生命論序説

生命論序説 序文
  
 時間にエネルギーを観るとき、時間は物理学的時間を超越して生命となる。
  時間の九次元の実部と虚部からなる複素平面は、その原点を境涯と名づけた仏法の生命観によって三千種の固有の時間を生み出すエネルギー場となる。
  


序 文


 時間という不思議な現象にとまどうのは人間だけでしょう。時間に対し人間は、過去から未来に経過する時の流れを実感します。そのまま素直に思っていれば、あれこれと思い悩む事は無いと思うのですが。過ぎ去った時間に対し、悔いを残す感情が現れたりするのは、過去への未練か、または、確実に訪れる死を恐怖する故なのか。不老不死や若返りを願う人間の心は、常に死と直面している心を実感するからでしょう。光速度を不変として時空の歪みを説いた物理学者は、自らの死を時空の歪みによって永らえることを心に期待していたのでしょうか。人間の死が不変である以上、その死をもたらす時空への怨みが考え出したあまりに人間的な思考であったのでしょうか。

 死は、物理系の崩壊を意味しています。人間は、死という不変以外に何か別の不変を求めるものといえるでしょう。それは、神であったり、宇宙であったり、時間であったり、空間であったり、さらに、光速度であったりしました。

 仏法では、不変不改を本有常住という生命の存在として説いています。死に対しても確実に訪れるという意味の不変ではなく、生死流転は、生命の本有常住の変化相であるとしています。人間が知りえる全ての知識の中で不変の存在など無いのでないかとさえ思えてきます。我々の物理系の中で不老不死という永遠の寿命を有するものは、何一つ無い様に思えてなりません。それは、素粒子から大宇宙に到る全てにおいてであります。不変にして不改の実在こそ仏の生命であるというと、神とどこが違うのか判らないと言う人もいます。神とは何か、仏とは何かの問いに答える為の長い旅路を歩んできたのが人間の歴史ともいえるでしょう。

 仏法が「仏の説く法」なのか「法としての仏」なのかは別にして、その実在を信ずることは難しいと思います。しかし物理学で美しいと感ずるものは、その単純さと調和と対称性であると言われているのも、真理がそうであるという人間の直観のようなものでしょう。その意味において、法としての仏の実在は、文字・言語で表現した単純さと調和と対称性そのものであると思えるのです。数学という言語では表現していませんが、その法理の美しさは優ぐるとも劣ることはありません。

生命という不可思議な実体について哲学することは、元来、無意味なのかもしれませんが、人間の知性は「生命とは何か」を探究せずにはいられないのでしょう。翻って現代をみる時、この人間の知性が、誤った生命観を生み続け、今や修復不可能な事態にまで混乱してしまった状態のように思えます。したがって、生命について新たな定義をすることがどのような意味を持つのかは定かではありません。もともと仏教には、生命という言葉はありません。今日ある多くの定義のどれにも当てはまらないのです。生まれた命なのか、生きてる命なのか分かりませんが、仏教では命の生死の区別を重要視していないのです。生死のニ道に差別なしと考えているからです。

 生命について語る時に、その視点をどこにおこうと不可思議な実体につき当たり、それ以上進めなくなる所があます。科学的視点や哲学、宗教においても同じです。生命の存在を証明することです。現実に生きている人間が、自身の生命の存在を証明できないパラドックスは「論点先取」となってしまうからに他なりません。そこで、生命に関する定義を都合よく変更するしかなくなるのです。
 証明の仕方を数学的手法や論理学的手法を用いるだけでは、「宇宙は生命そのもの」に対する証明は不可能でしょう。証明すべきものを既定の事実として条件に入れて語ったのでは、パラドックスになってしまいます。生命論は、人間の存在ならびに人間と自然さらに宇宙との関わりのなかで、人間の本質的自我を探り出そうとする智慧の発露ではありますが、大自然の圧倒的調和の美にかき消されてしまう程度の智慧のように思えてなりません。まさに朝露の如きです。

 近代思想によって形づくられた「生命」についての根本的思索は、明らかに誤った方向に進行してしまったといえます。しかし、ギリシャから中世、近世へそして現代文明に到る合理主義的生命観は、今日、改めて根本的思索のための序章の役目を迎えたともいえると思っています。永遠不変のイデアは、そのイデアを認識する理性をも永遠とします。永遠の存在である理性は、生命の実存を推理することになります。そして理性は、神に代わって人間の信仰の対象にまで昇華されていくことになりました。理性が、永遠の真理を探究しようと足掻き、哲学が宗教に代わることを望んだ人間の足掻きでもあります。

 人間の思索の旅には終着点はないのでしょうか。イデアを認識する理性に対し、生命を認識する智慧こそ、人間の思索の原点とすべきであると思います。イデアも、それを認識する理性も、生命の一性分であると認識する理性の存在を知ることを智慧といいます。智慧が認識する対象は、生命の存在そのものです。したがって理性信仰より脱する以外にその方途を見出すことは出来ないでしょう。今日の科学文明に孕む危険性は、人間的生、すなわち生命の存在を無視した発想と哲学的洞察の未熟によるものと思います。

 仏法から観た物質は、その確たる実存性を認めつつ、さらにその存在を存在させる力を如是力と名付けています。デカルトの如く自然を数学的法則の統一体と規定するようなこともありません。自然は「生き生きとした生命を持ったもの」とするゲーテの自然観を自然科学者ハイゼルベルグは、高く評価したといいます。デカルト等の存在論は、自然破壊を合理化するだけに思えるし、事実今日的課題にもなってしまっています。

 生も死も人間の生命の動的なダイナミズムと捉えてこそ、人間と自然の調和も、人間と人間の関係も、生き生きと蘇ってくることでしょう。実感に応ずる行為が、文化となって人間の生き様を決定していくのではないでしょうか。実感は、智慧によって具成する発露でもあります。人間には、知性と意識と目的観が、属性として自然から付与されていると考えるか、人間自身に元々具わっていると考えるかによって生命に対する認識の差となって表現されてきます。いずれにしても、属性あるいは性具かという点と、何故人間だけなのかという点を明確にしなくてはいけないだろうと思います。

 また、種の誕生と意識および知性の起源についても種々の考察が必要になると考えています。それは、宇宙そのものが、知的生命を生み出す傾向性を持っているのかどうかによって、宇宙と生命のかかわりに対する視点が生まれることになるからです。宇宙全体が、生命と意識の維持に向けられているようにさえ思えるのは、何故かという問いと共に人間だけという視点を見直す契機になると思うからです。

 生命を仏法よりみる時、一念三千論や三諦論、三身論そして十不二論、九識論を語る人がいます。これらの論を私は、生命が顕現と冥伏の不断の連続性の中で、顕現された生命における、現象としての顕現部分と冥伏部分にたいする理論であると思います。生命が、顕現したり冥伏したりしながら永遠に連続するという仮定において、顕現した生命の状態の中に、冥伏する要素が含まれている事を示すものであります。したがって先に挙げた理論は、顕現された生命の分析および空間論であり、瞬間の生命状態を説明したものと考えるのであります。

 釈迦仏法における生命の把握は、統一と深さと永遠性を持って論ずるとはいえ、時間的思考に欠けている様に思えてなりません。静的な空間性を感じるのみであります。それは生命に対する歴史観が、人間の感性から掛け離れた時間感覚からくる為だと思います。日蓮仏法における人間生命の動的把握という視点は、空間的な無量無辺に対する無始無終の時間的把握ではなく、時空統一された生命の把握であります。そして時間と空間を統一するための媒介として「行」の概念を導入するのです。さらにこの「行」を「経」として把握していくのです。何故かは後節において述べますが、要は統一される存在としての時空という把握が、日蓮仏法より観た生命論・宇宙論を語るのに必要だと考えるからです。
 
 釈尊が、死の直前の七日間で説いたといわれる涅槃経には、常楽我浄という仏の四徳が説かれています。自らの死を眼前にして、何故、常楽我浄と言ったり、仏身の常住を説いたりしたのでしょうか。釈尊にとって死は、生命の終わりを意味していなかったのだろうと思います。永遠に続く自分自身の生命の覚知は、仏身常住の悟りでもあり、生も常楽、死も常楽、生死ともに常楽我浄であったのでしょう。この覚知こそ仏法の生命に対する実感を認識する為には、基底を成すものといえるでしょう。

 生命は哲学するものではなく、実感するものであるといえます。生死歓喜の実感は、生命の存在の時空間をも確定することになると仏法では考えています。この実感を、理性で認識しようとするところに、近代文明や近代哲学の根本的な誤りがあると思っています。この実感を単に直観と言ったり、感情と言ったり、感性と言ったり、信仰と言ったりして排斥してきたのです。生命の存在を実感できる、人間の知性の素晴らしさを全面的に支援しすぎた結果、科学万能という偏った方向に人類は歩んできたのです。

 第一章より導かれる仏の実存は、仏=宇宙=生命そのもの=本質我=南無妙法蓮華経の図式となります。この図式は、日蓮独自の法華経観でありますが、そのまま日蓮仏法の生命観ともなっているのです。法の体を南無妙法蓮華経である断定したのは、仏法史上、日蓮が最初であります。

 従って、妙法蓮華の展開も法華経と同じく日蓮独自の仏法観となります。法華経は、日蓮自身のために存在すると言い切ったのと同じく妙法蓮華も自身の本源の理と展開していくのであります。言うまでもなく、妙法蓮華の四文字は、衆生本有の妙理として展開されている原理です。日蓮は、自己の現実の歴史において、衆生を代表する菩薩としての自身を、日蓮独自の仏法観より妙法蓮華を観ることなしには、衆生本有が久遠元初の自受用身に到らないからです。歴史上に具成する生命の蓮華の法を説くことによって、有情・非情に亘る存在と運動を語り尽くすとはいえ、空間次元の生命に偏り過ぎるので、時間次元の生命を説くことで久遠元初を語る必要があったのです。

 此の章の第一節で「妙」としての教理的釈尊の「時間の行」を、第二節で「法」としての歴史的釈尊の「空間の行」を、第三節で「華」としての教理的釈尊の「時空統一の行」の展開をしていくことになります。「蓮」としての歴史的釈尊の「行」は、次章の宇宙論序説となります。「時間の行」と「空間の行」は、妙法という教理的釈尊の「行」となり、「時空統一の行」と宇宙論が蓮華という歴史的釈尊の「行」の展開となります。妙法蓮華経の五字の法体が、生命の法体であるとの視点から考察しつつ、人間にとって生と死の歓喜が時空統一の法体の特質であると結論されていきます。第三章の宇宙論序説は第二章の続きとなりますが、元来「宇宙即生命」の原理が、人間的生に具わった生命の実感されるべきものであると思っているからです。

 妙法蓮華経を生命論的に展開する前提として、妙法蓮華を法としての妙法と、法としての蓮華に分けていることと、経としての妙法と経としての蓮華に分けて考察しています。この法としての妙法蓮華を静的生命論とし、経としての妙法蓮華を動的生命論と名付けています。

 時間論的に考察する為に、妙法の「妙」を生命が冥伏されている部分の名称とし時間系と呼びました。そして、「法」を顕現されている部分の名称として空間系と呼ぶことにしました。冥伏も顕現も生命の静的把握ですから、冥伏から顕現へ、顕現から冥伏へといった不断の連続性が生命の動的把握となります。時間系の空間性と空間系の時間性を、冥伏時の顕現性と顕現時の冥伏性ともいい変えることができます。ここでいう時間と空間は、現代物理学でいう時間と空間の概念とは異なり、生命の冥伏と顕現という二極性の不断の連続を意味するところの時空間です。

 冥伏された生命の動的表現を、因果の二次元内の倶時点を原点とする運動座標系で表すことになります。また、顕現された生命の動的表現を、境智の二次元の冥合点を原点とする運動座標系で顕すことになります。因果を時間系の二次元という平面座標として、この座標系に確定される位置より垂直方向に「行」という空間系の運動量を見ることになります。この「行」が、倶時の動的表現であります。

 境智を空間系の二次元という平面座標として、この座標系に確定される位置より垂直方向に「行」という物理系の運動量を見ることになります。この「行」が、冥合の動的表現であります。この時間系と空関係のそれぞれの位置と運動量が独自の寿命であり、生命の傾向性とよばれるダイナミズムであります。

そして、この「時間の行」と「空間の行」を「経」と名付けるのです。蓮華の「行」を含めて「行」の概念が、我々の日常的に感じる時間に近いものであり、仏法より観ればその動的表現として「経」の概念を用いるところだと思います。但し人間の感性より考えれば「経」は音波であり、「時」は光波の性質より述べることになります。音波と光波は「行」の波動性と位置づけるのです。さらに、時間と空間を切り離せないものと考えた時、その時空間を妙法蓮華経で統一された「行」の現在性と呼んでいます。

 時間の二次元座標で確定された空間の位置は、時間系を絶対静止系とする事によって成り立つのであります。そして、空間の二次元座標で確定された不二系の位置は、空間系を絶対静止系とする事によって成り立っています。さらに、物質系の位置は、不二系を絶対静止系とする事によって成り立っています。 顕現された物質を、仮に銀河系とする時、その銀河系の固有の時間は、不二系、空間系、時間系よりみることによってのみ確定されるのであります。

従って運動の位置と速度を観測しようとする時は、最終的に時間系より観測する以外にないといえます。しかし、この絶対静止系は、物理学的には、立てない立場なのであります。時の同時性といっても、この絶対静止系の立場に立てない以上、観測不可能となります。

仏法で、物質の世界に同時性をみるのは、因果の倶時性を譬喩蓮華によって空間世界に仮定することによるのです。運動する系を静止系より観測することは、運動系の「時」を時間系より変換することになるのです。空間座標系に変換することを譬喩蓮華といい、時間座標系に変換することを当体蓮華とよんでいるのです。

 ローレンツ変換は、物理系の運動を空間座標系に変換しようとして、仮定の静止系を設定します。その結果、アインシュタインは、光速度不変を原理として、物質の収縮を認めることになってしまったのです。物理系より空間座標を認識しようとする無理が、物質(物体)の収縮へと進んだのであろうと思われます。

 過去があるから現在があるのではないと思います。この過去、現在、未来という時間の区別の概念そのものが、観念的存在であると仏法では説いています。百才の翁が、五才の童子の弟子であっても不思議ではないのです。仏法にとって、空間的「行」の現在性は、時間的「行」に左右される存在として、生命次元の内に構造化されているのです。

従って、空間次元における三時は、時間次元より観れば、その区別は存在せず、常に生命次元の現在性を有するだけとなります。これは、「行」という時間性に内在する時間が空間を持たない虚数時間によって成り立っていると考えています。「行」は、常住として虚数時間を内包しつつ顕現と冥伏を繰り返す存在として実数時間の現在性を創出し続けていると考えるからです。

 日蓮仏法もまた、その時間にたいする独自性は、歴史的存在を全て生命次元より観た生命史観によって構成されています。境となる万法の体を本質我とし、智となる自体顕彰の姿を固有我とする時、この境と智の冥合のなかに、一人の人間の生命に仏性が輝き、菩薩の行が表面化してくるというのです。

すなわち、本質我と固有我の冥合によって菩薩の行が歴史化するというのです。歴史は非情を主体として構成され、その非情の中の人間という有情も、非情の中に存在する有情として構造化されていくことになります。そして、万法の体が、南無妙法蓮華経の七文字であると断言するのです。

さらに、万法の根源を南無妙法蓮華経の七文字の中の「蓮」の一字より起こるとするのです。「妙」という死の相も、「法」という生の相も、「蓮」の一字に摂入されると説いています。これを時空間よりみれば、不二系と物質系の時空は、時間系と空間系の「行」によって創出されると考えところです。「行」というのは、人間の行為や行動だけでなく、物質の運行、運動を含めた概念なのです。そして、生命は、万法の体である南無妙法蓮華経の異名でもあります。

 妙法の教理性と蓮華の歴史性は、時間系の内に教理的教理性と教理的歴史性を、そして空間系の内に歴史的教理性と歴史的歴史性を共存させながら存在することを意味しています。

そして、蓮華の歴史性の内に蓮の歴史性と、華の教理性が共存するのです。妙法という時間の六次元と華の時間の三次元は、蓮という私達の歴史には一次元の顕現として存在することになるのです。

従って、蓮華の存在により因果が成立するという時間論は、空間の時間的側面が表面化した事を語ったものであります。妙法という時間内に蓮華という空間的存在は、確定されると考えるところです。妙法蓮華は生命の本有の姿である故に、人間にとって生命は、その歴史的事実のうえで物質系に存在しながら時空間的側面より生命の実在を実感しているといえます。



生命論序説 第一節  教理的釈尊と時間の行
生命論序説 第一節
第一項 生命次元
第二項 時間系の三次元
第三項 生命の動特性
第四項 生命と寿命
第五項 時間次元の生死観
第六項 教理的釈尊と時間の行




第一項 生命次元

私達の日常生活が、時々刻刻と変化して止まないのは何故なのだろうか。時間の不思議は、人類にとって最大の関心事であったし、またあり続けることだろう。私達の日常的空間は、物理的四次元の世界として認識されている。生命次元という時、時間と空間より変化するものの状態を定める四次元発想から考えれば一次元プラスして考える視点と思うかもしれないが、そうではない。時空間と同一系内に生命次元を加えた五次元の生命時空間といった考え方ではない。
生命は、私達の物理的世界という実数で表される世界内では把握することは出来ないと思う。生命を実数で表現しようという考え方は、生命現象を物理的に説明しようとする時にだけ意味を持つといえる。物理的生命観は、仏法より観れば生命の部分観に過ぎない。
仏法的生命観は、物理学のような物質の世界だけで生命を把握しようとはしないのである。有情も非情も、生物も無生物も含めて、実在する全てを「生命そのもの」としながら、さらに人間の感覚では理解できない、実存するかどうかもわからないものも必要なら含めているのである。これらの全てを諸法と実相という同体異名の実体として「生命」と把握するのである。
したがって、諸法に顕れる「時間」に対しても、私達が実感できる実数時間だけでなく場合によっては虚数時間をもその思考の内に含めるということである。
人間の死は実数の世界ではゼロと同じ意味で、誕生によって生じた時間は死によって再びゼロになるという現象について、時間を中心に論じたものはまるで無いのではないかと思う。現実の世界が「空間に沿って時間が存在」しようと「時間にそって空間が存在」しようと空間の時間的把握より出ることがないのが物理学である。したがって時間そのものは物理学の対象にはならないのである。
一人の人間の生命が生ずる時、その生命現象が死から生への変化相と捉えることができるだろうか。無から有への移行を物理学は否定するが、仏法もまた同じである。仏法的生命観より考察する生命次元とは、生命が生から死へ、死から生へといった生と死という変化相の不断の連続性を「生命そのもの」の特性であるとしている。
この生死という生命現象が、人間を含めた全ての物質に共通であるとする事が、仏法の生命観を理解する上で大事な視点なのである。この特性こそ、あらゆる実存の本質、即ち生命の実相と把握し、妙法とするのである。この生命の本質より、時空間を見直す視点が生命次元と名付けるのである。
したがって次元といっても、空間の広がりを示すというより、生命に対する考え方の立場ということになる。変転し続ける生命を語るのに物理系に何次元増しても生命の本質にはせまれないと思っている。この本質が生命の変転する「状態」のことであり、物理学における状態の「位置」と「速度」だけではないのである。
 生と死の連続性を認めても、単に生死を物理学的に見ただけでは死は空間内の状態となり、どのような状態なのかを語らなくてはならない。一人の人間の生命の死が、ある状態をもって時空四次元内に存在するとなると、その位置と速度を決めなくてはならないことになる。
 しかも、その状態が周辺に及ぼす影響、あるいは干渉が予想されてくる。このように死後を物質系内において思考することは、科学的であると思われるが、決して生命の本質へと進むことはないだろう。
 生命次元よりみた物理的世界を物質系とした時、この物質系を創造するのは不二系である。この不二系を創造するのに空間系と時間系の設定が必要になる。この二つの系が存在することを仮定して論を進めていきたいと思う。この仮定の設定こそ仏法の生命観を理解するのに欠かすことの出来ない視点なのである。
 時間と空間に対する考察は、仏法においても欠かすことのできない視点である。空間に基づいて生ずる時間という発想は、現象を主体として述べた場合であって、むしろ空間が生ずべき主体であり、時間系より生ずる空間系と考えた方が仏法的なのである。
 仏法で説く法は、空間のイメ-ジが強いからである。倶舎論に「因と縁が和合した一刹那に法が生ず」とあるように、法は生ずべき主体である。そして時間は法の存在に基づいて現れるものとなる。
 空間はその意味において時間を顕現させる「場」となり、後から生ずるのでもなく、同時に生ずるのでもない。空間を表現の場として元々存在したものが、場を得て顕現したということになる。時間の特質として、「場」としての空間を必要としていたのである。
 物理学的発想で、空間と時間が同時に生じたとすると空間を生じさせた法則が、時間をも生じさせたことになる。空間が何故、時間を必要とするのかを説明しなくてはならなくなる。空間が時間を必要とする必然性は見当たらないのでる。
 量子学は、むしろ原子あるいは電子の波動性を認め、電子そのものが波動という時間性を持った存在と前提にしているのである。素粒子の発生と同時に素粒子の時間性を認定しているが、素粒子が発生する以前に時間は存在していたと考えた方が自然である。
 宇宙創成の一点を認めても、その一点が存在する周辺を空間として、宇宙は空間内に創成されるのである。その空間の膨張もまた時間を必要としているのである。空間そのものが、時間を内包している故である。物質は法の集合体であると仏法では説いている。
 法が集って物質になるので因果が倶時する系を時間系と呼び、法が冥合する系を空間系と呼び、物質を存在させる系を不二系と名付けるのである。
 時間が無始無終だとすると、その時間を生じさせた空間が無量無辺として、初めから存在していたことになる。これでは時間が何時生じたのかわからない。単に、時間の存在が空間によって意識されただけであって、時空間が意識による幻想といわれても仕方ないところである。
 時間・空間を同時に生じさせ、しかも幻想を否定すると、同時に生じさせる別の主体者を必要とすることになる。天地創造である。現存する物質系よりみれば根源的系が時間系ということになる。生命次元は三つの系より構成されていると仮定する。
 因果倶時を生命の時間性として因果徳の三次元座標で表現したものを時間系とするのである。また境智冥合を生命の空間性として、境智位の三次元座標で表現したものを空間系とするのである。
 因果倶時と境智冥合は、生命の時間性と空間性を分別した上で捉えた表現であるが、元来、生命は時空無分別なので、物質系が時間系より生じたとしても、空間系より生じたとしても良いのだが、物質系という四次元世界に存在する生命の実相を説明するのに都合がいいと考えたのである。
 そして時間系は「報」という空間系の原点の総和とし、空間系は「中」という不二系の原点の総和とするのである。空間系は、時間系における因果倶時点を原点ゼロとする「冥合」の世界とし、不二系は、空間系における境智冥合点を原点ゼロとしている「不二」の総和の世界である。
 従って空間系は、系内のどこをみても因果の倶時を存在の基底とし、不二系は同じように境智が冥合された状態が不二系の存在の基底を成しているのである。
 原点ゼロという事象の総和といっても無ではない。この事象は、時間系のポテンシャル・エネルギーであり、生ずる空間系の運動エネルギーともなる。最終的には、物質系の運動エネネルギーともなる系の三次元ポテンシャル・エネルギーなのである。
 時間系よりみれば因縁和合して空間系を生じ、空間系にあっては、不二系と物質系を生じさせるエネルギーである。この運動エネルギーは、寿命と呼ばれる概念であり、時間系以外の系は有始有終の寿命を持つことになる。
 寿命は、ポテンシャル・エネルギーによって決定されることになる。従って物質の命終は、空間系に、あるいは根源的な時間系に戻ることになる。また、寿命を持つ故に生老病死の四苦を免れないのである。成住懐空も有生出在も無死退滅も寿命を持つ故に起こる変化相となる。このような物質系と不二系、空間系を生じさせる為に時間系を設定する必要があるのです。
 時間系と空間系を分けて考えるのは、時間系における因果の座標軸を虚数時間とし、空間系の境智の座標軸を実数時間とするからである。時間系の倶時点である空間系の原点は、実数時間の元初を意味することになる。
 物質系を誕生させる本因でもある。時間系より物質系に到る過程は、決定論的に見えるかもしれないがそうではない。この観測者は、常に物質系より観るのであって、物質系のある時点よりみればこのように時間系にまで遡って観ることができるということである。
 物理学的にみれば物質系の一点は、存在する場所として決定論的で、変えようのない事実と受入れるしかない。自分自身を物理的に変えようがないし、子供が親を選べないようにである。そして、自分の宿命を変えようが無いものとして受け入れる姿勢は、科学的であるとさえ思ってしまうことになる。
 仏法の生命論によれば、現在の一点より時間系に到る方途は、悟達の深さという契機によって現在のポテンシャル・エネルギーを生命次元で変更可能であると説くのである。悟達の深さという契機は「行」の原点を観ることであるが、天台は一心三観という修行による観念観法を説くのに対し、日蓮は、菩薩の行による実践行動となる。
 そしてそれを自行化他の南無妙法蓮華経の実践であると説くのである。悟達の深さは物質系における、ある一点の境界とも境涯ともいうところである。
 この位置の変更は、修行という時の経過と共に移動するのではなく、即時となって、時間ゼロの水平移動であるという。このように生命は、物質の形相としての縦横高さという三次元とは別に、生命次元内の境涯を表す二次平面座標上を同時間の水平移動(移動時間ゼロ)が可能な特質を持つことを認めるのである。
 この二次平面が依正不二あるいは色心不二と名付けられる不二の世界である。そして、不二点を境涯と捉えるのである。人間の生命現象は、他の生命に比べて、この二次平面をかなり自在に移動するものといえる。有情界の生命に比べて非情界の生命の発動性の弱さは、移動の量の差ということになる。
 いずれにしても、物理的生命観と仏法的生命観の違いは大きいといえる。釈尊は、このような生命の実相を妙法蓮華経と名付けた。日蓮は、現実の姿に基づいて、物質系の存在そのものが、妙法蓮華経という法の作用であるとした。そしてこの法が、自らに帰命した姿、即ち、南無妙法蓮華経こそ根源の一法、または、因果倶時・不思議の一法ともいったのである。
 時間系が虚数時間であると仮定するのは、因果の二次平面上のベクトルは負の実数にする為である。因果の倶時点における負のエネルギーが、空間系を生じさせる力とするのである。
 実数時間は実数空間を創造するが、この時間系内の倶時点より「時間の行」が創造され、この「行」軸を空間系の「位」軸とすることによって空間系の特質を語ることになる。
 時間系の座標内に確定される点は、因果の倶時点とともに「徳」を含みながら、生じられた空間系の「位」軸としての特性を持つことになる。生命次元とは、座標内に新たな運動、寿命の軸を創造していくという考え方なのである。それは、時間系でも空間系でも不二系や物質系でも同等に働く力、創造性の力用ということになる。各系内に新たに出現する軸は、次の系の時間軸でもある。
 この時間軸は、原点を持つ故に寿命をも持つことになる。時間系の「徳・因・果」によって特徴づけられた空間系であり、その空間系より出現した不二系は、空間系内の「位・境・智」によって特徴づけられた世界でもある。
 したがって私達の宇宙は、時間系と空間系と不二系の特徴を内包した「時空間の行」を「時間」として認識したところの世界ということになる。私達の四次元時空の特質は、その誕生とともに「時間の行」と「空間の行」と「時空間の行」の特質が存在し続けているのである。
 また、時間系内に生じる空間系も不二系も物質系も寿命を有始有終とすることは、この三つの系が、生死の連続性を持つことを意味している。有限の寿命を持つことが、何故、生死の連続性を意味するかというと、法身という無限より生成する有限の応身という立場から、応身を法身を通して観るからである。
 生命の顕現と冥伏が、不断の連続性を有すると考える視点から顕現も冥伏も共に有限であると認めるのである。「時空間の行」という物質系の時間軸にそって物理的空間が存在するのである。顕現された物質に対しても不二の世界に生じるところの物質は、相対的な個、絶対的な個、相対的な全体、絶対的な全体の全てが不二の存在として不二性を内包して顕現しているのである。

