは言えない雰囲気が出来上がってしまっている。
一般相対性理論とは何かを考えて見たいと思う。我々の宇宙の中で絶対的に止まっていると言えるものはないだろう。仏法においても一切無常を説いている。運動と変化を同意とすれば同じような見解となるだろう。そして互いに相手が動いて見える。
慣性の法則に限らず、すべての物理の法則は、どのような基準で空間を考えても変わらない。互いに自分を基準に考えれば相手が動いているということしか判らない。これがガリレイの相対性の原理である。ただし加速しているとすべてのものが逆向きの力を受けるので相対性の原理は成り立たなくなってしまう。
ガリレイとアインシュタインの相対性は、動いているか止まっているか、絶対的には決まらないという意味では同じである。しかし「時間」に関してはかなり異なっている。
一般相対性理論によると、動いているものどうしがお互いを見ると、相手の時間が遅れて見えるが、ガリレイの相対性の原理では地上でも電車の中でも一様に時間は進んでしまう。時間が一様に進むことを否定したとしても、時間そのものが無くなることはない。
なんでそうなるのかという思考の違いのポイントは時空図にある。一般相対性理論の不思議な現象は、すべて 1-V2 /C2の平方根より発生している。
従って光速に近いスピードで運動するとその距離も運動している本人にとっては、静止している人から見た距離より縮まることになる。同じものを測っていても基準が違えば(同時刻の線が別のものであれば)答えは違ったものになるからである。
時空図で物質の長さを比べるのに地上を基準にした場合より長くなり、同じ距離を運動するとすれば時間は短くなるので、相対的に運動する物質が縮まるように測定される。
すなわち運動する物質の空間軸と静止している物質の空間軸の目盛りの位置が違うのである。時計が遅れたり、物質が縮まるという一般相対性理論の現象は、1-V2 /C2 (2は二乗です。表示の仕方が分かりません)の平方根が、時刻と距離の目盛りの基準を変えることによって生じる現象なのである。このことから一般相対性理論は様々なパラドックスを生むことになった。
有名なのは双子のパラドックスであろう。パラドックスとは、日本語では逆説とか逆理と訳されている。「一見すると矛盾して聞こえるが、よく吟味すると実際はある真実を伝えている言説」という意味である。
一般相対性理論は、重力の理論と云われている。重力の法則と相対性の理論を融合させるために考えたものである。その後多くの理論学者によってアインシュタインさえも想像出来なかった新しい一般相対性理論の解が発見された。ブラックホールやビックバンなどがそうである。
アインシュタインは、ガリレイの等価原理が(真空中は全ての物体は同じ速さで落ちる)正しいとすれば、そこには根本的な理由があるのでないかと考えたらしい。
重いものはかかる重力も大きいが、動きにくいので加速もされにくい。そのために落ちる速さは同じになるといった従来の説明では納得しかねたのだろう。
この重力は、すべての物体の間に働き、しかも互いに接触していない物体間でも働く。ニュートンがいう万有引力の法則である。物体の質量に比例し物体間の距離の二乗に反比例するというこの法則にアインシュタインは疑問を持ったのだろう。
ニュートンの考え方では、この力は瞬間的でその速度は光速度以上になる。この力は何が伝達しているのかの説明がない。
さらに一般相対性理論より考えれば動いている基準では距離が縮むので、重力の法則とつじつまが合わなくなってしまう。
重力は結果として、どのような物体にも同じ効果をもたらす(等価原理)。このことは重力が、他の力とは本質的に異なったものではないか。
そしてアインシュタインは、重力を、力というより「時空の歪み」の効果ではないかと考えた。その結果として一般相対性理論を導きだしたのである。
それでは「時空の歪み」の歪みとは何かというと曲面のことである。そして曲面とは三次元以上の空間である。
曲面ではピタゴラスの定理も成り立たない。さらに一般相対性理論にも関係した曲面の性質には、最短の経路(測地線ともいう)という問題がある。曲面上の二点間の最短の経路を、その二点を結ぶ測地線という。
しかし曲面は時空とは異なる。時空には時間軸があるため距離というものが定義できないのである。そこで、距離の代わりに固有時間を設定することになる。
ミンコフスキーの定理で大事なのが「固有時間」という考え方である。この固有時間を求める式がミンコフスキーの定理と呼ばれているものである。
ピタゴラスの定理は平面上の定理であり、曲面上では成り立たない。さらに時空上でも成り立たない。時空図の一つの軸は時間方向であり、元来、距離を定義することは出来ないのである。
時空図の上で時刻Aにある時計が時刻Bに運動したとき時計の針が動く。針が進んだ時間をAB間の固有時間という。
(AB間の固有時間)2=(AB間の時間の差)2 -(AB間の位置の差÷C)2 
AB間の位置の差をC(光速度)で割るのは時間への換算のためである。時間の二乗から距離の二乗を引くことは出来ないからである。
またAとBが同時刻のときは、瞬間移動となり、固有時間は求まらない。さらに光速以上の運動は相対性理論で認めていないので、位置の差をCで割ったよりも時間の差が小さくはならない。
すなわち固有時間がゼロの場合はその信号が光速度Cで伝わったことを意味している。
平面上の二点間の最短距離は直線である。時空上ではどうなるのだろうか。ミンコフスキーの定理を使用すれば二点間の固有時間は直線(時計の位置が動かない場合)より位置の差がある方(折れ線や曲線)が短くなる。
歪んでいない時空にあっては、固有時間が最大となる線を測地線とすれば、測地線は直線となる。
面の場合、歪んでいなければ、つまりピタゴラスの定理が成り立っていれば、測地線は直線になる。逆に言えば、歪んでいる面上では測地線は曲線である。
固有時間というものは決まっているが、ミンコフスキーの定理が成り立たないような時空があったとしたら、そこでの測地線は、一般には直線にはならないだろう。
アインシュタインは、このような時空のことを、「歪んだ時空」と呼んだ。このような時空が、相対性理論の時空の基本的性質である。すなわち「ミンコフスキーの定理」(別名 変形ピタゴラスの定理)が成り立つことである。
アインシュタインの発想は、 測地線が直線にならない時空が存在すること。そして物体の動きは時空図では測地線で表される。
したがって地球上で、重力によって物体が加速されるのは、時空が歪んでいて測地線が曲がるからだということになる。
地球がなければ時空は歪まないので、測地線は直線になる。つまり物体は等速運動である。
また地球の影響で時空が歪めば、測地線は曲線になる。つまり線の傾きが変わるので、物体の速度は変化することになる。
測地線は時空の歪み方が決まるので、物体によって重力の効果が変わらない(等価原理)のも当然となる。
重力はすべての物体の間に働いている。しかしアインシュタインの考え方は、離れている物体間に直接働いているのではなく、片方の物体がその周囲の時空を歪ませた時、歪んだ時空内の測地線は曲線になるので、そこに他方の物体があるとその速度は変化する。
これを重力と呼んだ。このような考え方を数式によって具体的に表現したのが、一般相対性理論である。
具体的に表現するにあたってアインシュタインが一番苦労したのは、物体があるとき、その周囲の時空はどのように歪むのかを決める法則を見つけることであったと思われる。
もちろん地表上での物体の動きはわかっているのだから、地表上ではそれが測地線になるように時空が歪まなければならない。
このことが、歪みを決める法則を見つける上でのヒントになったのだろう。
もう一つ、この法則が、基準と関係なく同じ形をしていなければならないという数学的な条件が、重要な役割を果たした。
特殊相対性理論でも、相対性の原理という、この世界には相対という絶対を除いて特殊な基準などないという原理が重要であったのと同じである。
それでも時空が存在するということが、絶対条件であり、絶対時間と絶対空間の代わりに絶対時空を設定したようなものである。
アインシュタインは友人のグロスマンの協力を得ながら、歪んだ時空を表す数学の研究をし、そして時空の歪みを決める方程式を発表した。
これがアインシュタイン方程式と呼ばれるもので、合計16個の連立方程式であり、まとめてGμν=κTμνと書ける。
左辺は時空の歪みを表し、右辺は物体の分布を表す。κは比例定数。物体の分布が分かれば、時空の歪み方もわかるという式になっている。
G00=κT00, G01=κT01, G02=κT02, G03=κT03
G10=κT10, G11=κT11, G12=κT12, G13=κT13
G20=κT20, G21=κT21, G22=κT22, G23=κT23
G30=κT30, G31=κT31, G32=κT32, G33=κT33
まとめて  Gμν=κTμν となる。
宇宙定数のあるアインシュタイン方程式は
Rμν-1/2gμνR-Λgμν=8πG/C4 *Tμνとなり
Rμνはリッチテンソル、Rはリッチスカラーと呼ばれる時空の曲率を表す量である。
質量を持つ物体が空間を移動すれば、「時空の歪み」も移動する。
例えば地球の周回軌道は、常に歪んだり平坦になったりしていることになる。
ただし人工衛星などは、常に歪んだ時空内を飛んでいるので、絶えず重力の影響を受けているのである。

第五項 量子力学について

一般相対性理論とともに量子力学の重要性は、現代宇宙を語るのに欠せないだろう。量子力学の歴史等は様々な書で紹介されている。
量子とは「ある物理量が連続的な値をとらずに、最小単位の整数倍で表される時、その最小単位量を量子という」
電子は原子核の周りを楕円軌道で回っている。楕円で運動することは、方向転換することであるから、電子から電磁波が発生する。
エネルギーを放出するが決してゼロにはならない。また、ある条件下では電子は原子核に引きつけられるがある限度までしか近づかず、決して衝突しない。
引きつけられる電子は電磁波を発生するがこのことを量子飛躍とも云っている。軌道から軌道という大きな距離を徐々に接近していくのではなく、飛躍的に接近する、跳躍する所からつけた名称である。
しかもこの時だけ電磁波を発生する。この問題を数学的に解明したのがシュレディンガーの波動方程式である。すなわち電子を粒子と考えないで波として考えたのである。
そしてうまく説明できた。だからといって電子が粒子ではないという意味ではない。けれども波として考えれば量子飛躍や原子核と衝突しない説明がつく。
電子は軌道と軌道の間を移動する時、その場所によって放出する電磁波の波長(色)が異なる。
ニールス・ボーアはバルマーの式を聞いて軌道間の移動によって異なる電磁波を放出するモデルを考えたという。
粒子である電子は、その性質を考慮すると波としか計算できない振る舞いをする。粒子という連続運動と波という非連続運動の両面性を持つ不可思議な存在といえる。
ウォルフガング・パウリの排他率によると多数の電子を含む系において、一つの電子状態には一個しか電子が入らないという。
また電子の軌道は、同じスピン(回転)の電子が対をなして入ることができないともいった。
さらにパウリは、排他率とはべつの予言をしている。それは、単独の中性子は約15分で陽子・電子・反ニュートリノとなる(ベータ崩壊ともいう)という。
原子核中の中性子を取り出しておくと、電子を放って陽子となるのだが、その際に中性微子(ニュートリノ)も放たれるという予測である。
ニュートリノとは電子の仲間で、電子からマイナスの電荷を取り除いたようなもので、反ニュートリノは陽電子からプラスの電荷を取り除いたようなものである。
物理学において数式で説明することは、物理学的な現象が言葉で説明できないからともいえる。粒子でなく波として考えた方が都合がいいだけなのかも知れない。
このように量子力学にあっては、実体は不明だが、その運動やエネルギーを計算することは出来るのである。粒子として存在しエネルギーを持っていれば周りの分子に熱を与える。これを利用して電子の軌跡を観ることは出来る。
電子を波として扱うと計算する事ができ、電子の波の形を決定できる。その波を二乗すると確率分布を示せる。ボルンの確率解釈である。
ただしこの確率解釈は電子の「位置」や「運動量」などを観測するときに使うのであって、観測しない時に予測や想像のためには使わないことになっている。マクロの世界では、観測することによって観測対象が影響されることは考える必要がない。
ところが量子の世界では影響されてしまうので不確定になってしまう。
ボーアの弟子であるハイゼルベルクが不確定性原理を提唱すると師匠のボーアは、「時間」と「エネルギー」も不確定であるといった。
不確定といっても意味不明ということではなく、「不確定」という確定のことである。両方を同時に決定できないという「確定」であり、どちらかだけなら決定できるのである。
時間が不確定だとエネルギーが借りてこれる。これは量子レベルでは時間が正確だったとすると、その持つエネルギーに幅があってもいいことになる。
ある一定の時間を決めれば、その間のその粒子が持つエネルギー以上のエネルギーを持つこともあり得るということになる。
これを量子力学でいうと、電子には波動性があるため、ポテンシャル・バリアを「トンネル」することが出来るという。これをトンネル効果という。
本来ならばエネルギー不足のため、核子(陽子や中性子)は原子核の外には出られない。ところが不確定性原理では時間を特定するとエネルギーに幅があっていいことになり、一時的にエネルギーを増幅して、外に出ることが可能である。
勿論これは概念的な考え方なので、本当に粒子がトンネルを掘るという意味ではない。
トンネル効果によって陽子2個・中性子2個のα粒子が飛び出すことがある。これがα崩壊である。
ラジウム・ウランなどの重い元素の原子核は放射線を出してすこしづつ崩壊していく。α崩壊によって飛び出てくるα粒子をアルファ線ともいう。またこの粒子は陽子2個・中性子2個なのでヘリウムの原子核でもある。
ラジウムがアルファ崩壊を起こすとラドンという原子になるが、その半減期(放射性元素の原子数が崩壊によって半分になるまでの時間)は1622年である。
またこのヘリウムは絶対温度2.2度で超流動になる。ヘリウムは原子として安定しており、しかも原子同志の引力が小さいし質量も軽い。超流動になるのはヘリウムの原子が創り出す波長がかなり大きく、物体を回析するからである。
粒子としての電子は、観測したときに粒子となって観測されるという考えが「波の収縮」であり、観測されていない、観測される可能性の集合を「共存」といっている。
存在しているのは分かっているが、小さすぎて見ることがができない。さらに観測して見えたとしても観測という行為に影響されて本来の姿ではなくなる。これが量子力学の不思議な解釈である。これをコペンハーゲン解釈とも呼んでいる。
波だと思われていた「光」は、粒子であった。しかも光そのものがエネルギーを持った粒子であり、その粒子は波長が短いほどエネルギーが大きいことを光量子論として展開したのがアインシュタインである。
亜鉛板に100Wの赤色光を当てても何の反応もないが、10Wの紫外線を当てると電子が飛び出す。光電効果という。
マクロの世界とミクロの世界との繋がりを考えるうえで、様々な解釈が生まれてしまう。人間もその構成要素は素粒子であるからだ。
様々な解釈論のうちの一つが多世界解釈である。可能性が共存している以上、それに伴って多くの世界が併存しているという解釈である。
もちろん、電子は確率の範囲内のあらゆる場所で観測される可能性があるから、その数だけの電子と観測者がいると考えるのである。
量子力学の基本的な計算式のなかでシュレディンガーの方程式というのがある。この計算式は微分方程式で空間と時間を扱っている。
空間を微分するときは二階微分で、時間を微分する時は一階微分というように区別して扱う。しかしアインシュタインは空間と時間とは対等であり、対等に扱わなければならないといった。
そこでディラックはシュレディンガーの式を整理し、その上で電子のエネルギーを計算してみた。するとその解には、マイナスとプラスの二つの解があることが分かった。陽電子である。後に宇宙線のなかに発見された。
反物質の存在である。もっと後に陽子にも反陽子があることが発見されている。何もない真空にガンマ線を打ち込むことによって電子と陽電子が生まれてきたのである。
波長の短いエネルギー大のガンマ線である。このことによって真空とは電子と陽電子が結合し、びっしりとつまっている状態ではないかと考える物理学者もいる。
結合することによってエネルギーが中性になり、一見「無の世界」に見えるだけという。さらにこの陽電子に普通の電子をぶつけると合体しもとの真空状態に戻る。と同時にそこからガンマ線が放出される。
このような量子力学の考え方と一般相対性理論を統一しようとする理論が量子重力理論である。
ところがこれがなかなか統一されないのである。なぜ統一しなくてはいけないのか。なぜできないのか。その理由のなかに多くの本質的な問題が秘められている。
粒子は「位置」空間と時間の点によって定義できる。量子力学ではすべての物理量は常にある「操作」に対応して定義することができる。
古典力学では粒子の位置は、空間の位置を表す数値が物理量となり、量子力学では位置を測定するという操作で考えるのである。
すなわち位置という物理量は、ある時刻に位置を測定したときの結果のすべてを含む抽象的な量として定義される。
波は位置を基本的な性質として定義できない。そこで波は空間と時間を変数として定義した「場」として表現する。
波の性質は、位置と時刻を指定したときの「場」の値できまる。ただし量子力学では「場」は、そこに示される数値的な性質というよりは、「粒子をある位置と時刻に真空からつくり出したり消したりする操作」となる。
真空のゼロ点振動という量子力学の発想は、真空であっても波のエネルギーを持つことを意味している。これを真空のゆらぎとも言い、そこでは絶えず粒子の生成・消滅を繰り返す世界となる。
さらにこの世界は、四次元の時空が空間の動きとともに渾然一体となっているため、どんな粒子であっても単独で出現せず、同質量の反粒子とともに生成されるという。
時空のゆがみを重力場で表したのがアインシュタインである。この場に重力子が絶えず対消滅と対生成が起こると考える。万有引力である重力は、万有のため全ての粒子からエネルギーを放出したり吸収したりすることになる。
真空であっても同じである。真空のゆらぎも重力という力で顕現すると、やはりそこに無限大の効果が起きてしまう。しかもこの効果は引力という方向を持つため繰り込みが困難になると考えられる。そうなると時空のゆがみはますます強くなつてしまう。これでは時空そのものが存在できなくなる。
繰り込み理論は、量子力学の世界において可能な理論である。原子や分子に関する量子力学は、真空での時空のゆがみが無いことが前提になっている理論なのである。
このような課題をクリアするのではと期待されているのが弦理論である。というもの一般相対性理論より導かれたブラックホールのエントロピーを量子論的に解釈するとき、ミクロの世界の自由度の乱雑さとして解釈しても真空のゆらぎのせいで、やはりエントロピーも無限大になってしまう。しかし弦理論でブラックホールを解釈するとエントロピーは有限になるという。

