日蓮本仏論序説

日蓮本仏論序説 
日蓮本仏論序説 序文

釈迦、天台、伝教、日蓮といえども皆、人間である。日蓮を本仏と仰ぐのは、名も無き至理に初めて名前を付けた日蓮の決断に対し尊敬を込めて言うのである。
ハイデッカーは徹底的に現実を直視し神を否定した。第一次大戦後の混乱は大衆に不安と恐怖を与え、さらにナチ政権と第二次世界大戦は、人間性を無視した最悪の社会状況を現出した。そんな中で、人間性の復活を説き絶望や虚無感からの脱出する道・救済の哲学を思索したのである。
七百年前、日蓮もまた相次ぐ天変地妖が続き「飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に越え悲しまざるの族敢て一人も無し」の地獄絵図のような世界になったのを眼前にして、不幸の原因を世に明かすことにした。八宗、十宗に分かれた日本の仏教界に一切衆生を救う力のないことを説かねばならない使命感に燃えていた。
日蓮が立宗宣言をしてから七年を経ていたが、国家の重大事であるとの認識から警世の書「立正安国論」を北条執権に上呈したのである。
不幸の根本原因は一切の邪宗邪義にあり真実の仏の教えに背く故であるとし、仏のいう真実一乗妙法とは南無妙法蓮華経のことであると断言した。「法華経の行者」日蓮の出現である。
この日蓮の法と血脈は地下水脈となって今日に到り、創価学会によって汲み上げられたといってもよいだろう。
初代会長を牢獄で失い、壊滅的な打撃を被った創価学会の二代会長・戸田城聖も人間性を無視した最悪の社会状況を体験したとき、七百年前の日蓮と同様の心境であったろうと思われる。
池田大作は、戦後の混乱した社会状況、不安と希望を失った庶民の姿を目の当たりにしたのである。そして創価学会の二代会長・戸田城聖との出会いによって、人間革命の哲学を学びながら、日蓮仏教を体得していったのである。その後、人間革命をさらに止揚することにより人間性の復興を説き、人間復興、人間ルネサンスの哲学を絶望や虚無感、アイデンティティの喪失から脱出する大道・救済の哲学として世界に提示したのである。
創価学会の出現は、日蓮仏教の蘇生であり、日蓮の法華経の説法の開放的実践でもある故に創価学会の中に血脈が蘇ったといえる。血脈とは、形式的な形態によって受け継がれるものではなく、地涌の菩薩であるという自覚の中にあるのである。法を護るだけでは如何なる詭弁を用いても血脈があることにはならない。これが仏との約束・誓いという仏教の契約史観である。
悠久の時を流れ続けるガンジスの大河。深固幽玄なるヒマラヤの山麓を望むインドの地に不世出の哲人、ブッダが残した仏教。東南アジアや中央アジアを経てシルクロードを通り中国、朝鮮そして日本に辿りついたのは今から千数百年も前であった。
人類に残した未聞の法は、日本に出現した大乗の菩薩日蓮によって、さらに人間存在の根源的な法として止揚され完結されたといえる。
仏の寿命が、時間的に無始無終であり、空間的に無量無辺の永遠普遍であるならば、仏の説く法は全人類のために存在する法だといえる。しかし仏の説く法など存在するのだろうか。仏はどんな姿で現れて誰に法を説いたというのだろうか。よく仏像などを見るが、彫刻した人間も仏など見たこともないのによく彫れたものだと感心する。
人間の持つ歴史性と精神性は、人間存在の本質的あり方を把握する上で大事な視点でもあり、仏と人間の関わりを徹底的に追求する事がその把握に欠かすことの出来ないものといえる。人間にとって神や仏は、無視することの出来ない実感として人間存在の基底部に存在するのである。
日蓮の生涯の思想と実践は、人間の持つ歴史性と精神性を本源的な次元から説き続けた一生であったといえる。崇高なる人間探索の偉大な哲人であるといえる。
日蓮とはそもそも何者なのであろうか。この問いに答えることは困難なことである。人間日蓮を知るには、日蓮仏法、日蓮仏教の理解のなかより探らねばならないだろう。まず日蓮の仏法と釈迦の仏法の違いが、日蓮の思想を理解するポイントとなる。そのためには「久遠元初」と「久遠本仏」に対する人間的把握が必要なのである。
日蓮の人間理解は、歴史的、社会的存在としての人間を、諸法の次元から根本の法体の解明へと展開することにあった。そして、諸法の次元における人間存在の把握は、法華経を中心とした永遠の菩薩行のうえに展開されていくのである。
さらに、仏は心そのものとして規定されるに至り、人間的諸法もまた本源的な諸法そのものに向かう傾向性を持つと考えた。それは歴史的に有限である故に無限を望むという逆説は、人間存在の普遍的真理でなければならないと思考したからである。
したがって日蓮は、仏を教相上の観念として見るのではなく、現実の歴史における人間との関連でみる事を主張した。単なる永遠の実存としての仏では歴史性が取捨されてしまうからである。
その意味で天台の三世間の概念は仏や菩薩を歴史上に具生させる点で有効な理論であった。日蓮もまた歴史的に天台教学を学び、時代的に天台密教や天台本覚思想を間近に眺めていたのである。しかし単に天台の延長ではなく、むしろこれらの思想を経由し体験しつつ止揚することをめざしていたのである。
日蓮の二十年にわたる仏教研鑽は、仏教の勉学のためというより、法華経第一の確認とその法華経の説かんとする真意の探究であったのである。釈迦・天台・伝教が知っていて広めることが出来なかった真意の探求と流布にこそ日蓮の血脈の本源がある。
日蓮の遺文に本覚思想や台密との類似する表現と思想があったとしても、その意味や構成の根拠に違いを見出すことが必要となるのである。
この序説の全体を通じて言えることは、日蓮本仏論というより人間論である。「人間とは何か」という問いは、あらゆる宗教、思想、哲学から科学にいたる全てが最終的に求めるものであろう。
この人間把握の方法が様々であるからいろんな宗教、哲学が生まれる。アプローチの仕方で様々に観ることのできる人間とは、実に不思議な存在といえる。
その人間について語るとき、その人の感じる最も特徴的な面こそ人間の本質であり、欠かすことのできない部分または人間そのものを把握したものという思い込みから出発する。
人間の規定の仕方いかんで、家庭も社会も国家もその有り方をいくらでも展開できるのである。したがって自分の思い込みを絶対に正しいという信念からすべてをこじつけることだけは気をつけて頂きたいのである。
人間とは何かを知ることはまさに悟達であろう。人は皆それぞれ勝手に悟りを開くことのできる都合のいい生き物であると私がいうと、それは貴方の人間規定かという人がいるが、これは「悪魔の辞典」風に述べただけである。
ただ人間論を語る人の人生と家庭が、その思想にも係わらず不幸な家庭と人生を送っているように見えるのは何故だろうとつくづく思うのである。
日蓮の人間把握の根幹は、そのまま法華経と日蓮の関係にみられる。「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや答えて曰く ~ 滅後の衆生を以て本と為す ~ 末法の中には日蓮を以て正と為すなり」(法華取要抄 333頁)とあるように、自分の為にと断言している。
仏教史上、法華経をこのように捉えたのは日蓮一人であろうと思われる。当然この解釈の根拠が日蓮の人間感と思われる。また、仏教上から見てもこの法華経観は日蓮独自の史観であり、その仏教史観は究極的には人間史観ともいえるのである。もちろん人間史観といっても人間観とは別に人間史観があるという意味ではない。
法華経に対し日蓮ほど史観を重要視したものはいないと思う。時を意識して歴史を観ることが出来るのは人間的生においてのみ可能である。客観的実証科学における歴史学は過去の出来事に限られてしまう。
日蓮にとって歴史は、客観的に存在するのではなく、人間存在にとって本質的な特質として時を撰び、時を創造する主体的な行為の結果として捉えているのである。「日蓮が修行は久遠を移せり」、「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり」(百六箇抄 863頁)とあるが、日蓮という主体的、歴史的人格の行において久遠は歴史性を持つことが出来たのである。
日蓮の法華経理解とその行は、この人間史観を理解しなくては把握できたとはいえないだろう。さらに今日において、日蓮を本師、本仏と信ずる創価学会、SGIの思想と実践行動、ならびに歴史的存在意義も見出すことはできないだろう。
またこの御文をもって単に久遠が、日蓮に内在するという意味で「久遠即内在」というのではないだろう。西洋哲学でいう神秘主義や汎神論の範疇に入る「超越即内在」と同義ではない。このような内在に偏り過ぎた史観ではなく、歴史を超越しなお歴史上に具生する発動性、能動性を内包した動特性を持つ運動体系としての人間史観である。
歴史を直観や観念の領域に埋没させてはならないのである。歴史という時空間に具体性と実在性を持つことこそ日蓮仏教の本質があるのである。それ故に仏の衆生救済の歴史が現在に生かされてくるのである。
とはいえ、仏の衆生救済の原理構造といっても仏が出現して人間の苦悩を解決するといったものではない。仏教における仏は、法としての仏なのであるが、日蓮仏法における仏は、人間そのものが、法体としての仏と大きく関わっていることを明かしているのである。
日蓮仏教の独自性における「久遠元初」と「久遠本仏」はそのままだと日蓮久遠本仏となってしまうが、これは日蓮の神格化、偶像化ではなく、日蓮を見本とする一切衆生に開かれた久遠本仏論と展開されるのである。衆生が、自己の過去の本地を覚知すれば誰でも久遠仏となれるという原理なのである。
これが日蓮仏法と釈迦仏法の大きな違いから来るのである。要するにこの両者において仏の意味合いが異なるのである。釈迦の言う仏、日蓮の言う仏では、法としての仏と法体としての仏という違いが明白なのである。
また本尊も日蓮の悟りの当体とする「本尊実体論」になってはいけないのである。三大秘法の本門の本尊と曼陀羅の本尊を同一視するところに数々の誤りが生じてしまうのである。
三大秘法の本門の本尊は、人間に具わっている南無妙法蓮華経の法体を意味し、本門の本尊と名付けたのは、修行の規範すなわち、三学になぞらえたのである。
曼陀羅の本尊は、修行の対境に過ぎないのである。相藐等が真言の曼荼羅に似ているといっても衆生の修行に便利で都合がよかったからに過ぎないだろう。曼陀羅の本尊は衆生の修行の対境なので、形態や相藐に特段意味を持たせる必要がなかったと言える。人間以外に本尊という実体はない。これは竜樹の無我説の本質的結論と同一なのである。
また「日蓮本仏論」に対する批判は釈尊の弟子である上行菩薩の再誕である日蓮が、久遠本仏として釈尊の本師になるのはおかしいといったものである。
これは日蓮仏教における久遠の論理と本仏の概念を十分に理解していないところからくる批判である。
さらに日蓮の遺文に約束とか契約とか誓願といった言葉が度々でてくるがこれは未来の行為を予測あるいは実行することと、現在の修行の裏付けまたは根拠とする二面性を持つ言葉であると理解すべきである。
この約束・契約・誓願の史観は、日蓮仏教においても無視出来ないくらい行の基底部に存在していると思われる。弘通の誓願は、衆生救済の歴史であって弘通の為の弘通ではその手段と目的が本末転倒になる危険がある。衆生救済を目的とする師弟の契約である。
「此の経釈を案ずるに過去無量劫より己来師弟の契約有りしか」(最蓮房御返事 1340頁)。日蓮にとってこれら約束等は、自身の歴史に先行して存在し、修行の場において歴史化する史観といえる。
これは歴史以前になされる約束等であるので、仏と菩薩の関わりにとって重要な意味があると思われる。「如来の所顕として如来の事を行ず」(法華経法師品十六)。
仏の衆生救済の歴史は、本来、仏が行う救済を代わりに菩薩に託すところに仏の歴史化の原則を意味しているのだろう。故に菩薩行は歴史以前に先行され、先在された約束等は仏の未来規定ともいえるのである。
どんなに偉大な法を覚知したとしても、その法を正しく継承してくれる後継者がいなければ、自身が再誕してでも弘通したいと考えるのは当然であろう。安心して入滅もできないことになる。
インド応誕の釈尊は、末法における本師の出現を予言し、その法を上行菩薩に付嘱したとはいえ、自身もまた末法にあって本師と共に広宣流布の庭に参画したいと思わない方が不自然である。
「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」(法華経化城喩品第七)。釈尊自体は本当に本師が末法に出現すると思っていたのだろうか。もしそう思っていたとすると、釈尊は自身の立場を本師の出現の予言者の自覚といえる。しかし、釈尊の予言は、上行菩薩の出現のみである。
こう述べてくると本師や師弟における師、契約した師弟の師がまるで人間であったかのように思えるだろうが、決してそうではないのである。例えば「本師の出現」という表現もそうなのだが、法体としての師を本師あるいは師と表現しても良いだろうと思う。法あるいは法体としての師を人間に置き換えたいと思う気持ちはよくわかるが、そうすることによって、釈迦や日蓮を本師にしたくなるのである。この思いが仏法や仏教の本意を間違えたり、勘違いしてしまう元凶なのである。
釈尊の悟達は、彼自身が思いもしなかった悟りの深さに大いなる戸惑いを生じたと思われる。法の流布による衆生救済の使命感はまた現在の自身の立場を明確にする必要にせまられた。釈尊の悟達とはまさに本師とは、根源の法であった。
その本師を自身が流布すべきかどうかである。この戸惑いは自身を取り巻く環境の中にあって逡巡せざるを得ないものであったと思われる。釈尊の悟達をいきなり説くにはあまりにも予備知識がない中で時間をかけて環境作りをする以外になかったのである。
その意味において日蓮は、自身の悟達を確認した後にただちに行動に移す社会環境が整っていたといえる。仏とは根源の法体であり万物の種であるから現実の歴史上に出現するのは、人格知としての菩薩のみである。
ここで明確にしておく必要がある。釈迦の悟達は、根源の法であるが、日蓮の悟達は根源の法体なのである。この法と法体の違いが、釈迦仏法と日蓮仏法の根本的に異なる点なのである。法とは、五字の妙法蓮華経であり、法体とは七文字の南無妙法蓮華経の事である。
さらに仏とは菩薩の悟達の中にのみ実存するのである。そして菩薩とは、菩薩の行為によって規定される存在として歴史上に構造化されるのである。
従ってこの思想による人間観は、神や仏に束縛されることのない平等性、自由性を持つ人間存在論となるのである。人間は生まれながらに仏もいないし菩薩もいないのである。
その人間に差別をみるとすれば個性としての「我」である。万物の種に「我」が存在するとし、それを「本質我」とする。そしてこの「固有の我」は人間の「本質我」に冥伏されているという。冥伏された「固有の我」が歴史に顕現化された時に差別相がみられるのである。
ジグソーパズルを考えてみよう。百ピースのパズルは当然有限の二次元の世界である。
今、仏がこれをバラバラにして一ピースごとに命を吹き込み一斉に声をかけた。「さあ皆、本来の自分の位置をさがしなさい!」。 
各ピースは一斉に動き出すが、自身を確定する根拠がない。このパズルは自身を確定するのにコーナーにおいては二辺、辺においては三辺、その他は四辺の各ピースと相対して確定されるが、それでも全体の中の位置は確定されていない。
これが三次元のジグソーパズルだともっと複雑になっていく。さらに無限の空間に拡大されたらもはや不可能といえる。この右往左往するピースを上から眺めて喜んでいるだけでは仏の資格がない。こんな仏は、ほっとけであろう。
仏が上から見下して自身の本来的自己を知りたければ私と同じ立場に立って見れば判るといってもそんな立場にピースは実存できない。しかも仮に組あがってもピース自身は全体を見ることが出来ない。
このような状態の中で、そのうち一つのピースが「私の位置はここだ!」と叫んだとしよう。仮にでも一つが確定されればまずその周辺が決定され、その影響はやがて無限に拡大されていく。
この最初に叫んだ者を菩薩としよう。そして、その時「私がここに存在するのは経験的必然性として過去より決定していた」とか「神の決定により予定されたものである」といったとすると、人間の行為に対する選択の自由という観点から決定論や予定論となって人間の本質的自由は奪われる。
仏法では、「仏との約束あるいは契約を自身の判断で選択した」とするのである。菩薩の行う契約は、決定とか予定といった観点では見落としてしまう選択の自由の獲得により新たな人間存在の基準の設定なのである。
従って約束の不履行や契約違反による罰則も同時に存在してしまうのである。菩薩の行による履行等は善となり逆が悪となる。善悪の基準はここにあるのが仏教である。本質的な存在を善悪に分けてはいけないのである。善悪は本質的には同一の二面性に過ぎないと考えるのが仏教思想、仏教哲学なのである。
超越者を基準には出来ないから人間は人間の中に相対的基準を設定せざるを得ないといえる。人間の自由を「神からの独立」と言ったり、「あらゆる選択において自由」のみが真の根源的自由と言ってもそれは人間の存在そのものに対する自由ではない。人間が自身の存在を否定し、存在したくないという自由からは自由ではない。存在を前提にした行為の自由、選択の自由であってその制限からは抜けられない。
現実に人間の存在が、それ程自由自在といった感じがしないのはかなり制限の中で生きているといった実感が強いからだろう。
パズルの場合もそれが二次元であれ三次元であれ四次元であれ構造的に同一であって、一ピースは一ケ所である。自在には存在できないのである。
これらを解決するためには、人間次元で人間の存在を確定する以外にはないように思える。このあらたな次元を人間の心、人間の命と定めれば、それらの特質において諸法と実相、または顕現と冥伏の二極性をもつとする二元論である。このような次元とは時空間という四次元において存在を決定するということである。この時空間というのは、仏教でいうと寿命の一概念である。
そして心や命という無量無辺、無始無終の時空間を内包するジグソーパズルは、まず歴史上に顕現した菩薩によって、その出現した空間と時間を決定し基準を設定することにより開始されるのである。
釈迦、天台、伝教、日蓮も人間の域を出ないが菩薩の行の実践者であることは間違いないだろう。その行による悟りの法体は同一である。表現が何故異なるのかは個人的な悟りを一般化するためには、対応する衆生によるからである。簡単にいうと時機の違いによって異なるのである。
菩薩の悟達とは法体の悟達だけでなく、その法を衆生に対応した所の構造も含めているといえる。自分だけの悟りで満足しているのは、菩薩の悟達とはいえないのである。これを種の概念で表現すると種と下種の悟達となる。
いずれにしても人間は、本源的な法そのものからは自由になれないのである。だからといって仏の衆生救済史が予定であってはなんとなく納得できかねる。
さらに、四次元のピースの位置が、固有の我のみでは、我の個性は認めても、我の発展性がなくなる意味で不自由すぎる。
仏とは「心や命そのものである」という時の仏とは、本源的種の時間的表現であり、仏界は空間的表現である。
仏の概念がその体を中心に論じられたり、相あるいは性の面で論じたり、あるいは「空」や「一念三千」で論じられながら変遷してきたが、久遠の概念と同じく内在する存在原理と見られがちである。
むしろ久遠も仏も「心や命そのもの」が、我の諸法と実相の二元論でとらえ直すことが日蓮仏教の本道だと思う。この諸法と実相は、現実に生きている人間に当てはめれば心や命の種という二元論でもある。
この種は有情・非情にわたる万物の根源種であり、現存する有情・非情の一切は種の顕在化されたものである。縁によってこの種および種子が冥伏から顕現へと転換されるとするのが仏教の法則である。
私論ではあるが、この根源の種ならびに法といっても無量無辺の大宇宙にあって一つの銀河団は同一種ならびに法によって顕現されたとしておきたい。
つまり一つの銀河団の生成の時が根源であると規定するということである。したがって大宇宙に存在する無数の銀河団は無数の種によって成り立っていることになり、この無数の種を統一する根源は法のみとするのである。
大宇宙が命そのものであるとするから、統一する根源の法は法身のみで無始無終、無量無辺であるが、顕現された種は法体となり、寿命をもつ故に有始有終である。
あくまでも例えであるが、始成正覚は太陽系レベルで久遠実成は銀河系のレベルで久遠元初は銀河団のレベルと思えばよいのである。
それでは数千個の銀河団で構成されているその上の超銀河団のレベルの種はどうなるかは考えないでおこうと思う。要は、少なくとも私達の太陽系は有情・非情にわたり同一の種より派生するという考え方が必要なのである
無量無辺の大宇宙を考える前に現存する有始有終の銀河団の誕生の時を「久遠元初」と規定すると大変にわかりやすいのである。
勿論、生物学の種の起源とは異なり色心次元での顕現の初めである。すなわち種の顕現化は当然その時点における十界の十如実相がいかなる状態であったとしても考えられるからである。
日蓮仏法が、何故、釈迦仏法を越える哲理と成り得るのかは、命の根源性と実践論としての歴史性においてであるが、その根底にこの種の概念が存在していると思うからである。また、仏法批判の混乱の原因は、仏・菩薩が悟達を説くときにその悟りをストレートに説かないところにあるのだろう。いわゆる内証と外用という原理の把握の仕方によって起きる混乱と誤解であろう。
仏・菩薩が内証を隠して衆生を教化していくために、現れる外用の法と隠さなくてはならない内証が、隠されている故に多くの解釈が生じてしまうのである。
何故に隠すのか。隠されたものは何か。この内証の実体と隠さねばならない理由が判れば仏教理解のかなりの部分が解決されるといっても過言ではないと思う。
そして、日蓮仏法を根底に平和・文化・教育の推進団体であるSGIの存在意義と使命について考察していきたいと思う。ただその前に戸田城聖の悟達とは何かを検証しておきたいと思う。普通は、悟りを開いた人が教祖になることが多い。
しかし戸田城聖は、あくまでも一信徒の道、地涌の菩薩の生き方を貫いた。戸田城聖の自覚は、仏としての自己の自覚ではなく地涌の菩薩としての自覚であった。日蓮が上行菩薩を越えた存在であるのだから広宣流布のリーダーとしての自覚なら何故、地涌の菩薩ではなく上行菩薩の自覚に立たなかったのだろうか。
さらに戸田城聖や創価学会員が地涌の菩薩なら上首上行は誰なんだとなる。地涌の菩薩の名前の由来は単に地面の底から出現した菩薩という意味だけではない。地涌の菩薩とは広宣流布の使命を担った上首上行を助ける人という意味が在る。
上首上行を日蓮にするわけにもいかず、かといって法主にするには納得がいかなかった戸田は、口にこそ出さなかったが、創価学会そのものが上首上行だと言いたかったのだろう。
池田会長が辞任させられた1979年、宗門はこの点を明確にして戸田の悟りを否定しにかかった。曰く上首上行は時の法主で、僧侶が地涌の菩薩、学会員はその地涌の菩薩の眷属であるとして格下げをしたのである。
また「仏とは生命そのもの」であるという戸田の悟りも全く認めていなかった。この悟りを金科玉条の如く敬う創価学会を内心は馬鹿にしていたのである。曰く、命の生死に差別なしと考える仏教ではことさら生きている命、すなわち有情に重点を置いていないから経典にも「生命」という単語は出てこないのである。