第二項 時間系の三次元

三次元の時間系内に新たに創造される「行」は、因行果徳の二法と同義である。即ち因位の万行、果位の万徳とは、物質系より時間系を観た時の表現である。従って「因となる行が徳という果を得る」と読むが、これを時間系より読めば「因果倶時の中に行が生じ、その行に徳が具わる」とするのである。因果は、徳という時間軸に対し垂線の虚数座標軸で表す二次平面とみれば、同時間の二要素であって、どこをとっても倶時点という事象の総和となる。倶時点とは、因果のベクトル和である。どこを倶時点にするかは、空間系の特質によるのである。悟達としての空間性が、その空間を存在させる時点となり時間系の三次元における倶時点とするのである。悟達の空間性とは、悟達の内容であり徳の性分となる。釈尊の悟達と日蓮の悟達の違いは、この因果の違いとなって現れる。従って日蓮の因行果徳と釈尊の因行果徳では、時間系の倶時点の違いとなり五百塵点劫とその当初という時空間系の原点の違いとなるのです。
 物理的発想のもとに全ての物理現象に対しその因を探りだそうとする努力と物理的存在の対称性に真実を直観するものが、人間の思考の傾向性のように思える。しかし、精神活動に対しても全て物理現象とすれば、例えば善と悪という対称的存在も、その根源の善悪の因果を物理的に説明しなくてはならないだろう。素粒子が人間を構成しているからといって素粒子に善悪の因を持ってくる物理学者はいないだろう。自然現象として素粒子が、集合、統合、合成されていく過程のどの時点で善が生まれ悪が生まれるのか説明出来ると思っているのだろうか。世界が、物理という自然法則によって全てを究め尽くせると考える人は、自身の善悪の心の基準を解明していると言うのであろうか。世界を動かしている法則が、物理的な自然法則だけだと確信する根拠など何処にも無いのである。時間に対しても明確な法則を持たないといえる。時間が自然科学の対象にならないのは、客観視することが出来ない量だからという。また、物理学の対象が、物体の特質や特相、特性に限られているとはいえ時間も物質の特性の一つでは無いといえるだろうか。人間の感じる時間だけが存在する時間だと言い切ることが本当に出来るのだろうか。

 空間を顕現の場として出現する時間の本質を究明することが、生命を語るのに欠かすことの出来ない視点だと感じている。否、むしろ時間の究明がなされなければ、生命の本質は語れないと思っている。私達の物質系に存在する時間が、生命次元よりみれば時空六次元と不二系の三次元を内包した時間と観ると新たな視点が生じるのである。人間からみれば短い一生の生物であっても、それなりの時間感覚において一生を全うしていくことだろう。時間系の因行果徳の二法は、「行」という空間系の時間としての寿命となって表現されている。時間とは、物質の欠如の観念ではなく、寿命のエントロピーの増大へと向かう生命の「行」という実存である。従って、空間系も不二系も物質系も寿命の持つ特質によって支えられた存在となっている。
 時間系における三次元の「徳」軸について考えてみよう。徳とは、仏の四徳と呼ばれている常楽我浄のことである。これは、仏の無量無辺の運動エネルギーと無始無終の寿命という徳を意味している。そして、因果の倶時点を確定した時の徳の一点を「法身」と名付け、この倶時点を「報身」と名付け、新たに創造される時間の「行」を「応身」と名付けるのである。報身より三身を観るとは、このことである。無始無終の時間系における三身なので、無作本有の三身というのである。そして、無作三身を南無妙法蓮華経と名付けた日蓮仏法は、久遠即末法という原理を生むのである。
 時間を三次元に観る事が出来ないのは、物理的な事象に眼を向け、時間は、単なる経過としてしか捉えることが出来なかったからである。しかし、ホーキングのような天才が出現し、虚数という数学上の知的成果を用いて時間を見ようとする動きがある。虚数時間が存在するかどうかは判らないが、生命という不可思議な実存に対し、思考の道具として用いることを否定する必要はないだろう。私も時間の三次元座標を用いた方が、生命の本質を語り易いと考えるのである。「生命そのもの」という仏の特質の一分でも語れることが出来ればと思っている。仏の徳も力用も全て時間と同様に、空間を顕現の場として用いているように思えるからである。その意味において仏とは「生命そのもの」でありながら、「時間そのもの」ともいえる。もちろん「そのもの」といっても、生命や時間がそのまま信仰の対象に成ることはないだろう。常楽我浄という仏の四徳を、四菩薩に配したり四大に配したりするとしても、時間という無始無終の存在において「行」として現れる徳の異名と言うことになる。

時間系の三次元における時間軸としての働きを「徳」軸として、この徳が無始無終であるという時、無始無終とは、いかなる事を意味しているのだろうか。生死の不断の連続性は、物質系を中心に語った時の生命の連続性を意味している。時間系における連続性に生死は無い。生死という概念は、物質系の特質として顕れるところの空間系の特質に拠っているのである。時間系は、連続ではなく常住なのである。即ち、時間系の無始無終とは、本有常住という意味なのである。この本有常住のことを仏の慈悲と呼ぶのである。連続と常住の違いは、時間系と空間系の違いでもある。生死の二法はこの二つの系を同時に見るときに成り立つ特質なのである。
 空間と同様に伸びたり縮んだりする時間は物理的一次元の時間である。この一次元時間は、三次元空間と共に顕現されたものであるが、仏法で説く顕現は、最初の出来事という意味ではない。冥伏と相まって連続性を意味しているのである。時間系と空間系という二つの系の特質より派生する生命の実相に対する言葉なのである。従って、アリストテレスやアクィナスの心配は必要ないのである。空間と共に生じるように見える時間の時間性は、空間と共に有限になるのは当然である。従って、物質系において、銀河宇宙を創造するのは何も神でなくてもよいのである。原因の無限連鎖を否定すれば、最初の出来事を必要とする。そして、神を特異点と言い換えることによって物理学的にも数学的にも結論とするように展開していくことになる。当然の事として特異点以前を思考する事は意味をもたなくなる。ホーキングが、虚数時間を思考の中で採用し、特異点を無くしたとしても数学的成果の域を出ないのである。これは、宇宙の出来方における様々なルールが、特異点の以前か以後か同時に完成したのかを問題にする時も同様である。宇宙創世の本源的エネルギーを時間系、空間系、不二系と辿ったとしてもこれらの系を総称して神あるいは仏と名付ける必要はないのである。物質系という現実に存在する系より遡って存在の本質に迫るだけである。
 生命が無始無終であるという保証はない。しかし、仏法において仏の生命は無始無終であると説いている。しかも生命は、因果倶時をその特徴としているという。倶時とは、因と果が一念の一瞬に具わっているという因果一念や、因果異性、互具、同性、並常といったそれぞれの立場で説かれた因果論に対し、差別することが出来ないとする立場である。同時と同意であって、仏因仏果同時に得る事を意味している。運動の原因と結果を同時に見たり、一瞬の中に永遠の生命は凝縮して存在するとしたりするのは、因果を過去・現在・未来という時間の一次元に内在させて語っているからである。現在の一瞬に因果が内在するという物質系の因果論ではなく、生命次元より観た因果は、現在を確定する為に分別するもので、因によって或いは果によって現在の実相を観る為である。因果の現在性を倶時というのである。

 原因と結果が同時ということの意味を考えてみよう。二つの事象の同時性とともに、一つの事象における因果の同時性を見比べてみれば良く判ると思う。果に因が内在したり、因に果が内在したりという発想は、一本の時の矢の流れにおける因果の倶時性を語っただけである。空間内の因果倶時の説明では、久遠即末法は理解出来ないだろうと思う。久遠の事象と末法の事象が同時であると考えて、この同時性を因果で説明する為には、時間系という絶対静止系に立脚しなくてはならないのである。果に対する因を時の流れでみると果は次の因に成りえません。ある結果が、必ずしも次に同じ結果を生まないという現実は、ある結果が次の果の因とは成っても、次の果の確定にはならないのである。過去の因と現在の因は同時ではないので、過去と現在の二事象は、物理系の中にあって同時とは成りえないのである。久遠即末法の原理は、時間系を絶対静止系として、そこから観測する以外に成り立たないのです。過去の全てと未来の全てを、現在の一瞬に内在させることは、過去を不変にせざるを得ない物質系の中の時間性にすぎません。そしてそれは、現在の一瞬を、単に過去の生産者にしてしまい、そこには未来の展望など生じようがなくなり、未来の予測は、過去の変形にすぎなくなってしまいます。
 物質系の時間軸は、不二系の「時空間の行」であるが、不二系の時間軸は空間系の「空
間の行」である。そして、空間系の時間性の中で因果を見れば異時のようにみえる。しかし、時間系より見れば因果は二次平面なので一つの因に無限の果を含み、一つの果に対しても無限の因を見る事が出来る。系内の因果は、倶時点において同時に含むのです。空間系では「行」の一次元である時間性も、観察する系によって異なった性質を持つことになる。空間系は、時間系内の倶時点という現在性の中に存在が構造化されているのである。異なる時刻に起こった二事象が空間の同一地点で起こった事象かどうかも、その事象を観測する系によって異なって見えるのである。これは、久遠と末法において起こった二事象が、娑婆世界という同一空間で起こったものであるとする為に、空間に対する絶対静止系となる時間系を必要とすることを意味していると考えるところである。遜悟空が空間を飛び続け、かなりの距離を進んだと思っていたとしても、それは空間的時間の経過を認識したにすぎないのである。釈尊から見れば遜悟空は、半歩も進んでいないくらいの時間の経過であったということである。この時間感覚の相違が、空間次元と時間次元の時間感覚の違いなのである。五十小劫を短と見るか長と見るかが、「解」すなわち、悟りとなるのである。一年を一年と見るか、十年に匹敵すると見るかともいえる。

人間は、過去の生と死をみることは出来ない。物理的に有り得ないのである。時間を逆行するマイナスのエネルギーが必要であり、光速より速くその情報を入手する以外にないからである。タキオンの存在の有無は別にして、日蓮仏法に限らず仏教の悟りは、その可能性を説き続けてきた。人間の意識の底の底にある識は、悟りという境涯において、その速度は無限大となるというのである。この識の速度は、エネルギーゼロにおけるタキオンの如き感がある。このような生命的直観は人間の意識の中の幻想、観念的存在なのでしょうか。現実に生きる人間的生において、因果を同時に観ることは、生命の本質に迫るというよりも観念的に見えてしまうのである。認識において現在は、過去からの因果の積み重ねではあるが、現在の一瞬の因果の中に未来が決定されてしまうのでは、未来はあまりに不自由すぎる。現在を因とする時、未来の果は自在でなくてはならないだろうと思っている。そうでなくては、自身の変革も革命も、過去からの因果に縛られた結果に過ぎなくなる。この物質系に観られる時間性の束縛から逃れなければ、遜悟空の二の舞になってしまうのである。時間に対する認識を変える以外にないのである。即ち、空間も物質も時間の変形、或いは変化相に過ぎないという認識を持つことが大事な視点である。時間が私達に対して果たす役割を人間生活の中から生命実感として把握することが、時間性の束縛から開放される道である。


第三項 生命の動特性

 時間系の「行」と空間系の「行」は、それぞれの系内に創造されたものとして系の特質を具足して生じている。時間系の三次元である因果徳は、倶時点において「法身」と「報身」を確定し、その点より「応身」を生ずることになる。仏法は、法身仏と応身仏を説きそれを悟達する智慧を報身仏と名付けているが、日蓮仏法では、三身即一身は南無妙法蓮華経であると結論している。このような日蓮仏法を構造的に説明したのが時間系の三身である。釈尊が応身仏だとして、五百塵点劫に本果を得た仏は、法身仏となりその悟達する智慧を報身仏としてもこの三身が一身に相即するには時空間的に無理がある。まず自身の法身を悟り、次に現在の自身が応身であるとしても、法身を悟る自身の存在を前提にする以上悟りの主体者は現在にある。法身を現在に置くためには、応身の存在を前提にせざるを得ない。即ち応身が存在しなくては、法身も報身も存在しないことになる。そうすると久遠に応身が存在出来ない以上久遠に法身が存在出来なくなってしまうことになる。現在に仏の「行」を現出せざるを得ない釈迦仏法の限界といえる。
 日蓮仏法における「行」は、仏としての行ではなく菩薩の行である。その「行」の中に自己の本地を見出すのであって自身が応身仏として振る舞う必要がないのである。菩薩の行の振る舞いの中に「行」の原点としての報身を感じ、報身より法身と応身を自身の生命に実感することを悟りといい仏界の涌現ともいうのである。「如来の所遣として如来の事を行ずる」とはこのことである。菩薩の行において如来の事を行ずることの出来る可能性は、菩薩が単に菩薩として出現することを意味していない。日蓮仏法において菩薩は、行ずる主体者としての菩薩と仏の区別は無いと考えた方が判り易い。
 釈迦仏法と日蓮仏法は、この「行」のあり方、捉え方が悟りとなることは同じである。
しかし、釈尊は、仏の行為の中で語り、日蓮は菩薩の行為をもって語ったのである。仏であれ菩薩であれ「行」は、生命の特性として現存するのである。人間が自身の死を不可解と思うのは、死が生を否定するものと把握するからである。生命の変化相としての死は、生の否定ではない。また、死後の生と捉えるのでもない。生を物質的にみるから死後を見られず、従って生前を見ることが出来ないのである。死が不可解なのは、生も不可解だからであって、生のみは、理解することが出来ると思い込んでいる錯覚からくるのである。生を知る為にはまず死について学ぶことが本道なのであろう。死についての思索を放棄してはならないと思う。死が物理学や科学等の対象になりにくいとはいえ、死後の生命状態も生の生命状態と変わらず法に則って活動すると仏法は説いている。自然を認識可能の対象と断定し、生命を例外に置くことを科学と信ずる物理法則信仰は、いずれ破綻を来すことになるだろう。

 「行」より創出された空間系や物質系が、冥伏から顕現へ、顕現から冥伏へと不断の連続を繰り返す為のエネルギーを「行」と呼ぶのである。時間の行の特質は、空間系や物質系を支えるものとして根源的な力用といえる。時間系という虚数を含む三次元と空間系という実数の三次元、不二系の三次元さらに、物質系の四次元を同時に見る時、私達が、日常的に三次元空間と共に一次元に見えていた時間軸の中に、時間系と空間系と不二系の九次元が凝縮されていることを知らねばならないだろう。時間系と空間系の総称を時空統一の実相とし、不二系と物質系の時空六次元が内包された時間の一次元と不二によって、確定される物質の三次元を含めて時空統一の諸法となる。この時空統一された諸法と実相を全体として「生命そのもの」と名付けるのである。また、時間系等の四つの系を時空統一の諸法実相を「行」の視点より観ることを生命の動特性といい、「行」を除くそれぞれの系を三次元で観ることを生命の静特性と名付けるのである。
 生命の動特性は、新たなる「行」の創出であり、時間系の「行」は、報身を原点とする応身と呼ぶ。この応身は、空間系の空諦を内包しながら空間系の「位」軸を構成することになる。時間系の「徳」軸に内包された法身は「徳」軸において固有の因果を持つことになる。徳は、全生命がその動特性を内在させる根源的な名称として、また、宝号として南無妙法蓮華経と名付けられたものである。時間系の三次元における動特性としての南無妙法蓮華経は、教理的釈尊として仏法上、位置付けられるのである。そして静特性としての妙法蓮華と対比してその特性の違いが語られるのである。
 「行」という動特性は、その根源的エネルギーである南無妙法蓮華経に支えられて創出する生命の特性である。有始の動特性は、有終の寿命という期間を設定する。仏法の時間論は、物理的時間の概念では理解出来ないところの本質がこの寿命の概念にある。即ち実数時間という一本の矢に譬えられる物理的時間の概念にこだわると、仏法の時間論は、見えない部分が多すぎる。
日蓮仏法が正しいという前提に立つとき、時間における虚数部の導入もその活用範囲で使用するのは不自然とは思えない。時間的過去は、その実在の実感と共に虚数部に入り込んでいくことになる。

生命的実感の速度は、光速を越えると仮定している故に虚数部を実感出来るとするのである。過去の生死は虚数時間であり、現在の生死は実数時間、未来の生死は虚数時間の世界ということになる。自己の本地を久遠に置けるということは、時間性より観た自己存在の覚知となる。この三世の生死は、三世各別の因果でもある。勿論、三世は無分別であるから、本質的に時間は虚数時間しかないといえる。従って虚数から実数へ、実数から虚数への移行と把握するのではなく、虚数時間内に人間あるいは物質が顕現する時に顕現する行という時間性が、実数時間という一方向性を持つということである。そして、実数時間は、寿命を持つのである。実数空間も実数時間もその行において寿命を持つ有限の時空間として把握することが大事な視点なのである。
 悟りの深さとは、負の実数の大きさに他ならない。この負のエネルギーが、そのまま正のエネルギーとなるのは、物理的にも当然の現象であろう。時間に対する認識は、物質の存在に対する認識論とは異なり、既に存在する時間の虚数部の認識である。
 時間の三次元という視点は、空間より見れば一次元にしか見えないが、それは、空間内の時間の存在が、空間に沿って時の経過を意識するからに他ならない。物理的空間においては何ら不自由を感じないので仕方ないともいえる。しかし、空間の存在と認識は、空間内から空間全体の位置と運動量を認識しようとするところに無理があるのである。空間が時間の一次元に沿って存在するのであれば当然の発想として時間の一次元を決定する必要がある。その時間の一次元を空間より確定しようとするから判らなくなるといえる。時間は時間内で確定する必要がある。空間の現在が、時間軸の位置をどのように確定するかは、空間より観たのでは解らない。空間より観れば常に現在しか見えないのである。物質系に存在する人間が、時間の三次元をどうやって認識することが出来るのかではなく、この認識を悟りというのである。
 物質系のある一点を四次元座標の一事象として把握した人間の知性は、偉大な科学的成果を得た。しかし、時間あるいは時刻といった時の概念にこだわり過ぎたいえる。時間は慣性系によって異なるとしながら、物質空間においてその性質の共通性に甘んじ過ぎたのである。そして、時空統一体としての「時」に対する思考を停止してしまった。物理空間において何ら不自由ではないが、そのままでは肝心の人間とは何かという問いに答えられないのである。

人間あるいは生命の物理的側面しか述べる事が出来なかったという、反省に立たざるを得ない時代となったといえる。時間と空間が、共に重力によって歪められたとしても、それは我々の存在する物質系における時空の性質の一つに過ぎないのである。
 実数時間は、どの時点でも垂直方向に虚数時間を抱えながら「時」の経過を人間に意識させる。「時間の行」の現在性は、未来の実数時間の存在を容認することを前提にすると共に過去の実数時間の存在を容認する。しかし、過去や未来の実数時間が、現在において存在するかどうかは定かではない。むしろ、実数時間は、「行」の現在においてのみ存在が構造化されていると思われる。現在以外の実数時間は、認識上の存在に過ぎないのではないだろうか。過去に消え行く「時」は、決して負の実数時間ではないだろう。時もまた顕現と冥伏の二極性において、虚数時間内に冥伏していくものと考えられるのである。遠い過去からの光を見るのは、常に現在であって、過去そのものではない。宇宙旅行より帰還して未来の現在に降り立つことはできても、そこから出発時の過去に戻ることは出来ないのである。
 この過去と未来の違いは重大である。過去は認識上、虚数時間と共に負の実数時間に内在し続けるが、未来までも認識上の観念的存在とするのではない。過去を必然性と把握し、その存在の実感と共に現在性の中に未来の可能性を認めるのでもない。現在に先在して実在する虚数時間なのである。故に未来の現在に立つことができるのである。必然性としての過去時間や可能性としての未来時間は、本質的に寿命という時間性にその存在が構造化されたものである。人間の認識においては未来の虚数時間より現在を確定する為に可能性として存在されるのである。従って現在を確定する為の過去と未来は、ともに虚数時間の内に実在しながらその視点の違いが明らかである。現在から観た過去は、顕現から冥伏の変化相と観るが、未来は、冥伏から顕現を観るのである。物質の寿命について語ることは、生命が顕現された時の歴史的作用の量的把握と、冥伏された時の教理的作用の質的把握とする寿命の二元論を展開することである。生命の持つ特質のうちで寿命は、歴史という時空間に作用する故に、顕現と冥伏という二極性を有する生命にとって基本的な動特性といえるのである。

第四項 生命と寿命

生命の特質として寿命の存在を「行」と関連して述べた。私達が認識するものの中で寿命を持たないものは何一つとして存在しない。当然、宇宙も寿命を持つ存在として認識することになる。宇宙が「生命そのもの」であるという時、論理学者から「論点先取」と批判されそうである。しかし、私は、宇宙が生命そのものであると証明しようと言うのではない。只、宇宙が、「生命そのもの」の性分を内包しているように思うのは、仏法の視座から把握した人間論より、生命を考察することによって導かれる結論といえる。本有常住の生命より有始有終の寿命は具成し続けるのである。日蓮本仏論よりみれば、この場合の生命は久遠仏であり寿命は上行菩薩となる。仏と菩薩の関係は、無始無終の生命と有始有終の寿命の関係となる。寿命という生命の基本的な動特性は、菩薩の行によって表現されるのである。寿命という視点は、殆ど変化、進化しない物質においてさえ、人間と同じように性分として内包されていると思えばその時間的差があるだけと思えるだろう。顕現されたものは、全て仮和合たる所以でもある。それは、生物であれ無生物であれその中間であっても同じである。
 寿命には、考えられない程の短いものから長いものまで実に様々である。人間の寿命が現在八十才とすると、一生を殆ど瞬間で終えるものもある。それでも一生は一生である。仏法では、人間の寿命は、変化するという。最も人間以外は、変化の対象になっていないように思える。実際には、人間の寿命が変化すれば周囲の物質も変化の対象になると思える。何故、人間だけの寿命が対象になっているのかは、仏法の寿命論において大変意味を持つところであろう。多少の差こそあれ素粒子から宇宙に到る全ての物質には、定まった寿命があるが、人間だけは変化すると考えるとそこに何らかの理由が存在することになる。しかもその変化率が定常的にである。仏法の生命論だけでなく、仏法そのものを理解するうえでこの問題は、非常に重大なポイントのように思える。十年を一生とするのも百年を一生とするのも人間の感覚の違いであって、時間が絶対なのか相対なのかではなく、時間を表す数字の持つ意味が絶対ではなく相対的なのである。