第六項 宇宙論の謎

宇宙は一体どこまで判っているのだろうか。宇宙の謎に挑み続けた人類の英知は、一般相対性理論を生み量子力学を生み、さらに量子重力理論を育んて解明に向かった。
無限宇宙、静止宇宙、定常宇宙、膨張宇宙、ビッグバン宇宙、インフレーション宇宙、泡宇宙、ベビーユニバース、トポロジー宇宙、量子宇宙、多元宇宙と実に様々な宇宙モデルを考案してきた。
しかし、それぞれに、それなりの問題を抱えているのも致し方ないだろう。宇宙という大きさも仕組みも構造も判らない存在に対し、よくここまで探究の道を歩み続けて来たといえる。
ビッグバン理論は、一様等方という宇宙原理を正しいと仮定し、膨張時空を考える。もちろんこれは観測事実より裏付けられているとする。
しかしなぜ一様等方なのかを問題にすると地平線問題に突き当たってしまう。地平線の半径より離れた2点間には因果関係が生じない。それでも一様等方になっているのは、宇宙の膨張速度が初めのころに比べてかなり遅くなっているのが原因であろうと考えることになる。
一様等方性の問題意外にもビッグバン理論の不思議なところに平坦性問題があった。簡単に云えば密度パラメータの値は、任意の値を選べるのに、1に近い値で宇宙が始まったとしなくてはならないのはどうしてなのかといった問題である。
これは、観測から現在の密度パラメータが0.1から1の間となる制限が得られるためである。さらに赤方偏位が大きければ、密度パラメータは限りなく1に近づき、宇宙は平坦になっていく。
したがって初期宇宙において密度パラメータは1にしなくてはならない。一般相対性理論によって存在するはずの宇宙時空の曲率が観測されず、考えている以上に我々の宇宙は平坦なのである。
これらの問題を解決するために考えられたのがインフレーション宇宙であった。もちろんなんで急にインフレーションが起きたのかは説明はできない。
そこで宇宙定数を導入して定数>0を存在させることになる。すなわち定数が物質密度や圧力に比べてかなりの大きさにすれば、宇宙膨張の式より指数関数的に膨張を可能にしてしまう。
膨張後は宇宙定数として役割をはたしたヒッグス粒子のエネルギーは初期の真空エネルギーより放射エネルギーに変わって宇宙が誕生したという筋書きである。
光の伝達範囲は、現在のところ半径150億光年である。それ以上の領域は観測不能であるがそれは、宇宙膨張が光速以上であった時の領域となる。
その後膨張速度が遅くなりこの領域が地平線内に入ってくることによって地平線問題を解決する。おなじように平坦性の問題も光速の範囲内では平坦に見えるとインフレーション宇宙論では語る。
現代の理論物理学者は、それでもビッグバン宇宙論を完全に捨ててはいない。インフレーションとビックバンとの相違はどこにあるのだろう。
宇宙が晴れ上がったときのハッブル半径は天球上で1度程度である。そうすると1度以上離れた2点間の因果関係がなくなる。
ビッグバン理論ではハッブル半径はつねに時間に比例して大きくなる。インフレーション理論ではインフレーション膨張時でのハッブル・パラメータは変わらないのでハッブル半径も一定となる。
膨張後は時間に比例して大きくなり始める。 このように時間的な振る舞いが異なるこの二つの理論のどちらが正しいのかいまだにはっきりしない。
宇宙年齢の推定は、ビッグバン理論によると現在のハッブル・パラメータ、密度パラメータ、宇宙定数が判れば計算できるという。
ハッブル・パラメータより推定するか、球状星団の年齢より下限を設定するか、宇宙定数の存在と導入を検討したりすることになる。
宇宙定数がない宇宙モデルの宇宙年齢は、ハッブル・パラメータより推定できる。これらで推定した宇宙年齢に矛盾が生じたりすると問題となり、宇宙定数を導入しようとする。しかし宇宙定数は現在の宇宙に合わせて設定した印象が強い。
球状星団とは、銀河を取り囲むように分布する星が、球状に集まったもので、種族・と呼ばれる星からできている。
天文学ではヘリウムより重い元素を金属と総称しているが、種族・の星は、この金属が少ないので、金属の吸収線や輝線が見えないのである。したがって古い星であると考える。そして年齢を推定して下限を設定していくのである。
宇宙年齢の計算には、これら以外に星の明るさ等で銀河までの距離を決めようとするとき、セファイド型変光星を利用するが、この距離の推定が問題になることがある。
セァイド型変光星の絶対等級の観測が以前と異なる結果が出たとき、明るくなっていたら距離が遠くなり、ハッブル・パラメータの値に影響を与えてしまう。
宇宙年齢はハッブル・パラメータに反比例するのでハッブル・パラメータが小さくなると宇宙年齢は長くなる。
宇宙の年齢とともに宇宙論の目的の一つに大規模構造がどのように出来たかを解明することがある。
私はこの問題が最も大事な問題なのではないかと考えている。最も不明で基本的なこの問題は、常に様々な宇宙モデルの変更を強要するように思える。
宇宙の構造と仕組みが何故今日あるような姿なのかを探究するために必要なのは、数学的、物理的モデルの前に、哲学的宇宙モデルだろうと思う。
宇宙が光速度以上の速さで膨張できることを認めると、当然のことながら人間という観測者は、光速以上の情報を得ることが出来ないので宇宙の大きさは検討もつかないことになる。
膨張速度の最大限を光速とすれば、必ず宇宙誕生の光を見ることが出来ることになる。それでも先程述べた地平線問題の解決にはならない。
観測技術の発展は、我々の宇宙に4億光年ごとにグレートウォールが存在し、それが13列も存在することが観測されているという。
このような構造を作り上げている宇宙は、誕生の初期にその因がなければならない。インフレーション宇宙論が、これらを解決することが出来るのであろうか。
構造の形成は重力の不安定な運動により、収縮した領域に銀河が誕生し、膨張した領域にボイドが形成されていくことによって成り立つと考えられている。
しかし現在の観測からでは、銀河や銀河団をつくるバリオンの密度ゆらぎだけで、今日の大構造を形成することが出来ないことが判ってきた。
宇宙の晴れ上がり以前は宇宙背景放射とバリオンは強く相互作用していたはずであるから、バリオンのゆらぎとともに宇宙背景放射にもゆらぎがあっても良いはずである。そこで宇宙背景放射のゆらぎを観測しようとしてきた。
さらに、バリオン以外に宇宙背景放射と相互作用をしない物質を想定することになる。そこで考えたのがダークマターである。
バリオンの密度ゆらぎは、宇宙の晴れ上がり以降でしか成長できないが、ダークマターがその前に大きな密度ゆらぎを持って存在できれば問題は解決することになる。
すなわちダークマターの性質によって現在の宇宙の構造は決定されることになる。
ダークマターの性質によって考えられる形成のシナリオをトップダウンかボトムアップか選択しなくてはならない。さらにダークマターの候補選びも様々に考えられている。
一般相対性理論では、特異点から時空が始まったとする。したがって以前、以後の問いに意味を持たない。しかし宇宙初期の時空の曲率は大きくなり、一般相対性理論で無視していた量子効果が生きてきて一般相対性理論が成立しなくなる。
このような量子的領域でのメトリック・テンソルを持つ時空は存在できない。そこで考えられたのが超弦理論である。
当然このような世界を物理的に検証することは不可能である。したがって量子宇宙論で扱う宇宙誕生の量子力学的な思考は、たぶんに哲学的になっていく。
それをすこしでも物理学的に表現するために用いるのが波動関数といった数学的方法である。宇宙もプランク・スケールの系では量子力学の波動関数で状態を説明することになる。
このような発想から宇宙の中に存在している我々人間に対しても、量子力学や場の量子論、さらに一般相対性理論から量子重力理論、そして超弦理論まで用いて探究しようとする人まで現れることになった。
しかし「人間とは何か」という探究は、これら物理学的な思索のなかだけでは、ますます混迷を深めるだけであろう。
生命原理の宇宙論は、理論的な基礎づけや実験的な裏付けもまた観測という実証もないので、勝手なことを勝手に云っているに過ぎないともいえる。
観測者たりえる人間の生命的な考察とともに、宇宙即生命という仏法の卓越した思考より、宇宙を考えた場合にこのように言えるのではないかという私見にすぎない。
ただこの私見より宇宙を語り、生命を語ることによって「人間とは」という永久命題に迫れれば良いのである。
「人間」を知らずして、宇宙の本質を語ることは出来ないと思っているからである。
現代の宇宙に関する物理学的考察を紹介してきたが、このつぎに仏法の次元より、蓮華の時空論としての宇宙を考察してみたいと思う。



宇宙論序説 第二節 蓮華の時空論

宇宙論序説 第二節
第一項 三次元空間の謎
第二項 四次元時空の謎
第三項 時空について
第四項 波動の時空性
第五項 粒子の時空性
第六項 構造の時空性


第一項 三次元空間の謎

次元という言葉は、変化するものの状態がn個の独立した実数で定まることを意味している。
また原理的にという意味は、一般相対性理論や熱力学の第二法則、さらに無限に対して繰り込み可能かどうかといった問題に耐えられる原理を指していうことになっている。
我々の宇宙が三次元空間であるという考え方は、物理学を生産的に語るための便法であって絶対真理であると考えている人はいないだろう。
便法であるから三次元空間にこだわる必要がないことになる。五次元であれ十次元であれそれで現代物理学の判断基準である一般相対性理論や宇宙膨張を矛盾なく語れれば何次元でもよいことになっている。
すべての座標系を相対化することは絶対化を拒否するだけでなく「すべてを相対化」する絶対化をも否定することによって自己矛盾する。
ニュートンは絶対時間によって時間を現象の外に置くことによって成立する。
定常宇宙を想定するとき宇宙は、局所的変化を認めても総体として不変であるため、たえず変化するあらゆるものの中で宇宙自体が例外となってしまう。無常の自然に不変の定数が存在することの意味は何か。
三次元のユークリッド空間と一次元のユークリッド時間。すなわち、ともに空間座標系における数学的な記述で表現されている。
したがっていかなる運動も相対的に一様に動いている別の座標系に変換(ガリレイ変換)出来ることになる。 そして全く同じ形式で表現されることになる。
これをガリレイの相対性原理と呼んでいる。そして絶対静止系といえる座標系はなくなってしまう。
そこでマクスウェルの方程式はガリレイ変換に従わないことから、もしかするとマクスウェルの方程式より導かれた電磁気現象の理論によって、絶対静止系を見つけることが出来るかもしれないと考えられたが、不可能であると結論された。
しかし如何なる座標系にあっても不変の存在を確認することが出来た。光速不変である。
絶対静止系の代わりに光速度不変が大きな意味を持つことになった。さらに力学的な現象はガリレイ変換ではなくローレンツ変換に従うと考えた。
アインシュタインはこの二つの事象から、時間と空間を独立に存在するのではなくローレンツ変換を満たす特殊な四次元連続体と考えた。この四次元連続体の空間をミンコフスキー空間と呼んでいる。
生命原理の宇宙論より三次元空間の本質を考えてみたい。波動と粒子と構造の空間性は、すべて空間の特質ではなく、時エネルギーの空間性という特質と観るのである。
この視点を「蓮の空間論」と名付けている。そして華という冥伏された時間性との相互関係より顕現された時空間が蓮華と呼ばれる我々の四次元時空なのである。
空間も空間として存在するのではなく、時エネルギーのポテンシャルが、我々人間の感覚より実感される空間の三次元なのである。
空間の三次元は、縦・横・高さといった座標で確定された「位置」によって観るわけであるが、この「位置」を時エネルギー系内の八つのポテンシャルで確定されると考えることによって、空間の三次元は仮りの座標となる。
即ち、空間そのものの存在が人間の感覚上の仮座標となる。空間とは時エネルギーの仮和合という顕現の実体となる。
人間もまた仮和合された姿であると観るのが実相より観るということになる。
仮和合されたエネルギーが三次元に見えるのは、光の作用によるのだろう。
光の特質が人間の生存にとって必要欠くべからざるものということである。
人間にとって光は三次元を意識させる特質があり、人間が光を利用して観測する以上すべてが三次元空間の内に措定されることになる。
したがって人間が例えば粒子を観測するときも、その「位置」を確定しようとすると仮和合のポテンシャルを観るだけとなる。
そして粒子の運動量や進むべき方向は不確定性になってしまう。
観測することによって宇宙が存在したり、創られたりするのではなく、宇宙も人間もともに不二の存在なのである。
観測する人間を正報と呼び、観測される宇宙を依報と呼ぶときも不二となる。
この両者がともに「報」であるゆえに変化の対象となる。観測という因縁の果報は、観測の変化に応じて変化することになる。
物質の運動に伴う時間の連続性は、空間内の時間性として不連続となるだろう。それは「位置」の変化としての運動量の観測であるからである。
時エネルギーのポテンシャルの変化を運動と把握すれば、水平移動は時間経過ゼロとなり、ベクトル移動は時間経過を伴うことになる。
「位置」とはこの時間経過ゼロの状態をさし、運動量は後者となる。
そして全体を観測すると不連続となり、観測という時間契機をともなう行為にあっては、「位置」と「運動量」は不確定性となってしまい、「位置」の変化が時間経過を伴わない水平移動を含む場合の運動は不連続になるのである。
故に運動力学の上から見れば変化ゼロの定常状態といえども、現実には静止している物質の寿命は確実に経過する。
時間を空間に変換してそれを外から観察するということは、相対性理論にとって不可欠であるだけでなく体系としての量子力学の整合性、特に観測の問題を扱う時に必要となる。
今日の量子力学の整合性を保持する基礎が、観測される対象を外側から観測する人を持っているということにあるのならば、外からの観察者についても記述する必要が生じる。これで無限後退に陥る。
観測問題の無限後退をさけるためにキリスト神学は、永遠と人間の間に永在性を設定した。神と諸精霊との間に神の子を置くことと同じ発想である。
仏法は、仏の生命と人間の生命の間に菩薩を置く。永遠の菩薩道とはキリスト神学でいう永在性に似ているといえる。
しかし「神と神の子と諸精霊」の関係と「仏と菩薩と人間」の関係は多少異なる。人によってはかなり異なるという人もいる。
観測する対象は自然であったり神であったり仏であったりしても同じで、観測する主体は常に人間自身である。
そして人間自身を含めて観測しようとすると無限後退に陥る。
観測という行為は縁となる。変化する対象の姿が報となる。粒子の存在は因果不二の果報だとすれば果報より因を探るのが観測という縁である。
しかし物理学としては粒子の位置と運動量の観測から質量等の様々な特性を測ることになる。空間にとって縦・横・高さという次元は、光とともに観測上の重要な要素である。
通常、空間の一点と決め込んでいる「位置」を、空間の一点ではなく「時の一点」とすると、位置は時間のポテンシャルとなり、運動量は時間の関数なので、位置と運動量はともに時間の関数となって同時に表現できるはずである。
ただ人間による観測は、空間内の光の運動という空間の時間性を基準にして成立しているので観測上の不確定性にすぎないことになる。
二次平面も一次直線も仮定として存在するだけで我々の時空四次元のなかには存在しない。
曲率を持たせると三次元あるいは二次元となってしまう。二次平面で輪になっている世界を仮定したとしても輪を想定出来ること自体が三次元そのものであり純粋な二次元ではない。
この三次元内に仮設した平面と同じく三次元空間に曲率を持たせることは四次元空間の内に仮設した三次元空間である。
しかし我々の空間が四次元ではないとすれば時間の一次元を加えても空間の四次元にはならない。
直線や平面に曲率を見ることは空間の曲率ではなく時間の作用だとしたらどうだろう。幅も長さも無い事象の一点を空間の一点とするのではなく時間の一点とすることによって事象から事象の直線を一次元もみるのである。
そしてこの時間に曲率があれば二次元となる。さらに二次平面にも曲率を持たせて三次元となりまた四次元時空にもなっていく事ができる。
三次元空間の定義を変えることになる。有限の一次直線は二点で決まり二次平面は四点三次元空間は八点でおよそ決まる。
しかし三次元座標内の場合はある一点を三箇所の座標軸上の点を決定して確定する。そしてこの点を通る関数によって直線なり平面なり立体なりを決定していくことになる。
この関数自体が時間を座標上に変換したものと考えるのである。従って三次元空間に添って別に一次元の時間軸を設定するといった四次元時空ではない。
あくまでも三次元空間内の運動において時間は関数として現れるのである。故に時間の関数は曲率をもっているということになる。さらに時間の曲率は運動する物質の寿命によってもその現れ方が影響される。
空間内にある質量によって空間自体が曲率を持ってしまうというよりエネルギー自体の持つ性質によると考えている。
三次元空間内は時エネルギーが充満しているのでその中で運動する物質の質量によって時間の関数に影響を与える。
光子という質量ゼロの粒子が持つエネルギーと時エネルギーとの相互作用は光子の運動にも影響を与えてしまうことになる。

第二項 四次元時空の謎

人間が感じる様々な事象が、四次元時空の枠に入らない場合はそれがたとえ真実に見えても、人間という知的生物のみが感じる特有の現象として切り離すことになる。
オカルト的な力を認めることは出来ないのは当然のことである。しかし我々が認識する時間や空間や時空といったものが単に人間の知的範疇の分析に過ぎず、現実には実在しないということも考えられる。
また我々の宇宙に対しても物理学的宇宙しか存在しないと言い切れるのかどうかも疑問である。
様々な疑問や思考はあっても四次元時空という便利な思考形態は自然を語るうえで自然発生的に生じるものだろうと思う。
時間の一次元と空間の三次元は実に人間的な感覚にストレートに訴えかける説得力がある。
しかし時間と空間の性質に大きな違いがあるので同列に考えようとするとどうしても何方かが虚数になってしまう。
現実の宇宙は全て実数に見えるので理論的な修正をしなくてはならない。
ミンコフスキーの四次元時空は時間と空間を同等に扱うために生じた時空間であり、その根底に光速不変の原理が存在している。
空間が無ければ時間は顕現する場がないので時間にとって空間は必要な存在ではある。現象的には切り離せないように思えるので同列に扱いたくなるのも仕方ないと思える。
特にアインシュタインの時空間論が一般的に認められると絶対時間と絶対空間を否定するのが当然のようになってしまった。
生命原理の宇宙論にとっては宇宙空間の時間性と空間性は同等で別視点と把握する。
宇宙空間に顕現された時間と空間は時エネルギーの時間性と空間性であると定義するのである。
従ってこの時間と空間は相対的な存在として構造化されている。その意味で四次元時空は四次元で存在している。
そして時エネルギーに支えられて存在する四次元時空となるのである。この四次元時空は空間がその存在自体を時間に支えられ、時間はその存在を空間に左右されるという現象的相関関係にあるとする現象的四次元となる。
現代物理学で三次元空間と一次元の時間を数式で同列に思考するとどちらかに虚数がでてしまう。しかし現実は実数の世界に思えるので、ここに何か見落としていることがあるのではという疑念が涌いてくる。
三次元空間であれ四次元時空であれ空間の一点から他の一点までを空間の距離としている。しかしこの一点を空間の一点にするという便法に無理がある。
確かにこの方法は判り易く便利であるが、空間の一点とは何かが不明である。空間を無限に分割して得られる一点は、本当に空間の一点と呼べるのだろうか。
幅も長さも持たない空間とは何かが問題となる。しかしこの一点の存在を認めないと距離が決定できないのである。
空間の無限小に大きさや量をみれば何故それ以上に分割できないのかと問われてしまい「無い」と言えば空間は「無い」の総体となって空間自体が存続できなくなる。
この矛盾を解決するための最良の方法が見当たらないのである。そこで三次元空間を構成している無限小の一点とは時間の一点であり、空間は時間の一点の総体とするのである。
すなわち三次元空間とは時間の別形態であり、時間の一次元にそって存在する三次元空間といった現象的四次元ではなく、時間そのものが三次元という拡がりを持って顕現されたと考えるのが生命次元の四次元宇宙である。
時間次元といっても単独のベクトルは存在しないのではないだろうか。空間の三次元の作用が時間という仮の作用を人間に実感させるだけであろう。
人間が立体という三次元を意識するといっても空間の三次元とは時エネルギーの仮和合であって縦横高さといった三次元ベクトルが存在するように感じさせているだけとなる。
従って空間内の距離とは時エネルギーのポテンシャルとポテンシャルの差となる。たとえ運動量がゼロであっても時エネルギーのポテンシャル・エネルギーである寿命はゼロにはならず経過する。
時間を単独に取り出して一次元にすると物体の運動に対する時間の働きは単に距離を速度で割った形でしか表現できない。
距離を光速で算出しようと物差しで測ろうと、また何次元を設定しようと二点間の距離は不変である。
その距離を運動系で測定して起こる変化を用いて時空間の性質を見たのが一般相対論である。しかし運動経過といっても時刻から時刻の差であって時エネルギー内のポテンシャルの変化に過ぎない。
運動という物質の性質と時間経過とは本来別の事象である。物質として構成された存在は、運動量がゼロであっても時間経過から逃れることはできない。
構成する素粒子の寿命とともに構成物としての寿命が存在するのである。
とはいえ運動を物理的に語るためには時間を別次元にした方が理解し易いのも確かであるが速度ゼロにおける定常状態にあって物質の寿命の概念は埋没することになる。
一般相対論において時間と空間が相対的存在であると語ることは出来ても時間の本質を見落とすことになってしまう。
「時エネルギー」が相転移すると「性」の転移も同時に起こる。
一次元で流れるように感じる時間経過と三次元の空間座標で表現された時間の拡がりとでは単に視点の相違ではなく本質的か皮相的かの違いなのである。
相転移を空間の性質と把握したのが理論物理学である。しかし空間がなぜ相転移することが出来るのかについて僅かな歪みによる自発的対称性の破れでは説明不足で弁解がましく聞こえる。
この空間自体が持つとされる自発能動の働きと力は歴史的偶然と大差の無いものに思える。
相が転移すれば性も転移すると考える方が自然でしかも美しい。さらに空間の転移は切り離せない存在である時間の相転移も引き起こすことになるだろう。
空間の性転移は力となって新たな力を創出した。ならば時間の性転移は何を生み出すのだろうか。
空間の三次元に時間経過だけを与える存在としての時空四次元の視点は何か欠けているように思えて仕方がないのである。
単純に時間一次元が存在し空間に沿った形で時の経過を語るだけでは、時間の非対称と空間の対称を同等に扱うことの説明にはならないだろう。
時エネルギーの構造性が空間性として構造化されているとすれば空間の対称性は時エネルギーのポテンシャルのみで方向性を持つことはない。
また時エネルギーの波動性が時間性として非対称となるのは波動に方向性が存在するからである。
さらに時エネルギーの粒子性が時空間性となって不二の存在と共に寿命を有する物質として構造化されている。
時エネルギーの構造性と波動性は、宇宙空間の空間性と時間性となって我々人間という知的生命体の感覚に働きかけている。 
従って時空間の非対称・対称という視点は時エネルギーに対する人間の実感でもあり知的分析の範疇でもある。
人間が実感する時間の経過は、粒子性としての寿命と波動性としての方向と構造性としての空間が織りなす総体的な生命実感ともいえる。
我々の三次元空間は実数の時エネルギーに満たされている。このような空間の中に物質は時エネルギーの持つ性分としての波動性と粒子性と構造性を様々に顕現しながら存在している。
物質の運動力学に現れた力を統一しても究極の力学理論にはならず、単に根源の力の作用を数学的に統一して説明したにすぎなくなる。
ましてをやこの統一理論から生命そのものを語ることは到底できないことになる。生命は物質の運動論では語り尽くすことのできない存在であり、なおかつ我々の宇宙を支えているのである。
生命といっても物質の構造上の二次的性質にすぎないという生命観を持つ方が物理学を語るうえで都合がいいという理由は、生命の真実を思索する道を絶ち切る危険性を孕んでいると言わざるを得ない。
統一理論が仮に完成したとしてもその先に何が見えるのだろうか。更に深い暗闇でないと言い切れる人は一人もいないだろう。
光速不変の原理から我々の時空四次元は絶対ではなく相対的な存在となった。
人間という観測者が実際には立てない光速での観測という条件であっても、歪む時空という発想の素晴らしさは論をまたないだろう。
光のエネルギーは有限でも質量がゼロのおかげで運動量は無限となる。光速は人間にとっての情報伝達における最高速であるだけでなく、光の持つ様々な特性は実に人間存在にとって欠かすことの出来ないものである。
そして人間が宇宙を認識するための基本量でもある。しかしそこで認識された宇宙は、事実であっても真実ではないかも知れない。あくまでも観測する人間と観測される宇宙との相対的事実にすぎないかも知れない。