仏教の悟達者たちは、何故ストレートに発言と行動をしないのだろうか。真に不思議な現象である。
日蓮仏法と創価学会が、歴史上に発動性と能動性によって人類に果たす多大な貢献を正しく理解する必要があるだろう。
法主本仏論と法主血脈論や御書部分論、さらに僧俗差別論から宗門の権威主義、特権意識にみられる日顕宗の誤りが、信徒蔑視から人間差別へと進むにつれてますます日蓮仏法から遠ざかっていく。
日蓮が「最上第一の相伝あり」(781P)と言われたのは、法華経の普賢勧発品の文である「当起遠迎当如敬仏」である。未来すなわち末法に出現する法華経の行者を仏として敬うようにという、釈迦の厳命である。
総じて末法において法華経を修行し広めようとする人々に対しても同義であろう。「身軽法重の行者に於いては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」(1618P )とも仰せである。
徹底した人間主義を貫いた日蓮の精神と行動を真摯な姿勢で学び直さなくてはいけないだろう。
創価学会と宗門の対立の根底に戸田の中途半端な悟りが存在し、影響していたのは事実であろう。戸田の悟りに対する評価の違いは、宗教のプロ集団である宗門と素人集団である創価学会の対立という構造に謙虚に表れてしまって、ますます収集がつかなくなっていくのである。
さらにこの構造が互いに批判と罵りあいと、馬鹿にしあっていくことになったのである。互いに自分こそ正義と叫びあう見っとも無い紛争になってしまった。
それでも人々は日蓮仏法と創価学会が、歴史上に発動性と能動性によって人類に果たした多大な貢献を正しく理解する必要があるだろう。
近代文明にたいする危機意識が叫ばれ、同時に宗教に対する論議が盛んになったといわれてから二十五年くらい経った。約四半世紀の間、人類は殆どといっていいくらい精神的な進歩がみられないように思える。
資本主義の腐敗と共産主義の崩壊も人類の精神的成長には繋がっていかなかったようにも見えるのは何故だろう。
さらに、金権腐敗と利益誘導にはしる政治家や日本人の政治意識の低さと仏教国とは思えないくらいの精神意識の低さを感じるのは私だけであろうか。
多くの人類的課題を抱えたまま二十一世紀になった今日、いま一度人類は宗教の復権を叫ぶ時が来たと思う。日顕宗と自民党の崩壊も権威主義と権力主義が音を立てて崩れ始めた証左といえる。
人間の内なる色心の広大無辺なることを真摯に見つめ直す、人間ルネサンスの到来を思わせる瑞相のように感じてならない。



第一節  根源性の覚知のための日蓮仏法

日蓮本仏論序説 第一節
第一項 上行菩薩の使命と役割
第二項 釈迦と上行と日蓮の関係
第三項 久遠元初と末法
第四項 種の概念と久遠本仏
第五項 日蓮の外用と内証
第六項 法華弘通と血脈観



第一項 上行菩薩の使命と役割
 
初めに上行菩薩とは何者かを問う必要があると思う。すなわち上行菩薩の使命とその役割について述べてみたいのである。
言うまでもなく上行菩薩は、法華経の会座において、颯爽と地涌の菩薩の上首として登場し、釈尊より法体と法の付嘱を受けて、本国土に帰ってしまった菩薩である。その後、末法において再誕するまで姿を消している謎の菩薩である。
釈迦が法華経を説いたのは、娑婆世界である。その娑婆世界の大地の下に虚空があって、その虚空に上行菩薩が住んでいた。そこで何をしていたのかは判らないが、とにかく、釈迦が説く法華経を聞いていたらしい。
法華経の説法が、従地涌出品にきた時、自力で、娑婆世界の三千大千の国土の大地を割って涌出したので地涌の菩薩と言うらしい。上行も地涌菩薩も自分の出番の時を承知していたらしい。菩薩の本分は時を知り、時を感じ、時を創造することにある。大地の下に何故虚空があるのかは考えないでおこう。釈迦の説法が、何故聞こえたのかという疑問も考えないでおこう。要は、上行菩薩の出現が、寿量品を説くきっかけになったことに意味がある。
この地涌の菩薩は、仏と同じ三十二相を備えているので、仏と同等の扱いである。その菩薩が上から降りてこないで下から涌出したのはおもしろいといえる。上に天界があって仏・菩薩より格下の神が住んでいる。格が低い者程、上にいきたがるのだろうか。
地涌の菩薩らは六万恒河沙という無数の菩薩群で、しかも一人一人の菩薩にまた多くの眷属を引き連れているという。これらの菩薩群が同時に出現したという。さらにこの菩薩や眷属たちが、釈迦・多宝・分身仏に挨拶をしたので五十小劫という長い時間がかかった。
このままでは、一座の大衆は、退屈するどころか、挨拶が終わるまでに寿命が尽きてしまうから、仏の神通力で半日のように思わせたという。仏とは、時間を自由自在に操れる存在のようだ。
寿量品に入り、上行菩薩と地涌の菩薩の出番はとりあえず終わる。そして、如来神力品において再び登場し、「法華経」の弘通を誓うのである。
この時に釈尊は、神通力を示すが、その内容は、多くの意味を感じるので後述したい。ともかく、神通力と不思議の現象を示した後、上行菩薩に法と法体の付嘱するのである。この神力品は、日蓮仏法においても重要な品である。
次の嘱累品において一切の菩薩に「法華経」を付嘱したのち、多宝を含めて全て本国土に帰ることを勧めたので、地涌の菩薩たちも本国土に帰るのである。
これで虚空会の説法は終了する。法華経もここで終わってもよいのだが、再び霊鷲山にもどって説法を続けるところに、法華経の重要な意味がある。
嘱累品で終わらずに、以後薬王品から普賢品で菩薩や王と法華経の関係を説き、「法華経」の偉大さを讃えている。
釈尊が法華経を説き終わると、普賢等の菩薩や舎利弗・天界の衆生達は、大歓喜して釈尊の法を受持し、敬礼をして退出していった。
全員が本国土に帰った後、それぞれが何をしているのか不明であるが、全員が次の自分の出番の時を承知していることは推測できる。
「観音・薬王は既に迹化に居す南岳・天台誰人の後身ぞや正像過ぎて二千年未だ上行の出現を聞かず云々」(五人所破抄 1613頁)
滅後に出番がくるのを待っていた上行菩薩は、正法像法を過ぎて突然末法に出現した。滅後なら何時でもいいはずなのに何故末法なのだろう。天台は薬王の再誕で伝教は天台の後身というが、この二千年間、全く無視されているのである。
上行菩薩は、釈尊より付嘱された法体を明かし、その弘通をする約束をしたのに何故なのだろう。そしてその法体は何であるのか。天台や伝教はこのことをどう思っていたのだろうか。まったく不思議である。
さらに末法においていかなる姿で出現するのだろうか。法華経の会座では、全身金色で、三十二相を備え、全身より光明を放っていたというが、そのままだと、末法の衆生はきっとびっくりしてしまうだろう。しかも、大地を割って踊りていで給いしにおいては、末法の衆生も困ってしまうだろう。
末法の事はさて置いて、法華経に出現した上行菩薩の役割をみてみよう。一つは滅後に法を弘通するのは我々であると自己紹介をしたことであり、二つめは、釈尊がこの上行菩薩等の出現をきっかけにして寿量品を説いたことである。弥勒菩薩等の疑問に対し五百塵点劫を顕して久遠実成を開くことが出来たのである。
三つめは、滅後の弘通の誓いをした上行菩薩に弘通すべき法を付嘱したことである。詳しくは述べる必要もないと思う。以上が上行菩薩の法華経の文上での役割とみてよいだろう。
このように法華経の文上における上行菩薩が、釈尊の説法教化を助けるとはいかなる原理を示しているのだろうか。
自己の過去を久遠にまで遡った釈迦の悟達を歴史上に再現することは、ほとんど神話の世界である。その神話にいかなる仏や菩薩が出現しようと釈迦の己心の表現にしかならない。己心中の表現はなかなか人々には疎通しないものである。
ただ、上行菩薩が何故自分の出番の時を承知していたかを考えると、過去五百塵点劫に一度同じように本国土より出現しているからだと考えた方が自然である。すなわち釈尊は、在世における法華経の説法は、二度目になるということである。
久遠五百塵点劫に成道した釈尊は、仏果を得た故に法華経を説いたのである。したがって、歴史的教主である釈迦の説法を五百塵点劫の再現と考えるのである。
多宝如来の誓願である「法華経」の証明も十方の世界のあらゆる所で法華経が説かれる事を物語っているといえる。
また、神力品にも法華経のある場所なら、そこは悟りの場所であり、仏たちは、そこで悟りを得、そこで涅槃に入るといっている。
五百塵点劫にあっても教理的釈尊が法華経の説法を行っていても不思議ではないという事になる。そしてその時も上行菩薩は、やはり本国土から召し出され付嘱を受けて本国土に帰ったのである。
過去の再現を単に一種の運命論のように考えてはならないだろう。過去の再現は己心の開仏知見ということであるから、仏法よりみれば果位から因位に戻ることに他ならない。
ただしこれは、過去に因位から仏果に昇ったことを前提にしている。自己の本果を示すことは、当然その本因を示す事になる。
そして過去と同じ原理を以て現在における因位から果位に至る原理を説くことが衆生救済としての法華経の説法である。
日蓮はこの原理を次のように述べている。 「本果妙の釈迦仏・本因妙の上行菩薩、久遠の妙法は果、今日の寿量品は花なるが故に従果向因の本迹」(百六箇抄 863頁)。この文は久遠従果向因の本迹ではあるが、本因・本果は因果倶時で教理上の釈尊と久遠の上行菩薩とは一体不二の関係にあり、従ってこの師弟は不二ともなるという。
教理上の人が一体不二であるばかりでなく、その所持する法、即ち久遠の妙法も今日の寿量品も一体不二となるのである。
一体不二なる二者間における付嘱は、果から因への付嘱として滅後の為という仏果の未来化を示すことになる。「本果妙の釈尊、本因妙の上行菩薩を召しい出す事は一向に滅後末法利益の為なり」(百六箇抄 864頁)となり、正像二千年間に上行菩薩が出現していないから滅後は末法とするのである。
本因の上行菩薩は本因の弟子であって、迹中の弟子である文殊菩薩も過去に於いては龍種尊皇仏という仏であるから、本化の菩薩である上行菩薩が本果になれるのは当然ということになる。
久遠をみれば釈尊・上行一仏であり倶に本果となるのである。したがって、法華経の文上の上行菩薩は、外用の上行であり、内証の上行は、釈尊己身・所具であり名異体同・一体尊仏となる。
しかし、日蓮仏法においてはさらに久遠古仏・内証の上行にまでその役割は増えていくのである。実成の釈尊が理即名字の位にあった時の本師すなわち五百塵点劫の当初の師は、実成の釈尊の内証にあるのだろうか。
本師とか仏というと、どうしても人格知としての存在に思われるが、法を師としても一向に差し支えないのである。その場合は、法を師として修行することになる。しかし法が法を説くことはないから、菩薩がその師である法を覚知した後に修行することになる。
仏果とは、法を覚知することだが、その後再び因位の立場での修行を経ることによって覚知した法の確認作業をするのである。
前に述べたようにこれは自分だけの悟りで終わらず悟達する自身の客観性の確立のためである。それは、悟達する自身の歴史性を獲得することになる。この師である法について、法華経のなかでどのように説かれているのだろうか。
日蓮はそれを神力品より見出すのである。「爾の時に仏上行菩薩大衆に告げたまわく属累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽くすこと能わじ、要を以て之云わば如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事皆此経に於て宣示顕説す」の文である。是は四句の要法といわれるものである。
日蓮においてこの弘通する法は、釈尊の内証の秘法・本地難思境智の妙法・事の事の一念三千たる本門寿量の妙法であるというのである。悟られる法は、悟る菩薩の存在によって顕現する場所を得ることが、法身の法身たる所以とするのである。
上行菩薩とは、実に様々に活用されているとても忙しい菩薩である。外用と内証の上行菩薩の役割は、釈尊や日蓮にとって欠かす事の出来ない菩薩なのである。しかし、天台や伝教においては、それ程、重要視されていないところに上行菩薩の存在の重要性を感じるし、また、天台や伝教と日蓮の相違を見ることが出来ると思う。
日蓮仏法における上行菩薩は、上行再誕としての日蓮という姿で出現することになる。その場合、上行菩薩は属累品において本国土に帰っているので、本国土より末法に出現したことになる。上行菩薩とはまことに不思議な菩薩、不思議な使命と役割を担った菩薩であるとしか言い様がない。



第二項 釈迦と上行と日蓮の関係

法華経にそって上行菩薩の役割をみてきたが、この釈迦と上行と日蓮の関係を人間次元で考察してみたい。
人間次元とは、時空間における人間の命あるいは心の顕現と冥伏という二元論より把握した視点である。勿論、法華経の会座における上行は人間ではない。したがって釈迦と日蓮という二人の人間の間で人間でない上行はどんな役割を担うのかを釈迦・日蓮の立場から考えてみることになる。
釈迦と上行と日蓮の関係を述べるにあたって無限と有限について述べておきたい。すなわち人間次元での時空間に関連するからである。
久遠とは有始なのか無始なのか良く判らない。久遠は、単純に無限の過去と解釈する人がいるが違うのではないだろうか。
現実の末法は有始であるが、久遠即末法の立場から末法も無始無終であるという。久遠実成は有始で久遠元初は無始であるという。しかし、どうにもすっきりしないのである。そもそも仏の寿命が無始無終であるから久遠の仏も無始無終とすることになる。
仏教では、時間的に無始無終を説き、空間的に無量無辺を説いている。しかし時空間の無始無終・無量無辺は、人間次元では意味のない時空間に思えてしまう。顕現された状態は、当然として有始有終である。有限の寿命である。
そもそも無限の寿命などあるのだろうか。仏教では、仏の寿命は無始無終であると説いているが、なかには有限の寿命の仏も結構いるらしい。冥伏して無限に連続することになるなら、その意味において、実成も元初も有始であると考えても矛盾しないと思える。当然仏も有始有終であってもおかしくないだろうと思う。
従って久遠も有始有終であろう。始成における十如是も久成における十如是も元初における十如是も顕現したとすれば諸法実相が存在するからである。
譬えていえば、始成は太陽系レベルの誕生であり、久成は銀河系レベルの誕生であり、元初は銀河団レベルの誕生の時にあてはめられる。勿論この説は、法華経にも日蓮仏法にもないし、仏法的にも根拠のないものである。ただ、そう考えた方が判りやすいだけである。
次に、久遠は、久しく遠い過去なのか未来なのかも考える必要がある。三世各別あるべからずである。過去と未来は現在の一瞬に内包されているというがよく判らない。過去は九識に蓄積され続けて現在に至ると思えばなんとなく理解できる気がするが、では未来はどの様に内包されているのだろう。
未来が経験的必然性として決定されていたり、神の意志によって決定された予定では、未来に自由がない。未来を自由と規定してもなお未来が現在に内包されているとすれば未来とは何かを問い直さなくてはならないだろう。未来の確定は未来にくる現在に於いて確認するしかないからだ。
この過去・現在・未来を時空間という観点からみれば、人間の顕現と冥伏の歴史と捉えることができる。この歴史観より観た三世の歴史は、人間の主体的な活動によって創造されていく性質を持つのである。
時を意識の中に取り入れて歴史を観じることができるのは、人間だけであるから、時を撰び、時を創造することによって未来を決定するのが仏法史観というのだろう。
この撰時と創造によって現在に内包するのが人間史観による現在である。歴史は、客観的に存在するとは思えない故に、観念の世界に埋没させてはいけないだろうと思う。
仏教には、無限・有限の概念より無始無終の概念を用いる。無始無終は無限であり、有始有終は有限と考えられがちだが、無限も有限も限定されたものが基準となるが(無量・無辺も同じ)、仏教では限定された時空間は本来的に存在しないと考える。
有限とみえる人間存在も冥伏から顕現の変化相の連続と把握するのである。有限に対向して無限が極限的理念となるので、有限は無限の存在より生成されると考えられる。この有限をたえず生成する無限の概念は、時空間における質的側面と量的側面を上手に説明しているといえる。
しかし、これでは、有限からは無限を生成できず、常に有限に内在する無限となり、時空間を有限に畳み込む極限的理念としての無限のみが内在することになる。そして、このような内在に偏りすぎると、存在の歴史性が取捨されてしまうことになる。
仏教では、有限に無限が内在するのではなく、変化相としての顕現に外用と内証という二面性が存在し、顕現と冥伏の二極性が不断の連続性を持つと説かれている。
そして、この不断の連続性は無始無終であり無限定の無限である。したがって、数学における無限大・無限小や浮動小数点の表示における相対ゼロ即ち特異点などという概念は存在しないのである。
あえてこの無限の概念を用いるとすれば不断に連続性を持つ人間の一側面を静的に限定し、その静特性を時空間化して永遠の命と表現することになるだろう。このことを前提にして釈迦・上行・日蓮の関係を考察する事になる。
人間釈迦における自己の過去化と未来化は、無始無終の時空間にあっては単なる過去の記憶と未来の予言ではない。また単なる過去からの延長としての現在でも現在の延長の未来でもない。根源的自己と、その自己を未来に移して実現することである。
それは存在する自己自身の内的二極性の外的反映である。この過去と未来の知見は、ともに現在を確定するためのものである。過去の知見から現在を確定し、また、未来を知見して現在を確定するのである。そして、現在の確定は、永遠の命の時空間化である。
しかし、仏教でいう時間・空間は、相互に不可分とはいえそれぞれが決定権を持つ対立的存在ではない。空間がなければ時間がないとか、時間がなければ空間がないというものではない。
釈迦如来は、自己自身の過去の姿を開示して久遠実成の釈尊(報身仏)としたが、この過去の釈尊は、同時にまた未来の釈尊となるべきであろう。三世に一貫して流れる自己の本質としての永遠の命を悟達することは、釈尊の人間論的展開と人間の普遍性を表現することになる。
釈尊は、未来の自身をどのように思い描いていたのだろうか。彼の心にどのように映し出されていたのだろうか。そこに、釈尊の未来規定としての上行菩薩の存在が浮かび上がってくる。その視点から法華経をみると、別の見方ができる。もちろん法華経は、滅後の大白法の出現とその弘通を上行菩薩に託したとはいえ、釈迦自身もまた薬王品で示した広宣流布の運動に参画したいと思うのは人間として当然のように思われる。
しかし、釈尊が護持した法は上行菩薩に付嘱してしまったので、自分は護持してないことになる。メッセージを託しただけだと主張する人もいるがそうではないだろう。私はこの付嘱は、返却に相当すると思っている。
滅後、末法において大白法の出現は、当然その法を護持した人の出現を意味する。その人は、五百塵点劫の当初の釈尊の師である法(法身仏)を護持する人(報身仏)である。これが末法・法滅の時、白法隠没の規定である。
そもそも人の感情として、自身の悟りは永遠であって欲しいと願うものなのだが。「大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり・・・次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」(撰時抄 258頁)
この白法隠没の規定は、釈迦仏法の本質を端的に表現していると思われる。釈迦如来の悟達は、まさに条件付の悟達といえる。
釈迦は、自身の悟達の条件を熟知していたといえる。仏は、衆生を救済する使命というか力用を持つ故に、白法が隠没したら終わりだと開き直ったら仏ではなくなる。
したがって釈迦は、師と共に倶生し、末法の衆生を救済する自身を見たと思われる。人間釈迦の、弟子としての願望が上行菩薩への付嘱となったといえる。
勿論、久遠仏の本因としての上行菩薩であるが、前項で述べたように、この上行菩薩という菩薩の役割は実に多岐にわたっているので、そのうちの一つに限定することはないだろう。
この場合は、釈迦の再誕上行となって、自身に付嘱したといえる。法華経においては本師の存在を匂わすだけで留め、文の底に沈めたとみるべきだろう。仏果を得た釈迦如来は、因位の菩薩として即ち上行菩薩としての自身の再誕を予証したことになる。
このことは、五百塵点劫の当初における理即名字の位にいた時の再現を末法に移したということである。久遠実成を在世に再現した釈尊は、次に久遠元初が末法に再現することを予言したのである。
人間が、自己存在の根源性を覚知することは、抽象的な直観知ではなく、人格知として常に歴史上に能動性を伴う知の体系でなくてはならない。法華経は、その体系をシステム化したものであり、仏と衆生の三世にわたる自己表現のシステムといえる。
日蓮は、このシステムを自身にあてはめて作動させたのである。日蓮が、自らを「法華経の行者」と断言する時、それは単に法華経を一つの経典として自己の人格から分離した客体として扱うことを意味するのではない。法華経と自己の人格との一体性を意識していると思われる。
勿論、文上のシステムをそのまま作動させるのではなく、文底より作り直した後に作動させたのである。故に、日蓮独自の法華経観となり日蓮仏法という所以である。
日蓮も自身の根底に流れる理法を実践行為に移すことによって、本源的な自己の顕現をめざしたのである。この理法と実践の関係は静的抽象的な理法ではなく、自らを実践の主体として自己を具体的存在へと表現させられるところの理法である。自身の顕現は不断の自己否定などによるのではなく、不断の連続的実践行による種の成長と境涯の開花によるものである。
不断の自己否定は無限となり、確定的な究極の否定などという特異な時点など存在しないのである。また、理法が実践に先行して存在するのではなく、相即一体となっているのである。
実践は、理法の内的必然性を、理法は、実践の指向性を促すともいえる。これが「法華経の行者」の哲学的意味である。
この理法と実践の関係における媒介としての法華経並びに上行菩薩の役割が明確になってくるのである。日蓮と天台の法華経理解の大きな違いはここにある。天台仏法を理と断じ、日蓮仏法を事の事とする所以である。
修行者は初めに自身を因位の菩薩と自覚することにより、果位に登った仏としての自己を規定(果位の仏佗)する。次に非仏としての菩薩(因位の菩薩)として再現させることによって人間の歴史に顕現する。
日蓮もまず自身を菩薩として自己規定したのち、久遠本仏(報身仏)たる自己を顕現すると同時に即身としての上行菩薩の振る舞いによって如来の事を行ずるのである。
釈迦も日蓮も歴史の現存在であるのに対して、上行菩薩を観念的な仮定にすぎないとするのではなく、仏の我としての力用として常に菩薩の我に存在し続けていると見て置いた方がよいのではないかと思う。上行菩薩を媒介者として、日蓮イコール釈迦と短絡しては日蓮仏法の真意を誤解することになってしまうのである。
釈迦と上行と日蓮の三者の関係にあって、外用と内証の上行菩薩は、釈迦の外用と内証及び日蓮の外用と内証によって様々な相の転換をなしていることに注目して置くことが大事な視点であると述べておきたい。