 仏法では物質を法聚と捉えている。法聚とは、法の集まったものという意味である。物理学では、エネルギーの集まりと考えているようである。エネルギーは法の特質の一面であろうと思われる。物理学では、質量とエネルギーや質量と寿命は同等の意味になっている。しかし、質量と寿命は同等ではない。人間と同じ質量の物体が同じ寿命ということはない。寿命は顕現時と冥伏時における二種類の寿命を持つが、共に時空間系のポテンシャル・エネルギーによって決定される寿命である。物質は、ポテンシャル・エネルギーの部分的なエネルギーの集合形態と考えるのである。従って空間系の寿命が尽きるまで、物質系の中に創出した物質は、物質系内に顕現と冥伏を繰り返す事になる。我々人間が、何回繰り返すのかは定かではないが、銀河系の寿命が尽きた時に終了する事になる。法の「行」という側面としての寿命の概念が見えてくると思っている。即ち、顕現とは法としての蓮華であり、冥伏とは法としての妙法ということである。そして顕現した時に「行」を伴うので、これを名付けて蓮華経というのである。天台の一念三千の理論は、この蓮華経の静特性を説いたものである。
 有情の存在を支える非情の力用が、顕現時の寿命を決定し、冥伏時の寿命は顕現時における菩薩の行で決定される。非情の力用とは、有情を支える時空間を意味しており「業」と名付けられるものである。人間的生において自身を支える時空間は、自在であるというのが日蓮仏法である。境涯によって物質系における時空間のポテンシャルを変化することが出来ると説くのである。
 人間の寿命はある程度定まっている。寿命を日蓮仏法の時間論より観ること無しには、
その本義を理解することは出来ないだろう。本有常住の時間の世界で空間が顕現された時、その空間によって時間の顕現の仕方が一律ではない。時間系内のある空間と別の空間では同等同質の時間性を有しないのである。この時間の質の差を境涯とも境界ともいうのである。例えば仏界の時間と地獄界の時間では、まったく異質の時間ということである。勿論仏界の生命状態と地獄界の生命状態の違いによって感じる時間の差であって時間そのものに差を設定するのは可笑しいという考えもあると思う。人間という物質の世界にあっていかなる境涯であっても時間そのものに差が有るわけではないだろう。
 楽しい時間は短く感じるという人間の時間感覚は、物質系の時間性であって時間そのものの本質とは違うのである。時間が、人間の主観によって変化することを認めると時間の普遍性はなくなる。楽しかろうと苦しかろうと時の経過が一律なのは、我々の物質系における固有の時間に過ぎないのである。感じるという個々人に相違のある主観を判断の基準にすることは出来ない。しかし、この差の感覚は時間の本質に迫る入口ともいえる。十界論は、時間を感じる境涯論ともいえるからである。そして、この差は元来一律である我々の世界の時間の中で、より本質的な時間の特質を垣間見させるのである。

 時間の感覚は、人間の一生が定常的に変化しようと一日二十四時間ならそれでそれなりに生きるだろう。そうなると寿命の変化は、人間的生において何も意味を持たないことになる。たとえ一生が十年であろうと人間の一生は一生である。生活感覚は、寿命の変化に関わらず変化が無いのである。それでは何のための寿命の変化なのだろうか。有情を支えている非情が有情の寿命に影響を与えていると思われる。非情の都合によって起こると考えると非情の都合とは何かが問題になる。物質系の大部分を占める非情の生命の力用に対する問いかけでもある。物質系全体の寿命は、空間系と時間系によって支えられている。物質の運動速度は、「行」という時間性に近づくことによって起こる寿命の変化といえる。元来存在する場の寿命が時空間の寿命を決定しているので光速に近づくことは、本来の尺度に近づくことになる。物質を光速にした時が本来の物質の寿命ということになる。光速は、創出した物質系によって定まった速度と考えられるのでその物質系の「行」という時間性は、一応、光速を基準にして考えるということである。物理学では、全ての物質は光速にすると質量が無限大になるという意味で同等であるが寿命は固有の我によって異なるのである。
 物質系において私達の眼で確認できる宇宙は、超銀河団が今後、何千個と発見されても大部分が非情の世界であろう。従って非情の世界のリズムによって僅かな有情の寿命に影響が出てくると考えられる。それは、物質系に創出した宇宙のポテンシャル・エネルギー内にあって有情が出現したポテンシャルに関係していると思われる。我々の宇宙空間にどのくらいの生物が存在しているかは不明だが私達の太陽系と地球のポテンシャルが確定されているとすれば、地球上の生物の寿命と傾向は概ね確定されていると考えてもよいだろう。一つの超銀河団が何千もの銀河団を抱えさらに何億もの銀河を有していたとしても、一つ一つの銀河のポテンシャル・エネルギーが異なるので寿命は別々であろう。異なる寿命は、異なる時間性を持つことになる。いずれにしても私達の銀河系は、同一の時間性を有すると考えておきたいのである。もし私達が他の銀河系に旅をすることが出来たとすると地球とは全く異なる時間性を体験する事になるだろう。人間の寿命の変化が実際にあるとすれば、人間の運動速度が変化することによって起こることになる。何故人間だけかというと、人間の生命現象に顕著なだけで、顕現された全ての物質に起きる現象でもある。現在が減劫の時ということは、生命が波動性を持っているから速度の変化をもたらしているのである。

 次に寿命の意味と顕現・冥伏の関連について述べて置きたいと思う。妙楽は「一期を寿といい連続を命という」といった。例えば創出されたものが空間系であれ不二系であれ物質系であれ、また物質系の中に創出した宇宙であれ一期の期間を寿といいこれを顕現という。顕現されたものは期間を終えると冥伏する。そして次にまた再び顕現するが、その繰り返しを連続といい命という。寿命はこのような連続だけを意味するものではないが、一つの特性ではある。
 顕現されたものの中でもさらに顕現部分と冥伏部分が存在する。顕現された宇宙にあっても大部分が冥伏された部分である。超銀河団が何千、何億あったとしてもやはり大部分は冥伏された世界であると思う。また人間においても顕現部分と冥伏部分が存在するのである。従って顕現と冥伏という二極構造は、互いの否定ではなく、また単に変化相の違いでもない。顕現や冥伏という有限内においては、それぞれの顕現部分と冥伏部分は同時に存在しながら部分の総和が全体と等しい存在となる。そして顕現と冥伏の連続性と言っても創出された全てのものは有限となる。部分と全体については、数学の無限と有限の発想に近いと思う。即ち無限を見る時は、部分と全体は一致する。しかし有限を見る時は、部分の総和が全体となり決して部分と全体は等しくならない。生命においても一人の人間の生命が宇宙という生命と部分と全体において全く同じ発想で語ることが出来る。宇宙を有限とすれば一つ一つの生命の総和が宇宙であると考えられるが、宇宙を無限とすれば一対一で対応していくことになる。
 宇宙を有限とするか無限とするかは、その視点によって異なる訳である。現実に無限とも思える我々の宇宙も物質系の内に創出される一つの宇宙とみれば有限となる。無限の概念は、仏法より観れば「時」の本有常住なのであるが数学や物理学では、その対応が複雑になってしまうことになる。仏法より観た生命の思索なくしては無限は無限のまま放置されてしまうことになる。いま寿命を持つ有限の物質の単位を銀河系にしておきたいと思う。勿論一つの銀河系は他の銀河系に影響される存在であるが、一つの銀河系が有生出在より無死退滅する期間を仏の寿命と考えるからである。そうすると宇宙には無数の仏が存在することになる。この仏達を統合する根源の仏が必要となる。

日蓮は、この根源の仏を南無妙法蓮華経と名付けた。しかし日蓮仏法においては、無数の仏の存在は無数の知性を持つ生命体の存在を認めるだけで神のような根本仏を必要とはしないのである。しかし、教理的にその存在を認定する方途として、無数の仏を教理的釈尊あるいは歴史的釈尊として、これらを統合する根本仏に対して釈尊一仏論を掲げるのである。そして統合仏の実在というよりは、生命そのものの実在を釈尊一仏論によって観るのである。我々が把握している時間の初めは、我々の銀河系の寿命より発している。従って銀河系の内における時間は、銀河系という空間と共に実在することになる。寿命が時間と空間の質を決定し、寿命が時間を、時間が空間を支えているのである。そして空間が時間を左右すると共に時間が寿命を左右するから、ある単位において寿命が異なることになる。一つの銀河系に幾つの銀河があり、幾つの太陽系が存在しているかは定かではないが、その一つ一つの太陽系が異なる寿命を持ち、さらにその寿命が尽きても銀河系内の部分的変化にすぎない。人間の寿命についても個人個人の寿命の違いも同じである。地球が無くなれば個人の寿命など関係なくなる。
 境智冥合されて顕現された空間は、「行」という時間性を持つことになるが、寿命はこの「行」という時間性を根本的に内在しながら顕在化、構造化された空間の特質となる。そして、寿命は、空間が顕現したときに持つ寿命と、命終して冥伏したときに持つ寿命がある。蓮華は、顕現時の寿命の根源的「法」であり、妙法は、冥伏時の寿命の根源的法である。この妙法と蓮華の二法が、不断の連続性を持つことによって妙法蓮華という一法に集約されるのである。これを衆生にあてはめて説く時、妙法蓮華が衆生本有の妙理と言われる所以である。  
     
第五項 時間次元の生死観

我々の時間は、我々の銀河にあっては同等同質の時間である。しかし我々の時間のみが時間の全てといえるだろうか。何故このような疑問を投げ掛けるのかというと、宇宙と生命の関係を思索するとき、この二つに共通する不可思議な実態の裏にあるもの。それが時間だと実感するからである。
 本質的に宇宙生命と人間生命が同一なら人間は何故、死を恐れるのだろうか。むしろ同一に帰する方がより本能的な欲望だと思うのだが。人間の迷いは、同一に対する無知から来るというより本能的な迷いが生じているのではないだろうか。単に無知なら知ることによって解決するし、生に対する執着が以上に強いといっても死は確実に訪れることを人間は知っている。人間は本源的自己へ帰することに何故本能的に恐怖するのだろうか。
 人間は、死によって本来の生の意味を覚るからに他ならない。生ずる以前の約束を思い出すからと仏法は説く。その約束の不履行による罰則に対する恐怖である。恐怖というより悔いであろう。やるべき事をやらなかった後悔である。従って本来人間として生まれてやるべき事をしていないことを本能的に察知するから死を恐れるのである。死は、生の本来的目的を自覚する為の縁と捉える事が大事だと思う。死への不安と恐怖を「他者への思いやり」が「死の受容につながる」といった発想は、仏法を知らない国土の人間による誤った観念である。
 人間の生命は、死をそのまま受容する程軽いものではないと思う。銀河系という広大な宇宙という非情界にあって、人間という有情が占める割合が限り無くゼロに近い事は、それだけ有情を支える為に必要な非情の量という事だろう。宇宙は、限り無い広さと調和を保つとはいえ、有情の量を限定せざるを得ない程、有情の存在は重いと言わざるを得ない。そして有情は、自らを支える膨大な量の非情を左右してしまう力用を内在しているのである。銀河系宇宙を僅かな人間の生命が左右させることが出来ることを考えると、人間生命が尊貴な存在として光輝いて見える。このような宇宙と人間生命の関わりは、時空間的ではあるが、なかんずく時間の無限性において両者の同一が語られる所である。
 物質系の時間は、時空間系の六次元と不二系の三次元を内包した一次元として顕現すると仮定してきた。この物質系の寿命は、系としての寿命に内包されながら系内に存在する全ての物質が固有の寿命を持つことになる。生から死という現象的変化において一生を寿とし、生死の繰り返しを命とする仏法の生死観は、生命の寿量を現象として物質系内に見ようとしたものである。寿量は、寿命という時間感覚を有限という時間内において空間的に把握した言葉である。生死の変化相も時間の経過を無視出来ない訳で、一次元の時間に沿って現象として現れる空間の特質と規定してはいけないのである。この相の変化は、九次元を内包した時間の特質と観るのが仏法である。前にも述べたように時間は、物理学の対象にはならないので、生死の変化相と言っても空間的把握としてしか見ることが出来ないのである。仏法の生死観は、時間次元からの把握無しには理解出来ないのである。

 物理的発想による生死観は、生物における生から死、運動体の動から静、さらに存在から無への変化と言ったものである。時間次元の把握とは、寿命の顕現と冥伏の変化相という視点である。寿命の二極性における変化相は、それぞれの否定ではない。この場合の変化は、時間次元の実数部分から虚数部分への移行というより、相転換とも言うべきものである。生と死の連続性を語る時も同じで、死を生命の変化相と把握する場合も変化による生の否定ではないのである。
 さらに仏法では、一切の物質を有情と非情に便宜上立て分けて観るのである。そして有情から非情への変化といった生死観ではなく、有情の生死と非情の生死を同等に扱うところに特徴がある。有情であれ非情あれ「生の状態」を顕現といい、「死の状態」を冥伏と表現したりする。その意味において人間の日常における生命活動は、生死の繰り返しをしているといえる。例えていえば心の様々な変化は、顕現と冥伏の繰り返しなのである。今、冥伏された状態を死と呼ぶ時、顕現されたものは有情の肉体であれ精神であれ、又、非情の草木であれ生と呼ぶのである。即ち顕現されたものは全て「法の蓮華」とし、冥伏されたものは全て「法の妙法」として、顕現と冥伏の寿命の二極性は「法の妙法蓮華」と統合されていくのである。
 人間の肉体だけを見たとき、それがいかに複雑に組織化されているとしても非情の域を出ない。物質そのものである。生きている物と死んでいる物や初めから生きていない物といった区別より、物の構成が高度に組織的であるかないかの違いだけなのだろう。空間系内に顕現する物質は、限り無く百パーセントに近い非情の生命なのである。この微小の有情の生命が顕現されたところの知性ある生物としての人間の不思議さを感じない人はいないだろう。人間が何か特別な存在に見えるところでもある。分子生物学者からみれば、この有情と呼ばれる人間の生命を、現象として又、物質の特性として説明がつくものと思っているらしい。
 人間という物質は、大半が非情で構成されているにも関わらず有情の部分に左右された存在として、人間自身の全てが有情に思えてしまうものである。その意味で人間は、他の物質や生物と明らかに区別された特別な存在と規定したくなる。細胞単位でみれば全てが非情の世界である。有情の部分が何処にも無いようにみえる。従って人間の生命現象を含めた全ての精神作用が、生物進化の過程における奇蹟的偶然の産物であると結論する人も出てくるのである。仏法的生命論から観れば有情の部分も元来、後から生じたものではなく初めから生命に具わったものと考えているのである。人間は、この有情の部分の発動性が他の物質に比べて強く顕現したと考えるのである。そして非情は有情の存在する場として有情を支えており、有情は非情の存在を左右するといった相互関係が成り立っているのである。支え会いとしての共生の思想は、有情内の関係であり、有情・非情は、支えるものと左右するものの共存の関係になる。

 この有情・非情の関係性を三千論で語ろうと空間論的である以上、生命の本源を語り尽くしたとはいえないのである。さらに、瞬間瞬間に変化する人間の一念を三千論に冠しても、空間の行としての時間性を語るだけである。日蓮が「久遠即末法」という時、時間次元の中に空間次元を内包させた表現となる。久遠時も末法時も「時」であって、この二つの異なる時間を即で結ぶのは、先に述べたように転換ではないのである。即とは体を改めないで性を結ぶ時に使う言葉であり、時間的媒介が不変の性なので結ぶものは不変の性分ということになる。久遠と末法は、明らかに異なる空間ではあるが、性分として共通項を持つ故に即で結ぶことが出来るのである。不改の体を前提にしている訳で、久遠の体から末法の体へと改める必要が無いので久遠の衆生は、末法今時の衆生となるのである。
 物質系に存在する現実の体の性分は、時空間系の性分と一致することを意味している。
物質系の原点を久遠元初とするのは、物質系を生成したところの不二系との即論となるのである。さらに、時間系の「徳」を内包した空間系の「位」は、不二系と物質系の性分を決定するのである。久遠即末法の原理は、単に時の即論だけではないのである。また、日蓮が単に自己の本地を久遠に置いただけというのでもない。日蓮の即論は、天台史観を越えたものとして、新たなる史観を生むのである。それが種脱相対という第三の法門と名付けたものである。種脱相対は、日蓮独自の時空間論であり久遠即末法という時間論を内包させているのである。
 種から脱への時間の経過は因果異時であるが、日蓮仏法における種とは、久遠の下種は末法今時の下種となる。人間の生命に仏となる種を植えることであるが、植える者と植えられる者といった対立の概念で捉えると間違いを犯すことになる。このことについては次章で述べるつもりである。ここでは、種という概念が、初めから具性されていると考えないで、下種の時が久遠であれ末法であれ別に植えるという面に注目したいのである。具性されているのは、仏性であって仏種を植えるための大地と考えればよいと思う。
 久遠元初を物質系の原点、即ち不二系の不二点とする時、本因を久遠元初とし本果を末法にする事によって、本因の行は本果の徳として末法に顕在することになる。これが物質系の時間性である。不二系の時、依正は不二点において物質系の空間性を表し、この事象に種の概念が、仏位の本因の行としての下種となって表現される時空間論となる。日蓮は、種脱相対して下種益の仏法を確立した訳であるが、これによって、久遠より末法に到る一切の空間を即で収束させて、時間次元の中に空間次元を内包させたのである。

久遠の空間と末法の空間は、行の本質として変わるものではなくても、空間的には久遠は過去であって現在ではない。過去と現在を即で結ぶことは、異なる二つの時刻に起きた二事象が同一空間であることを説明しなくてはならない。同じ様に久遠の空間と末法の空間という異なる二つの空間に起きた二事象が同時刻での事象である事も説明しなくてはなならない。これら二事象の観測者は、絶対静止系に立たなければならない。日蓮は、その観測者を仏とし、仏界を絶対静止系としたのである。日常的には立てない立場であるが、日蓮は、菩薩の行の中にその観測者としての自身を自覚したのである。
 久遠即末法の原理は、時間次元の行によって空間次元の行の位置と運動量を確定する原理となる。行は、時間でありエネルギーでもある。久遠の行を末法に移すことが出来るのは、空間そのものが時間に左右される存在であることを意味している。時間の行の現在性は、空間の行の現在性を左右するのである。末法という本果に対する本因は、無限に設定出来る故に、時間の現在性を確定する時、そこが物質系内であっても時間次元の二次平面座標より物質系の時間性を因果倶時と表現出来るのである。相対論でいう時間とエネルギーの間の不確定性原理は、仏法でいう行の概念の中において説かれるところである。これまで述べてきた時間系を図にすれば、もう少し分かりやすいかとは思いますが今回は、略させてもらいます。
 時間系における久遠の行とは、「徳」軸である。この軸の確定した一点を「法身」とし根源の一法と呼ぶ。その一点より直交する軸を「因」と「果」とする。一因に対して果は無限に存在するので、果の一点を決定する必要がある。それが「縁」と呼ばれるものである。この因と縁が果を確定することになる。法を原点とする因果の二次平面において、因縁果で確定された具時点を「報身」とする。「法」と「報」の違いは、因果の原点と因縁果のベクトル和の違いである。この二次平面上は、どこをとっても具時点の総和であり、確定した具時点である「報」を因縁果報とも因縁和合ともいう。さらにこの具時点より創出する新たな軸を「応」軸とする。「応」軸は、空間系の時間軸ともなり、「応身」と呼ばれる空間系の「行」軸となる。時間系の三身は、教理的「法身」に集約されて一身となるが、「徳」軸としての「行」の時間性は、虚数時間を内包させながら本有常住として空間系を創出し続けるのである。このような時間系を死と呼び、空間系を生と呼ぶ関係が私達の物質系の世界から観れば共に冥伏された有情の本源なのである。

第六項 教理的釈尊と時間の行

 教理的釈尊、即ち久遠仏とは何かという根本的な問いは、仏法における最重要課題である。天地創造の神の如きであれば、それはそれで終了してしまう。釈迦仏法における法身仏は、原理的に神と同一視されるところがある。しかし法身仏は、応身仏として歴史上に具成することによって法身の存在を証明することになる。応身仏は、神の子と同様に助証の役目となる。そして衆生と仏は、常に救済の対局に存在する存在として歴史に構造化されていくことになる。
 しかし、神と悪魔のように仏と対立する対等の存在はない。仏法上の魔は、天界の主であって仏界ではないから、仏にとっては相手不足なのである。従って魔のほうも仏を相手にしないで衆生が対象になる。仏と魔の対立は衆生を戦いの場とするのである。ベトナムでアメリカとソ連が戦うようなもので、衆生としては大変に迷惑なことである。衆生は、仏と魔の両方を相手にすることになる。混乱すると何方が味方なのか判らなくなる。しかもこの三角関係は、一本の綱を両方から引っ張り会うような状態ではなく、仏と魔の二次平面上を衆生がウロウロするような姿なのである。この衆生の位置と運動量が不確定性を持つ故に、衆生の動揺が見えて悲しい。衆生は、本当に成仏出来るのだろうかと不安にもなってくる。
 仏の生命を本質我とする時、この我に対抗するものを魔だとするのが誤りなのである。仏を善として魔を悪にするような対立概念の設定は仏法的ではない。そこで仏法は、衆生自身の菩提を善、煩悩を悪として自身の内部抗争に仕立てることになる。しかし何が菩提で何が煩悩なのかという基準を設けて置かないと自身が迷うことになる。それが説法であり、また感応、神通、眷属、利益等となるのである。人間という知性を持った生物が存在することによって、生命は実に複雑な様相を呈することになってくる。そして生命の存在に対しても、生命が存在する以上その生命に対立する概念を設定しようとする。非生命の存在を仮定しても、生物と無生物のようには上手くいかないのである。そこで設定可能の範囲にまで生命に対する規定を変更することになる。従って「宇宙即生命」というふうに生命の規定を拡大することを嫌い、より狭めていくしかないのである。
 正反合の思考は、現象に対する方法として有効であっても、生命に対する思考形態としては不適合である。生命を物理系の中で確定しようとするところからくる無理がある。生命は、物理系の内にも外にも存在し、しかも孤立した物理系を持たないものであるといえる。「仏とは生命そのもの」という規定は、仏という存在を孤立した系から普遍性を持たせる意味で述べたものである。カントの言うように純粋生命の存在を証明するために、純粋理性批判から自由の体験を通して実践理性批判を主張するといっても、無条件者の存在を人間以外に置かなくてはならない故に小乗仏教的である。例外なきアプオリは、因果原理ではなく、人間の存在そのものといえる。人間の存在が、宇宙創世より例外的な存在とするのではなく、必然的且つ普遍的なものであるとする人間論が大事なのである。

 人間の意識を内の世界として、外の世界と対立したものと把握するから、主観の産物としての外の世界になったり、外の世界の規定性の影響によって主観の中に生ずる観念となったりするのである。実在する世界の時間・空間の存在形式は、感覚的な存在でも観念的な存在でもない。このような観念が生ずるための必然性や規定性をあえて存在させることこそ観念的である。生命は、実在そのものの本質として理解していかなくてはならないだろう。物体の延長や運動も生命が織りなす特質の一部なのである。時間・空間とは、生命的存在ということである。
 そこで久遠仏の生命を時空間より考察していくことが必要となる。久遠仏とは、時空間を統一する根源的法則としての釈尊の事であり、教理的には釈尊一元論となるのである。釈尊観は、諸仏の生命的統合の概念となっていくのである。この場合の統合とは、生命次元での系列性として、自己顕現の順序性の構成と秩序性の保持を意味する。第一章で、教理的釈尊も歴史的釈尊も、教主釈尊としての自己の現在性を確定するために用いてきた。即ち、自己自身の存在の釈尊論的根源性を教理的釈尊とし、釈尊の人間論的普遍性を歴史的釈尊としたのである。教理的釈尊が、久遠仏と同義とし、生命の釈尊論的根源性を時間系、空間系、不二系、物質系という生命次元より述べるのが仏法の生命論である。
 時間系の時間性と空間性も、空間系の時間性と空間性も不二系の時間性と空間性も物質系の時間性と空間性も全て「行」による統合と表現されている。人間の時間性、空間性、不二性は、何もパスカルの秩序やカントの三つの次元を真似したのではない。仏法より観た生命に対する考察より導かれた人間論としての三次元である。人間という物質に具わった時間性、空間性の本質を鋭く見抜いた仏法の英知ともいうべきものである。これらの三つの系における時間性は、本源的に虚数時間が相転換されたものであり「行」としての時間は全て寿命を持つ有限の実数時間である。 また、寿命は、「行」の始めと終わりの期間であるが、「行」のエネルギーは時間性となって顕在化される。三次元の時間系の中に新たに創出される「行」の存在は、四番目の軸であり、この「行」軸の一点を確定するのに時間系よりみると四つの変数となる。「行」の原点は、三次元座標の三つの変数で決定されるが、(この三次元座標は、直交でも斜交でも回転放物体でもよい。判り易いので結構である。)「行」軸の一点は、空間系によって確定されるのである。
 時間系だけでみれば変則の四次元座標となるが、我々の物理的世界における時空四次元で考えている時間とは、少々異なる四番目の変数なのである。時空四次元は、四つの変数によって位置と運動量を認識する為である。即ち人間が認識する為の便宜的な四変数であって、感覚的事実と真実とは異なる場合もあると思う。私達が認識する時間が、物理的量としての時間だけでなく虚数部を含んでいても不思議ではないだろう。否、むしろ虚数部の時間が真実の姿であると考えるのである。「時間の行」も「空間の行」も「時空間の行」も実数時間として虚数時間が顕現されたものと考えた方がより真実に近いのではないかと思える。