第三項 時空について

対称性の破れは、一種の特別変移であるから、頻繁に起きることはないだろう。
対称性の破れと表現する特殊な状態の設定は、物理学を語るうえで便利であるから用いられるのであろう。
単に自然現象として起こりうることであると仮定すると、その後も度々起きることを期待してしまう。
しかし現在の自然の中では起こり得なくても初期宇宙における自然現象として特殊な状況を設定できる。それが対称性の破れである。
現代物理学で考えられている四つの力に対してもその発生のメカニズムの中に対称性の破れを用いることになる。
すべての結果は、自然現象以外の事象では起こりえないと考えると、なにかと全てを物理学的に語りたくなるものであろう。
しかし自然現象がすべて物理現象であると決めつけることに疑問がある。仏法は自然そのものを生命現象であると考えているからである。
したがって自然界の様々な事象も生命現象として把握することになるが、それは宇宙の創世あるいは定常宇宙考においても変わらない。
どちらの説を信じるにしても生命現象として語る必要があるだろう。さらに空間や時間といった概念に対しても同じである。
空間は、時エネルギー領域内のポテンシャルによってその特質を有する。空間は、様々な性分を持ち続けるが、光速不変や光の伝達もその一つである。
光は力学的運動において波動と粒子の二面性を見せるが、あらゆる存在の中で最も時間的存在といえる。
光エネルギーは、時エネルギーそのものに近いかあるいは時エネルギーが顕現されたところの一形態であるとさえ思える。質点が物質の一点ではなく時エネルギーの一点であり、質量ゼロの粒子は性分でもある。
すなわち空間の構造性は、時間の存在そのものを存在させる存在的結果といえる。
したがって光の性質は、空間・時間の性質によって決定されるのではなく、時空間と光の相互作用によって決定されたと考えるのである。
このことは、物質の質量の確保にも影響することになる。ヒックス粒子によって質量が獲得されると考えるのではなく、ヒックス場そのものが時エネルギーの性分となっていることを意味している。
エネルギーに対する一般的な印象は、物を動かす力とか人間の活力といったものだろう。エネルギーとは力そのものである。地震や火山の爆発に大自然のエネルギーを感じ、燦々と降り注ぐ日光にも人はエネルギーの力強さを感じ取る。
宇宙空間を運行するヘール・ボップ彗星や日食に不思議な力を感じるのも人間である。また、地上の物体にはMGの力が働くがこの力はGという重力場が質量に比例して出現したものと考えた。
さらに質量は、空間に曲率を与える程の力が存在すると言う。空間の曲がりは光速度で伝達する。光速度はエネルギーの伝達の最高速度であると現代物理学は結論づけた。
この速度が一定であるとしたのが特殊相対論であり、それ故に空間と時間の絶対性は否定された。
不変の光速度の影響下に時間と空間を置いたのである。そのためにあらゆる物質は光速度を抜きに語ることはできなくなった。
それは時空間の長さや重さ、運動といった時間・空間に関わる全てにおいてである。したがってエネルギーも質量に光速度の二乗をかけたものとして表現されてしまった。
また、別に輻射エネルギーという言葉がある。輻射場(放射場)に通常の物体を置くと吸収と反射をするが、黒体は完全に吸収し完全に放射することになる。
このような黒体に吸収された輻射エネルギーを様々な振動数に応じて分けたものがスペクトルといわれるものである。
高振動数部分における無限のエネルギー発散(無限大)を解決するためにプランクは、吸収・放出そのものが不連続な波束の形であるとしてそれを「量子」と呼んだ。
アインシュタインはこの考えを発展させ光電効果より「光子」を導き出したのである。
このようにエネルギーとは、粒子と波動という二面性より語られるが、さらに原子・分子といった構造性をもエネルギーの中に含めれば三種類の視点があるといえる。
構造性といったものが何故エネルギーの一種として考えられるのかは、エネルギーに対する生命原理からとしか言いようがない。
運動エネルギーの潜在力を粒子の運動、すなわち熱エネルギーと考えると判りやすいのだろう。
同じように輻射エネルギーも温度として扱う。私達の四次元時空の全体のエネルギーを考える場合、全空間に広がる輻射エネルギーや総質量を求めることになる。
その他のエネルギーがあったとしても計算する方法がないので使用することが出来ない。宇宙全体の大きさと膨脹のスピードを考慮して、物質密度で概算するのである。
これは当然といえば当然なのだが、要するに観測できる波動と粒子より割り出すのである。
観測という行為を「縁」呼び、変化する対象の姿を「報」と名付けることが出来る。
顕在化したものは、因果不二の果報であるから縁・報より因・果を探るのが観測といえる。
しかし物理学における観測の対象は、粒子の位置と運動量といった変化する姿が中心となる。
したがって観測からでは因果を探ることは出来にくい。そもそも「位置」と「運動量」は異なる因縁より生じる果報と考えられるので、異なる因果を持っている。
物質の「位置」と質量が運動量と相関関係にあるために位置の因果が運動量の因果を決定すると考えたのがニュートン力学である。
「運動量」を決定するのは、それが粒子であればその粒子の寿命である。寿命を仏法では「如是力」と名付け、特質を「如是作」と名付けている。
因縁果報が力作と同列に一つの粒子の体に内包されたものとして実在されているのである。この実在を「業」と呼ぶのである。
五陰仮和合とは「仮に和合した五陰」のことである。色受想行識を五陰という。
一切の衆生はこの五陰が仮和合して成り立つという。 色は色法。他の四陰は心法。五陰全体で肉体と精神との両面にわたる一切の有為法を示している。
さらに天台はこの五陰のうち識を心王、他を心数(心の働き、精神作用)としている。
また日寛は三重秘伝抄において「五陰仮に和合するを名づけて衆生と云うなり」と。そしてこの五陰に差別のあることを五陰世間という。三世間の一つである。
三世間とは因縁(因)の和合によって造作(果)された一切の差別法(すべての事物、事象)を三種に分類したものである。
衆生の生命に十界の差別があることと、この十界の衆生の住所に差別があることを説く。
因は内因、縁は外因という二種類の原因である。この二つの因の和合を因縁和合といい、和合して果を成ずることになる。
非情の国土(土地だけでなく虚空も含む)も同じく因縁の和合によって造作されたのである。
三世間は、すべて因縁和合によって造作し、因をまた業ともいい、縁は業を助くる働きといえるので、果に業が表面化することになる。
物理学的に言えば、有情も非情もともに素粒子から構成されているのだが、非情の国土といえども業を抱えて存在することになる。
したがって三世間を単に衆生を中心に語るだけではいけないだろう。国土という非情もまた一念三千の当体なので、三世間を内包しているといえる。
とはいえ識を表面化できないのも非情の特徴である。素粒子から空気や石、果ては太陽系や宇宙にいたる全てが一念三千の当体であるが、これらに有情と同じ心を観ることは出来ない。
人間を含めた全ての物質が「仮に和合」したというのなら「真の和合」とは何かを問う必要があるだろう。即ち、永遠不滅の和合とは何かでもある。さらに仮和合の必然性も問う必要がある。
宇宙が顕現したとすれば、如何なる因縁の和合によるのだろうか。宇宙に内的な直接的原因と外的な間接的原因を確定しなくてはならない。
宇宙が定常だとしたら、宇宙そのものが「真の和合」となってしまう。本当だろうか。
「因とは一切衆生の身中に総の三諦有って常住不変」と天台は云う。
それでは宇宙において常住不変の因とは何か。この因を宇宙自体とするのは、宇宙が果そのものである故に因縁果は宇宙の実在とともに実在することになる。
そもそも仏法の考え方は、顕現した物質は必ず冥伏するから仮和合というのであって、宇宙だけがその例外で永遠に存在するとする理由が見当たらない。
宇宙は顕現したのではなく、常住常在であるとする根拠はどこにあるのだろうか。
仮和合するのは五陰であってこれは衆生だけだとすると、宇宙の五陰世間は識が冥伏したままになってしまっている。
一切の法は本来、冥伏している状態であるから顕現すること自体が仮和合ということになる。しかし宇宙は紛れもなく実在している。
和合の問題点となるのは1、何故仮和合しなくてはいけないのか。2、因縁の和合とは何か。3、仮和合とは何か。
和合とは顕現と同意義でる。従って和合と冥伏は生命の二極でもある。ともに生命の実相である。
ならば衆生のみが何故、仮和合なのか。衆生という仮和合の果は、国土という因縁和合の果を必要とする。
衆生は単独では存在できないから仮和合という。とくに国土には顕現されていない心王が和合して始めて衆生が出現できる。心数の中に色行があり心王の作用であると天台は云う。
衆生を中心に語れば物質も心王の作用となる。物理学のように物質を中心に考えれば行は色の性質になる。有情の心とは、この五陰仮和合によって生じる生命現象である。
生命現象を物理学で考察することは不可能だろうが、有情の心もまた仏法より観れば宇宙の創出と同じ原理で創出することになる。ただ五陰仮和合の創出か、色行の創出かの違いだけとなる。
南無妙法蓮華経が根源の一力とすれば常住であるという以外にない。
物理学的な大統一力は常住ではなく有始有終である。冥伏された一力と顕現された統一力という両方を認めないと無限遡及に陥る。
根源の力は冥伏されていることによって無限遡及を避けることができる。
冥伏されているのに根源と成りうるのは、顕現された力を支えている力と定義するからである。
冥伏していても顕現された存在に働きかけることが可能だとする考え方はもともと一つの力の二面性とするか、部分とするか、互いに内在するとするか、同一とするかであろう。
いずれにしても仏法の思考から観ればともに倶時の存在として、時の一点おいてともに因ともなり果とも成りうる相互関係にあると考えている。
簡単に言えばどにらも南無妙法蓮華経そのものであり、その意味において冥伏も顕現も同一なのである。
同体異名ともいえるが、それよりもむしろ如是力と如是作の違いと考えたほうが良いだろうと思う。
如是力は冥伏されているが如是作は顕現されている。物理学でいうところの力は仏法でいうところの如是作に相当する。したがって作用の大統一に意味がない。

第四項 波動の時空性

粒子とは、量子論的考察に従えば波としての性質を持つ。この波を数学的な式で書いたものを波動関数とよぶ。
そしてこの関数は、複素数なので、対象物(原子や電子)の状態を表しているだけとなる。
波動関数は、粒子の存在場所を示すものであるが正しくは空間中の存在確率を求めるためにはこの複素数を二乗して(複素関数とそれの複素共役関数との積)実数にする。
また、波動関数で表される粒子のエネルギーを求めたい時に量子力学の式を解くことによって実数としてのエネルギー(量子力学では固有値という)が出てくる。波動関数は実数と複素数の和で表されている。
量子力学が十界互具論に抵触しているように思えるのは、電子の位置と観測者におけるコぺンハーゲン解釈や多世界解釈の説明においてである。
分割不可能な電子は、何種類かの特定のエネルギーを電磁波として時々放出する。放出はエネルギーの減少なので核に近づく。
何故放出するかというと、その分吸収しているからである。電磁波を放出することは電子が持つエネルギーはもともと不連続なので凖位(基準値)になろうとするからという考え方もある。
もちろんなぜ不連続なのかは問わない。この量子飛躍あるいはジャンプは、従来の物理学では理解出来なかったのである。物理学で扱うエネルギーは、連続的に増減するからであ。
量子力学における電子の「位置」は、電子の波の中に位置の決まった波の共存として説明する。
すなわち「一つの電子が様々な位置にある状態」が共存しているということである。もちろん電子が多数あるわけではない。また一つの電子が同時にあちこちに在るというのでもない。様々な状態が共存しているのである。
そして共存度(波動関数のことで波の高さ)は、生命の傾向性(多世界)になる。一念三千と同じである。電子を一念、状態を三千にするだけである。
生命状態における共存度ゼロはない。観測された状態を仏法では顕現という。
生命力学が存在を支えるものと存在自体の一切の根本原理だとしたら、原子一つのみならず、物体、人間、宇宙全体にも同じ原理で説明されるはずである。
コペンハーゲン解釈(波としての変化と波の収縮)における相補性に対し、粒子性と波動性という二面性が相補っているという考え方は、対象が電子一つであるので「相反する二つの性質」を同時に持つことを認めている。
別のものが相補っているのではなく一つの電子において相補性を認めるとしてもこの両面を兼ね備えた表現が必要になる。
ボーアもそこまでは語らないが、仏法では、不二の概念で生命を説明しているところでもある。
多世界解釈とコペンハーゲン解釈の違いは、観測においであろう。共存している状態の中から観測者がどれかを選びだしてくるプロセスと考える。
そしてどの状態が選ばれるか、その確率は状態を表している波の高さの2乗に比例する。多世界解釈の観測者と電子の関係は、電子を依報に観測者を正報にしてこの両者が不二の関係にあると考える。依正不二である。
コペンハーゲン解釈の観測者と電子の関係は、色心不二の関係となる。
依正と色心の違いは、正報を人間としたとき、その人間の色心二法が不二となる。
共通点もある。それはともに不二の関係なのでどちらも時間の経過に関係なく常に不二の状態にあることである。
すなわち両者は共に不二論に立ちながら立場が違うのである。人間を中心として観るか、人間と自然をセットで観るかの違いである。
これらに時間の経過という要素を入れる必要がある。波であれ量子であれ運動を伴う場合、まったく現時点が歴史の中で単独には存在しえなくなる。
過去のあらゆる時点に影響を受けていると考えられるからである。 電子の観測者が選びだした一つの状態は十界論である。
とうぜん、何故その状態が選びだされたのかは問うことはない。両者をセットで考えるとき、電子の位置と観測者は同じ世界にいる。これは互具論である。
勿論この場合の電子は、幅のないピークの形をした電子を想定している。そして電子が幅を持つというと、ある状態を存在させる位置そのものが多世界となる。十界互具論である。
電子を観測した一瞬の状態の説明と天台の云う一瞬の生命状態の説明は、内容の違いがあっても同質とみることができる。すなわち無数の状態が共存することを三千論で語ったのが天台である。
一人の人間の生命において十界の各界を単独で取り出して、それだけの歴史を観ることはできる。その意味において人間の過去の歴史は、十種類あるいは三千種類または無数にあるともいえる。
シュレディンガーの電子の波は、一人の人間の生命を十界互具で語るのに似ている。
人界所具の菩薩をある一点とするとき、同時に、人界所具の畜生が別の一点において共存するような考え方である。
ある時点で、人界所具の菩薩であったとしてもその一秒前が十界の各界のどこかであったことを認めるのである。
この変化を経路と考えればファインマンの経路積分法となる。(経路総和法ともいう)この経路は通りやすい路と通り難い路があるとする。
生命においては菩薩から地獄への変化は理論的には可能なのだが、どちらかというとしにくい変化といえる。
人界を中心に考えれば、人界から菩薩の変化も地獄への変化も絶対値を取れば同じ力となる。
どんなに通り難い経路に対してもゼロにならないというのが、量子力学の特徴である。
仏界に行き難くてもゼロではないのと同じである。ただし真っ直ぐにいけずに障害のある経路、遠回りしていく経路に対応する数を小さい数とする。
「各時刻で無数の状態(つまり電子の位置)が共存している。そしてその無数の状態は移り変わり、別の状態になったり、またそこから別の状態に別れていったりする。
同じ状態になったときは、それぞれの寄与を加えなければならない。「干渉」という現象がおこる。このようにして共存する無数の状態は互いに影響を及ぼしあう。
十如是実相は、十如境とも言われるが、十如智とは言わない。しかし境が定まれば冥合点より智は定まる。
境智が定まれば空諦が定まり、空諦は応身と報身が定まってその因果を見れば法身が定まることになる。
故にこの法身を因果倶時不思議の一法ともいう。したがって智は、人間の本質を仏身智と覚知することによって菩薩の本地である法身をみることができる。
不二系の相性体は、種の波動性として私達の四次元を形づくる訳であるが、これがなぜ三次元の空間を必要とするかは、九次元の時間の特質によるのである。実際の私達の空間が四次元であれ五次元であってもよいのだろう。
波動とは粒子の機能面に見ることが出来る。粒子を百界とすればその各界に十如是を備えているので三如是に粒子性が、六如是の機能に波動性が観える。
力作因縁果報に観る波動性は千如是の力用である。粒子の質量が小さければ小さいほど、波動的な性格が強く、対応する波長が長くなる。そして質量がゼロになれば質量の100%がエネルギーに転化したことになる。ただし熱エネルギーは質量欠損なので無限大の温度を設定できない。
時間と空間の絶対性は、もともとその定義自体が間違っていたのである。ともに『時エネルギー』の空間性であり、人間の生存に必要な時空間内における時間と空間は、絶対存在には成りえないのである。
人類の英知は、空間より見た時間に関する様々な疑問を残しつつ空間自体の神秘はすべて解明したと思っている。もちろんこれは、宇宙方程式における時間と空間の符号を逆転しないことを前提にしてである。(原理的にはどちらを負にしてもよいのである)
それなのに時間は何故不可逆なのか。本当に実在するのか。時の経過と過去・現在・未来とは何か。何故一次元なのか等々には答えるどころか真相に近づいているといった実感を誰も持てずにいるのが本音である。
これらの基本的な問い掛けに答えを見いだすために必要なことは、解明し尽くされたと思っていた空間に対する概念を根底から覆さなくてはならない。
空間の究明が盛んであったころには、「時」に対する疑問の究明は、物理を語るうえで非生産的であったし、其れ所ではなかったと言える。
この置き去りにしてきた課題に勇気を持って取り組んで貰いたいと思う。そして、時間から見た空間を語れればさらに科学は進化することだろう。
時間と空間が現象的に分離できない実在であったとしても空間より見た時間は一意的であり、そのことが空間の自由を束縛しているように思える。
トインビィーは、生命の時間的延長、時間次元の生命の存在を認めようとはしなかった。
空間的実在のみに生命を見ようとする。しかしこれは何もトインビィーだけではなく大半の人間が、特に学者と呼ばれる人種はそうである。
トインビィーのような歴史学者であっても時間に対する思索の甘さを感じるのである。
不確定性原理によるエネルギーのゆらぎによって対生成され続けているところが真空であって何もない所ではない。
電磁波で満たされている世界が真空となる。物質が冥伏されたら物質とは呼ばない。
質量があるものは全て物質であるから真空は物質ではない。真空にはエネルギーのみが存在している。
科学の目は、素粒子と素粒子のあいだには物質はないという考えを持っている。そしてこの無の空間は科学の対象にならない。
けれどもエネルギーが空間に影響を与えるので無視できない。見えない物質を探すより質量ゼロと思われている存在に僅かでも質量を持たせたくなってしまう。
即ち真空エネルギーは初期宇宙において重要な役割を果たしているので、その真相を探ることが現在の宇宙を決めることになる。
即ち真空の定義次第でどのような宇宙も想定出来るということである。