第三項 久遠元初と末法

釈迦如来が、久遠実成を顕す為には上行菩薩は欠かすことが出来ない存在であった。日蓮が久遠元初を明かす為には、上行菩薩と久遠実成の釈尊は欠かすことが出来なかった。釈迦にとっての上行菩薩は、自己の本地(報身仏)を明かす媒介者となる。
ここで問題となるのは、釈迦にしろ日蓮にしろ何故媒介者が必要なのかである。いきなり久遠実成なり、久遠元初なりを説き明かせば良いように思える。それでは信憑性に欠けると言うかもしれないが、信じる信じないは勝手である。えてして一般の宗教等はそんなものである。
上行菩薩の存在に係わらず釈迦は実在し、彼の悟達を説けば良いだけなのだから。しかも理法の上の菩薩が媒介者と成りえるとするから神話の世界に思われてしまうのである。したがって実在する上行菩薩が必要となり、さらに媒介者となって久遠の釈尊を存在させるという役目を担うことになる。
ヘーゲルのいう媒介性と同じである。従って今度は、上行菩薩を存在させる実在の媒介者が必要になる。そこで、上行再誕の日蓮が登場するのである。日蓮はまず自身を媒介者として上行菩薩を存在させて、脱神話を図ったのである。
そして、上行菩薩が実在する故、久遠の釈尊を存在させ、今度は久遠の釈尊を媒介者として久遠の古仏を歴史上に存在(南無妙法蓮華経)させたということである。
外用と内証の違いもここにある。すなわち外用というのは、自身を媒介者とすることであり、内証とは、他を媒介者とすることによって顕わされる己心の悟りとなる。その意味において仏法は、己心の悟りを自分勝手な思い込みでなく、客観性を持たせることを大切にしているといえる。
釈迦にとって自己の未来規定としての上行菩薩は、それが自身の未来化という歴史性において存在していることを前提にしていたのである。
日蓮は、上行菩薩を受入れながら、始成・久成の釈尊を否定することなく、より本源的な自己の存在へとつき進んだのである。
仏教は、時空間的には元初・久成・始成・末法と変化した釈尊をみるのである。これらの釈尊はみな異なる釈尊観によって成り立っているが、この「時空」に相応して出現する上行菩薩も実に異なる上行観なのである。
しかし日蓮仏法においては、時空間的には釈尊一仏を説きつつ、釈尊・上行一体論を展開していくのである。
この同名異体の釈尊と上行の理解は、日蓮仏法による釈迦及び日蓮の、外用と内証より見ることなしには出来ないのである。日蓮仏法によって仏教の完成とみる所以でもある。したがって釈迦仏法とは異なる立地点によって成立する。釈迦仏法の一宗派ではない故に日蓮仏法というのである。
五百塵点劫の当初に仏果を得た釈尊を久遠の古仏という時、古仏の歴史化は、久遠元初より古仏の未来化すなわち、未だ出現していない久遠の古仏が菩薩となって出現する歴史的存在が不可欠なのである。
末法に菩薩として出現することは、時空間的に同一の時空間とも言えそうだが、同一というより、久遠元初の再現または再誕末法ということである。
末法を媒介として久遠元初を顕し、次に久遠元初を媒介として末法を確定することによって末法の本意を示すことになる。
それが久遠即末法・末法即久遠の哲学的原理である。末法に内包あるいは内在する久遠元初ではなく、また、末法に出現する菩薩の内在に久遠元初があるということではないのである。
そしてこの事は、両時の仏も両時の衆生も即の関係が成り立っているのである。日蓮にとって始成(歴史的)の釈尊も、久成(教理上)の釈尊も、共に日蓮の内証となる。
別の表現をすると久遠・本地・自行・名字の釈尊の為の媒介者となってしまうのである。釈迦仏法における本果、中間、在世に種々垂迹する釈尊と同じ原理構造をもって、日蓮仏法をみる事ができるのである。すなわち久遠元初、中間、末法である。
日蓮における直接性は「凡夫の身」であるが、媒介性は「上行再誕の日蓮」となる。そして衆生も同じ原理で末法に構造化する存在となるのである。
本質的には、中間の衆生も末法の衆生も同じなのだが、一往、立て分けたのが本未有善と本已有善の立て分けである。これは、種の概念より導入された衆生の一往の立て分けにすぎないといえる。
久遠といえども有始であると考えるので、有始有終である。有始であるなら久遠の古仏も迹仏だというのは、無始の拡大解釈によるのである。
命の特質である顕現と冥伏の二極性の不断の連続性を無始無終というのである。無始の九界、無始の仏界も命の根源的把握の上で述べた言葉で、久遠という遠い過去に対して無始を当てはめただけである。従って、久遠元初の釈尊を無始の古仏と表現してもそれは相対的表現にすぎないのである。
人類からみれば銀河団は無限の領域とも思えるし、実際に地球にまだ光も届いていない距離の超銀河団が有ったとしたらキリの無い無限を感じるだろう。
無始の古仏と言っても久遠の古仏と言っても同じで、久遠元初以前には命が無であるということはない。従って元初以前に自分は仏であったと思っても一向に差し支えがないのである。その場合は、その人の内証において、久遠の古仏も迹仏となる。
最も悟ったと同時に、眼の前に飛ぶチョウチョを追いかけていては困るので、人に迷惑を懸けない様に悟って欲しいものである。
久遠元初と末法は一見すると過去を現在に内在させた形式にみえてしまうが、そうではない。現在を確定させる為の歴史観である。現在を媒介として過去を見て、次に過去を媒介として現在を確定する原理を表現したもので過去を現在に内在させる為ではないのである。
人間は過去を反省しただけでは未来の発展はない。過去を知るとは、未来を知ることにならなくては、そこに発展性を内包したものにはならないのである。この過去と未来の中に現在があると考えるのが日蓮仏法の人間史観であり現在の規定である。
日蓮仏法における久遠元初の知見は、日蓮の現在を確定させるとともに、未来を同時に知見していたといえる。しかし、久遠元初と末法論において、未来の日蓮は出てこない。
日蓮の遺文にあるのは、残される本尊と法体の流布である。末法は尽未来歳というが、元初が有始とすれば、末法も有終である。いずれの時にか、我々の太陽系はおろか銀河系も銀河団さえも終わりをつげ、根源の命に冥伏するはずである。
その中にあって日蓮は、未来に託した化義の広宣流布の途上にいかなる自身を思い描いていたのであろうか。この事は別の項で述べてみたいと思う。
さて、久遠の再現としての末法は、仏・菩薩・その他の一切衆生の再現でもあろう。また、久遠仏を特定の人格知として限定していないのである。
当然のことながら、誰が仏でも構わないのである。日蓮に限定する理由はないのである。しかしその場合もその人は、末法で法華経を説き、衆生を救済しなくてはいけないことは確かである。日顕のように、迷惑を懸けておいて救済しているつもりになられても困るのである。
それでは、付嘱や相承といわれる原理は何を意味しているのかを問わなくてはならないだろう。これらは、特定の人格知に対する先取りのようなものではないだろう。
釈尊が上行菩薩に付嘱したことは、弘通の中心者の出現を予証したのであって、上行菩薩という名の菩薩が現実に存在していないことからみても明らかである。
上行再誕の日蓮の存在は、外用としての位置付けに過ぎない。薬王再誕の天台とは異なる。薬王菩薩は、天台の内証であるからで、日蓮の場合の上行菩薩は、上行菩薩そのものの出現ではないということである。
この付嘱や相承を、仏と菩薩の間で交わされた約束・契約としての予定とすると、神の意志で予定されたところの未来予定論と同じ構造になってしまう。そして、歴史的現実の「先在性」として、歴史以前に規定されている存在としての個人を特別扱いすることになる。
それでは日蓮が出現する以前に上行菩薩として、釈迦如来に内在された存在からぬけられないことになる。これでは、久遠即末法ではなくなってしまう。日蓮のいう久遠は、あくまでも元初をさしているのである。
約束・契約の文上の意味は、末法における菩薩の行為を、予測または予証したものである。予証された行為は、行為者が歴史以前に規定された存在としての特別の意味を持つことには変わりはないが、その場合でも、その行為者を末法に出現する菩薩というのであって、特別の人格知をさすよりも菩薩の行為にたいする仏教的表現なのである。
即ち、私は、生まれながらにして地涌の菩薩であったということではなく、人間は、その行為によって地涌の菩薩という名を付けることが出来るということである。まさに「至理は名無し」である。
したがって、誰でも地涌の菩薩にも成れるということになる。日蓮仏法における約束や契約の史観とは、存在者の予定ではなく行為者に対する規定ということになる。
この思考は、末法に対する定義ともなる。正法像法が二千年であれ、千五百年であれ、その数字に意味を持つのではなく、地涌の菩薩の行為者の出現の時を末法と名付けるのである。



第四項 種の概念と久遠本仏

次に「種」の概念と久遠仏について述べてみたいと思う。「種」の概念というのは、一つの銀河団の誕生に対して、この銀河団の生成は一つの種より顕現されていると考えるものである。
もし大宇宙に無数の銀河団が存在するのであれば、種は無数に有ると考える。この無数の種の本源の種はあるのかはさて置き、一つの銀河団を生成した種を本種ととりあえず名ずけておくことにする。前に述べたようにこうすることが考えやすいだけで他に意味はない。
また、種の存在する所を固有の我とよぶことにする。そして、本種の存在する所を根源的命の本質我という。衆生の固有の我と区別する為に本質我と呼ぶのである。衆生の固有の我は、顕現されていない時は、本質我のなかに冥合された存在となって冥伏される。
衆生という顕現された命も本種より派生した同一種族である以上、本種の持つ特質を内在している。この本種は、本因ともいい本果に向かう命の傾向性をもつものである。
本種を本因という時、仏種を持つという意味で使うのである。種は、成長・発育し開花すると果にいたり、多くの種子を生むことになる。この不断の連続性が種の特質である。
仏種が成長・発育し開花するとき、仏と名付けるのであるが、この仏種が存在する所を仏界という。仏界は、有情・非情を問わず種より顕現された全てに常住であるが、仏種を植えることが出来る土壌を総称して衆生と名付けているのである。
仏種を植える主体と植えられる客体をとりあえず仏と衆生に立て分けるのである。衆生に仏界が存在するから、仏種をうえることが出来るといえる。天台の理の一念三千論は、この仏界の存在論であって植えるべき仏種の存在を論の底に沈めているのである。
従って、衆生に事の一念三千が具備するのは仏種が植えられた後ということになる。仏種の特質の一番目といえる。この仏種は植えることができるが、枯れてしまうこともあるらしい。すなわち一度植えられても、ちゃんと育てていかなくては死んでしまうらしいのである。
そこで、二番目の特質として植えられた仏種は、どのように成長し開花し果を実らせていくのかといった仏種の進歩性と発動性の問題である。
仏界を具備した衆生が、日常的に仏界を色心の基底部に据えることが仏種を発育させる栄養となるというのである。これが結構大変なことで、なかなか定着させるのが困難である。定着させる過程が、その困難さの故に修行といわれる所以でもある。
三番目は、顕現された固有の我は、修行によって種々の力用を備えるが、冥伏することによって本質我に冥合しつつもその固有の力用を維持するのである。冥伏すると修行ができないのでその力用のまま保持されるが、発動性の力用の強弱によって因位の修行の場、即ち顕現されることになる。
一番目は、衆生の機根である。仏種が果を結ぶためには、植え手によって育てる以外にないという。誰が水を与えても良いというものではないらしい。即ち何時、何処で、誰が誰に、何をするという4W1Hが決まっていると考える。これが十界の因果である。これは人間が生まれた時から仏であるということの否定でもある。
二番目は、衆生の修行である。仏に縁して仏界を涌現してもその固有の我が持っている命の傾向性によって基底部に戻りやすいのである。そのために常に仏界を涌現するように自己を訓練する必要がある。それは仏種の成育の栄養である。発動性を高めることが修行である。衆生に具備する仏界は時空間論的に不変であるが、仏種は絶えず変動するものといえる。十界互具の動的把握である。
三番目は、衆生の個性化である。衆生に具備している仏界は、衆生が本質我に冥合した後、冥伏時の仏種の発動性の強弱を保持しつつその強弱によって顕現の時空間をコントロールする。一念三千の個性化であり顕現と冥伏の自由性である。
大まかにいうと以上が衆生に具備する仏界と仏種の特質である。勿論、仏に具備する仏界と衆生に具備する仏界は等しいのだからこのような特質をあげることは無意味であるが、仏の衆生救済の大まかな原理的構造なのであえて述べておいた。
一番目は、久遠実成の釈尊と久遠元初の釈尊の働きが、衆生の機根によって異なっていることを顕している。そして二番目は、釈迦仏法と日蓮仏法の修行の違いとなり、日蓮における本尊建立に繋がっていくのである。さらに三番目は、仏・菩薩・一切衆生の出世の本懐ともいうべき出現の使命を自身で決定する自由の保証である。
末法の衆生の一人である日蓮が、何故、上行再誕と確信し、その後、久遠本仏(報身仏)と悟達していったのであろうか。自分と釈迦・天台・伝教とどこが違うのかを明瞭に意識した根拠は何処にあったのかは大事な視点である。
三種の教相を権実相対と本迹相対にまとめて、日蓮の法門を種脱法門として第三の法門とした所以は、この種の概念より生じたのであろうと思える。
末法の衆生の救済に対し、白法隠没している以上、白法に変わるべき法門として、大白法を求めた日蓮の悟りでもある。
日蓮の悟達は、上行菩薩が付嘱された法とその本体を南無妙法蓮華経であると確信したことである。南岳・天台・伝教も自行として唱えていた衆生本有の妙理である4字の法華経が、三世にわたることを意味して五字となり、理の一念三千が完成する。そして理が事の一念三千になるために理が自らに帰命する姿を見たのである。日蓮の言う事の事の一念三千という法体の悟達である。
大白法の法体を明確にした日蓮は、次にこの法体こそ末法の衆生に植えるべき本種であるとし、本未有善の衆生に初めて仏種を植える者は、末法の法華経の行者であると結論する。
そして法体の弘通の実践により、上行再誕に到り、さらに進んで、末法の衆生を救済する仏は、仏種を初めて植えた者に対する尊称としての末法の法華経の行者の出現となる。
即ち自身を法華経の行者、久遠元初自受用報身・無作三身如来即ち久遠報身仏(報身仏)であるとなったのである。
久遠本仏については、下種の本仏・末法下種の主師親・本門寿量文底下種本因妙の題目・末法下種仏・末法有縁の本主・三徳有縁深厚の本仏等々多くの尊称がある。すべてが南無妙法蓮華経という法体の尊称である。
いずれにしても仏種を植える時が末法である以上、末法の仏の出現は必然的である。末法の仏が何故久遠元初の釈尊になるのかというと、内証の上行菩薩は、久遠元初における本因の菩薩である故に、その上行再誕の日蓮に本果の仏をみる以外にないからである。 久遠元初の本因本果は倶時となって、上行菩薩に顕現し、日蓮に帰着してしまうのである。
日蓮仏法における上行菩薩は、日蓮の内証において始成に出現するがその儀式は久成の再現であって、始成の時も久成の時も末法に出現する時も本国土より出現することになる。
従って、末法において地涌の菩薩を自覚した者は本覚の菩薩といえる。しかし、地涌の菩薩であったとしても、現実の人間はあまりに不安定な存在である。菩薩としての安定性を確保する為に修行があるともいえるのだろう。
色心の傾向性や安定性、定着性ということは、本種より派生した同一種である故に、本種の持つ命の傾向性にどこまで合致するかということになる。





命や心のリズムに合致する、獲得する為の修行である。命や心における波については、生命論や宇宙論で述べるつもりであるが、人間次元の時空間における重要な力用として存在し影響を持つのである。
本種の命や心のリズムを久遠仏の躍動とも発動とも能動ともいうのである。もちろん命や心波の躍動の循環は、顕現された命にも冥伏された命にも存在する根源的な力の作用であり力そのものではない。ただこんな波が存在するかどうか不明である。
また、南無妙法蓮華経と唱える事が何故に末法の下種になるかというと、南無妙法蓮華経が末法の法華経であるとするからである。法華経には、衆生に宿るべき仏種が存在するから、法華経を修行することによって衆生に仏種が植えられるのである。日蓮が観心本尊抄で法華経の受持の本意を開経と結経の文を引用して説いた理由でもある。
しかし、仏種は、敗種、焦種または断じられるところの性分を持つ。十界の各々の種に於いて同じ性分を持つので、こと仏種に限る訳ではないが、仏種以外も断じることが出来るということも面白い発想ではある。また、仏種を植える前に仏種以外の種が既に植えられているというのも楽しいアイデァである。
種について語るとき仏法では、性種と乗種のことから、性種における種類種と相対種、さらに正了縁の三因仏性より仏種を語るらしい。しかしこれらの分析は日蓮仏法においてそれ程意味を持たないように思える。これらの分析は、十界互具・一念三千を種によって説明しようとしただけである。
末法の人類がすべて地涌の菩薩だとしたらどうだろう。その場合は全ての人間が久遠元初において三十二相を備えた大菩薩であり、本未有善どころではない。また末法の衆生は下根であるというが、久遠元初で下種されていないのはおかしいと思われるが、末法は久遠の再現であるとすれば、久遠でされる下種は末法今日において下種されることである。また、六万恒河沙の地涌の菩薩は、末法において、いつごろ出現するのか不明ではあるが一度に出現するには地球は狭すぎる。