 久遠は、負の実数としての過去ではない。過去は、時間が顕現から冥伏に到った相転換であり、虚数時間内のある一点である。久遠即末法という時の即論は、虚数時間のある出来事と実数時間のある出来事の即論である。このような即論が成り立つ為には、実数時間の現在性に虚数時間が実在として常住していることを前提にしている。実数時間と共に常に実在し続ける虚数部が、仏法の不思議な時間概念を理解する鍵なのである。教理的釈尊は、架空の釈尊ではなく、また、法身仏としての理論的な釈尊でもない。応身仏としての「行」を伴う実存である。この「行」を「時間系の行」として観るのである。
 日蓮が久遠仏を自覚する時、自身が釈尊の再誕というより、人間自身の本地を教理的釈尊にまで遡れることを人間の代表として示したといえる。菩薩の行の現在性より時間の虚数部の認識は、九識心王真如都を覚知したといえる。時間の一次元にみえる私達の世界にあって、日常生活の中で「時」の九次元を実感することは、智慧の発露としての悟達である。時間の本質を実感することによって、現在の生の実感より未来及び過去の死の状態を実感することができる。生死の本質は、かくの如き生命的実感を体験することによって覚知できる。生と死は、互いの否定ではなく生死の不二性を観ることが出来るとしたのが仏法の英知である。
 生死不二の思想は、妙楽の十不二論には無いし、日蓮の遺文にも出てこない。しかし、生死不二は、生即死という生命の本質を物質系より把握した結論なのである。時間系内に空間系を創出できるエネルギーは、法身仏、報身仏より創出された応身仏の「行」となる。時間は、その特質としてエネルギーという一面を持つことになる。この三身仏は、人間の存在の根源性である。根源性を三身仏と観ることは、我々人間の存在を釈尊論的根源性へと導き、さらに全ての物質が、本来的に教理的釈尊の「時間の行」の顕現であると結論されていく。生命の本源に向かって人間の智慧は指向する。無量ともいえる非情界が、微小の有情界を支える存在である以上、その有情界の代表・主役である人間が、自身を支える無量の非情界を実感することは不可能とは思えない。
 光の時間性と寿命について述べて置きたいと思う。「行」はそれぞれの系の時間性であり、空間系の時間性は「時間の行」である。不二系の時間性は「空間の行」である。物質系の時間性は「時空間の行」である。時間は、人間にとって光を代表とする波動エネルギーの別名である。波動は、時間の象徴的存在となる。寿命の経過は、時間系より創出された「時間の行」である。そして空間系より生ずる「空間の行」は、不二系の寿命である。物理的宇宙の寿命は、不二系より創出された「時空間の行」の進行となる。現代宇宙論に見られる宇宙の膨張と寿命は、本質的に異なる視点である。空間の膨張によって時間も拡張されることになるが、これは、空間を主体として見たもので、空間の距離をそのまま時間で表現させただけである。時空間の膨張によって何光年もの時間を創造したことになる。そして仮に膨張が停止すれば、時間の創造も停止する。空間が時間を創造する。あるいは、時間が空間と共に創造される。時間は、単に空間の付嘱物としての位置づけとなる。または、空間内に構造化された時間として制約された存在となる。

 空間の変形は、そのまま時間の変形として表現される。空間の距離は、基本的に光の速度を基準にしている。光速度不変の原理は、時空間の歪み等にも関わらず不変である。しかし、光速度は、時間で表現される。三十万キロの空間を移動した光に対し一秒の時間を与える。この場合、一秒と三十万キロは、同等の扱いとなる。生命論より観れば空間の変形は、空間の部分的活動の状態あるいは成長と考える。成長は、寿命のエントロピーの増大といえる。仏法より観れば、光速度が有限で且つ不変である事に問題を生じることはない。又、物質系においてこれらの性質が存在することも何ら問題を生じることはない。
 光は、照らすことに意味を持つ。照は、焼と対になって火の特質の一部である。火は、五大の一つであり生命の特質の一つである。十方世界を照らす為には、速度が不変の方が平等性を有する。照らすことは仏の慈悲の平等性を表現する場合に用いたりするが、要は人間が、知覚するのに必要なのである。釈尊が他方の国土を照らすのも衆生に見せるためである。実際に光が無ければ人間が生存していたかどうかわからない。有情を支える非情の特質の一部であろう。仏の力用によって光速度が変わることも考えられるが、むしろ仏は、時間を自在に操作する力用を持っているらしい。時間の方が変化する対象となっているのが仏法である。仏とは、時間の観測者といえる。時を創造する主体的生命の存在としての人間の力用ともいえる。時を創造するとは、新たな「時間の行」の創出であり、ある時点での移動時間ゼロの水平移動を可能とする時、移動後のポテンシャル・エネルギーが新たに創出される「時間の行」となる。また、宇宙を生命の本質我と規定するとき、本質我の波動エネルギーを仏の力用というのである。
 時間系という因果徳の三次元は「時間の行」によって空間系の寿命を決定している。この空間系の寿命は、また物質系の寿命をも決定していく。物質系における寿命は、「劫」と呼ばれる。「劫」は、時間や空間の量の単位だけでなく、エネルギーの別名でもある。「劫波、劫跛、劫簸」と表現され、「劫」は「波動と粒子と網目状」をその特質としている。これらのエネルギーを総称して生命力と名付けている。その中で波動エネルギーは、電磁波等で知られている。そして、光を含めてあらゆる物質に存在するのであり、光もまた寿命を持つのである。生命力は、生命の動的把握における基本的な波動関数でもある。ある劫を持つ物質系の時空間の総体を寿命というとき、寿命は、劫と時間と空間が織りなす生命現象ともいえる。そして、生命力の強弱は、「業」に基づいて決定した差を生ずるのである。



生命論序説 第ニ節  歴史的釈尊と空間の行
生命論序説 第ニ節
第一項 生命史観
第二項 空間系の三次元
第三項 生命の静特性
第四項 生命の本質我
第五項  空間次元の生死観
第六項  歴史的釈尊と空間の行
 




第一項 生命史観

 空間の変形は、そのまま時間の変形として表現される。空間の距離は、基本的に光の速度を基準にしている。光速度不変の原理は、時空間の歪み等にも関わらず不変である。しかし、光速度は、時間で表現される。三十万キロの空間を移動した光に対し一秒の時間を与える。この場合、一秒と三十万キロは、同等の扱いとなる。生命論より観れば空間の変形は、空間の部分的活動の状態あるいは成長と考える。成長は、寿命のエントロピーの増大といえる。仏法より観れば、光速度が有限で且つ不変である事に問題を生じることはない。又、物質系においてこれらの性質が存在することも何ら問題を生じることはない。
 光は、照らすことに意味を持つ。照は、焼と対になって火の特質の一部である。火は、五大の一つであり生命の特質の一つである。十方世界を照らす為には、速度が不変の方が平等性を有する。照らすことは仏の慈悲の平等性を表現する場合に用いたりするが、要は人間が、知覚するのに必要なのである。釈尊が他方の国土を照らすのも衆生に見せるためである。実際に光が無ければ人間が生存していたかどうかわからない。有情を支える非情の特質の一部であろう。仏の力用によって光速度が変わることも考えられるが、むしろ仏は、時間を自在に操作する力用を持っているらしい。時間の方が変化する対象となっているのが仏法である。仏とは、時間の観測者といえる。時を創造する主体的生命の存在としての人間の力用ともいえる。時を創造するとは、新たな「時間の行」の創出であり、ある時点での移動時間ゼロの水平移動を可能とする時、移動後のポテンシャル・エネルギーが新たに創出される「時間の行」となる。また、宇宙を生命の本質我と規定するとき、本質我の波動エネルギーを仏の力用というのである。
 時間系という因果徳の三次元は「時間の行」によって空間系の寿命を決定している。この空間系の寿命は、また物質系の寿命をも決定していく。物質系における寿命は、「劫」と呼ばれる。「劫」は、時間や空間の量の単位だけでなく、エネルギーの別名でもある。「劫波、劫跛、劫簸」と表現され、「劫」は「波動と粒子と網目状」をその特質としている。これらのエネルギーを総称して生命力と名付けている。その中で波動エネルギーは、電磁波等で知られている。そして、光を含めてあらゆる物質に存在するのであり、光もまた寿命を持つのである。生命力は、生命の動的把握における基本的な波動関数でもある。ある劫を持つ物質系の時空間の総体を寿命というとき、寿命は、劫と時間と空間が織りなす生命現象ともいえる。そして、生命力の強弱は、「業」に基づいて決定した差を生ずるのである。

 生命史観という耳慣れない用語に対し前に述べた以外に定義を示すことは必要ないと思っている。しかし、人間の歴史の本質を理解するうえで、生命を基底部に置いて捉え直すことが大事な視点である。それは、日蓮仏法における人間観を理解するうえで欠かすことの出来ない視点でもある。一言でいえば生命史観は、空間論的生命論の支柱であると言うことになる。史観というと時間論であり空間論ではないと思う人もいるでしょうが仏法で説く時間は、物理学的に把握する時間とは異なるのです。空間と同等に扱う時間ではなく時間次元のことを指すのです。従って空間も時間に沿って存在する空間ではなく時間次元の中に存在する空間となります。行為・行動・運動・運行に関わる経過という時間や過去・現在・未来といった人間の認識は、仏法においては「空間の行」の認識ということになります。
 私達が認識する物質系は、因果倶時と境智冥合を内包した不二系における依正不二点に創出したものである。この創出した物質の個性は、「固有の我」と呼ばれるものである。「固有の我」が物理的形相の差別化をもたらすのである。「固有の我」には固有の歴史を観ることが出来る。歴史というと生成から消滅までの変化をさす場合があるが、歴史を時空間の歴史と設定するとき、日蓮仏法は、この時空間を「生命そのもの」と捉え、歴史を根本的な生命現象として把握することになる。物質系の中にあって銀河系という物理的空間の有始有終を「種の寿命」と捉えると共に、その空間を寿命の一側面として観ることを生命史観と定義することになる。
 しかし、仏法では、今日の我々が定義する「生命」という考え方から出発していなし、
日蓮の遺文の中にも一度も出てこない言葉である。日蓮仏法を語るのに生命論とか生命史観とか生命次元といった言葉を使用するのは、法の奥底にその意を読み取っていくからである。それは、法華経と仏性の問題、仏身の無常と常住の問題等の論争に見られるところである。仏性という語が法華経にない故にその意としての語をみたりした。三大法師と法雲の論争も仏性や仏身の法体が、南無妙法蓮華経であることを説くことの出来なかった像法時代の止むにやまれぬ論争といえる。
 歴史を生命次元より観るとどうなるだろうか。人間の歴史といっても人間という物質は人間だけでは存在出来ないので、人間を取り巻く全ての状況、環境を考慮に入れて歴史をみることになる。しかし、人間の思考回路はとてもそれ程の広範囲の関係性まで含めて考察することは不可能と思われる。人間を主体とした歴史観は、それなりに重要な視点ではあるが、本質的な人間把握にはならないと思う。歴史観を問うことは、人間とは何かという永久命題を問う事と同じである。人間の歴史に対して、生命を根底に据えて見直すことこそ、現代思想に課せられた視点であると思っている。その生命に歴史があるのかと問われれば、人間に歴史があるから生命にも歴史が存在すると言う以外にない。歴史は、その空間の時間性と捉えるのである。そして空間の時間性は、空間次元の問題となる。仏法で説く空間は、時間に左右される存在として構造化されているので、空間が空間を存在させる力用を持たないのである。空間系は、生命の実相である妙法の「法」の特質を幾何学的に表現したものである。

 仏とは、「生命そのもの」という視点から生命史観を語ることは、歴史的釈尊の衆生の救済史となる。しかし、その救済史も生命次元より観れば、衆生の自己自身の革命と自覚以外にないことになる。歴史は、そのまま衆生の救済史となるのではなく、衆生自身の変革、人間革命の歴史となるのである。構造的には、仏による衆生救済の形態を取ってきた釈迦仏法に対し、日蓮仏法は、衆生自身の革命による形態を認めたといえる。従って仏と衆生が対立する概念として時空間内に構造化されているという釈迦仏法を越えたものとなる。もちろん教理的には、仏と衆生の対立という形態を取っていても生命が、その根源に存在する基本構造として現存すると考えるのである。しかし、人間から見ると未構造の部分は勿論、構造化された存在すら全て見ることは出来ない。それは、構造が空間的生命と共に時間的生命より成り立っているからである。
 人間の感覚は、四次元時空を感じることは出来ても、何故、今なのかという現在性を時間次元で把握する事が出来にくいのである。今という現在性は、空間的な感覚の次元ではなく生命的実感を必要とするのである。この実感と感覚の違いは、九識と六識の違いだけではなく、認識の対境そのものが異なるのである。実感と感覚を認識の中の一つ領域と考えたときは、生命の動特性に対する認識を実感といい、静特性に対する認識を感覚というのである。静特性を把握する九識論で考えれば同系列の思考の範疇のように思えるがそうではない。九識論は、生命の実体を認識論的に表現し、意識の淵底に存在されているように捉えたにすぎないのである。淵底が最後という保証がないので、底の底などという見方によって無限となってしまい数字の持つ意味が無意味なものとなってしまうのである。
 人間の感覚でいう今という現在性は、空間に沿って存在する一次元の時間しか見ることが出来ない。そもそも人間の持つ五感或いは六感は、物理的空間性の把握にとって必要欠くべからざるものであるが、時間性の把握に必要な感覚は意識だけである。意識がどれほど正確に生命の時間性を認識することが出来るのか保証されないのである。意識は空間に沿った形で存在する時間を認識するだけのように思える。仏法で説く仏の概念を人間の感性で把握出来る範囲は、その歴史性における空間論的部分間でしかないのである。時間次元での生命の把握が、教理的釈尊の覚知となり、空間次元での生命の把握が、歴史的釈尊の覚知となる。空間的把握は、歴史的現実相へと進むが、そのままでは生命の静特性で終わってしまう。法華経の迹門より三千論を展開し、本門で寿命の長遠を説くといえども、一念心中の理に留まれば観念的釈尊観の域を出ないことになる。時間を語るとはいえ生命の動的把握にはならないのである。日蓮仏法は、この本迹を迹として時空に統一する日蓮独自の仏法的生命把握である。生命という時空の行の統一体より現在を確定する「行の現在性の哲理」といえる。仏とは、「生命そのもの」の把握から生命の時空統一へと進む日蓮の生命観は、「久遠即末法」の時空間より根源的法を南無妙法蓮華経であると結論されていくのである。

 生命史観といっても結局のところ生命論的構造という現実の現在性から人間の歴史を見ることにつきる。生命の二極性としての顕現を空間の行という時間性という観点から人間の歴史を見ることは、歴史が単に空間にそった形で存在する時間の経過を意味しない。人間の知識や行為の全てが生命史観より説明出来たとしても、生命の「時間の行」の一側面にすぎない。空間的生命史観と時間的生命史観は、行の現在性においてのみ一致する。時間と空間の関係は、相対的存在、即ち空間が存在しなければ時間が存在せず、時間が存在しなければ空間が存在しないといった関係ではない。行の現在性における時間と空間は、「時間の行」が「空間の行」を支え、「空間の行」が「時間の行」を左右する関係となっている。「時間の行」は「空間の行」に先在して有であるから本有という。無始は、空間の時間性であって、この無始または無は、有に先在することはない。
 人間の生命の存在論は、衆生本有の妙理として時間に構造化された空間として存在するのである。日蓮仏法においては、この人間存在論を種脱相対して展開していくのである。日蓮仏法と言われる独自の仏法観は、この種の概念の本源的展開となり仏と衆生の対立を越えて衆生自身による下種から変革、革命の救済史であり、人間革命の主題ともなるのである。人間革命、それは、日蓮仏法の歴史観と同義異名でもある。
 仏法に生命という語はないが、寿命・命終といった「命」を使った言葉は多数ある。即ち「命」に対し「生と死」は無分別であるとし、「生命」とか「死命」といった使い方をしないのである。生と死は、命の顕現と冥伏の二極性と把握するから「生命」だけでは片手落ちになってしまうのである。従って生命論を語る時は「死命」をも含めて語らなくてはならない。この「生死命」を語るのに「種の概念」は欠かせないのである。
 万法の体を本質我とする時、固有我は自体顕照の姿となる。固有の我は、万法の体が自己自身に顕現されていることを知るのが智慧という。万法の体は、宇宙の顕現であり人間はその顕現された宇宙と同一種より顕現された存在として同一体となる。万法は教理的釈尊であり、自身は歴史的釈尊である。従って教理的釈尊の体は、自身に歴史的釈尊として顕現され得ることを知る智慧を「実感」と表現することになる。また、本質我を本種とし固有我を種子として、本種と種子の関係で述べることもある。本種を本因とする時は、本種が本果に向かう傾向性を強調する時に使ったりする。
 種の概念は、我の概念と異なり下種されて開花し実を結ぶという時間性に意味があり、
我の空間性とは異なる視点である。種の時間性は、歴史観の基底に存在する本質論であり我の空間性が持つ時間性である。従って、固有我が顕現されるとその我に種子が植えられることになる。第一章において一つの銀河団を生成させた種を本種とした。私達の銀河団は、同一種の歴史性を有することになり、同一の時間性を意味する。生命史観は、その同一種の同一性の時間性を観ることである。 

第二項 空間系の三次元

 時間系の倶時点を原点とする空間系は、その時間性を「空諦」としている。時間系の応身軸の一点を「空」と名付け、この軸を空間系より観たときに「位」軸という空間系の時間軸となるのである。「位」軸に対し直交する二つの軸を「境」「智」とし、境智位の三次元座標となる。境と智の二次平面上の一点を冥合点として不二系の原点とする。そして境と智が合する中に行を生ずる。空間系においても新たに創出する行軸が仮諦と名付けられたものである。冥合点を中諦と呼ぶのである。時間系と空間系の大きな違いは、その時間性が虚数か実数かである。そして実数は、顕現された時間性として「行」を伴うことになる。冥伏から顕現あるいは涌現への変化が境智冥合の基本的構造となる。空間系も不二系も共に原点を持つ。時間の原点ゼロの発想である。ゼロでは無と同じではないかと思うかも知れないがそうではない。時間ゼロの時点というのは、時間論的生命の「行の現在性」であって空間論的生命より時間を観れば「空間の行」の現在性は、常にゼロおいて実在するということである。時間論的生命の「行の現在性」は、空間的生命の「行の現在性」という原点ゼロの確定である。龍樹はこの原点を「空」と名付け、天台は境智冥合という表現によって「行の現在性」を歴史の中に顕現化させようとしたのである。
 境智不二は、依正不二と発想は同次元であるが、冥合は、異なる次元である。冥伏から顕現へと合し始める時を因と名付け、合し終えることを果と名付けときの因果は異時である。空間系が創出される本源的な因果は、時間系における因果倶時であるから、境智冥合という異時性も倶時をその成立及び運動も本質的に倶時を根拠としているのである。空間系の三次元そのものが、時間系の倶時点より創出されたものである以上、倶時の行としての異時性に過ぎないのである。しかし、この異時性が、物質系における歴史性となってくるのである。
 境智は、依正のように不二の存在とだけで把握するのではなく、冥合という「行」を伴う歴史性に注目すべきである。即ち依正の因果は倶時性にあり、境智の因果は異時性にあるといえる。そして、「位」軸が個別性を孕むのは、時間系における「徳」軸と同じである。この「位」軸の一点を「空」と呼ぶので、空に仮を孕む故に顕現における差別を生じるのである。境智位の三次元の空間系は、生命次元における三次元空間として不二系における空間性の本質的な空間論となる。「空間の行」は、物質の創造へと向かうことになる。顕現と冥伏の二極性を時間系と空間系より観れば時間系を冥伏の世界、空間系を顕現の世界ともいえる。また、生命の生死観よりみれば、妙とは死にして時間系となり、法は生にして空間系となる。従って冥伏は無ではなく変化相と把握するのである。仏法は、この妙法に集約された仏の生命を説くことに心血を注いだのである。

仏法は言うまでもなく仏の概念が一切の思考の原点である。仏の概念は、空間論的証明ではその存在を説くのに限界があった。時間論の徹底した探究より進む以外になかったのである。空間を無量無辺にせざるを得ないので、無始無終の時間と同等に扱い、時間と空間を共に本有常住とするのである。原理的には間違いでは無いと思うが無理をし過ぎた様な気もする。仏法における常住は、無条件の原因という始まりではない。従って空間を常住としたとき、空間を構成する法も常住となる。そして法聚としての物質もまた常住となってしまう。人間の感覚より三次元の物質を見れば、永遠不滅のものは何もない。そこで物質の根源を法として、本有常住の法より有始有終の物質が生成され続けるとするのである。しかし、物質が法聚であったとしても、法が法を生成することを意味するのではない。法そのものは生ずる主体であって生じさせる主体ではないからである。空間を空間として語ったのでは仏の概念から外れてしまうので、空間イコール法とすることになる。物質系の三次元の空間は、法聚であったとしてもその法自体が存在する根拠を三次元の空間内で語る事に無理があったのである。そこで無始無終の時間と入替える作業をすることになる。それが「久遠」の概念である。ところがこの時間が問題なのである。仏法で説く時間の概念が、人間にはなかなか理解しがたいのである。 生命の実相を妙法というとき諸法を蓮華と呼び、妙法蓮華は本有常住というのである。第一節は、妙法の妙、即ち実相の中の実相について時間系という座標を使って述べたのである。第二節は、妙法の法、即ち実相の中の諸法について空間系という座標を使って語っていくことになる。従って、空間系といっても蓮華という諸法における空間のことではない。実相における時間性と空間性であって、諸法として顕現した時間と空間とは異なるものである。人間が仏について語る時、これらを一緒くたにして実在すると説くから混乱するのである。仏が、時空間を創造したり飛び越えたり無視したり、時には極端に強調することによって衆生はますます混乱することになる。衆生が仏になるということが、何かとんでもない世界に足を踏み入れるような印象を持ち、挙げ句には不信に陥ることになる。第三節では、諸法の蓮華のうち諸法の中の実相である蓮華の華について不二系という座標を使って述べることになる。諸法の中の諸法については、第三章の宇宙論となる。第二章と第三章を合わせて日蓮仏法の妙法蓮華経となるのである。 本有常住は、空間の常住というよりは時間の本有常住を意味することになる。有や住は、我々が認識する空間を指した言葉ではなく無始無終の時間性において、常に顕現の可能性を有する意味での有や住となる。従って仏の顕現は、諸法としての蓮華であり、本有の妙理のうえから本有常住と言うのである。
 しかし、顕現されたものは、仏といえども寿命を有することになる。永遠不滅の仏と寿命を持つ仏の二つの存在は、法という空間性だけの説明では部分的にならざるを得ないのである。根源の一法とか根源仏とか真仏等々様々な表現も仏そのものに差別を設定しなくてはならない故の処置といえる。不滅の仏も寿命を持つ仏も根源的に同一だと後から付け加えなくてはならなくなる。無数の国土に出現する無数の仏が、根源において同一だとすれば無数の国土も根源において同一の空間を有することになり、無数の国土自体が観念的な存在となってしまう。そして全宇宙には、我々という地球人のみが存在し、人間を特別な存在へと高めることになる。無条件も無限定も空間性における条件と限定を否定することによって表現しようとした時間性なのである。
 時間系を三身で観て、空間系を三諦で観ることは、各系の時間性と空間性の特徴が解り易いと思う。空間系の三次元が境智行位で構成された歴史的釈尊となって、空仮中の三諦を内在する。時間系のエネルギーは、応身として表現され空間系のエネルギーが仮諦と表現されるが、この三身、三諦が物質系内に創造される全物質の本質的なエネルギーとなって物理的世界の空間性の特質として有情とよばれる所である。境智行位の行位は、空間系の時間性でもあるから時間系の因行と果位を内在しているのである。そして空間系に新たに創出された「行」は、不二系の時間性である。境智は位軸に対し直交する軸であるが、全て実数時間である。境智の二次平面はどこをとっても冥合点という事象の総和である。
 倶時と冥合の違いは、虚数平面と実数平面の違いでもある。冥合点は、境智のベクトル和であり、どこを冥合点にするかは、不二系の特質によるのである。空間系は、時間系と違って有始有終という寿命を持つため、空間系の時間や空間も、寿命を持つことを意味している。従って我々の認識する時間も寿命を持つのであり、これは、空間という時間の顕現の場の存在とは関わりなく、顕現した時空間の特質なのである。時間系内に創出された故に空間系を生といい、時間系を死とするのである。生死の二法とは、時空二系の別名であり、妙法の異名でもある。従って空間系は、本有常住とはいえないのである。無量ではなく寿量となり、生死の連続性という条件に無をつけて無限とか無条件といっても常住とは異なる次元である。有限内の連続性である以上、一回一回の生に完結性を見出すべきである。空間系における時間性の特質は、「空間の行」にある。この「行」は、不二系の寿命と劫を創造するのである。空間系が応身の特質をその基盤とするように、不二系は空間系の仮諦の特質を基盤とするのである。物理的世界における仮体や仮諦の意味の中に「因縁によって仮和合している」とあるのも、これらの時間・空間系の特質が具わっているからである。
 空間的生命の行が未来の可能性を内在させることが出来るのは、時間的生命の「行の現在性」という因果倶時と表現される原点を持つからである。この時空統一された六次元で表されるものが、妙法の基本構造である。 