第五項 粒子の時空性

空間は何故、粒子や構成物を存在させることを許容するのだろうか。空間と粒子の関係を思索するとき空間自体の意味が不明になってくる。
我々の宇宙空間には粒子も存在するが真空も存在している。空間という言葉は、我々が存在する地球上において三次元で定義される対称性と大きさを持った存在として実感されている。
そして宇宙内に存在する物質の構成を階層的に探究し素粒子を発見した。しかしこれは物質を構成するための素粒子であって空間そのものを作ってはいない。
空間があってそこに素粒子が出現したのである。したがって空間とは何か。何で構成されているのかは不明ということになる。
空間は空間自体を何者にも作られていないといえる。確実に空間を占有している三次元の物質の存在を実感する我々人間にとって我々を存在させている空間の実態を単に空間エネルギーである、あるいは真空エネルギーであるといっても解決にはならないだろう。
陽子と電子の隙間を埋めているものは何か。隙間だらけの物質にあって隙間を埋めているものは何か。
宇宙にあって真空エネルギーだと考えても我々の身体の中の隙間まで真空エネルギーとは言わない。
この隙間に質量ゼロの粒子が飛び交っていたとしても身動きの出来ないほどビッシリと詰まっているとは考えていないだろう。
部屋の中の様々な家具の隙間を埋めているのは空気である。その空気もまた隙間だらけということになる。
地球上ですら隙間を埋めているのが何かは不明である。ましておや宇宙空間にいたってはまったく不明といえる。空間とは何か。この単純な問いに答えることは容易ではない。
現実にはこのようなミクロの空間は人間にとって何ら影響もないのだが、人間の英知がミクロの世界まで覗くようになると気になってくるものである。
素粒子が土や空気や植物の構成要素である以上、粒子に空間性を持たせて見るのは当然といえる。
粒子は空間にとって欠かすことが出来ない素材である。たとえその粒子が質量ゼロであっても空間を構成している素材といえるる粒子が空間をさらに占有しようとすれば原子になり分子になりさらに複雑な構成物になる以外にない。
粒子は空間そのものになることを目指しているのだろうか。このような粒子の構成を許容する空間もまた粒子の成長を望むが如くである。そしてこの相関関係を仏法では不二の関係という。
粒子とは「蓮」に具わる空間性の特質である。デモクリトスの原子論から今日至るまで様々な素粒子が発見されている。
しかし、物質から宇宙に至る全てが素粒子で埋めつくされている訳ではない。この隙間を埋めているのが時空間エネルギーだと仮定してきた。
このエネルギーは陽子や電子の隙間だけでなくその内部においても隙間なく埋まっているのである。現在素粒子という言葉自体が意味不明になっているが、空間を構成する要素として確実に素粒子は存在している。
宇宙が創世されたときは熱と光と質量ゼロの素粒子しか無かったとすれば、この三つに現在の宇宙を説明するために様々な役割を課す以外にないのである。
しかし光は有限で不変の速度と質量ゼロ、しかも粒子性と波動性の二面性を持っている。
また熱は高温から低温へといった温度変化しかない単純なエネルギーでもある。
したがって熱平衡の破れや粒子の対称性の破れといった自発的な破れに期待する以外になくなる。
破れが偶然に起きるか必然として起きるは別にして期待あるいは前提にして語ることになる。
物質の力学にあって素粒子は、力の伝達を語るのに必要不可欠な存在として位置づけられている。
力の統一理論は力の伝達を役割とする素粒子を発見しそれらの素粒子が創世されてきた経過を遡って統一しようとする発想より生まれた。
素粒子の発見という分類作業はそまま力の統合作業にもなっている。
しかし交換粒子の質量によって力の到達距離が著しく異なり、根源の力より派生しながら何故こんなに性質が異なるのかが問題となってきた。
現代物理学から見た到達距離は、「力」を伝える媒介物質である素粒子の質量がその鍵を握っていることになっている。
さらに重力は、質量を持つ二物質間の距離の二乗に反比例しているという。
素粒子が行ったり来たりすることがそのまま「力」の伝達として表面化している。
素粒子をやり取り出来ること、すなわち素粒子の吸収と放出という現象が我々の宇宙空間のなかでミクロのレベルでたゆまず繰り返されている。
そこで重力という「力」に対しても重力子といった素粒子を想定することになる。 
真の究極の素粒子などというものが本当に存在するのだろうか。すくなくても現代物理学は大きさのない点として素粒子を定義して発展してきた。
しかしこれがまた理論物理の理論的弱点にもなっていると言われている。超ひも理論は素粒子を大きさのあるリングだと仮定した。
いずれにしてもいかなる物理理論であれ知的生命体である人間の尊厳を否定するような、人間の存在を否定するような理論を認めることは出来ない。
量子力学は真空でさえ粒子とそれらの反粒子によって完全に満たされていると考えているらしい。
それだけでなくある場の中の粒子はその場の量子として存在するともいう。
まさに素粒子という言葉の響きは不可思議なそして魅力に溢れた印象を我々に与える。物質を構成する根源的な意味とともに「存在」に対する神秘な扉のような思いがわき上がる。
粒子の空間性とは仮諦の不二性のことである。この場合の不二性とは粒子の存在確率と修性不二である。
粒子性とは時エネルギーの性分と観るため、空間自体の本質は時エネルギーとなり、時エネルギーが創世した空間内に粒子が出現する場を見いだしたことになる。
したがって粒子と空間の存在は生命の仮諦の顕現として不二の関係にある。
素粒子の出現はそれが質量を持つ持たないに関わらず生命現象として把握される。
質量獲得の経過が自発的な対称性の破れといっても現象的な説明に過ぎない。なぜという問いかけが常につきまとう。
仏法から観れば生命の動的特性としての能動性である。宇宙の自発的な現象と生命の能動性の違いは物理現象と生命現象という視点の違いに過ぎない。
しかし物理現象ではどこまでいっても第一原理の保証がなく現時点という条件付きにならざるを得ない。
素粒子が質量を確保する過程も同じである。対称性の破れはバリオン数の保存則も破れることになる。いずれにしても現在の宇宙を説明するために必要な破れであろう。
このような理論的な自発的破れだけでなくゲージ粒子が質量を獲得するためにヒックス場を必要とするといった仮定も生命原理に他ならないのである。
生命が冥伏から顕現へと相転移するときに生じる必然的な過程である。
さらに相転移は性転移も同時に引き起こす。この転移された相性体の三如是は、素粒子の十如是実相を決定する。
顕現された素粒子の持つ特性を後から獲得したとする場合を修得とし、本然的に具わっているとすれば性得という。
この修性を仏法では不二と把握するが、仏法の生命に対する考察が現代物理学よりさらに幾何学的な様相を呈しているのは大変に意義を感じるのである。
顕現された空間が独自の三如是を持つことをポテンシャルとすれば、この十如是に内包された三世間や十法界は、独自のポテンシャル・エネルギーを内包した宇宙空間を構成するように働くことになる。
これを宇宙の進化とも成長ともいうことになる。「点粒子」という数学的な次元を持たない粒子という仮定より生命の動特性としての幾何学的な十如是実相としての粒子のほうが現実的な印象を受けるのである。
粒子は量子論的考察に従えば波としての性質を持つ。この波を数学的に表現したものが波動関数である。
この関数は複素数なので観測の対象物の状態を表すだけの意味となる。これを実数にするために複素関数とそれの複素共役関数の積で表す。
現実に粒子が瞬間瞬間に掛け算をしているわけではない。存在を粒子性や波動性だけで語るとこのような技法が必要になるのである。
存在の構造性を含めて語ることを提案したい。我々の宇宙に存在するすべては時空間エネルギーの顕現であると仮定しているのでこのエネルギーの持つ三面性がすべての存在に顕現・冥伏していると考えている。
究極の素粒子に大きさとか広がりを持たせると無限大の問題が生じて、素粒子自体が無限になってしまう。観測された質量を代入する「繰り込み」が必要になってしまう。これもまた数学的手法にすぎないだろう。
様々なパラドックスを解決するためには数学的説明ではなく生命論的手法がより基本的ではないだろうか。生命現象としての時間と空間と構造の解明の中にこそ、標準モデルを包括する真の基本モデルが見えてくると思っている。

第六項 構造の時空性

構造の空間性とは中諦の不二性である。「蓮」に具わる構造性の特質は網目状である。
空間内の物質の構成が網目状になって存在すると、物質が存在しない部分には何があるのかが問題となる。
空間のルールと物質の存在の間には不二という相関関係がある。電子も光も電子場と電磁場の違いはあっても、共に「場」という構造性が顕現されている。
電子が電荷を持つことによって顕れた構造性も元来時エネルギーの持つ性分なのである。このように光も物質も時エネルギーが相転移することによって生じた性転移の結果である。
諸法という顕現の根源力が時エネルギーだとすれば、このエネルギーの到達距離はミクロの世界もマクロの世界も同時となって現象的には不二の様相となる。
倶時という極限小と異時という極限大を不二に内包していると観るのである。
「力」とは因果の現象的表現であり、物理的「力」は「力」を伝達する物質の性質によっている。
従って重力や電磁気力といった無限とも思える到達距離も元来、無限の距離を有する「場」の存在が必要である。
無限の到達距離を持っているといっても到達する場が無ければ無限ではない。宇宙空間が有限のとき宇宙の端に到達した光や重力はどうなってしまうのかは今の段階では説明できていない。
宇宙の微妙な調和と空間の対称性は宇宙原理となって物質分布の一様性と等方性という仮定を生んだ。
局所的には様々であろうが大局的には一様で等方である。宇宙の大構造がこのような姿を保っていけるのは何故だろう。
宇宙構造という自己組織化は自己と他者の調和と対称性を必要としている。
ある局所が勝手に組織化することを妨げる力が調和であり、自由に組織化できることが対称性といえる。
この両者を両立させるために全体を貫く同期が必要となる。コンピーターなら同期パルスの働きに相当するこのパルスを「神の意志」といったり「根源の法則」といったりするらしい。
私はこの働きを「時エネルギーの構造性」と名付けている。この構造性が宇宙を今日の姿にしたのである。
時エネルギーの持つ波動性と粒子性と構造性という力用は、宇宙の大構造の動的把握に欠かせない視点である。
私達の宇宙が仮にビックバンから生じたとしても初期の宇宙の情報を何ら変更されずに今日まで伝達されていると考えるのも不自然であろう。
情報伝達には減衰や雑音はつきものである。仮に宇宙が膨脹しているとして、その中に様々な物質が都合よく配置されていくのは何故なのだろうか。
物質が宇宙空間内において自分の場所を偶然に決定したのだろうか。存在する場所がビックバンの時点で決まっていたとは思えない。
今日ある大構造で私達の地球の位置が決まったのは単なる偶然なのだろうか。宇宙は常に調和のとれた形でしか存在出来ないならば、その調和も宇宙の膨脹とともに微調整し続けてきたといえる。
時間とともに調整し続けて今日の大構造宇宙が完成したとすれば、調和のための法則はどの時点で成立し稼働したのだろうか。
時間の非対称を考慮すると空間の対称性の意味が薄れ、時間を無視すると動特性を語れなくなる。
五陰が仮に和合することによって三世間が出現する。この因果異時の冥合論は有情・非情の差別や十界の差別を顕現することを説いている。
因果異時の故に不可逆性と周期性を出現させ、過去・現在・未来を人間に実感させる。
天地創造の主を否定して因縁和合によって創世された有情を認めるのが仏法である。
勿論このことによって我々の宇宙が、創生されたのか定常であったのかを決着させるものではない。
等価原理とは、重力と加速度が等価であることを明言したアインシュタインやすべての物質は同じ加速度で落下することを発見したガリレイ等によって語られる原理である。
しかし加速度運動をしないで静止している物体は宇宙に一つもない。
物理学のあらゆる法則は、その存在の法則を成立させているあらゆる物体、あらゆる物質の運動と重力の影響を受けつつ宇宙空間において等価を保ち続けている。
だからといって宇宙の存在が物理法則に支配されているとは言い切れないだろう。存在と法則は鶏と卵のようなものである。共に切り離して考えられないのである。
重力によって時空が曲げられることは重力が重力だけで存在することを否定している。
一般相対性理論による宇宙は時空の曲率で表現することになるからである。
存在する力を前提にして時空を曲げる前に重力の存在と法則が一体不二にある以上、曲げられた時空の存在と法則を明確にしなくてはいけないだろう。
何故、時空は、重力やエネルギーによってまげられたのであろうか。
空間が歪んだら形態は変化するが、時間の曲がりは単に経過が遅くなるだけで時間そのものは変化していないのである。
地球上の電子より太陽にある電子のほうがゆっくりと核の周りを回るらしい。
しかしこれは電子と重力の相関関係を語っただけである。物質の本質は不変で変化するのは時間のほうであるという発想から見た一視点に過ぎない。
時間が相対的であるとし、絶対時間の否定から時間の存在自体を否定する。そして最後はホーキングが言うように「時間は宇宙での事象にラベルをつける単なる座標」、あるいはアインシュタインのいう「単なる幻想」となってしまう。
一般相対性理論が正しいかどうかは判断できないがその限界の奥に踏み込んで思考すれば仏法が見えてくるというのが私の主張である。
宇宙にある物質の総量問題には、宇宙がなぜ今日あるような姿なのかという構造上の問題を含んでいる。
それにしても宇宙はなぜ存在するのかという哲学的課題は永遠に消えることはないだろう。
物質が時空四次元の性質、なかんずく重力の影響下において創世されたとしてもなぜ時空が最初に出来たのかは謎である。
時空がなくては物質が生じないからでは答えにならない。かといって時空間の存在の因を神にしたのではプラトンやアリストテレスと大差がない。
けれども原因の無限連鎖を否定すれば最初の出来事が必要となる。
そして神の代わりに定常宇宙論が復活する。しかしそれでも空間が「なぜ存在していたのか」という原因を問うことになる。
特異点に関して投げかけた疑問と同じように、永遠に定常の特異性を問うことになにる。
ともに以前についての問いかけを無意味とするのは、時間の以前がないことと、永遠に存在する事象の以前は、無限となるとからである。
特異点は時空間を無視したゼロ点であり、定常は時間を無視した特異性を認めることによって神の代わりにし、数学的解説で飾りつけただけである。
時空間の存在が消える境界を存在させる法則は特異点以前にも存在することは出来ないことになる。時空間を創世した特異点は、時空間以外の何かであろうとしか言いようがない。その何かの性質がこのようなルールを決めたことになる。そして神が復活して元の木阿弥となる。
物質の存在とそのルールはどちらが因でどちらが果といった関係でみれば不二としか言いようがない。
不二とは両者の関係が現象的には支える側と支えられる側の関係であるが、理論的には共にどちらでもなれるという相関関係を有している。
そして支えられる側になった場合には支える側に影響を与える補完的存在となる。存在とルールは不二である。
不二とは二にしてしかも二ではないから一ではない。時間と空間に対しても時空という一を想定しては不二ではなくなる。
現象的に二つに分別出来るが本質は一とするのではなく、而二不二とするのが仏法の宇宙観である。
電場と磁場より生じる力を電磁気力として一つの力の二面性と観るのではなく而二不二と考えるのである。
光の二面性もまた同様となる。この而二不二の関係性は、エネルギーの自己組織化という構造性がすべて因果不二のゆえに顕現された生命現象であると思考する。
物質の自己組織化という構造性と因果不二の関係は生命の存在論としての法則性である。存在そのものが不二なのでありそれは素粒子であれ大宇宙であれ同じである。
素粒子が出現し大構造を作り上げることは、生まれ出た物質の特質のようなものといえる。
存在と法則が別々に個性を主張しつつ単独では成立し得ない相互依存関係にあるゆえに自己完結へと運動し続けなくてはならないのだろう。
物質の持つ構造性は人間からみれば宿命的でもあるように見えてしまう。
因位と果位という仏道修行における行位は、行為によって位を観たときの分別である。仏法で説かれる修行上の位が現実の物質系における現象として顕現されるときに因果は不二の関係となる。
顕現される作用と果報に対し冥伏された力と因縁が究竟して等しいという仏法の宇宙観は、有情・非情に関わらず共通の生命現象と観るのである。
非情としての物質もその存在の意味は本質として不二なのである。物理的因果律では一方向性の面しか見ることがないので因果が不二になることはあり得ない。
生命論的には因果は二次平面を構成して平面上の一点を不二と見ることになる。この一点を時エネルギーのポテンシャルの不二点とすることになる。
非情としての物質も有情としての物質もその存在の意味は本質として不二なのである。
空間内の物理現象は、空間の持つ本来的特性と決めつける人もいる。したがって真空中を走る光も空間そのものを媒質とすることによると考える。
宇宙が膨脹するとしてその領域を含む何かが存在することになって時空間そのものの性質も二次的にならざるを得ない。
宇宙の大構造問題も因果不二の宇宙の想定なくしては無限遡及に落ち込むことになる。
人間の認識できる宇宙の拡大とともに宇宙はどの様な歴史のもとに進化し構造を形成してこれたのだろうか。
単純な進化論では、今日までの宇宙年齢ではとても成長しきれない程の大構造宇宙が発見されたらどのような理論進化が起きるのかは楽しみでもある。
宇宙は元来、構造性をもって出現しているのだろう。これを時エネルギーの持つ力用と考えればすべてが自然現象となるだろう。
そして自然は実に生命的であり、宇宙を単に物理的構造、運動力学的把握で終始するのではなく生命論的把握を望むものである。
とはいえ物理学者や天文学者等、様々な人々が現在の宇宙を観測し、観測された事実から推理し数学的な論証を試みることは大変意義のあることだと思っている。
二点間の時空の距離の不変という問題は、空間そのものが『時エネルギー』であるとすれば、二点間とは空間の二点間ではなく、『時エネルギー』のポテンシャル間となる。
従って空間を何次元にしても不変である。この現象を『時エネルギー』の空間性と名付けている。
宇宙の大構造は、重力によってのみ成立すると考えるのが現代宇宙論である。
しかし重力というマイナスの力も空間の性質に過ぎないとアインシュタインは考えた。
仏法より観れば空間のみではなく、時空間の性質であると考える。
物理学において時間はそれほど重要な構造上の要素ではないと考えられているが、仏法ではかなり重要な位置を占める。
時空間の大構造を「劫」と呼んでいる。劫の概念が時間と空間と物質の在り方を端的に表現しているのである。それは波動性と粒子性と網目状という意味持つ言葉であるからだ。
波動性が時間性に、粒子性が物質の存在と空間性をさらに編目状が構造性を人間に感じさせているからである。
そしてこれらはエネルギーの顕現された性分として観ているのである。
素粒子のミクロの世界に見える物質を構成する二つの力とともに重力というマクロの世界にしか見えない力を同列にして統一しようとするからその関係性が見えてこないのである。
「劫」は重力という大構造と電磁気力や強い力といったミクロ構造を結ぶ新たな概念となるだろう。
時空四次元の物理的宇宙の存在を「劫」の概念より観ることを「蓮の空間論」と名付けている。
「蓮」の一字に我々の宇宙の諸法の一切が摂入されていると考えるのが仏法の宇宙観である。その「蓮」を支えているのが「華」である。



宇宙論序説 第三節 生命原理の宇宙

宇宙論序説 第三節
第一項 因果異時の宇宙
第二項 因果不二の宇宙
第三項 因果依存の宇宙
第四項 因果倶時の宇宙
第五項 生命原理の宇宙≪1≫
第六項 生命原理の宇宙≪2≫


 
第一項 因果異時の宇宙

生命原理の宇宙における因果異時について考察してみたい。まず 和合するとはいかなる事かを初めに問うことになる。和合のメカニズムとは波動性としての共鳴なのか共振なのか。粒子性としての合体なのか。構造性としての組み込み的合成なのか。または仏法でいう冥合なのか。冥合とは「奥深く合一して滞りのないこと。複数の事物事象が、極めて自然のまま、それぞれの本性はそのままで無作に合一した一体不二の関係をいう。〔此の色心の境智の二法冥合する、則事の一念三千自受用身の尊躰也〕観心本尊抄首日相聞書」。


  冥合という不可思議なメカニズムはひとえに不二と依存の状態をさしていう。不二は時間の経過に関係なく不二であるが冥合するまでの因果は異時である。合っし始めを因とし合っし終えて果となるが、この果の状態を指して不二という。その意味で物理的力は果となる。冥合する対境は複数の事物事象であるが、何故、冥合しなくてはいけないのかが問題となる。

  顕現された複数の事物事象は顕現されると同時に不二の相関関係を持つことになる。冥合というメカニズムの特徴の一つは冥伏された状態において冥合し始め冥合し終えると同時に顕現されることにある。従って冥合する理由は存在の確定のためといえる。

 素粒子レベルの冥合とマクロレベルの冥合のシステムは完全に一致する統一された原理でもある。「境智合する則は必ず大慈有り大悲は必ず用を起す起用は即ち無作の応身なり~境智合する則は行その中に在り」 応身とは作用として顕現したものをさし、行とはその動特性を意味している。


 素粒子の「内部空間」という現実の空間にある、時エネルギーの波動性が速さと方向を決定し、粒子性が回転という角運動量を決定し、さらに構造性が重力と構造を決定していると考えるのである。

 量子論におけるゲージ場とは、時エネルギーの場であり、各種の力を伝達する素粒子もその「内部空間」という時エネルギーの持つ働きと考えられるのである。

 重力子が必要なのではなく、これら交換粒子は、波動性と粒子性と構造性が顕現化される過程で生じた時エネルギーの相変換である。地球と月の間といった物質の間に働く重力は、構造性の顕現が重力という力に見えているのである。

 歪む時空にあって、真空エネルギーの歪みが、重力に無限の伝達力を与えると考えるよりも、真空エネルギーと素粒子の内部空間を満たすエネルギーは、時エネルギーとして同等同質のエネルギーなのである。

 三性のエネルギーを正負でみれば、波動性は正のポテンシャル・エネルギー、粒子性は中性のポテンシャル・エネルギー、構造性は負のポテンシャル・エネルギーとなる。
 素粒子の内部空間と外部空間の関係は、依正不二の原理で結ばれながら、内部空間を正報とし、外部空間を依報として、共に時エネルギーの業報を抱えて、瞬間瞬間にこの業報を顕現し、波動性によって与えられた速さと方向を持つことになる。

 したがって空間そのものの定義を変えなくてはいけないだろう。真空と物質の総体を空間とし、その最小単位をプランク数とすれと内部空間もプランク以下にはなれない。
どんな値を設定しても空間の存在は無限小、あるいはゼロを否定することになる。現実の世界にゼロを設定できないのは、このように空間を前提にして宇宙を語るからである。

 時間が時エネルギーの海の中のポテンシャルで表現できるとしたら、このポテンシャル・エネルギーを空エネルギーとし、さらに海自体が持っている運動エネルギーを物質エネルギーとすることが出来る。

 エネルギーがなぜ、集合し素粒子になるのかは、これらの三つのエネルギーの特質が、ある時は冥合したりある時は冥伏したりしながら、エネルギーの顕現化現象が生じるからである。そしてこの現象が因果異時の宇宙論の特質といえる。

 冥合や冥伏するのはエネルギーの因縁果報により、寿命を持つからである。寿命とはエネルギーの質の変化の総称と単位のことである。ホーキングやプリゴジンがいうように「意識の時間」は「エントロピー的時間」と全く等しいのだろうか。

 寿命の定義はある意味では、有限の連続という概念を持っている。なぜかというと無限より生成される有限と同じく、「寿」が有限で「命」は無限と解するからである。寿命という無限、有限の両概念が含まれている概念が、常住となる。常住は、無限や有限の中にも常住という意味を持っている。従って、常住は、無限かという疑問に対して、無限・有限という概念とは、別概念であると言わざるを得ない。

常住のエネルギーは、ある意味で保存則である。しかし、このエネルギーの総量は、無限なのか有限なのかと問うことになる。無限大のエネルギーの存在は、認め難いし理解し難いから、常住のエネルギーの存在を否定したくなるのは当然であろう。

 時エネルギーには虚数時と実数時のエネルギー状態がある。実数時のエネルギーは、虚数時のエネルギーの中に創出される。時になぜエネルギーがあるのか。時間とエネルギーの不確定性は、本来、同等のものを別次元で見ようとするからである。一定の時間にエネルギーの量を見れば、無限定となり、トンネル効果の原理を生む。量とは、時間の別視点に過ぎないのである。故に、空間という量は、時エネルギーのポテンシャルと考えるのである。