第五項 日蓮の外用と内証

日蓮の外用と内証について少し掘り下げてみたいと思う。「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり ~ 凡夫即仏なり仏即凡夫なり一念三千我実成仏これなり」(船守弥三郎許御書 1446頁)
佐渡以前に著されたこの遺文は、表現において天台本覚思想と似ているが単に衆生即仏と釈してはならないだろう。
衆生がそのままで仏と同じなのではないだろう。末法の衆生に仏種を植えた仏が、末法の衆生の教主釈尊であり、この文の「即」は、仏と衆生が同一種の関係において本種と種子である故に相即されたとみるべきであろう。従って「そのかみ」の「教主」と末法の衆生の相即を述べたものである。
日蓮本仏論を語る時、その混乱の原因は、内証と外用という原理であろう。内証の理由と実体が突き止めることが出来れば、外用の存在がすっきりとするだろう。そうすれば仏教理解はかなり進むと思う。
「伝教等の大聖は、内証は本迹勝劣・外用は本迹一致なり ~ 予が所存は内証・外用共に本迹勝劣なり」(本因妙抄 873頁)
この文は、釈迦から伝教に至る釈迦仏法と日蓮仏法の立て分けの基準ともいえる。日蓮仏法は釈迦仏法とは明らかに異なるものである。従って、法華経の理解は肝要と文底の立場より読み取るが、その拠って立つ所は日蓮独自の内証である。
法華経を文上、特に寿量品を文上とみれば寿量品の全ての語に文底が見られることになる。同じように日蓮の遺文も文上と文底の二面より観ることが大事となる。日蓮にとって仏教は、日蓮の内証によって完成した法華経である。
その意味において釈迦仏法は現実の歴史を含めて教理上の釈尊までも日蓮の内証の展開にすぎないことになる。
釈迦の内証も天台の内証もその法体は日蓮と同じであるという。しかし、同じという事が日蓮の外用の辺であり、内証深秘においては一段深い内証として絶対不思議の内証ということになる。
このように内証は己心の悟りである故に、言語道断・心行所滅の悟達となる。このことを念頭に入れて日蓮が何故、末法の本仏(法華経の行者)と自覚していったのかを考察してみたいと思う。
この項の冒頭に引用した遺文は、佐渡以前とはいえここでの教主釈尊は、日蓮己心の釈尊となる。佐渡の地で著された観心本尊抄には、より鮮明になっている。
「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」 「我等が己心の菩薩等なり地涌千界の菩薩は釈尊の眷属なり」(観心本尊抄 247頁)
五百塵点劫という有始に対して、有始を越えて無始に至るところの古仏ということである。能顕は我等が己心の釈尊となる。
「能と云うは如来なり所とは衆生なり能所各別するは権教の故なり法華経の心は能所一体なり」(御講聞書 846頁)
「古今能所不二にして法華の深意をあらわす」(上野殿御返事 1556頁)
能所不二として主体者と客体者において同一を意味することから、無始の古仏が法身のみの仏ではなく歴史上に現存し、その歴史上の主体者とその行為において出現すると考えられる。
能顕の一身が所顕の三身となるが、三身即一身、一身即三身の故に所顕の三身は能顕の三身として歴史という有限の中に実在としての具体性を持つことになる。
「我等が己心の菩薩」の文の前に寿量品の文を引用されている。云く「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」とある。
この菩薩に対しても「我等が己心の菩薩」とするのは、己心の釈尊と師弟不二を意味している。釈尊も菩薩も日蓮の己心の師弟である。
日蓮が「己心」の文字を用いたのは、一生成仏抄で妙法と粗法について述べた箇所と、一念三千理事で弘の五の文を引用した時以外は、全て佐渡以後の遺文である。
日蓮仏法の史観は、佐渡以後において独自の展開をもち、釈迦・天台思想を超越していったということである。
「衆生即仏」の概念を対立する関係から究極的に同一になるとしないで「我等が己心」の主体的作用としての区別化であるとすることが大事なのである。
歴史上の主体者とその行為によって「無始の古仏」の力用が、具体性をもつとするのである。この主体的作用の区別化は、天台にとっては十法界の差別として諸法の把握の仕方による区別となるが、日蓮にとっては本来無差別なものが、固有の我の顕現における差別相として観ることになる。
「無始の古仏」の歴史的現実は、日蓮の己心に顕現されているという確信の表現でもある。この無始の古仏を「教主」の二字に統一される釈尊観の本種と展開していくのである。
「その教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず」(観心本尊抄 249頁)「教主」を、教を説き衆生を導く主としての人の仏と断定してはいけない。教主とは、釈尊観を一元論として統合化する原理なのである。
日蓮は、教主釈尊をいきなり久遠元初に直結せず、まず始成の釈尊を否定しながらも始成の釈尊を媒介とした、より深い根源的な次元相における久遠実成の釈尊と自己同一化させ、さらに、久遠元初の釈尊へと深化させて教主釈尊に至るのである。
これを「乃至」の意味と考察するのである。単なる過程や文底といった意味ではなく、日蓮の己心を時空間的に表現したものと把握する必要がある。
従って「乃至」を能顕としてはいけない。又、単に「元初」とするのではなく、実成と元初の両時を合わせ含む故に「乃至」とするのである。
一応は、久遠実成の釈尊も無始の古仏であるが、再応は、元初における無始の古仏なのである。そしてこの両時の古仏がともに日蓮の己心の釈尊という意味になることが大事なのである。
故に「乃至」を元初と書かずに「乃至」とした所以でもある。実成の釈尊も日蓮己心の釈尊となるのである。第三項で述べた久遠元初、中間、末法における日蓮の内証を表現したものである。
釈迦における自己の内的深化は、過去は久遠実成の釈尊から上行菩薩としての未来再生によって完結するのである。
日蓮も自己の内的深化の究極として過去の自己を久遠元初に遡ったのであり、同時に未来永遠の自己をまた久遠元初にまで向かったといえる。
過去の久遠と未来の久遠の中に現在の末法の存在が確定されているのである。日蓮にとっては、釈迦の三世に亘る悟達は総じて中間項としての役割にすぎないといえる。
上行菩薩の歴史性は、釈迦にとって未だ現実として実存しない未来形の出来事を必然性として既に実存したものとして、予め付嘱の形で結果を先取りして表現しておくことに意味があった。
末法において上行菩薩の再誕と名乗り虚空会の儀式を現実の歴史上で付嘱を受けてくれる人格知の出現を心に描いたのである。
インド応誕の釈尊に始まる仏教も、日蓮仏法によって、人間次元での歴史的統一された永遠の釈尊観は完成されたといえる。
無始無終、無量無辺の時空間を統一する、根源的法則を釈尊一元論にみることが出来るからである。釈迦再誕の日蓮ではない故に実成の釈尊を脱益の釈尊とし、無始の古仏を教主とも本仏とも本種ともいい、末法下種の釈尊と区別するのである。
教主釈尊なる概念は、釈尊の人間論的普遍的構造と、人間存在の釈尊論的根源性とを同時に統一的に表現したものといえる。
また釈尊なる概念は、三世に亘る時空間における人間次元での系列性として自己顕現の順序性を構成するとともに、秩序性を保持しており、諸仏の統合の概念といえる。
そしてそれは、仏の衆生救済の歴史ともなるのである。自己の未来化が衆生救済史なのである。
無数に繰り返される仏の出現は、衆生救済の歴史的因果関係を時空間的に表現したものといえる。その意味において、仏の出現は慈悲の顕在の歴史化といえるのである。
この衆生救済の因果関係は、日蓮にとっての上行菩薩の位置付けによって見ることができる。久遠実成の釈尊から末法における釈迦再誕の上行菩薩に至る衆生救済の因果を上行再誕の日蓮に集約することによって、末法における上行菩薩を位置付けたのである。
即ち上行菩薩は久遠元初から末法に至る今日まで一貫して変わることなく娑婆世界に住し、娑婆世界を本国土として様々な時に出現する唯一の菩薩として因果倶時の象徴的存在を意味しているのである。
上行という菩薩の相転換は、内証・外用の上行として、また釈尊の内証として、さらに日蓮の外用として様々な役割を果たしながら連続して歴史に出現したのである。
この上行の相転換は、日蓮にとっては外用としての上行菩薩の振る舞いを、歴史の現実性として強要されながら、その根源の意味即ち拠って立つ基盤の変化ともなっていくのである。
相転換は、水の相転移と似て一貫して変わらない本質を有しながらの変化相でもある。因位の菩薩すなわち修行を必要とする菩薩の位は、人間の有限性を明示している。
完成された仏が菩薩として再生するということは、無限の中の有限を意味することになる。量的面において、生成する無限としての有限を生み出して止まない存在であると同時に、有限に対向してその極限的理念としての無限、即ち質的面を合わせ持つ実存性の現象であるといえる。
この質から量の転換を上行菩薩と表現したのであろう。無限から有限への生成の媒介こそ菩薩の本義であり、仏の衆生救済の運動体系ともいうのである。そして、この菩薩の上首を上行菩薩といい、仏の四徳のうちの「我」とされる所以である。
日蓮の内証といえる久遠元初の本仏も、この質から量の転換の原理を、菩薩のみならず菩薩とともに具生する本種として、たえず動的に未来化しながら、自己展開と命の傾向性を歴史上に顕現していくことになる。
仏・菩薩・一切衆生も同じ原理をもって、自己の進化が促され、新たな自己創造へと至るのである。この自己進化は、一念三千の動的把握であり、命の基底部として常に仏界を発動させていこうとする動的過程なのである。



第六項 法華弘通と血脈観(要検討)

法華弘通とは、広宣流布のことである。この法華弘通が末法においては、地涌の菩薩の役目ともなっている。その地涌の菩薩の最初の出現者は日蓮であった。
日蓮の上行菩薩としての振る舞いは、釈尊の未来化としての現在であるとともに日蓮の未来において自身とともに法華弘通を託す菩薩に対し、菩薩行の先取りであり菩薩の規定でもあった。
日蓮の滅後にこの振る舞いを行ずる人格の出現を予証したのであり、自身が未来に再生するという意味ではない。
従って、日蓮の外用の辺とは、自己の未来化によって法華弘通の行の見本ともなっているのである。即ち、上行菩薩ならびに地涌の菩薩の振る舞いの中にこそ日蓮の血脈が流れているということである。
従って、曼茶羅の本尊の書写に血脈があるのではない。本尊書写は、それが紙幅から板本尊となり最終的に超合金で行ってもよいのである。もともと印刷技術が無かったから書いたり彫刻したりしたのである。
また、この本尊の主題の南無妙法蓮華経の下にある日蓮の文字は、人法体一の原理的表現であって、先駆者の名前を記すことにより末法の修行の対境としての化儀化である。滅後において久遠仏と体一を覚知した人がいたとしたら、その人にとって日蓮の名前になんら抵抗も違和感も感じないであろう。
歴代法主によって筆の運びが異なるので、日達や日顕の書写したものではいやなら、大御本尊をそのまま写真に撮って印刷すればよいのである。
天台・伝教においては、法体を明かせなかった故に、付嘱の法は、唯授一人血脈相承せざるを得なかったのである。この形式を末法に入っても継承してしまったのである。そして、天台宗や真言宗あるいは日蓮滅後の日蓮宗のすべてが、それぞれ自門流の権威付けや神秘化のために利用したのである。
血脈論を悪用してはならない。血脈は、日蓮から日興、日興から日目へと受け継がれながら途中で地下血脈となったのである。この地下は虚空である。この血脈を受け継ぐのは地涌の菩薩である。上首上行を中心に地涌の菩薩が出現して化儀の広布をするのである。
地下水脈とか地下血脈という表現は、文学的に表現したものであるが、要は、いつの時代の人であっても地涌の菩薩の自覚があれば、そこに血脈はくみ取れるといった意味である。
戸田城聖は、その虚空の血脈を探り出した人であり、それをしっかり汲み上げたのが三代会長池田大作である。
途中で法華弘通の地涌の菩薩が出現するとすぐ涌現するものが血脈の本義である。血脈とは、地涌の菩薩そのものである。地涌の菩薩の覚知は、本国土より召しい出すが如く地より涌くのである。地涌の菩薩とは、血脈の異名である。
血脈を時空間的に連続するものと把握すると血脈の本来的意味を消失してしまうことになる。何故、血脈が地下水脈となりえるのかまた、七百年もの間、地下に沈む必要があったのかが問題になる。
ポール・ヴァレリーの予見した命題を借りるまでもなく「時は創造」されるものとしたのが仏教である。
今日は昨日の延長でもなく明日は今日の延長でもないという不連続的な意味でなく、時は常に現在にあり時が不可逆性を持つと言う意味である。
時の現在性は、過去と未来を否定することではなく、過去と未来によって確定されるところの現在なのである。
時を過去・現在・未来という強制的に感じる連続性と把握すると、人間の本来的自由を束縛することになる。
時を創造する主体的行動の存在を認めるということは、社会に、未来に責務を負うことになる。日蓮仏法の社会的使命の存在論ともなる。
血脈に関する問題は、人間次元より把握しなくては判らないといえる。命や心の二極性における顕現から冥伏、冥伏から顕現の変化に対し、その変化時の時空間を菩薩の境涯から観ることによって、血脈の歴史性を知ることになる。
顕現されたものは、必ず寿命を持つ。それは、量子の世界から銀河系も含めた全てである。この寿命は、時空間的要素を持つものである。時空間は単なる幻想ではなく寿命の特性の一つである。寿命は「固有の我」と呼ばれる波動である。
しかし、宇宙を単に時空間的に拡大出来ると思うことは、単なる幻想である。無始無終・無量無辺の宇宙には、時空間的拡大も収縮も無意味である。宇宙は顕現された物質のみによって構成されているのではないからである。
本質我の波動の総称を「劫」と呼ぶのである。波動のエネルギーを時空間的に表現したもので梵語のKALPAの音写で劫波、劫跛、劫簸などとも書く。
劫波は文字通り波長的意味で、劫跛は粒子的意味で劫簸は網目状の意味である。自然界を形成、律動させる根源的形態でもある。従って「劫」を単に時間論的に把握するだけではいけないのである。
顕現された物質の寿命を「劫」で表現したりする時は、この三種類の波動エネルギーの強さを時間論的に表現したにすぎないのである。
無始無終・無量無辺の寿命を持っているかもしれない宇宙が、物理学的要素を持って無数の小宇宙を生成することは、不自然ではない。そして、その生成された小宇宙は規定可能な範囲として自然界に存在することになる。
さらに顕現された物質から知的生物が誕生するかしないかは、発生の条件という後天的理由による。後天的理由の故に決定論的でも予定論的でもない。
しかし、日蓮仏法では、偶然ではあるが、必ず何処かで発生するという必然性を認めるのである。詳しくは別の章で述べたいと思う。
物質の発生においてもそれなりの経過はある。知的生物の発生もそれなりの経過はあるだろう。自然科学の研究領域である。
顕現された物質は固有の我という波動エネルギーを持っているが、このエネルギーの発動性の強弱は冥伏時に保持された強弱のままである。弱い物質を非情と名付け、強い物質を有情と名付けたのである。さらに有情の中で、より一層強い物質を人間あるいは衆生と名付けたのである。
そして、本源的波動を仏とも根源の法とも名付けられ、この本源的波動との調和を目指そうとしたのが、修行であり、覚知が悟りであり、調和する為の法原理を諸法というのである。
この法と法体は、垂迹した仏の所持するものとして歴史上に出現するが、その悟達の深さは宇宙の時空間的拡張の差となる。仏教においては、寿命の長さということになる。
人間が感覚できる時空間や因果論は、有限の宇宙において、即ち、浅い悟りの範囲において実践論的に有効な思考形態ということになる。哲学者や心理学者、物理学者が様々な時間に関する思索の渦に巻き込まれていくことは、人間に対する理解の方法論の誤りによるものである。
仏教よりみる時間とは、人間が感じる事象と事象を連続的に把握する感覚である。空間は事象の広さを把握する感覚である。従って人間は、時空間に対して固有の方向性を必要としていないのである。だからといって「単なる幻想」ではなく、実在の人間に存在するのである。時空間を物理的因果律で捉えるのでなく人間の顕現と冥伏の二極における存在の場の特質の一つと観るのである。
数学による基点ゼロやマイナス方向が、現実の世界に有効性を持つとは思えないが、命(色心)の存在の場としての時空間にあっては、時間は反転の対称性や空間上の二点に同時に存在してみえる量子の在り方は不自然ではなくなる。
人間(色心)次元よりみれば、不可逆性も可逆性も不自然ではないのである。むしろ可逆性の方が自然であるといっても、自己の本源的覚知より再び現在の自己を見る時、そこに不可逆性の存在を見ることが出来るというのが仏教の悟達でもある。
物理系の不可逆性は、普遍的な現象ではないだろうが存在すると思われる。勿論、人間次元での悟達は、物理系の変化と同じではないことは当然である。
また、熱平衡にある物理系に特有の物理量すなわちエントロピーは、系の無秩序性が大きい程大きいと言われている。この不可逆性とエントロピーの増大は、仏教より観た人間論においても興味ある現象であると考えるので別の章で述べるつもりである。


いずれにしても仏教の人間次元よりみた時空間は、人間の存在より独立して存在しないのである。「いかなる真理といえども人間の心を離れてはありえない」と言ったタゴールの直観を支持したい。しかし、彼のいう「超個人すなわち宇宙的存在の人間の精神」における精神を命ないし心とすることによってである。
これらの時空間において地下に沈んだり涌出したりする血脈は、日蓮仏法よりみれば菩薩の行を行ずる時空間であり、菩薩の自覚が菩薩の時空間の創造といえるのである。
そして、菩薩の出現は、あたかも時を越え血脈は地下に沈んだように見えるが「日蓮と同意」また「高祖己来の信心」における同時性、同空間性において統合されるのが血脈を受け継ぐところの地涌の菩薩の概念である。
血脈は、地涌の菩薩から地涌の菩薩へと流れる故に、時空間に左右されることなく相承されるのである。これを「信心の血脈」「広宣流布の血脈」といい化儀の本尊の伝持・弘宣である化儀の血脈である。七百年という歳月が、長かったとするか短かかったとするかは、今後の課題であると思う。
日蓮の内証の相承とするから、神秘化・権威付けに利用されるのである。勿論、法体の血脈の無いところには、化儀の血脈も無い訳であるが、この法体の血脈は、本質的に一切衆生に授けられているのである。
「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(生死一大事血脈抄 1337頁)
「其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事 1458頁)






第ニ節 実践論としての日蓮仏法

日蓮本仏論序説 第二節
第一項 衆生救済と修行
第二項 寿量品と神力品
第三項 三大秘法という第三の法門
第四項 一念三千と十界の因果
第五項 即と不二と諸法実相
第六項 人間と自然について