第三項 生命の静特性

 境智行位で表現された空間系の四変数において空仮中の三諦は、「行」を伴う時空間の本質といえる。しかし、諸法実相を円融の三諦で説明するだけでは、生命の静特性で終わってしまう。三諦を構造的に説明し円融という自己完結型にすると、三諦の発動性という「行」の概念が欠落する。構造は、常に対立概念を生み続けて際限がなくなるので、三諦が散体してしまうのを恐れて円融にしてしまう。欠けることが無いという完璧性は、時間性を無視した瞬間の生命状態、即ち、生命の静特性の説明で終わる危険性を秘めている。三身が一身に収束し、三諦が円融になったとしても三身即三諦における一身と円融は同等の意味を有する概念である。一身も円融もともに「行」を伴う時間性を無視したら本来の意義を失うことになる。「空間の行」を歴史化する事によって生命の顕現はなされ、日蓮による菩薩の行によって、再び空仮中の三諦は、生命の動特性として蘇ることになる。
 仏法は、実に様々な衆生の存在を認めている。釈尊の説法の会座に出現した多種多様の衆生の存在を、その特徴を持って分類し、それぞれの国土を設定することは空間的発想である。国土の差別による衆生の差別化は、人間の心の分類にも似ている。人間の心の一念を三千に分類して語ることは、楽しく判り易いともいえる。しかし、人間の一念に三千が具足するという考え方は、時間性や、何故、現在が確定された状態なのかといった問題を無視することになる。一念三千は、人間的生の瞬間から次の瞬間に、縁によって三千のどれにでもなれる性質を説いている。従って、仏にも成れる事を意味している。そこでどんな縁によって仏に成るのかを説かざるをえなくなる。人間の生命に内在する仏性は、縁によって顕現することになるからである。そして、仏の存在が必要になってくる。仏の説いた法の実践を訴える。それが「止観の行」である。
 一念三千論は、不確定性の全体図を構造化した理論といえる。縁によって瞬間瞬間に変化する生命といっても、縁の出現の仕方が不確定なのである。従ってそのルールや傾向性と言った表現にせざるを得ない。十界より三千の方が一瞬間に含む情報の量は多いが、この情報から未来或いは過去を知ろうとする事は、多分に天気の予報をするようなものである。生命現象の不確定性は、物理あるいは量子の不確定性における電子の位置と速度の関係に似ている。生命現象も現在の確定とその方向と運動量が不確定性のように思える。そして、生命の状態を確率的に把握しようとするのである。自然界の混沌さの量を熱力学からクラジウスやボルツマンが語り、情報理論としてシャノンが語り、生命論として天台が一念三千論を展開したともいえる。

 十界とは、生命の状態を十の範疇に分類したものである。その各界に十界を具足することから十界互具となる。一念三千が生命の実相であるという時の実相は、瞬間瞬間に百界の何処かに存在しながら絶えず縁によって変化する所の総称となる。しかし、変化の根拠は、縁の出現によって決定されてしまうので、結果としての状態よりも縁という対境の有り方がより問題となる。例えば今「人界所具の天界」から「人界所具修羅界」に変化したとする。この変化の因と縁は、何で決定されるのかという事を考えると、現実の人生は全て偶然性のように見えてしまう。人によっては、縁は因によって出現するので縁より因が決定権を持つと考える。そして人生は、偶然より必然の歴史となる。時間系の三次元のところで述べたように因縁果の関係は、因果の二次平面において一つの因或いは果に対しそれぞれの因果は無限に設定可能なので一対一で対応させるために縁が必要になる。一つの果に対し因縁の二因ともいえる。従って時間系においては、縁は「報身」に内在するのである。空間系にあっても空間系そのものが時間系内に創出されたものである以上、因縁果の影響下にあるといえる。時間系における縁は、空間系より設定可能とするのである。その意味において人生は、偶然性や必然性に左右されずに現在性において偶然・必然を観るという因果の自在性を前提にしているのである。人間の日常生活における様々な生命状態の変化は、全て過去から決定されているとはとても言い難い。
 天台の一念三千論や一心三観、三種の止観また伝教の三重の止観といっても諸法実相における空間的生命論であり、理の理の範疇を出ない生命の静特性論であると言わざるを得ない。法華経迹門の範疇より展開された一念三千、一心三観等は、真の天真独朗とはなり得ず、理は理であって事ではない。まさに理非造作である。空間の存在論は、空間内の一切の物質の存在を造作させるものであり、その意味において事の行となるが、空間を存在させる力用は空間自身にはない。空間は、時間とともに存在し、しかも時間に左右される存在として時間内に構造化されている。

 従って空間内における物質の造作は、空間とともに実在する時間性によって生じるので事となるのである。空間的生命論は、理の事の展開といえる。当然のこととして静特性は、現実に対応しずらい一面があるが、原理の把握のためには有効性を持つともいえる。但し生命を空間的生命として限定するという条件付きである。人間がこの世に生を受けた瞬間は、一念三千論でいえば何処の範疇になっているのだろうか。また、一念三千論は非情界にも適用されるので、例えば我々の太陽系は何界なのか。そしていかなる縁によって変化すると言うのだろうか。一念三千論が人間に限つて有効なのか。または、宇宙の物質といっても人間の主観の作用であるとして、人間の一念三千を語るだけで全宇宙は語れるとでも言うのだろうか。生命を語るのに人間中心に語るのは、語る主体が人間なので致し方ないといえる。しかし時空間を認識することの出来る主体者としての人間に偏り過ぎる思考方法は、宇宙の全てを擬人化することよって誤っ
た生命観を生む危険性を持つことになる。
 生命次元の静特性は、時間系にあっては「徳・因・果」の三次元で観ることによって行い、空間系にあっては「位・境・智」の三次元で観ることになる。このように静特性とは、各系の特質を系内の状態として語ることによって成り立つ理論である。しかし静特性は静的状態の把握なので「行」より観れば瞬間瞬間の変化を「行」とともに観ることによって別異に観える。静特性としての同一性と、「行」とともに変化する動特性より観た瞬間瞬間は、別異性を持つことになる。静特性は、例えば「我」について語る場合も固有我のの同一性において静特性を観るのである。言葉と定義及び対象についての同一性や別異性を語る時も、対象の特質による特性を静特性に把握するか動的に把握するかによって視点が異なるのである。そしてこれは、因果に対する思考とともに多くの論争の元にもなってきた。日蓮仏法に至って本質我を南無妙法蓮華経と名付けることによって本体と現象における関係性が明確になったのである。さらに自我に対する本質我の視点は、ものの存在における本体及び本質を論ずるのに、ものの自我を本体とする誤りから起こることを防ぐのに用いることが出来る。

 日蓮仏法における寿命の概念は、自己同一性を保証する。しかし、死から生における変化は、自我の同一性を同一性を保証しないのである。一回一回の人間的生の完結性である。本質我を本体とすれば、本体の自己同一性と自我の自己同一性は、本質我より生成された自我という限定された世界においてのみ保証されることになる。従って本質我という第一義的な存在性は、自我の変化に関わらず自己同一性を保持することになる。本質我が常住であって自我は、無常を特徴としているのである。故に自我に永遠の同一性を観たり根源を観たりする事は無いのである。人間にとって自我が自身の本体とする時は、寿命の期間において自己同一性を保持するから自我は本体となるのである。そしてこれらを言葉と対象で把握する場合の条件として考慮しておかなくてはならないのである。言葉の持つ意味としての定義に厳密には一致しないことになるからである。龍樹の「空」の論理も結局、本体の無い「空」なものとしか表現出来ないのである。龍樹が悟りの内容を言葉で表現しようとして苦悩した後がうかがえる。
 本体の論理と現象の論理は、本体を明示しない限り本体の論理を現象の論理では語れないのである。龍樹は、本体を南無妙法蓮華経であると言えなかったので、現象における名辞と現実の存在とが一致しないことを明かしながら、一切の根源、即ち「四句」を越え真実を知る中観者を設定せざるを得なかったのである。空間系が時間系より生じると言っても、空間系は時間系と同一でも無く別異でもないのである。依存性を空性というのは、時間系における縁によって報身を観て、その倶時点を不二系で考察すると如是性となる。倶時点より生じる応身は、空間系より観れば空諦であり、不二系より観れば如是性となる。さらに、空間系に生じる不二系の時間軸が空間系の仮諦となり、冥合点を中諦というのである。龍樹はこれを中道と呼び、「依存しないで生じたものなど何も無いのであるから、空でないものなど何もない」と語るのである。即ち「空」という本体があるのではなく、隠された単一の実在は、そのものに依存性は無いので「空」では語れない、「空」を越えた真実となる故に「空を空ずる」必要性を説くことになる。「空」を静特性とすれば動特性を「妙法」と定義するのが日蓮仏法なのである。

第四項 生命の本質我

 「空間の行」は、不二系の「時空間」軸となる。「時空間」とは、空の冥合点である中諦を原点とする仮諦のことである。この軸に直交する二つの軸を依正とする。依正は、不二系の世界であり、境智と因果の原理を内包する世界である。不二系については、第三節で述べるが時間系と空間系より創出された生命の「行」は、私達が認識する時間に近づいてきたと言える。
 時間系や空間系の設定は、「行」の創出に意味があるといえる。新たに創出された系であれ物質であれ全て寿命を持つ。さらに固有の我を持つのである。系の我と系内に創出したものの我は、その系において本質我と固有我の関係になる。時間系と空間系の持つ特質を内包しながら新たに創出したものは、固有の我を表出する。物質は、素粒子から宇宙に到るまで固有我を持ち、固有の因果と固有の境智を持って「行」という固有の時間性を持つのである。大海に流れ込む川の水のように固有我は、本質我の中に冥伏する。そして冥伏時の寿命を経たのち、再び、因果・境智の不二の力用によって冥合することを可能とするのである。素粒子には個性はないとされているが、同じ素粒子でも異なる寿命を持つ訳で固有の寿命は固有の我を持つことになる。物質の根源が素粒子だとすると、固有の境と智は、固有我という生命状態を保持しながら冥伏しつつ、顕現する時に固有我を持つ素粒子を生成し続けることになる。固有我は、本質我に冥伏しても「行」という時間性とともに顕現の場を持つことになる。
 物質系に出現する無数の銀河系宇宙であれ、系内の星々であれその寿命を質量や物質密度で語ることは、物理学が存在の相関関係を観測したりしながらその意味するところを探究する学問であるから致し方ないのであろう。しかし、宇宙あるいは物質の寿命は、現象を成立させている生命次元で把握しなければその本質は観えてこないだろう。物質が創世した時に同時に寿命を持っている。寿命は、時間性としての「行」と空間性としての「我」を内在させていると考えるからである。さらにこの「行」と「我」が固有の曲率を持つと考えている。寿命の曲率ともいえる。時空の歪みは質量によるという現象的観測結果とは別の視点で寿命の持つ曲項率を観るのである。創出されたものは、物質だけであるかどうかが問題になる。物質は素粒子から成るが、宇宙を創出した空間は、物質とはいえない。我々の宇宙が膨張する周囲の空間は、我々の考える物質空間ではないだろう。その空間内にビックバンやインフレーションが起きたと考えるなら尚更であろう。
創出された諸法の特質として曲率を持っているとすれば、現象としての質量や密度や曲率は、相対的な基準になっても本質的な解にはならず、相対としての無数の解を生むことになる。

 生命の本質我という場合は、固有我に対して使われる言葉である。我というと自我、小我、大我といった使い方をする。人間の本質的な我の存在を設定することによって表面的に現れている我の否定として使うことになる。しかし、本質我と固有我は互いの否定ではない。生命全体に存在する我と人間に表出している我を相対するのではない。生命全体を擬人化してはいけないだろう。「我実成仏已来」の我実は、「我が生命の実相」は仏なりと開覚することであり、「自我得仏来」の我と実相は共に冥伏部への問いかけとなる。それは、現在の自身を設定する為であり、現在性を表現するための空間的表現である。従って「我」は、空間系における「行」の一点を設定した時の境智の二次平面に対する視点の一つとなる。即ち境智によって確定される空間系の一点であり、不二系の時間軸である時空間の「行」の一点となる。人間的生より観れば「我」は、不二系における時間性の特質を擬人的に表現する言葉となる。
 空間系とは「法」の世界であるが空間系より創出する「行」の原点が不二系の本質我であり中諦である。即ち、時間系、空間系、不二系のそれぞれの系の原点である報身、中諦、如是性は視点によって人間に表出した「我」の本質我と呼べるものである。「我」の固有性は大海と川の関係といったが、固有我は本質我の中にあるのではない。「我」が表出し創世することは、法の創世であり固有の法となる。生命の「法」の特質が、創世時のポテンシャル・エネルギーによって固有の法と観えるのである。ポテンシャル・エネルギーの固有のエネルギーは、創世以前におけるエントロピーを減少させることによって平衡状態へと向かわせる力用によるのである。固有の法は、生命の法の部分的曲率を持ち続けることによって固有我というエネルギーの曲率を維持している。
 空間系の原点のポテンシャル・エネルギーが、本質我の総エネルギー量となり、さらに境智の冥合点によって独自の曲率は決定される。系全体の曲率とともにエネルギーの曲率は、その波動性とともに「我」の特質を創造することになる。時間系であれ空間系であれ不二系であれ「行」という時間軸の一点という静止状態において直交する二次平面上の無数の位置の一点によって「固有我」は決定される。因果の二次平面と境智の二次平面の違いは「我」の時間性と空間性である。時間軸の原点という本質我は、常に固有我の二次平面を抱えながら「行」の現在性を常住し続けるのである。従って固有我が本質我に冥伏するということは、元来、別々の存在が溶け込むようなものではなく「我」として存在し続けているエネルギーの部分的な顕現と冥伏の現象となる。

 仏法で説く「自我」は、西洋の深層心理学でいう意識とは違う。「我」の根源は、仏の四徳のうちの「我」である。したがって第七識の煩悩のうち我癡、我慢、我見、我憂といったものの「我」も、第八識の自分自身の愛着である我執の「我」も、固有の我にすぎないことになる。そして、各識の我の本質を覚知する力用を智慧とすることになる。従って「我」を心理的に探究すれば第九識の当体である南無妙法蓮華経の力用即ち智によって以下の識を本質我へと向かわしめる必要をのべる以外になくなる。人間的生において人間の意識(第六識)の当体は人間そのものであるが、第九識の当体は南無妙法蓮華経となると人間イコール南無妙法蓮華経となる。日蓮仏法においては、当然の帰結であるこの考え方は、意識を持たない土や石といったものと人間を差別する生命観を産んでしまうことになって矛盾する。第九識の存在を認めるとしても「識の当体」ではなくむしろ当体あるいは法体の識とした方がよいだろう。九識であれ、十識であれ、どこまで掘り下げればよいかを数字で表現することに意味がない。要するに当体の存在が大事なのであろうと思う。そして法体に人間の持つような意識があるとは思えないから「法体の識」というよりは、「法体の我」として本質我と呼ぶのである。この本質我の当体を日蓮は南無妙法蓮華経と名付けたのである。
 固有我は固有のポテンシャル・エネルギーを持つと述べた。そしてエネルギーは曲率を持つとしたので固有の曲率を持つのが固有我となる。固有我の曲率を業あるいは業種子と把握するのである。さらに業種子は共業と不共業に区別される。業とは、時間を一次元として見る我々の世界にあっては過去の必然の報酬と考えている。しかし、過去の必然を現在において変革することは出来ない。そして過去の変革が不可能なら未来の可能性も革命としては存在しない。業によって縛られた因果律は、無始無終となって決定論的である。業は仮諦という「空間の行」に内在する性分であり、直交する依正の二次平面上を定常的に変化することによって変革が可能となると考えるのが仏法の境涯論である。定常といっても時間の変化に関わらず状態が変わらないという意味ではない。同時間の境界の変化、ポテンシャルの変化に伴う固有我の変革を意味したものであり、如是体の定常に対し如是性と如是相の変化を意味するのである。即ち、同時間において異なる曲率の原点を持つという二次平面上の水平移動となる。人間的生における宿業転換の原理は、これらの空間系の特質を不二系より創出された「時空間の行」という時間軸の一点で起こる変革を指すのである。

 固有我の曲率は、エネルギーとエントロピーの平衡状態を保ちつつ存在する。これは人間のみならず創生されたものの存在論的曲率である。従って死後の生存といった発想ではなく、死後における固有我の固有の曲率の存在を認めるのである。時間系を「死」、空間系を「生」とした生死の二法は、各系の創出した「行」の始終という寿命のうちにポテンシャル・エネルギーとしての「我」の曲率を持ち続けていくのである。人間生命の生死観は、単に死後に存在し生存する生命ではなく、また、人間の意識の根底が人間の死に関わらず存続するというものでも無いのである。エントロピーが増大し続け「生から死」への変化においてもエントロピーとエネルギーの力関係は、変化相として表出するその曲率は常に「行の現在性」におけるポテンシャル・エネルギーによって変更されるのである。「生から死」の時点のポテンシャルは、死後の曲率を決定し死後の時間軸と共に全体の曲率に従うことになる。これが生死の二法における冥伏の基本構造である。
 空間系を「法」とし、法のダイナミズムとしての空仮中の三諦論でもある。天台の三諦論は、諸法を根幹に法と実相の関係性を円融として完成させたものであるが、法のダイナミズムは、妙との関係性において動的でなければならない。現実の人間的生のみに限らず創出されたものは、その諸法の実相として円融であり続けるが、それも妙法の法の特質としての静特性に過ぎないのである。法は、時間系という「妙」より生じつつ円融としての完結性と共に新たなる「行」を生じる主体と成りうるのである。
 「空諦」は時間系の報身より創出した応身としての「行」の一点であり、「仮諦」は空間系の中諦より創出した「空間の行」である故に空仮中の三諦はそのままでは無常の存在とならざるを得ないのである。円融の三諦は法の原点としての報身より空間系を眺めながら空間系内で中諦を常住とし無常の空諦と仮諦を設定して三諦の相即を語ったものとなる。この場合は、諸法を空仮中に開き実相としての報身に収束されるのである。報身が空間系の本質我となり、中諦が不二系の本質我となる。

第五項 空間次元の生死観

 生きる事と死ぬ事は人間にとっても重要な問題であるが、人間的生を中心とした皮相面にこだわった考え方に偏よる危険を内在している。死にたくないという人間の感情は、確実に訪れる死に対する誤った生死観より来るものなのだろうか。生と死を永遠に繰り返すといっても一回一回の生という現在性は重要である。死が生を否定するものと考えれば死後の生命を説く意味がない。ましておや死後の生命の存在の肯定、否定も共に無意味となってしまう。日蓮仏法の生死観は、妙法観そのものである。生と死という現象は、不二系内の顕現と冥伏という二極性が物理的世界に表出したものである。この変化相は、冥伏時において冥合の時を待っているということになるが、物理的消滅に見られる寿命の概念で語られるところである。即ち、顕現時の寿命と共に冥伏時における寿命も存在することになる。生の寿命と死の寿命の設定は、仏法の生死観において大事な視点である。人間の生死は、物理的世界に顕現することと不二系内に冥伏することになる。生死の繰り返しは法としての蓮華の内の出来事、あるいは状態ということである。冥伏時の生命は、「時空間の行」に支えながら死の命終を待つことになる。
 顕現された生命の寿命を「劫」と呼ぶときは、生命力の強弱を時間論的に表現したものである。そして、冥伏時においてもこの生命力は、保持され生命の行は「空間の行」と共に活動し続けるのである。即ち冥伏の状態でも静止することなく、行の現在性を有していることになる。生命の本質我に冥伏した固有の我は、時間系の因果の座標と空間系の境智の座標と不二系の依正の座標の中で、常に行の現在性を確認する働きをしているといえる。そうでなければ一度冥伏した生命が再び顕現する根拠を失うことになる。開花した植物が種子を結び再び大地より芽を出すのと同じように冥伏時の生命は、大地に植えられた種子と同じく顕現の準備をすることになる。
 「空間の行」の特質は、時空統一の実相と時空統一の諸法の中間軸である。この「行」
を実相より観る時は経としての妙法となり、諸法より観る時は経としての蓮華となる。妙法蓮華経は、時空統一の諸法実相ということになるが、諸法の概念と実相の概念を結ぶものが「経」となる。妙法蓮華経より観れば諸法と実相は同体異名とも言える。

空間系の設定により時空統一の実相は、妙法という生死の二法として観る事が出来る。即ち仏法で説く生と死は、人間的生と死の本源的意味を妙法という次元で思考したものといえる。従って生命と死命を共に寿命のうちに把握したものとして生死・生死の連続性を観るのである。生の期間も死の期間も存在するとして共に「命」の特質と把握することになる。
 連続性は無限の肯定であり有限の肯定でもある。無限と有限は対立する概念ではあるが連続性より観れば決して対立しない。無限性があるから有限者の有限性は有限としての主体性を確立することが出来るのである。「空」という無限性が有限の人間の主体性の中核となって「妙」を観じる根拠となる。龍樹のいう「本体」とは単に人間の本質という限定された範囲ではない。四句のいずれも絶対的なものとしては否定するのが中観の真理である。従って「空」に執着するものに対しては「空」をも「空ずる」必要を説くことになる。日蓮は妙法蓮華経に執着しないために自己完結性に真理を見出した表現として南無を冠したのである。自己に自己する姿を本体の自己化とし南無妙法蓮華経と名付けたのである。衆生本有の妙理の四文字と法理としての五文字と自己化した本体の七文字の違いは釈迦仏法と日蓮仏法の違いである。単なる文字数の違いではなく日蓮にとっては七文字の妙法を顕すことによって文字即実相、実相即妙法の言語化を可能にしたのである。
 言語化による実在の固定化というが究極の実在に対し言語化しようとすると固定化という認識の概念が生ずるのである。この場合の究極は、多に対する一であったり、本質、全体、超越といった認識論的実在のことである。人間の中にあってしかも人間の外の実在は生命時間だと考えている。生命は、物理的孤立系を持たないのである。生命空間は生命時間の中に構造化されて存在すると考えるからである。生命空間より生命時間を知ることは認識ではなく生命の実感である。ことばと対象について龍樹は、「本体のない空なもの」であるといった。この「空」は虚構ではない故に「空」も「空ぜられる」対象となる。「空」は表現的に矛盾概念の否定という形態を持って語られているが「ことばの対象」という条件付きである。その意味において同一と別異を否定して本体のない「空」というのである。「空」は空間系の時間軸の一点であり「時間の行」の一点でもあるが、「空間の行」の原点でもあるから妙法という実相の中諦・中道なのである。

 妙法を日蓮仏法では有情と観る。これまで有情というと人間的生、感情の存在が非情と分かつ基準のように考えられていた。妙法を有情とすると蓮華が非情になる。人間には有情と非情が共に具わって存在しているが、人間は他の生物や物質に比べてこの妙法の部分の発動性が高い物質と考えられる。我々の宇宙は「蓮」の一字に摂入されていると考えれば宇宙は非情の世界において、妙法華が「時」に内包されて存在した妙法蓮華経の当体ということになる。そうであれば人間のみを有情とすることは間違いであろう。創世されたあらゆる物質に有情・非情は存在しながら有情の発動性の差による相の違いだけとなる。
 生死の二法は実相であるが、諸法には実相の発動性が固有我となって表層面に顕れてくることになる。蓮華における生死の相は、蓮華を顕現の場として妙法が表出することを意味しているのであって蓮華そのものに生死の二法を観ることはない。「蓮」という物質系に創出されたものは殆どが非情の世界である。その中にあって人間は、非情に支えられた微小の存在としての有情を強く顕現した存在である。人間が妙法という有情の生命を内包して顕現した非情の物質である故に実相を覚知することが出来るし、又、自身の生命より有情の本質である妙法を開き顕すことが出来るのである。その意味において人間は、自身の内に超越を内在させる必要も無く、自然の法則に逆らうことなく妙法を覚知出来るのである。何故、大部分が非情の諸法の世界にあって人間が有情の生命を強く発動していると考えるかは、妙法華という時間性を知的に感じるからである。有情の生命は、時間との関わりを実に知的にそして繊細に把握することが出来る存在なのだろう。
 人間の生も死も妙法が諸法の面に表出していることを覚知する為の素材と考えてもよいだろう。妙法華にみられる生命の時間性は、人間の本質へと開かれる扉でもある。時の流れの中に人間は、不可思議な相を実感出来るのである。人間は、時の移りゆく様相を見つめながら、時とともに自身の本質的な何かを実感する。人間という物質の固有我は、「行」の波動性を光と音を媒介にすることによって実感するのである。