 虚数時のエネルギー内において、実数時のエネルギーとの境界はどうなっているのか。宇宙空間を取りまく虚数時のエネルギー。冥伏と冥合の境界は、現在であって、過去も未来も冥伏となる。すなわち境界とは、現在という時となる。

 エネルギーは、蓄積したり放出したり、作り出したりも出来る。また熱エネルギーのように方向性を内在する。そして物質をも創造する。これらの顕現される現象面とともに、冥伏された特質がある。それが人間という知的生命体が感知する時間と呼ばれるもので、これは心理的、精神的時間といった表現でも感覚的に把握される。
 実エネルギーは、虚エネルギーより創世した。現在という実エネルギーは、過去と未来という虚エネルギーとの相互作用によって自身を空エネルギーに相転移させ、さらに虚エネルギーを時エネルギーに性転移させる。

 この空エネルギーと時エネルギーは、質量と電荷を創世する。時空間とは、有始有終であり「報」ともいう。そして時エネルギーも空エネルギーも有始有終であり「中」とも「空」ともいう。さらに虚エネルギーを一身として無始無終とし、三身を時エネルギー(中・報)、空エネルギー(空・法)、時空間エネルギー(仮・応)として有始有終となる。

 虚数エネルギーが何故、無始無終の存在として存在し続けられるのだろうか。三身と顕現する場合も一身として冥伏する場合もともに本源的に虚数エネルギーの顕現・冥伏である。この繰り返しは永遠不滅で無始無終である。

 実数部といってもプラスとマイナスは連続ではない。理論的に連続にみえるだけで、間のゼロが確定されないのである。虚数部によってゼロが創成される。しかし空間の対称性のような空間座標の原点とは異なったものである。空間の無限分割は存在出来ず、無限小、無限大の概念は時間においてのみ成立する。

 虚数部の面積は、虚数エネルギーそのものであって、極性の異なる同等のエネルギーは打ち消しあい、融合し合って、実数のゼロを存在させる。実数1は、この0との差であって虚数エネルギーの顕現でもある。即ち時間とは、劫エネルギーによって定まった時間の寿命において、虚数部を介して、常にゼロとマイナスの時間を内在させている。寿命は定まったマイナスエネルギーからゼロに向かうとともに顕現部においてゼロからスタートすることになる。これが時間の非対称の原因である。

 霊鷲山は実数エネルギー、虚空会は虚数エネルギー。二処三会は、実数→虚数→実数の変化相ではあるが、実数世界と虚数世界が別に存在し、行ったり来たりするのではない。実数世界に常住して実在する虚数世界を流れの変化相として表現したのであろう。

 現在という実数エネルギーは、未来の虚数エネルギーの実数変換である。そして過去への虚数変換と相まって時エネルギーの流れを造りだす。これが時間の矢と感じる寿命の方向性となっている。

 時エネルギーの流れの方向性は、人間が実感する時間の方向性とは逆向きとなる。このことは、電車の窓の外の景色が前から向かって来て、後ろに流れ去るようなものである。エネルギーは未来から過去へ、時間は過去から未来へと流れが向かう。

 時間は運動という作用の中に冥伏されるだけでなく、時代時代において存在する果報の中にも冥伏されているのである。この冥伏の二状態を空間性としての如是果、如是報と時間性としての如是因、如是縁と名付けているのである。
 
 時エネルギーのポテンシャルは、スカラーであり、新たな時間軸はベクトルで現す。存在の時空間、存在の根源の姿は、「行」である。人間的には行為となり物質的には運行となるが、時間も空間もエネルギーとして把握すれば虚実の意味がない。因果異時という視点で見た宇宙は、人間が感じる時間の概念に限りなく近いといえる。

  第二項 因果不二の宇宙

 因果異時の次に因果不二の宇宙を考えてみたい。量子とは様々な場のエネルギーのかたまりのことである。物質は大まかに言えば電子と原子核という二種類の粒子から構成されている。この両者の間に働く力はさらに別の粒子の交換によって生じている。

 したがって力の種類ごとに別の粒子が存在することになる。そして場は、素粒子ごとに異なる場が存在している。何の場かというと電子を量子とする電子場、光子を量子とする電磁場、原子核を構成するクォークの場といったものである。 

 粒子の性質は場の性質でもある。場が空間の中にあるときその空間自体に一種の力として存在する。粒子が結合して原子や分子となりさらに複雑な分子構造を形成し固体になっていく。原子のなかの電子が量子状態のエネルギーとして存在しているが、不変の状態ではなく光子を吸収したり放出したりすると変化する。従って電子、原子や分子が一定の量子状態で存在するという飛び飛びの状態エネルギーであると考えている。飛び飛びの量子状態は原子が吸収したり放出したりできる光の色を決定する。

 別の量子状態に移る遷移の速さ(遷移振幅の二乗)に注目したのがハイゼンベルグである。物質の飛び飛びのエネルギー状態より、物質を波のように考え始めることになる。光が電場と磁場の波で記述されるのと同じようにある系の状態を波のように記述する方法を考えたのがシュレーディンガーの波動関数である。電子波の記述は音波や光波と異なり各瞬間の数値が空気の圧力や電磁波の大きさではなく電子が存在する確率であると考えたのがボルンである。

 そしてこの解釈を支持して新たな提案をしたのがハイゼンベルグの電子の位置と運動量の不確定性原理である。このことは位置と運動量という量が電子の記述に用いるのに不適当な量であるということである。さらにボーアが不確定性原理を相補性の一例であるとのべた。すなわち不確定性原理のような関係は量子力学の性質であり、ある物理系の一面の知識が他面の知識を排除してしまうというのである。

 このような量子力学の世界観は素粒子、原子、分子は独立した存在ではないということを意味する。観測される二つの状態が相補性を持っていても観測する人間との間には不二の関係にあり、観測するという時間が瞬間であれ連続であれ、それぞれの存在の因果に不二性を持つと考えるのが仏法である。

 不二の概念はもともと時間の経過に関係なく自然の内に存在するすべては不二性を具えていることを前提にしている。けれども不確定性原理はエネルギーと時間の関係をも不確定性にしてしまう。それぞれの正確な情報を測るときどちらかを無視あるいは犠牲にせざるをえない。

 電子に対するこの不確定性原理は、その位置と運動量だけでなく量子状態にある原子のエネルギーに対しその状態に止まっている時間の情報を不正確にするという。しかしこの場合の時間は観測時間ではなく原子のエネルギーの寿命となる。この現象は仏法の生命観にある十界互具論と比較できるだろう。

 十界各界の生命のある状態に対するエネルギーとその顕現時間は縁と傾向性といった業に支配されているため確定できる状態は静特性のみである。動特性を観測しようとすれば不確定性となり不確定性原理と同意義になる。けれどもこのような不確定性原理を含む相補性は粒子の観測に限らず生命の持つ特質と観るのが仏法である。

 自然と人間の不二性を依正不二と説かれているが、これは自然界で知られているすべての力についても同等同質の意義を持つと考えている。存在が物質であれ原子であれまた分子や素粒子であれ、さらに力であれその存在自体を規定する対称性原理が存在する。異なる座標系の間の対称性に重力を要求するとしても、一般相対論の対称性も同じである。

 仏法では自然界の法則や存在そのものを生命現象であると説いている。一念三千という生命現象はいかなる視点を変えても自然法則として変化することはない。法則の対称性は地獄から仏界、あるいは所具の十界において変化しないということである。この場合の自然法則とは諸法実相のことで物理的自然法則を包含する原理である。

 従って仏法には対称性の破れといった現象などそれが自発であれ他発であれ存在しない真に美しい法則といえる。物理学と仏法の理論の違いは知識優先か智慧を主体として自然現象を洞察するかによっている。単なる自然法則か諸法実相かの違いともなる。素粒子といえども顕現されたものには十如是実相を具用すると考える仏法では一切を生命より出発して思考する。

 このような思考を単に哲学的あるいは宗教的であって科学にとって何の役にも立たないと思うは間違いである。大部分の哲学や宗教が科学とは関係がないのも事実である。それは、哲学や宗教の理論がすくなくても現代科学の思考パターンと異なるからである。ある原理が別の原理を説明したり、演繹したり、導いたりしながら、いかなる条件下にあっても適用できるかどうかを常に問い続ける科学的思考に耐えうる哲学原理または宗教原理が存在していないのである。

 宗教や哲学の思索が人間より始めて神に至る過程は他の別の分野の原理を説明することを拒否しているといえる。したがって科学と哲学、科学と宗教の間にある越えがたい溝は、埋めがたいと感じる科学者の多いのが現状である。

 現代科学の基本原理は素粒子物理に求めているが仏法哲学の基本原理は生命現象に基づいている。そして科学は仏法でいう非情世界の現象より人間に演繹しようとする。仏法の生命観は有情非情に亘る。より深い原理はあらゆる原理から説明の矢が収束してくる。物理的究極理論は、その生い立ちからして人間の生命や意識や心を度外視して発展してきたのである。

 仮に究極理論が完成したとしても今度はそこから演繹しなくてはならない。けれども元々度外視したものを取り込むことはその思考の立脚点が異なり過ぎている。人間を構成する素粒子理論が人間に対して何の役にも立たないことも考えられる。そこでもやはり顔をだすのは歴史的偶然という逃げ道である。


 因と果は不二にしてしかも二ではない(而二不二)という。因位と果位という仏道修行における行位はその行為によって位を因果に分ける。しかしこの因果は生命自体が妙法の当体となっている故に不二であるという。ただし不二は異時でも倶時でもない。

 仏法においては諸法は不二の存在ということになるが、物理的には存在の相互関係が支える側と支えられる側に別れ、なおかつ、何方にでもなれる両者ということになる。ただし時間の経過に影響をうけてはならない。

 因果が不二だから時間は一次元になる。
因果という時間的経過によって空間的な現象の変化を時間論として語る言葉である。従って因果が不二になることなど有り様がないともいえる。現象的に分別されることが、本質において不二であることを本質の二面とするのでは意味がない。

 単なる視点の違いだけとなる。時空と名付けられた一つの実在の二つの側面が時間と空間であるとし、現象的に分別されても元来、切り離せない不二の関係であるということは、時空という一つの存在を確定してしまう。本当にそう言えるのだろうか。時空不二の発想は、色心不二と同系列である。すなわち空間的に二事象の不二性である。

 物理学でいうところの時間が空間の距離として物理量に換算するictである以上、時間といっても空間の事象に過ぎないのである。因果を時間のみの事象として把握することは物理的に不可能なのである。原因と結果に対し空間的事象認識にこだわると不二や倶時の概念は見えてこないだろう。色心不二は理解できても因果不二は理解できないのである。


 仏法用語としての因果不二は、仏因、仏果あるいは因位と果位といった仏界と九界が縁によって生じると説く。一つの生命が十界十如の当体で有る故に、空間的事象において十界の因果は不二となる。天台がいう「法は十界十如、因果不二」ということになる。しかしいずれにしても天台の言葉は、法としての側面を語ったのであり、生命の「妙」としての側面は語っていない。空間的に因果異時性しか見えない時間にあって何が不二なのだろうか。

 結論から言えば「妙法」を「生死」と把握することによって生死不二が観えてくるのである。「妙」の因果倶時性と「法」の因果異時性は、依報・正報の行位から観れば不二となるという意味である。因果異時と違って因果不二という原理が、時間の経過にこだわらないところに意味がある。因果という言葉は、それが修行であれ現象的な因果律であれ異時であることが前提になっている。不二の概念はこの前提を否定することになる。

 不二とは、異時でも倶時でもない。「時」が持つ第三の特質である。因果倶時と因果異時の力用が物質の世界にあっては、二にして一となり、一にして二となる。この一に相当する時間を不二という。不二の時間軸を空エネルギーと名付けることによって、物質の世界の不二性は、存在とルールとなって顕現するのである。物質エネルギーにおける因果依存は、時空エネルギーの不二性より顕現された時間性である。

第三項 因果依存の宇宙

 因果不二の宇宙の次に因果依存の宇宙を考えてみたい。物質エネルギーという空エネルギーの相転移されたエネルギーは、同時に性の転移も引き起こす。原因と結果の相互依存性は、因果不二をその源とする。しかし因果の不二性だけでなく、転移された相そのものが時エネルギーの異時性によって支えられた存在なので、依存性を有する物質エネルギーの因果異時をも内在したものとして諸法のうちに、実在することになる。この異時性の力用を我々人間は重力と見ているのである。
 時エネルギーの力用は空エネルギーであるが、力用として顕現する時には、時エネルギーの作用として独自に因果の不二性が表面化されることになる。同じように空エネルギーの力用は、物質エネルギーであるが、顕現する時には、空エネルギーの作用として独自に因果の依存性を表面に現すことになる。これを名付けて因縁果報ともいう。
 相互依存の力によって重力が、不二の力によって大構造が、異時の力によって電磁気力等の波動性が見えるのが、仏法の宇宙観の視点といえる。 
 空間から時間を見るということは、物質エネルギーの因果が依存関係にあるため、依存された立場から不二と異時を観測することになる。異時は、因から果、あるいは果から因に向かうという対称性を有したものであり、依存関係にある因果から見ればどちらに依存するかによって方向性は異なるといえる。これは、見方によっては、二方向を有しているといえる。

それでは依存関係にある観測者から不二を観たときはどうなるだろうか。
而二不二の考え方は、依存という対立(共存)関係にある二者が、元来、不二であるという現象的説明だけに意味があるのではない。二者より成立する幾何学的関係における平面上の一点が、それぞれ依存ではあってもベクトル和として因と果は、因果という不二の一点となって一次元という連続に見えるから過去・現在・未来と感じるのである。
 すなわち因果が依存関係にあると、物理的現象として三次元にみえる。因と果は、異時と不二の性分によって物質エネルギーの中だけでみると依存になるが、この因果の顕現は、現在の連続とみえるのである。物質エネルギーはこの連続の因果によって質量を生み出すことになる。
 一切の物質の基本構成が素粒子であってもそこに顕現した力は、根源の力の分岐ではなく、力用にすぎない。温度の低下によって分岐したように思える各種の力の差は、交換粒子の存在以外に共通するものがなさすぎる。ある設定エネルギー状態のときの分離不可能性はそのエネルギー状態のときの交換粒子の創出条件にすぎない。様々に現出する作用に根源はない。この思考の誤りは、作用を力としたところにある。作用という果報は力という因縁によって顕現した諸法である。如是力の作用が様々に異なる力用を示したとしてもそれは様々な生命現象の一部にすぎない。生命現象をいかに羅列し説明しても生命そのものを語ることではない。
四つの力の根底にそれを支配しているもっと基本的な力あるいは法則が存在するのではないかといった物理学者の直観は、四つの力の間にある無秩序よりくるのだろう。

物質は分解して基本のモデルを作った。力は統合して基本のモデルを作ろうとしてきたのである。
 四つの力は物質エネルギーの力用の属性として顕現されている。すなわち物質エネルギーは、その属性として時・空エネルギーの持つ特性を四つの力という具体的な力として顕現したものといえる。重力は時エネルギーの相(性)転換されたもので、電磁気力は空エネルギーの相(性)転換されたものである。
一般相対性理論における時空の本質とは何かを考えると、そこには、絶対空間と絶対時間の否定と四次元時空の絶対存在が見えてくる。
 空間とは、ある時刻、つまり「同時刻」での場所の広がりである。しかし一般相対性理論では、基準によって「同時刻」の定義が変わる。したがって基準によって変わらない絶対的(一意的)な空間の存在を否定する。一般相対性理論における時空図で空間軸が傾くことでそのことを表している。時間も同様である。しかし基準をどう取るかに無関係に時空全体は存在している。一般相対性理論は時空の理論でもある。しかし光速度が不変であるというのは、相対性理論の時空で起きている、一つの現象に過ぎない。そこで相対性理論から光速度不変の証明をすることによって逆に一般相対性理論の数学的証明をすることになる。
 しかし「同時刻」の定義が基準によって変化するといっても、同時刻が抱える空間は時空図の中にも存在する。ただし光速より早い瞬間移動を認めていないので運動として表現出来ないだけである。けれども「同時刻」での場所の広がりを空間とすることには変わりない。そうでなければある時刻の一点を時空図で表せないからである。

 時刻が変われは別空間となる。ある物体がある空間から別の空間に移動するとき、変化するのは時刻と空間の位置で数学的に表現してしまう。しかし、ある時刻での空間と別の時刻での空間が同空間で変化していないと何故いえるのだろうか。同空間の位置の違いだけといえるだろうか。それは時刻の変化にも関わらす、「同時刻」での場所の広がりである空間は変化せず、位置のみの変化とするのでは、「位置」も単に時刻の別称にすぎなくなり、空間そのものは存在しなくなる。
 長さを両端の同時刻(光の伝達)で測るから一般相対性理論の不思議な現象が生じる。問題なのは空間の一点を時刻にしている点である。そして静止している空間の一点は空間の事象としているから(物理学の基本的な思考)、時刻の一点と空間の一点の違いを無視することになる。というより両方の一点は同じと考えているのである。時空図は空間軸と時間軸を交差して描かれたもので、ここでいう時間はあくまでも空間の時間性に過ぎない。時間という言葉で表現していても空間の一点という定義以外のものではない。これでは時間と空間は同じものの別表現に過ぎなくなる。
 すべては「光速不変」がもたらす理論展開であって、たとえ一般相対性理論により証明された現象といっても数学的過ぎて現実の証明にはならないだろう。質量ゼロの光子にすべてを託すには、現実の事象は複雑すぎて辛くなる。

 粒子の発生で分かりやすいのは光であろう。物体を十分に熱すれば、光を発生する。光は光子という粒子の集団である。即ち光子という素粒子の発生である。しかし電子や陽子を発生させるのは大変である。質量mを持つ粒子は動かなくてもE=mc2の質量エネルギーを持っている。したがってこれらの粒子を発生させるにはそれだけのエネルギーが必要となる。たとえば電子を発生させるには、最初に二つの電子を高速で動かし、自分の質量エネルギーと同等の運動エネルギー以上のエネルギーが必要となる。そうでないと新しく発生した粒子が質量と運動エネルギーを持てなくなるからである。
 電子等の素粒子の他に多くの素粒子が発見されているが、大半はごく短時間で他の複数の素粒子に変化してしまう。発生から他の素粒子への変化までをその粒子の寿命という。たとえばミュー粒子は十万分の一秒くらいでニュートリノに変化してしまう。このミュー粒子を光速に近い速度に加速すると寿命が約29倍のびるという実験結果がある。一般相対性理論の正しさを証明したといわれている。勿論これは寿命と運動量を等価とする考えから来る表現である。
粒子が空間を創ることが何故できるのだろうか。重力や電磁気力や強い力といった物質を構成するのに必要な力が存在しているが、これらだけでは空間そのものを構成することはできない。そもそも重力等の力が粒子間に働く場合に想定する素粒子が通る場はそれが重力場であれ電磁場であれ電子場であれ何処に存在できるのだろうか。空間とはこれらの場そのものであると考えても空間を埋めつくす素粒子が必要となってしまう。

すべての量子理論は、真空は突如として現れたり消えたりする粒子-いわゆる「仮想粒子」-によって埋めつくされていると予言している。これらの粒子が作りだすとてつもないエネルギー密度のいわゆる「真空エネルギー」を取り出すことはできない。なぜなら、真空とはエネルギーのもっとも低い状態でありそれはちょうど海面にある水から水力を得られないのと同様である。だが一般相対性理論は、いかなる大きさのエネルギーも重力によって引きつけ会う場、つまり「重力場」を生み出す。その重力は、そのエネルギーの大きさに相当する質量と等価であると述べている。加えてそのような重力場は空間を曲げるというのだ。そこで問題になるのは量子色力学あるいは量子電気力学が予言する真空エネルギーは空間を曲げて直径わずか数キロメートルの球体にしてしまうことだ。これは大宇宙はいうに及ばず地球の大きさと比べてまったく観測的事実とは相いれない予言である。物質を構成している究極のものは「点粒子」つまり数学的な次元をもたない粒子だと仮定している。この仮定が必要となる理由は、もし素粒子が有限の広がりをもつと同じ電荷をもった部分同士が互いに反発し合って、その粒子を吹き飛ばしてしまうからである。これをさけるために点状の粒子というものを仮定すると別の問題が生じる。粒子のエネルギーが無限大になってしまい、また、一般相対性理論により質量も無限大になってしまうからだ。だが粒子は無限大の質量を持っていない。そこで方程式から「望まれざる無限大」を単純に取り除き、そこに実際に観測された質量を代入(置き換える)する「繰り込み」を考えた。時間の虚数に関する数学的処置も同じように思われる。 

 質量を持つ粒子の存在を空間内の力学で語るために、重力場や電磁場だけでなくまったく新しい場の設定が必要になる(ゲージ粒子にゲージ場、ヒックス粒子にヒックス場、光子と三つの粒子の場)。場の内にあるエネルギーの作用の中に新しい粒子の創造を見たり、粒子に質量を獲得させるための特殊な状態を演出させる必要が生じるのである。しかしその意味では、重力場という設定そのものも不自然な感じがする。現実に存在する重力を、場の設定より生じさせることは、電磁場と同じ思考なので理解し易いのだろうと思う。そして同じように重力波や重力子といった予言に繋がっていく。物体と物体の距離の二乗に反比例する重力という力を力学で把握しようとしたからである。
 これらの力は、ある力の作用に過ぎないと仮定すれば、本来の力に四つの力を統一して使用する必要もなくなる。ここで言う「ある力」こそ根源の力であり、その力は四つの力の統一によって明らかにされるという意味の「力」ではない。四つの力とは、一つの力の分岐ではなく、「ある力」の作用にすぎないと考えるのである。宇宙の温度の低下にともなって生じた力の分岐ではなく、機能の顕現化ということである。しかもこの「力」は、四つの力と呼ばれている力のように顕現されることはない。
 顕現された四つの力を伝える粒子の存在は、情報伝達の媒介物に過ぎないが、光子が何故、電磁気力を伝搬する媒介となれるのかは不明である。そして、結局はそういった性質を持つだけとしか言いようがなくなってしまう。