第一項 衆生救済と修行

「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首(上行菩薩)として日蓮慥かに教主大覚世尊(釈迦)より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(三大秘法禀承事 1023頁)
三大秘法は末法における一切衆生の修行の規範である。末法での法華経流布のために授与された秘法となる。しかし寿量品の三大事ではなく寿量品の事の三大事と言うときは文底の意味である。法華経には三大秘法とか三大事という言葉はない。しかも末法での修行の規範を釈尊が在世に明かしてもいない秘法を授与したことになる。
日蓮が当時の社会状況を踏まえての発言であることは明白である。何時の時代でも過去の文献にない言葉を使うと贔屓目の人は独自の理論といい、批判的な人は自分勝手な思い込みで根拠がないという。
また日蓮が上行菩薩の再誕ならこの文はそのまま読める。しかし日蓮における上行は、日蓮の外用である。
外化された自己を媒介にして再び自己に帰する原理であり、自己から自己への相承となる。相承のみならず約束・契約・請願にあってもその違いにも関わらず本源的に不変である。
外用の辺だけでなく、教主釈尊としての自己化である。この原理は、現在の自己から過去に遡り、そこから未来の自己の現在への投影、すなわち未来化となる。
法華経はこの未来化のシステムであり、このシステムは末法万種の衆生に普遍的に開放されたシステムである。
このシステムの図顕化が、曼陀羅の本尊の基本概念である。日蓮仏法における十界の因果の本質的意味となる。したがって、教主釈尊としての自己化は、日蓮のみに限定されるものではなく、末法の衆生なら誰でもよいのであって、無条件の自己化である。
あえて条件を付ければ、「菩薩の行を行ずる者」となろう。自身の行動が「法華経の行者」と確信するのであれば誰でもよいという意味である。教主釈尊の過去化と未来化という二重構造は、この二元が相まって衆生救済の原理となっているのである。
教主釈尊の顕現化、未来化は、自身の為のみならず、対応すべき衆生の感性が存在する故である。「文句の七面の決とは ~ 感応の一面・三時弘教に亘る可し」
「爾前迹門の正像二千年弘教の感応より本門末法弘通の感応は真実真実勝るなり」(本因妙抄 872頁)
「釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ ~ 三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心云云」(開目抄 236頁)
衆生という対応する存在があって、仏もその存在に意義を生ずるのである。衆生の救済は、仏を仏たらしめるものではあるが、その救済の方法も実をいうと衆生の自覚待ちなのである。
衆生が救済を求めない限り仏の出番がないという発想はユニークである。仏と衆生を対立した概念で捉えるところから出てくる発想である。寿量品の神通力は、令其生渇仰 因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是なのである。
しかしながら、衆生は自らの力によって自己の本質を覚知し発動する力用が弱い凡種の存在である。
そこに菩薩が衆生を代表する形で出現する意義がある。自己の覚知は、如来の所顕として如来の事を行ずるところにおいてのみ成し遂げることができるところの自己完成である。この完成が人間的生の目的であり、冥伏されたところの願望でもある。
仏が衆生を救済するといっても、仏が仏として歴史に出現しない以上、衆生は自らの修行によって自身を救済しなくてはならない。
日蓮の内証からみた仏と衆生は、釈尊という能変の主体者と上行菩薩という所変の客体者とが久遠元初において体一であるという知見から見た仏と衆生である。
衆生が、自己を自己に連続的に自己投影することによって、自己自身の釈尊となっていくのである。この行ずる過程を修行と規定している。
釈迦も日蓮も対自的に外化された自己を媒介にして自身の内証を 悟達したのである。そして、再び自己に帰る自己統合化を帰命といい、その時の対自的に外化することを「相承」というのである。
衆生本有の妙理は妙法蓮華という四文字の理法である。この理法が、法体としての南無妙法蓮華経となるためには、衆生本有の妙理自身の自己統合化が必要となる。即ち、自己が自己に帰命することであり、より本源的な自己化ともなる原理が帰命という。
そして人間自身も法華経の予言を自己の実存において、主体的に受け止め、久遠の古仏と体一であることを自覚していく必要があった。その先駆者が日蓮である。
久遠の古仏の歴史化は日蓮による法華経理解の実践的主題であり、上行菩薩はその歴史化を実現する為の暫定的な存在として必要欠くべからざるものであった。
法華経を現実の歴史の中にあって「理法と実践の媒介システム」と把握し、そのプログラムを末法化させ作動させたオペレーターとしての日蓮の存在がみえてくる。
日蓮における独自の法華経観を形成するものは、法華経に説かれたシステムを見出したというより、ニーズの要望書としての法華経として、その本体を明示した後に動的システムとして構成したということである。これを法華経の末法化と呼びたい。
コンピュータとしての本体があり、それに様々な仕事をさせたいとするニーズをもとにシステムを構成することになる。
コンピュータにはハードの限界等によりシステムが制限される。ハードは制限をソフトは無尽の要求をするが、ソフトがハードの開発を促す時もある。
逆にソフトがハードを無駄にする場合もある。コンピュータを勉強するのにハードから入る人もいれば、ソフトから始める人もいる。
理の一念三千はハードの説明に過ぎないともいえる。作動させる以前の問題である。日蓮は、末法に出現した菩薩として法華経によって要望された末法の衆生救済をシステム化させたといえる。
一つは自己存在の根源性の覚知システムであり第一節のテーマである。二つめは根源性の発動と進化のシステムであり第二節のテーマとなる。
第一節で述べたようにこのシステムは末法万種の衆生に普遍的に開放されるべきシステムであることが、現実の歴史に仏を出現させない故に本来的に人間の平等と自由を保証することになる。
それにしても、我々と日蓮の違いは桁はずれなものである。特に先駆者の忍耐と努力は凡人の我々には同じ人間とは思えないくらい凄まじいものを感じる。
いつの時代でも先駆者の苦労は測り知れないものがある。
「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず此の度仏法を心みよ」(撰時抄 291頁) 法華経のごとく実践してみなさいと日蓮はいう。自己の根底に流れる理法を実践に移すことが、自己を実現することになるという。
理法は決して抽象的なものではなく、自ら運動する主体として自己を具体的な人格において自己表現を達成するべく運動してやまないものといえる。
これが「法華経の行者」としての実践である。実践は理法があってそれに合わせて有るものではない。実践は二次的なものではなく、理法と実践は相関関係にありどちらを欠いても充分ではない。
仏も衆生も存在としては究極的に同一であっても、両者の区別化はその主体性の力用の結果として発生するのである。
主体性を高度に発揮する存在としての仏は、自己の存在の内に時空間を構造化するのに対し、衆生は自己の主体性を低度にしか発揮し得ない存在として時空間に顕現し、その時空間の内に存在が構造化されるのである。
この二極分化の構造から生み出された運動エネルギーによって作られた歴史が慈悲の救済史である。
日蓮も釈迦もその悟達は「久遠仏」にあり、そこから現在の自己へと流れる過程を問題にしてあらゆる諸仏を位置付けたが故に仏法史観ともいうし、救済史として衆生なかんずく人間存在と結合した形態をもって表現されるのである。
すなわち、仏と衆生の救済史といっても永遠の菩薩行が法華経の根本的な主題でもあるといえる。仏は菩薩の立場で実践する事行によってのみ実存性をもつものである。
有限としての人間存在は、時空間に支配されるのに対し、仏は時空間を自在に支配する特殊な存在である。
時空間を認識の媒介とした時、この支配する者とされる者の間に生ずる関係が単に対立関係としてのみ捉えてはいけないのである。
神通力の故に出現する仏。心懐恋慕渇仰於仏によって感応する仏。これらは皆、菩薩の悟りの表現である。
日蓮に限らず釈迦・天台・伝教等の聖人も菩薩の行の実践者である。その行による悟りを種々の形態をもって説いたが、悟りの深さに差があっただけである。
悟りの深さは、時間の長短と空間の量に相当する。従って悟りの深さは、共に出現する衆生への影響力となって時空間の拡大に差を生ずるのである。
衆生が具備する仏とよばれる色心の本質我を悟るということはいかなることか。我々衆生は、その悟りによってどのような救済がなされるのであろうか。
一言でいえば、仏と衆生の対立関係を越えて、衆生のもつ本来の固有の我の中に仏とよばれる色心(色心)の我の発動性とその能動性を自覚あるいは覚知することによって顕現させることができるという。
この仏とよばれる色心(色心)の力用については様々な経典に説かれている。信じるか信じないかは実際に体験する以外にないだろう。
只本来的自己を覚知することによって、日常的自己の存在が確定できるということは真実のように思われる。それはまさに人間として生きる存在の位置付けともなり、本質的な救済以外の何物でもないだろう。
人間日蓮が何故悟れたのかというと、衆生の心を感じる力の発動の強さ、人間的洞察力の強さが悟りへと自身を方向づけたのであろう。我々凡人はこの衆生の心を感じとる度合いが鈍いのである。また、それだけ真剣ではないということにもなる。
悟りの深さの差と述べたが、悟りの法体は何時何処で悟るにしても同じであろう。ただ、表現の力点が求める衆生の機根に応じて説かれるので、衆生主体の表現になるのである。
「法華経のごとく」とは、「衆生既に信伏し質直にして意柔軟にして一心に仏を見んと欲し自ら身命を惜しまざれば時に我れ及び衆僧は倶に霊鷲山に出ず」とある寿量品のごとく修行してみなさいというのである。
勿論、法華経の一部分ということではないだろう。法華経全体を意味していると思われるが、不惜身命が菩薩行の基本姿勢になっているように思える。とはいえ命が尽きれば修行も終わりとなるので死んでしまったら意味がない。死んだ後に「霊鷲山に出ずる」ことにどれだけの意味があるのか不明である。
けれども不惜身命の実践行は、日蓮自身の行動そのものでもある。法華経全体が修行の方法をも表現しているとすれば、その意味するところも考える必要があるのだろう。
二処三会の説法において、釈尊は虚空に移動すると一座の大衆を変身させることなく、神通力で虚空に移動させた。大衆は自力で虚空に昇ったのではないことに意味がある。
この虚空会の姿を日蓮は自身の己心と照らし合わせて曼陀羅の本尊とした。日蓮は末法における衆生の修行の基本として「衆生既に信伏し質直にして意柔軟にして一心に仏を見んと欲し」の姿をみたのである。修行の縁、対境として曼陀羅の形式を参考にしたと思われる。文字曼荼羅の本尊図顕であった。
日蓮仏法においては、曼陀羅の本尊に向かう姿は霊山の説法に列なるもので、従因至果である。虚空に昇ることは即身成仏となる。そして再び霊山に戻るのは従果向因となる。
法華経そのものであり、このことを自覚することが、地涌の菩薩が事を行ずる第一歩ともいえる。
しかし地涌の菩薩の自覚は、衆生にとってえてして薄れやすいのである。自覚と忘却の繰り返しの中で、自覚の時間が日常性を持つようになれば、やがては自己の久遠に辿り着くことが出来るということになろう。
久遠の報身仏としての本源性を覚知することは、久遠本仏をたえず動的に未来化しつつ、本源的自己へと重畳的に発展・進化させる運動体として歴史上に顕現させていくことになる。



第二項 寿量品と神力品

法華経の中でも特に寿量品と神力品は、日蓮仏法において重要な意味を持つと思える。釈迦が法華経を説く前に無量義経を説いて四十余年未顕真実といった。これは涌出品で大地の下の虚空より出現した菩薩を見て、弥勒菩薩が釈尊は成仏してから四十余年しか経過していないことを述べて質問しているのと辻褄が合っている。法華経以外の経典は法華経を説く為の方便の教えであることがわかる。
方便権経であると釈迦が言っているのに日本の各宗派は、何故、浄土三部経や真言三部経等に迷うのか解らない。法華経以前の経も方便である以上それなりに元意を含むことは事実であろうがそれでも方便権経にこだわる意味を解しかねる。
また法華経は法華経を賛嘆するだけで自己満足の経であり、神話ばかりであまり価値がないという人もいるらしい。
遠い過去に文殊菩薩は、法華経の説法を聞いたことがあるという。その経験から、釈尊も無量三眛より出て法華経を説くだろうと語る。これが序品第一である。
方便品第二から授学無学人記品第九までは、一乗思想とそれに基づく声聞授記が中心に説かれている。そして法師品第十以降が菩薩を説法の相手として説かれていく。菩薩の偉大さを説くことになる。
見宝塔品第十一からは虚空の会座となる。多宝塔と共に多宝如来が他国より出現し法華経の真実を証明する。そして滅後の弘通の困難を六難九易の譬えで明かす。
提婆達多品第十二では、提婆の授記と龍女の成仏を説いている。勧持品第十三では、六難九易の譬を通して法華経の受持の難しいことを明かし、宝塔品を受けて薬王菩薩たちが受持の決意や弘通を述べる。又、比丘、比丘尼の授記を説く。安楽行品第十四では、滅後弘通の方法として身口意請願の四安楽行を説いている。
涌出品第十五では、他方の国土から来た八恒河沙の菩薩が弘通を誓ったが拒絶され、そこで弥勒菩薩の質問に応えるように地涌の菩薩が出現した。
寿量品第十六では、五百塵点劫を説いて釈尊の本地を明かすのである。分別功徳品第十七では、法華経の功徳を十二段階に分けて説いた。 随喜功徳品第十八では、随喜の功徳を説いている。法師功徳品第十九では、六根清浄の功徳を説いている。不軽品第二十では、不軽菩薩の物語を語って法華経を受持する人を誹謗するものの罪と信ずるものの功徳を説いている。
神力品第二十一では、地涌の菩薩が滅後の誓いをしそれを受けて釈尊が法華経を付嘱する。属累品第二十二では、一切の菩薩に総じて法華経を付嘱しそれぞれが自分の国土に帰ることを促した。虚空会の儀式の終局宣言である。
霊鷲山に戻ってから薬王品第二十三から普賢勧発品第二十八までは、菩薩や王の物語を紹介しながらその由来や功徳を説いて法華経の説法を終わる。
この虚空会の説法のうちで、寿量品と神力品について一言述べて置きたいと思う。
寿量品における三妙合論は、釈尊の本因等を開示する意味で重要であることは論をまたないが、本因妙とされる「我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽 復倍上数」の文にあって仏の寿命が有限であることにも意義を感じるのである。
仏が有限の寿命を持つ以上、衆生救済の時空間的限度を示し、それがかえって救済の保証というか、確信に触れる思いがする。
無限であると仮に保証された救済では、時に無関係となり結局は保証されていないのと同じになってしまうからである。
また、この文における「復倍上数」は、釈尊が成仏してから現在に至るまでの時間の二倍の寿命を持つというが、そうなると末法で白法隠没してしまった平成の世にあっても猶未尽ということになる。 実際に日蓮が出現したときは、まだ、釈迦滅後2000年を超えてないのに、世の中が法末の如き様相なので、日蓮が今が末法であると宣言したのである。
法滅はしても仏の寿命は尽きてないとはどういうことであろうか。日蓮仏法よりみれば釈尊は、日蓮の内証に生きていることになるのだし、今日の創価学会の内証にも生き続けていることになる。このことを含めて寿命というのだろうか。しかも二倍という有限の時を指定する意味を単に長遠の未来として無限というのであろうか。
在世八十年の滅不滅は、衆生の心に恋慕・渇仰心を生じせしめる方便といっても無限ならば衆生救済の保証と同じく何時でもよいことになって必要に応じて仏を求めればよいことになってしまう。修行はいつでもよいということになって結局は恋慕も渇仰心も失ってしまうのではないだろうか。
中間に出現する種々の垂迹の仏は、皆、長短はあっても有限の寿命を持っている。そして、それぞれの迹仏の寿命は、釈迦在世にあっても顕在し続けている故に法華経の説法の場において出現することができたのであると考える。
末法において、日蓮の法華経説法の会座においても日蓮の己心の久遠仏よりみれば、実成の釈尊も迹仏として顕在していることは不思議ではないと思う。
同じ原理である故に有限の寿命であっても何ら差し支えがないのである。むしろ寿量品において有限の寿命を明示した故にその文の底に無限ともいえる久遠仏の存在を匂わすことになるのである。
自我得仏来は、自己の本源的過去の覚知である。速成就仏身は、覚知した自己の現在の確定である。自己自身の完成は、過去の覚知より現在の自身の確定であり自我偈の文によって説明しようしたのであろう。
聖書は法華経や涅槃経の影響を受けているという学者もいる。事実、自我偈をそのまま通解のごとく解釈すると多分に聖書の言葉に似た表現がある。したがってそのまま解釈してしまえば日蓮仏法、なかんずく御義口伝の自我偈に至るには、かなり遠い道のりである。
中国における法華経の仏身無常説やこの説を否定した三大法師による説も、久遠本仏を覚知した人格知の出現しない時代の止むを得ない法論といえる。
次に神力品であるが、ここで涌出品に出現した地涌の菩薩が再び登場し、法華経の弘通を誓うが付嘱する前に釈迦は神通力を示す。この四句の付嘱を中心に読むことが多いが、私は付嘱の前の神通力の内容にも注意を要すると思っている。
釈尊と分身仏の神通力は、地涌の菩薩の誓いに対する釈尊の返答である。はじめに広長舌を出し次に全ての毛穴から無量無数の色の光を放って十方世界を照らすと分身仏たちも同じようにする。宇宙の創生を語るとき「初めに光ありき」である。
そして、百千歳もの長きに渡って続けた後、舌を戻し咳ばらいと指弾きの音をだす。この音によって大地は六種に振動する。
十方世界の衆生や他の者たちは歓喜する。多宝塔の尊貴な姿は十方の仏・菩薩に尊敬された姿を現出する。妙法蓮華という名の、菩薩を教化する法を説く事の偉大さをこの十方の仏が語り、釈迦を礼拝し供養すべきであると宣言すると十方の世界の衆生たちは、釈迦の説法の場である娑婆世界に向かって「南無釈迦牟尼仏」と唱え、さらに華や香や様々なものを供養する。
誓いから付嘱までの中間の神通力示現は、付嘱にとって欠かすことが出来ないものといえる。上行菩薩への付嘱は、自己の過去化であり未来化であるから、誓いという過去から、付嘱という未来の中間の現在における示現は修行となる。
本仏に向かって帰命する姿、供養する姿は、過去の誓い、約束、契約を思い出し自己の根源性へと向かう必然的な道程であるといえる。
ここで十方の衆生は仏の名を唱えたが、日蓮にとっては付嘱の法が南無妙法蓮華経である以上、南無妙法蓮華経と唱えることは自明であったと思う。しかし日蓮仏法における修行にあってこの帰命する祈りの行為は、必要ないのである。釈迦仏法と日蓮仏法の違いはここで大きく異なっていくことになる。日蓮はこの七文字の法華経こそ法体そのものであると定義した。すなわち七文字の法体こそ仏の体であるという。したがってこの仏に帰命するとなると南無・南無妙法蓮華経となってしまう。
祈りの対境を図顕するのにこの神力品の神通力によって示された姿そのものに列座する形態が必要となる。それが曼陀羅の本尊へと表現される所以ともなっているからである。
けれども日蓮仏法の唱題行は、仏の名を唱える事によって、自身の内に在る仏を呼び起こすことが主体となる。これは自身の内に在る南無妙法蓮華経を呼び起こし、様々な困難を自身で乗り越えることを意味している。このことについては後述する。
法華経の説法を十方の世界の仏・菩薩・衆生・八部衆に見せるための光の照射と二つの音は、釈尊の慈悲の行為であるという。
光は、行為を明示する為であり、音は、影響力を現している。仏の慈悲の行為は、隠れて密かに行うのではなく堂々と宣言し悠々と振る舞うことに意味があるといえる。それは、仏の行為とはいえ歴史上にあっては、菩薩の行為であることを見過ごしてはならないからである。
曼陀羅の本尊を礼拝し、供養し、題目を唱えることは、仏を賛嘆することになり、ひいては、自身の仏界を賛嘆することになるのである。そしていよいよ地涌の菩薩、即ち曼陀羅の本尊に唱題する末法の衆生に付嘱が行われるのである。
この付嘱が、衆生の体に仏界を涌現させることと同義となるのである。祈りとは、法体を自身に付嘱することの行為である。そして属累品を経て再び霊鷲山に戻るのである。仏界を涌現した我々は、再び霊鷲山という弘通の場に飛び立つのである。
二十三から二十八までは法華経の賛嘆であり、それは、折伏と功徳の実証を現実の生活の上で示す菩薩の行為となるのである。
霊鷲山から虚空会への変化は、種々論じられているが、衆生は自力で虚空に昇ったのではない。仏の神通力は、仏のものであって衆生の力ではない故に、修行にならない。
虚空に昇るということは、仏種を植えることと同じなので修行によるのではない。また衆生に具備する仏界といっても自力で涌現しなくては他力である。他力では修行の歴史性を失うことになる。
法華経の全体を日蓮は、曼陀羅の本尊という化義で残すことによって、事行の法華経の域まで昇華したといえる。法華経は、日蓮によって実践的意味を持つことになったのである。神話の世界のように思われた法華経の数々の比喩が、衆生の日常的な人間の変革の原理として蘇生したといってよいと思う。



第三項 三大秘法という第三の法門

三大秘法論序説を参照してください。

日蓮本仏論序説は一項原稿用紙20枚と決めて書いてありますので、あまり詳細には論じておりません。書き始めたとき一つの項で原稿用紙が百枚以上になり、これではいつ終わるか分かりませんので略してしまいました。