諸法という非情界の中にあって光を「時」、音を「経」という波動性として存在していると実感するのである。「行」の波動性は、妙法という有情より創出された「空間の行」である。
この「行」が時間軸となって不二系を生じる故に、有情・非情に共有する「行」の存在によって諸法より実相を観ることを可能にするのである。
  光と音の「時」性と「経」性は、物質系に創出した時間の本性でもある。そして、この本性は物質の生死にわたって常住であり、物質系は時空統一の行の寿命が尽きるまで常恒である。人間だけではなく物質系内に創世されるということは、妙法という有情の生命の影響下にその存在が構造化された非情ということである。物質として顕現したものは固有我を持つ。この我は、物質の生死や有情・非情に関わらず存在する曲率によって波動性を内在する。
寿命の曲率は「劫」の時間性でもある。空間系と生命への様々な記憶、刻印との関係は、空間系そのものが時間系より観れば固有我であるから時間系内のポテンシャル・エネルギーを持ち、有始有終の寿命と原点を持っている。固有の我が歴史を刻印する場となるのである。「我」は生命の様々な現象を刻印する。そして新たに刻印され続ける。
生命の傾向性は、生死の寿命、有非情の寿命の曲率と共に不変ではない。行の現在性において無限のポテンシャルを設定出来るからである。固有我の形成は、時間系、空間系によって因果倶時・境智冥合の特質を内在させながら生死の二法が具わって形成される。さらに不二系において依正の不二性を加えることによって固有我の基本構造は完成されるのである。そして各系より創出された「行」という時間性と原点のポテンシャル・エネルギーを内包しながら独自の曲率を形成し寿命という生死を繰り返しつつ実在することになる。
 境智が冥合して創出された「空間の行」は不二系の時間軸であり「報」軸となる。「報」は業の報いといった意味合いである。業軸としてもよい。この不二系は三如是の世界であり、「空間の行」の一点を「体」と呼ぶ。空間系より観た「空間の行」は仮諦である。この仮諦を含む空間系を歴史的釈尊と呼ぶ。時空統一の実相という教理的釈尊に内在する歴史的釈尊である。実相における死の相を教理的釈尊と名付ける訳であるが、この生死の釈尊観は、釈尊一仏観によって貫かれている実相である。空間次元の設定により仏法の生死観は、生命の実相を妙法と表現することによって完成される。

 時間系においても空間系においても「行」の存在にその次元の全てが内包されているといっても過言ではない。従って時間の「行」は、時間系の全てを内包した応身であると共に教理的釈尊ということになる。この釈尊が生命論的に時間性を意味していて、空間系の時間軸となる。空間系より観れば「位」軸となって空間系の特質となる。空間系に創出された「空間の行」は、同じように空間系の全てを内包した仮諦であると共に歴史的釈尊ということになる。この教理的釈尊と歴史的釈尊を統合する概念を時空統一の実相という。実相は文字で表せば妙法となる。教理的釈尊の歴史性は、生命の実相の法である。法の歴史性は、諸法の根源となる。

第六項 歴史的釈尊と空間の行

 歴史的釈尊といっても実相の一面である以上、諸法の中の歴史的釈尊とは異なる。釈尊観より観た釈尊とは、「行」を意味するのである。実相の「時間の行」を教理的釈尊、「空間の行」を歴史的釈尊と名付けるのである。そして「時空間の行」を諸法の教理的釈尊とすることによって、我々の認識する物質系の時間を教理的釈尊と理解するのである。空間及び物質として創生されている一切を歴史的釈尊の「行」と定義することになる。時間が釈尊としての「行」だと言ってもピンとこないかも知れない。それ程に人間は、時間に対する実感が希薄なのである。
 さらに歴史性は、生命への刻印となって持続する。前項で生命への刻印は、固有我をその場としていると述べた。脳の働きによって人間は様々な記憶をする。しかし歴史を記録するのは脳でも識でもない。脳や識は、コンピーターで考えればバッファーと一時的な記憶部の働きであろうと思われる。記憶を蘇らせる意識の働きがどんなに優れて見えても生命に刻印された全てを脳の働きで説明がつくことはないだろう。肉体が滅んでも識は存続し続け、第八識に刻印されて持続するという幻想は、死後に生存する生命という矛盾を抱えることになる。一つの出来事に対し脳の記憶と識への刻印という別次元において二重帳簿を付けることになる。
 阿頼耶識とは唯識から出発して天台教学として完成された九識論のうちの第八識である。この識は、業種子において共業・不共業を内在する。阿頼耶識は、不二系の二次平面の不二点である「如是性」を識で語ったものであり依正は不二系の二次平面に業を内在することになる。生命への刻印が全て第八識で行われているというこの広大な識領域は「我」のポテンシャル・エネルギーであり時空統一の諸法より時空統一の実相を垣間見ることを可能とする領域といえる。しかし末那識を根源的自我とするのは、意識、五識より見れば根源と思えるだけであり、阿頼耶識も同じである。末那識における我見、我癡、我慢という我は根源でもないし又阿頼耶識の我執も実体視できる程安定ではない。

 肉体が滅んでも存在するものは命である。生命、死命という生の寿命と死の寿命は、それぞれの期間の連続を意味すると共にこの命に刻印されていくことになる。人間は死んだ後も命に刻印するものがあるのだろうか。人間的生においては、一人一人が異なる存在に見えるし刻まれる内容も異る別々の生命であろう。雨粒の一つ一つが別の命で、雨粒が集まって川となり大海に流れ込むように思われがちである。無数の命が集まって無限の命系を作りあげているようにさえ見える。この命系は、宇宙生命といったものを想定させる。単純で判りやすい説明でもある。真理と同様に人間の直観的な感覚的把握ともいえる。そして人間の命は永遠に続きながら命に様々な経験を刻印し続ける。命に刻印されたものを脳は再現するかのように思える。しかし脳は記憶しないものを再現することは出来ないだろう。命に刻印されたものは命で再現するしかないと思う方が自然だろう。脳は再現の場と考えるか、又、識と共に脳の存在に命を見るか人様々であろう。現代科学で究明しつつある脳の働きの不思議さはこれらの考え方を助長させたり又否定する考え方を助長させて論争の元になる。
 そもそも命に刻印されたものを識や脳で説明することが誤りであると考える。識をどんどん掘り下げてみても限度がなく、又、識の当体は人間である以上人間の限界を越えることはないだろう。そこで人間の内に超越を置くことになる。そして一度、超越してから現実に向かっていくことになる。九識から八識、七識、六識へと逆戻りしていくのである。さらに七識から九識までは命そのものの実体であるように説明していくのである。識は意識を持つ人間の存在に関わり無く存在し続けのであろうか。あらゆる物質が生命であるとすれば意識という自我を持たなくても識が存在してしまい、識は意識の延長あるいは根底ではなくなってしまう。九識論は人間に限るという条件付きなのである。創生された生命が有情であれ非情であれ又意識の有無に関わらず存在の根源を識するのは納得出来ないのである。しかもその存在は、過去に刻印されたものに現在の刻印が追加され、さらに未来においても刻印され続けるのである。歴史を記憶するのは脳ではなく又精神作用としての意識を掘り下げて見た八識でもないだろう。意識が記憶を蘇らせるからといって脳や識に全てを負担させるのは偏り過ぎだと思う。 
 歴史的釈尊の「行」は「法の行」である。しかしここで言う歴史は、物質系における歴史ではなく時間系より生じる空間系という意味である。実相の「法」の側面が諸法における空間性となって物質系という歴史的釈尊を生じさせる因となっている。故に「空間の行」の原点を中諦と呼ぶのである。
 第一節で述べてきた時間系も第二節で述べてきた空間系も第三節で述べる不二系も物質系より観れば「時間」の一次元に内包された時の本質なのである。時間についての種々の考察は実に様々である。観念の産物であったり、物理量で計れないものと言われたり、空間と切り離せない時空といわれたり、一本の矢であったり、過去・現在・未来と分けられたり、果てはアインシュタインの言うように「たんなる幻想」であったりとされたが、それでも時間は不可解な実在には変わりない。

 過去は記録や記憶の中で現存するので未来から現在を見るより過去から現在を見る方が判りやすいと誰でも思う。しかし、現実には未来に比べて過去の方が遙かに不思議な「時」だといえる。一度体験した事柄なので身近に感じるだけでその実態は真に捉えにくいものである。過去は現在の実数時間から虚数時間に冥伏していく。未来は虚数時間から実数時間に顕現してくる。即ち未来は確実に現在となるが、過去は決して実数の現在には成らないのである。過去の自分が現在の自身であることを人間的生の連続性において実感しているが、生まれる以前の自身に対して脳や識によって蘇らせることは出来ないだろう。釈迦や天台、日蓮も自身の過去に現存した人物を定めていないのである。脳は記憶する場を有している。どこに在るのかは別にしてその場を内蔵といい、蔵に内在するものが記憶の内容といえる。様々な生命現象を刻印する場を八識と言っていっこうに構わないともいえる。要は蔵と内容が存在する事実に注目すればよいのである。人間の肉体を主体とすれば脳が場となり、精神を主体とすれば識が場となる。生命を主体とすれば固有我が場となるのである。
 固有我を十界に立て分けて各界に種を内在させることによって仏界に仏種を内在させる考え方がある。この仏界と仏種を総称して仏性と呼んでいる。そして仏性を仏と呼ぶことによって人間の生命に仏を内在させて超越的内在としてしまう。一念三千論は、超越的仏の生命が人間の生命の内にも存在することを説くために、仏の実在を人間の外に置きながら人間に内在させる矛盾を孕む事になってしまった。人間が仏と同じ生命を持っていると言いながら仏ではなく仏に成れるとする。そこで本覚思想にならないように止観の行を説くのである。生命を法とするか蔵とするかは視点の違いによる。蔵は空間的表現であるのに対し法は時空間的表現である。内在する種は時間的表現である。従って法に仏種を宿すといった考え方も可能なのである。生命を法と観る時は創出した法の固有我が種々の場のエネルギーを内在することを前提にしているのである。固有我は時空間的に有始有終の寿命を持っている。法という視点は寿命を持つ法を蔵種の二元論で展開する空間論的生命論の基底部を構成するものとなる。
 実相面における空間系の三次元を「法」と把握するとき「空間の行」という時間性が諸法の「行」となることによって諸法の固有の我は、時間・空間を寿命と劫のエネルギーとして獲得することになる。固有我の時間性を「寿命」といい空間性を「劫」というのである。第一節の「時間の行」も第二節の「空間の行」も共に「釈尊の行」である。釈尊とは「時」であり「行」は「時間」を意味することになる。
 記憶や刻印といっても要は「釈尊の行」がその内容となる。時空統一の実相における教理的釈尊と歴史的釈尊の概念は、諸法に現出した様々な事象に対する根源的な視点となる。諸法のうちに見出される物理的諸法則が普遍性を持つ根拠ともなる。また科学者が歴史的偶然と呼ぶ事柄もその意味においては決して偶然ではなく歴史的可能性と歴史的必然性を持って歴史的現在性をみることが出来るのである。



生命論序説 第三節 釈尊一仏観と時空統一の行
生命論序説 第三節
第一項 生命の不二性
第二項 不二系の三次元
第三項 生命の行特性
第四項 生命の固有我
第五項 不二次元の生死観
第六項 釈尊一仏観と時空統一の行
 




第一項 生命の不二性

宇宙の創造主の存在を認めることは、その目的の存在を認めることになる。生命もまた同じである。生命は創造主によって目的を持たされることになる。そして目的が達成されるかどうか、されたかどうかは、創造主にしか判らないが、達成した時は、宇宙も生命もその存在の意義を失うのであろうか。
 宇宙の創造は、宇宙の破壊と表裏をなしている。創造できるのなら破壊もできることになる。しかし科学は、宇宙が神によらなくても破壊することを推測する。物理学者がいう「熱死」という自然法則は、熱力学の第二法則によりその不可逆性を信じられ、過去・現在・未来の分別の非対象性より導かれたものである。
 実相を時間次元(当体蓮華)の時間性と空間性という視点で把握してきた。諸法は空間次元であり、本節で語る不二系はその時間性である。諸法の時間は「空間の行」である。この「行」に直交する依正の二次平面を含めて不二系という。不二系より観た「空間の行」は、「報」軸であり「業行」である。そして空間系の仮諦でもある。仮諦の一点を「如是体」という。不二系は三如是の世界であり時空統一の諸法における教理的釈尊である。教理的釈尊の行は不二点より創出する「時空間の行」である。
この「行」は物質系における時間となって、我々には一次元に見える。不二点を「如是性」といい、「時空間の行」を「如是相」という。固有の時間性は、固有の相性体の三如是を持つことになる。不二系を不二とだけで把握したら「行」は創出しない。不二系の時間軸を「報」のみでなく、業報とするのである。依正の二次平面を共・不共とし、不二点を「時」と観ずるのである。この「時」の一点より、創出する時間軸を業行とも「時空間の行」ともいう。我々の感じる時間そのものに静特性としての依正不二性と動特性としての業行を見るのである。「時間」あるいは「時」そのものに歴史としての業が存在し、その時間の一点の「時」に共・不共業を依正不二として存在した空間を観たのが仏法である。
 時計を安定した回転運動を持つ中性子星でみたり原子の運動でみたりしながら人間は時間を活用してきた。光速不変の原理がそれらの思考に安心感を与える。そして宇宙の創世の初期を見ようとする。さらに現在の宇宙の様々なルールに思いをはせながら思考し続けてきた。今日ある宇宙の微妙なバランスは結果としての宇宙でも、原因としての宇宙でもなく、時間の様々な特質より生じたものなのである。物質の存在論は、物質の現象だけでは解明し得ないのである。生命を自己保存や自己増殖するものと様々に定義するだけでは「命」の生の部分の現象的側面の説明に終わってしまい、何故そのような特質を持つことになったのかという因果律は永遠に謎となってしまう。仏法が時を越え、時を創造し、時の即論を語ることができるのは、時が、決して一次元ではなく、また時空四次元に限定することなく「時」を生命の実相として把握するからに他ならない。

 精神主義や物質主義といっても要は社会現象的な考察に過ぎないと思える。「生きる」ことは、現実の生命現象の全て或いは根幹であり、死が生命の最終的現象との把握は止むを得ないとの思い込みが過ぎるのである。また、精神性を発動し得ない物質と発動性、能動性を持つ人間を分離する思考や、人間の心と肉体に対する考察等々は様々であるが、何故か本質的に大差がないように思える。現代の技術主義、物質主義が批判されたり、人間中心主義を独善だと言われたりするが、現実に生きている人間の思考は「生きる」ことを中心に展開されている以上大差を感じないのである。物質中心主義を唱える人がいたとしても、その人が現実の生活にあって、そのまま生きることはおそらくできないだろう。両親や恩師に対する思い、夫婦間、親子等々の様々な問題を単純に割り切れないことは日常的に体験しつつ人間の生に関わりを持ち続けていくだろう。人間の心と肉体に関することは、宗教であれ哲学であれその時代における解釈がそれなりにされていくものである。そして、表現の差こそあれ意味するところは似てくるように思える。
 仏法で説く心は肉体を顕現させる座であり、自身を正報とすれば自身を存在させる座を依報とするのである。従って依正は顕現された物質の存在論である。顕現された物質は、その存在において顕現されるところの部分と冥伏されるところの部分を共有、あるいは共存、さらには共生された存在となる。心と肉体、精神と物質、人間と自然といった対立する二元論は、心や精神といった物質として形に顕われないものを肉体や物質と別次元で単独存在しうるという主張につながっていく。人間生命の不二性は、日蓮にとっては自己自身の現在という歴史性の確定の為に止揚するのである。即ち自身を正報とした時、依報は常に化義化された存在としてて確定される。そして、自身の存在を正報として化法化し自身を確立する。自己存在を化法化することが、自己の教理的釈尊となる。さらに化義化された自己自身が歴史的釈尊となる。依正を心と肉体の存在論に留めるのではなく、自己存在の化義、化法不二論へと昇華させていくのである。そして、その化法に色心の二法を見ていくのである。
 顕現された生命の固有性は、独自の依正を空間に構造化することになる。この顕現された生命は独自の因果と境智と依正の倶時と冥合と不二を有して「行」という時空間を生ずるのである。物質あるいは精神をも含めた生命の顕現により生ずる全てを、人間にあっては色心の両面を含めて「行」の時空間的座標系に位置と運動量が決定される。これが、依正不二の時間論となる。
 生命の不二性は、諸法における存在論の実相面である。諸法に不二性が具足している故に物質の実相に妙法を観ることができる。蓮華という非情界に妙法の実相面は有情として顕現するのである。不二は本門の十妙を妙楽が十不二論として展開したものである。不二は妙法という実相が諸法として顕現されたものの時間性でもある。依正不二は、依報と正報の関係が不二であるという空間性を表現した言葉のように思われているが、それだけではない。即ち主体と客体の関係を時間論で語っても因果不二、依正不二である意味をもっている。

 実数時間だけで、不二を語るには困難をともなう。二つの空間内の事象を同時刻に存在しているとして不二といっても、存在するだけでは不二性とは言えず、また、二つ空間の相関関係が互いに拠って立つ関係であったとしても不二性とはいえない。人間と自然が互いに無視できない相関関係を持っていても不二とはいいきれないのである。不二の関係性は空間的な相関だけではなく、時間の倶時性の中に存在することを前提にしている。従って通常においては不二の時間性は無視することになる。つまり、常に倶時性を内在したところの存在論として、何時とか期間とかいった不二性を語ることはない。常に存在するものは時間に関係なく不二であるというのである。即ち、空間的不二は主客の分別なく、不二となって結局は同一となってしまう。
 不二は「妙」の一側面、即ち時空統一の実相における時間性が、諸法に顕現した時間性としての不二系とするのである。別の言い方をすれば、諸法の時間性を「華」とすると「華」に内在する「妙」の側面を表しているのである。「妙」は実相の、「華」は諸法の時間性である。不二性は諸法における時間的側面から存在に対する因果を不二で語ったものなので、実数時間に内在された虚数時間を諸法の立場から表現したのである。不二は空間内の存在を空間的不二だけとすると、主体と客体の分別そのものに意味がなくなってしまう。依報と正報の分別が空間的に不二だというだけでは、自然と人間という一方向性しかもたない依正の関係性が人間の観念的な産物としての不二となってしまう。自然が観念として主体になれない以上、不二は人間の主観としてしか成り立たない論となってしまって真の共存にはならない。依報、正報の不二は時間論において完全に成立するもので、空間論だけでは成立しないのである。
 生命の不二性は、有情、非情に亘る存在の全てに成立するものと考えるのが仏法である。従って人間の色と心の不二においても同じである。人間と自然、という異なる空間を占める二つの物質間における不二性を語ると、この両者を存在させる全空間内の相関関係の不二性を存在させる別の空間を必要とする。空間の無限遡及を防ぐために空間に対し条件を付ける必要が出てくる。自分を取り巻く環境が果ては無限の宇宙にまで広がり、ついには宇宙即我に行き着くことになる。即ちある時点の依報・正報は空間的無限と有限の不二となってしまうことになる。しかし、同じ異なる空間を占める物質が、人間と人間の場合は共に正報となり得ることから相手の人間を無限とみたら自身も無限となる。無限と無限では不二でなく同等となる。
 依正を一人の人間の色と心の両面として観る場合は、色を依報とし心を正報とする訳だが、物質的には色の顕現と心の冥伏は人間の存在とともに顕現されている。正報としての自身に依正を観るのであるが、この場合は共に有限である。依正を色心で観る時、心は色の外にあるものでもなく内にあるものでもなく、共時的に時空間に存在するのである。人間を含めたあらゆる自然の依正不二と色心不二という思考は、生命に対する基本的な存在論であって、立場を異にすると考えてはいけないだろう。
 生命の不二性とは、生命を不二性の立場で考察するのである。依正を拠って立つ場との関係性とし、色心を自身の生命の不二性であると述べるだけとしたら仏法ではない。仏法は拠って立つ場そのものも生命と説く以上、依報とする環境も色心不二で語れなくてはいけないのである。表現の違いだけと思ってもいけないだろう。生命の不二性は、有情・非情に亘って不二だとする仏法において依正という空間と色心という空間の差は絶対ではない。けれども、このような空間の条件付けも場合によっては有効ではあると思う。しかし生命の不二性を空間の面にこだわりすぎるから無理が生ずるのである。生命の不二性は諸法における教理的釈尊となる。これを名付けて「華」というのである。

第二項 不二系の三次元
 不二系の三次元は新たに「時空間の行」を創出する。この「行」の一点を「時」と呼んで我々が実感する時間の本質となる。時空統一の諸法における教理的釈尊の生命論的構造である。我々が日常、経験する物質の移動に伴う時間の一次元は「時」の一点に九次元を内包していると考えるのである。この「時」は物質系の三次元という「相」を現出する本源的な特質でもある。物質系を含めた生命の諸法実相は十二次元の世界と観ることになる。一つの素粒子が創生されたときそこには十如是実相を持つことになる。
この九次元は「時」の一点に内包されて人間には一次元にしか見ることが出来ない「時」の不思議を感じるのみである。しかし、不二系の三次元のポテンシャル・エネルギーという固有我を持った素粒子であり「時」の九次元を内包した素粒子でもある。一つの素粒子といえども因果倶時性、境智冥合性、依正不二性を内包して創出された「相」を持つ素粒子である。不二系の三次元の直交する二次平面を依正とするのは、依報と正報の不二点を「相」の原点とし、この原点を「性」とし、現出する物質系のあらゆる存在の相関関係に「報」という「業」を見るためである。従って不二系の三次元は、諸法の教理的釈尊としての三如是となり、物質系の歴史的釈尊の三如是の顕現の因となる。人間という知性を持ち得た生物の「時」を感じる力用による本源の覚知も釈尊一仏観より観た十如実相を一如とする原理によるのである。そして「時」の本質を覚知した人を教主釈尊というのである。釈尊一仏観より教理的即歴史的、歴史的即教理的という相即を成り立たせている故に凡夫即極の理念が出てくるのである。
 即論は不二論と異なる概念である。この両者を結ぶ基本的な概念が因果という時間論である。不二系の二次平面を依正とするのは、諸法の空間性を語るためである。即ち不二は時間の経過を無視した概念であるが本質的には時間に支えられた概念なのである。従って不二系の三次元を語る場合も即論の理解は欠かせないといえる。即論は相性体という不二系の三如是を物質系における空間性としての相性体として変換するのに用いる相互媒介性の原理である。教理的釈尊の「行」である仮諦の一点を「体」とし、その「体」を変えずに相と性を結ぶのだがこの「相如是」が物質系の歴史的釈尊の「時空間の行」となる。我々の感じる時間の相はこのように「時」の特質の中に教理的釈尊を観るのである。空間系という実相の歴史的釈尊は、諸法の教理的釈尊の「体」を表す関係にあるから不二系の即論といっても「空間の行」に依存することになる。諸法のうちに即論を語るときはこのような「不改の体」の構造に支えられることになる。物質系に起きる様々な現象もすべて実相のうちにその根拠を求めなくてはならないのである。諸法における万法の体を境と観ることも自体顕照の姿を智とするのも実相の空間系である境智行位の存在に支えられている故である。即の原理はその意味において不二系の二次平面上を時間経過ゼロで移動することによって確定される「性」によって「相」が確定する関係にある。煩悩即菩提もその中に時間性がないのは「体」という時間軸の移動を伴わないからである。その意味では時間性を無視した静特性ではあるが物質系より観れば「相」という「時空間の行」による時間を観ることが出来る。即の概念は物質系における相性の媒介性であり、元来、「蓮」の特質として語られるものであろう。

 不二は、因果倶時性と因果異時性を諸法の時間性として因果不二を説く為に用いられる。不二と倶時の違いは異時性を含むところにある。因と果が不二であるというとき、因から果へ次に果を因として次の果といった異時性とは明らかに異なる視点である。即ち因と果は二にして一、一にしてしかも二という不二性である。倶時を語る時に一つの因が次の果となるがこの果は次の因となる故に瞬間瞬間に因果の二面を含むから倶時であるといったのでは、倶時は単に異時のある瞬間にしかならず異時に摂入されてしまい因果倶時の概念も因果異時の一側面に過ぎなくなる。因果は時間的に倶時と異時の二面性を持つが切り離せない同一の時間という概念なのである。倶時と異時は、不二系より観た場合において二面性を観ることが出来るが、不二系を存在させ支える為には同一の「行」となる。時間系と空間系という倶時と異時の時間性の二面は不二系の時間軸としての「行」であり、二にしてしかも一なる「行」となっているのである。空間系を支える「時間の行」という倶時と、不二系を支える「空間の行」という異時の両時が不二系を支える「行」として存在すると考えるのである。
 不二論は妙楽の十不二論に見られるように「妙」の十種の展開ではある。この「妙」が時間系として表現されるところであるので我々の物質系より時間系を見つめた一視点になっているのである。天台の十妙も妙楽の十不二論も物質系より不二系、空間系、時間系という「時」の本質を語ろうとしたのである。不二系の三次元は、我々が感じる時間の最終的特質を内包させ物質系における様々な現象を生み出す基本的な法則ともなっている。不二系の不二点より創出される「時空間の行」は「性」を原点とした「相」「業」「報」「依正」「時」「時間」「経」となって物質系を創造する「行」あるいは妙法華経として蓮を支えるののである。時の一点に「相」「業」「報」は現実相として顕現されている。現在と百年前、否、一分前と比較しても厳密な意味で異なる「時」である。異なる「時」は異なる「相」を持ち、異なる「業」を持ち、異なる「報」を持っているのである。時代の特質でもあり、時代、時代に生まれた人間もまたその時代特有の「相」「業」「報」より逃れることは出来ないのである。故に時を撰び、時を知り、時を創造出来る人間の智慧を仏智とも題目とも南無妙法蓮華経ともいうのである。
 「即」も「直達正観」も「不二」も時間的には経過を必要としないという意味で同じである。しかし、「即」「直達正観」はその状態を表現するときには何らかの行為を伴うのである。即ち、有作によって起こる現象といえる。「不二」は作用を必要としない。通常の因果律も必要としない。まさに無作なのである。「即」は「体」を不動として語ったものであり、「不二」は「用」を不動として語ったものである。
 有作と無作について述べて置きたいと思う。無作は三身如来の特質として語られるところであるが、これは久遠元初の自受用身を意味することから本来的自己の特質となっている。仏が凡夫で出現しようと菩薩として出現しようとその本源的自己は仏であるということである。久遠も仏も日常的自己からみれば無作である。しかし、ありの儘の姿を日常的に顕現するために題目を唱えるというが、題目を唱える行為は有作とは言わないのだろうか。人間に本来的に具わっている無作の面を引き出す、或いは涌現する為に行う行為や修行もまた有作である。このように有無の二面の存在を対立的に把握するだけでは日蓮仏法の生命論は理解出来ないのである。有無の二道は、生死の二法と同じく「妙」は死にして無作、「法」は生にして有作とするのである。従って無作に支えられた有作の側面と有作に左右される無作の側面という相関関係で把握するのである。しかし、久遠は無作だとすれば題目によって表面化すること自体が無作ではない。無作をありのままとして本来的自己の表出の故に無作が無作のままというが、無作を表出する因は題目の行という有作であり、有作に左右される無作の存在は無作ではあり得ない。