 大統一理論への道程のなかで、標準モデルの誕生に繋がった「対称性」の概念を拡張する考え方がある。この「対称性の思想」が仮定するのは「自然界はもっとも基本的なレベルでは完全に対称的になっている」という考え方である。しかし私達が目にする四つの力には対称性はほとんど認められない。(強い方の三つの力だけをとってもその強さは1000億倍ほど違う)けれどもきわめて高温(空間のエネルギーが大きい)ところでは、力はどれも等しくなると仮定する。空間のエネルギーが大きくなるにつれ電磁気力と弱い力は強くなっていき10の28乗電子ボルト(1兆電子ボルト*1兆*1万)で等しくなるとこれらを生み出す素粒子の質量は同じとなって、互いに入れ代わることができると仮定するのである。 
 ビックバン宇宙論では、宇宙誕生時は、高温で高密度、きわめて対称性の高い状態(同質量)と仮定している。そして膨脹とともに物質が冷えてくると対称性は破れ、様々な力と粒子が存在する現在のような非対称的な宇宙になったと考えている。対称性の破れは他にもバリオン数の保存則も破れることになる。いずれにしても今日ある宇宙を説明するために必要な対称性の破れであろう。このような無理やりとも思える自発的な破れやモノポール、陽子の崩壊、ドメイン・ウォール、トップ・クォークといった問題は常に付きまとう。マクスウェルの電磁気理論の統一は電気現象、磁気現象、光の現象の三つは宇宙誕生時も今日も変わらない現象(地球上でも宇宙でも)であるのに対し、大統一理論は、ビックバン直後の極めて短い瞬間しか統一されない理論である。

 ゲージ対称性が成り立っている世界では、質量は現れないので自発的破れ(ヒックス場)が必要となる。ウィークボソンというゲージ粒子(他に光子、グラビトン、グルーオンといった質量ゼロの粒子)が質量を獲得した仕組みと同じ方法で、クォークやレプトンが質量を持つことが出来れば物質は創世されることになる。
 宇宙誕生の初期、物質に質量はなかった。物質が質量を持つに至る経過の推理は実に不可思議な粒子や場の自発的な破れとともに語られることになる。
 科学の進歩とともに我々の理論は深まるが、同時に新たな未知の領域も広がっていく。自然が美しい「対称性」を隠し持ちそれらを美しい数式で記述できてしまえること自体、非常に不思議でもあり、神秘的でもある。我々の自然界のベールを1枚はいだときその下にはどんな神秘が新たな謎が隠れているのか。これからもその解剖を続ける過程で光もまた中心的な役割を果たしていくに違いない。
 素粒子に至る階層構造は、エネルギーから物質に至る過程を明示する年輪のように見える。素粒子が質量を獲得し物質へと構造化する過程を物質の性質から推し量るのは一つの方法である。しかし構造を持つ以前や物質化する以前を構造化された物質より究めることは不可能だろう。物質を創造したエネルギーそのものの性質の領域である。物質がなぜこのような階層を持つのかは、結局のところエネルギーの本来的性質によると思われる。

 地上の物質は、地球の重力が働き、重力質量はmgニュートン。無重力状態にある物質を上昇させgと同じスピードにするとこのとき物質mに働く力は mgニュートンになるとこの時の質量は重力が働いていないので慣性質量となる。(g は重力加速度。 慣性系とは、力が働かない限り等速運動を続ける系で、止まっていればゼロを維持し続けることになる)
 等価原理は原理的に正しいことになる。ただし等価原理は仮説であって、仮説から導かれた結論はまた仮説ではある。ただきっと正しいだろうと思う。しかし何故なのかといった本質的な原因は不明であるから仮説になってしまうのである。
 等価原理は空間の性質ではなく時間の性質であると考えたらどうだろうか。一般相対論が加速度運動で生じる力(みかけの力:ニュートン)と重力は同じ力といった。この二つの力はともに遮ることができないのも同じ性質である。ただしみかけの力は運動していないと出てこないが、重力は質量があれば出現する。みかけの力は、運動する系内において平等に作用する。まわりに何もなく空間しかなくても作用する。だから空間の性質であると考えたのである。
 一般相対性理論によると重力は質量だけでなくエネルギーによっても作られる。また質量とエネルギーの両方に作用する。(これがエネルギーを持つが質量はもっていない光子が太陽の重力場で曲げられる理由となる)

 十分に高いエネルギーでは二つの典型的な素粒子の間の重力は、その間の他の力と同じくらい強くなる。それが起こるエネルギーは約1000兆兆ボルトである。これはプランクエネルギーと呼ばれている。
 重力子は光子の2倍のスピンを持つ質量ゼロの粒子(ただし弦理論であらわれたこの粒子は100兆兆兆兆も強い、そこで弦の張を大幅に増して1000兆兆ボルトにした〔これはプランクエネルギーと同じ〕)である。はたして重力子は実在するのか。
 等価原理を「時間」の性質とする時「重力」も「慣性」も質量にこだわらずに別の視点が見える。即ち、重力時間と慣性時間は等価であると考えるのである。
 「時空の歪み」の本質は時エネルギーの曲率とする。そして空間が歪むのではなく時エネルギーの歪みが時空の歪みの本質となる。
 空間を顕現の場とする時間は、空間とともに歪んで観えるのである。
確かに時間はアインシュタインが云うように一様に進むことはない。仏法においても地獄界という場は時間の進みが遅い。この界が極端に質量が大きく歪んだ空間ということではない。時間そのものが大きく歪んでいるのである。この現象を「生命の歪み」ともいう。 
重力子の問題以外にも現代の宇宙論において一様性と等方性問題がある。宇宙はどこを見ても一様である。なぜこれ程に一様なのかについて理論物理学者は様々に説明している。

宇宙定数と宇宙項、物質密度と大構造宇宙、さらに宇宙定数の謎。素粒子から原子、分子さらに大構造宇宙へと広がる階層構造は、物質と空間の相関関係によって成立した進化の全体像である。
誰の言葉か覚えていないが、私の気に入った言葉がある。「無知と迷妄(医学)の霧が晴れたら、迷路の森に(科学)彷徨い始めた。」というのである。
 何故 自然の法則(物理定数)は現在あるようなものなのか。何故、宇宙は現在あるもので作られたのか。これらのものはどの様にして始まったのか。宇宙はどのようにしてその組織を作り上げたのか。時間の本質。物質と生命の起源。因果関係と決定論。神は存在するか。超自然的な奇蹟はあり得るか。創造はあったのか。生命は偶然によって発生したのか。様々な疑問に対し形而上学的アプローチではなく、あくまでも物理学的に思索する意味はどこにあるのだろうか。
 宗教は真理を信仰する。科学はある理論が「正しい」か「正しくないか」を語らず、「役に」立つか立たないかを語る。科学は真理を扱うのではない。宇宙についても、知っている事または知っているかについて語るのであって、何故について語るのではない。真理と真実の違いとも言える。主観的で実用的である。不完全な科学は不完全の故に、変化を受け入れることが出来る。物理学は客観的であるより主観的立場によって成り立つので、芸術家と同質であるから「美」を重んじる傾向がある。

科学者の好む「美」と「対称性」は完全無欠の真理に価値を見いだすことは出来ない。超統一理論に対して「驚くべき単純さと美しさ」を期待している。心が素粒子で構成されていない以上、心は物理学的力学では語る事は出来ない。
太陽と地球と月の相関関係を持つ引力は、これらの物質を存在させている空間のエネルギーの作用として寿命の「行」と「我」という特質の一領分となる。これは、生命の時間性より派生する空間に寿命の場のエネルギーが創造した原因としての宇宙である。(原因
としての宇宙とは、物理的な法則の原因が宇宙にあるという意味。結果としての宇宙とは、地上の運動法則が宇宙の仕組みに支配されているのではなく、地上と宇宙の法則が同時に宇宙を作ったとする意味)
 「行」という時間性と「我」という曲率によって重力は決定されると考えれば、寿命のエネルギーの一側面としての重力を観ることができる。したがって系内の総量の二乗に比例する重力エネルギーも系の寿命によって系内の物質の総量は決定されることになる。物質間の重力といっても単に質量で決定されているのではなく、物質の「寿命と寿命」が織りなす「行」と「我」の相関関係を物理的に観たものということになる。

第四項 因果倶時の宇宙

因果異時の宇宙、因果不二の宇宙そして因果依存と宇宙と考えてきたが、これらの因果は、大乗仏法から導かれたものであるが、まだ日蓮仏法に至っていないのである。

因果依存の宇宙の次に因果倶時の宇宙を考えてみたい。なぜ因果が倶時になるのかは、仏教の最高峰の経典である法華経の文底に沈められた法の開示なくしては語ることができないだろう。この件については、日蓮本仏論序説で述べておいた。
「時エネルギーの海」は方向性を持たない二次平面と考えれば、平面上のポテンシャルが空間の一点ということになる。総体としての時間の海は、その期間を定めれば積分で表され、一点は微分で表される。巾も長さも持たない一点とは空間ではなく時間の海の一点ということである。時間の一次元は空間から見た時間の方向性を意味しているだけである。この時間が顕現するためになぜ三次元空間を必要とするかというとict2で表現される時間は、空エネルギーと名付けられた、時エネルギーの作用として創成されたものであると思考するからである。空エネルギーの因果は、不二を本質とするので不二性が物理現象すなわち物質の存在と運動のあり方に三次元を要求したのである。
 不二性が三次元でなくては表現できないのは何故かということであろう。時は永久に振動し続ける。時を構成しているものは時そのもので、他の何かによっていないので、時の振動エネルギーは消費されることはない。時の振動エネルギーはその状態によって、種々の力用を顕現させる。その一つのモードが不二性(強い力)である。また、異時性(電磁気力)であり、倶時性(重力)である。さらに依存性(弱い力)である。

時エネルギーの各種のモードは、素粒子に対応して交換粒子を生じさせてもいる。人の老化は時エネルギーの力用でなく物質の性質によると考えるのが物理学や生物学の発想であろう。しかし時の振動エネルギーは虚数エネルギーの力用なので、時の振動は作用の果報となる。
 妙法華の時エネルギーは、顕現として「華」に収束されて一次元の時間を感じさせる。蓮華の四次元という諸法エネルギーは、妙法の冥伏次元を「華」に抱えている。妙法という実相エネルギーは、時間に内包されて冥伏している。
 因果倶時の宇宙を考える場合、その因果の倶時性が、存在の構造そのものに顕現されているとするのである。
 因果を同時に見る視点は、「縁」と「報」であるが、因縁果は「報」より見れば現象として全て含まれている。この「報」の因果は、因果倶時であるが、一次元的に見てしまうと倶時といっても異時の一点になって倶時は異時に埋没してしまう。
 物理学的因果律は、仏法の生命論より観れば如是力の作用であって、力そのものは冥伏されている。作用の因果は異時である。「時」とは異時の一点ではなく、異時という現象を支える「力」である。異時は倶時を左右する働きをその性分としている。倶時という冥伏された力をどのように左右することが出来るのかという、「報」の一点である「縁」の水平移動によって因果を変えるのである。不二の二次元である。「縁」の変化は、「縁」のポテンシャルの変化である。

因縁果報を一次元に見るのではなく、三次元で観ることによって因果倶時点、即ち、「縁」の本質を知ることになる。したがって、不二性を物理現象とみると、時空四次元となり、時間を除く空間の三次元が不二の本性となる。生命現象として見ると時エネルギーの三次元となる。
 物質エネルギーという空エネルギーの相転移されたエネルギーは、同時に性の転移も引き起こす。原因と結果の相互依存性は、因果不二をその源とする。しかし因果の不二性だけでなく、転移された相そのものが時エネルギーの異時性によって支えられた存在なので、依存性を有する物質エネルギーの因果異時をも内在したものとして諸法のうちに、実在することになる。この異時性の力用を我々人間は重力と見ているのである。
 時エネルギーの力用は空エネルギーであるが、力用として顕現する時には、時エネルギーの作用として独自に因果の不二性が表面化されることになる。同じように空エネルギーの力用は、物質エネルギーであるが、顕現する時には、空エネルギーの作用として独自に因果の依存性を表面に現すことになる。これを名付けて因縁果報ともいう。
 相互依存の力によって重力が、不二の力によって大構造が、異時の力によって電磁気力等の波動性が見えるのである。
 作用の果報となる「蓮」の時間性は因果異時であり振動エネルギーである。「蓮」の空間性は、因果不二であり粒子エネルギーである。「蓮」の時空性は因果依存であり構造エネルギーである。

 粒子を中心に宇宙を語るときは「蓮の空間性」であるが、素粒子といえども振動エネルギーや構造エネルギーに支えられて、物質としての構造と運動を表面化しているのである。したがって、宇宙を語るときは、粒子性と波動性と構造性を同時に語る必要がある。
我々が認識する大構造宇宙という諸法は因果の異時と不二と依存という特質によって支えられてその実在が構造化されている。因果異時は波動性に、因果不二は粒子性に、因果依存は構造性となって大宇宙を構成することになる。エネルギーとしては、時と空と物質のエネルギーである。時エネルギーの本性は三世常恒である。空エネルギーの本性は生死の二法である。物質エネルギーの本性が熱と光である。仏法でいう焼照の二法である。熱と光により質量を生じさせたり様々な作用を顕現させたりすることになる。始めに述べたように顕現された物理的力は、根源的力ではなく時エネルギーという根源的力の作用なのである。時エネルギーが相性転移して様々な顕現の姿を現出したのが今日の宇宙でもある。物質エネルギーの属性としての因縁果報は質量を生みつつ現在の宇宙を構成するために必要な四つの力を現出した。
 因と縁が和合して生じるのを果という。そして果に固有の姿を与えるのが報となる。光子を仲介して電磁気力が生じることは、電磁気力を初めの「因」とすると「果」は強い力となる。そこで「縁」となるのが重力である。「報」は弱い力である。電磁気力と重力が和合して強い力を生じるというこじつけが真実かどうかは判らない。ただこれらの四つの力が一つの力の分岐だとするとあまりに異なる性質の違いによって説明が難しいのではないだろうか。

因縁としての電磁気力と重力の和合によって果報としての強弱力は創出されたと考えればその作用の違いは見えてくるだろう。だからといって電磁気力と重力がなぜ和合できるのか。和合の原理とはなにかが問題になるだろう。電磁気力も重力も現存するし物質の中に存在する強い力も現存する。これらの関係を時エネルギーの力用によるとすれば、その相関関係があるはずとなる。
 物理学で統一しようとしている力は本源的には時エネルギーの顕現された属性であり作用である。そして私達が認識する大構造宇宙という諸法の様々な姿形は因果倶時・因果異時・因果不二・因果依存という因果によって支えられて実存することになる。
 時エネルギーの固有値が独自の大宇宙を形造っている。我々の大宇宙という諸法を「蓮華」と名付けたのが仏法である。宇宙がなぜ人間生命と同等同質の生命であると説くのかは宇宙を創世した原理と人間を創生した原理が共に妙法蓮華であるとするからである。故に仏法は衆生(人間に限らない)本有の妙理を妙法蓮華と名付けたのである。
 各種のエネルギーと作用についてに表にすると分かりやすいのだが今回は省略させていただくことにする。

 星雲の中でガスが収縮し密度が高くなって星がうまれる。この現象は我々の宇宙がエネルギーに満ちた開放系の空間であることを意味している。新たな星の誕生は諸法の現象でありさらに全宇宙のどこにあっても時間が実在していることを証明している。

時間がたんに幻想であったり意識によって自覚される対称ではないのである。それは人間の存在や観測によって生じたものでもないということである。時間は全宇宙に平等に存在しながら空間を支えているのである。しかし空間は時間を左右する力用を持っている。勿論このことは物質エネルギーの属性の中で働く時間においてである。空間を顕現の場として生じた時間は空間の時間性であるゆえに空間に左右される存在となる。空間の時間性は空間の歪みと共に歪むために理論的には空間と同じく対称性を持ち方向性を持たないのである。
 各種の因果は時間の不思議な力用である。空間に存在する物質を時間論より観れば依存にも不二にも異時にもまた倶時にも観られるはずである。これはたんなる視点の違いではない。物質に具わっている時間の力用である。空間の本性は、時エネルギーと空エネルギーと物質エネルギーに満ちた空間である。これらを諸法エネルギーと名付けた。これらに対し実相エネルギーと名付けたものは虚エネルギーと劫エネルギーと時エネルギーである。諸法実相にわたって時エネルギーは存在するのである。実相エネルギーより創出した時エネルギーは空間という存在によって時間となって顕現するのである。
 虚エネルギーを仏の徳あるいは慈悲あるいは智慧と名付けておくと仏法の生命観も判りやすいと思う。また各種のエネルギーを仏と名付けようと大構造宇宙や超銀河団を仏と呼ぼうとかまわないだろう。単なる別視点である。

時エネルギーより素粒子は生じたのだが時エネルギーのポテンシャルという固有値を持った宇宙の中に生まれたところの個性を持った素粒子達である。素粒子だけでなく物理定数や宇宙原理といえどもこれら固有の値である。この固有の宇宙に対しても固有の仏の出現という視点もまた仏法理解に意味を持つだろう。しかし、宇宙を創造したのは神や仏ではない。仏法では神や仏といっても諸法の様相を生命論的に立て分けただけである。これを天台は十界論として説いたのである。創世された宇宙の総称を仏と名付ければ宇宙の出現が仏の出現となる。その意味で神や仏を造ったのはエネルギーということになる。宇宙を含めて宇宙の中に創生された事物は全て仏であり菩薩でもあるという原理が十界互具論であり、これを十界の因果ともいう。実相という妙法に蓮華が備わり、諸法という蓮華に妙法が備わっている。諸法実相をあえて立て分ければ、諸法は妙法蓮華経であり実相は妙法蓮華経の異名となる。
 宇宙が創世されて十界の因果が創生されたがゆえに諸法と実相の中道を時エネルギーと名付け、この時エネルギーの十如是実相を観たのが仏法の宇宙論である。さらに諸法実相を時空十二次元としてその「行」と「当体」を南無妙法蓮華経と名付けたのが日蓮仏法である。宇宙といっても単に物質の運動であると考えたら宇宙の神秘はますます混迷を深めることだろう。衆生本有の妙理である妙法蓮華を時空十二次元と把握することによって生命と宇宙という存在が一体と観ることができるのである。したがって宇宙が生命を創造させる力があったり意志があったりするのではなく、宇宙も生命も妙法蓮華の作用として顕現したという意味でまったく同等同質の妙理より創生されたということになる。

 宇宙の因果について、原因としての宇宙と結果としての宇宙という視点ではなく、因果倶時や不二といった不思議な因果関係について考察してみたい。
 倶時の宇宙とは、常に現在を常住とする視点である。因果は無分別となって過去も未来も実数としては存在せず、虚数時空となる。実数時空の異時の宇宙より見れば現在の一瞬に因果が同時に具わっていることになる。実数という異時にあって瞬間の倶時といっても異時の一点に過ぎない。逆に倶時の宇宙よりみれば倶時の連続を異時といい、倶時の総和が異時となる。この違いは異時の因果における一因一果に対し倶時は無限因無限果における因縁という二因一果の違いである。異時の束縛から一因無限果を可能にする思考ともいえる。縁によって果を決定できるという自在性、変革の可能性を見ることができる。異時の宇宙は実数宇宙であるため因果は分別され過去・現在・未来の因果は境智冥合面において確定される。しかし倶時の宇宙は境智冥合面を内包している倶時面において確定されている。この両面はいずれも実数の異時線に直交する面であり本源的に虚数面である。この異時線がポテンシャル・エネルギーの行となる。因果倶時とは倶時面の一点というポテンシャルでありこのポテンシャル・エネルギーを内在させた宇宙である。実在する我々の宇宙はその因果を観れば倶時点のポテンシャル・エネルギーと冥合点のポテンシャル・エネルギーを誕生のエネルギーとして創世されたのである。

 勝手なエネルギーを想定して勝手な宇宙誕生の話しをすることに何の意味があるというのだろうか。現在の我々自身が感じる過去・現在・未来の不可思議な感覚に対し、空間的に三世を見ても時間的に見にくいのは時間を物質の運動や変化に対応した時間感覚としか把握していないからである。さらに時間の流れが光学的に捉えられないから、時間を情報とすることができないのである。しかし倶時面や冥合面という虚数面は時間の一点に直交して実在し続けているのである。すなわち過去とは現在の実数から虚数の時間への移行であり、未来とは虚数から現在の実数への移行というポテンシャルの移動となる。過去を媒介にして現在をみることも未来を媒介にして現在をみることも共に倶時の因果を観ることになる。けれども現在を媒介にして過去と未来をみることは異時の因果をみることになってしまう。人間一人の存在に対し何故いまこの時に生きているのかといった問題も時エネルギーのポテンシャルに依っていると考える故に物理的にその存在を証明できなくても説明に必要なエネルギーを便宜的に想定したのである。
 倶時面や冥合面といった虚数面の想定だけでも突飛すぎると思うかもしれないが、実はこれだけではまだ足りないのである。もう一つの面を宇宙という実在は抱えているのである。それが不二の宇宙という視点である。不二の宇宙とは諸法の様々な現象や存在が依報・正報の相関関係にあって常に不二の連続と見ることである。日常生活における「時」の一点に不二の現在を見ることによって存在を常に因果不二とするのである。