第四項 一念三千と十界の因果

日蓮の悟達において、一念三千の法門はいかなる意味を持つのであろうか。まず考えられることは文底の発想であろう。天台が法華経を観心の立場、すなわち文底より把握した実践的解釈の書「摩可止観」の第七章の中で説いたのが一念三千の法門である。
日蓮も同じく文底より法華経を把握し七文字の法華経を見出し、その修行の規範として三大秘法の法門を解き明かしたのである。法華経は文の底に種々の法門を沈めている経典であるらしい。文底では、凡人にはなかなか理解できないのは当然のことである。
次に日蓮は、七文字の法華経、すなわち南無妙法蓮華経を事の一念三千として天台の一念三千を理と断じたのである。次に天台の観心の止観を止揚して観心の本尊を明かすのである。即ち、観心本尊抄において一念三千論を迹門・本門・文底によって説くことにより法本尊を開顕したのである。
法華経第一を種々説くことによって権実相対した。次にその法華経を本迹相対した。天台の一念三千を迹として寿量品をもって本門の一念三千であるとして天台を破した。そして、日蓮が法門は第三の法門として法華経本門の一念三千を脱益とし、日蓮仏法を下種益として種脱相対した。
以上、日蓮にとって一念三千は、法華経の本迹相対から種脱相対を導くのに使用したのであって、一念三千の法門そのものはそれ程重要視していないように思える。
まず法華経を第一と掲げたのは、仏の名を唱えることに慣れていた社会の中にあって、経の名を唱える異質性を打破しなくてはならなかった。
そして、天台宗の堕落の中で大日経と法華経を比較したりする天台宗の高僧をみては、法華第一を示す必要を感じたのであろう。そして次に天台の一念三千の破折である。
理に走り過ぎる分析中心の観念観法を打ち破らなくてはならない。一念三千が法華経の極理と勘違いしている多くの天台僧に真の法華経の極理は七文字の法華経(南無妙法蓮華経)であることを示さねばならなかったのである。
一念に三千が具備していたとしても、またそれが仏界に九界が具備する実相を説いているとしても、一往の説明に使える程度だったといえる。
何故十界なのか、何故三世間なのか、何故十如是なのかといった数にいかなる意味が有るのかはそれ程重要ではなかったと思われる。天台・伝教の智解といっても、釈迦の法華経に対する智解である以上のものではなかったといえる。
従って、天台・伝教の因果論も因果一念の域をでなかったのである。一念を時空間的に把握していたとしても、一心専念の意から一仏を念想することになり、一心欲見仏・不自惜身命である。
この寿量品・自我偈の文より己心の仏果を顕したという日蓮と違って天台・伝教はあくまでも一心欲見仏の立場から出られなかったといえる。その立場からの一念三千論なのである。
伝教の宗の四重のうちの因果一念を日蓮仏法にあてはめた本因妙抄もこの一念を南無妙法蓮華経の一念と規定するのであり種脱相対して止揚するのである。従って日蓮にとっては一念三千論の理論分析にあまり重点をおいてないのである。
むしろ日蓮にとっては、南無妙法蓮華経という法体による即身成仏や草木成仏、そして菩薩の修行の方がはるかに重大事であったと思われる。
これらは、三大秘法を観念として説くのではなく、実践論として説く事に主眼があったからである。従って修行の段階や自己満足の悟りは、本来的に必要なかったのである。
日蓮仏法における因果論は、因果倶時・不思議の一法というが、どのような構造になっているのだろうか。
十界の因果は、衆生が成仏する原理であって全ての経典に存在するといってよい。迹門の十界の因果に対し、本門の十界の因果を本因本果の法門という。もちろんこれは十界各界の因果ではない。九界即仏界における因果である。
十界の因果の原理は、爾前迹門の果を破ってその因を破ることによって本門の十界の因果を顕すためである。日蓮も釈尊の十界の因果を破って下種益の十界の因果を顕すことになる。
これは仏果を得ることが衆生の目標であると設定して、その果を、より本源的な果に導くためである。ただし十界の因果のポイントは、果を破ることを主題にしているもので、衆生のことよりも、仏の格に差をつけることが主眼になっている。
種々に垂迹する仏の順序性・系列性を釈尊一仏論の基本概念であると述べたのもこの意味を含むものである。
垂迹と発迹について一言述べて置きたい。迹を垂れるのを仮の姿で本地を真実の姿とするのではなく、あくまでも迹を垂れるだけである。
始成の釈尊は、現在の現実であり、その現実に意味がある。過去があって現在があり未来があって現在があるからである。発迹は否迹ではない。
垂迹を「開く」すなわち現在の果を仮の姿にするのではなく、本地の再現とするのである。現在を否定することは、過去と未来を否定することになる。
発迹を現存在の全面的否定とすると本地とされる過去も過去時の現在となって否定の対象となる。現在は過去と未来によって確定されなくてはならないとするのが、仏教の本来の思想・哲学である。
日蓮が「因を破る」という時、これを単に衆生の因は久遠にあるというのではなく「果を破る」ことを前提しているのである。
「破る」の意味は、「開く」「蘇生」のことで、現在の姿はそのままで「開く」ことである。「開く」とは否定の結果ではなく、迹より発動するもので、現在の現実をそのまま肯定するのでなく、「過去と未来に開かれる現在」という構造の肯定である。
物理的時間の感覚で因果をみたりするから因から果という流れが気になるのである。
十界の因果とは、衆生と仏の関係性の概念であり物理的時間の概念に因果の関係を埋没させると果から因の流れがわからなくなる。
因果倶時を九界即仏界と表現するのは、仏界の仏果に対し仏因をみて因果倶時とし、九界の衆生の因に対し衆生の果をみて九界の因果倶時とする。
そこで本門の十界の因果を無始の仏界・無始の九界といい、この仏界と九界が無始において因果倶時となって九界即仏界というのである。
仏因とは、始成・久成ともに仏果を得た訳であるからその因をさしていう。この仏因を本因として、久遠の釈尊の理即の時の修行に九界の衆生の本因が納められているとするのである。
しかし、釈尊自身の本因本果を仏因仏果とすると、釈尊は生まれながらに仏果を先取りした形で存在する特別扱いされた人間とみえてしまう。これでは仏は永遠に仏で衆生は永遠に衆生のままとなってしまう。それを越えるために教主釈尊の一元論がある。
衆生を仏果に導くために教主という一切衆生の成仏の規範となる存在が必要となる。教主と衆生は、ともに本来的に釈尊と体一であることを示すのである。
一切衆生に開かれたシステムが日蓮仏法における因果倶時・不思議の一法としての文底の十界の因果である。
ただし釈尊における本果としての久成と、本因としての始成の因果は、果から因への時間の逆転のように思えるがそうではなく、久成の果を開いた後の現在の確定のためで、仏が菩薩として出現することを因とする発想は十界の因果とは異なる視点である。
日蓮が、南無妙法蓮華経の一念というとき九界の因と仏界の果が南無妙法蓮華経の一念に備わることを意味し、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経に具足す」となる。
我々衆生も因果倶時・不思議の一法により仏因・仏果を倶に同時に得ることになる。九界即仏界である。
しかし、本来的には、南無妙法蓮華経に備わるので仏界所具の九界なのである。顕現された命の差別相が仏界所具の九界の実相とされるところである。
南無妙法蓮華経を日蓮自身の一念の心法として自受用身即一念三千、一念三千即自受用身としたのである。
この十界の因果と一念三千の関係は、供に十界より展開されるところの視点の相違である。例えば人界所具の仏界と仏界所具の人界において、この両者の人界の相違を考えてみれば明らかになる。
各界の衆生は、存在する国土の違いを前提にしている。このような仏界と並列した相対的な人界ではなく十界各界の差別は、命や心の顕現と冥伏の二極性をもつ命や心の基底部の設定のためであり、仏界所具の九界の実相を諸法の現象面を静的に把握したものである。
したがって、基底部とは実相よりみた、仏界の発動性の強弱の差別ということになる。人界所具の十界は、仏界所具の人界の静特性となる。元来、九界は仏界所具であるが、その中の人界を取り出して人界即仏界の即の内容を互具で説明したのである。
何故天台はそのようなことをしたかというと人界の衆生も成仏の因となる仏界を具備しているという衆生側に立った説明をする以外に、植えるべき仏種を明かせない立場上、止むにやまれぬ方便として三千論を展開したのである。
三千世間が方便である故に頭に一念を冠したのである。法華経の極理を方便では納得出来ない人もいるだろうが、これは日蓮仏法より依義判文しないと判らないのである。
三千世間が命や心の静特性といったが、動特性を一言でいうと南無妙法蓮華経と唱えた時の特性である。
トランジスターの特性はベースに流れる電流の定数倍の電流がコレクタからエミッタに流れる。この定数はトランジスターの石及び制作過程によって固有の定数をもつ。全く同じものを制作することは出来ない。しかし、定数倍の電流を流す特性を静特性といい、実際の値は計測する以外にわからない。この計測値を動特性という。
原理的には、仏界所具の各界は仏界を主体として各界を客体とするわけだが、仏界と即の関係にあり、その中の人界を基底部にするということは主客を逆転して見ることに他ならない。
この逆転の表現を仏界涌現というのである。現実の人間が生活上に仏界を涌現するといっても、特別な変化を期待してはいけないのである。日常性を離れたところに仏界が有るわけではないからだ。
ましておや、別の次元の異なる世界に入っては、本来の仏教からも逸脱してしまう。仏教も別の次元には無いからである。そして主客逆転の表現より展開したものが十界互具論である。
また、諸法とは、仏界所具の九界のことであり、その諸法の体が九界を所具するところの仏界となる。
この諸法について、十界互具から十如是をもって説明するのは、十界の固有性に平等性を加味するためである。仏界の持つ十如是は、普遍的に九界に備わっているのである。
法華経がおもに二乗を対象として説いたものであり、二乗の成仏を納得させるための方便である以上、天台の三千論も方便の域を出ないのである。
人間を主体として仏界所具の九界を説くために苦労したといえる。人界所具の仏界は、その意味で難信難解であったと思われる。
まさに「水中の火」「火中の水」である。したがって一念三千論より簡単に人間に仏界が涌現して、特別な変化を得られると言った錯覚をしてはいけないのである。
仏界を具体的に南無妙法蓮華経の一念と説けない天台の限界である。三千世間の実質的発動性を持たせられない故に静特性というのである。
十界互具論は、根源的エネルギーともいうべき仏種の発動力を説く代わりに互具論を展開したので方便というのである。しかし、その意味において互具論は南無妙法蓮華経の力用を説明しようと苦労した後が伺えて楽しい理論である。



第五項 即と不二と諸法実相

「不二から円満までの仏法思考について」を参照してください。

日蓮本仏論序説は一項原稿用紙20枚と決めて書いてありますので、あまり詳細には論じておりません。書き始めたとき一つの項で原稿用紙が百枚以上になり、これではいつ終わるか分かりませんので略してしまいました。



第六項 人間と自然について

草木成仏の原理は、本尊に自身の心を写すことが可能であるということを示したものである。一念三千論によって有情非情に亘る人間の本質を端的に曼茶羅の本尊と図顕する化儀化の根拠としたものである。
又、この原理は、言語道断・心行所滅の法が文字で顕すことの可能性を示すものとして意味を持つことと、人間と自然の関係を説いたものと思える。
有情の人間の心が、文字という非情の媒体によってコミュニケートされるところの法の実体を説いた原理なのである。
自然を諸法の体とした時、人間と自然のコュニケートが可能になることを意味するが何を媒体にするかが重要となる。当然、媒体を依報とすることによる依正の関係性を観ることになる。
曼茶羅の本尊を依報とした時と、師匠を依報とした時と、自然を依報とした時の依報正報をみることは、法の弘通を使命とする菩薩にとって大事な視点となる。
自己の覚知を基点としてその自己を正報とした時、依報もまた自己自身となる。本尊建立は、その依報を化儀化して表現したものである。
自己自身の正報によって依報を転換することを而自廻転ともいう。この自己自身の依報を化儀化したものとしての文字表現は木画による表現より、法に近接する意味で重要な形態であったと思われる。
さらに、本尊建立は、日蓮が末法の教主であり、本師であるという立場を位置付けるものである。
そして、人の本師と法の本師を依報とする時、弟子は正報としての主体的意志が明確化されるのである。人間における依正は、正報の立場より観ることによって異なる。師より弟子を観る時と、弟子より師を観る時では、表現が異なるが、自身の而自廻転は師弟といえども同じ原理である。
しかし、人間と自然の関係は、常に人間を正報とし、自然を依報として把握する以外にないのである。
自己の現在の確定は、時間論的確定と同時に、空間論的現在の確定でもある。自身と拠って立つ国土の確定となる。
而自廻転は、国土の廻転でもあるが、正報としての自身の廻転が優先される。草木成仏、国土の変革の基本原理である。このことは、有情の成仏が、非情の成仏を可能にする原動力であることを意味している。
人間が書き顕す文字は非情であるが、その文字に魂魄を留めることは、有情から非情への化儀化という廻転である。
法及び法体は、文字以前に存在し有情非情に亘るが、文字は、非情である故に法の文字化は化儀となり日蓮仏法よりみると「経」ともいう。経は、中国でいう最高の教えといったものではなく、三世に亘る一切の言語音声を意味する。
妙法蓮華の経は、四文字の衆生本有の妙理を化儀化したもので妙法蓮華経の五文字となり、さらに自己に自己化した姿として南無妙法蓮華経の七文字の題目となるのである。
そして諸法は、この南無妙法蓮華経の一法に具わるとするから曼茶羅の本尊を媒体とすることによって、人間と自然が本然的にコミュニケーション可能な事象関係となるのである。
とはいえ曼茶羅の本尊を単にコミュニケーションにおけるシンボルとしてはいけないのである。一切の有情・非情にわたって仏界が具備するというが、この仏界は仏種を植える田である。法体の開示は、仏種を有情非情に植えることになるのだが、原則的には有情のみである。
仏界は不変・不改の性を持つが、仏種は成長、育成とともに停滞、死をも伴う性を持つ故に、その発動性のない非情には、存在していない様相を呈することになる。
しかし、有情が非情の仏界に仏種を植えることが出来るとするのは、菩薩の行により現出する依報という意味の非情の時空間においてである。
菩薩の出現は正報の出現であり、その出現の時空間は依報となる。依報は、主体によって確定されて歴史に構造化される客体である。
而自廻転は、国土の変革であり、依報の確定である。依報は正報によって確定された後に、今度は正報をその依報によって確定される故に廻転というのである。
仏種が発展、成長する構造を種の波動エネルギーの進化とすると、無秩序性は、魔との戦いに象徴される。
日常性における無秩序性が、大きい程その時の仏種の波動エネルギーは大きくならなくては秩序へと指向されないだろう。大悪起これば大善来るである。
無秩序の渦に巻き込まれることは、仏法的にみれば魔に負けることを意味している。世の乱れ、天変地妖の起こる因ともなるというのである。
成長する仏種とは、この波動エネルギーの固有の存在内における蓄積であるといえるし福運を積むということになる。
仏種を南無妙法蓮華経であると仮定することは、固有の我と本質我と同じ法体でありながら、その差を認めることになる。我のエネルギーの差は、質量によって決まるのではない。増えるし、減少することもある変動性を持つ故に、本源種の力用といえる。
固有の我を部分とし、本質我を全体とするといった部分と全体、一と多の問題とするのではなく、全体の存在に対する部分的“ゆらぎ”と把握するのである。
これは、宇宙的規模においても、人間の日常的規模においても原理的に同じである。一人の人間の日常的に起きる命の“ゆらぎ”は固有の我の波動エネルギーによる時空間の“ゆらぎ”である。
菩薩が行によって規定した時空間との調和がこの“ゆらぎ”を安定させることになる。「時に適う」とはこのことである。
非情界の万物もまた妙法蓮華の当体ではあるが、自身の妙法に帰命することができず、妙法の体を顕すことが出来ない。理法として存在しているといっても、その法体の顕現が出来ないのなら、存在の意味を失うという人もいる。
しかし、有情も非情も一念三千の当体であるという条件において、有情の力用により、非情に法体を顕現できるというのが仏教である。
これは、観念的に思い込むというのではなく、非情に顕現させたことによりその非情の体を有情の依報とする事によって存在を確定させる媒介性である。
一念は有情のみと思われるが、供に一念三千の当体とすると非情の一念とは何かが問題となる。一念心中とあるように一念は心の中に在ると考えれば、非情の心は諸法の心として存在する。この諸法の心を妙法蓮華経というのである。そして一切衆生の慈悲の心を南無妙法蓮華経というのである。
もともと天台の一念三千は、衆生の起こす一念の心に三千の諸法を具足することを意味しているからである。
日蓮仏法で把握する一念三千が一念の心法、因果倶時・不思議の一法という時の一念三千とは明らかに異なるのである。
「一色一香無非中道」と摩可止観で説いても法体を南無妙法蓮華経と開示出来なかった天台思想の限界があると思う。
「此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ十界の依正を三千につづめたり」(聖愚問答抄 487頁)
依正不二の一念も、因果倶時の一念も、色心総在の一念も因果倶時・不思議の一法に収めた日蓮仏法より観なければ、非情の一念の本質的な側面を見失うことになる。
妙法蓮華において妙は有情、法は非情であるが、妙法は有情を表し、蓮は非情、華は有情であるが蓮華は非情を表しているという。
これは、有情は非情に、非情は有情にと互いに交流しあい転換しあうことを意味しているとして、衆生本有の妙理としている。
「十五に内外円満謂く非情の外器に内の六情を具す有情数の中に亦非情を具す」(十八円満抄 1363頁)
仏法における主体と客体の関係を述べた法門に境智不二がある。依正不二と境智不二の違いは、依正は存在の関係論であり、境智は実践論である。
依正には、行を含まないが、境智は、行を含んだものである。智があれば境は必ずある。この境智が合するとき、行は合するその中にある。
十界三千の理境と、これを観ずる智慧は一体不二であり冥合というのである。この境智行は有情の規範となり、菩薩の弘通の規範でもありさらに妙理でもある。(境智冥合については、生命論序説を参照されたし)
曼茶羅の本尊を境とし、菩薩の色心を智とすることによって菩薩の行を境智冥合というのである。
自己の本地を菩薩と確定することが位となる。これが日蓮仏法における自己の悟りとなる。この境智行位を自己の色心の三大秘法として説き明かしたのが日蓮仏法である。
「智は必ず境有り即ち是れ本門の本尊なり智行の二妙は即ち本門の題目なり、位は即ち可居の義なり、戒壇亦是れ所居の処なる故に位妙は戒壇を顕わすなり、故に本因の四義は即ち三大秘法なり」(依義判文抄 141頁)
人間学と自然科学の接点は、日蓮仏法においてのみ成し得ると断言して置きたい。人間と自然の関係は、古今東西、人間にとって離れることの出来ない命題であり続けてきた。膨大な宇宙を見ることが出来るようになった今日においても、その問いかけは終わりを告げることなく果てしない。
人間の中の自然、自然の中の人間にとって全てを対立する概念の中に組み込んで把握する思考の方法を再検討する時代であろう。



第三節 現代に躍動にする日蓮仏法


日蓮本仏論序説 第三節

第一項 本化の菩薩と迹化の菩薩
第二項 仏意仏勅の広宣流布
第三項 創価学会とSGIの歴史性
第四項 日蓮仏法の日常性
第五項 世界宗教の条件について
第六項 菩薩の行と価値論


第一項 本化の菩薩と迹化の菩薩

現代に躍動する日蓮仏法とSGIの歴史的存在意義について、いくつかの視点から見てみたいと思う。
創価学会が出現してから七十数年を経た今日の社会状況は、戦前戦後、高度経済、バブル、崩壊、失われた10年を経験しながら、21世紀を迎えた。
戦争の世紀といわれた20世紀が終わったとおもったら、21世紀も幕開けはやはり戦争であった。
そして年金不安、官僚の無駄使い体質が露呈、さらに特定財源やガソリン税、後期高齢者医療制度等など国民の先行き不安を増長するかのような様々な世相が現出してきた。その中にあって創価学会は、公明党とともに社会に果たしてきた役割は、大きかったといえる。
とはいえ公明党にたいしての個人的な意見としては、かなり期待はずれの感はある。とくに近年、その感が強いが、もう少し我慢して見ていこうかなと思ったりもする。
創価学会が日蓮仏法を基調として平和・文化・教育の推進団体という社会運動に力をいれれば、当然のこととしてその上部構造にある政治に関わらざるを得ない。
全共闘世代の最後あるいは団塊の世代の最初の世代である私が感じていることは、創価学会と公明党のあり方が共産主義者の革命運動の理想的な存在に見えるだろうと思えることである。
彼らが目指した革命運動を、着実に果たしてきたのが、彼らが否定した宗教とその団体および支持政党が実現してきたといえるのである。
全学連、社学同、社青同、連合赤軍等々の彼らが目指した社会革命は、大局を誤ったが、創価学会が結成した新学同と大きく異なる点がある。
それは創価学会が、同じ社会主義でも人間性社会主義を唱えたところにある。頭に冠した人間性という言葉のなかに「人間とは何か」という深い洞察が秘められているのである。
様々な思想・哲学にあって究極的なこの問いに対する答えの高低浅深が、人の行動を決定してしまうものである。
連合赤軍があさま山荘に立てこもっているときに受けたニクソン・毛沢東会談のショックは、同様に社会革命を目指した青年に新たな視点を与える契機にもなっている。
共産圏の国から見れば、創価学会と公明党の運動体系が、現実的な理想的な社会主義革命運動の手本に見えることだろう。かつて日本共産党が「歌って踊って恋をして」をキャッチフレーズに運動を展開したのも創価学会と公明党に対抗意識を燃やしてのことだ。
日蓮仏法が、創価学会の歴史的存在意義とともに、現代に躍動している。ところが1970年代に入ると創価学会運動にも様々な試練がおそいかかってきた。
日中国交正常化の、日中共同声明が発表されたのが1972年9月である。日本国と中華人民共和国が国交を結んだ。さらに日本共産党と創価学会との合意についての協定が交わされたのが1974年である。1975年に発表された。
1975年はSGIが結成されると創価学会と宗門の間に生じたひびが目立ち始めたのである。それは世界広宣流布への思いと責任感の違いでもあった。
1979年4月には、池田会長の辞任である。12年後の1991年11月には日蓮正宗は、創価学会を破門した。宗門との離脱は、創価学会にとって、宗門と創価学会両者との決別であった。それは世界広宣流布の中心が創価学会ではなくSGIになったことを意味していた。
三代にわたって築いてきた宗門との関係が終われば、その時点で創価学会の役割は終わったのである。後は、SGI初代会長である池田先生中心に、世界広宣流布の活動が開始されるはずだった。
ところが現実にはそうならなかったのは残念な結果でした。菩薩道を行ずるSGIの運動と菩薩の役割、その意味を考えて見たいと思う。
本化の菩薩は、上行を筆頭とする地涌の菩薩のことである。この本化の菩薩は、迹化の菩薩のように個性を感じられないのは何故だろう。
四菩薩を代表とするが、他は全て同じ地涌の菩薩としてまとめられているからだろう。平等性を感じるが、自由と個性は感じられない。
迹化の菩薩は実に多彩で個性豊である。しかし、迹化の菩薩達も、以外と自由がない。末法に出現し弘通したくてもできないという。末法で法を弘通する資格がないらしい。菩薩達の責任ではない。法を説いた仏が迹仏だからである。仏のせいである。
法華経でさんざん菩薩を讃え、滅後に弘通をする功徳を説いて、煽っておきながら、誓願を立てようとすると資格がないでは、何の為の法か、仏かと思ってしまう。
総じて、法華経を付嘱され、滅後二千年の間の弘通の許認可が与えられたにすぎない。従って迹化の菩薩は、この二千年間に色々と出現してくるのである。 
薬王にいたっては、天台と伝教と二度も出現している。文殊も普賢も歴史上の人格知として出現し、存在をアピールしたりする。
南岳・天台・章安・妙楽・伝教は、末法を恋慕う。迹化の菩薩の声が聞こえてきそうな勢いである。
様々な個性と力用を備えたこれらの菩薩は、何故、資格がないのだろう。縁した師が悪かったからとしか言い様がない。仏の都合である。
羨ましがられる地涌の菩薩は、どのような人格知をもって、歴史上に出現するのだろうか。歴史上で最初に出現したのは、上首上行菩薩の再現としての日蓮である。
しかし、日蓮はその覚知において、上行を越える存在となっていくのだが、日蓮の弟子は総じて地涌の菩薩となるのであろう。
第二代会長戸田城聖の獄中の悟達は、法華経の開経である無量義経徳行品にある三十四非の理解から、仏とは「生命そのもの」であると覚知したことと学会員は地涌の菩薩であるという自覚であった。
天台の大蘇開悟と薬王再誕を当てはめれば、戸田城聖は創価開悟と大荘厳再誕となるだろう。
そして、SGIが法華経であり上行菩薩の再現ともいえ、三代会長は、結経である普賢再誕になるのであろうか。
いずれにしても日蓮仏法においては、末法の法華経は南無妙法蓮華経であり、上行菩薩を先頭に、法華弘通の使命をSGIが担っていることはその行動より判断して事実であろう。
上行菩薩は、現実の歴史上に一度も出現していないといえるが、広宣流布の時を感じ、出現をすることは当然のように思える。
勿論その出現が人格知としての上行菩薩ではなくても、組織・団体の名称とともに、その力用を発動することも不思議ではないだろう。
法人格という用語もあることだし、その組織・団体の総体の振る舞いの中に、久遠本仏を覚知した日蓮の血脈が流れていると思われるからである。
またSGIは法華経の異名というと、すぐに「それでは現在は何品あたりだ」と考える人がいる。そうではなく、SGIの日常の活動そのものの中に、二十八品並開結が、全て収まっていると考えるのが適切であろう。
さらに一人一人の会員の活動そのものであるといっても過言ではないだろう。 法華経の開結二経は種の概念を考察するにあたり欠かすことの出来ない経である。
開経では菩薩出生の種を説き、結経において如来の能生の種を明かした。従って、中間の法華経に、仏種を宿すことを明かにされているからだ。
末法の法華経においても、同じ原理であり、南無妙法蓮華経という末法の法華経は末法の本種の能生の法体となるのである。したがって末法下種の本種は南無妙法蓮華経である。
その意味にで、SGIのメンバーによって下種されることは、不自然でなくなるのである。SGIに仏種を宿すのであり、SGIによって菩薩が出生することを説いたのがSGI初代会長・池田大作ということになる。
戸田城聖の悟達は、創価学会の開経であり、法華経の序文となるのである。そして、三代会長は普賢菩薩として、SGIに仏種を出生することを明かすのであり、結経の役目でもある。
しかし大荘厳や普賢は迹化の菩薩である。この迹化の菩薩たちは、実は上行菩薩の迹化であることを知らなくてはならない。従って本化上行の垂迹であり、力用なのである。
上行菩薩の開結二経の働きを認めるのであり、本来的に地涌の菩薩としての法華弘通の働きであっても、現実の歴史上の現象に、迹化の菩薩の名を冠することは、不自然ではないと考えたいのである。かなりのこじ付け感はありますが・・・。
しかし大荘厳経が在家仏教の規範を示した経典であることと、その大荘厳菩薩が無量義経の対告衆の代表であることを考え合わせると、あながち大荘厳再現も不自然ではないのだが、いかにせん迹化の菩薩である。
戸田城聖は、自身の本地を地涌の菩薩としたが大荘厳菩薩とはいっていない。普賢・文殊の関係をみると、その力用のうえからみれば、牧口常三郎初代会長を理徳・定徳を表す普賢、戸田城聖第二代会長を智徳・証徳を表す文殊とした方が良いと思える。すると池田大作第三代会長は、上行菩薩であろうか。
これらをこじつけとか遊びとかいうが、要は、歴史上に出現する菩薩の人格知を理解しやすいのである。全てをまとめて、地涌の菩薩では、個々の人格知に平等性を感じるが、個性がない。
地涌の菩薩は、四菩薩以外に個性をみられないのはさびしい。総じて地涌の菩薩といっても、これら御三方は実に個性豊かな方々である。
本化の四菩薩は言うまでもなく上行(我)無辺行(常)浄行(浄)安立行(楽)であるがこの四徳は一身に具するというのである。
一人の地涌の菩薩に四徳を具すと、ますます個性がなくなってしまう。この四菩薩の行は異なるが、倶に妙法蓮華経の修行、即ち末法における広宣流布の活動の中に含まれているという。
そこで広宣流布という菩薩行を実践する人々の個性は、現実の歴史にあって、どのように現れてくるのであろうか。
元来、菩薩の概念には性格上の個性はないのである。個性的に人格的表現をする故に、迹化の菩薩ということになる。
本化の菩薩は本化である故に本仏に教化された衆生のことである。衆生の故に、その固有の我の顕現された姿としての人間は、個人個人に固有の個性を有するのである。
固有の我のもつ固有の波動エネルギーは、地涌の菩薩としての指向性を有しながら存在するのである。このような色心の波動が、人間的指向性を意識的に発展・進化させていく過程となって仏種の成長をみることになる。
菩薩の行をしないで菩薩と思い込み、その意識が無意識の領域において無統制に乱れるのを、増上慢とも頭破作七分とも、悪鬼入其身ともいうのである。その代表の見本ともいえるのが日顕であろう。
したがって、菩薩の個性は個人において、菩薩の心の領域に、菩薩の意識が、意識の根底(これを法性之淵底玄宗之極地という)と直接的に結びつく関係となったとき、この根底にある意識の領域の認識能力は、個人の人格を表面に顕すのである。
固有の我の現実化が起こるのである。現実化した固有の我は、個性となって歴史上に行動を伴うものである。