 本来的自己が無作だから本来的自己の表出は、無作が無作のまま表出したというのでは無作の作ではない。題目は有作か無作かを問題にしたら唱題すること自体を本来無作と定義する以外にない。そして人間の行為の中に有作を規定する矛盾を説かなくてはならない。そこで無作を瞬間という空間の状態に留めることになる。唱題を因とし無作を果とする因果論より因果倶時とし、この倶時を時間ゼロの直達と正観における状態と定義することになる。そして唱題という人間の行を無作とすることになる。これは受持即観心においても観られる誤りである。受持を因とし観心を果とするのではなく、受持がそのまま観心となることはいいと思う。しかし受持は無作ではない。人間の行為を無作にすることによって凡夫即本仏論が出てくる。
 凡夫本仏論は、末法久遠説と質は同一の思考である。本質的に決して誤りとは言わないが久遠を単に状態にしてしまうのは間違いである。さらに過去は観念の産物でもないのである。直達正観は凡夫が直ちに悟りを得ることを意味するので、凡夫即極と同意に考えられやすい。すなわち即と直達を同意にするためである。たしかにどちらも時間の経過を必要としないという意味で同じである。しかし即身成仏と凡夫即仏は異なる概念である。相と性の相即を相としての凡夫と性としての仏を即で結ぶのであるが条件付きであることを忘れがちとなる。即身成仏は不改の体の別表現であって凡夫即仏は即身成仏を前提にした相即なのである。また、直ちに悟りを得られることと即身成仏は同意の様に思われるが直達正観は因果異時において悟りを語るのに対し即身成仏は因果倶時を前提にして悟りを語るという視点の違いがある。
 凡夫即仏という可能性は、凡夫が直ちに仏に成れるということを意味していない。何もしないで凡夫がそのまま仏というものでもないし、修行して徐々に仏に成っていくというものでもない。「即」で結ばれた両辺は、相互媒介性を持って両方向性を意味するのである。簡単に言えば行ったり来たりする事が可能であるということで、仏の側から観れば如来如去であり衆生の側から観れば迷悟の行ったり来たりである。まさに衆生は凡夫と仏を縁によって顕現することが出来る生命であるという。一度仏になればそのまま無終の本仏に成れるといった有始無終の報身仏は考えにくいのである。有始ならば応身仏でなくても有終であろう。中国における三身常住の論争も三身の当体を南無妙法蓮華経と言えなかった為の凝然常住と縁起常住説なのである。
 久遠即末法においても全く同じである。時間や空間の状態として把握すると時間の変換となったり空間の転換となって本来の意味する媒介性が失われる。今という現在性は、単に一本の矢の現在性ではない。今という時に久遠を観ることは構わないが常に今が久遠だとしたら何の為の久遠なのか判らなくなる。久遠仏を説くこと自体に意味が無くなってしまう。久遠即末法に対する徹底的な時間論的展開をしない限り、釈迦の説く法も単に譬喩に過ぎなくなる。また今という現在の奥底としてしか観ることができないだろう。至理において名前も無かった当体も今日では日蓮によって南無妙法蓮華経と名付けられている。
 人間は仏法の不可思議な時間論をなかなか理解したり、納得出来ない存在に出来ていると思われる。我々が実感する時間の特質のうち最も身近に感じる特質が不二系の三次元である。


第三項 生命の行特性

 時間が空間に優先された存在として生命の中に構造化され具足されるという考え方は、現代物理学的ではないだろう。しかし、仏法より見れば空間的座標の変化より先に時間的座標の変化が優先しているのである。「行」という時間座標の決定が空間の位置と運動量を変更させることになる。人間的生において空間の変化を感じさせないで使命を自覚するあるいは覚知することは時間座標の変更が優先され、しかる後に空間の変化をもたらすのである。故に即身成仏というのである。また仏界の涌現ともいうのである。
 生命的顕現が人間であれ物質であれ宇宙であれ時間座標の中にある。生命そのものというのが仏の異名なら、仏はまた「時」そのものといえる。「時」において因は仏因へ、果は仏果に向かうが従因でも従果でもなく、因果は「行」に具足する。従って人間の一念に因果が収まるという主観によって「時」を感じるのではなく人間の行そのものが因果と境智と依正の倶時と冥合と不二の中に存在するということになる。天台の因果一念を破り因果倶時・不思議の一法ともいう日蓮仏法の因果論は、この時空統一体としての生命の十二次元を見据えて南無妙法蓮華経と名付けたのである。
 人間がこれらの時空間を実感することが出来るから開仏知見が可能となる。この実感を認識論であるいは存在論的に展開したたのが天台である。因果・境智・依正の系より創世された物質より知性を持って存在する人間が、自身の倶時性と冥合性と不二性より、存在と認識の深みに入り込んでいくとき、その奥行きとともに人間の外へと同等の拡大がなされ、汝自身を知ることと宇宙を知ることと同意義に展開されるだろう。依報、正報の「報」は、業の報いとして顕れるから依正に報がついていると考えられている。そして業は過去の必然としての報いであるという。業を性分として把握すれば「行」の現在性は、三身、三諦、三如是の報身、中諦、如是性という各系の原点が観えてくる。
 仮諦という「空間の行」に内在する一点としての如是体によって確定される依正の不二点(如是性)より創出された「時空間の行」が「業行」である。時の一点に抱えられた業報は、物質系の依正についてくる過去の必然の報酬とされる。過去の必然を変革することは出来なくなる。過去の変革が不可能なら未来の可能性も革命もあり得ないと思える。過去の変革は、昨日の出来事を変えるという意味ではない。また、過去の出来事を現在の因とするのではなく、現在の三如是より実相を観る為の出来事である。仮諦という不二系の時間性に依報正報という空間性を観ることである。時間の九次元の立場から観ること無しには「報」は「報い」として「業」に縛られ、業の因果律は無始無終となって決定論となっていく。
 我実成仏以来の実感は「業」の因果律に縛られた自身を解き放す。「業」を「報い」から「報」と明め現実の自己の「相」の実を観ることになる。相性体の三如是という不二系より物質系は創出されたと考えるので、私達の宇宙を含めて素粒子に至る全ては、我実成仏の相なのである。日常生活におけるこれらの実感は、人類の共生の思想とともに全宇宙共存の思想へと繋がっていくことだろう。

 物質系に創生される全てに「業」が存在するがこれは空間的性質と言うよりも時間の特質なのである。創生する時の持つ「業」である。法華経において多宝塔は何の為に出現するのか、その方程式の解を求めれば、「時」の特質の解となって表現されるだろう。それは、物質の創生の解ともなっていると考える。三次元で表現された宝塔が地の底より湧き出て虚空にとどまる。釈迦と多宝が宝塔造作の番匠となり、造作を「業」と名付けられているところでもある。物質の造作は、業行という時間の概念より観れば虚数時間から実数時間へそして虚数時間へと進む「行」の作用と観ることが出来るのである。この実数時間において存在する実数空間が造作と言われるところであろう。
 人間の意識は、本源的自己へと遡るとともに現在の自身の境遇を見つめることになる。
宿命とか宿業とか善悪や価値を考えたりする生き物である。これらは本質的には「行」に付随して生ずる様々な現象に対する人間的思考から派生したものである。宿命や宿業を日蓮仏法より観れば決定論ではなく可能性と必然性を備えた現在性となる。未来が人間の支配下にあるからこそ希望と確信が生まれ勇気ある行動が出来るのである。従って善悪の基準も人間の行為によって即ち現在性において決定されると考えるのである。人間の身体的行為や発言あるいは精神的行為等の振る舞いが生命の波動性を左右するような形で影響し刻み付けられていくことになるので宿業というのである。過去及び未来という考え方からすれば、刻み付けられるということは過去である。過去の記憶が現存する根拠は生的であり記憶や刻印といった概念が人生論的であってそのまま仏法の生命論とは成りえない。
 行の現在性とは過去の記憶といった空間的な現象をいうのではなく時の「行」的特質における行の規定である。過去・現在・未来といった三時における現在の定義ではない。三時の概念が一見時間論のように思えるがこれはあくまでも空間に付随する時間の概念に過ぎない。磁気テープに記録されていくように刻みつけられていくのと同質である。「業」は空間性に現象的に顕現されるように見えるが本来は「行」の現在性に存在する「時」の本質なのである。現在の「業」は、過去からの連続によって存在するのではなく常住として現在にあると考えるのである。過去の業が過去の事実に過ぎなくなって、この事実が現在に影響を与えるといった後遺症のように思ったら仏法の時間論は見えないだろう。華厳経に説かれた「法界縁起」と同質の因果論となってしまう。縁起説は霊魂といった実体を否定するために用いた無我説と共に法界という生命の空間性における因果論の域を出ないのである。縁起説を用いるならば、縁起の空間性に囚われるのではなく、また、「時」に束縛された存在というだけでなく業行の現在性を観る為に用いるべきだろうと思う。常住とは「時空間の行」の一点として常に業報としての如是相を持ち続けるという意味での相の常住性である。
 人間の業に関する問題は、定業か不定業か共業か不共業か、先天的か後天的かさらに善業、悪業といった善悪にまで及ぶ。生きている人間の実感は、宿命とか宿業といった観点を無視することが出来ない程切実に自身の人生に関わっている。業は自身の生命に自身で刻み付けるという意味において決定論ではないが最初の業は誰によって刻まれたのかは定かではない。まさに元初における業は、物質に先在したルールとして存在したとするのは業が法と共にダルマという梵語より訳された言葉とすることから理解できる。しかし法則の存在を生み出したものが神や仏とするにはこの神や仏の概念を変更せざるを得なくなるだろう。神や仏に人間的な意志を持たせる困難は自然のようであって実はとても不自然になるからである。これらは我々の空間にあって時間を一次元としか観ることが出来ないところからくる観念的な存在なのである。故に時間的な元初における空間を観念的に想定せざるを得ないのである。

 相対種の開会とは煩悩・業・苦の三道を三徳と開くことである。「煩悩がそのまま仏の般若の智慧」となり「悪業がそのまま仏の解脱の徳」となる。「生死の身がそのまま仏の法身常住の身体」となりという摩訶止観の言葉がある。煩悩は結業させる因となる故に過去の相である。業因は現在の相となり、苦は業因に対する果報であって未来の相となる。この三相は三性と相即の関係にあり三徳の性となる。業という行の現在性は解脱という自在の境界をめざすことになる。即ち法身が究竟に到れば他も究竟となり、般若が清浄に到れば他も清浄となり、解脱が自在に到れば他も自在となる。勿論どこから出発しても良いのだろうが人間という生において解脱より進むしかないだろう。解脱が自在になることを応身如来と名付けるのであるから三徳は三身に至る訳である。業という空間性は、過去の因としての煩悩と未来の果としての苦という時間性が一相一体を成している行の現在性を観る必要性を促すことになる。いずれにしても現在しか三道から三徳に開く時はない訳で、全ては行の現在性より歩む以外に道は無いのである。業より解脱への展開は、現象を現象に即して現象に執われない境涯という自在性を日常的に実感することである。自身の生命に具わった業を菩薩の行において、業行の現在性を確定することによって解脱という性分を顕現することである。これが法華経の三昧によって円頓の止観を成じうる理由であり、衆生の機根等によらないという意味である。
 人間は煩悩・業・苦の三道を強く意識するのでこれらをそっくり三徳に転じる事を期待する。エセ悟達者は過去の聖者の生まれ変わりという安易な方法によって神秘的に自身を飾る。人間は業と行の現在性の中で生きている以上その業から逃れることは出来ない存在である。その上で行の現在性を自在に展開出来れば良いことは先程述べた。しかしこの解脱という応身如来は現実の人間的生において何を意味するかが重大である。日蓮仏法は菩薩行がそのまま凡夫の行の現在性における解脱とするのである。未熟な修行から高度な修行へと移行するのではない。日蓮にとっての修行は時に適った修行こそ菩薩の行であるという。この「時」を単に末法時とだけで判断することは出来ない。末法に出現する仏と縁ある衆生が末法という時に適った修行をするといっても末法が尽未来際だと何時でもいいことになって成仏の保証がされない。
 「時」はその時代時代に生きる一人の人間にとっては一回限りの生である以上、生きてる現在において菩薩の行を成されなければならないだろう。菩薩行の実践者を日蓮は応身如来と名付けるからである。普通、菩薩行というと仏になる為の菩薩の修行と思われるがそうではないだろう。修行をどのくらい積めば良いのか。いつまでやれば良いのかとか。生きている間に終えられるのかといった問題が生じ、結局、位を分けて説明せざるを得なくなる。釈迦・天台仏法の限界でもある。あらゆる宗派の悟達者達は、自分の説くのが真の菩薩行だと言い張っている。とにかく末法に出現する菩薩は、三十二相八十種好を備えていないし眉間から白毫の光も出せない。その意味では末法の仏と菩薩と衆生は同じ人間として生を受けるという訳で平等といえる。釈迦は何故末法という白法隠没の世に法を弘通する人間を特定しなかったのだろうか。
第四項 生命の固有我
 生命論といっても大半が時間論である。我々が四次元時空と呼んでいる時間の本質が生命論の鍵だと思っている。通常の時間に対する考察が物理学や哲学では異なる訳だが仏法はそれ以上である。仏法が正しいとすれば現代の時間論は偏ったものといえる。宇宙創世の初期あるいは特異点にあって空間と共に生まれた時間はどのようなルールによって生じたのだろうか。科学は空間や物質に対し素粒子に至る領域にまで遡ってその創世のルールを探している。素粒子が生じる以前にも時間は存在していたのである。時間は物質の運動量でも寿命でもエントロピーでも、その本質は語れないのであるが確かな存在として実在している。物質中心の物理学において時間は理論的な対称性にも関わらず非対称として一方向に進むために大半の方程式から時間の概念を取り除かなくては語れなくなっている。空間と時間が切り離せないことと光速不変を原理として時空を変化する対象と考える。しかしなぜ光速が一定なのかは問題にはしない。光速が不変であることと光速が人間の時間感覚における秒速三十万キロである理由も不思議なことであるが人間の存在にとって必要であったのだろうと思うだけである。
 仏法においても光と音は象徴的な存在として仏や菩薩の名前につけられている。生命論的に思索すれば、光の「時性」と音の「経性」は生命にとって「行」の波動性を意味すると考えるのである。「行」には波動性と粒子性と構造性を観るのである。この「行」の性分を「劫」で表現したのが仏法である。さらに波動性は周期性と共鳴性を内包した特質として粒子性と構造性に影響を与えている。しかし宝石の珠と光と宝としての徳も珠の粒子性を基本的な徳と観るのである。これらの性分が個々の生命と全体の生命に固有の波動性という「我」を構成させているのである。ここで言う「我」は、霊魂といった固有の実体として把握したものではない。本質我という波動と固有我という波動を生命の中に観るのである。即ち「生命」は、粒子性を基本の徳として波動性と構造性を観るのである。波動の無限性と構造の有限性も粒子という中道の中に三つ特質を観るのである。このことを三身如来と把握したものが生命の時間系であり、円融の三諦と把握したものが生命の空間系となる。そして相性体の三如是と把握したものが生命の不二系である。
 「行」という寿命を持つエネルギーは、「時」がエネルギー的存在であることを示唆している。時間がエネルギーという特質を発揮するのは、虚数時間と共に光を代表とする波動を媒体としているからである。そして「時」のエネルギーも光も寿命を持ち有限の存在である。質量を持たないといわれる光が寿命を持つのは、寿命が質量だけで決定されていないからである。創生されたものは光といえども有始有終である。寿命は系のポテンシャル・エネルギーで決定され、さらにポテンシャルという二次平面上の位置という固有の波動性を持っている。この波動性のうちでどの波長を可視光線とするかによって生物系の特質が見えてくるのである。固有性を有するエネルギーは、寿命も時空間も変数としての存在であり不変なものがない。しかしそれでは固有の存在が固有として見えてこないのである。固有性を見るために必要な不変の存在は、光を代表とする電磁波の速度という事になる。その意味でポテンシャル・エネルギーの波動性は、電磁波の特質より見ることが出来るのである。

 仏法の生命論より観た物質系の時空間は、四次元ではなく十二次元であるが、時間はそのうちの九次元を内包して実在しているのである。そして「時」の常住と本有の相は、我々の物質系においては光速の不変という現象として顕現していると考えられるのである。さらに物質系の時空四次元の構造の美しさは「時」の特質が三次元空間に及ぼす、波動と粒子と構造に原因があると考えられる。それは物質系の三次元が歴史的釈尊と把握することによって理解されるのである。実相の教理的釈尊と歴史的釈尊に加えて諸法の教理的釈尊という「時」の九次元は、諸法の歴史的釈尊、即ち我々の物質系は、釈尊一元論によって統一されているからである。そして報法応の三身、空仮中の円融三諦、相性体の三如是が創出する物質系を三次元にせざるを得なかった根拠が構造の美にあったのだろうか。人間的な感性の美的感覚に依存することは出来ないが「時」の持つ構造性に美を感じても可笑しくはないだろう。
 物質系に存在する生命の固有性は、不二系の業行に収束されて固有我として形成されている。業行の一点は三如是の「相」となって縦・横・高さを持った物質の本源の「種」と呼ぶ。この「種」の力用の七如是を合して十如是という。故に諸法の十如是は、「相」と「報」が本末究竟等して四次元時空の本質と覚知していくのである。従って個性が無いとされている素粒子であっても現実に様々な物質が形成されている訳で、ある素粒子が水素になったり炭素にまで成ったりする事を考えると単に空間の温度だけで説明されては納得しかねるのである。素粒子や原子核が「相」を持つと考えるから創出した物質に十如是を観るのである。そして三如是と力作因縁果報の六要素が本末究竟等して現実相を顕現しているので、我々人間の眼に物質が立体として見えるのである。物質が力用や作用だけでは把握しきれないとするのは、因縁果報本末究竟等の故である。
 量子論や理論物理学も粒子あるいは場の量子の発想において、それらの力学的作用の究極理論を求めているだけである。物質として創世した素粒子や質量がないとされる光子、或いはまだ存在すら実証されていない重力子にしても力学的な作用と関係性にだけ眼を奪われているとその本質的な実在には迫れないだろう。素粒子等の十如是は、本末究竟等してこそその意味が理解されるのである。場としてのエネルギーであれ、質量を持つ粒子であれ、光子であれ創出したものは十如実相としての「相」を持っているのである。究極的理論といっても力学的な存在論であって、何故、究極がそうなっているのかという問いは無視せざるを得ないだろう。人間を構成する素粒子の力学的把握は、人間関係の複雑な様相に解答を与えることは無い。現存する宇宙の中にあって何故自分が今此処に存在しなくてはいけないのか、百年後あるいは前では何故いけなかったのかという問いには永遠に答えられないのである。勿論この問いが物理的でないからであるが、地球上の幾何学がユークリッドの世界であったとしても、ユークリッドは自分の性格すら直すことは出来なかっただろう。

 諸法の蓮華である不二系と物質系において不二系より創出した「時空間の行」の波動性は、物質系にあっては光の時性(時間)と音の経性(空間)となって顕現する。物質系の三次元空間は「時空間の行」という時間の一次元に本源的な三千世間を内包して存在すると考えるのである。素粒子が三如是を抱えさらに六如是の機能を持つ時、仏法の原理は百界・三世間という相の違いをもそこに見据えることになる。「時」の一点に観る一念三千は、「時空間の行」の「相」の一点に一念三千を観ることに他ならない。これが「行」の波動性(周期性と共鳴性)そして構造性と粒子性なのである。この「時空間の行」の原点のポテンシャル・エネルギーによる本質我は、さらに様々な固有我の姿形を生じさせていく本源のエネルギーといえる。故に時間という共有の特質の中で物質は、個々の固有の姿と力用を持って創出されてくるのである。素粒子が創世される以前に「時」は存在し、「時」の力用を名付けて妙法華経ともいう十次元の「時」の本質なのである。
 我々の宇宙を構成している本源の法が妙法蓮華経であるといっても数学的な表現、即ち方程式で表していないので式の解を求めることは出来ない。さらに、理論物理学者が求める大統一理論も「蓮」の一字の力学的理論に過ぎないのである。固有我が織りなす力作と力作が互いに因縁果報を持って連関しているのである。相性体が諸法の本体として表面に顕れ、力作因縁果報を諸法の機能面として冥伏している。この相と報が本末究竟等していると考える。
 固有のエネルギーの本源は、不二系の不二点である性如是のポテンシャル・エネルギーである。この点を我々の宇宙の本質我と規定するのである。本質我より派生する固有の我は、固有の波動・粒子・構造性を持って顕現している。そして「行」の波動性は、正弦波ではなく部分的に曲率を持っている。
 顕現時と冥伏時の「我」の曲率が異なることは固の同一性を保証していないように感じるが、冥伏時の曲率は顕現時の「行」によって決定されるのでそこに連続性を観るのである。固有我はその意味において永遠であるが不変ではない。「我」の変化すなわち境涯の変化は、顕現時の「行」と共に自在ではあるが冥伏時の前後の顕現時の同一性は見えないといえる。従ってカルト教団の教祖の如く自分は「何々の生まれ変わりだ」と主張するのは勝手だが要は行動や行為において相応しい振る舞いを示してほしいものだ。
 固有我は顕現時の一念三千における差別相として観られるだけとなる。ある人間の固有我は生とともに創造されていく故に、時を知り、時を見て、時を創造し、時を選択することが出来るのである。単に因果律に縛られたような過去の因果の再生ではない。故に「自在」というのである。時の知見、創造を解脱といい、解脱自在なれば報身も般若も自在となると説くのが仏法である。
 固有我と本質我は、部分と全体といった視点ではなく本質我の特質、波動性が生み出した部分的ゆらぎといったものである。従って部分の集合が全体となるといった視点ではない。固有我が本質我から独立した存在としたり、本質我を実体として単独に存在させる必要もない。「我」という視点は、実体視しようとすれば無我説を説かざるを得ないものといえる。不二系の本質我といっても生命のポテンシャル・エネルギーという固有我に過ぎないのである。
 顕現時の「我」の曲率の変化は、時が抱える依正の二次平面上の水平移動により変化するポテンシャルの変化であり、境涯の変化である。これを人間革命とも表現するところである。固有我の特質と量は、人間の個性を顕現し人間の境涯の時空の大きさは固有我の複雑さと情報量の大きさでもある。

第五項 不二次元の生死観

定業不定業は寿命に対する言葉である。そして寿命を短縮する業因を悪業といい、可延する業因を善業という。人間がこの世に生を受けたときから、あるいは受胎したときにすでに業が人間全体に具わっている。さらにそれは一人の人間だけに止まらず同時代の依正の全てにおいて不二の業を抱えている。業行は、生命の顕現の現在性であり固有我の顕現でもある。固有我の境智は、和合し始めるときに因としての煩悩が生じ、和合し終えたときに果としての業行が顕現する。生命の命終時より顕現時に至る冥伏の過程は、保持され続けた生命エネルギーの妙用でもある。故に命終は単に我々の死を意味しない。「分段の身即常寂光と顕れるを命終という」と言うように現世において仏界を顕現したときを命終といい「妙」を意味する「死」なのである。これが人間的生における日常的な生死の意味するところであるが、同様に「生まれる事」「死ぬ事」を含めた生死の連続性を意味しているのである。時間系における「妙」の因果倶時と空間系における「法」の因果異時が不二系における「華」の因果不二となって顕現から冥伏へ、冥伏から顕現へと生命エネルギーの固有我は、本質我の寿命が尽きるまで持続されていくのである。妙法華という「時」の力用である。
 死は諸法への冥伏ではあるが固有我は固有の業行と共に生死を繰り返すことになる。物質系内での生死という生命現象である。固有我を持つ宇宙のポテンシャル・エネルギーは宇宙内の生命にとっては本質我といえるものである。本質我の終焉、寿命の尽きるまで本質我のエネルギー内で顕現と冥伏を繰り返すことが出来るのである。我々の宇宙だけでなく業行が尽きるまで条件が適えば無数に創出してもよいことになる。さらにこのように創出された宇宙は、業行という時間軸に内在する九次元の特質を持つので創世時の条件は固有の因果と境智と依正によって見ることができる。これが一視点であるが別の視点は、三身・三諦・三如是である。三如是は十界の因果、十界の境智、十界の依正となり、十界は一念三千への展開となって十界・三世間・十如是をみる。この十如是のうち三如是は本体、六如是は機能となる。
 不二系の三如是に内在する機能は、その系内の不二点におけるポテンシャル・エネルギーによる固有の我の機能として働くことになる。固の三千世間という差別相の総称を諸法と名付けるのである。不二次元の生死は、時間・空間系といった実相の生死とは異なる。物質系から観れば不二系は、死の世界でもある。不二系が「死」であり物質系が「生」となるが、この生死を妙法という実相より観れば蓮華という諸法の生死である。これらの生死は、視点の違いである。諸法の生死といっても元来実相である妙法の特質の名称である。従って有情の生死と非情の生死のたてわけは、非情が有限の生死を意味し、有情が無限の生死を意味する事になる。有限が無限の中から生成消滅を繰り返していくので顕現と冥伏の二極性を諸法の生死と観るのである。