不二面の不二の一点より「時空間の行」という異時線を想定するが、このポテンシャル・エネルギーの非対称がたぶんエントロピーとよばれるエネルギー現象であろう。不二という諸法の原理は倶時や冥合という実相の原理と異なり因果の分別が顕現されているといえる。けれども不二の現象は時の経過に係わらず常に不二であるという存在論でもある。倶時・異時・不二の因果は我々の時間に内包しつつ我々の宇宙の根源力として実在することになる。
 宇宙に実在するエネルギーの因果を時間論的に見れば倶時あるいは異時と見え、存在論的に見れば不二あるいは依存と見ることができる。また、エネルギーを時空間論的に見れば粒子性の因果は倶時となり波動性が異時となり構造性が不二と見える。我々の宇宙を大構造という形態だとすればその全体も部分も不二の存在である。このように宇宙の微妙なバランスは時エネルギーの力用によって支えられているのである。「体」に顕現したものがその体の「相」であり、相の生ずる因を「性」とするが、性から相へそして体にといった因果の流れではなく、この三如是同時と観るのが倶時である。因と果が体に現ずるのが同時となるが、その空間的側面として体の存在する空間の在り方は不二として周辺と関わりを持つことになる。
 時エネルギーを諸法実相と観れば物質エネルギーの力用によって創生された素粒子にも十如実相を観ることができる。力学的には「強い力」と「弱い力」によって物質の固有性は様々にその姿形を顕すことになる。生命論的には、種と眷属によって様々に現出すると考える。これは時エネルギーの九次元としての「相性体」と空エネルギーの三次元の「業報」が本末究竟して等しいと観る中道実相の時空間論の中に因縁果報の「種と眷属」という個性を観るからである。

種の概念は諸法の原点となる時エネルギーのポテンシャルが持つ特質と見ることによって成立している。そして本種を仏種と呼ぶ。
 物質で構成されている我々の宇宙には定量的に思考できるエネルギーだけでなく、冥伏されているが現実の宇宙に影響を与えているエネルギーが存在していると考える必要がある。現在の宇宙が何故、今日あるような宇宙になっているのかといった問いの本質的な解答は、単なる物質の力学だけでは語りきれないだろう。数学という便利な言語には原因性を含まない故になおさら困難である。仏法で説く妙法蓮華経が数学言語に変換し難いというだけで物理的思考の外に置いてしまうのは今後の物理学や天文学の思考領域を狭めてしまうだろう。そしてますます本質から遠ざかる感を免れないのである。
 エネルギーや宇宙といった物理学的な用語を仏法用語の如是力や如是作と同義に扱うのはかなり困難を伴う作業である。しかし生命的存在として人間も宇宙も同等同質のエネルギーより創世され存続していると考えるのは決して否定しきれないと思っている。このような生命エネルギーともいうべきものを仮定することは単なる宗教であって科学ではないと否定するのは簡単である。しかし力学的統一の為に行う数々の仮想の粒子や場が物理学的に生産性のある方法であるのと同じく生命エネルギーの想定も人間と宇宙を語る為には必要不可欠な仮想の場なのである。

第五項 生命原理の宇宙≪1≫

最後に生命原理の宇宙について考察したい。宇宙論という一見、科学的思考が現実には単なる力学の中に埋没して思考の行き詰まりが見えてくる。そして何故という設問に対し限界を設定して「何故」を放棄する。存在のルールや統一のルールに対する問いかけだけでなく、時間の非対称に至っては殆ど問いすら発しない。いつまで経っても時間はictのままである。
 時間は存在の対象として思考するものなのだろうか。方向性に意味を持たない宇宙空間にあって、時間の経過をどのように把握すればよいのだろうか。時間と空間は、時空の二面性だとすれば、存在論として不二となる。時間の存在に影響を与える空間の存在は、時間によって支えられている。従って空間が歪むと考えれば時間もそれに影響されることになる。人間が時間について思考するとき、どうしても時計が頭から離れないから、時を刻む時計の針と時間あるいは時刻と意識が重なり合ってしまう。
 時間tは、相対性理論では四番目の次元に過ぎないが、運動量の四番目の成分は解析力学によればエネルギーEとなる。時間の速さを考えるのは空間内の運動論的な発想でしかない。時間は運動とともに顕現するが、宇宙を時間次元で語るとすれば、その時間に常住のエネルギーと観ることになるだろう。
 ニュートンがいう絶対時間は宇宙に一様に流れる時間の存在に過ぎず、アインシュタインのいう相対時間は重力によって影響される相対時間に過ぎない。

観測して変化する時間といっても時間そのものが観測することによって始めて顕現されるという意味ではない。絶対時間と絶対空間を否定しても絶対時空の存在を肯定することにはならない。絶対の基準の変更に過ぎないのである。物理法則も宇宙の物理状態の変化に応じて定まってきた歴史的所産ではない。宇宙の物理状態に支配された法則に見えたとしても、物理的宇宙という思考形態そのものが、時空不二、時空依存の空間性という側面に偏った思考に支配されているのである。時間・空間・物質が一体として相互に関連して創生したとし、創生以前を問うことを拒否するから法則が後天的所産となってしまうのである。もっとも物理法則の大半が後天的所産としてもそれなりに説明がついてしまうらしいので致し方がないのだろうと思われる。
 時エネルギーの三つの性分により創造された物質は宇宙という大構造をも作りあげたのである。素粒子であれ宇宙であれ波動性と粒子性と構造性はエネルギーの基本的性分として実在している。
 エネルギーの種類にかかわらずこの三つの特性はエネルギーが持っている性質である。生命原理の宇宙論が予言するなかの一つである。波動性と粒子性が和合して電磁気力が、波動性と構造性が和合して重力が、電磁気力と重力が和合すると波動性が打ち消しあって残った粒子性と構造性が和合して強い力が。電磁気力には構造性がない。重力には粒子性がない。強い力には波動性がない。

「時空間の行」を時エネルギーとしそこから空エネルギーや物質エネルギーが創出されていく。時エネルギーの相転移が空エネルギーであり、空エネルギーの相転移が物質エネルギーといった具合である。そして相転移は性転移をも引き起こし、性としての四如是はそれぞれのエネルギーにおける因縁果報という因果に特質みることができる。因果異時から因果不二へそして因果依存へと性転移することによってエネルギーはそれらの特質を内包しつつ実在する。
 生命原理より宇宙を観れば、宇宙も人間も同等同質の素材で造作され、それらを支える力が南無妙法蓮華経と名付けられている。私は、この「力」を「時エネルギー」となづけたのである。
 時エネルギーは、構造性と波動性と粒子性の三つの性分を具えている。そしてこの三性分が、空間と時間と物質を創造した。
 構造の本性は、時エネルギーの不二性と冥合性である。この本性には、次のような視点がある。1、粒子性を仮諦の存在論として十界互具の不二性と冥合性を観る。2、波動性を空諦の存在論として千如是の不二性と冥合性を観る。3、構造性を中諦の存在論として三千世間の不二性と冥合性を観ることが出来る。
 空間の本性は、時エネルギーのポテンシャルの三次元である。この本性には、次のような視点がある。1、仮諦の不二性が十界互具の空間性・・・修性不二・・・珠。2、空諦の不二性が千如是の空間性・・・色心不二・・・光。3、中諦の不二性が三千世間の空間性・・・依正不二・・・宝と観ることが出来る。
 
時間の本性は、時エネルギーの寿命の一次元である。この本性には、次のような視点がある。1、仮諦の冥合性が十界互具の時間性・・・因果不二・・・珠。2、空諦の冥合性が千如是の時間性・・・因果冥合・・・光。3、中諦の冥合性が三千世間の時間性・・・因果依存・・・宝と観ることが出来る。
有情や非情の十如是のうち、力作は空間性、因縁果報は時間性である。「力」は十界各々の作すべき所の功能をいい、「作」は三業を運動し善悪の所作を行うなりとなる。
 我々の宇宙の本質を空間と時間と物質から観れば、空間とは法身・中諦・如是体・構造性を観ることができる。時間とは報身・空諦・如是性・波動性を観ることができる。物質とは応身・仮諦・如是相・粒子性を観ることができる。
 宇宙論と生命論の違いは、基本的にはない。生命を空間次元で語れば宇宙論となり、生命を時間次元で語れば生命論となる。宇宙という顕現は、時間次元では語り難い。そして生命は、空間次元だけでは語り難いのである。空間次元のみで語る宇宙は、定量的で理解し易いが、常に「本当なのだろうか」といった疑問と共に、人間とどういう関係があるのかという疑問が付きまとう。勿論これは、時間次元で生命を語る場合も同様な疑問が涌くことだろう。
 
 妙法華の時間と蓮の空間は、蓮の一字に妙法華経が摂入されていると考えるので三次元空間が「妙」で構成された部分と「法」で構成された部分と「華」で構成された部分が織りなす蓮の三次元空間が創出されていると考える。
  時エネルギーの「光性」と「音性」は、妙法華と経の波動性でもある。波動の力用を劫と呼び、素粒子を生み出す。したがってその素粒子に劫の「劫波」と「劫跛」と「劫簸」の性質によって空間に次元を持つようになる。もちろん劫波とは波動性であり、劫跛は粒子性、劫簸は構造性のことである。
 また「妙」で構成された部分は、虚数であるから妙法華経という時間の九次元には、虚数が基底に存在しているのである。
 時空が四次元であれ五次元であれそれ以上であっても、時の九次元は虚数時間に支えられているのである。
 光は観測する人間から見れば直進だが、実際には全方向の可能性を同時に考慮しなくてはいけないだろう。一つの光子がどの方向に進むかは不明だが、構造(網目)状になって停留する。光の持つ構造性が真空中にあっても進むべき最短の路を通るのである。光が「劫」の特質である「場」の性質を内包しているのである。いずれにしても光も電子と同じように波動性と粒子性を合わせ持ちさらに構造性までも内包していると考えるのが生命原理の宇宙論が予言するなかの一つである。
 
 三次元空間は、十如是、三世間、十界互具といった要素が不二系のポテンシャル・エネルギーによって生じたものである。
 「蓮」は空エネルギーを如是力とし、その作用としての物質エネルギーの機能や構造の全体を指していう。この「蓮」を「妙」の視点から観れば因果倶時となり、「法」の視点から観れば因果異時となり、「華」の視点から観れば因果不二となる。
 宇宙について語るのであれば空エネルギーや物質エネルギーについて述べることになる。さらに追加するなら物質エネルギーの属性を含めることになる。
 空間の本性は、時エネルギーの三次元ポテンシャルである。時間の本性は、時エネルギーの寿命の一次元である。この四次元を諸法とよび南無妙法蓮華経とよぶ。諸法の空間性を「蓮」とよび時間性を「華」とよぶ。
 諸法の空間性は、力(冥)作(顕)によって顕現し、因縁(冥)果報(顕)によって冥伏する。
 また重力は因果倶時の物理現象。電磁気力と強弱力は因果不二の物理現象。さらに「収束」と「散逸」という粒子性。「自己組織化」と「進化」という構造性。
物質エネルギーの相転移によって創出された三つの力と空エネルギーの相転移によって創世された重力は、それぞれのエネルギーの性転移に異時・不二・依存となる因果との関係(力作因縁果報)の中で質量ゼロの粒子を媒介として創成し、そして質量を作り上げたと考えられる。
 
 私達の四次元時空に依正の不二性や三世間の差別が見られるのは、単に空間の性質とするのではなく、普遍性としての時間の特質あるいは力用が、支える側の論理として作用した結果であると考える。したがって人間という知性を持つ物質が存在する以前にも地球あるいは国土は存在した訳であるが、出現できた人間が支える側にその存在は依存するとはいえ、相互依存ではなく、人間が支える側に影響を与える存在として独立することになる。人間という空間性は、この空間性より支える側の時間性を左右する存在として相関関係を持つのである。その意味で人間と宇宙を考えれば人間は宇宙とストレートに「即」ではなく、時間を介して影響を与えることができる相関関係と見ることができる。
 宇宙というエネルギーの総和が、エネルギーの持つ不二性によって物質とエネルギーの大構造を形成しているのである。
 エネルギーの持つ異時性によって時間という非対象を生じながら空間の調和と対称性を形成している。素粒子は「色」、原子も分子も「色」、これらが複雑な系を持つことによって五陰が和する。ただし有情にあって五陰は、同時に生起(有門)するのではなく、和合の結果として「識」が対象を了解して識別し受想行となり、「色」は「行」によって感受される(空門)(成実論)ので五陰仮和合は有情のみとなる。
 
 構造とは千如是が諸法に顕現している場合の差別相ともなる。したがって構造とは粒子と波動の相即不離、不二性が和合において生じる時間性とともに差別を現ずる。その現じ方が網目状となっている。三千世間という生命の構造性より生命と宇宙を思索すべきであろう。
 人間を理解するには、人間を基本原理(標準モデル)とすることが必要だろう。けれども素粒子の標準モデルから人間に対するモデルを演繹できると思うのは多分間違いだろう。
 衆生を構成するものは自然をも構成するものであろう。五陰仮和合がたとえ衆生のみであったとしても自然もまた一念三千の当体であることには変わりないはずである。ダーウィンの「進化論」と有機生命体に対する考えを述べた「ガイヤ仮説」を検討する必要があるのかもしれない。
不二系の三如是と物質系の六如是は、時空間の行によって関わっている。この「行」が我々の実感する時間に近いものである。時間の矢は、「行」の方向性であり固有のエネルギーである。エントロピーは相と報が本末究竟等であるために起きる物質系の特性である。エネルギーは、「行」のポテンシャル・エネルギーのことであり、これを如是力という。科学で使う力学の力は、仏法では作用となる。したがって力学作用ということになるが、熱力学は果報ということになる。如是作も如是果如是報も三如是の機能面の顕現部分ではあるが、如是作は如是力の顕現、果報は因縁の顕現である。即ち、顕現の元が異なるので本質的に力学と熱力学は、拠って立つ視点が違うので時間の矢の方向性とエントロピーの方向性は、似ている部分もあるが異なる点もあるということになる。
 
 物質系は、当体の機能面である六如是によって様々な現象を私達にみせてくれている。重力といった物体間に働く相互作用がある場合、それぞれの物体のエントロピーを単独で取り出して語っても意味がない。簡単にいえば太陽と地球の個々のエントロピーの増大のスピードが異なったとしても太陽が滅びると地球も滅びるであろう。
 重力という作用は、ポテンシャルという虚時間エネルギーという力によって創世されエントロピーという果報は、因縁によって決定される。時間系の特質である。この力学と熱力学を結びつけるものは六如是という機能面より見なければならないのである。
 素粒子が質量を持つようになったのは、何時で何故なのかは判っていない。物質系の三次元を構成したとき、系全体の質量は、寿命によって決定された総量となる。物質が何故、因縁の「和合」によって出現したのか。さらに有情の生命が五陰仮和合によって出現することが出来たのか。物質であっても永遠の和合ではない。「和合」であれ「仮和合」であれ無常であるのは変わらない。永遠不滅の和合という存在はない。物質の世界の中で微少の有情の生命の存在が、仮和合という暫定的な結果としての顕現であったとしても、仮和合の必然性を見ようとするのが宗教であるといえる。
第六項 生命原理の宇宙≪2≫
 
運動と進化こそ宇宙の一大特徴なのである。アインシュタインは重力を力とは考えずに空間の性質とした。従って重力は、時空が曲率を持っているから生じると考えるのである。これは逆にいえば重力場があれば時空は曲がっているということになる。時空の曲がりは見えないので重力場を観測する以外にないのが物理学である。そして、時空に曲がりがあれば物質とは関係なしに重力が生じ、その重力がまた時空を歪ませる。さらに時空の曲がりは、光の速度も一定とはいえなくなる。重力のあるところでは遅くなる。正確にいえば重力そのものではなく、重力場のポテンシャルエネルギー(質量を星の大きさで割った量)に比例する。
 宇宙空間を単に物質と考えたらその膨脹速度は、光速を越えられない。物質が成長しているといった姿を創造するのではなく、エネルギーの構造性の成長と考えるのである。
 物質間に働く万有引力は、角運動量を持つもの同士の間に生じる力であるが、これは、時空間エネルギーの持つ構造性より生じる力である。したがって時空の歪みより重力波を生じさせる必要がないのである。
 対称性の破れを否定すれば、すべてが自然現象となる。しかし、自然発生的に破れと同様の結果を得るには、宇宙の年齢が若すぎるといった問題が生じる。

 ビックバンによって宇宙が生まれたとしたら物質のない空間の温度は、一体なにによって生じているのだろうか。誕生時の無限に近い温度が空間の膨脹によって下がったといっても、空間の温度そのものが存在するのは何故だろうか。科学者はこれらの疑問に対して低エントロピーの宇宙マイクロ波背景輻射の海であると答える。この波は、黒体スペクトルを持ち、現在の温度は2.7Kであるという。日常的に感じる空気中の分子の移動によって生じる温度とは少々意味を異にする。すなわちある温度の物質が存在するとき、この物質と釣合いのとれた状態にある光の波長分布で判断している。したがって2.7Kの温度を持つ物質の存在を認めて真空といえども無ではないと主張する。宇宙全体の温度に対応したスペクトルでその存在を証明することになる。
 観測しうる宇宙の諸性質はすべてビックバンから10の44乗分の1から10の45乗分の1秒後と推測し、10の34乗分の1秒後に相転移したとする。相転移が必要なのは、我々の知る限りの物質はそれ程に速く膨脹出来ないので、特別な性質を持つ必要から生まれた考えである。いわゆるインフレーション宇宙である。そしてインフレーションを起こさないと現在の宇宙にならないからである。このインフレーションの前後の相の違いというときの相とは何を意味しているのかが問題である。さらに何故、宇宙だけが特殊な性質を持っていたのだろうか。一度、相の転移をしたとすれば二度でも三度でも何回でも構わなくなるだろう。一応現在の理論物理では四回起きたとしている。相転移ごとに新しい「力」が分岐した。

 作用を力と思うから統一した根源力を知ろうとする欲求が生じるのである。さらにこの力作は、当体の顕現でもある。したがって力作が顕現するとともに因縁果報は冥伏されていることになる。すなわち宇宙が静止していないから重力という作用が生じるのであって重力があるから宇宙が静止していないということである。したがって物質密度、宇宙の総質量が判れば宇宙の運命が判るということではない。その時点での宇宙の運動状態が判るだけである。
 一般相対論は、重力理論で物質の作用学である故に物質の創造の因縁果報や三如是について何らかの助けにならないといえる。ましておや十如是実相といった視点は問題外であろう。故に一般相対性原理は、特異点という自身の原理の限界を示すことによって、作用の理論であって力の理論ではないことを証明したといえる。
 ニュートン力学、アインシュタイン力学、量子力学といった「基本」理論のすべてが時間の矢の方向を否定しているのは何故か。現実の不可逆性と理論の可逆性はなぜ起きるのか。彼らの理論に何か欠点が潜んでいるのではないだろうか。彼らの理論に何か欠点が潜んでいるのだろうか。そうではない。これは力と作用の混同によるのである。力は作用によって顕現され、数学的に表現されたのであって、力そのものの説明ではなかったのである。

 帰納法の限界でもある。力学における時間の進化とは何かを明確にすべきであろう。そうでなければ、仏法の時間論はますます理解不能にならざるを得ないのである。

 仏法の時間論については、生命論序説や日蓮本仏論で種々のべてきたが、仏法用語のいくつかを述べておきたいと思う。
〔不生不滅〕について
 法則は根源ではない(否唯法論)。「法」は不生ではないからだ。「法」は実数の域をでない。「妙」のみが不生不滅である。「妙」は虚数の領域。科学法則の実体性は、その働きとしてのエネルギーの実存である。不生不滅の実体を認めるというよりも生死の現象的実数に即して見続けることのできる次元に対する言葉である。虚数とは実数に直交して常住する次元である。実数とは虚数領域より創成されたゼロからスタートする有限の領域の繰り返しという無限である。縁起の不生不滅は、始めがなく終わりがない生死不二(原理的表現)の別表現である。因果不二を意味している。
〔不来不去〕について
 縁起の来るべき因と去るべき果を否定する。依正不二の別表現となる。生死不二も依正不二も共に因果不二より導かれた不二論であり現象論でもある。
〔不断不常〕について
 縁起の連鎖は不断であり常住でない無限の変化相。「時」の別表現となる。因即果、因果倶時を意味すると共に、縁起の連鎖という異時性の本質論でもある。そして、これは我々人間が「時」の流れと感じる時間の本質でもある。

〔不一不異〕について
 共業は不異、不共業は不一。業は縁起の果報の姿。一と全体の縁起は果報として別々に見えるが、ともに業の縁起である。
〔八不の縁起、(龍樹)中道の「空」〕について
 不二と倶時。縁起の不二性は時間経過に係わらず不二であり、縁起の倶時性も同じである。この不二と倶時の中道は、実数に直交する虚数領域である。実数領域より虚数領域を見たとき、その領域を「空」と名付けるのである。中道とは中間ではなく、常住不滅の領域となる。諸法よりみれば実空となる。
〔三変土田〕について
 三回の相転移は時エネルギーを実数にするためである。仏を他土に移すことを転移という
〔而二不二の原理〕について
 時間論的表現としての倶時と異時の因果。空間論的表現としての十界と互具の依正。十界各界の正報は、その依報によって支えられている。十界互具は、正報の互具と依報の互具であり、正報の互具が依報の互具を左右する。
〔寿命と寿量〕について
 無限には二通りの考え方がある。一つは繰り返しの無限であり、もう一つは常住である。常住とは現在を時の一点とし、現在の常住性をを認めることである。虚エネルギーが常住であるとし、時の一点に実エネルギーを顕現させながらの現在の連続を総称して常住という。
〔二所三会〕について
 娑婆世界から虚空に上ることは、実数から虚数への移動であり、現在から過去。虚空から娑婆世界に戻ることは、虚数から実数への移動であり、未来から現在。虚空に過去と未来が含まれているから過去と未来の分別はない。