第二項 仏意仏勅の広宣流布 

仏法を広く世界に流布するとは、どのような意味があるというのだろうか。法華経薬王品で広宣流布を語り、もし、広宣流布できなければ、悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃茶等の便を得るという。まさに悲惨な事態である。
もとより広宣流布は法の流布であり、人間の歴史にあっては、社会に流布することである。
とはいえ何故、広宣流布をしなくてはいけないのか。仏の仏勅とその行為者である菩薩との関係はどうなっているのか。
広宣流布を社会の変革運動として把握することと、菩薩の修行として把握することと、衆生救済として把握するといった視点はいくつかあるが、本質論として法の流布とは何かを、問い直す必要があるだろう。
阿育大王は政治の根底に仏法の理念を置いたという。一国の指導者が仏法に帰依することによって、広宣流布は成し遂げられてしまうものなのか。
天台や伝教が諸宗の破折によって、国教として国家より認定されれば、広宣流布は成就したというのだろうか。
広宣流布の先例とされる過去の歴史に特徴的な方程式は、仏法の指導者がその社会のオピニオン・リーダーに対する意識変革により、上は一国の指導者から一庶民にまで、その発言の影響を及ぼして成し遂げられたところにある図式である。
釈迦仏法は社会の上層部・知識層から下に降りることに、広宣流布の図式がみられる。日蓮は上行菩薩の振る舞いとして、最下層の庶民からの変革である。
釈迦の最初の弟子は、友人であり知識層の人々であるが、日蓮の最初の弟子は両親である。この違いは、時代による衆生の機根の違いによるだけだろうか。
むしろ、濁悪の衆生が出生する末法こそ、上からの圧力、権力による方が、畜生根性の強い末法の衆生を教化するには最適に思えるのだが。
日蓮も辻説法より始めて、七年後に国主諌暁をして一国の指導者を折伏している。また、オピニオン・リーダーともいうべき中間層、すなわち、武士が帰依していることも大きな原動力となっていることも事実である。
しかし、日蓮は、漁夫・農夫の帰依を心より喜んでいるのも事実であり、権力に迎合する姿勢は、微塵も感じられないのである。ここに日蓮仏法の広宣流布の本道がある。
日蓮にとって広宣流布は、地涌の菩薩が自ら仏と約束したことであり、自らの手作りで実践・創造されるべき修行と位置づけているからに他ならない。
仏によって与えられた修行形式と、自らの主体的意志によって決断した約束とでは違うのである。
約束史観は自己による自己規定であって、自己の未来化であるから、修行は固有の我としての個性をもつのである。
その意味において、地涌の菩薩はその種に広宣流布という指向性を内在する種ともいえる。
この種の生成・育成に主眼をおいて、現実の歴史に具生する固有の我を持つ一切衆生の本源的自己化へと歩ませる、社会運動としての広宣流布と把握するのである。
そしてその使命の自覚と指向性は、固有の我の持つエネルギーが発する能動性である。この発動・能動性の強化が、「進化するけど断ぜられることもある性分」を持つ種の動的特性であり、修行と表現されるところである。
釈尊が広宣流布を心に描くのは、自己の悟達を一切衆生に流布し、社会の繁栄と平和を願ってのことだろう。
しかし広宣流布は、釈尊自身が一人でやろうと思った訳ではないだろう。広宣流布は仏の自己満足の為でも、自分を宣揚させる為でもないだろう。
広宣流布は、衆生が行動するための仏の与えた課題なのだろうか。仏意仏勅というと、仏が希望することを仏が衆生に命令したことになる。命令されたことを行うだけでは、自由といえないだろう。
仏意とは、仏の心であるから、その心を衆生が感じそれを仏勅と思って、自らの意志で弘通を願い出たのである。
法華経に出てくる菩薩は、やたらと弘通したがっている。釈尊は許認可を出す権利を持っている。役所みたいだといったら失礼になるだろうか。弘通の認可がおりれば、あとは契約するだけで実行の時を待つことになる。
広宣流布を把握する三点、すなわち、社会の変革運動と菩薩の修行と衆生救済も、行うことは法の流布のみである。
この法は釈尊にとっては本師である。日蓮にとっては仏種である。始成の釈尊は人格知としての人師であり、衆生も師は人格知としての仏と思っている。
その中で本師は、法といっても理解されない。釈尊は自得した悟達を広めるのにためらいがあったようだ。思いもしない悟りは、躊躇させる心を生ずるものだ。
日蓮の悟りは初めから目的を持っていたから、一瞬の迷いもなく行動に転ずることになる。それでは日蓮は、広宣流布をどのように心に描いていたのだろうか。日蓮は法体の折伏をして法体広宣流布をしたという。法体の折伏とは、天台が言う「法華折伏 破権門理」である。
法華経によって権経を破折し尽くしたことをいう。法華経第一としてから、三大秘法を導くことであり、法の体が南無妙法蓮華経であるとすることが法体の広宣流布である。
次は、化儀の広宣流布を滅後に託すのだが、ここからは釈迦仏法と様相は異なる。滅後を託すのに付嘱が必要である。釈尊は上行菩薩に、天台は章安に、伝教は義真に付嘱した。上行菩薩以外は、実在の人間に付嘱している。
釈迦は、本地を明かして教主釈尊として付属を行っているので、本化の菩薩に付嘱したのだろう。
最も、釈尊の付属は「今世の弟子は過去世の師」への付属となるが、日蓮にとってはその必要がなかったので、自身で開示し、日興には法体を付嘱しないで、別当職と本門弘通の大導師たる任、即ち、一期の弘法を付嘱し、本門寺の戒壇の建立を託したのであろう。
法体の広宣流布は法体の折伏で化導し、化儀の広宣流布は化儀の折伏で化導するのは当然であろう。前で述べたが、曼茶羅の本尊は、化儀の本尊であるから、化儀の広宣流布は曼茶羅の本尊の流布ともいえる。 
日蓮は釈迦と違って、自己の未来について語っていない。根源的自己を三大秘法に開いた日蓮が、化儀の本尊を図顕する意味は、自己の未来化を、常住の現在に留めるためである。久遠元初の本師を覚知し、法体を開示した日蓮にとって、付嘱の未来化は必要なかったのである。
尽未来に現存する現在の確定の為の原理的構造を示すことが、衆生救済のための広宣流布と、菩薩の修行の為の広宣流布の化儀の姿であった。
この原理的構造が、曼茶羅の本尊を中心とした折伏の実践行である。それは上行菩薩の再誕日蓮の生き様であり、自己完成としての久遠本仏である自己確定の一生である。したがって日蓮一期の弘法の実践こそ、付属の内容そのものであった。
釈迦が広宣流布を語る時は、法体の広宣流布である。日蓮が広宣流布を語る時は、化儀の広宣流布である。この違いはもう述べる必要はないだろう。
次に、広宣流布の三つの視点について述べておきたい。菩薩の修行としての広宣流布は、その行において一切衆生の見本となる。
これは衆生の行動の規定となる。自己不完成の衆生に対し、不完成の故に可能性の範囲が限定された衆生を化導していく為の規定である。
衆生の代表としての菩薩は、この行によって自己の本地を覚知するだけの仏種の養育を成すのである。
衆生は法体に縁することによって、仏種を植えたことになるのだが、その発動性の弱さはいかんともし難いのである。発動性の強化の為に、固有の我の持つエネルギーを高める以外にない。
使命の自覚と広宣流布への指向性を持つことである。衆生はその存在する国土とともに、顕現する特質を有するので、必然的に依報となる国土、或いは社会とともに行動することになる。
したがって自己存在の確定は、自己と他者との関わりをも確定することになる。広宣流布の規定は菩薩と衆生の行の規定とともに存在する社会の規定に至るのである。
如来の事を行ずる菩薩の存在は、仏を規定不可能な存在から、自身の行を通じて表現することのできる規定可能な存在へと変化させる。
菩薩が仏を語り、また表現できることの意味ともなる。人間規定は、人間の意識や現象、或いは、物質的な意味の本質とその機能によってはできないのである。色心次元においてのみ規定される存在であると断定しておきたい。
依報の生成の仕方が仏界所具の九界の九界と区別、或いは、差別化された表現の所以である。この依報と正報との関わりの中で、菩薩の行を依報とし、その依報を依拠として、衆生は衆生の菩薩行を実践可能の正報とするのである。
もちろん菩薩にとっての依報は法体であるが、日蓮は化儀の本尊を依報にさせる為の図顕であって、広宣流布を化儀化させたのである。
「正報をば依報をもって此れをつくる」(瑞相御書 1140頁)
曼茶羅の本尊を依報とし、菩薩を正報として、次にその菩薩を依報にして、衆生を正報にするのである。故に、化儀の広宣流布は菩薩の修行であるとともに、衆生の修行ともなって、衆生救済の歴史化となっていくのである。
「答う十界の依正即ち妙法蓮華経の当体なり」(当体義抄 510頁)
広宣流布は、一往、本尊流布ではあるが、再往、地涌の菩薩の「行」そのものとなっていくのである。
衆生救済の歴史が広宣流布そのものの歴史化であるのは、行為する菩薩の体が、法体と開顕する三秘総在の生身であるからに他ならないからである。



第三項 創価学会、SGIの歴史性

創価学会、SGIの思想と行動は、上行菩薩の振る舞いと同じである。昭和の世に出現した創価学会、SGIは、上行再誕と把握すると、大変に分かり易くなる。
上行菩薩の振る舞いは、末法においては、大白法を所持する故に末法の法華経の行者ともなる。日蓮自身は、自己の過去と未来を永遠の現在に留める化儀化となって今日に至る故に、曼茶羅の本尊を中心とした上行菩薩の弘通の実践の主題が、創価学会、SGIの衆生救済の歴史となるのである。
衆生救済とは、衆生が菩薩としての振る舞い、菩薩の道を行ずることに他ならないといえる。以後は、創価学会、SGIをすべてSGIと表記する。
法体を開示した日蓮にとって、釈尊のように秘すべきものはない。上行再誕として、末法に出現することを願望した釈尊は、日蓮によってその願いは実現したといってよい。
そして日蓮の願望は、法体の流布を上行菩薩に託すことである。しかし、日蓮にとっての上行菩薩は、自身の外用とともに、上行菩薩が未来に出現するための先取りである以上、上行菩薩が個人の、即ち一人の人間として出現することを思い描いていたのかというとそうでもないらしい。というのは、日蓮仏教における存在論は、教主釈尊につきるからである。
人間の存在に対する内側の観測者は自己であるのに対し、外側の観測者は神となる。決定論は、この外側に存在する神を肯定せざるを得ない。故に外道という。
神は自己の内側にも存在するといっても、神の存在は人間の外側の観測者であり続ける故に、人間存在の人間による規定にならない。
会員を菩薩と規定するのは、仏ではなく人間の自由意志による。仏が決定するのは、行為規定であって人間存在の規定ではない。
人間が、自身の存在を規定する時に、人間の行為を基準とするという意味で、人間自身の行の規範となるものである。
行の規定の故に内的人間にも、外的人間にも、人間の存在の規定になりうる。仏法の存在論は、人間学の範疇を含む色心次元の存在論である故に、存在に限定するのではなく、顕現と冥伏を繰り返す二極性の存在論とするのである。
内的人間と外的人間を統一する全体的人間の人間学ではなくして、この全体は歴史的人間と人間の非歴史的部分の人間学を認めているのである。
歴史的人間の存在の理由と存在の仕方を、存在の因果論とするのである。これは、原因・結果といった因果律的発想ではない。即論的因果論である。仏法ではこれを、歴史的釈尊と教理的釈尊とし、釈尊一元論で語るところの教主釈尊論である。これは、人間学的色心論である。色心論的人間学と相まって、初めて人間の存在論は完成するのである。
人間の存在論は、現在の確定論であり、現在の実存を基準とするのである。そして、それは人間の行為と、所産による社会に存在する全てに至って、関わりを持つ故に、SGIの出現に対する因果をも見つめることになる。
したがって、未来に法を弘通する主体は個々と全体を統一した存在としての教主の振る舞いであり、日蓮仏法より見れば、SGIの存在自体が、教主釈尊の力用そのものとなる。
SGIという全体の総称の名と、会員という個々の人の関係を部分と全体という視点からみるのではない。
部分は全体に於いてのみ可能となり、全体はその部分に於いて全体なのであるといった弁証法的関係論でみては、SGIの本質は判らない。
会員を地涌の菩薩として捉えるのはよい。その菩薩を部分として、その集合としての全体という意味でSGIを促えてはいけないということである。
SGIにはSGIとして存在が独立しているのである。まずSGIの出現が必然的であると仮定し、その設立から会長及び会員の出現も個々の人の必然性と捉えるのである。創立者の存在は、創立されるべきSGIが、創立される必然性において、創立者を必要としたということになる。
上行菩薩の出現は、教理的に必然性を持つが歴史的な時空間において、その出現の必然性を特定することは教理的である。
しかし教理的釈尊も歴史的釈尊もその出現において教理的衆生と歴史的衆生が存在するのであって、菩薩の歴史的出現を教理的に見ることが、現在の歴史の確定方法となるのである。
SGIの出現の契機も菩薩の法華弘通の願望であり、歴史的衆生の心懐恋慕である。人は人として存在するとともに、人間の中に存在するのであり、この「間」とか「中」が界であるから、菩薩は菩薩が出現する界を出現の場として必要となる。
その場を人と同じく人間の中に求めるのである。菩薩が衆生の代表として存在する所以でもある。故に、仏界所具の菩薩界と人界において、その行為による区別化が行なわれるのである。
歴史上にあって菩薩の願望は、その歴史に先在するものであるが、衆生の心懐恋慕は歴史的である。従って、衆生に心懐恋慕の心を起こさせる菩薩が菩薩界という場において出生していくのである。
SGIの歴史的意義の一つは、菩薩の出生する場と定義することであり、二つめは、行動の総称としての上行菩薩の再誕とすることである。
個々の会員が地涌の菩薩であるならば、全体のSGIは菩薩界あるいは上行菩薩という関係になる。その意味で個と全体は弁証法的関係ではなく上行所具の菩薩の関係になる。菩薩界に出生する菩薩としての個と全体は、所具において統合される所の部分と全体である。
衆生が仏を求める心は、出現する菩薩にとっては、菩薩の歴史性ともなるのである。けれども衆生が仏を求めているのに、仏の代わりに菩薩が出現したのでは、なんとなく話が違うという感じがする。
そもそも衆生が仏を求める心は、釈迦仏法による衆生と仏が対立する概念で把握されているところからくる条件付きの救済史によるのである。
救済する者と救済される者が存在することを前提としたもので、これでは本来の人間的自由が制約されてしまう。
日蓮仏法における衆生の心とは、本源的法であり、本質我を求める色心の指向性のことである。人間は、日常的に理解している事柄に対し、危機及び限界状況の中で本来の色心の波動を求めるものである。
特に社会にあってその社会を形成する主体としての人間が、新たな社会と直面した時に、その社会の主体となる自己の本質を意識することが、菩薩の心であり衆生の心でもある。
衆生の心とは、仏を求めるというより自身の中より菩薩の色心を涌現する自発・能動の心であり、固有の我の持つ発動性への目覚めである。
そして仏とは、菩薩の心の師となるところの法である。衆生の自力による我の発動の方途を自身の行動で示した先駆者・日蓮の人格知には驚嘆せざるを得ない。
SGIが歴史上に出現する時空間的根拠となるのは、この衆生の心と菩薩の存在という日蓮の先取りとしての予見である。
従ってSGIの出現の本懐は、一人一人の会員の今日的存在意義にもなっていくのである。
またSGIの歴史性は、日蓮滅後の未来における上行菩薩の未来化といえる。自身の出番を承知していた上行菩薩の今日的出現は、上行菩薩の経験的必然性であったといえる。