 物質のエントロピーが極大となる時を冥伏時という。そして顕現へと向かうためにエントロピーを減少させることになる。エントロピーが極大という無秩序状態から秩序状態にするために必要なものは、固有我のエネルギーをポテンシャル極大に向かう必要がある。この増大は冥伏の寿命によって決まる。エネルギーが充電されていくようなものである。
 このような生から死、死から生への繰り返しは、エントロピーの臨界点を越える死という現象から再び生に戻ることは、熱力学の第二法則に反すると思うかもしれませんが決してそうではないのである。物質系に存在するエネルギーとエントロピーは、妙法華の力用であり「時」の力用である。我々の時間が理論的に可逆性を持つことと現象的に不可逆性を持つということは、物質系の「時」が「時空間の行」という不二系に創出した「行」の特徴ということになる。「時空間の行」の一方向性は、物質系から観た方向性であって、もともと方向など無いのである。熱力学の第二法則は、物質の寿命の時間的現象を物理学的に語った法則というだけである。「時空間の行」は、寿命という概念によって顕現と冥伏の二極の連続性を理論的に持たせたのである。死から生という可逆性や、生から死という不可逆性は「行」の現在性の中に実在するのである。
 固有我の曲率は、エントロピーとエネルギーの曲率となって相如是の一点の「時」とともに創出する「行」の特質として顕現されているのである。さらにこれらの物理的な力は「行」だけでなく「我」の持つ特質の一側面に過ぎないという視点である。即ち、エントロピーやエネルギーは「我」の、「我」は「行」の特質として語られるところである。「我」は本質我に冥伏するようにそのエントロピーを増大させる性分を持つということである。生から死への相転移は、妙法の力用として私達の生命に内在するものである。新たな「行」の創出はポテンシャル・エネルギー極大、エントロピー極小の状態といえる。物質系において極小の状態を維持するために各系より「行」のエネルギーを吸収しつつ物質系において放出し続けることが必要となる。
 生から死、死から生は、固有我の相転移である。また固有我の曲率の変更は、性転移である。生死の相転移とは異なり新たな「行」の原点の変更であるが、これは新たな如是相の創出でもある。生死の始めは定業、顕現時は不定業を主体とした寿命の関係性とも関わっている。エネルギーは生命力として、エントロピーは寿命として物質に働くのである。これらの力の方向は幾何学的に「行」と直交した方向性を持っている。エネルギーの増大は、エントロピーの減少となるが共に「行」方向にあってはエネルギーが減少に、エントロピーは増大にと一方向性を持っている。エネルギーやエントロピーの増減は、寿命の方向性とは直交する関係にある。その意味において寿命は、相転換点から相転換点での一回ぎりの生と死のそれぞれの始終ということになる。この一回一回の寿命の中で「行」とともに変転する直交したエネルギー量は、総量としてポテンシャルによって決定してしまう故に定業となる。「生」の不定業は、ポテンシャルの水平移動という性転移によって新たなポテンシャルを獲得するのである。性の転移は相の転移を伴う故に、不二系における不改の体を全うして即身の転換ともいうことになる。

 このように諸法に生死の現象が観られるのは、実相の生死が諸法の「時」に内包されていることによって観られるのである。即ち「蓮華」より「妙法」を観ることが出来るということである。この「妙法」と「蓮華」の中道が「空間の行」という不二系の時間軸(仮諦)でありその原点が中諦なのである。従って諸法の生死といっても諸法実相より観れば「生」としての「法」という空間系の側面が主体となって語られることが多くなる。「蓮華」を譬喩と当体に分けて語るのもそのためである。
 不二系と物質系の総称を「蓮華」という非情界の世界となる。蓮華を時空統一の諸法と呼ぶ時、九次元を内包した我々の感覚で把握する時間を「経」と名付けるのである。諸法より実相をみたときを当体蓮華と呼び、実相より諸法をみたときを譬喩蓮華と呼ぶのである。しかし当体と譬喩の蓮華は、諸法の当体の説明をするのに華草の譬を使ったにすぎないから諸法そのものを譬喩蓮華にするのはおかしいと思うかも知れない。さらに当体蓮華は妙法蓮華のことで、諸法実相を指すのではないかと。
 蓮華は、妙法の譬喩ではなく不思議の一法そのものである。「蓮華」とは因果倶時・不思議一法の力用の名なのである。時空統一の諸法と実相を構造的に語ってきただけで、元来、諸法と実相は同体異名なので、妙法蓮華経を時空統一の諸法実相とするのである。
 教理的釈尊と歴史的釈尊の統合は釈尊一元論となる。釈尊の人間論的普遍的構造と人間存在の釈尊論的根源性を妙法で統一統合したものである。妙法を自己に覚知した時を教主釈尊としての歴史的人間存在の教主と呼んでいる。これらの釈尊観も釈尊という諸仏の生命的統合の概念より生ずる生命次元での自己顕現といえる。故に仏の救済の歴史は自己による自身の救済史の系列性なのである。
 生命論はその大半が時間の本質を説くことに費やされている。それはこれまでの生命に対する誤った思考を一変させるためである。物質的な生命現象にのみ偏った考え方や人間中心の精神論で語る歪んだ生命論では必ず行き詰まることは眼に見えているからである。地球を生命体として人間や生物のように語る誤りや、地球を単に物質としてのみ語る誤りは、真実の生命の意味を語り得ず地球や宇宙との共存や共生など不可能といえる。地球が物質なら人間も物質である。しかし、地球も人間も共に寿命を持ちながらその存在にある差異を認めることは生命に対する思考の指向性を変える以外にない。地球を擬人化して、生物と同じように種の保存、自己増殖を期待するのは誤りである。また、人間を単に物質の特殊な変異としてその存在を固定するのも誤りである。
 寿命を持つものは全て生命であるが、この生命を単に生き物とすれば、現代科学は地球を人間と同じ様な生命体とは決して思わないだろう。寿命は人間の感覚においては時間のことである。その時間が、人間の感覚で意識で把握する時間とは、かなり異なるとするのが仏法である。

 物理的生命現象が空間内の出来事であったとしても、時間の存在を前提にしているのである。時間が空間に添った形で存在すると考えるのも、時間が空間と切離せないし、空間内の全ての現象がまた時間を無視しては存在し得ないのである。波動関数における定常状態も時間の変化を基準にしているし、時間を静止して観るものなど存在とはいわないのである。ビデオの静止画面も同じである。
 時の本質を語るのが真の生命論なのである。時を語らずして生命は語れないと言っても過言ではない。時の経過が何故一定なのか、何故に未来に向かって進みながら、過去に戻れないのか。これを語らずして生命の本質は観えてこないのである。生命とはかくも時間的存在なのである。時空四次元にあって時・縦・横・高は、時間系、空間系、不二系がどのような関わりを持っているかを、必然性があるかないかで判断して構造性の美を実感する必要がある。構造的にはこれらの三つの系は、「時」の一次元ににだけ関わっているように見えるがそうではない。物質系の三次元を歴史的釈尊と観たとき、不二系の教理的釈尊と共に時空統一の諸法となり、さらに時間系の教理的釈尊と空間系の歴史的釈尊で構成された時空統一の実相において時空統一の諸法実相は完成される。この釈尊の系列性において物質系の歴史的釈尊のみが概念的に孤立しているはずはないだろう。
 固有我の質量はゼロであるが固有のエネルギーを持っているのである。固有我は顕現と冥伏を繰り返すので質量ゼロの状態と質量を持つ状態がある。この場合、百パーセントの変換が成されるのである。熱による質量欠損といった物理現象は、生命の生死観には起こらないのである。従って生命の生死は、単にエントロピーの増大による相転換、あるいはエネルギーの減少による物理的死と異なった概念でもある。故に妙法華と名付けられた「時」の力用は、エネルギーやエントロピーといった物質系の「力」だけでは説明出来ないので総称として生命力ともいうことになる。生命力は「時」と共に様々な姿を示現することになる。
人間の生死も物質の生成消滅も共に寿命の概念より思考した時間論の展開なしにはまことに不可思議としか言い様がないだろう。
“時”よいずこより来たりていずこにさらんとするか。人間の実感する「時」が虚数時間より来たりて、実数時間を現存させながら再び虚数時間に去らんとするのを、仏法は如来・如去と呼ぶのである。

第六項 釈尊一仏観と時空統一の行

 不二系に創出した「行」が、「時間の行」「空間の行」を統合した「時空間の行」とい
う物質系に存在する「時間」となる。「行」は仏と呼ばれる生命の行ともなって時空統一の一仏観が観えてくる。「生命そのもの」と言われる仏の行は「時空統一の行」と共に実在する。九次元という時間の本質が通常の人間の感覚を飛び越えていることは確かである。しかも時間と生命は、同等同質とは云いがたいので時間論がそのまま生命論になりにくいのである。しかし三次元の物質に生命を吹き込んでいるのは紛れもなく時間であろう。物質の特質に観える様々な現象も、物質の十如是実相が十法の界、即ち「時空間の行」を含む九次元の「時」によって支えられているのが真実の姿なのである。時間が物質創世以前にも存在し、質量がゼロでエネルギーだけが存在しつつ、そのエネルギーから質量を創世するにしても「時」の経過は必要とする。時間の物理量は、物質や質量ゼロといわれる光子の運動量の中に見いだせる。しかし、虚数を含む時間にあっては、空間内の移動に時間経過ゼロといった場合も理論的に成り立っている。運動と共に経過する時間も虚数を含むと不可思議な理論も成立するのである。物理現象に生命現象をそのまま当てはめてしまうのが科学的に思えるとしても、生命を物質と同等同質の物理現象と決めつけることは危険な考えであると思う。科学の進歩によって解決の糸口を見いだせるとの期待は、持たない方が無難に思える。また、逆の立場で物理現象の一部であるとし、宇宙即生命を説く思想が突飛に見えることも事実であろう。いずれにしても物理的、生命的な物質系の現象を新たな時間論より見ることによって両者の統合はなされると考えている。
 不二系という変則な四次元を諸法の実相と観れば、物質系の四次元は諸法の十法界となる。したがって物質系まで語らなくては生命論とはいえないだろう。しかし物質系は、宇宙から人間に到る全てを含む統一の概念である「時」の本質より観れば、宇宙も人間も男も女もその根源的に不変の区別が存在するのでは無いことが判るのである。
 仏法は時の本質を十界の差別相より仏と名付けたのだがそれは、「時」の本質を覚知するかしないかによる差別である。仏も凡夫も共通する「我」の存在を十界という差別論によりかえってより明確に存在性を明示する。凡夫の固有の我に執着する心を否定することによって固有の我の存在を明示する。人間の心の奥にあるといった実体としての我を否定する。単体としての固有の我に対し、実体の存在ではないので無我としたのである。しかし、十界各界の差別を見る以上、互具論と差別論は、本質我と固有我の違いでしかない。すなわち、無我説は、凡夫の心の奥に凡夫という我の実体の存在を否定したのである。これは、人間における男性と女性といった差別が厳然と存在するとしても各性の実体、不変の区別は根源的には存在しないと主張することと同義である。
 時間論より観れば「時の本質」を本質我として仏と名付け、個々に顕現する「時の固有我」としての凡夫と名付けたのである。そして仏にも凡夫にもなれる衆生となる。このような衆生の概念こそ「我」と名付けられた「時」の特質なのである。そして「我」は、「時空間の行」とともに実在する本質我と「行」の一点という「時」が抱えてポテンシャル・エネルギーに内包する実在なのである。故に仏法は、時の冥伏された本質と、顕現された固有性を十界の衆生という差別相をもって説かれた法であるといえる。

 日蓮は、「時」の本質を釈尊一仏として語ったのである。人間を含めた森羅三千の当体が、南無妙法蓮華経であると断定した日蓮は、この七文字に時間、空間の一切の特質が包み込まれていることを覚知していたのである。日蓮は、言語道断・心行所滅の法を七文字に収めたのである。釈迦の悟達もまた同じ法であったのだろう。しかし、釈迦は、自信の過去を説きながら仏身常住を明示し、諸仏の存在を持って自身並びに諸仏の統一として共通の悟達を語ることに努めたのである。したがって、悟達の内容を様々な譬喩を用いて語ったのであるが、それは、悟達の当体が言語道断・心行所滅の法であったからである。
 仏の呼称である「釈尊」が諸仏を統合したとしても、仏と仏が能く究め尽くした悟達の内容が同一であったならば釈尊と諸仏の立て分けに意味が無くなる。そこで諸仏といっても仏の己心の諸仏に過ぎないということになってくる。そして、仏は、釈尊一仏となっていく。しかし、釈迦自身も実は諸仏と同じ立場であることを自覚していたと思われる。即ち自身が根源の一仏とするのではなく自身もまた諸仏と共に根源の法を師としたのである。これが釈尊一仏と教主釈尊との違いでもある。
 さらに、日蓮も「時」とともに出現した系列性の中に人間存在の釈尊論的根源性としての一元論を説いて仏と諸仏の関係性を確定することになる。
 仏法とは根源の一法を師とすることによって成立するのである。したがって日蓮仏法もまた釈尊一仏論である。すなわち南無妙法蓮華経と名付けた根源の一法に日蓮もまた文の底に沈めたものがあるということになる。言語道断・心行所滅の一法に日蓮は何故、七文字の名を付けたのか。否、南無妙法蓮華経もまったく日蓮のオリジナルではない。妙法蓮華経は、鳩摩羅什の漢訳であり南無は梵語である。妙法蓮華経に南無を冠することによって意味するものは、衆生本有の妙理に帰命した姿が日蓮とって理ではなく真実の事行であると確信したからに他ならない。この事行こそ「時空間の行」だと私は思っている。現実に生き仏の名を唱える人間の姿の中に根源の一法の実践行を感得し、森羅三千の諸法を観たのである。
 「法は諸法なり、師とは諸法が直ちに師と成るなり、森羅三千の諸法が直ちに師と成り弟子となるべきなり」(736P)と御義口伝に説く所以である。一仏としての釈尊という師と、弟子として顕現した教主釈尊の違いは、釈尊論として師弟不二を意味することになる。諸法を単に物質系の原理と見るのではなく、九次元の「時」の本質を内包した不二系によって支えられた物質系として、諸法の存在そのものを不二の存在であると思考するのである。
 生命というエネルギーは、時間・空間・時空間という「行」エネルギーということになる。この「行」は、創世するポテンシャルによって固有の曲率を持ったエネルギーでもある。といっても男性・女性といった差別の本源的な固有性ではない。仏とは男性なのか女性なのかといった人間的な問い掛けは無意味だろう。観音菩薩は、男か女かといったことが論争になったりするが、それはそれで人間的で結構楽しい話題でもある。
 現実の差別相といっても不変の区別がなく因縁和合による結果的な差別相であると仏法では説いている。男性・女性といった性の差別が根源的であるはずがなく、仏性が存在し、この性が六如是の機能面によって生ずる相の差別に過ぎない。したがって男とか女とかいった差に本質的にはこだわる必要がないのである。しかし、善男子とか改転の成仏、変成男子といった言葉や発想が仏法にある以上、差別を厳然と事実相として観ていることを意味するのであろう。

 また偶然の結果とするならば自分は何故、男なのか女なのかと問う意味がない。しかし、因縁の結果だとすれば自身の責任となり必然といえる。ここでも偶然と必然といった命題が顔を出すことになる。それにしても何故、差別相を生じなければならないのか。固有の我の存在は、不改の性を全うした相の差別化である。
 エネルギーの増減現象と老化現象による違いは量から質の視点の変化である。老化は、生命の顕現時におけるエネルギーの質的変化である。生命の顕現・冥伏という二極性は、エネルギーやエントロピーの増減によって語られるが、これらは、老化という質の変化を伴うことになる。宇宙もまた老化する。現在が膨脹しているとしても、どこかでその成長進化は、止まりやがて老化して死を迎える。宇宙もまた、生命体ということである。その意味において宇宙も人間も熱死することはないだろう。どちらも生命体を維持するためにエネルギーの交換が成されているのである。ともに顕現されている時は生命体としては開放系であるが、閉鎖系の特質も具備していると考えられる。すなわち、生命はその力用において両系が兼備している存在なのである。
 四苦とエントロピーの違いは、四苦が「命」の永遠性の概念より生じたもので、単に無常観より派生した概念ではない。そしてエントロピーは、「寿」の概念より生じたものといえる。生命の開放系という特質が、顕現された生命に現象面として顕れた変化相を四苦というのである。したがって閉鎖系の存在は、開放系の部分的現象あるいは、期間ということである。閉鎖系は、開放系に支えられた存在として顕現する。生命という開放系は、生の寿命、死の寿命という二極において実在する閉鎖系を総体として支えている。また、生死の寿命は、固有の我の生死でもあり、支えられる生命は、本質我の特質としての開放系となって寿命を維持していく。生命力あるいは生命エネルギーは決して特別な神秘的な力ではなく、固有我と本質我の織りなす相関関係の中に観られるのである。
 エネルギーの増減は理解できてもエントロピーは増大するだけで減少することはない。しかし、見かけ上の安定はある。百度の水が五十度になって安定することがある。けれども永遠にではない。人間という生命体の生存の維持のためにエネルギーの交換を行ったとしても常に無秩序に向かっている。したがって生命体の維持されている状態を仮りの和合というのである。
 一念も三千世間にすることによって、(十界互具の百界に十如是と三世間を乗じる)大数の法則が当てはめ易くなる。十界個々の変動を因果律だけで考えるのは不可能だろう。因果律的な決定論で全てをみたのでは、人間に対する理解の妨げになる。三千総体を確率的に判断することによってある一定の傾向性を見いだすことが出来るかもしれない。また全ての経路可能性を認めてもこの傾向性は単純な経路を経るかもしれない。ただ、経路解析のような最短距離というものはないだろう。三千世間に距離はないからである。
 我の固有性は、水中に拡散する微粒子ほどランダムではない。それは、生命の持つ固有性に方向とか指向が存在しているからである。生命のこのような存在性質は、知的生命体が感じる「時間性」ではないかと考える人もいる。時間の一方向性に対する原現象だと思考するからである。しかし、仏法では、時間も空間も「生命の行」として生命とともに存在し、さらに偶然も必然も同時に生命とともに存在すると考えるのである。

 知性の敗北宣言とされた不確定性原理もミクロの世界のことであってマクロ的にはそれ程に不確定ではないのである。ミクロの偶然の集積がマクロの必然を生み出すのではなくこの両者が不二の関係性において同時に存在すると考えるのである。
 地球上の人間の動きは不確定であるが太陽系の運行は確定的である。広大なる宇宙に人間を生み出す必然性があったのではなく、人間が存在するのに必要な広大な宇宙という関係なのである。現在の宇宙における微妙なバランスや絶妙に設定されている各種の物理的定数から人間の存在を語っても、現実に人間が存在しているという事実に対して、同じことを別の表現で言い換えているだけで人間の存在の証明には役に立たないといえる。そして最終的に宇宙の意思や神の意志、あるいは創造主を持ち出す羽目になって歴史は繰り返される。
 蓮華という諸法は人間という有情を支えるのに必要な非情界というこちである。支え、支えられる関係と、支えられる側が支える側に影響を与えることが出来るという関係は、この両者が不二の関係にあることを意味している。有情が非情に影響を与える方法は様々であるが、非情に働きかける有情の力作因縁果報本末究竟等は、人間にあっては智慧と名付け、智慧の発露として知性と名付けられたのである。人間という知性を持った生命体の出現は、進化の過程で偶然に得たものなのかも知れないが、本然的に持ち得ることが出来る特質を備えていたのだろう。
 仏法においても求めずして得た仏性と一心に欲する智の必要性を説く。仏性を性種といい仏種を乗種というが、仏性があるから仏種が植えられるのである。これは人間という生命体を空間次元において観ることによって成立する視点である。すなわち仏種を智とし仏性を境とするとき、境智が合する中に仏の行が生ずることを説く為となる。故に、智慧を南無妙法蓮華経とすれば知性もこの七文字の力用となる。また仏性を仏性たらしめるのも同じとなる。仏種が植えられているかどうかは、自身の本地を開くことでしか理解されないのである。成仏とは「種子を覚知するを作仏と名づく」とある所以である。
 物質系に存在する自身を開いて本地としての不二系を観ることになる。仮和合としての自身を開くことを開権という。権を開くことによって観る対境を「華」という。「華」という不二系に観るものは「時」の本質である。開権はまた、歴史的釈尊を権とし教理的釈尊を開とする。また、迹本、修性も同義であり別視点である。顕遠も顕が歴史的釈尊とし遠を教理的釈尊としたときは、顕遠は遠くを歴史的現在に顕すことになって「蓮」という物質系となる。開権顕遠は、権を開いて遠を顕すといった意味だが、全体で歴史的釈尊を開いて教理的釈尊を顕すことになる。諸法より実相を観ることを顕遠という。いずれにしても物質系より観る以外にないので、物質系の本質を観ることと、物質系に不二系の特質を観ることになり、これらを一言で開権顕遠という。
 「蓮華」という諸法が「時空間の行」によって物質系と不二系を統合・統一して実在することになる。このことは、「蓮」という物質系に妙法華経が具現されていることを示している。「蓮」の宇宙論的考察は次章で行うが、我々の宇宙は「蓮」の一字の力用に過ぎないのである。

根源種の特質を種子として受け継いでいるといった発想は遺伝的である。空間的な変化の中に似たところを見るようなものである。生命は時空間的であって、生命の動特性は理法と実践の織りなす現象である。種の概念は、粒子的空間性とともに波動的時間性と種族が形成する構造的時空間性を有するものである。したがって種の概念によって我々の宇宙が同一種より形成されていると考える。ただし、この種を植物の種と同じ発想で観たら空間的になりすぎて本質を見失うだろう。同一の時間性を種と種子を用いて開放系の固と連続、そして創世の系列性を表現したものだからである。このことは、諸法の系列性と釈尊一仏の関係を意味させているのである。時空統一の行と釈尊一仏とは、同体異名なのである。 
妙の種子性は、運動と固体を特質として因果倶時をその本性としている。運動が粒子の異時性を表し、固体が粒子の存在となって構造性を与える。 法の波動性は、共鳴と周期を特質として因果異時をその本性としている。共鳴が波動の倶時性を表し、周期体波動の構造となって不二性を与える。 華の構造性は、立体と網目という形状を特質として因果不二をその本性としている。立体の不二性が構造の倶時的存在としての空間性を表し、網目状の不二性が構造の異時的存在として時間性を表す。 波動・粒子・構造という「時」の本質を仏法では「劫」という言葉を用いて種々説かれてきたのである。 
一人の人間の存在が、宇宙の広大さと無限の時間と寿命の中でいかに小さく儚いものであっても、生の寿命の貴さは、人間という有情を支える宇宙の非情界の大きさに比例する。自分の一生が仏の瞬きにしかすぎないとしても歴史を残せ、歴史を語れるのは人間だけである。その意味において人間は神や仏の存在より価値がある。神は自身の自己化の歴史がないので自己進化がないといえるが、仏は自己に自己化した系列性を持っている。南無妙法蓮華経と名付けた智慧の偉大さに感謝の思いが涌き出る。そして波動的時間性の中に波動の共鳴と周期性を見ることが出来る。種の粒子性は因行果徳の四次元をその根源とし、波動性は境智行位の四次元をその根源とし、構造性は依正業報の四次元をその根源としている。 
神や仏が自らの歴史を残そうとすれば必ず人間になって出現せざるを得ないところに人間存在の価値があるともいえる。神や仏と人間の根本的な違いがここにもある。偉大にして尊貴なる生命の顕現。知性を武器にして覚知する本源。有情の生命の中にあって人間は人間らしい智慧の光で、生命の本源の理に至る方途を探り続けることだろう。 
南無妙法蓮華経と名付けた智慧の偉大さに感謝の思いが涌き出る。
そして波動的時間性の中に波動の共鳴と周期性を見ることが出来る。種の粒子性は因行果徳の四次元をその根源とし、波動性は境智行位の四次元をその根源とし、構造性は衣正業報の四次元をその根源としている。

とりあえず私の生命に関する序説的考察は、終えようと思う。生命に関する私見を様々論じてきたが、これらは私が折々に思索してきたことを、思い付くままに述べたものである。したがって、私の勘違いや記憶違いなど多々あるかもしれないが、それもまた私の人生記録であるとご容赦して欲しいものである。