 衆生と宝塔が共に虚空に在る意味は、種々語られてきた。しかし他国土にいた多宝が何故これたのか。どうやって来れたのかは一念心中の理あるいは己心の法界で終わってしまう。現実に不可能だと己心で片づけることになる。不確定性原理によって人間の観測問題が別の新しい問題を生み出す。意識が宇宙を作りだすといった発想は「心は工なる絵師の如し」といった華厳思想となりつつある。「花は心よ 心は花よ」という法華思想になるためには唯識ではなく色心不二の思想が量子力学に取り入れられないと行き詰まることは眼にみえている。相対性原理(般若)、ニュートン(方等)、量子力学(華厳)そして物理学は法華経へと向かう。南無妙法蓮華経へはまだ遠い。
 三千多しと雖も十界をい出ず。十界とは因果の二性なり。一念の心法に十界を具していることを因果一念という。一念の生命に因と果が具足し先後の別がないことを因果倶時という。日蓮は「仏因仏果同時にこれを得る。妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来となり給しなり」 (513P) と述べている。
 因とは結果を生起させる内的原因。天台は三因仏性をたてる。「因とは一切衆生の身中に総の三諦有って常住不変なり此れを総じて因と云うなり」と。因位は修行の位である。いかなる仏といえども因位の行は南無妙法蓮華経の口唱である。

 因果には次の三種がある。1、十界各界の因果。2、十界の因果。3、三世の因果。さらに因果には、因果同性(迹門)九界の因と仏界の果がその性分において同じという説、また、因果並常(本門)九界の因と仏界の果がともに常住であること等の説がある。また業感縁起とは、万物は悉く有情の業を因としてそれを感じて発生したものという説。
  一味平等の真如があってその実体が染浄の二法によって煩悩や解脱といった諸法を生じるという説。
 華厳経の六相、十玄の義によって立てる「法界縁起」は時空間を問わず一切の事象が影響しあうことを説く。
 十界十如は、差別とはいえ十界互具一念三千の実相の故に一切が平等という。法は一切の現象であり界とは一切の十界十如の境界である。
 池田名誉会長は、「生命の我」と根源的な力の顕現が時間と空間を生じさせるのであり、生命活動を離れていかなる時空も存在しないという。また「宇宙という実在とあらゆる生命的存在の奥底に根源的生命があり、その生命の本来的な働きが限りない時空を創り出す」とも述べている。
 カントは、ア・プリオリにおいて(人間の頭の中に先天的に備わったもので、外の客観的な世界から手に入れたものではないもの)として因果原理が(単なる連想ではなく必然的で普遍的に妥当する原理)「必然的、且つ普遍的なものは、すべて例外なくア・プリオリであり、その逆も真である」という。また、意識の外の世界は、認識不可能であり、従って理性では霊魂の不滅も天地創造も純粋生命の存在も証明することはできないとも云っている。

 ここで言う「存在」が先程の大命題より規定されている。因果原理はア・プリオリな思考の構成原理である。ただしヒュームは「因果原理は単なる知覚の連想の結果」と批判している。人間の知性が理論的に純粋生命の存在を証明してしまう。知性は認識を体系化し、一つの頂点の下に物事を位置づけてとらえようとする。原因の追求は原因「条件」をもたない原因、すなわち「無条件者」の存在を証明する人間の知性は「現象」を超えるものを認識できる(山口)。
 そこでカントは、知性を悟性(「現象」の認識機能)と理性(「無条件者」を追跡し万物を体系的に理解しようとする機能)に分ける。人間の知性が認識できる「現象」をこえるものとは「無条件者」の存在証明のことである。そして「現象」とは意識表象のことであり、主観が構成したア・プリオリな意識の世界である。さらにこの「世界」を因果原理とすることによって主観主義という極端な方向に陥ってしまうことになる。
 カントの認識論的主観主義を否定するならば時間や空間も当然のこととして主観の中にあるということになる。
 時間・空間が物体あるいは物質の性質として、主観の外にあるとして、「運動のないところには物理的時間も意識されない」という批判が起きる。空間は物体を知った後に意識のなかに生じるが、意識の存在に関わらず空間は存在し、さらに意識の中に生じるか生じないかによって空間の性質を変えることはない。時間もまた同じである。

 時空不二(原理的表現)は、生命の特質として具備しているのである。時間・空間は、決して人間の意識より生じた観念的な存在ではなく、実在する生命の特質である。
 人間の意識を、内の世界とし、外の世界を対立したものとして把握しようとするから、主観の産物としての外の世界になったり、外の世界の規定性の影響によって主観の中に生じる観念になったりするのである。
 人間の存在自体と環境は、主観の産物でも観念的な存在でもない。仏法はこれを依正不二と説くことによって証明していくことになる。
 〈時間と空間に関わる認識装置〉の発生と発動のきっかけ、さらに改良と事後の確認についての見解の相違となっていく。
 カントは外部の世界とは無関係とし、山口氏は外部の世界の特徴と人間の認識能力との相互のせめぎ合いから生まれたとした。仏法は依正不二、時空不二で人間と環境は不二であって時間・空間の認識は「ともに具足している」生命の本質であるとする。
 人間にとっての実在界における時間と空間の存在形式は、感覚的存在ではないが観念的存在でもない。また実在界にこのような観念が生じるための必然性や規定性をあえて存在させる必要もないだろう。これらこそ観念的なものであり、実在そのものの本質として理解しなくてはならない。物体の延長、運動といったものは、生命の織りなす特質の一部なのである。

 宇宙のモデルは、臨界密度と平均密度だけで決定されてしまう。しかし、開いた宇宙やユークリッド宇宙は、寿命も大きさも無限となって有始無終となる。閉じた宇宙は有始有終である。(この時の有終は、膨脹から収縮へと向かい時間の矢も逆になる)
 しかし有終は、老化から死と考えた方が自然だと思う。現在の宇宙がゼロから膨脹したから反転すると考えるのも自然かも知れないが反転しないで停止したらどうなるか。宇宙項の停止ともいえる。可変の宇宙項が停止すると考えるのである。宇宙の死はエントロピー最大となって蒸発するような方程式を考えてほしいものである。宇宙が蒸発して輻射エネルギーを出せば、エントロピーは減少するが輻射のエントロピーは増加する。
 代数は空間の軌道、空間的な関係、そして対称性に関するもの。微積分は代数の拡張形である。これは互いに無限小の距離にある空間の性質を関連づける形式的な方法である。空間が連続的だと仮定することで離れた物体を無限のしかし連続的な一連の段階によって関連づける方法である。故に微分方程式は、空間上の異なる点で決定される速度、加速度その他の変化率を関連づける。シュレディンガーの波動関数も微分方程式である。場の量子論も座標を頼っている。(量子場は空間の各点で定義されるデカルト座標の連続関数)
 幾何学における有限内の無限の近接は、無限の分割とともに、空間に含む時間性である。空間の無限の分割に見えるがこれは時間の分割であって、空間は無限に分割できない。即ち無限とは元来、空間の概念ではなく、時間の概念なのである。

 時間と空間の違いは、無限に分割できるかできないかである。無限小の分割あるいは無限大の拡大が成り立つのは時間のみである。なぜ空間は、成立しないのかというと、例えば我々の宇宙を空間とするとき、宇宙の因縁果報の因果は、依存関係にあることから空間の果報の存在が、時間の因縁に依存するため、空間の性質が時間に支えられてしまうからである。人間の実感する時間は、物質エネルギーの属性ではあるが、その物質エネルギーは空間を支えている空エネルギーの属性にすぎず、さらにこの空エネルギーも時エネルギーの属性に過ぎないと考えるからである。エネルギーが別の性質を持ったエネルギーを生じさせる力用はエネルギーの相性の転換である。
 宇宙空間に存在する様々な波動は、エネルギーの一面でもある。音波という縦波や電磁波という横波もエネルギー伝達の形態である。そして重力エネルギーの伝達は、重力波に期待しているがその存在はいまだに確認されていない。宇宙空間内に様々な形態で顕現されている波動のうち光波は最も馴染みのあるものである。この光波によって宇宙規模の測定をしたことは、人類の英知の偉大な成果であろう。果てし無く広がる宇宙。現在観測できる宇宙は、百五十億年から百七十億年とされている。光速度不変の原理である。永遠とも思える光の旅は、宇宙が終焉を迎える時に終えるのだろうか。
 それとも光は有始無終という例外的な存在なのだろうか。いずれにしても電磁波が諸法の現象して宇宙空間の中に独自の性質を持って顕現されているということだろう。

このように電磁波を含めた空間に独自の性質をもたらした主体が何なのかが問題となる。空間を生み出した主体の特質でもあるからだ。この主体を「生命」と表現するとき、生命は永遠に存在することになる。顕現したり冥伏したりしながら生命は「時エネルギー」として永遠なる実在となる。
 現代物理学の絶対条件である光速不変というエネルギーの伝達速度は、絶対時空を否定して条件に応じたフレキシブルな時空を設定することが出来るようになった。現在の宇宙の有り様は、光速不変がもたらした結果といえる。そこで当然の疑問が生じる。何故不変なのか。単なる定数に過ぎないのだろう。とはいえ我々の宇宙は、光速の定数に適った形態で完成されてきたのである。そして観測者が人間である以上やむを得ないのであるが、ライトコーンの内側だけが観測できる宇宙だとしても認識出来ない外側が存在しないということではない。それは光速を越えない範囲と三次元空間という正の実数で認識出来る世界しか認識することが出来ない人間の存在性質によっている。
 生命論序説で述たが我々の宇宙は、虚エネルギーの内にあってそのポテンシャルに応じた実数の時空間が創造されたことによって出現した。そして妙法華と名付けられた虚エネルギーの実在は、顕現面として光を代表とする電磁波より、冥伏面として時間と感じる流れを観ることによって知ることになる。従って固有のポテンシャル・エネルギーは、固有の光速を含めた様々な物理定数を生み出すことになる。それゆえに「始めに光ありき」で始まった我々の宇宙にとって、光の特質に種々の物理的な因果を観ることができるのである。

とくに光が物質より発生したり吸収されたりする現象は、光が物質以前に物質の性質を決定していることが予言される。光が粒子と波の性質を持つことと併せて、物質を構成させている構造性をも含めた三面性を有するものと考えている。このことは物質の構成要素としての電子が粒子なのか波なのか場なのかといった問題をも包含する概念となっていると思う。
 エネルギーの性分としての波動は、エネルギーの伝達、移動あるいは変化に対しその大部分を担っているのである。光が真空中を移動するために媒体を必要とするかどうかといった問題も、時エネルギーの中を伝わって来ると考えれば良いことになる。従って、エーテルは必要ないことになる。アインシュタインは、空間そのものの性質であると言ったがそのとおりだろうと思う。空エネルギーや、物質エネルギーは、時エネルギーより創出されたと考えれば、物質を含む空間そのものに粒子性と波動性と構造性が具生していることになる。時エネルギーが光の真空中の伝搬に必要な媒体になるためには、真空中における「光」と「時」の両エネルギーに相関関係があるのだろうと思う。
 時エネルギーは、顕現・冥伏の両面のどちらの状態であれ寿命を持つのが特徴である。寿命は虚エネルギーのポテンシャルで決定され、ポテンシャルに応じた固有の波動を持っている。固有の波動は固有の光波と音波を内包しつつ固有の宇宙を創造する。宇宙がビック・バンによって創世されたとしても音波は伝わるべき媒体を持たない為に無音の静寂な大爆発であったろうと思う。物質は音を生み出す媒体でもあった。

一切の言語音声を仏法では「経」と名付けている。最も「経」の意味は他に行動や行為、さらに過去・現在・未来の三世の意味もある。このことについては別のところでで述べるつもりである。いずれにしても衆生本有の妙理である妙法蓮華とともに経は存在することになる。
 我々の宇宙は、諸法の顕現面として蓮華経という時空四次元の運動体とみるのである。「蓮」という空間性、「華」という時間性、「経」という時空間性をもって実在する宇宙であるということになる。宇宙空間はこのような壮大な波動のエネルギーによって支えられているのである。人間は光そのものに時間の概念を見出すことは出来ないが、冥伏された時エネルギーと顕現された時エネルギーによって正の実エネルギーとともに常住常在の虚エネルギーを実感できるはずである。仏法でいう「悟り」「悟達」のことでもある。
 一般相対論は加速度運動で生じる「力」(ニュートンのいう見かけの力)と「重力」は同じ性質の「力」であると考えた。この二つの「力」は共に遮る事が出来ず、また、等価原理が働いていることも同じである。そしてこれらの「力」は、運動する系内において平等に作用する。まわりに何もなく、空間しかなくても作用する。したがってこれらの性質は「空間の性質」であるとアインシュタインは考えた。この「空間の性質」には「時間」の概念は含まれていない。時間が運動に係わるのは経過だけである。空間に性質があるならば、時間にも性質を持たせたくなる。空間に添って存在する時間という概念では、時間の性質は空間に左右されることになる。

 そこで発想の転換を計ることにしよう。時間に添って空間が存在すると考えれば空間の性質は時間の性質に左右されて顕現していることになる。即ちアインシュタインが考えた「空間の性質」も実は「時間の性質」より出ていた現象となる。「時間の性質」が空間に与えた性質となる。加速度運動で生じる「力」は、運動する系内の時間性において顕現したもので、静止状態においては顕現されていない「力」である。運動系における時間と静止系における時間の働きに違いが生じるのである。もちろん空間といえども静止していない運動系であるから、時間の働きの違いは観測する人間の時間感覚によっている。
 空間になぜ波動が伝わるのかというと空間自体が波動性をもっているからである。ただこのことが空間の性質であるとするのではなく、空間を生じさせたエネルギーの特質とするのである。我々の宇宙は固有の波動を持つゆえに宇宙内に存在するあらゆる存在もまた固有の波動を持つことになる。宇宙の寿命によって決定される固有性であり、これは時エネルギーの固有のポテンシャル・エネルギーで決定されている。
 時エネルギーはミクロの世界であってもマクロの世界であっても同等同質である。この力の伝達は不二であり異時であり倶時である。物理学的な力は因果の現象的な別表現である。物理現象としては素粒子の交換作用と見ることになるが素粒子の交換がなぜ力として表面化するのかというと交換の強弱が周期性をもつことによって波動となるからである。ゆえに音波や光波だけでなく宇宙に実在するあらゆる物質も波動を持つことになる。

 波動の空間性とは、空諦の不二性である。光速の不変が固有の諸法という三世間を生み光速の有限が固有の時法という十如是を生み出す。これが固有の仏身の百界を表現するための顕現となる。波動の空間性より観た千如是を総称して空諦というのである。さらにこの空諦が波動の空間性という静特性であるゆえに空諦の不二性ともいう。
 我々の宇宙は、諸法という蓮華経が「蓮」の一字に収束されているとし、時法を語るときは「華」の一字に収束されていると考えている。この意味から「蓮華」を我々の時空四次元の本質と観るのである。我々の宇宙の諸法は「蓮」という空間性と「華」という時間性と「経」という時空間性をもって実在している。さらに「蓮」の波動性は光波となり「経」の波動性は音波となって「華」という時間性と相関関係を保持しつつ時空間を成立させているのである。宇宙空間はこのような壮大な波動エネルギーによって支えられているのである。
人間原理の宇宙論に対して、証拠が見つかる前にそれをまったく予言することが出来ず、何か見つかってからそれを証拠だと主張することしか出来ないのでは、宇宙論とも物理学ともいえないという。
 
 人間は歩いたり駆け出したりする速度にあった肉体を持っている。従って、高速の乗り物に乗った時の感覚は非日常的な速度であり、当然のことながら普段と異なる存在感を持たせることになる。この運動速度の極限値が光速であり情報伝達において光速の利用範囲は広い。人間は光速に近い運動を体験することはないが日常的に車や電車、あるいは飛行機等で通常の生活速度を遙かに越えたスピードを体験できる。

 この違いが意味するものは人間の時間感覚の特質といえる。問題なのはこの時のスピード感と時間感覚が人間の時間感覚と掛け離れている場合に起きる人間的な錯覚である。異なる時間系に存在したとき人間が錯覚するのは時間感覚である。素粒子を含めたあらゆる物質の本来的な姿は、その物質が光速で運動したときの姿ではないだろうか。しかし質量を獲得した物質は光速で運動することは出来ない。
 観測と理論に基づいて考察するのが宇宙論だといえる。そうなると蓮華の時空論より考察する宇宙論は、宇宙論とは言えないといった批判が起きることだろう。
生命力という考え方は、物理的自然界において観測できない力である。生命力から生命子や生命波あるいは生命場といった仮想の物理状態を設定することじたい無意味な試みであろうと思う。しかし観測できないからといって否定したのでは単なる実証主義に陥り逆に科学的思考方法とは言えない姿勢である。不確定性原理にも反する思考である。けれども実際には原理的に観測できない量を物理学に用いることはできない。このことはハイゼルベルグとアインシュタインの間で意見を異にする。アインシュタインはいかなる原理も観測されない量をその理論の中に含むと考えた。ハイゼルベルグはそれを合理的でない考えた。したがって不確定性原理は電子の軌道は観測できず原子が放射する光の振動数や強度、また遷移確率を示すだけとなる。それでも波動関数が実在すると考える量子力学にとって観測されないからといって否定することを嫌うはずである。もっとも物理学で発見されたものはたぶん実在するだろうし、物理学理論で発見されなくても実在するものもあるだろう。

しかし真の宗教が具体的な現実生活に関わりをもち、物理学では現れない力が現実に存在しその力が自然界の根源的力と密接にして不可分な関係にあることを知ったら世界中の科学者は驚き眼を見張るだろう。 一般相対論と量子力学の統合を超弦理論に期待するのは現時点で他に期待できる理論がないからだろう。一般相対論は四次元時空、量子力学は何次元なのだろう。そして超弦理論は十次元の世界を扱っている。真実の姿が何次元であれ現実の人間にとっては生きることに差し障りがないのが最低条件である。生活するだけなら四次元ですむが、思い通りに生きにくい人生にあって四次元を越えた何かを期待したくなる。量子力学の世界が人間の感覚を越えた次元で思考されている。しかしいかに次元を増やしても時間だけはいつも一次元である。この一次元しかない時間が人間にとって時には最も深刻な悩みの原因になっている。空間の本質が何次元でも直接困ることはない。現実に生存しているという事実の中に埋没してしまう。けれどもそれでは究極理論に人生の不安を無くせる期待感が生まれない。人間の持つ期待や不安はいつも時間に関係して生じているように思える。そして人生は無常であって定常ではない。
 因果律を破ることはできないから時間の多次元や光速を越える情報伝達は考慮の対象から外すということは理解できる。時間の対称性は因果律によって厳しく制限され理論上の対称性とは別に現実の非対称は変更できないのが人間の感覚でもある。

したがって量子力学や超弦理論においても時間は対称非対称にかかわらず一次元になってしまう。しかし仏法における因果論は、倶時・異時・不二等々様々に思考されている。これらの思考形態はとても一次元では語りきれるものではない。この違いは無生物世界の現象も生命現象と考える仏法と物理的力学で自然を語ろうとする違いでもある。
物理学的宇宙論の範疇が、宇宙のすべての諸法ではないし、諸法のすべてを語ることは不可能である。ましてをや実相においておやである。諸法実相を見ることなしには、なんのための学問か、人間のためになるのか、人間の幸福のためになるのか、人間存在とは、生まれてきた意味そして時代等々これらの多くの何故を諦かにすることはできないだろう。
三諦とは、仏が悟った究極の真理を三つの側面からとらえたものであり、諦とは、明らかな真実、真理のことである。天台が法華経の教説に基づいて確立したのが三諦の法門である。
三諦を一心に観ずることを一心三観といい、一心三観の中核として、天台は一念三千の観法を立てた。御義口伝に「一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す」(七一七ページ)と述べられているように、円融の三諦の実体は南無妙法蓮華経である。

三諦と三如是・三身・三徳の関係について、十如是事では次のように示されている。「初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるをよそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり」(四一〇ページ)。また一念三千理事では次のように述べられている。「法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり」(四一三ページ)。さらに、総勘文抄には「衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり」(五七三ページ)と示されている。すなわち、衆生の相・性・体の三如是が、仏果を成じた時に三身如来とあらわれるとされる。
我々の宇宙における三身は、三身即一身、一身即三身と相即されて顕現された宇宙である。この場合は、法身(無始無終)報身(有始無終)応身(有始有終)となる。また三身・三観・三諦の宇宙でもある。 
 一身は生命、三身は、仏の時間的表現、三諦は、仏の空間的表現であり、相即は、仏の時空間的表現といえる。
生命原理の宇宙論は、このように三つの宇宙を想定する。即ち無始無終の宇宙、有始無終の宇宙、有始有終の宇宙である。
生命が永遠なら宇宙も永遠である。それは、過去の宇宙も未来の宇宙もまた永遠になる。有始有終である我々の宇宙を存在させている原宇宙もまた永遠であり無始無終である。
以上で私の宇宙に対する考察は終える。