第四項 日蓮仏法の日常性

SGIと会員の存在の意義を釈尊一元論より見てみよう。自身の存在をまず教理的釈尊の歴史性より過去の必然性と現在の現実性と未来の可能性に対して位置付けることになる。
上行菩薩にも、末法の法華経にも、あるいは、他の存在にも成り得る可能性から現実の活動、行動を認識して上行菩薩再誕のSGIと認識してみようと思うのである。
次に歴史的釈尊観は、現実のSGIの存在を菩薩の立場から確定する実践の行より認識することである。菩薩としてすべき使命感を設定しその必然性としての根拠を明示して出現と行という現実性の重視である。
時間性よりみれば、過去・現在・未来の流れでは教理的釈尊観は確定できない。仏と菩薩の契約史観は、自発・能動の意志による選択から、必然性を具えた可能性の実現のための契約であり誓願である。
しかし存在するという現実性からの認識は、大枠においてまず前提となるものである。これは、菩薩の存在から現実の会員及びSGIを確定するのであり、会員を地涌の菩薩とし、SGIを上首上行菩薩と認識することになる。
この歴史的釈尊と教理的釈尊を統合するものが現在の自己確定の原理である。現在の自己確定については前に述べて来たとおりであるが、この中の現実性は過去の覚知より現在を確定し、次に未来の自己を覚知して現在の自己を確定した時の流れ全体が、大枠の教理的釈尊の現実性として悟達の構造となる。
そしてこの現在は、過去の必然性を予見として未来の可能性を目指した誓願の実現としての現在性である。
さらに、過去より確定した現在と未来より確定した現在は、可逆性という発展・進化を内包する現在である。もちろん本質の自己同一性を有しながらの発展・進化した自己を現在に観るのである。
このように歴史的釈尊は、釈尊の人間論的普遍的構造と人間存在の釈尊論的根源性を同時に統一した教主釈尊として現実性をもつのである。
従って、歴史的釈尊が個人であれ、団体であれ、その存在を菩薩行という規定によって確定するのである。個人にも団体にもなり得る可能性を必然性の中に具え持つ存在論が、教主釈尊の存在概念でもある。
SGIの歴史性は、末法出現の必然性を持ち、法の弘通の主体者になり得る可能性とその現実性を有する存在として、今日に光り輝くといえる。そして、同時に、未来に果たす責務の重大さを感じるのである。
SGIと会員の関係を地涌の菩薩として統合することで、SGIの存在する時空間とは何かが明確になる。
上行菩薩が自らの出現の時空を経験的必然性として承知していた訳で、その時空間が今より前でも後でもない、今でなくてはいけない理由は、今が法華経説法の時空間であるからだ。
同じように個々の会員一人一人もまた、その出生にあって単に偶然性という現在にとらわれてはいけないだろう。
地涌の菩薩は、上行菩薩と共に行動する指向性をその種に力用としての発動力を持っているからだ。
地涌の菩薩の固有の我が持つエネルギーが発する能動性は、仏種の進化より発展・形成・保持されるところの力用である。
このエネルギーは、質量によって決定されるエネルギー量ではない。色心の顕現と冥伏において、顕現された色心に又顕現と冥伏の二重性があって、質量によるエネルギー量は、顕現の顕現部分を物理的に把握したものにすぎない。
顕現の冥伏部分のエネルギー量を無視することによって成り立つ学問を物理学という。このことについては、宇宙論序説で述べるつもりである。
顕現の冥伏部分もその顕在する故に発動するエネルギーを有するのである。物理学においてその量の測定が出来ないだけである。従って色心が、その二極性と二重性において顕在する総エネルギー量は、無量無辺ということになる。
仏種の成長によるエネルギーの変化は、根源の種よりエネルギーを取り入れるといったものでなく、絶えず流動的に周囲のエネルギーとの交換によって成される開放系を意味するものである。
その意味において保存の法則は維持される。また仏種の成長といっても自己の内に仏が生きているというのではない。
自己の波動エネルギーが根源の波動エネルギーと同質を意味しているのである。そうでなくては、仏の復活になってしまう。
自己の本源的覚知は、自身を媒体あるいは媒介として仏の復活を保証するものではない。
仏種は本源種との共鳴を成す為の進化をめざすのである。共鳴波は、調和であるが自己を捨てることでも、仏に身を任せることでも、神の愛に包まれることでもない。
日蓮仏法が完成される以前の仏教においては、仏は人間から分離された存在として対象化されていて、人間は仏によってその時空間を支配された存在として歴史に構造化されていたのである。
仏種といえども法であるから法の波動をもつが、このことは仏の波動を基本波として、九界の衆生の波動が基本波に合成されて存在すると思えばよいだろう。
九界の固有性は、仏界の座標系に内包される存在としての各界固有の座標系となるので、菩薩界にも地獄界にも存在することの出来る可能性を持つ。
各界の因果の不確定性でもあるが菩薩界の存在という使命と願望を合わせ持つ未来の自由性でもある。
その九界の現実性は、縁によって生起する所の必然性を具えた偶然の不断の連続性である。
この偶然は、使命感という自発の自由意志の契約より生起する必然性の静的認識によるものである。
衆生救済は、この偶然性を自身によって決定へと転換する実践の中において確定されるのである。
転重軽受、罪障消滅の原理は、自己の必然性としての人間の釈尊的根源性の覚知によって成されるもので、必然性の動的認識である。
必然という過去と偶然という現在は、十界の因果のうえから統一された仏界所具の九界の現実相として、歴史に構造化された過去と現在ということになる。
過去の必然性は冥伏されている。又、されていくものである故に消滅ではない。従って現在に顕現される存在としての必然性と把握するのが仏教である。
過去は永遠に埋没した過去ではなく、未来もまた永遠に未決定の未来ではない。過去の必然性を記憶と呼ぼうと経験と呼ぼうとかまわないが、仏法の色心次元での過去は、現在の力用としての発動性によって顕現される故に、有情・非情に亘る過去を観るのである。
未来に受ける宿業を今世に招くことも出来るし、過去より背負う業を今世において転換することも可能になる。未来の因果を自在に転換することが出来る原理なのである。
九界を所具する仏界を安定した固形化と把握するのでなく、九界に対応した存在として九界の不安定、不完結性の依報とするのである。
上行菩薩とその眷属としての会員は、当然のこととして上行菩薩と同じ法華弘通の約束をしている訳で、会員の日常性の規定部にこの史観は流れている。
誓いと付嘱による菩薩道を行ずることは、衆生救済の本義であって功徳や転重軽受、罪障消滅は二次的なものとなる。
しかし、現実問題として末法の衆生の汚れきった命、仏種の発動性の弱さは、二次的な救済を望んでいる。
法の弘通に対する歓喜や醍醐味を味わうより物質的欲望に偏る。その意味では、自覚者にとっては実にやり甲斐のある時代といえる。
末法の衆生の傾向は、永遠に不変不性である。国のため、社会のため、一切衆生のためと言っても常に人の裏を見ようとする。
表裏のある衆生の心は、表裏のないことを信じない。功徳論を現世利益と決めつけて教勢拡大のためと非難する。人の心の実に不思議な相を観る思いがする。 
「心こそ大切なれ」の心は、衆生が仏を渇仰する心であり、衆生にその渇仰心を起こさせる菩薩の心である。
従って悪にも善にもなる心という意味ではない。衆生も心も仏も一法より生じたものである。
経文にも「心は是れ第一の怨なり、此の怨最も悪と為す、此の怨能く人を縛り送って閻羅の処に到る、汝独り地獄に焼かれて悪業の為に養う所の妻子兄弟等親属も救うこと能わじ」とあり、さらに涅槃経には「願って心の師となって心を師とせざれ」とある。
一法を心の師としないかぎり、悪になったり善になったり不安定な心の“ゆらぎ”に惑わされることになる。
会員の日常活動は、個人、家庭、社会、国家、世界と様々な姿をみることが出来るが、根本的には、個人の生身に三大秘法を開顕する為の行といえる。
本門の題目という実践行である。化儀の実践は、自身に法体を開顕することである。その為の批判者や迫害者の存在にも意味を持つ。
上行菩薩の出現は、その重大な意味と同時に法華経誹謗の狗犬の坊主等による謗法の咎をも露呈することになる。日顕等の狗犬の坊主もまた、上行菩薩とともに地より出現したといえる。
会員の日々の生活にも文上と文底を観ることになる。これは、個々の地涌の菩薩にも外用と内証の地涌の菩薩が存在することを意味する。
化儀の広宣流布は、化儀の本尊を化儀の仏とすることにより、化儀の菩薩が行う実践目標となる。
この化儀の仏と菩薩の概念は五陰仮和合の色心の顕現のうちに歴史性を有する種の特性である。もとより化儀は化導の儀式であることから、化儀の広宣流布は化儀の仏と化儀の菩薩が行う儀式ということになる。
会員一人一人が、広宣流布の舞台に踊りい出し地涌の菩薩の役を演ずると思えば、人生もまた衆生所遊楽の境涯において見ることができて楽しいものである。
生きている人間にとって、人生の苦悩の解決は、社会現象として多くの宗教を生むことになった。様々な宗教が存在する人間世界の現象は、死という根本的な苦悩以前に、生きることの困難さを実感してしまうからだろう。



第五項 世界宗教の条件について

仏道を修行する者が必ず修学しなければならないものに戒定慧の三学がある。戒律、禅定、智慧の関係は、戒によって定をたすけ、定によって慧を発し、慧によって仏道を証得することになる。
日蓮仏法における三大秘法は、過去においては、三学となって修行の規範になり、現代にあっては、平和、文化、教育となって広宣流布の活動の規範となる。(詳しくは三大秘法論序説を参照してください)
戒は本門の戒壇であり、善行止悪という文化の本義となる。人間が地球上に様々な生活様式を作っていても、人類という共通の意識を持って共生することにより、異文化間の争いを止めることになる。
さらに人間と自然が共存するという依正不二の原理を掲げる仏法哲理の実践は、人間が人類として自然の中に共生・共存を可能とする。世界宗教が善行止悪を支柱とすることによって、共存、共生という人類意識を否定する悪を止める。人類の歴史とともに創造されてきた文化は、人類の文化である。今日の多くの不安を形成する異文化間の争いにあって、何が善で何が悪なのかを、人類という視座より見つめ直すしか解決されないだろう。
定は本門の本尊であり、静思塾考の修行の対境として把握する。戒が定をたすけるとは文化の交流、人間の対話なしに平和はあり得ないということである。人類の平和創造の原動力は人間としての自立、自己完成へと静思塾考を必要とする。自覚した人間の思考の対境を平和へと向かわしめる姿を定というのである。静思塾考といっても山林に隠れて一人で思索することではない。文化が平和を助けるのであり、文化の存在する場こそ平和の建設される所となる。
慧は本門の題目であり、利剣明智である。現代文明に巣食う病根を断ち切る智慧の利剣であり、人間の様々な欲望のコントロ-ルや科学技術の指向性をうながす人類の英知として、教育の本義をみるのである。定によって慧を発しとは平和への思考性によって偏った教育でなく人間の智慧を開発する教育のあり方がみえてくる。人間を賢明にし、人間の精神性を高め、人間の哲学性を深める教育をすることが、平和を求め人類の破局を止める源泉となるだろう。
個における戒定慧の順序性は、社会にあっては慧定戒の循環性を持って、平和と文化と教育の本来の有り方を指向する。まことに慧によって仏道を証得することになる。この仏道こそ、日蓮にとっては「菩薩行」に他ならない。

世界宗教の条件は、社会学や宗教学で思考するより人間を中心にした色心論より考察することが必要だと思う。人類の平和と文化と教育の改革は、人間中心の意思と実践がなくては成し遂げることは出来ないだろう。
三大宗教の比較、分析等もそれなりに意味はあると思うが、人間の自由、平等、慈悲の観点を神あるいは仏と対峠して規定するのではなく人間中心の判断を持つ宗教はないのだろうか。
宗教が常に超越者を必要することに対立を生ずる因があると思う。超越者同士が対話をすることが無いという現実は、世界宗教イコ-ル世界征服の感を与える。
神や仏が人間とは別の超越者とすると人間の自由・平等・慈悲も神や仏より与えられたものとして不自由な束縛を受けることになる。もっと自由で、もっと平等な全人類的な慈悲の概念を持つ宗教は存在できないのだろうか。
人間の行為そのものから規定される自由・平等・慈悲は、「人間とは何か」という問いと共に、人間の色心を見直すところから出発すべきだろう。人間を知らずして人間の幸・不幸及び行為の善悪を語ることは出来ない。

「人間とは何か」という問いにそれぞれの宗教あるいは哲学はそれなりに答えを出している。その答えはそのまま思想の原点となるべきものである。 
「平和」と「文化」と「教育」の関連は種々語れるところであるが、この関連が人間の個における自由と平等と慈悲を根底にするところに日蓮仏法の現代的意義がある。
日蓮本仏論は個々の人間の尊厳をうたいあげるとともに、今生きる人間の現在性を確定する哲学である。平和や文化や教育といっても絶対に忘れてはならないことがある。それは、実践三項というべき平和と文化と教育を、一部の権力者のものとするのではなく民衆の為の平和と文化と教育でなくてはならないという、民衆自身が創出すべきことにある。
世界宗教の三条件を実践論、運動論で語るとき、一人一人の自覚した民衆の対話そのものが、修行となる。この修行は、菩薩の行であり、人間の色心の中に神や仏は必要ない。人間に具備する普遍性は、色心と呼ばれるものであって、超越者ではない。
「内在的普遍」という言葉は九界即仏界の仏界のことを言うらしい。この「普遍」を「超越」と同義にしてはいけないだろう。又、「普遍」を「仏性」あるいは「仏種」とすることもできる。
しかし、人間の色心に具備する普遍は、外在的普遍と同一という意味を持たせるとすれば、その普遍の実体は、内にも外にもあるということになって、孤立系を持たない実体ということになる。
そうなるとあえて内在した形で観る、普遍の意味がなく、普遍の実体の中に人間を観なくてはならないだろう。この普遍の実体を神といい、仏ということになる。
人間は何故神や仏を人間に内在する実体と観たがるのだろうか。そうすると、内在的普遍は人間存在の否定につながってしまう。
内在的普遍は九界即仏界とは根本的に異なる視点である。「内在的普遍」は、人間の色心に具備する普遍性の部分を観るという意味で使用しているのだろうが、人間に普遍性の部分が存在するという時、人間という有限の中に無限を見ることと同義になる。
有限の中に無限は生成しない。無限の中に生成、消滅を繰り返す、有限の視点が大事なのだ。即ち、有限が無限より生成することによって無限に支えられた有限となり、有限は無限を左右する存在として無限の中に構造化される。
有限内的無限ではなく、無限内存在的有限となる。無限と内在的普遍は、同一性でありその中には有限は存在しなくなる。
内在的普遍の容認は、有限の存在を無限の中に埋没させることになる。有限の中に有限を生成し続ける無限の存在を観たいときは、即論で語る以外にない。
有限即無限、無限即有限である。内在の対局は外在であって、普遍とは別次元である。人間の色心に仏界を観るならば仏界が普遍ではなく、色心が普遍なのである。普遍の色心に内在的仏界を構造化された人間の色心という表現になる。
色心は無限も有限も含むのである。有限の中に無限は存在しないということになる。有限の人間に仏界を観たとしても有限内の仏界もやはり有限なのである。
仏法的にみても、普遍のものは、何も仏界だけではないから、内在即超越といった概念は必要ないのである。むしろ、神学的発想で仏法を観ることは誤りである。
内在的普遍を内在即色心として、有限の色心に無限の色心を観るという意味に使うべきである。内在的普遍を仏や神や仏界とすることは、超越者の存在を認めることになり、その超越者の意志と目的を人間に課せられることになって、人間の真の自由も平等もなくなる。
菩薩の使命は、仏に課せられたものではなく菩薩の自発能動の意志であり、目的である。その菩薩の行を仏と名付けるのは、菩薩道を行ずる行為の名称としての菩薩に対し、如来の行ずる行に対して仏と名付けるのである。
「如来の事」と「菩薩の行」の違いは、如来は、過去と未来としての必然性と可能性に対する言葉であり、菩薩は現在性である。
「菩薩の行」という現在性に対し、如来の事としての過去或いは未来から現在を確定する為となる。即ち、現在の行を「菩薩の行」と確定するための「如来の事」なのである。
もちろんこの原理は、過来の優先、存在を意味するものでなく、又、現在を確定する為の観念的存在でもない。「如来の行」が菩薩の行に共存するのである。行とともに存在し続ける、過去、未来は行の過去と行の未来という一本の矢の時間性ではなく、常に現在に直交する二次元のごとき世界と考えた方がよいだろう。
実数に直交する虚数の二次平面とみたところの「行の現在性」については、色心論序説で述べさせていただいた。行の現在性における人間行動の価値判断はあくまでも菩薩の行為を支柱にしたものでなくてはならないと思う。
高い精神性と深い哲学性は、人間の意思と人格を通じて人間を陶冶する。自由・平等・慈悲は人間の尊厳として犯されてはならない権利である。
したがって、人権を踏みにじるのも人間である以上、人間の精神性を高め、自覚した人間による判断力が欠かせないのである。
自覚した人間とは、自覚した民衆でなくてはならない。世界宗教の条件も、民衆次元と権力者次元ではまるで異なったものになってしまうからである。
世界宗教の条件については、まず第一に「人権の尊重」第二に「行動の規範」第三に「民衆の支持」をあげることができる。
世界宗教としての第一条件は「人間自体の変革を自身で成し遂げることを可能にする思想・哲学を持つ宗教」である。善悪の基準が「人間の存在の価値」の基準でなく、人間の行為に対する名称であると考える。これは、人間以外の擬人化された公理を持たないということである。
多くの宗教も哲学も神や仏や超越者に依存してしまうところがある。かといって、完全に自力のみで変革できるとは思わない。他力も必要であろう。又、共力(自他力)も必要である。
しかし、これらの力も単独では人間の変革は成し遂げられないであろう。たとえば成仏ということを考えても完全に自力のみで到達することは至難といえるし、他力に依存するだけでも不可能である。自他力の冥合によって成仏は成されるということであろう。
本質的人権としての自由と平等と慈悲を超越者より与えられたものでなく、人間自身で規定することを許せる宗教こそ二十一世紀に最も必要な宗教である。それは実践形態が現実性を持ち、そのまま修行となることを意味している。
さらに個と全体の人権の有り方に矛盾を生じないですむような哲学である。個と全体、人間と自然に共通な実存としての色心論を持つ宗教でなくてはならない。
そうでなければ、現実の不平等に対し、人間としての存在的価値の平等性を無視して誤った価値基準を設定してしまう危険性があるからだ。
説かれる法の目的が個人的であると同時に普遍性を持つためには、その哲学自体が「平和と文化と教育」をその実践形態として採用できることが必要である。
人間の持つ魔性が現実の世界に権威、暴力であると位置づけてこれらに屈しない行為を善とする判断基準を持つことこそ、人間性の尊厳、人権尊重を標榜することになる。
人間が自身の変革の必要性を感じる時、それは運命や宿命との戦いの中においてしばしば思うものである。運命とするか使命とするかは、自身で決定できるという自由意思による哲学は、色心への深い洞察を持つかにかかっている。

第二の条件は『個人と人類全体に「平和と文化と教育」をその行為及び行動の規範に出来る宗教』である。個人における平和・文化・教育という視点での行動規範が一家・社会・国家・人類全体に対して拡大しても矛盾無く調和し規範であり続けるのである。
教育も文化も平和を指向していくことは当然である訳で、最終的に平和とは何かが問われることになる。日蓮仏法にみる平和は「安国」といえる。その意味において平和を考察してみると、菩薩の行の根本的な行動目標といえる。
仏法者の行動の規範は戒定慧の三学である。善行止悪の戒は菩薩の修行の場である。末法にあっては、社会であり、今日においては地球的規模の広がりを含んだ空間である。
戒とは文化といえる。地球上の様々な異文化も“人類の文化”としての視点は菩薩道を行ずる場としての存在である。
人類の文化、異文化の共存も日蓮仏法よりみれば戒の建設であり、三大秘法のうちの本門戒壇となるだろう。本門の戒壇を単に御本尊の御安置する仏具及び建物だけでなく、家族、社会、国家、地球規模の文化の華を開花させる行動が文化活動である。
戒・善行止悪は倫理性と欲望の制御をも含まれている。欲望に奉仕する文明ではなく、また両刃の剣である科学技術に対しても善行止悪の智慧と実践を必要とする。
すなわち、戒としての文化を建設するためには、その根底に善悪を見極める智慧が必要となる。利剣明智の慧は、菩薩の唱える題目の智慧の発露である。
智慧は人格の淘冶、菩薩の行の実践智を磨き開発する。その意味における教育の改革の本義も個人の智慧の発露として教育は民衆を自覚の道へと歩ませる。
そして民衆の時代を前進しゆく原動力となる。智慧の発露なしに開発される文化はない。健全なる文化の土壌なしには平和の建設はない。教育は人間を動かし、時を創造するともいえる。
定は静思塾考、平和創出の源泉と人として自立した人間、自覚ある民衆の自立と判断によって支持される宗教こそ、世界宗教たるゆえんともいえる。
個における自立は人間の確立である。その人間が智恵を開発し健全な文化国土を耕すことによって平和は樹立する。
平和とは何かといえば人間の煩悩を止め縛り斬ることによって表出する安らぎである。平和を希求することは末法の法華経の行者である菩薩にとっては三大秘法の存在論でもある。
そして三大秘法の実践こそ、末法の修行でもあり、人間復興の実践なのである。国家・民族をも超越して世界宗教へと飛翔する為の条件は人間に対する普遍的価値観を必要とする。
仏法は聖地を必要としない。常に本国土を自身が拠って立つ所、そこを依報とするからである。そして正報に根本的な差別を設けないことである。正報は常に人間自身を尊極の尊体とすることによって人類に平等なる思考が生ずるのである。
第三の条件は、第一条件である「人権の尊重」と第二条件である「行動の規範」を基にして、自立した人間、自覚した民衆の支持を受ける宗教でなくてはならない。
第一条件における人権の尊重は、過去において四月会(別名死学会)が行おうとした信教の自由を踏みにじる動きなどに対し弾刻しなければならないことも含めて別のところで述べることにしたい。
第三の条件は第一、第二の条件より導かれる結論である。世界宗教の条件は先ず人間の個に対する明確な判断を必要とする。
そして、新たな精神文明を形成しゆく為にその運動論、実践論においても明確にしなくてはならないだろう。
さらに、具体的には、これらを自覚した民衆の支持が不可欠なことは論をまたない。実践論においては平和と文化と教育のレベルにおける個の人間復興・人間ルネサンスの実践である。



第六項 菩薩の行と価値論

価値論序説を参照してください。
日蓮本仏論序説は一項原稿用紙20枚と決めて書いてありますので、あまり詳細には論じておりません。書き始めたとき一つの項で原稿用紙が百枚以上になり、これではいつ終わるか分かりませんので略してしまいました。